ミンダナオ子ども図書館の創設ディレクター:松居友(日本文芸家協会会員)の活動日記

ミンダナオ子ども図書館日記
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スカラシップや訪問希望、
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現地日本人スタッフ宮木梓(あずさ)へ !
 
mclmidanao@gmail.com
 
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松居友メール
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松居友電話(日本および現地転送)
080 4423 2998
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基本は自由寄付です。
振り込まれた方には、隔月に、
活動報告と同時に
民話や子供たちの創作の入った
機関誌をお送りします。


自由寄付
スカラシップ里親支援等

ミンダナオ子ども図書館支援方法
郵便振替口座番号
00100 0 18057
口座名:ミンダナオ子ども図書館

振り込んだ後に、メールをいただければ幸いです。

mclmindanao@gmail.com
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銀行名 ゆうちょ銀行
金融機関コード 9900
店番 019
預金種目 当座
店名:〇一九店(ゼロイチキユウ店)
口座番号 0018057
口座名:ミンダナオ子ども図書館

ゆうちょ銀行(郵便局)や
それ以外の金融機関
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振り込んだ後に、メールをいただければ幸いです。
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支援に関する質問は

現地日本人スタッフ宮木 梓
mclmindanao@gmail.com

日本窓口前田容子
mcl.madoguchi@gmail.com
FAX:0743 74 6465
電話:090 5091 7514
 
ミンダナオ子ども図書館支援方法
 松居友メール
mcltomo@gmail.com
現地住所:Mindanao Children's Library :
Brgy. Manongol Kidapawan City
North Cotabato 9400 Philippines

 

著書の印税は、ミンダナオ子ども図書館に寄付しています
写真をクリックしていただければ、購入サイトに移行できます
 
 

ミンダナオ子ども図書館とは何か
過去の活動を支援別に振り返る
過去の活動をテーマや分野別にまとめて
見やすくして、逐次掲載していきます。
過去の真実の活動を支援者の方々にご報告するために、
寄付を送ってくださった方に、隔月でお送りしている機関誌だけではなく、
インターネットの強みを生かして
活動報告を文章だけではなく(文章なら勝手に創作できる)、
自分で撮った現場写真に、文を加えた絵本スタイル?で
10年以上にわたり、サイト「ミンダナオ子ども図書館だより」と
「ミンダナオ子ども図書館:日記」を作成していきました。
ミンダナオに足を踏み込んで20年、
特定非営利現地法人MCLを起ち上げて17年
さらにこれからの20年を、次の世代に託していくためにも、
過去を整理し、新たな出発を準備することにしました。
今回、過去のサイトを、医療、訪問者、戦争避難民救済と平和構築、
日常と文化祭、保育所建設、等々テーマ別に分けて
MCLの活動に関心のある方々が、もっとテーマを絞ってリサーチでき
ミンダナオ子ども図書館を理解できるようにしていきます。
医療支援活動   訪問者の記録
2007~10年

訪問者の記録
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訪問者の記録
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訪問者の記録:2016年 
(制作開始)


今まで年次別「訪問者の記録サイト」を
一年間ごとにまとめてアップしましたが
1量も多くなり、読みやすくするために
制作しなおしたものから順次
アップしていくことにしました。


 

ミンダナオ子ども図書館の子どもたち 
ミンダナオ子ども図書館の
中心は、いつも子どもたち!
土曜日の午前中に庭に出て、
庭作りをしながら、
花や野菜を育てる子どもたち。


日本では、
ちょっと考えられない
姿だけれど
本当に自然がすき、というか
生まれたときから、
自然と共に生きている。
きれいな花を
育てるのが好きで
時には、花を摘んで
髪にさしておしゃれする。


山芋作りや、
雑草の草刈り掃除もお手の物
不思議なぐらい嫌がらずに
むしろ笑顔で楽しくお掃除。


掘った山芋も料理に


今日本に少し重きを置いて、
去年から活動している

ミンダナオ子ども図書館の
敷地のなかにある
セメント作りの穀物干し場。
ここで自分たちが食べる
お米を干すMCLの子どもたち。
その多くが、
孤児や崩壊家庭の子どもたちです。
戦争で親が殺された子もいる。
それなのになぜこんなに明るく、
生きる力に満ちているのだろう。
この子どもたちとスタッフと
その家族をいれて約100人。
さらに下宿施設と山の下宿小屋の奨学生、
そして、町に下宿している大学生をいれると、
約200人の米をここで干す。

一日100キロの米が
消費されるけれども、水田を持ち、
2.5期作で、干害がなければ
ほぼ自給している。
おかずは子どもたちが植えている
野菜と皆さん方から
送られてくる自由寄付で
なんとかまかなっています。
でも、偉いのは、子どもたちが率先して、
楽しみながら協力してくれること。
生きることの大変さと意味と、
そして友情のなかで助け合う楽しさを
知っている子どもたち。

心を閉ざした
日本の若者たちの事が心配で、
さらにまた
親が老齢で死に向かうのを
家族で受け止めることも必要だと感じて、
今、妻と二人の娘と一緒に
日本に少し重きを置いて
活動しているけれど
いきいきとしたコミュニケーションの
場であったはずの家の外、
学校や幼稚園保育園の外、
会社や仕事場の外、
誰にも属さず全ての人に属している
「中間の場所」であり
生活の場所であるはずの「ちまた」が
日本にはほとんど生きていず、
「ちまた」がないから
隣近所ともコミュニケーションがなく、
伝統的な遊びをしてはしゃいでいる
子どもたちの姿も消えて、
学校の中でも友情よりも
勝ち負けばかりが
強調される社会に当惑。
15年いないとずいぶん変わる?
日本人は、自国を
なんとさびしい世界に
してしまったのだろう、と
地方を車で走っていても感じる。
商店街も食堂も殆ど閉鎖?
路地や野原で子どもたちが、
缶けりや石けり、
ときには木登りをする様子がないと、
散歩するご老人達もさびしいだろう。

人々が、スマートホンの映像から
出てきたような恐ろしい目つきで、
硬い表情で目を合わすことなく
歩いていくのを見るにつけて思う。
日本は大丈夫かな?
スマートフォンを否定はしないけれど、
それだけがコミュニケーションの場に
なっているのは、
あまりにも見ていて孤独でさびしい・・・・

梓さんの、MCLの子どもたちの
日常をサイトに上げてくれています。
http://www.edit.ne.jp/
~mindanao/mindanews.htm

スマートフォンで、
MCLのサイトを見るのが
唯一の生きがいだという
若者やお年寄りも日本に多い。
ときどきメールをくださいます。
どうぞ、メールも送ってください。
返事に時間がかかりますけれども、
すみません。
里親になってくだされば、
本人からの手紙も行くし、
文通もできますけど。
http://www.edit.ne.jp/
~mindanao/siennhouhou.htm

しかし、読書だけでは、
世界が広がっていかないのと同様に
(「子どものころ、本ばかり読んでいると、
周囲の人から、
『本ばかり読んでいると駄目になるよ。
友だちと遊びなさい』といって怒られた。)
ぼく自身、本にこもりすぎて
死にそうなった体験からわかるけれど、
読書同様に
スマートフォンを見ているだけでは
引きこもりの閉じこもり。
ぼくも読書が好きだけれど、
何千冊も読書体験を重ねるうちに、
読むと心が奮い立ち、
本をこえて現場に飛び込むのがさらに
楽しみになる本と、
ますます閉じこもる本が
あるのがわかってきた。
本もサイトも人間が作ったもの、
そこから外に
(神が創造した愛の世界に)
目を開くきっかけになる。
そこから次の行動が始まる。
そういう本やサイトなら読みたい。
それを意識して、
執筆やサイトも試してみている。

サイトでMCLを見ていた
若者たちが本も読み、
講演で現地の映像を見て話を聞き、
その結果どうしても行きたくなって、
実際にMCLにも来てみると、
子どもたちに会って涙を流し、
その後顔が変わり始め、
本当にいろいろなことが見えてくる。
(すでに今人舎から出た絵本
「サンパギータのくびかざり」
5月には、彩流社から
「手をつなごうよ」が出版されます。)
そうしたものも救いの第一波。
きっかけになればと思い、
あらゆる手段を通して
実体験から生まれてくる言葉を選んで
発信しはじめているけれど、
もっと大事なのは、
本人が本当にいってみて体験すること。
そして、そこで体験したものを、
大切なものを喪失している日本社会で、
どのように再生し
生かしていくかを考える、
若者たちを育てることだろう。

 
 
 
 
 
 
 

   
中園さんが作られた、
文教大学の若者たちの訪問サイトから



この記事が出ているサイトへは ここをクリックして入ってくださいね!
現地で“よさこい”の踊りを披露。
集めた子ども服も配りました。
フィリピン・ミンダナオにある
「ミンダナオ子ども図書館」は、
紛争で親をなくした子、
貧しい家庭の子たちが暮らす寄宿舎です。
私は大学の先生からこの施設のことを聞き、
ぜひ訪問したいと仲間を募りました。
集まったのは、
私が所属していた“よさこい”のサークル
「風竜舞伝」の仲間2人。
私たちは
「京都文教大学ミンダナオ国際交流チーム」(MIA)
という任意団体をつくり、
事前に寄付を集めて
よさこい踊りで使う「鳴子」を買い、
そこに寄付者のメッセージを書いてもらって
ミンダナオの子ども たちに
プレゼントすることにしました。
また、着なくなった子どもの服や靴を集めて
ミンダナオに持って行くことも計画。
帰国したあとは、
「ミンダナオ子ども図書館」の松居友さんを
学園祭にお招きして
帰国の報告会を開催することにしました。

さて、3ヵ月あまりの
準備期間を経てミンダナオへ。
ミンダナオはイスラム教徒と政府との
紛争が長く続いている場所ですが、
図書館のスタッフの方が
空港の出口まで迎えにきてくださり、
また現地でも常にそばにいて
サポートしてくださったので安心でした。
1週間という短い期間でしたが、
私たちは踊りを披露したり、
日本で集めた子ども服を配ったり、
フィリピン風の「飛び出し坊や」を
子どもたちに描いてもらう活動
などを行いました。
現地で出会った子どもたちの笑顔、
スタッフの方々の献身的なお仕事の様子、
そしてこの図書館を立ち上げ、
フィリピンの貧しい人たちのために
尽くしていらっしゃる
松居さんのお姿に触れ、
多くのことを感じ、考える機会を
与えていただいた旅でした。
私は在学中に世界中を旅してまわり、
その経験から、
卒業後は、旅行会社で
働きたいと考えていました。
ミンダナオから帰ると
就職活動が本格化して
大忙しになりましたが、
「社会人になってまたミンダナオに行き、
子どもたちに会いたい」
という思いでがんばり続け、
志望していた会社から
内定をいただ くことができました。
またミンダナオの子どもたちに
会いに行きたいと思っています。
 
 
 
 
 
 「ミンダナオ子ども図書館」に、
京都文教大学の花岡さんたち
学生さん3人がやって来ました。
平地から山に追われた先住民として
貧しい生活を続けてきたマノボ族の村に行き、
一緒に医療支援の手伝いをし、
電気のない村にも泊まってもらいました。
そして現地の子どもたちと歌ったり踊ったり、
「後ろの正面 だーれ」といった伝統的な遊びをして、
日本にいるとき以上に
楽しい時を過ごしたものと思います。


京都文教大学の学園祭では、
現地での体験を
花岡さんたちがまとめて発表し、
僕も呼ばれて講演をしました。
花岡さんをはじめ京都文教の学生さんたちは、
やさしくて、心があたたかいですね。


最近、
「ミンダナオ子ども図書館」に
日本の若者たちが訪れるようになりました。
現地の子どもたちに囲まれて、
友情や愛情のこもった、
優しい言葉をかけられたり
抱きつかれたりすると、
彼らは泣き出したり涙を浮かべ、
やがて硬かった顔に
自然で優しい表情がもどってきます。
そして、帰る時には
「また来るね、 私たちのこと、忘れないで! 」
と言って泣きながら帰っていく。
これこそが、本物の
国際交流の体験だと思います。


京都文教大学でも講演をしましたが、
日本の大学、中高、小学校で
講演をするようになって感じることは、
日本の子どもたち、若者たちの感性 は
フィリピンの子どもたちと同様に
純粋で素晴らしいということ。
しかし、それを生かす社会的な場が
「ちまた」=生活の場に少ないことです。


日本から来た若者たちが、
現地の素朴な子たちに出会って
感動し泣き出すのは、
日本の社会で失われた何かが、
アジアの特に貧しい人々の生活のなかに
生きているからでしょう。
「ミンダナオ子ども図書館」に住んでいる子は、
いわゆる「問題家庭」の子たちだけれど、
孤児になっても明るく生きています。
みなさんも学生時代に
「ミンダナオ子ども図書館」に来て、
生きる力とは個人でがんばることではなく、
友情と愛であることを、ぜひとも体験してください。
こんなふれあいを通じて、
アジアの若者たちが手をつなぎ、
相互理解や平和構築に
つながっていけばと願っています。


 
 
 
 
 
 


ミンダナオ子ども図書館を訪れた、
高田真奈美さんの原稿です


ミンダナオ子ども図書館を訪れた、
高田真奈美さんの原稿です。
体験が、とっても素直に
見事に書かれていますね。

 
 

【旅日記その1 電気のない村キアタウ】
フィリピンよりコンニチハ。
Maayong Gabie!(ビサヤ語)
生きてます!が、また風邪引いてます。
9月10月11月と連続で発熱し、
やっと鼻水止まった翌々日にまた発熱。
何か検査したほうがいいかなぁ(´・_・`)? 
ミンダナオ子ども図書館に行く前に、
キアタウという、
電気ない山奥の村に滞在してきました。
この村から図書館に来ている子どももいるので、
その様子を見てこようと。

✳︎ミンダナオ子ども図書館では、戦争孤児や崩壊家庭、
極貧、虐待などの理由で学校に通えない
子供達の奨学金の支給や、
放っておけない子どもについては
本部で共に生活している。


さて、しばらく遊園地のアトラクションは
遠慮したいほどの悪路を、舌を噛みながら数時間。 
四駆じゃないと絶対進めない凸凹道。 
雨が降れば土砂崩れ。
開けた山々の眺めは素晴らしい。
(妖精に連れていかれるから、
山が綺麗♡とか言ってはダメらしい。)

村に着くと、子どもたちがじーーっと見つめてくる。 
私たちは異星人に見えるよね。 
村から出たこともない人が殆どとのこと。
ここでは電気も上下水道の設備もない。 
ほぼ自給自足で、塩や白いお米も高級品だ。
私たちが宿泊した二つの家庭では、
鶏肉とコメを出してくれたが、
これは年に数回しか出ないもので、
わざわざ飼っている鶏をしめてくれた。 
おもてなし。。。(T_T)
子どもたちはキャッサバ(芋)や
甘くないバナナを蒸しただけのご飯だった。
村の朝は5時頃始まり、8時か9時には寝る。
竹でできた簡素な高床式の家。

モノは殆どない。 
家ごと燃やしても残るのは鍋くらいだろう。 
布団もないので床で寝る。
夜中に手の上にネズミが落ちてきた。
何かわからない虫にかまれて、
右手がパンパンに腫れた。
そこら辺にいる犬を撫でようと思ったら
村人に全力で止められた。
「噛むし汚いし、後でそいつ食べるから!」笑

あひるは子どもが叩いて遊ぶもの。
猫はしっぽふんずけて遊ぶもの。
みんな笑う。
夕食は、ロウソクの明かり一つで、暗すぎる。 
正直何を食べているんだかわからない笑
基本はおかず一品にご飯のみ。
味付けは塩だけだが、なぜか美味しい。

風呂は水も貴重だから、たまには入るのだろうが、
シャンプーなどももちろんない。
村人はシャイだし、
英語も通じない人が多いが何も気にしない。 
目が合ったら微笑めば良い。 
他人と自分の境目があまりない、共同体としての意識。 
おそらく日本でも70歳以上の人なら体験したであろう、
町や人々に繋がりがあった時代が
ここではずっと続いている。
東京で、若者が感じることは殆どない意識。
誰が指図するでもなく、家事、育児がこなされていく。 
立って歩いて言葉がわかるなら、
2歳くらいの子どもから、何か家事をする。
「うちの子」「よその子」は関係がない。

赤ちゃんは、みんなが代わる代わる抱っこして、
枝に布を巻きつけただけのゆりかごを揺らす。
(赤ちゃんはほんとに泣かない。
夜泣き、ムダ泣きもない。
というより、みんながずっと構っているので、
泣いて注意を引く、必要がないのかもしれない)
村のどこを見ても物質的に貧しいが、
半分以上が、子どもで凄く賑やかだ。 
そしてなによりのびのび、自由に育っている。 
「何々しなさい!ちゃんとしなさい!
泥がついたら誰が洗うの!」
みたいに叱る母親は皆無。 
怒ることがまずない。 
むしろ母親とは、
オマケでついてきた肩書きであって、
村の人たちみんなが面倒を見ているし、
その中で子どもは、
勝手に育っていくといったほうが正しい。
日本と何もかも違う。。。
私の細胞の一つひとつが、
エネルギーで満たされていくのがわかる。
日が昇れば起き、日が落ちれば寝て、粗食、
1日にすべきことはほとんどなく、薪をくべて米を炊き、
お湯を沸かしてコーヒーを入れたり、
洗濯物を足でふみながらお喋りしたり。 
擦り切れるほど聞いていると思われる、
なぞのフィリピンポップスを家族で聴いたり。 
10人家族で八畳の部屋でねたり。

