ミンダナオ子ども図書館の創設ディレクター:松居友(日本文芸家協会会員)の活動日記

ミンダナオ子ども図書館日記
     
 ミンダナオ子ども図書館のミッション 理事、役員、スタッフ 活動の概要を紹介
 
目次
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ミンダナオ子ども図書館だより
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ミンダナオ子ども図書館日記      
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スカラシップや訪問希望、また種々のご質問やお問い合わせは
現地日本人スタッフ宮木梓(あずさ)へ
 
mclmidanao@gmail.com
 
メールニュース希望 松居友メール
mcltomo@gmail.com

著書の印税は、ミンダナオ子ども図書館に寄付しています
写真をクリックしていただければ、購入サイトに移行できます
 
新刊ご案内(今人舎)
 
 
この絵本の避難所になっているカルボガン小学校は、ミンダナオ子ども図書館が、日本政府のODA
草の根文化無償資金協力で建てたイスラム自治州ARMYの小学校
です。
ミンダナオのイスラムの子供たちの本当の姿を伝えてくて、書いたものです。
偏見が世界に蔓延しているのが、子供たちにも可愛そうで・・・。
 
上の絵本写真をクリックして、購入サイトに移行可能!
 郵便振り込みは以下へ

支援申し込みメールで
ご住所を送っていただければ、
会員登録をして年6回、
季刊誌をお送りします。

郵便振替口座番号
00100 0 18057
口座名:ミンダナオ子ども図書館

振り込んだ後に、宮木梓あてに
メールをいただければ幸いです。

mclmindanao@gmail.com
(以前のアドレスも有効です)
 
サイトからクレジットカードを使っての
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以下のボタンをクリックして
ミンダナオ子ども図書館:日本事務局
「ご支援について」サイト

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銀行名:ゆうちょ銀行
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店番:019 
預金種目:当座
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口座名:ミンダナオ子ども図書館
一般の金融機関からの振込もOK

振り込んだ後に、宮木梓あてに
メールをいただければ幸いです。

mclmindanao@gmail.com
(以前のアドレスも有効です)
 
インターネットバンキングも可能です
 ミンダナオ子ども図書館の外部監査師による
2016~17年度:会計報告へGO! 

フィリピンの特定非営利法人:ミンダナオ子ども図書館は、厳格な会計や活動の意義が認められ
北コタバト州からフィリピン政府直轄のNGOに認定されました
 
会計報告へGO!

 




『手をつなごうよ』(彩流社)から、所々抜粋


ミンダナオ子ども図書館の設立の経緯を描いた、
ヤングアダルト向けの本『手をつなごうよ』(彩流社)から、
所々抜粋して写真といっしょに掲載しますね。
本当は、原本を読んでいただける方が、良いのですが。
{彩流社「手をつなごうよ」購入サイト
購入サイトにGO!
でも、売れることよりも、文章や写真から何かを感じていただくことが、
書き手としては大事なので、全文掲載は無理ですが、
ところどころ抜粋して掲載していきますね。

 
































 
第一章、ミンダナオ子ども図書館ってどんなところ?
  1、おかえりなさーーーい!

第一章、ミンダナオ子ども図書館ってどんなところ?
  1、おかえりなさーーーい!

ミンダナオ子ども図書館は、緑の果樹園にかこまれたマノンゴル村のなかにある。
そこからは、フィリピンの最高峰、2945mのアポ山がのぞめる。
その山麓の高原にある学園都市がキダパワンで、マノンゴル村はその町の外れにある。
小さな村の教会のまえを通り、小さな灌漑水路をわたり、デコボコのわき道をはいっていくと、鉄格子の大きな扉の前に立つ。
その右側に看板がかけられていて、(Mindanao Children's Library Foundation, Inc.)と書かれている。
うしろには白い幹をした2本の大木が、なかよく、くっついて生えている。
見あげると、おいしげった緑の葉ごしに、手のひらぐらいの大きさの赤い花たちが、炎のようにたくさんあつまって、まっさおに広がる熱帯の空にむかって咲きほこっている。
ミンダナオでは、ファイアーツリーとよばれている、ゆうめいな火炎樹だ。
正面の門の扉をあけてなかにはいると、りょうがわにはヤシの木と花壇がつづき、女の子たちが楽しくおしゃべりしながら、花壇の手いれをしている。
左側には、コンクリートでつくったお米の干場がひろがり、男の子たちが、水田でとれたモミ米を手作業でひろげて干している。
年上の子たちにまじって、小さな子たちも、素足でモミ米をいっしょになって広げている。
雨がふると、コンクリートはつるつるすべる。
そういうときには、子どもたちは大喜びで雨のなかにとびだしていき、すっ裸になってすべって遊んでおおはしゃぎする。