初めてだけれど懐かしさを感じた、
原始的な村から1ヶ月のフィリピン生活が始まる。 
 

→旅は続く

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  【旅日記その2  電気のない村キアタウ続き】

電気がないと聞いて一番期待していたこと!
やっぱり星空でしょう( ^ω^ )
夜ワクワクして家からでると、やっぱり凄い!!! 
こぼれんばかりに星が瞬いていて、
ときおり蛍も流れていく。
恋人でこれを見たならば、
勢い余ってプロポーズしちゃうような、
ずるすぎる星空。
「流れ星あと3つ見つけるの( *`ω´)」
と私が興奮しているのを、
村人はポカンと見ていた。 
え、星がどうしたの。。。?
(ざわざわ)みたいな感じで。
普通って怖い。
この村人たちは、他の空を知らないから
そう言うしかないのだけれど、
こんな凄い星空も「普通」になっちゃうんだ。

どんなに金銭的に恵まれていようとも、
素敵な人と結ばれようとも、
素晴らしい宝石を手に入れようとも、
それが常に手の内にあると思うなら普通になる。
普通なんてどこにもない、毎日が奇跡のような
必然の積み重ねだと考えることができるのも、
一種の強さかな。
強い人になりたいなと、
流れる星たちにつぶやいた。
翌朝みんなで川いくぞーと招集かけると、
大人も子どももわーーっとついてきて、
ぜんぶで20人のパーティーになった笑
時間があるっていいなぁ。。。
村で唯一の?オネエ男子もいた。
言葉はわからないが、語尾に♡がついてるし、
身振り手振りでオネエだとすぐわかる。
「あたし、一応女のコが好きなのヨ♡
あたしの心も女のコだけど♡きゃーー!」
世界共通だ。。。((((;゚Д゚)))))))
日本軍が潜伏していたんだか、
逃れて隠れていたんだかという洞窟に先ず向かった。

急斜面を下ること40分(私はこういう怖い、
高い道がめちゃ苦手。
手を引いてもらいながら行く。
完全にお荷物系女子。 
日本だったら絶対
「子どもだけで行ってはいけません」
とか、危なすぎる!
と言われるだろう道なき道。 
一応大人もいるけど、誰も何も干渉しない。 
ジャングルでは子どものほうが身軽にすすむし、
何がどこにあるか良く知っているみたい。 
アンバランスな丸太も、川を渡るのも、
私がびええぇぇと鳴きながら行く間に、
子どもは、風のように走り抜けていく。
森をよく理解していて、本当の意味で
生きる力があるんだなぁと、ただただ感心…。
洞窟に着くと、子どもたちが率先して火をおこし、
それを松明にして真っ暗な洞窟を探検。
70年以上前、ここに戦争にやってきた
日本人は何を思っただろう。 
この暗闇にパチパチと燃える火のように、
静かに戦いへのきもちを高めていたのか。
それとも負傷したり、亡くなったりする同志を尻目に、
美しいジャングルに守られて一時の平安を
得ていたのか。。。手を合わせておいた。

川辺ではバナナの葉でお皿をつくり、
火をおこし、ご飯を炊く。 
魚やカニ、オオトカゲを捕まえて焼く。
つめたーい川で水浴び。
水も貴重なのでお風呂は毎日入れないからね!
小さい子どもはフルチンで川へダーイブ\(^o^)/
楽しかった!!!
DNAにこういうのを楽しいと感じます、
と書き込んであるみたい。
タノシイ
オイシイ
タマシイ
ヨロコブ
話は変わるが、キアタウ村から小学校まで、
子ども図書館の支援が入る前は、
朝四時に出発しなければならなかったらしい。
さらに保育所を卒業しないと小学校に上がれない
というルールを政府が突然作った。
小さな子達が朝四時に何キロも
山道を歩いていくことはできないし、
お弁当も持って行かせられない。 
そもそも三食食べられない子も沢山いるし、
何人もいる兄弟でも1人を頑張って
小学校を卒業されられるか程度。 
高校、大学なんて夢のまた夢。

だからといって塞ぎこんだり、ひきこもりになったり、
自殺したりする子は一人もいない。 
競争に勝とうと考える子も、
リーダーになりたがる子もいない。
大切なのはみんなで協力して、楽しく暮らすこと。 
お父さん、お母さんを助けること。 
兄弟の面倒をみることだと泊まった
家の子供達が言っていた。 
物質的には明らかに貧しいが、
心は、お金では買えないくらい
素直ですこやかで素敵だ。

✳︎山に住む人たちには、
好きで僻地に住んでいるわけでなく、
日本軍から逃れるためだったり、
開発の波に追いやられ、
平地を奪われたりと様々な事情がある。
電気もねぇ!水道もねぇ!キアタウで、
東京とは真逆の何か、日本にもかつてあったもの、
日本の若者の感じている生き辛さの解決の
ヒントになるものがいろいろ見えた気がする。
物質の世界から遠く離れ、
強く、たくましく生きているこの村や、
こどもたちの笑顔が
永く存続しますようにと願い悪路を辿る。

→続く 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
【旅日記その3 天の国は彼らのものである】

ミンダナオ島生活も、
20日経って折り返し地点にきた。
ミンダナオ子ども図書館での
暮らしにもなじんできて、
子どもたちとの生活を
楽しんでいる今日この頃( ^ω^ )
ここに暮らすのは、
戦争孤児や崩壊家庭で、帰る家がなかったり、
極貧で食べられず、
学校にも行けない子どもたち。
学費の援助のみの
奨学生を合わせると膨大な数だが、
暮らしを共にしているのは80人くらい。
いわゆる孤児院なのだが、
創設者の松居さんはもともと
孤児院を作ろうと考えたわけではなく、
絵本の読み聞かせで子どもたちに
笑顔になってもらいたい、
との思いでここを始めた。
今も絵本を中心に、子どもたちだけでなく、
戦地となって取り残された、村の人々にも
読み聞かせを通して繋がりをつくっている。
命がいくつあっても足りない。。。

最初は、こんなに大きな組織にしようだなんて
想像もしていなかった、と松居さんは言う。
放って置けない子どもたちの面倒を見ているうちに
やることが次から次へと増えて、
こんなに大きな組織になったらしいが、
殆どが企業などからの大口寄付でなく、
個人からの少額寄付で、
成り立っているというから驚きだ。 
「最近はフィリピンの子どものことと同じくらい、
日本の子ども、若者の精神が気になりはじめた。
なぜ物質的豊かさではフィリピンと比べものに
ならないくらいの日本で、
子どもが引きこもったり、自殺したり、
鬱病になったりするのだろう?
忙しくて、本来は訪問者にまで
手が回らないのだけれど、
ミンダナオの風を届 けたい」
ということで、今回は色々あって
働けていない私に白羽の矢が立った。
(ここまで私が来れたのも、
周りの方々の沢山のアシストがあったから。
私の意志 とは関係なしに、ここに来ることが
トントン拍子で決まっていった。
本当に驚くべきことなのだけれど。)
ミンダナオ島での毎日はとてもすこやかで、
怒ったり、焦ったりするようなことは一つもない。
すべてがゆるい。
ズルしても真面目にも生きていける気がしたよ。
朝焼けを拝めるよう5時に起き、
明日の朝焼けのために9時に寝る。
フィリピンといえど標高の高い場所に居るので、
長袖長ズボンでも寒い。
シャワーはもちろん水。
最初は震えあがっていたけれど、
今は頭からさっさとかぶれる。南無!
トイレはもちろんインド式。
便座はないが、なんてことない。


新疆ウイグル→パキスタン→インド旅での青空トイレや、
日々のう⚪︎こ語り、空港でパンツをおろした事件を
経験していなかったらできなかったことが沢山ある。
改めてあの旅をほぼ強制的に行かせてくれた
ビリヤニ一行に感謝したい。。。 
さて、ここにきて驚いたのは子どもたちの明るさや、
素直さ、強さに圧倒されて浮き彫りになった
私の心の壁のほうだった。 
まったくこころが開かない。 
自分の指では届かないくらい
深いところに、その扉はある。
東京で暮らしている間、
私はコミュニケーションは得意なほうだと思っていた。
そうです、みんなが良く知るまなちゃんの心は、
ある意味では、
とても硬く閉ざされて歪んでいたのです。
え?知ってた?
笑顔だけど笑顔じゃない。
元気だけど元気じゃない。
健康な精神と粗食と広い空の下で、
そのことが触れられるくらいハッキリと、
明確にわかってしまった。 
私は親を目の前で殺されたり、
虐待されてきた子どもたちと、
どこか一部でも影の部分が
一致して分かち合えるような気がしていた。 
(全くそんなことはなかった、
というかそこは重要ではなかった。)
今、ここに居て三食食べられ、沢山のともだちがいて、
パパトモ(松居さん)やハウスペアレント
(ダディー、マミーと呼ばれる住み込みの親役)
がいて学校に行ける。
夢がある。笑える強さがある。
天国はまさに彼らのものだった。。。
この天国に近い場所で、
鍵を失くして家に入れない、
核家族の一人っ子になった気分だった。
細胞壁を溶かされて、中身が全部出てしまいそうで、
合体吸収させられそうな気分になって、
ぐちゃぐちゃで。
どうして良いかわからなくなった27歳の日本人の私。
保てない。すっぴんの私では。
なにをすべきなのか、
なにをしたいのかんがえることは
たくさんありでも
まずはこのかんじょうをせいりしなくては。。。
と、3日ほど目眩とともに過ごしていたら
風邪を引いて寝込んで。。。
はぁ、思ってたより色々と気持ちの面では
重労働になりそうだな。。。
と思いながら、知らない天井を仰いでいた。

→続く 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
【旅日記その5 前々回のつづき】

大量の蟻いりCoffeeのせいなの何なのか、
フィリピン二度目の発熱で
寝込んで過ごしたクリスマスでした、
皆さまいかがおすごしでしょうか。
やっと復活してみると、年の瀬ではありませぬか! 
私はもうすっかりとミンダナオの生活に馴染み、
師走とは日本のものであって、
ここには、関係がないものだと知りました。
誰も走ってないよ、牛歩。
今は子ども図書館から離れて、帰省する家、
親、親戚のない子どもたち数人と、
スタッフやその家族と、
海でキャンプをしています。
やることといえば、遊ぶことだけ。
ずっと大きな木の下でお昼寝したり、
子どもと遊んだり。
なんという贅沢な時間。


さて、前回の長文の続きです。
感じることがありすぎて、
とても伝えきることはできないと思っていますが、
この年の瀬に暇を持て余している
幸せなかたが居れば、読んでみてください。

子どもたちの圧倒的な輝きに気圧されて、
自分の心の壁に気づいた、
というのが前回までのおはなし。
悶々としているとはいえ、毎日フィリピン流のご飯、
水浴び、遊び、うた、
お祈りなどをして楽しく過ごしている。
本当にここはフリーダム。
誰も怒らない。
誰も何に対しても怒らないのだから、フリーダム。
全てがテキトー。
日本では3秒で怒られるような、行儀の悪い行為も、
道路交通法を完璧に無視した
乗車スタイルも全部ゆるされる。
笑顔で鼻くそをほじり、
何食わぬ顔で私の足に落として、
その手で私のケータイを
スクロールしてもオールオッケー!!
《そう、ここは自由の国》
日本では、何であんなに怒られてきたんだろう、
と不思議に思うくらいだ。
仕事では怒っても怒らなくても変わらない、
一銭の得にもならないことで
一時間くらい怒られたりする。
「そこはすみませんじゃなくて、
『申し訳ございません』だろう!!」みたいなこと。
どっちでも良いんですけど。
機嫌で怒りをぶつけてきたり、
パワハラ野郎も多い。彼らが不憫だ。
私に限らず、家でも学校でも、
うるさいだの行儀が悪いだの、
細かいことで誰でも何かと
怒られてきたんじゃないだろうか。
細かすぎだよ日本人、と小さい頃から思ってきた。 
だから、とてもここは心地よい。
東京では誰かの怒りを見ない日はない。
空気全体がピリリとして、
早くこんな1日よ終われと言わんばかりに
どんどん時計は進んでゆく。
ぶらさがるマンゴーが、
風にゆらゆら揺れるのを眺めながら、
怒る必要なんてどこにもない、
ぜんぶゆるせばいいということに
凄くホッとした自分がいた。
そう、怒るよりゆるすほうがずっと良い。
揺れていれば良い。
どうせこの世には善も悪もないのだから。
化粧もしないし
(一回化粧道具を子どもたちに見せたら、
もうぐちゃぐちゃに使われまくったのもあるが笑)
鏡もみない。(鏡がない。。。)
着るべき服は、
昨日の雨で濡れたので、昨日と同じ服。
私のナルシシズムは最小限に抑えられ、
自我はとても小さくなり、なにも気にしない、
バッチコイ!精神が整ったところではたと気づく。
おお!私ここに馴染んできた!
ビサヤ語も少しずつ覚えてきたし、
子どもたちと遊ぶことにも慣れてきた。 
(そしてご飯に飽きてきた。。。
プリーズギブミー味噌スープ)
第一、心をどう開こうなんて考えて開くものなら、
カウンセラーはいらないのだ。
ただ感じる儘にしている。そこにただよう。 
同じようにしている。一緒に笑う。
他人をゆるしてないから、
自分に対してもゆるすことができずに
壁をつくり出していたのかな。 
いや、反対か。
壁の成分のひとつに「ゆるせない」
という気持ちがあることがわかり、今その壁を壊せた。
がしゃん。
今はとても清々しい。
側では子どもが賑やかに唄っている。
希望の歌だ。

→続く 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

【旅日記その6 個性を超えて】

年末の休みで殆どの子は帰省していたが、
帰る家のない子たちと、
スタッフとでワイワイ過ごしてきた。
素朴な椰子の木のビーチ。
砂のベッドで眠ると星の絵本があり、
風のタオルケットが涼しい。
そして青空トイレ。
嗚呼なんというメルヘン。。。!!!笑

《競争心は壁をつくる》
さて、ミンダナオ島の人たちは
本当に競争心がない。
何でもかんでも良くしていこうという気が
あんまりない(ような気がする)。
あるモノで、満足しようという気持ちがある。
これでオールオッケー!
明るくてタフでテキトーだ。
以下は旅先で感じた各国の国民性について。
韓国「競争心の塊、誰にも負けたくない。」
中国「何でもパクって劣化させる!!」
ベトナム「努力は実る、頑張ろう!
アメリカにも勝った誇りがある☆」
台湾「日本大好き、日本みたいになりたいなぁ。。。」
香港「ペチャクチャペチャクチャペチャクチャ!!!!」
インド「はい、1000ルピーダヨ」
フィリピン『。。。これでヨシ!』←イマココ
✴︎個人の見解です。どの国も私は好きです。

ここの人たちは、
集団でいるときは怪獣のようにワーワー騒ぐのだが、
個人になると急にしおらしくなる。
カメラも皆に向けると
「撮って撮ってー!!!」なのだが、
誰か一人にフォーカスすると恥ずかしがって
どこかへ行ってしまう。
自我やエゴ、目立ちたい気持ちがとても小さい。
コミュニティに属していると強くなれる。
レオ・レオニのスイミーという絵本を思い出した。
だから個性を発揮しなさいとか、
人と違うことが素晴らしいよね
とかそんな考えがない。
誰かより抜きん出る必要も、競争に勝つ必要もない。
協調性をことさら意識しているわけではないけれども、
小さい頃からそういう環境なので当たり前に
なっているのだろう。
すべてのことが、リーダー役がいなくても
阿吽の呼吸で進んでいく。
ところで、運動会で勝てない子がいるから、
順位をつけるのを止めようという記事が
炎上していたのを前に見た記憶がある。
その時私は
「酢いも甘いも経験させないと、
大人になってから困る。
運動が得意な子は自信をつけられるし、
苦手な子も何か他の得意なことを見つける
チャンスじゃないか」と思っていた。
運動会云々は置いておいたとしても、
学校でも会社でも
競争ばかりに目をつけすぎていないかと
疑問に思えてくることもある。
競争原理は、効率的で合理的な部分もあるだろう。
個人の力を高めることで、
全体の力を高めるというのは
一見筋が通っているように思える。
けれど、たぶんここの人たちは
これをヨシとは言わない。

《多くの人は個人主義、
成果主義の社会に疲れ果ててているのではないか》
『私のスキル』『私の個性』『私が他人より優れた点』
『私が御社に提供できるもの』『私の資格』『ノルマ』
『コンプライアンス』『ヴィジョン』
『我が社のクレド』etc。。。
会社では、相談役の窓際族
(私は見たことがないが)は排除され、
情報屋のお茶汲みのお姉さん、
おせっかい焼きの掃除のおばちゃんは
効率主義の名の下に消えていった。
企業戦士の末裔が頑張れよと、
精神論を持ち出して説教してくる。
ストレスで頭がおかしくなっていることにも
気づかないおっさん達のパワハラ。
日々成果を出さなくてはいけない。
成長は続けなくてはならない。
頑張り続けたら、
いつか伸びきったゴムのようになってしまうのに。
鬱病の経験が美徳のように語られることもある。
いつまで私たちは資本主義に
魂を売り続けなければいけないのか?
そんな風に思うのは私だけだろうか。
私たち20代ですら、
社会に出て、楽しいと思っている人は
少数な気がする。
会社が楽しくて!という人は聞いたことがない。
楽しくないのが仕事の本質なのか?
仕事は人生ではない、
割り切ろうというのも淋しい話だ。
やりがいがあっても、
東京では手取り20万円もらっても、
残業時間や、給料の出ない労働時間が
長い人にとってはワーキングプアと言える。
手取り30万円もらう頃には責任も大きくなって、
時間もさらになくなる。
50万円もらって精神内科に
お金を沢山落としている人も少なくない。
不安で、焦って、でもどうしようもなくて。
恋人をつくることも結婚も子育ても、
なんだか別世界の話に見える。

《曖昧な心、曖昧な生活》
ミンダナオでは、
個人と集団の境目も曖昧なように、
仕事もプライベートも曖昧だ。
働いているスタッフは、
子ども図書館の敷地内に家を建てて
暮らして良いことになっている。
日本だとどうか?
家庭に仕事仲間や、上司がいると考えただけで
ゾッとする人がほとんどだと思う。
レストランでもどこでも、
赤ちゃんをあやしながら仕事をする。
子どもがギャーギャー騒いでいる横で仕事をする。
みんな気にしない。
この差は何なのだろう。
さぁ、叫んでしまおう。
ストレス抱えてまで
仕事なんてやりたくないんだよ!
会社のヴィジョンなんてどうでもいいんだよ!
さぁ声高に言ってしまおう。
うちの会社のサービスなんて
どうでもいいんだよ!
生きるために仕事してるんだよ!
宝クジ当たったら
翌日から行きたくないんだよ!
ほら言ってごらん!笑
『御社のヴィジョンに共感しまして。。。』
とか思ってもないこと言うのは今日で止めよう、
と海に叫びましたワタクシでございます。
でも、それでも、生きていかなくてはならない。
(私も帰ったら働かなきゃ。。。)
お金のある人ない人の
二極化は日本でも始まっている。
豊かさを実感しにくい、豊かな国の残念賞。
豊かさは『選択できる』ことだと思っている。
日本ではやり直しも再出発も、
遅刻も許されがたい雰囲気がある。
もう私のようなカリスマネオニート(元取締役笑)
はほとんど身動きがとれない。
私から愛する友人たちへ言いたいのは、
会社から帰ってつかれた〜と
暗い顔をしなくて済むように、
仕事は適当にしましょうよ。
日本のGDPを下げまくろう。
1億総活躍より、みんなで
みんなが幸せになる方法を考えようよ。
活躍なんてしなくていい。
とはいえ別に
今の社会の全てを批判するつもりなどないし、
受けている恩恵にも感謝している。
それは海外にいるからこそ実感できることだ。
さて話を戻すと。
個性を発揮して、
他人より優れようという考えについては、
立ち止まってみても良いのかもしれない。

限界はもうきていて、
東京の空気は、人々のストレスや怒りや
かなしみでビリビリしびれるくらいだ。
個人でやるより、
みんなでやれることのほうが、
遥かに強くて大きい。
戦後、日本はそれで世界が驚くような
復活を遂げたのではないか。
この可能性についてもっと考えられないか。
喜びもかなしみも、
自然と分け合っていけるのは、
アジア人の良いところだ。
今ある文化、習慣から一旦脱出してみて、
驚くほど軽いきもちになれた。
この一カ月の思い出は、ずっと忘れないだろうし、
今後の生き方に影響を与えるだろう。
今までどれだけ自分の手入れ、
自分をどう見せるかに、注力してきたかわかった。
個性的であることなど必要ない。
ヒトは生まれた時から、十分魅力的なんだ。
そんなものは超えていこう。
自我など宙に漂っていればいいのだ。
他人よりも優れようと思う点が自分にあるなら、
その力で他人の
その終わっていない仕事を手伝おう。
自分の小ささを認めてしまおう。
私が1人でできることなんて少ない。  
モテたい、可愛くなりたい。。。
そんな気持ちが膨らみすぎて、
お金かけ過ぎたり、
心労を抱えすぎていないか、
考えてみてもいいかもしれない。
いっそ、その素敵な服は物質的な貧しさを
抱える人に送ってしまおう。
スッキリするし、本当に喜ばれるぞ!笑
心につける羽は
「個性的であろうとすること、
人より優れようと考えること」
を超えたところにある。。。たぶん。
ミンダナオ島の生活もあと少し。
もうすぐ旅は終わる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


マノボデー
(先住民族の文化祭)
 
 
 ミンダナオ子ども図書館では
毎年大学生の総会に合わせて
年四回、月末の日曜日に文化祭を開き
互いの文化を披露し、相互理解を深め
平和について語り合います。
「ムスリムデー」3月
「マノボデー先住民」6月
「ビサヤ(クリスチャン)デー」9月
「シンポジウム」12月
の文化祭を開きます。
訪問者の方々も参加できます。
正確な日時等は、現地スタッフの宮木梓さんに
mclmidanao@gmail.com
毎年、
学生たちの選挙により
運営委員や
代表メンバーが選出され
総会の運営も
若者たちが
独自に行っていきます。
6月の最終日曜日は、
マノボデー、
文化祭を通して
互いの文化の
違いを感じ、認め合って、
平和を築く礎にしています。

 

今年のテーマは、結婚式
マノボ族の結婚式の様子です 
 
 
文化も部族も宗教も、
異なっているからおもしろい。
人間の顔も、
皆同じではおもしろくない・・・
異なっているから、
友情や愛が生まれてくる
 
マノボ族の結婚式

まずは、両家の父親が
結婚の相談と話を持ちかけて
話し合う。
結納の品物も、
山羊や馬など・・・
ダトゥ(首長)を挟んで、
両家族の両親が座り
結婚する二人が向き合う。
そして、目の前に置かれた
ご飯とおかずを
相手の口元に持っていき
それを口に入れて食べる。
まわりでは、
キャーーーッという
感動?
の悲鳴がわき上がる。
その後、初夜では、
二人のあいだに
親戚の子どもを置いて
寝るのだという。

 

日本から来た
アンダンテの若者たちも歌った

アンダンテの若者たち
子どもたちは大乗で、
一緒に歌い拍手喝采。

MCLのボードメンバーである
ガボン牧師の奥様と息子さん
奥さんは、日系人で、
日本人の血が混じっている

卒業生のアロナの講演 
もとミンダナオ子ども図書館
の奨学生で、
卒業後に
先生になったアロナさん。
自分の体験を通して、
自分たちの
持っている文化を、
これから未来を
担う子どもたちに
伝えることの意味と
大切さを語った。
すばらしい講演だった。
ミンダナオにおける、
イスラムとクリスチャンと
先住民族の
調和と平和の
重要性についても
熱弁をふるった。...
かつて、
小さな小学生だった子が、
大学出て一人前に
なっていく姿をみるのは
本当にうれしい。
 










訪問者の記録:2015年


 ペール生まれの双子の兄弟
2015/12/20
 
     
今回、いっしょに来た、
ペール生まれの双子の兄弟。
4歳の時に、母親とペルーから,
日本に移住して、
日本で育ったけれども、
中学2年で学業を停止。
いじめやケンカもあってか、
混沌とした成長期を過ごしてきた
20歳の若者。
日本語以外に英語もほとんどしゃべれない。
でも、見ていると子どもが大好きで、
友情を培う力がすばらしい!
前にも、父親が中華系で苦労して育ち、
やはり英語があまりしゃべれない
若者が来たけれども、
性格が良く、
たちまち子どもたちと親しくなっていった。
ミンダナオ子ども図書館の子どもたちは、
友情と愛をはぐくむ感性がすばらしく、
言葉がつながらなくても心が通じて、
相手の気持ちをすぐに察して
たちまち親友になっていく。
でも、やはり心が通じるだけではなく、
言葉も通じる方が良い。
ペルーの双子の兄弟も、ここにきて、
英語を勉強したくなって、
子どもたちから遊びながら習っているけど、
日本に帰ったらがんばって
飛び職人として働いて、
次回はさらに長期滞在しながら
英語学習をする予定だ
 

 

左が日系人で
スタッフのジケロくん

山本博樹さまからのお頼り 
 
山本博樹さまからのお頼りの
一部を掲載させていただきました。
写真は、弟様からです。


松居友さま、おはようございます。
先日、MCLで、大変お世話になりました
山本博樹(剛の兄)です。
日本での超多忙さから解放され、
大好きな子どもたちに癒されて
ゆっくり元気回復を待ち望まれていた
友さんだったのに、
穏やかにあんなにも奥地まで、
私たちを「慰霊の旅」に案内していただいた上に、
MCLでは、涙の大歓送迎で迎えていただきました。
帰ってきて振り返ってみますと、
友さんの慈愛の深さと偉大さが、
心遣いのやわらかさがしみじみ伝わってきて
ミンダナオの風のように私たちを
癒してくれていことに気付きます。
人の幸せとは、何かを知る出会いの旅を、
ありがとうございました。
今回、私は、4回泣きました。
1つは、カリナンの小学校を訪れたとき、
「十一叔父さんのひ孫がここにいる!」
と思うと泣けました。
日系の子どもたちの表情、声、歌、しぐさに
戦争と同邦が重なって、
そこに、私の場合、
私の母方の伯父は、カナダの敵国、
日系1世だということで、
山奥に強制収容されていたのですが、
そのときの状況もダブって、
涙が止まりませんでした。
まさに「慰霊の出会い」でした。
2つめは、ナナオプランのタカさんに。
「この方は、十一さんではないか」と。
タカさんも、何か言いたそうで、涙ぐんでいました。
「タカさんの父が、10歳の時、
お祖父さんが父を背負い、ここまで逃げてきた!」
(敗戦の直前で、祖父は30~40歳と思われる)
「タカさんの祖父は、当時、
『アバカ(マニラ麻)の太田興業』で働いていた!」
という。
叔父十一も、同じ太田興業だったから、
(当時叔父は21歳)、
ぜったい叔父のことは知っていたはず。
だからこそ、友さんは、私たちに、
タカさんを会わせたかったのでしょう


今回、最初に訪れたタモガンに住む
「山田部隊ミンタル会」の堺幸一さんが、
今回の一番の情報通で、友さんはこの方を、
一番当てにしておられたのに、
今年亡くなっていて、当てが外れてしまいました。
友さんは後で、しきりに、「急がないと!」。
日本国内でも、戦争体験者は、
僅かになってきて、とりわけ、現地は、きびしい。
私たちも、調査時には、
是非ご一緒したいと強く思いました

三つ目は、マノンゴルのMCLの
スカラシップの子どもたち !
一つの家族、笑顔、その声、合唱は、
「よくぞ来てくれた!」
「私たちは、うれしいよ」
という歓びを一つにして、
私たに、大歓迎を届けてくれました。
賛歌は、まるで、笑顔の弾丸が、
私をぶち抜くがごとく、
凛凛と、滔々と、延々と 熱く熱く、
私を打ちつづけました。
この子ら、一人ひとりは、過酷な、
想像を絶する境遇を背負って、
今、ここに、安堵の喜びを爆発させているのだ。
皮膚の色、顔かたち、背負ったもの、
宗教の違いを超えて!
私は、今、まさに人間の尊厳が輝いていると、
涙しました。
叔父十一たち、この地で無念に果てた
一人ひとりの命の魂の、
これは、歓びと大歓迎なのだ!
私は、胸が詰まって痛く、涙は流れ続けました

同時に、4っつ目は、松居友さんの「やっていること」が、
究極、「こういうことかあ」と
笑顔の大合唱で気づきました。
心底、すげーことを、したはるんや、
あの穏やかさで。
「人間の尊厳を踏みにじる場が
『人間の戦場』である(広河隆一)」
ならMCLは、
「人間の尊厳が輝く人間の幸せと希望の場所」であると。
(子どもたちとスタッフのメンバーと
梓さんと友さんへの尊敬と、元気を願って

終わりに、私たちは、「小学生のスカラシップ」を、
支援させていただきます。
これも、叔父十一の遺志です。
叔父の遺族年金を充てます。

私たちの「慰霊と出会いの旅」を
ありがとうございました。

  2015年12月11日(金)朝

:  
シェアハウスの娘さんも一緒に
山の村キアタウの下の
川の洞窟に行った
 写真は、山の村キアタウの下の川の洞窟。
日本の兵隊が沢山隠れていた場所で、
ここが激戦地だった。
MCLの奨学生が沢山いる地域。

実は、ぼくの叔父、父の兄も
フィリピンのルソン島で戦死していて、
なぜかミンダナオにいると、
しばしばその叔父の事を思い浮かべる。
会ったことはないのだけれど、
父の話に聞くところでは、
性格も良く勉強も出来て医師になった。
ところが世界大戦が勃発して、
軍医としてフィリピンに派遣されたけれども、
スペイン語も出来て、
現地の女性たちにもてたそうだ。
ぼくが思うのは、
その叔父が戦争で
ジャングルを巡りながら、
おそらく現地の子どもたちにも
出会ったに違いなく、
こちらの明るい子どもたちを見ながら、
なんでこんな馬鹿げた戦争を
しなければならないのだろう、
と思ったに違いない。
ミンダナオ子ども図書館を
はじめたきっかけは、
イスラム地域での戦争で、
100万を超す避難民が出ていて
特に子どもたちの笑顔が
消えてしまっ ていることに
心を痛めたからだったが、
ミンダナオ子ども図書館の
活動を始めてから、
しばしばその叔父のことを
考えるようになった。
死んだ叔父がぼくの前に立ち、
この仕事を導いているような
気がする時があるのだ。

 
 
 
   

慰霊に訪れた山本御兄弟 
写真は、今回ミンダナオで
亡くなられたおじさまを慰霊に訪れた山本御兄弟。
70歳代前後のお二人は、
おじさんが戦前にダバオでマニラ麻を作っていた
太田興業に所属されていた。
しかし、世界大戦が勃発。
徴兵されて日本軍とともに、
カリナンの奥のタモガンのジャングルに逃げこんで
亡くなられ、
その慰霊のために、お二人は来られた。
現地でマノボ族と平和に暮らしていた人たちは、
戦争を複雑にとらえていた人が多いと聞く。
おそらく山本さんのおじさんも、
同じ思いだったのではないだろうか。
ミンダナオ子ども図書館の
スタッフのジケロくんも、
おじいさんが太田興業の関係で
カリナンでマニラ麻を栽培していた。
しかし、戦争になり、
おじいさんは戦争を避けて、
まだ小さな彼のお父さんを
背中におんぶして、
バゴボ族の妻と一緒にジャングルのなかを
逃げまわったという。
ミンダナオ子ども図書館の奨学生には、
そうした日系人の子たちも多い。
彼らは、ジャングルに逃げた後、
自分が日本人の末裔であることを
ひた隠しにして、
先住民として生き延びた。
ぼくもときどき耳元でそっと
声をかけられることがある。
「実は、わたしの
お祖父さんは、
日本人・・・」
 
 
 
     


パックンが、
テレビ東京の方々と来られ
カバサランに読み聞かせと
古着の支援をした

 
中東の過激派「イスラム国」や
様々な過激派組が
世界各地で破壊活動を
展開している。
「世界で今、何が起こっているのか?」
池上彰が地図や映像を駆使し解説して
「混沌の世界」を伝える。
世界には
「危ないと言われる地域」が
たくさんある。
しかしそこで活動している日本人がいる。
この番組は「誰かが
そこにいないとならない」
と思い、踏ん張っている日本人の声を聞く。
映像を 見たい方は ここをクリック
 
4月12日生放送
「池上彰のJAPANプロジェクト」
~命の現場と向き合う日本人~

世界のどこかに誰かが行かなくてはならない。
危ないと言われる地域で活動する日本人がいる。

池上彰が「世界で踏ん張る日本人」と生放送で対話

放送日時 4月12日(日)19:54~21:48(2h)生放送


MCL映像サイト

突然、テレビ東京の関係の方から、
連絡が入った。 
池上彰の番組で、
ミンダナオ子ども図書館を
取材してとりあげたいが・・・
最初は、正直に言って、
お引き受けするのを躊躇した。
理由は、イスラム国を前面に
イスラム教徒の人びとを
いかにもテロリスト集団のように
報道する傾向が、
今の日本にはびこっている
ように感じられ、
それに荷担したくなかったからだ。
ミンダナオ子ども図書館では、
イスラム教徒もクリスチャンも先住民も
みんな仲良く生活している。
彼らは、自ら、
自分たちは家族で
兄弟姉妹だと言っている。
たしかに、ミンダナオでは、
イスラム自治区を中心に
不穏な動きがあるのだが、
こちらの人びとの見方からすると
「意図的に政府とMILFを分断し
戦争を起こさせるための工作では?」
と言われているほどだ。
それは別にしても、
ミンダナオ子ども図書館には、
多くのすてきなイスラム教徒の
我が子のような
子どもたちがいて、
戦闘地域でも、
200名あまりの奨学生が
MCLの支援で元気に
学校に通っている。
イスラム文化祭を
つい先月末に開いて
みんなで楽しんだばかり・・・
そうした子たちもひっくるめて
イスラム教徒=テロリストといった
図式に当てはめられるのは
ちょっと心外・・・
友人や我が子を
テロリスト呼ばわり
されているようで胸が痛む・・・
それでも、考えあぐねた結果、
あえてこの企画に
挑戦しようと思ったのは、
逆に、ミンダナオ子ども図書館や、
私たちが行っている地域の人びと、
特に無邪気な子どもたちの素顔や
純真な笑顔。
どこの国の人びととも変わらない
庶民の姿を、
映像を通して、日本の人びとに、
伝えることが
可能かもしれないと思ったからだ。
(テレビ映像は、編集次第で
どのようにも変えられるけれど・・・)
「ミンダナオは、海外からの力が
入りさえしなければ
平和な土地なんだがなあ・・・」
という、村長の言葉が思い浮かんだ。
中近東もそうだけれど、
ミンダナオも40年間の戦争の原因は、
リグアサン湿原にねむる、
膨大な天然ガスと石油の利権を
どこが獲得するかと言う問題の背後に、
国際資本が絡んで
起こされているという。
福祉局に、事前に状況を伺いに行くと
驚いたことに、
つい最近まで戦闘で避難民が出て、
MCLで救済活動をしていた
カバサランやカルボガンの人びとが、
現地の村に戻り、
すっかり平和になり、
しかもそこに
読み語りに行くことも可能だという!
そこで、市長に話を通し、
さらに現地の村長を訪れて話をつけ
両方の確証の元に決断を下した。
さらに当日は、
MILFの軍人が護衛につき、
北コトバト州のMILF最高司令官にも、
お会いして
協力関係を持ち、
万全の準備をしてから活動を開始。
映像を 見たい方は ここをクリック
 