(中略)

正面の門の扉をあけてなかにはいると、りょうがわにはヤシの木と花壇がつづき、女の子たちが楽しくおしゃべりしながら、花壇の手いれをしている。
左側には、コンクリートでつくったお米の干場がひろがり、男の子たちが、水田でとれたモミ米を手作業でひろげて干している。
年上の子たちにまじって、小さな子たちも、素足でモミ米をいっしょになって広げている。
雨がふると、コンクリートはつるつるすべる。
そういうときには、子どもたちは大喜びで雨のなかにとびだしていき、すっ裸になってすべって遊んでおおはしゃぎする。

(中略)

木の手すりからは、アポ山が望める。
子どもたちは、山から果樹園をこえて吹いてくるそよ風にほおをうたれながら、ポーチで絵本を読み、学習し、歌ったり踊ったり、ハンカチ落としをしたり、ときにはならんで昼寝をしたりしている。
土曜の夜には映画を上映会もあるよ。
これらの二階建ての長屋は、すべてぼくが、なるべく壁をつくらない、ボルネオの伝統的な集合住宅にヒントをえてデザインをした建物だ。
ぼくと妻のエープリルリンが、訪問者といっしょに帰ってきて、母屋にちかづいていくと、ポーチから見下ろしていた子どもたちが、おおごえでさけぶ。
「わーい、かえってきた!」
「かえってきたよ!」
「パパ友が、かえってきた!」
「ママエープリルが、かえってきた!」
するとあたりいったいで、ワーーーーッという歓声がおこり、ポーチの子たちは二階からかけおりてくるし、庭で遊んでいた子たちも大喜びでかけよってくる。
こんなにたくさんの子どもたちが!と思うほど、おおぜの子どもたちだ。
「おかえり!」
「おかえり!」
「おかえりなさーーーい!」
そうさけぶと子どもたちは、すごいいきおいで抱きついてくる。
ぼくと妻のエープリルリンは、そうした子たちを心からぎゅっと抱きしめる。



12月12日(火)栃木にて講演予定 
  




2018年の日本公演 


 ミンダナオ子ども図書館では、今年の春に、2ヶ月にわたり、日本で先住民、ムスリム(イスラム教徒)、クリスチャンの踊りと歌の公演をしました。
 幼稚園から大学生にいたる、日本の若い世代との交流。そして、お寺の境内や教会や民泊で泊めていただき、中高年の方々とも、想像以上の感動的な交流が出来ました。

 日本の皆様方が、宗教や部族が違っていても、兄弟姉妹一つの家族となって歌い踊る、ミンダナオ子ども図書館の奨学生たちのようすに、想像以上の驚きと感動を示されるのを見て、この活動は、現地の若者たち、そして日本の青少年や中高年の方々のためにも、毎年続けていこうという、強い気持ちになりました。

 来年も、4月10日~6月10日を視野に、MCLの奨学生たちが日本各地を回って、ミンダナオの伝統的な踊りや歌を披露することになりました。
 来日するメンバーは、子どもの場合は、ビザの取得が難しく、比較的容易な17歳以上にして、パスポートやビザの準備を進めています。

 
 
   
来日予定の奨学生とスタッフ10人を紹介します。



 