パックンを交えて、歌と踊りと読み語り

MCLのイスラムやクリスチャンや
先住民族の若者たちと
現地で読み語りのまえの
踊りをおどる、パックン
前日に、有名な俳優で
米国と日本の血をうけついだ
パックンが到着。
(ごめんなさい、
15年以上も
日本のテレビを見ていないので
存じ上げませんでした・・・)
しかし、とっても気さくで
自然な若者で、
たちまちMCLの子どもたちに、
大人気。
撮影していようが(仕事の時も)
撮影していまいが、
水道のプラスティックの配管で
子どもたちが作ったフラフープで
子どもたちと一緒に遊んだり、
ゴム草履のベースボールをしたり、
心から子どもたちを
愛していることが
良くわかる。
翌日は、子どもたちと
トラックの荷台に載って
本来は極度の危険地域である
カバサランの集落に向かった。
この向こう側は、
イスラム自治区で
12万の避難民が
出て問題になっている、
ママサパノも遠くない。

普段は、全くのどかで平和な村。
最近、15軒の家が焼かれた。
MILFとBIFFの戦闘で、
村人全員が避難していた。
敵味方に関係なく、僕はとにかく、
一切の戦争が嫌いだ。
かわいそうなのは、子どもたち。
 
避難民の時に約束した車いすを
少年に届けた

大久保さん、ありがとうございます!

避難民の時にあった少年
車いすさえあれば
学校に通えるんだけど・・・
「これで大丈夫だね!」
 

久保山 真由美さん
この子に、二台目の
車いすを寄贈しました。
ありがとうございます!
 

皆さんから支援していただいた
古着を人びとに届けた
 
 
ミンダナオ子ども図書館での体験、
子どもたちとの出会い。
そして、イスラムの人びととの交流。
思いがけない体験を胸に、
時には涙を目にためながら
パックンも、制作者の方々も、
撮影の方々も、
来られたときの緊張した顔とは、
全く異なった笑顔を携えて、
別れを惜しみながら帰路につかれた。
「必ずまた来ますからね。
今度は、子どもをつれて
プライベートに・・・」
子どもたちも、抱きつきながら、
大喜びで、撮影隊の方々を見送った。
「バイバイ。また来てね・・・」
「もちろん、さよならは
言わないからね。
また来るからねーーーー!!!」
月明かりの夜、
みんなの愛情のこもった
別れの抱擁と歓声に送られて
パックンは、明かりのついた
食堂から出ると
昇ってきたばかりの半月と
金星を見上げて、
こみ上げてくるものを
押さえきれない様子だった。


パックンから、
ディレクターを通して写真が届いた


15年近く日本を離れていると
パックンが、
有名な俳優であることも
知らなかったので、
失礼してしまった。
「ごめんね」

しかし、とっても自然で
心の温かい人柄の
好青年であることは
すぐにわかった。

撮影の時も、
撮影されていないときも
同じ表情で子どもたちを
愛する、パックン
子どもたちも、パックンが大好き
 
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また必ず来ますからね
絶対に!


イスラムの村長さんが、
言った言葉が忘れられない
外国が、ここに興味を
持ってさえくれなければ
ミンダナオは平和なのになあ!

アメリカ軍は、フィリピン政府と
10年間の共同軍事作戦を
展開しようとしています。
日本もそれに参加しようとしている。
http://www.huf
fingtonpost.jp/…/the-selfdefense-
forces_n_711…


対象は中国を抑止する事だとしているけれど、
現地では、2016年に起こると予想されている、
ミンダナオのイスラムとの戦争に
備えることだといわれている。
すでに米軍は、ミンダナオの
ザンボアンガに入っていて、
ミンダナオにおける戦争の準備は、
着々とされている。
イスラム国が、日本に近い、
ミンダナオにまで影響を延ばしていると言う
噂も盛り上げられて、
危機感を通して日本の参戦への
機運を高めている。

表向きは中国との対立だけれど
現地では、ミンダナオが視野に
入っているのは確実で、
アメリカ軍が爆撃を開始すれば、
日本軍も参加せざるを
得ないと言われている。
2000年に見た、
米軍とフィリピン軍の合同演習は、
バリカタンと言われる実戦で、
100万の避難民をだした。
その惨状、特に笑顔を失った
子どもたちを見て、
ミンダナオ子ども図書館を始めた。
現地に日本...のマスコミは、
いっさい入れなかったので、
隣国で100万も避難民が出ている戦争が
起こっているなど、誰も知らなかったし、
今も知らない。

僕は、この目でそれを見て、唖然とした。
その後も2002年に、
ブッシュ政権によるテロリスト掃討作戦。
死者を葬る暇もなく、川に流した。
だから、リグアサン湿原の川魚は、
人の味がすると言われたほどだ!
現地で10年以上、
戦争を作る仕掛けを見てきたけれど、
大きな戦争を作る前には、
必ず誘拐殺人、爆弾事件が
あいついでおこり、
反政府勢力の仕業であると報道される。
戦争機運を高めるために
意図的に仕掛けられると
言われている。

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その意味では、僕が誘拐殺害されて、
イスラム国の仕業と報道される可能性は、
極めて高いと思っている。
爆弾事件も起こるとしたら、
日本で起こされるかもしれない。
日本人の参戦気分を高めるために。
現地の人々は、
今までの友情の関係から、
現地のイスラム教徒が僕を
誘拐殺害することは無いと言っている。
まずお願いしたいのは、
僕が殺されても、
現地のイスラム教徒の人々の仕業であると
報道されても、皆さんは
信じないでいただきたい。
日本が中国と対立させられてから、
ここ数年で、
ミンダナオのデパートから、
あっというまに日本製品が消えていった。
フィリピンの大統領をはじめとして、
議員、財界、銀行やデパートも、
ことごとく中華系が占めているから。

逆に、アメリカ、欧州、韓国、
台湾などの車やコンピューターが
席巻し始めている。
日中関係が、良ければ良いほど、
地理的にも、技術力でも、
日本は漁夫の利を得るわけだから、
欧米は中国と密約で、
日本の孤立化を画策し
日本には、武器を大量に買わせて、
儲けようとしてもおかしくはない
バナナを中国が買わなくなったとき、
財界あわせて、政府に抗議して
アキノ政権を動かしたのは、
ごく最近の話。

表向きに言っていることと、
実際にやっていることには開きがある。
フィリピンは、絶対に、本気で
中国と戦争はしないだろう。
日本軍が、代わりに戦えばそれで良い、
というのが本音?
世界の人口の四分の一は、中国人だ。
これは、東南アジア全体に
いえることだろう。
最近ダバオで多く見かける若者たちは、
インド人と韓国人。

日本は、武器ばっかり買わされて、
周辺諸国と対立させられて、
若者たちも、中高年も、アジアに対して
すっかり引きこもり?
円安になっても、なかなか
輸出が伸びないのは、
現地で見ているとあたりまえ?
こうした事実を書けば書くほど、
殺される確率は高くなると、
周りの人々は心配するけど、
日本の子どもたち、
若者たちの事もとっても心配。

今年の2月にも、
小さな戦闘が起こり、
避難した子どもたちへ、
ビニールシートをとどけ、
炊き出しをした。
幸い数週間で帰ることが出来たが、
この14年で、何度避難民救済を
したことか!
2008年の80万の避難民の時には、
湿原地帯の上を見ると、
アメリカ製の無人偵察爆撃機が、
ふわふわと飛び爆弾を落としていた。
そのうち日本も軍隊を
送り込んでくるのだろうか。
集団的自衛権をたてまえに。


それにしても、
反政府ゲリラと呼ばれている
ミンダナオのイスラム教徒のなかに、
第二次大戦中に逃げた、
たくさんの日系人がいることを、
日本政府の人々は
知っているのだろうか。
日本人が、日本人の末裔を
殺すことになることを!
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今、日本の子どもたち、若者たちに
ミンダナオ体験から伝えられる事
鏑木さん父子の漁村体験

4月25日
日本の子どもや若者たちの現状、
とりわけ精神や心の不安定、
満たされない生活感、孤独感、
生きる力の欠如や引きこもり
はては、多発するいじめや自殺といった、
問題をを知るにつけて。
またそれとは正反対に、
こちらの子どもたちの、生き生きとした表情
子どもたちが、子どもたち同士で、遊び、歌い、
また明るくはしゃぎながら
協力して仕事をこなしていくようす。
ちまたの、子どもたちもさることながら、
とりわけ、ミンダナオ子ども図書館の
子どもたちは、貧困や家庭崩壊や
戦争の悲惨な状況から、
ときには、親や兄弟姉妹を失って、
やってきたにもかかわらず、
驚くほど笑顔が絶えず、生きる力に満ちている。
そんな、子どもたちのいる、
僻村やミンダナオ子ども図書館にやって来て、
いっしょに遊び、歌い、料理や洗濯をし
週末は、山岳地帯の僻村に同行して、
絵本の読み語りを体験したりした、
日本の子どもや若者たちや、
孤独な中高年の方々が、
突然のように、感動し、泣き出し、
心を回復していく様子を見るにつけて、
こうした日本の人々、とりわけ
子どもや若者たちの事が放っておけなくなり、
何かできないかと、考え始めた。


ミンダナオ子ども図書館に、日本の人々、
特に若者たちや子どもたちを受け入れよう、
と決心したのが3年前。
(それまでは、現地の純粋な子たちの心に、
先進?国の上から目線の風を
吹き込みたくないと考えて、
あえて支援者以外の訪問者が、
来ないようにしていたのだが・・・)

受け入れを決断して、
3年間様子を見てみると
現地の子どもたちは、大喜びして、
いつの間にか覚えた日本語を使ったり、
日本の「ふるさと」の童謡を
自然に覚えて、歌ったり・・・
そうした影響を受けながらも、
そのナチュラルな本質は、
なんと、ぜんぜん変わらない!!!
それどころか、逆に
日本の若者や子どもたち、高齢者たちが、
大きな影響、生きる力や希望や喜びを抱いて、
時には、泣きながら、
またくるからね、またくるからね、と
どちらが故郷かわからないような
言葉を残して、帰っていく!!!

そうした様子を見るにつけて、
思い切って決断した!
日本の人々、とりわけ、
若者たちを受け入れよう!!!

ちょうどそうしたことを考える、
きっかけとなったひとつは、
三田の家で、不登校の学校を経営する、
梅木先生との出会い。
そこで毎年、授業や講演を頼まれるにつけて、
不登校や引きこもりに悩んでいる、
この子たちに出会い、
できれば、この子たちを
ミンダナオに連れて行って、
MCLの子どもたちと出会わせたい・・・。
すでに、関西大学や同志社大学、
佼正学園、立教大学、ICU、お茶の水女子大、
一橋大学、学習院、桃山学院、
立教女学院、秋田国際大学、立命館大学などなどの
若者たちが訪れてきて、共に遊んだり、
山のマノボ族の村に泊まって、
読み語りや植林体験をしたり、
させてあげてきたけれど、
ミンダナオ子ども図書館は、
山岳民族の村には、良く行っているが
海での活動地域は、ダバオ郊外の
イスラム地域ぐらいだった。
山で育った山岳民族の子たちや、
内陸のイスラム教徒の子たちは
海も見たことがないので、いつか
海のMCL(下宿小屋)を作りたいと思っていたが
ちょうど、先述の梅木先生の学校で
講演したときに出会った
塾経営者で、子どもたちの事も真剣に
考えられている鏑木さんに
その話をすると、意見が一致して、
かつてからの計画だった、
海のMCLを、本格的に検討することになった。
日本の若者たちが、素朴な漁村で、
子どもたちと遊び、漁を体験し、
ちょうど、山のマノボ族の山岳地帯に、
遠くて学校に行けない子たちや
親のいない子たちが、下宿しながら
学校に通えるように作った
アラカンのラナコランのような、
MCLの寮を作って
現地の子たちと、日本の子たちが、
リゾートではなく
(金持ちの集まるリゾートは、
現地の目から見ると変な感じ・・・)
本物のミンダナオの生活体験できるように、
計画を進める決心をした。
今回、忙しい合間を縫って、鏑木さんが、
息子さんと甥御さんをつれて来られた。
漁村に泊まり、子どもたちと
遊び泳ぎ、漁にも出た。


MCL映像サイト
何故ここに日本人などのテレビ映像
その他の貴重な活動映像を掲載
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

サンタマリア市の市場体験
市場は、スーパーやコンビニと異なり
庶民の生活が感じられる
 
リサーチのために、
ただ市場を歩き回るのではなく、
料理を作るときに、
観察と生活が結びつく



 
 
 

上のココナッツの
殻の実を買って


ギナタアングーライ
野菜と魚のココナツ煮込み
を作ると美味しい。
海が近いから、
魚のラポラポを煮込もう


割って中身を
轢いてもらって
中の白い実を
削りだして


真っ白な粉は、
このままでも
おいしいけれど

白浜のサンタマリアの漁村に泊まった
ここは、ダバオからも遠くなく、ダバオ州に属しているため
北コタバト州より、日本政府の定める危険度が低い

 
   

山のマノボ族の村
キアタウもそうだけれど
民宿するときは、
必ずスタッフが同宿する
今回は、妻子も一緒に

小さな小さな、
竹小屋のような家だけれども
そんななかで、
子どもたちと一緒に
遊んだり、歌ったり
昼間に市場で
買ってきたおかずや
海で捕れた魚を煮込んで
みんなでご飯を作ったり
 
 

MCLのスタッフたちと
夜は、歓談をした
   

翌日は、子どもたちと海で遊び、
漁師さんの舟に乗せてもらって、漁にも出た
 

 




体験学習でもない、
スタディーツアーでもない
リゾートでの休暇でもなく
現地の人々の生活に
子どもたちへの
愛と友情でとけこんで、
そこで何かを考える。
現地の子どもたちと、
友情を結ぶ体験
友人が困っていたら、
助けたくなるだろう。
貧しくて学校に行けなければ
何とか行かせてあげたいと
思うに違いない。
私たちも、
接待で行ったのではない
今回いっしょに村に行き
奨学生を採用するのが
目的だった。


一緒に現地で行動して
MCLの仕事を見て
実際に体験することで
若者たちは、きっと
何か大切なことを
学ぶだろう。
ミンダナオ子ども図書館は、
子どもたちが中心のファミリーだ。
子どもたち自身が、
自分たちの代表を選出して選び
金曜日の夜には、
毎週ミィーティングをして問題を討議したり
読み語りの計画を、話し合ったり。
もちろん、ハウスペアレントもソーシャルワーカーも、
スタッフも会計や経理も含めて25人ほどいるけれども
(そのほとんどは、卒業生たち)でも、
中心は、子どもたち。
朝は、4時半に起きて、
グループで薪で朝食を作るし、
(昼は、学校から帰ってきて、みんなで食べるけど、
料理担当のスタッフが炊事)
夜も、子どもたちが料理する。
また、洗濯も外で、和気あいあいと
おしゃべりしながら、自分自身の服など洗う。
これが、いどばた会議で、日本の洗濯機で
ボタンを押すのが寂しくなる。
畑作りや庭造りも、子どもたち・・・
こういう事を、MCLに滞在しながら、
日本の若者たちもやってみると
愛と友情のコミュニケーションの中で、
生活することの喜びが感じられて
生きることの幸せのなかに、
勇気と力が沸いてくる。

生きる力というのは、他をけ落として
勝ち抜くことでは毛頭無く、
友情と愛に心を開き、お互いに、
自分を犠牲にしてでも助け合うことなのだ。

貧しい海の漁村や山の村でも、
こうした体験で育った大人たちが
互いに話し合い、協力し、喜びをわかちあい、
捕れた魚や野菜を、食べ物がない
隣人たちと分かち合って生きている。
子どもの頃の、とりわけ遊びで培われていく
友情と愛の体験こそが、人を自立させていくのだ。
MCLに日本から来た、ある若者が、
つくづくため息をついていった。
「ここの子どもたちは、
本当に自立している!!!!!」


海のMCLを、前々から企画していた
理由はいくつかあるが、
その最大の目的は、
日本の若者たちとの交流だった。
もちろん、ミンダナオ子ども図書館こそが、
最も良い交流の場所では、あるのだけれど、
個人で来るのは、良いのだけれど、
大学や学校単位で、学生に勧めるとなると、
MCLのあるキダパワンが、
北コタバト州に属するために
高度な危険地域となってしまい、
行政的に問題がある。
(本当は、僕の体験でも、
危険な思いをしたことは無く、
マニラやニューヨークのほうが、
よっぽど怖い。特にマニラは、恐ろしい。)
キダパワン市自体も、北コタバト州の
ダバオよりの端に位置し、
カトリック教会の司教区があり、
キリスト地域で安全であるといわれている。
アポ山の登山口で、海外からも
人が来るし、総合病院も四つあり、
ドクターも十人ほど待機していて、
(MCLの患者は、特別価格で治療してくださる)
ダバオと提携していて、
CTスキャンも完備していて、
デング熱もコブラにかまれても、大丈夫だ。
大学も、USM州立大学から
ノートルダム大学まで、小さいのを加えると
七つはゆうにくだらない、高原の学園都市なのだ。
さらに、山には温泉もあり、
熱帯果樹も豊富で、ダバオのように暑くなく
老後を過ごすには最高の場所!
日本の川崎市と、姉妹提携をしている町。
話がそれたが、しかし、行政区域は、
北コタバト州に属するために
危険度は一段上のため、
個人の決断で行くしかない。
ただ、MCLでは、
もしものことがあると困るので、
町や外を歩くときにも
必ずスタッフと同行するなど、
滞在の規約を作っている。

MCL訪問規約
しかし、多くの方々から、
MCL体験を望む声が、
特に学校関係から挙がり
そこで、ダバオ州に隣接している
アラカンのラナコラン村に、
山のMCLの寮を作ったときに、
近隣のキアタウ村から声が挙がって
そこで、滞在でいるようにした。
しかし、MCLでも、夏休みや正月に、
子どもたちと海水浴に行っていたけれども
どうしても、リゾートが好きになれず、
また、海に近い漁村の生活や
貧困の状況も気になり、
長く考えてきたのが、海のMCLだった。
そこに、サンタマリア市が現れた。

サンタマリア市は、海に隣接、
美しい白浜を持っていると同時に
イスラム、クリスチャン、先住民族が、
仲良く平和に共存している。
MCLの理念や方針に、見事に一致した地域


鏑木さんの息子さんと
甥御さんに聞くと
また絶対帰ってくるよ、
と言っていた。
何か心に響くものがあったようだ。
将来の日本を考える上で・・・
子どもたちこそが未来だから
すでに、サンタマリア市の
市長と会い、
DSDW福祉局とも連携し、
保育所も建設開始、
山の先住民民族の集落の
調査もした。
今回は、この海辺の村から、
五人の崩壊家庭の
子たちを奨学生に選択。
また、別の村からも、
五名を選び、
人々との交流と
市への支援を開始した。
今回の鏑木さん親子の
訪問も、その一環。
 
 

サンタマリアのクラクシン集落の
高校と小学校の奨学生に
学用品を届けた

6月9日
いつも行く
白い浜辺の反対側に、
小学校と高校がある。
こんなところに、
本当に学校があるの???



 
村が見えてきた。
カヌーとバイクでしか
入られない村

村の生活は、
とてもシンプルで、
クリスチャン、ムスリム、
先住民が
仲良く暮らしている地域だ。

目指す高校があった! 

周辺の漁村から
集まってきた
高校生たち。
 
クラクシン高校は、
まだ、竹で建てられた
壁とトタン屋根
4教室で、ジュニア高校。
日本の中学校だけで、
シニア高校に行くには、
町に出るしかない
「お小遣いを持ってきたよー」
親のいない子の場合は、
お小遣いがないと、学校も続けられない


そして、高校の裏から、
岩礁を抜けて、

 
小学校に向かった。
マングローブが生えている
小学校に着いた
ここにMCLの奨学生がいますか?
先生が奨学生を
呼んでくださった

受領書にサインしてもらう
 

皆さんのお子さん、ここにいますか?
学用品をもらって大喜びの奨学生たち 
 

訪問された、ジプロスの
鏑木 諒さまの感想


今回のMCLについて
 
まずフィリピンは、
治安も環境も酷い印象が、
自分のなかでは強かったため
最悪な場所だと思っていました。
率直な意見をいうと、
日本に住んでいる僕にとっては、
とても酷い場所でした。
ご飯もトイレもその他の整備も、
とても良い国とは、言えませんでした。
けれどフィリピンの人達が、
日本の人達より
満足そうに暮らしている
理由がわかる気がしました。
口では説明できませんが、
実際に行ってみるとわかります。
テレビで激しい紛争があったとか、
報道されることもあり、
その映像は、何回かは
見たことがありますが
実際に行ったときと映像越しでは、
まったく実情は違いました。
アナウンサーは、まるで今も
紛争が起きて危ないような
口調で説明します。
行ってみたけれど、
そこまで危険な場所でもないし、
行ってみなければ
わからないこともありました。
特に人の温かさは
映像やニュースでは解りません。
MCLの人達の温かさ、
村の人たちの温かさは
決して忘れる事が出来ません。
約束した通り、また必ず
会いに行きたいと思います。
二度目の訪問
昨年の6月に松居さんとお会いして、
ミンダナオの実情を知りました。
会った場所は不登校になってしまった
生徒さんが通う
サポート校での勉強会でした。
私は20年に渡り
東京で塾を経営しています。
年を追う毎に日本の子供達から
学ぶ意欲が減退し、
未来への意欲が失せて行くのを
実感していました。
今迄、沢山の海外ボランティアをなさっている
方のお話を聞いてきましたが、
持論は、
「日本の中にもまだまだ
救われなければならない現実がある」
と言う物でした。
マザーテレサ曰く、
自分の国で困っている人を助けなさい、
と言う考えに同意でした。
自分の国で、すなわち日本で困った人とは、
私にとっては学ぶ意欲や生きる意欲を
失いつつある子供達です。
先ずは日本の子供達をなんとかしたい、
これが私の思いでした。
しかし松居さんのお話を聞いて、
窮状迫る危機が
そこにある事を知りました。
“今”何とかしなければならない現実がある。
しかも日本のこんな近くに。
紛争で家も学ぶ機会も、
親でさえも奪われてしまった、
ミンダナオの子供達。
しかし、昨年の訪問で明るく元気に、
みんなで助け合って生きている姿に
驚きを隠せませんでした。
不自由があふれているのに
幸せに満ちた生活。
片や満ち足りた環境にあって
それを感じられない生活。
この子たちが交わる事で、
お互いに足りないものが
補い合えるのでは無いか!
ミンダナオの子供達に学ぶ環境を、
日本で学ぶ子供達を、
いつかミンダナオの子供達と触れ合わせたい。
そう思う様になりました。
今回高2になる息子とその従兄を、
一緒に連れて訪問させて頂きました。
見る物全て初めて。
多少は聞きかじっていたかも
知れませんが、
余りにも無いものが
多すぎたことでしょう。
どれだけ日本は満たされていて、
満たされている事すら
感じられない程生活が、
スムーズに進みます。
自ら努力をして掴みにいかなくとも、
全て揃っていて、
親が先生が親戚が、向こうの方から
声をかけてくれ、行動を促してくれる。
環境や、大人の言いなりでいれば、
簡単に生活できます。
そうやって自ら行動する事を
忘れてしまった、日本の子供達。
そんな生活に慣れた彼らは、
困った事があると私の所に来て、
これどうしたらいい?と聞いて来ます。
私にも解らないから、
自分で誰かに聞いてごらん。
そんなやり取りが繰りかえされました。
水が飲みたい、
こんなに多くて食べられない、
疲れているから休みたい、
トイレの使い方が解らない。
自ら発しなければ何も叶わない生活。
遊びもそうです。
ゲームなど無い世界。
誰かと何かをして、
遊ばなければ暇を持て余します。
徐々に、MCLの子供達の明るさと
積極性に引きずられ、
行動出来る様になりましたが、
彼らは正しく、日本の子供達代表でした。
恐らく衝撃的な体験だったでしょう。
しかし学んだことは、
沢山あった旅だったと思います。
何が本当の幸せか、
日本が全てでは無い事、
学ぶとは、働くとは、家族とは。
良い高校、良い大学良い会社。
その為に勉強する。
そのラインから外れると不安になる。
でもそれは、日本だけの話しであり、
世界にはもっと
別の考えや生き方がある事。
それを別に、日本で実践しても良い事。
そして何より大事なのは、人は人と
支え合って生きるという真実。
そんな経験を、是
非一人でも多くの
日本の子供達にして欲しい。
そして、一人でも多くの
ミンダナオの子供達が、
学ぶ機会に恵まれて欲しい。
改めてそう思った旅でした。
松居さん、宮木さん、現地スタッフの方々、
そしてMCLの子供達に
心より感謝申し上げます。
一人でお多くの子供達に、
スカラーシップが与えられる様に、
微力ながらお手伝いを
させて頂ければと思います。
本当に有難うございました。
そして子供達の為に、今後益々の
活躍をお祈り申し上げます。


鏑木さまの経営する、
ジプロスに関しては、
以下をクリック。
ジプロス事業(新体感型学習プログラム)
小中高大学~社会人までの
一貫教育を目指しています。
 



支援している
イスラムの子に再会

まずは、学校に行き
支援している
少女と弟に出会った。
再会し、
学用品と靴を届ける。
イスラム教徒の
しっかりしたよい子だ。

ピキットに行く途中に
通過するARMM
(イスラム自治区)の
プランギ川沿いに
支援している子の
学校と家があるので訪ねた。
この地域の奥からは、
地域戦闘(リドー)による
避難民が出ているが
国道沿いにある
この子の家は、
今のところ大丈夫だ。
元気に学校に
通っているが、
まえに書いたように、
この子の足が
腫れてきていて
医師の診断を受ける予定。
日本からの贈り物を
家族に届けた。


BIFFとMILFの戦闘避難民の現状を同時に調査
イスラム自治区のパガルガン側は
今回、MCLで学校建設を進めている
カルボガン集落。
こちらはまだもどらず、UNHCRが
シートの支援をしていた。
さすがにお金があるので、シートの質が
全然違う。
良かった良かった。
こちら側も
近々もどれるという話を聞いたが
その後、国軍(フィリピン政府軍)が
イスラム自治区に派遣されていて
戦闘を恐れる避難民が、
大量に避難し始めているという
ニュースが流れている。
基本的に、MILFから分離した
BIFFを押さえる目的で、
派兵されている、
とはいうものの、
どこでどう戦闘が起こされるかわからず、
国軍が入ったことにより
大きな戦争になる可能性が高くなり
人びとは、一斉に
避難し始めたと思われる。
あせらずに、注視する必要があるだろう。

先にも書いたが、
北コトバト州側のピキット
その湿原沿いの
カバサラン集落にBIFFが集結して、
MIFLとの戦闘(リドーと呼ばれる地域戦)があり、
避難民が出ていたが、
カバサラン側は、福祉局の指導で
家にもどり始めていた。
しかし、十四軒の家が焼かれた。


MCL映像サイト
何故ここに日本人などのテレビ映像
その他の貴重な活動映像を掲載

UNHCRが避難民の救済を開始
BIFFの拠点のある、カバサラン集落には
避難民たちが、福祉局の指導で
避難民キャンプから帰り始めていた。
しかし、14軒ほどの家は、焼かれたようだ。
こちらは、MCLで学校を建設する予定の
カバサラン集落の人びと。
ここの避難民のために、古着を届けた。
UNHCRが、避難民のために
ビニールシートを用意していた。
これほど早急に
活動を行う例は、珍しいが
福祉局で、UNHCRの派遣員に会った。
かつてミンダナオ子ども図書館にも
来られた人たち。
お互いに、再会し、喜び合った。
UNHCRが来て、良かった良かった。
今回、カバサラン集落で小学校を建てる
建設技師にも会った。
「今は、、難民化しているが、大丈夫。
現地は、比較的安定している。
難民たちも、もうすぐもどるだろう。
学校建設は、可能だと思うよ。」
BIFFが、MILFと国軍に
押さえられているようだ。
思ったより、平和の可能性も
あるような気がした。
MILFは、これ以上の戦争を
望んでいないようだ。
ただ、今後も余談は許さない
状況に変わりは無い。

国軍部隊投入へ

武装集団同士の交戦長期化受け、
「国軍部隊投入で事態収拾図る」と参謀総長

マニラ新聞

 ミンダナオ地方マギンダナオ、
コタバト両州の州境付近で、
14日から続く反政府武装勢力
モロ・イスラム解放戦線(MILF)と
バンサモロ・イスラム自由戦士(BIFF)の交戦で、
国軍のカタパン参謀総長は19日、
事態収拾のため、
近く国軍部隊を投入する考えを明らかにした。
首都圏ケソン市の国軍本部で
記者団の質問に答えた。

 交戦地域の拡大で、避難住民が
2万人を超えたためだが、
国軍介入が事態悪化につながる恐れもある。
また、BIFFはMILFとの戦闘に加えて、
コタバト州キダパワン市にある
州庁舎襲撃を計画しているとされ、
予断を許さない状況が続きそうだ。

 交戦はマギンダナオ州パンガルガン町で始まり、
その後、隣接する同州ダトゥモンタワル、
コタバト州ピキット両町にも広がった。

 国軍が介入する上で問題となるのは、
部隊投入対象となる地域の選定。
戦力面でMIFFに劣るBIFF側は、
小グループによるゲリラ戦を続けているとみられ、
「仲裁に入ったレフェリー(国軍部隊)が
殴られることもあり得る」
(カタパン参謀総長)状況だ。

 また、両州に点在するMILF支配域に
国軍部隊が不用意に入った場合、
MILFとの遭遇戦が発生する可能性もある。
「三つどもえ」の交戦を回避するため、
MILF指導部との連携など、
慎重な対応が必要となる。

 今回の交戦原因は、主に
(1)リド(土地をめぐる争い)
(2)BIFF構成員による
MILF支配域通過をめぐるトラブル--
の2点が指摘されている。
発生直後、MILFの部隊指揮者が
死亡したことから、
「報復戦」の様相も呈している。
このため、カタパン参謀総長は
「(MILFとBIFFの)組織的戦闘なのか、
それとも部族間同士の争いなのか。
事態を複雑化させないため、
交戦原因と現状の把握をまず進める」
と述べ、部隊投入の時期は明示しなかった。

 BIFFは、現政権発足直後の2010年12月、
MILF第105部隊の
カト元部隊長により結成された。
MILFの離脱者らで構成され、
兵力は1千人程度とされる。
カト元部隊長は、MILFと比政府の
和平交渉に不満を持ち、
08〜09年に町役場占拠事件などを起こした。
(酒井善彦)






平和を心から願い、現在の日本を心配する
大学時代の親友、松浦悟郎司教が、本を出版
皆さん読んでみてください!





大学時代の親友、松浦悟郎司教さま
(通称悟郎ちゃん)から、
新刊『平和をつなぐ』(ドンボスコ社)が、
送られてきました。
ありがとう。
時々あっては、励まし合う仲、
がんばっているね、悟郎君!
簡潔で、わかりやすく、
しかも鋭いところを突いているね。
MCLの事も載っています。
みなさん、読んでみてください。
以下のサイトから、注文できますよ。
http://www.donboscosha.com/product/6858

「宗教者という立場から
平和を訴え続けてきた松浦悟郎司教が、
普遍的な価値である人間の尊厳や
互いを大切にし合う関係の実現
という視点から現代社会を見つめ、
平和の実現のために今、
私たち一人ひとりが何をすべきなのかを説く。」
●目次...
はじめに
1.“ぼんやり”で導かれる日本
2.集団的自衛権行使がもたらすもの
3.集団的自衛権と結びついていく法
4.「国を守る」ということ
5.戦争は、非人間化への歩み
6.非暴力、非軍事でつくる平和
7.平和に取り組む国際社会の中で
8.日本国憲法を平和の礎に
おわりに
私の伝えてきたこと

A5判並製 109頁 定価本体550円+税
みなさん、読んでみてください。
以下のサイトから、注文できますよ。
http://www.donboscosha.com/product/6858

私の上智時代の聖歌隊の友人、
松浦悟郎名古屋司教
(ぼくらは、悟郎ちゃんと
呼んでいるけれども・・・)。
カトリック正義と平和で活躍し、
キリスト者九条の会でも平和を目指して・・・
ミンダナオ子ども図書館に関しても、
最初期から心から協力してくれた友人。


翌日、雨よけのシートを配った
2月17日
夜を徹して、
シートをカットする、
MCLの奨学生と
スタッフたち

 

緊急支援をお願いします!