 奨学生

1. Jamaica M. Sakib(女性)15歳 マギンダナオ族




 アッサラーム・アライクム!
 私の名前はジャマイカ。マノンゴル高校の
2年生で、イスラム教を信仰しています。出身はピキットのブロッドで、小学校を地元で卒業してから、MCLの寮に移りました。実家から地元の高校が遠いからです。
 私は、
2013年に母をシリアの戦争で亡くしました。出稼ぎで家政婦として働いていて、戦
闘に巻き込まれたそうです。母は、私が小学校に上がる前にシリアに行ってしまったので、もう顔も覚えていません。でも、2年前に父が再婚し、私も新しいお母さんが大好きなので、あまり寂しくありません。
 家族と離れて暮らして家が恋しくなることもありますが、
MCLでの生活も、とっても楽しんでいます。ハウスペアレントさんがすごくいい人だし、いつも友達が冗談を言って笑わせてくれるから。勉強を続けて、将来は看護師か先生になりたいです。
 8
月に、MCLのみんなでミス&ミスターコンテストをしたときは、私をミスMCLに選んでもらえました。その時に、私たちマギンダナオの伝統的な衣装で、踊りも披露しました。
 今回、日本でも私たちのダンスを見てもらえるのがとてもうれしいです。マノボやビサヤのダンスを練習するのもワクワクするし、他の民族の友達に、私たちのダンスを教えられるのもうれしい。
 
MCLの歌では、「サンキュー」が一番好きです。友達に、友情や、自分と一緒にいてくれたこと、助けてくれたことを感謝する歌です。日本でも、たくさん友達をつくりたいな。それから、サクラや雪、大きなビルやきれいなお家をみたいです。日本のふりかけとチョコレートと、鶏肉も食べてみたいです。
 日本は、戦争がなくていいな、と思います。そして、私を支援して下さっている方に会って、ありがとうと言いたいです。

 



2. Richard B. Rutang(男性)20歳 マノボ族





 僕の名前は、リチャード。キダパワン高校の6年生で、キダパワンの町にあるMCLの寮に寄宿しています。
 出身はアラカンのラナオコラン村のキロハスで、信仰はプロテスタントです。小学
5年生の時に、MCLの奨学生になりました。同じキロハス出身のピティボーイさんが、高校や大学を卒業したのを見て、僕も勉強を続けたいと思ったんです。もし、僕が高校を卒業できれば、キロハスで2番目の高校卒業生です。
 来年の
4月に高校を卒業したら、南ミンダナオ大学キダパワン校で、電気工学を学びたいです。将来は、電気技師になるのが夢です。
 僕は
6人兄弟の長男なので、就職して、弟や妹も、高校や大学で学ばせてあげたいです。
 両親は、キロハスでお米とバナナとゴムを育てています。お米は山で育てる陸稲です。それらを売って現金を稼ぎますが、安く買われるので、僕たち兄弟の学費には足りません。うちは竹とニッパ椰子でできた家に住んでいるし、ご飯も時々
3食食べられません。でも、僕もピティさんのように、キロハスの子どもたちが勉強を続けたくなる様な見本になりたいです。
 日本に行くメンバーに選ばれて、思わず飛び上がってしまうほどうれしかったです。日本では、僕たちマノボの文化や、僕たちの暮らしを紹介したいし、日本の子どもたちの生活の様子も知りたいです。お互い、いい友達になれたらいいな、と思います。
 新しい体験をたくさんできるという期待でいっぱいです。日本に招待して下さる皆様や、公演を手伝ってくださる皆様、
MCLを支えて下さっている皆様に、感謝を伝えたいです。

 