新たに避難民が、
集落にあつまっていた。
雨よけも無く、
このままでは
地面に寝るしかない。
ミンダナオ子ども図書館
の事は、よく知っていて、
大喜びで歓迎してくれた。 
現地福祉局の
わずかな支援があるだけで、
他の支援は
まだほとんどない。

緊急支援の自由寄付を
お願いします。
1万円で、
1ロール100メートルの
シートが買えます。
5メートルで切っていくので、
20枚がとれ、
20家族を救えます。
 


郵便振替口座番号:
00100 0 18057
口座名:ミンダナオ子ども図書館

  
 インターネットバンキングも可能です
■銀行名 ゆうちょ銀行  ■金融機関コード 9900
■店番 019  ■預金種目 当座
■店名 〇一九 店(ゼロイチキユウ店)
■口座番号 0018057
口座名:ミンダナオ子ども図書館
ゆうちょ銀行(郵便局)や、
それ以外の金融機関からの振込もOK
 



 

 MCLで、さっそくビニールシートを配った

MCLのスタッフたちと
左は、MCL役員で
DSWD福祉局の
グレイスさん
 
現地日本人スタッフの
梓さん、
かつて山元眞神父さまが
支援していた
イスラム奨学生で、
今はスタッフのサダムくん
 
 
ムスリムスタッフの
エズラサさんと
バイヤンくん。
彼らも奨学生だった。
 村人は、
私たちの事を
よく知っていて、
子どもたちも一緒。

読み語り、奨学生、
医療でなどで
普段からおつきあいのある
村の人たちだけに、
今回の難民救済支援で、
さらに心がつながった。
平和構築とは、
こういうものだと思う。
「隣の人を、
自分のように愛しなさい。
神は愛である。」
神が愛であるならば、
すべて神が創られたものは、
イスラム教徒も
クリスチャンも先住民も、
皆兄弟姉妹であるはず。 
皆さんも愛の支援、
おねがいします。







緊急支援の自由寄付をお願いします。
1万円で、1ロール100メートルの
シートが買えます。
5メートルで切っていくので
20枚がとれ、
20家族を救えます。
加治康男の報道記録
最近知った報道記録ですが、
実に深く現地で取材して
いらっしゃいますね。
驚きました。
まさに、そのとおり、という記事が掲載されています。
 

加治康男の報道記録
http://mediacritique.dip.jp/modules/pico/index.php?cat_id=17
ブッシュ米政権は石油・天然ガスから金、銅、ウランまで
資源の宝庫とされるミンダナオ地方中部での対テロ戦遂行を名目とした
米軍駐屯に執念を燃やしてき た。
駐留予定の米兵は沖縄から移動する海兵隊員だ。
米国に「こちらにつくのか、テロリスト指定されたいのか」と迫られた
MILF指導部は苦渋の選択として 組織としての生き残りを選んだ。 
゛約束の島゛とされながら
イスラム勢力の反抗で開発が手付かずの状態のミンダナオ島。
二十世紀前半、植民者として統治した米国にとって
゛ミンダナオ支 配゛は「見果てぬ夢」だった。
また、中部ミンダナオ地方での大規模で長期な
米比合同軍事演習実現は
米国の今後のアジア戦略に深くかかわっている。
http://mediacritique.dip.jp/modules/pico/index.php?cat_id=17


人の味がするんです    
避難民キャンプというものも、
初めてだったが、
雨がふれば、
そこらじゅうから水が
もれてくる、
タタミ二畳ぶんもないような、
椰子の葉や
ビニールシートの
屋根のしたに、
まるでちじこまるようにして
二年いじょう、
家族が、生活している
姿をみるのはあわれだった。

しかも、その数たるや
はんぱではない。
その多くは、
町からはなれた平地や
丘陵地帯で、
トウモロコシをちゅうしんに
ほそぼそと畑を
たがしている農民や、
湿原地帯の漁民たちだった。
戦争が勃発してまもないころは、
彼らは、農業倉庫や政府機関によって指定された
難民キャンプに収容される。
それはモスクのそばだったり、
学校のそばだったりする。
しかし行政も、毎日のようにあふれでてくる
避難民たちに対応しきれず、
その数があまりにもとほうもないので、
たちまち収容場所からはみだして、
道路わきから畑地にも、
乞食小屋よりも、さらにひどいものが
立ちならぶようになっていく。
避難民たちは、ほんとうに骨の髄から
疲れきったという顔をしている。
何しろ数年おきに同じことがくり返されるし、
水も不自由でトイレもなく、食料もない暮らしが、
半年から一年以上も続くのだから。
食料といえば、日に二度のトウモロコシを薄く
とかしたようなお粥を食べられれば良いほうで、
ときには何日も食べるものがなく、
おなかが痛くなってきて、
しまいには栄養失調になって体が弱っていく。
それにくわえて、不衛生な環境で病気になり、
薬もなく、たとえあっても買えるだけの
お金もないので、キャンプで死んでいく、
大人や子どもも多い。
案内をしてくだった女性がいった。
「あなたは、ナマズをスープにした料理、食べますか?」
ぼくは、こたえた。
「ええ、大好きですよ。
ここは、河も湿原もちかいから、
おいしい川魚料理がたべられそうですね。」
「ええ、雷魚も鯉もおいしいですよ。
でもねえ、人の味がするんです。」
「ええ?人の味?」
おどろいて絶句するぼくにむかって、
女性はこたえた。
「あのプランギ河をコタバトから海軍が、
戦闘用のボートでのぼってきて、
いっせい射撃をしながら、
このさきのランディングピースと名づけられている
場所に上陸したとき、
おおぜいの人々がにげるひまなく殺されて、
その死体を埋めるひまなく川にながしたんです。
このあたりの魚は、その死体をたべて
そだっているから、
人の味がするといわれている。」
ぼくは、答えにきゅうしてだまってしまった。
まわりをみると大人たちも疲れきった顔を
しているけれども、
子どもたちの疲労困憊ぶりはさらにひどい。
父さんも母さんも絶望的に機嫌が悪いし、ひもじいし、
泣きはらした顔が、そのままこおって
しまったような表情をして、
ぼくが手をふっても、ほとんど表情がなく
笑おうともしない。
これはのちほど、この地域出身の
ある父親から聞いた話だが、
彼はうまれていらい30年間というもの、
かずしれぬ戦闘を体験してきたという。
そのたびに、つらい
避難民生活をよぎなくされてきた。
幼い子ども時代から、くり返しくり返し・・・。
げんちで活動しはじめてからしったことだが、
ミンダナオ紛争が、イスラム自治区の独立闘争として
はじまったのが1970年。
そのご3年おきぐらいに大きな戦争がおこり、
そのたびに住民たちは、避難民として、
このような生活をよぎなくされてきたのだった。
そのお父さんは、こうぼくにかたってくれた。
「わたしは、生まれてからこのかた、
子ども時代から青年時代、そして結婚して
子どもが生まれてからも、数年おきに、
こうした避難生活をさせられてきたのです。
戦争になるたびに、
母親に手をひかれてにげました。
ちかくで、おおきな爆発がして、
世界がひっくりかえったような気がしました。
母さんはないています。
父さんは、牛車に、なけなしの服と家財道具を
のせて、ビニールシートをかけて、
わたしたちをのせて家をあとにして逃げだします。
家畜はおいたまま、帰ってみると
なにもかもなくなっているんです。
国道近くまでくると、ちいさな空き地に、
ヤシの葉っぱを地面にしいて、
おおぜいのみしらぬ人たちといっしょに、
ときには一年以上も地面のうえでねる生活。
ねていると、とつぜん
爆弾が、ドカーーーン!
銃声が、パンパン、
パパンパン!
また逃げなければならない。
じゅうぶんな着がえもないし、
体はいつもよごれたまんま。
しかも空腹で、食べものもないから、
しだいに体が弱っていき、
たくさんの子どもたちが、
病気になって死んでいきました。
とくに、1990年代の戦闘と難民生活はひどかった。」
いま目のまえで、まのあたりにしている
状況でさえひどいのに、
もっとひどいときがあったという事実に、
ぼくは心を痛めた。
その方の小さな娘さんは、
ほおに大きなこぶができていて、
後にぼくたちは、その切開手術をしてあげた関係で、
いまも親しくおつきあいさせていただいている。


病気の少女を見つけた
13歳で結婚していた。
手術で足を切断する
以外に無いだろう。
しかし、助かるかどうかはわからない。
母親は、手術をさせたくない。
  

 


上の子は、
ミンダナオ子ども図書館
の奨学生
大喜びで駆け寄ってきた。

難民キャンプで
車いすを約束して
探していた子を見つけた。
車いすさえあれば、
学校に通える。
寄贈する車いすが
あることを話すと、
本人も母親も大喜び!
次回、なるべく早く、
車いすを
届けることを約束した。
かつて難民キャンプで
見つけた子に
再び、
難民キャンプで会うとは
なんと皮肉な偶然だろうか。


写真は、
かつて車いすを約束し
今回、探していた子。




 戦争が心配なイスラム地域に、
車いすを届けた

3台の車いすを
寄贈してくださったのは、
大久保さんご家族
数日前に
洪水があったが、
思ったより早くひいて、
この地域の被害は
少なかった

 
   
 
一台は、ピキットの
福祉局の局長補佐で
ミンダナオ子ども図書館の
理事グレースさんの希望で
貧しい地域の若者に届けた。
いすの後ろには、
「末日聖徒 
イエス・キリスト教会」
のラベルが。
ありがとうございます!
宗教、民族、宗派を越えて、
愛は広がる・・・
 
同じ村に
歩行困難な
子がいた
松葉杖を約束した
どなたか、松葉杖の支援を
お願いします。
自由寄付でも
結構ですので
ダバオで購入します。
 

古着の支援もした 
日本の支援者の方々から
届けられた古着を
こうした調査などに
共に持っていく
本当に、
無限に需要がある。
MCLの活動は、
積極的外向型と
呼んでいるように
絶えず、毎日のように
現地に赴き、
奨学生たちに会うと同時に
実に多くの集落と
つながりを持ち続けて
活動している。
イスラムのピキット市の
全集落をはじめ
先日戦闘があり、
死者の出た
イスラム自治区の集落
マノボ族の山の
多くの集落にいたるまで
古着の需要は、
膨大だ。
 
 

MCLの奨学生の調査
支援者に
毎年スナップショットを
送るため
また、その年の
奨学生の状況をしるために
子どもたちの家々を
まわって、調査をする。
子どもたちの現状
村々の状況を知るためにも
足で巡り、
直接顔を合わせることは
重要な要素だ。
MCLの日本人スタッフ
の梓さんも
子どもたちに
直接出会うことで、
スカラシップ支援者に
新しい子を紹介するときの
気持ちが全然
変わって来るという。
この子の支援者は、
この後見つかった。
貧しくて、三度の
食事も難しい家庭。
お母さんは、
出稼ぎに出たまま
音沙汰なし。
優しいお父さんが、
がんばっているけど、
奨学金が無いと
学校にいけない。
この地域は、
絶えず戦争にさいなまれて
去年の春に、
戦闘で避難民に
なっているときに
出会った子だ。
 

彼女は、生まれつき
足が短く
膝からしたが、
少ししかない。
そんな子だからこそ
大学まで行って
良い仕事に就いて欲しい。
食事も困難な
ことがあるので
今年からMCLに
住むように
なるかもしれない。


 MCLの奨学生で、片親の子たち
 
この村の子たちには、
片親が多い。
非常に戦争や戦闘の
しばしば起こる村。
片親になった理由は
いろいろある。
病気、戦争、不慮の事故。
この子たちは、
まだ支援者がいない
子たちです。
どなたか、
支援者になって
いただけませんか!!
 
ミンダナオ子ども図書館支援方法
村の役員の方が曰く
「MCLは、
他のNGOとは、
ぜんぜん違って、
ほんとに心から
人を助けるNGOですね。
うちの娘たちが
奨学生になっていること、
誇りです!」
村の出口近くには、
私服の護衛兵たちが、
守ってくれていた。

劣化ウランの影響では?
2000年の比軍と米軍の
合同演習と言う名の実戦。
そして、2003年の
テロリスト掃討作戦。
当時、100万を超える
避難民が出て、
私たちは、終始救済に
向かった。
そのとき以降、
ちょうどその時期に
妊娠していた子たちが
生まれると、
こうした奇形の子が
あちこちに増えていった。
驚いて、日本に帰り、
当時にカトリック
正義と平和協議会で
働いていた、
大学時代の親友、
松浦悟郎司教さん
(悟郎ちゃん)に
写真を見せると
「松居君、これ、
劣化ウラン、ちゃう・・・」
といって、
イラクの爆撃による
劣化ウラン被害の写真を
見せてくれた。
驚いたことに、
まったく同様に症状だ!
それを聞いて、
中日新聞が
取材を言ってきたのだが・・・
その後なぜか、没になった。
当時は、朝日もNHKも
全てマスコミは、
MCLに来るという取材、
北コタバト州に入るという
取材が許されなかった。
なぜだか、未だに
分からないが、
最近になって
「なぜここに日本人」の
取材が許されて、
リグアサン湿原まで
行けたのは驚きだった。

僕が一番心配なのは、
今回のイスラム国への
米軍の爆撃で、
多くの子どもたちが
死ぬだけではなく
劣化ウランの症状が、
イラク戦争の時以上に、
中東全体で広がることだ!
  

足が腫れてきた奨学生
手足の異常も
多く見られる。
MCLでは、こうした子の
将来を考えると
なるべく、
一時的な
医療支援ではなく
その後も、
奨学生に採用して、
のちのちの
医療をも保証して
学校も大学まで
やらせることにしている
 
 
義眼を入れる
手術をする予定 
MCLで手術して
義眼を入れている。
かつての奨学生。
大学を出て
銀行に受かったけれど
ベールをはずすように
強制されて
それがいやで、
MCLのスタッフに。

 
そろそろ、義眼を入れても
良い頃かもしれない。
父親はいない、
今年から、MCLに住みたいという。
この子たち、まだ支援者が
いないのですが。
下の男の子も、
睾丸が腫れてきたので、手術をします。

イスラムに対する偏見が、
フィリピンでも強くなりそう。
しかも、この地域は、
大規模な戦争に
巻き込まれそうなので、
今から逆に
奨学生調査や保育所建設で
しっかりつながりを持ち、
重点的に歩き回って
いざというときに、
この子たちを救済に
走れるように、
重点地域として
活動することに決めた。
 
 


神戸震災の20周年ですね。

今、ミンダナオ子ども図書館で、日本人スタッフをしてくださっている、
宮木梓さんは、震災を子どもの頃に体験したかたです。
季刊誌『ミンダナオの風』に以下の記事を執筆して下さったので
抜粋して掲載しました。
季刊誌は、年四回、絵本も交えて、寄付をくださった方々にお送りしています。
 

私は14歳のときに西宮で
阪神・淡路大震災を経験した。
幸い家族も家も無事だったが、
道路は液状化でひび割れ、
泥水が噴き出し、
ガスや水道は1 ヶ月止まった。
お店からは食品も日用品も消え、
母はパニックになった。
父は海外出張中だったので、
アスファルトの下の割れた水道管から
あふれる水をバケツで運んで
お風呂に貯め、
飲み水のために給水車に並ぶのは
私と妹の仕事だった。
学校は休校になっていたが、
自分たちが家族のために
働けることがうれしかった。
たくさんのボランティアが
私たちの町にもやって来た。
そこで初めて自分が、
「助けられる立場」になったのだと
知った。
それまで、自分がアジアやアフリカの
かわいそうな子どもたちを
助けてあげるのだと思っていた。
どこか遠くから来た
ボランティアの人たちは、
崩れた家や、マンションや
高速道路を見て
「すごい」「ひどい」「かわいそう」
と言いながら、
次々に写真を撮った。
私にとって崩れた街並みは
すぐに日常になっていたし、
自分をかわいそうだと
思いもしなかった。
だから、外の人から
「かわいそうな被災者」と
名前を付けられたことがショックだった。
この人たちは、何日かしたら
壊れていないきれいな町に戻って、
「かわいそうな被災者」を
助けるボランティアをしたと
褒められていいなぁ、と思った。
もちろん、被災地には
ボランティアが必要だったし、
膨大な救援物資の仕分けや、
温かい食事の炊き出しをして、
たくさん助けてくれたことも知っている。
それでも、当時の私はボランティアを
心から受け入れられなかった。
ただ、救援物資の箱に
書かれた励ましの
メッセージはすごくうれしかった。
自分たちは、世界から
見捨てられていない、と思った。
ミンダナオ子ども図書館で
暮らしている子どもたちは、
3食満足に食べられないほど
生活の厳しい家庭から来たという。
けれども、自分たちは貧しく
社会の底辺にいる
というような劣等感を感じない。
経済的に恵まれた日本で育った私を、
自分たちと同じように
受け入れてくれる。

新しい生活に慣れない私に、
「ご飯の鐘が鳴ったで。食堂行こう。
お腹空いたやんな」と教えてくれる。
一人でいると、「寂しくない?
ここに座り」と心配して
ぎゅうっと抱きしめてくれる。
私も、子どもたちに、
たくさんたくさん助けてくれて
いる人がいるよ、
忘れられてないよ、と伝えたい。
そして、しっかりご飯を食べて、
安心して学校に行ってほしい。
そのために働くこと
が、大人になった私のできる
ことだと思う。


フランスで起こったテロとMCL

お元気ですか。
ミンダナオでは、子どもたちが
学校に通い始めました。
いろいろなつらい体験をしてきた
子たちですが、
MCLの子たちは元気です。
フランスで、アルカイダによる
テロが起こりました。
ヨーロッパでは、
イスラム教徒に対する反感が
高まっていると聞きます。
世界中に反イスラムを
あおるかのような、
マスコミを中心とする情報が
ながれました。
ミンダナオでも同じでしょう。
私が一番心配するのは、
MCLのイスラムの子どもたちを
はじめとする、
戦禍の中をかいくぐって
救済し続けてきた、
我が子のような、
イスラム地域の子どもたちや
若者たちの心が
(大人も同じでしょうが)、
この騒動で、深く傷つくことです。
イスラムの子たちも、
心から愛情をもって
見守っている私にとっても、
自由も大切でしょうが、
教皇フランシスコが言うように、
言葉上の「自由」を盾にとった、
人の気持ちを省みない
安易な表現は、
意図的に戦争を作る操作に似ていて、
どうしても納得できない
部分があります。
今ちょうど、教皇フランシスコが、
フィリピンに来ており、
その後、ミンダナオの和平交渉に
関する発表がアキノ大統領から
あるようですが、
それを踏まえて近く、
イスラムの若者や子どもたちの
様子をサイトに
上げようと思っています。
また、一月末に、学生総会が
あるので、そういった点も含めて、
MCLの若者たちに
シンポジウムをしてもらい、
意見を求めてみようと思っています。
ミンダナオの平和について。
未来を背負うのは、
若者たちと子どもたちです。
彼らが幸せに暮らせる社会を
作っていかない国には、
未来は無いと思います。
日本の子供たち、若者たちは
幸せかな????


MCL映像サイト
何故ここに日本人などのテレビ映像
その他の貴重な活動映像を掲載



 生きる力ってなんだろう
  ミンダナオで何よりも魅力的なのは、子どもたちだろう。
 現地の子どもたちは、確かに、
 貧しくて学校にいけないような環境の
 子どもたちも多いのだけれど、
 表情ゆたかで明るくて、なぜか生きる力にみちている。
 生きる力ってなんだろう。
 上のお姉ちゃんが下の子に、
 「ねえ、そこのお店でお塩をかってきてちょうだい」
 といえば、たとえむちゅうで遊んでいるさいちゅうでも、
 下の子はさっとたちあがり、明るい笑顔で、
 「はい」
 といって買いにでかける。
 お姉ちゃんがいったことに、下の子たちは笑顔でこたえ、
 ちっともいやな顔をしないのは驚きだ。
 そのかわり、お姉ちゃんは、
 きちんと下の子の世話をしてめんどうをみる。  
 もちろん、お年寄りを一人
 孤独にほうっておくなど、考えられない。
 妻のエープリルリンのおじいさんもおばあさんも、
 当時まだ小学生だった彼女の膝のうえで亡くなった。
 「自分の力できりぬけろ!」
 という言葉への、現地の子どもたちの返答は、
 「でも自分の力なんてたかがしれている、
 みんなでやるほうが、楽しいよ。」
 「自分のことは自分でやれ!」
 への返答は、
 「一人で出来ないことなんて山ほどあるよ。
 みんなで力をあわせるほうが大事だよ。」
 「日本では、自殺する人が多いんだよ。」
 というと、子どもたちはびっくりしてさけんだ。
 「なんで自殺するの?信じられない。
 あんな豊かな国なのに!死ぬなんて、もったいないよ。」
 「孤独で死ぬんだよ。」
 というとさらに驚く。
 「孤独で死ぬってどういうこと?」
  貧困のなかで家庭がいきづまったり、崩壊したり。
 りふじんな戦闘で親を失った子の多い、
 ミンダナオ子ども図書館の子どもたちにとって、
 ゆたかでみちたりた日本は、
 精神的にも安定した理想の国とうつっているようだ。 
 ところが現実的には、日本は、
 青少年の自殺率がひじょうに高いのでゆうめいだ。
 しかも、遺書を残していない場合は、
 自殺に数えられていないというので、
 ほんとうの自殺の人数は、
 統計よりもはるかに多いといわれている。
 なぜ日本では自殺が多いのだろうか。
 原因はいろいろとあげられるだろうけれども、
 疎外感からくる孤独もひとつの原因だろう。
 その観点からみると、たしかに、
 フィリピンは孤独感をあまり感じさせない国かもしれない。
 とくに孤独感を感じさせない場所は、
 貧しい人々のすんでいる地域。
 それにしてもフィリピンの若者たちが、
 孤独で死ぬということの意味が
 わからないのはなぜかというと、
 彼らが、孤独を知らないからではない。
 ミンダナオ子ども図書館のおおくの若者や子どもたちは、
 ときには孤独を感じている。
 親を戦闘でうしったり、貧困のために、
 父親や母親がマニラや海外に
 出稼ぎにゆき帰ってこないと思っていたら、
 べつの人といっしょになっていたりして、
 その結果、家庭が崩壊した子などがも多い。
 それでも、彼らはいちおうにたくましく、
 明るく生きていこうとするのはなぜだろうか。
 「孤独だけれども、自分はのこされた母親や
 兄弟姉妹を助けるために、がんばって学校にいくの。」
 「でも、さびしくない?」
 「さびしいこともあるけれども、
 ここだったら友だちがいるからだいじょうぶ。」
 なぜ、孤独で死なないのか、と聞くと、こう答えた。
 「どこかで誰かが助けてくれるから!」
 「ぼく、ストリートチルドレンになったときもあるけど、
 でもそんなときは、別のストリートチルドレンが
 やってきて言葉をかけてくれるんだ。
 ひとりじゃさびしいだろう、俺たちの仲間になれよ!」
 日本では、孤独な母子家庭が
 ふえている、という話をすると、
 「近くの人たちといっしょにすんで、
 いっしょに食べたらよいのに、なぜしないの?」
 子どもの貧困がふええている、という話をすると、
 「なぜ、親戚の家にすまないの?
 もしも、親戚の家がだめだったら、自分の家によんで、
 自分の子にしたらよいのに。MCLみたいに!」
 こういった言葉が自然にポンポン飛びだしてくる。
 とにかく大人たちが考えなくてはならないことは、
 こうした子どもたちが、愛と友情のなかで、
 素直に楽しく大人になっていけるような、
 戦争や争いのない社会、
 対立のない平和な世界をつくっていくことだろう。
 でも、金持ちが天の国にはいるのは、
 ラクダが針の穴をくぐるより難しいから、
 先進国の人々が孤独からぬけだすためには、
 貧しくても愛と友情にみちた、
 ミンダナオの子たちのような人々に出会って、
 孤独の闇から引きあげてもらうしかないのかもしれない?
 



4時半に起きて朝食のしたく
ミンダナオ子ども図書館の子どもたちは、
毎朝こうたいで4時半に起きて
朝食のしたくをはじめる。

食堂にちかい台所で、
マキをつかって火をたいて、
ほぼスタッフの分をいれると
一〇〇人ぶんに近い量の
ごはんをたき、おかずをつくる。
交代制だとはいっても、
朝早く目をさまして
一〇〇人分の料理をつくるのは、
大変な仕事だとおもうのだけれど、
ぜんぜん嫌な顔をもせず、
むしろ楽しそうにおしゃべりしたり笑いながら、
朝ごはんのしたくをしていく。
朝食当番ではない子たちも、
五時ごろには起きだして、
庭の手入れや掃除をしたり、
水浴びをして学校にいく用意をはじめる。
すると、カンカンカンと
朝食の準備がととのったことを
つげる鐘の音がして、
子どもたちがおしゃべりしたり笑いながら、
食堂にあつまってくる。
ぼくや妻の顔をみると、
笑顔で声をかけてくる。
「おはよう、パパ友。」
「ママエープリル。よくねられた?」
「うん、きみたちは?」
「ぐっすりねられたよ。」
「明日は学校ないし、夜は映画見られる?」
「もちろんだよ。」
「わーい!」
「やったー!」
「何がいい。」
「トトロ!」
ミンダナオ子ども図書館には、テレビがない。
しかし、翌日に学校がない日は、
みんな集まって映画の上映会を
することになっている。
子どもたちにとっての、
最大のお楽しみのひとつ。
土曜日曜の休日は、女の子たちは、
庭の手いれや野菜づくり。
男の子たちは、芝刈り機で雑草をかったり、
薪割りや畑仕事。
洗濯もちゃんと自分たちでする。



子ども時代から
青春時代にいたる体験
松居友

今の日本の学生たちの
70パーセントが落ちこぼれて、
世界に散らばって、
生きることをそこから学んで帰ってきたら、
日本の将来も、明るくなるかもしれない。
じぶんにとって、
ミンダナオ子ども図書館って何だろう
とかんがえるときに、
いつもかさなって浮かんでくるのが、
子ども時代から青春時代にいたる体験だ。
幼稚園から小学校の低学年のころ、
冬休みなどでコタツにあたっていると、
母に怒られたのをおもいだす。
「子どもは、風の子。
コタツになんかあたっていないで、外で遊んできなさい!」
そこで寒くてふるえながらも外へでると、
タコあげをしたりコマ回しをしたり、
木登りや屋根に登ったり、夏には川にいかだをうかべたり。
ザリガニや小エビを池でとったりしてちまたで遊んだ。
あそび仲間があつまると、
石けりやゴム段飛びやじんとりなど、
親や先生や大人たちの目からはなれて、
子どもたちどうしで仲間をくんで遊ぶのが楽しかった。

ときには帰りが遅くなり、あたりはすっかり暗くなって、
心配した母が、街灯のしたにたたずんで待っていた。
夕暮れどきに、家々からただよってくる
夕飯のにおいにあいまって、
わが家のよさを実感したものだ。
家にかえると、お風呂を薪でたいたりしたし、
時には、となりのおばさんの家のお風呂に
入りにいったりもした。
「お風呂がわいたよー。入りにおいでー。」
お隣さんとの垣根もへだたりがなく、
いけ垣をかいくぐってとなりの家の庭をぬけて、
学校にいったりもしていた。
絵本も読んだけれども、いま考えると、
あの外遊びの体験があったがゆえに、
いまの自分があるようなきがする。

中学校は、公立のふつうの学校だったけれども、
おもしろい先生がいらっしゃったし、
仲のよい友だちにあえた時期でもある。
公立学校のよさは、
友人たちが近所にすんでいて遊びにいきやすく、
かえり道などにその家庭にもたちよれるし、
友人たちの家庭環境も、
寿司屋から八百屋やふとん屋、
サラリーマンから地域の商店街まで
多様だという点だろう。
学校は明るくのびのびとして好きだったけれども、
ひとつだけなじめなかったのはクラブ活動だった。
子ども時代から木登りは得意で、
運動神経はひといちばいよく、
小学校のときからとくに球技は得意だった。
ソフトボールやバレーボール、ドッジボールから卓球まで、
なんでもやったけれども、
中学にはいってそうした遊びがクラブ活動になると、
楽しかはずの遊びが、
ひたすら勝ち負けを追求する競技になってしまう。
「ワッショ、ワッショ」と声をあげて、
運動場をひたすらはしる馬鹿馬鹿しさ!
教師や先輩の笛にしたがい、
真剣な表情をあえてつくって、行動をするつまらなさ!
遊びのばあいは、上手でも下手でも、
子どもどうしが友情をもってささえあい、
歓声と笑いで楽しんだのに、
クラブ活動ではうまいへたによって評価され、
そこから少しでもはずれると馬鹿にされ、
見下され、ブーイングが飛び、
あげくのはてに排除され疎外される。
それをみて、こんな馬鹿げたことはやっていられない、
と判断しすぐに辞めてしまった。
学校がおわると家にかえり、庭で花をそだてたり、
休みの日には、ひとりで自由に
山や高原を歩きはじめたのもこのころからだ。

庭にコンポストをおいて堆肥をつくり、
水仙や矢車草、カンナやケイトウを育てて
楽しんでいるぼくの姿をみて、
母がいった言葉がわすれられない。
「おまえの趣味は、まるで隠居老人のようだねえ。」
いまりゅうにいえば、おちこぼれ。
ちょうどそのころ、母方の祖父が隠居して、山梨に移りすみ、
ブドウ栽培をちゅうしんとした農業をいとなんでいた。
週末や休みの日などに、ぼくは祖父のところにいっては、
南アルプスや八ヶ岳をながめてブドウをたべた。
有機農業の基本的な知識も、このころ学んだ。

高校時代には、小説から哲学書、文学から自然科学、
心理学まで本もたくさん読んだけれども、
本だけではだめだとおもった。
どんなに知識をつめこんで、想像力をやしなったとしても、
じっさいに神が創造した自然や人間に、
直接ふれて出会って体験してこそ、
初めて真実を感じとることができる。
きょくたんな言いかたをすると、
どんなに知識や教養があっても、
実体験がなければ、
ほんとうの人生ではないような気がした。
高校時代には、学生紛争もあったし、たくさんの本を読んだ。
実存と死を考察し、
生きることの意味を考えつづけた多感な時代だ。
けれども、いまになって振りかえると、
この時期はとくに引きこもりで厭世的、
実存主義的で無宗教だった。
そして、「人は何のために生まれ、
生きる意味はどこにあるのか」
ということを考えたときに、
究極において、「死とは何か」、
「人間は死ぬのになぜ生きようとするのか」、
「生きる意味はどこにあるのか」を考え続けた。
その結果、この問いを解決するためには、
死から目をそらすことをせずに、死を見つめ、
意識的に死に向かって歩き、
死を超える意志を確立しなければならないと思いつめた。
そのあげく、自力で死をこえようとして、
さいごに死の恐怖と精神の崩壊の瀬戸際にたった。
死は、常に人生の大きな課題である理由は、
実は、生まれたときに死んで生まれてきた体験ゆえかな?
病院の助産婦が、お尻を叩いて息を吹き返した。

ある日のこと、昼間、寝床によこになっていたのだが、
とつぜん信じられない死の恐怖が、
ドカーンと外から襲ってきた。
目ざめてはいたのだけれど、
そのあまりにも強い衝撃にあわてて飛び起きて、
扉をひらき庭をみたが、台地は大きくゆれうごき、
目のまえでボッカリと裂けて、
虚無のなかに落ちこむ恐怖にとらわれた。
地獄に堕ちるとは、このことだろうか、
といっしゅん思った。
ひっしに心を強くもとうとしたけれども、
くりかえし自殺の衝動が襲ってくる。
ああ、このままでは発作的に自殺をするか、
その衝動に耐えたとしても、
発狂して精神が崩壊するだろう、とわかった。
そしてふらつきながら、ふたたび寝床に横になったときだ、
枕元に黒い女性があらわれ、ぼくに語りかけた。
「あなたはもう、じゅうぶんやったのだから、
いまは休みなさい。」
実体のある女性ではないのだけれど、
そこに存在しているのがつたわってきた。
まるでその膝を枕にしているかのような安堵感が、
じぶんの身体にひろがっていった。
救われた、とおもった。

それは、死をこえた愛の体験で、
それ以降、世界が光り輝いて見えるようになった。
神は愛であり、光であり、
愛は、死を超えているという体験だった。
後に大学時代、大学の恩師でゲーテの専門家
木村直治教授にこの体験を話し、
「ニーチェのような実存主義者の中にも
神の力は現れると言っている哲学者はいますか?」
と聞いたら、
「ホイヴェルスさんが言っているね」と言われた。
「どこの哲学者ですか?」
「裏のイグナチオ教会の神父だよ」
そこで、行ってみると80歳を超えていて
前に座ると「洗礼を受けたいと思います」と
自分が言っているのに驚いた。
「もう年だし、今は授けていない」と聞き、
死の体験を話すと、
「その女性は、黒いマリアだね。
悲しみのマリアと言って、今も世界中で出現している。」
これには、驚いたが、しばらく話をして立ちあがり。
「それでは、失礼します」というと
「ちょっと、待ちなさい。あなたに洗礼を授けましょう」
といって、それから数カ月通い、その後洗礼を受けた。
詩人で有名な神父で、(著書『人生の秋に』を読んでみたら)
お地蔵様のなかにも神は宿っていると、おっしゃっていた。
日本に惹かれた理由の一つは、
「子どもたちが、本当に明るくのびのびとしている
それに惹かれたのが理由のひとつだったよ」
と、おっしゃっていた。
ぼくが、ミンダナオに惹かれた理由とよく似ている。
今の日本の子どもたちは、だいじょうぶかなあ?
ぼくが最後から2番目の受洗者だった。

話を高校時代に戻すけれど
高校を卒業する時期がちかづいてきたとき、
「どこの大学にゆきたいのか」と、父から問われて、
「一年ぐらい学校にいかずに、
山を歩いたり、音楽を聴いてみたい」
といったらあきれられた。
「どうしても大学にいくとしたならば、どこが良いか。
なんの学部を専攻するのかを、聞いているのだ。」
執拗に問われて、最終的に
私立の文学部を受験することに決めた。
理由は、受験科目が少なかったから。
今は、上智大学は有名だが
その頃は、まだあまり知られていない大学で何とか合格。
音楽が好きで、部活は聖歌隊で唄っていたけど
あまり勉強に集中することもなかた。

いまだから告白するけれども、ぼくの場合、
学校でならった知識は、あまりやくだった記憶がない。
本を読んで得たものの方が多いけれども、
実体験が無く、知識だけ身に着けても意味がないと思った。
ただし語学だけは生涯にわたって役にたつから、
したほうがよいと思う。
大学では、恩師の木村直司教授に影響をうけて、
ゲーテの自然科学論文を中心に
錬金術的宇宙像をまなんだ。
ゲーテの宇宙像を、心理学的にも
展開しているユングの勉強もすこしした。
自分の興味で、本はたくさん読んだけれども、
髪の毛は長めでインドの袋を肩にかけ、
皮のサンダルをはいて大学に通い、
それほどまじめに授業にもでなかった。
大学4年の後半になって、父から、
「おまえは卒業したら何をしたいのか」と問われて、
「この世の本質が知りたい」と答えたら、
「大学4年にもなって、なにを馬鹿なことをいっているのか。
どこに就職するのかを聞いているんだ」
と、言われたことをおもいだす。
答えにきゅうしていると、とうとう父がいった。
「おまえのような性格の人間は、社会に適応できないから、
大学にでも残って先生になったらどうだ。」
しかし、たいして勉強をしていなかったから、
修士を受けて落ちて浪人し、
その春に、初めて海外を一人で旅した。
いまから40年ぐらいまえ、1970年のころだ。
それが、初めて飛行機というものにのった体験で、
旅の計画は、すべて一人でたてた。

たった一人で飛びたって、
初めておりたった場所はチェコのプラハ、
そこから旧東ドイツに入っていった。
ミンダナオもそうだけれど、
若いころ、人生を自らあゆみ始める前に
一人で見知らぬ国を旅する経験はぜひしたらよいよ。
「プラハの春」直後のチェコで、
うっかり車で軍用地に迷い込み
共産軍につかまって、「一歩も車から出るな!」
その後、尋問を受けたりした経験もあるけれど
別に悪いことをしているわけじゃなし、
怖いとは思わなかった。
「何でこのような場所に入ってきたのか!」
「ドイツ文学を学んでいたので・・・」
「写真を撮ったか!」
「撮りました」
「何を撮ったか!」
「牧の牛を撮りました」
「ハッハッハッ!許してやろう」
そして、2台の軍用バイクに先導されて
軍用地を後にした。

修士入学に落第し、浪人中に
恩師でゴッドファーザーでもある木村直治教授
特別にドイツ語の集中学習をしてもらい、
翌年なんとか修士に入り2年後、
修士論文は書いたものの、
修士終了のときに教授にいわれた。
「君は、論文はよいのだが、学者への道はどうかなあ。
大学教師には向かないと思うよ。
どうみても、野人だからな。」
「野人?」
野人とは、どういう意味だろうと、今もときどき考えるけれど、
おそらくアウトサイダー、組織に属することのできない、
まあいってみれば、社会の落ちこぼれ、
という意味だったと思う。
僕自身も、大学の研究室に閉じこもって仕事をしても
何だか満たされる人生じゃないなあ・・・
と、感じていたから、その後もあちこちの大学で
非常勤講師で教えたけれど
教授になりたいと思ったことは一度もない。
組織に適応できない落ちこぼれ・・・。

でも、そんな人生もあっていい?
今の日本の学生たちの70パーセントが落ちこぼれて、
世界に散らばって、
生きることをそこから学んで帰ってきたら、
日本の将来も明るくなるかもしれない?


 小学校のころ
ぼくの人生でいちばん楽しかったときの一つが、
小学校のころだろう。
小学校になると童話も読んだけれども、
読書よりも何よりも楽しかったのは、
学校がひけると友人たちと、
近くの公園の池や川で、
カエルやカニやザリガニをとったり、
木登りをしてカブトムシやクワガタをつかまえたりして、
ほんとうによくちまたで遊んだことだ。

いくら絵本を読み聞かせしてもらっていても、
読書体験が豊富でも、
それは単なる表面的な言葉の世界、
真の言葉は、その中に宿る魂で、愛と友情。
たとえ学校や塾に通ったとしても、
「何とか教室」にかよったとしても、
それも単なる知識の世界、
ちまたでなかまと遊ぶ友情の体験がなければ、
いまの自分はないだろう。
なにしろ小学校4年生まで、
通信簿もない期末試験もない
自由な雰囲気の学校
(註・小学校は明星学園)だったから、
学校のなかでも、ひまさえあれば友だち達と、
缶けり石けり鬼ごっこやかくれんぼをした。
下校時間になり、学校から外に出ればいよいよ本番!
いかだを作って川下りをしたり・・・。

そのことをおもいだすと、
自分がミンダナオの子どもたちと似かよった、
子どもが子どもでいられる子ども時代を
過ごせたようにおもう。
当時のぼくのいっていた学校の方針も、
他校とはちょっとかわっていて、
勝ち負けを重視するバスケットなどのゲームより、
伝統的な自由遊びを重視して、
朝礼のあとにはフォークダンスなどをして、
競争よりも、友だちづくりを優先させる教育方針だった。
おもいおこすと授業の方法も、知識のつめこみではなく、
じぶんで考えることを大切にさせていたことがわかる。

数学の松井幹夫先生は、
たとえば2×0は、なぜ0なのか?
子どもたちに問いかけた。
リンゴが2つあったとして、それに0をかけると、
なぜあったリンゴが無くなるのか?
0っていったい、何だろう?
それを子どもたちに問いかけて、
自分の力で考え発表させる。
理科の遠藤豊先生は、
水素と酸素を結合させると水になるけど、
どうして水にかわるのかを、
一週間グループ討議して発表させた。
想像力だけで考えるから、
子どもたちは奇想天外な説をたてて発表する。
まちがっていてもよいから
「自分の力と想像力で考える」ことを評価し優先させた。
しかし、なによりも影響をうけたのは、
5、6年生の担任で国語の教師だった無着成恭先生。
当時のぼくにとっては、
父親いじょうに父親のような人だった。

お坊さんから教師になり、
教師から晩年ふたたび、
お坊さんになられた方だけれども、
ランニングシャツに腰手ぬぐいをさげた東北スタイルで、
東北訛りをいれながら、国語の授業をすすめていった。
ラジオの「子ども電話相談室」にも
でていらっしゃったが、
いまでも訛りのある声が、なつかしく耳にきこえてくる。
授業の進めかたもどくとくで、知識をつめこむのではなく、
つねに子どもたちに質問をして問いかけて、
その発言をもとに文学の
深いながれをとき明かしていった。
無着成恭著『無着成恭の詩の授業』(太郎次郎社)
チェック
子どもたちに質問を問いかけると、
80%ぐらいのおおぜいの子どもたちが、
いっせいに手をあげた。
ハイ!
ハイ、ハイ!
ハーーーイ!
ハイ!
たちあがって手をあげる子もいて、その熱気はすごかった。

お昼休みで弁当をたべていると、
教室にこられて本を読んでくださった。
いまも思いだすのは、
『ヴィーチャーと学校ともだち』
(註・岩波の児童文学全集から)。
成績よりも遊びを重視して、
学校のなかでも休み時間になると、
カンケリや鬼ごっこ、コマ回しや縄跳び、
馬乗りごっこやはないちもんめ。

教育学者の意見によると「はないちもんめ」は
勝ち負けで排除するのがテーマの遊びだから
「良くない!」と言っているそうだが、
頭で考え、実体験がない専門家思考・・・?
はないちもんめは、生活のなかで起こりえる排除を
遊びに変えて楽しむことで、
最後は大笑いして、みんな一緒に友情のなかで
手を取り合う事がテーマなのだが・・・。
「遊び」における勝ち負けは、
上からのやらせで行うゲームの勝負とは、
根本的に違って
最後は、お互いに友情の中で
一つになるのが目的の世界。
伝統的な遊びを、いくら頭で分析しても、
実体験が無いと、その本質は理解できない?

当時の明星学園は、校外教育もさかんで、
理科では「散歩」という授業があって、
田んぼのあぜを歩きながら、
生態系を教えてもらったり、
体育になると井の頭公園までいって
林のなかで陣取りをして遊んだりした。

絵本も読んだけれども、いま考えると、
あの外遊びの体験があったからこそ、
いまの自分があるようなきがする。
それにしても、当時もっとも印象的な
良い教育をしてくださった先生方
無着成恭、松井幹夫、遠藤豊といった先生方が
その後、明星学園を辞めさせられて
いかれたのには、驚いた。
当時は、すでに公立の高井戸中学にいたけれど、
排除の理由は、後で聞こえてきた。
「受験競争を中心とした、今の時代教育理念に
合わないから追い出されたんだよ」
その後急速に、
青少年の引きこもりと自殺の時代が訪れた?
でも、アジアの子どもたちのなかには、
かつて日本のちまたにあったにもかかわらず、
今は失われてしまった友情と愛が生きていて、
行き詰って悩んでいる
日本の人々の心を救ってくれる。

わたしの少女時代の
思い出から
 
エープリルリン
妻、エープリルリンが書いた、
自分の幼いころの事の一部を、
本人の希望と了解でここにのせます。
いま彼女は、自分の人生を書き始めています。

GO!

1985年4月20日、わたしは兎口で生まれた。
5人兄弟姉妹の2番目。
わたしが生まれても、母さんは、
わたしを自分の子どもと思ってくれなかったし、
何の世話もしてくれなかった。
おばさんが、めんどうを見てくれただけ。
普通とちがう顔で生まれたから、
それからあとの人生でも、さんざんいじめられて育った。
でも、恥ずかしいとは思わなかった。
それどころか兎口で生まれたことを誇りにおもった。
兄弟姉妹のなかでも、ユニークな顔立ちだから。
しかし、思った以上に人生はきびしく、
そう簡単ではなかった。
「なぜ、わたしの顔はこんななの?」
「なんで、こんな顔になってしまったの?」
五歳になると、母さんがわたしを嫌っているのが
よくわかった。
母はわたしと目をあわせたくなかったし、
わたしが抱きつくと叫んだ。
「あっちへ、いけ!」
母がやってくると、わたしは、
あえて台所で働いたり、井戸から水をくんだりした。
いつもの習慣で母がお酒を飲んだときは、
なんの過ちもしていないのに怒鳴られた。
母は洗濯女で、父は農夫。
山から父は、月に1度か2度しか家に帰らず、
母はまいにち夜おそく家にもどり、
それからあとは飲んでいた。
小さいころから母さんをよろこばせ、
家族を助けるために家事をしたから、料理はじょうず。
でも、ほかの子たちと遊ぶひまはなかった。
わたしたちは、海のそばにすんでいた。
だから、貝をみつけておいしいスープも作った。
母さんは、朝早く5時には起きて頭をかかえると
「いたい、いたい」とうめいていた。
その日、わたしは前日食べた貝のせいか、
ぜんそくの発作で起きられなかった。
すると、母さんは、わたしのところに来て、怒っていった。
「起きなさい!まだ寝ているの!はやく、起きなさい!」
母さんは、わたしをつかむと、
家の入りぐちまで押しやって、外になげだそうとした。
わたしは、あわてて、母の服をつかんだ。
それを見たおとなりさんが、すかさずさけんだ。
「自分のむすめに何ということをしているの!
頭がおかしいんじゃない!あんた、娘を殺すつもり!」
おおきな叫び声に、隣近所のひとたちが、家からでてきた。
それを見て、母さんは、
わたしを外においたままドアを閉めた。
その後、おばがわたしを引き取って、数ヶ月そこですごした。
そのごも、親戚から親戚へとたらい回しに回されて、
一年たって家へもどった。
わたしは、小学校に行きたくてしょうがなかった。
一年生になれることに、興奮していた。
友だちには、クラスメートになる子もいた。
でも、予想したとおり、彼らは、
わたしを「兎口!」といって、ばかにした。
それでも、わたしはそれを受け入れて、
かえって勉強に精をだしたので、クラスでトップになった。
でも、両親は、表彰式の日にはこなかった。
わたしがクラスでトップになって、授賞式の日がいつか、
知っていたのに。
下の妹がわたしを呼んで、
人混みのなかをいっしょに両親を探したけれど、
どこにもいなかった。
しかたなく、わたしはひとりステージに立ち、
リボンとメダルを受けとった。
涙がほおを伝わって流れるのを感じた。
家に帰ると、家のなかの様子がおかしくて、
そっとカバンとメダルをテーブルにおくと、
バケツを持って水くみにいこうときめた。
そとにでて、家の扉をしめようとしたとき、父にあった。
父は、わたしを家におしもどした。
中にはいると、メダルとリボンは、
めちゃくちゃになりこわされていた。
わたしは、泣いた。
その夜、母は弟と妹をつれると家を出ていった。
姉は祖母のところにいき、わたしは、下の妹と残された。
その後、父も友だちと仕事をさがして
どこか遠くへ行ってしまい、
わたしは下の妹と叔母の家に住むことになった。
 


阿部幼稚園のお母様方から
講演会の感想

阿部幼稚園のお母様方から、
講演会の感想がとどきました。
自然な森で子どもが遊べる、
すてきな幼稚園ですね。
園長先生も子どもが大好き。
ミンダナオ子ども図書館と
どこか通じるものを感じました。

・自分を育む、愛の話がよみがえった。
 忙しい中、本を読んでくれた父の話。
 読めるようになってから聞いてもらって褒めてくれた母。
 我が子と本をよむ楽しみがさらに深まった。
・松居友さんの「サンパギータのくびかざり」の
 読み聞かせが心に残った。
 
 「愛は死を超えたもの」という友さんの言葉が心に響いて、
 自分の読み聞かせのときに役立てようと思う。
 ランチ会のとき、奥様のことも聞けて
 温かく本当によい会だった。
・「母の愛、父の愛は永遠の力である」という
 言葉が心に響いた。
・松居友さんの読み聞かせが印象的だった。
 「サンパギータのくびかざり」を息子に読んであげると、
 死への興味を感じているようだった。
 息子のその姿を見たり、ミンダナオの子ども達、
 奥様のお話を聞いていると、
 人は何歳でも学べて伸びていける、
 という人間の可能性を感じた。
・子守歌を歌えるということは、
 歌ってもらったということ、という気づきが嬉しかった。
・人間同士の関わりが大切だと思った。
 本、物語そのものに力があるというより、
 愛情を込めて読む体験の重要さを感じた。
 友達と明日も遊びたい!
 と思うから生きていたいという力。
 改めて気づかされた。
・人柄にじみでるニコニコ楽しそうに話す松居友さん。
 ミンダナオの子ども達の力、語る力、
 想像力の素晴らしさに圧倒された。
 自分の子の想像力を大切にしようと思う。
・ミンダナオ、友情、コミュニケーション・・・が印象的だった。
 昔話、絵本による愛情。
 自分の受けてきたものを、
 今の子ども達にも伝えてあげたい。
 ミンダナオ図書館のお話は、
 自分のできることは何だろう?と考えさせられた。

・「忙しいから後でね」というのを改めたい!
 絵本に始まり、たくさんのお話が伺えて、
 とても素晴らしい講演会に参加できてよかったです。
・世界の話が聞けて視野が広がった。
 子守唄、絵本・・・自分はできているか。
 子どもは子どもらしく生きる環境ができているか。
 どうやったら愛情を伝えられるか。色々と考えさせられた。
・奥様の笑顔が印象的だった。
 ミンダナオの現状のすごさの中での
 松居友さんの頑張りに、真実をみつけ、
 そこに人生をかける美しさを感じた。
 自分自身も自分なりの真実をみつけたいと思う。
 
・「心のつながった中で生きている」
 という言葉が心に響いた。
 見えないものがある世界は、想像する力のある世界。
 そんな世界は、互いを思いやり繋がれる。
 昔話などの「語り」がその力を育む。
 いつかこの時間を思い出して欲しいという気持ちで、
 我が子と接するようにしていきたいと強く思った。
・「夜、爪を切らない」「口笛をふかない」など、
 昔からの見えないものに対する考え方を
 普段から生活に取り入れるようにしている。
 そうすると、子どもの反応も、
 その世界に生きているのがわかる。
 松居さんのお話を聞いて、
 共感できるところがたくさんあった。
・にこにこ話す松居友さんが印象的だった。
 「見えないものが見える」。
 忘れかけていたものを思い出した。
 我が子に伝えていければと思う。
・自分のできる小さな一歩から何かはじめようと思う。
 子どもにも見せていきたい。
 奥様の生き生きとした生き方に感動しました。
 お話が聞けてよかったです。
・ミンダナオの大変さと違って、
 にこやかに話す松居友さんの人柄が伝わり、
 心温まる、いい講演会でした!
 子ども達と奥様の力が、
 友さんを支えているように思いました。
 「物」の豊かさと比例しない「心」の豊かさ・・・
 にはショックです。
・「生きる力」。友情や人とのつながりを大切に、
 そこから始めようと思う。
・日本とフィリピンとの子ども達の置かれている
 現状があまりにも違いすぎて愕然とした。
 世界にはこうした状況の中で生きている
 子どもがいる事実を忘れずにいたいと思う。


ミンダナオ子ども図書館の
庭で遊ぶ子どもたち


 
 
家を建て・・・

バライバライ遊び
家を作って遊ぶ子たち

ここから家族の気持ち
友情の気持ちが培われる
子どもたちのために、
たき火をして、
お料理をする
お母さんの役目。
普段の食事も、
毎日子どもたちが
4時半に起きて、
薪で作っているから
お手の物
   

実の娘の姿も見える
いっしょに
育っているから
友情を心底
体験しているから
それが生きる力
 

妖精の家の岩で
語り合う子どもたち
妖精の話を
しているに違いない
 
 
 
 
親が死んだり、殺されたり
バラバラになったり
様々な悲しみを体験した
子たちだけれど
わたしたちは、MCLで
皆兄弟姉妹
イスラム教徒も
キリスト教徒も
先住民の皆一つの家族



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