3. Honey Lee A. Caligid(女性)19歳 ビサヤ族




 ハーイ!私はハニーで、マノンゴル高校6年生です。来年の4月に卒業予定で、今は卒論を制作中です。とても難しくって頭が痛くなっちゃうけど、勉強は楽しいです。
 高校を卒業したら、南ミンダナオ大学キダパワン校で経営学を学びたいです。将来は会社で働きたいの。私は
8人兄弟の4番目で、弟や妹たちにも勉強を続けてほしいから。
 私の父は、私が
13歳の時に銃で殺されました。私の故郷はマキララのマロンゴンで、父はバナナを育てていたけど、近所の人に売ったバナナのお金を返してもらうように言ったら、撃たれてしまったんです。その日は、私がMCLの奨学生に採用された日の夕方だったから、とてもよく覚えています。
 私の兄と、
2人の弟、1人の妹もMCLの奨学生で、私が小学6年生のときから、MCLの敷地の中にある家に、母と兄弟で暮らしています。私はMCLの寮に住んでいないけど、MCLにいるスタッフや奨学生たちはまるで家族の様で、とても楽しいです。
 父が死んで、母も仕事がなく、私も母と上手くいかないこともあったけど、夢をあきらめていません。辛い経験があっても強くいられるし、笑っています。
 日本では、特に私たちの伝統的なダンスを見てもらいたいです。そして、私も日本の伝統に触れたいです。着物を着たり、温泉にも挑戦してみたい。服を全部脱ぐんでしょ!食べ物は薄味だって聴いたけど、フィリピンにないものを食べてみたいです。トイレにも、バケツとひしゃくがなく、ボタンを押して水を流すそうです。水の流し方が分からなかったら、どうしよう!
 不安もたくさんあるけれど、新しい体験や、新しい友達に出会えることを、楽しみにしています。





 

4. Adzmin M. Pakingan(男性)19歳 マギンダナオ族




 僕はアズミンといいます。イスラム自治区のマギンダナオ州パガロンガンのカルボガン出身で、イスラム教を信仰しています。バロンギス高校の4年生です。
 好きな科目はフィリピノ語で、苦手なのは数学。高校を卒業したら、南ミンダナオ大学カバカン校の教育学部で学び、将来は小学校の先生になりたいです。
 僕は
10人兄弟の上から4番目で、小さな弟、妹がたくさんいます。子どもたちが好きだし、一緒に遊ぶのも得意なんです。
 父は、トウモロコシを育てて売って、収入を得ています。母は、トウモロコシを手伝ったり、小さい弟、妹の子守りや、家事をしています。兄弟が多いので、家族全員が毎日お腹いっぱい食べられるだけの食料を探すだけでも大変です。
 僕は、小学
3年生の時に、小学校の校長先生に推薦され、MCLの奨学生になることができました。今まで勉強を続けてこられて、とても感謝しています。
 日本に行ったら、やっぱり子どもたちと仲良くなって、一緒に遊びたいです。日本は平和な国だと聴きました。
 僕たちの故郷はときどき紛争があります。避難生活はつらいし、その間学校も行けないから、平和な環境で勉強できる日本の高校生がうらやましいです。
 同じ世代の友達と、平和の大切さについて分かち合えたら、と思っています。

 




5. Menrose B. Landas(女性)19歳 マノボ族




 日本の皆さん、こんにちは!私はメンローズといいます。信仰は、プロテスタントです。ノースバレー・アカデミー大学の1回生で、エックス線技術を学んでいます。
 大学での勉強は、難しいけど楽しいです。大学を卒業したら、エックス線技師として病院で働きたいです。
 私はマグペットのボンゴラノン村の出身です。小学
3年生の時、学校をMCLが訪れ、先生が私を奨学生に推薦してくれました。私の兄弟が多かった(9人兄弟の上から6番目です)のと、授業に積極的に参加していたからです。
 両親は、山でバナナとハヤトウリを育てて収入を得ています。家でも、一日
3食ご飯を食べられます。両親も、兄弟も、私が大学で学んでいることを応援してくれています。
 今は、
MCLの寮に住んでいます。ルームメイトたちと過ごす時間は、とても楽しいです。他の民族の奨学生とも、お互いの夢を話したり、協力してご飯を作ります。友情の大切さを学びました。
 日本に行くメンバーに選ばれて、とてもとてもうれしいです。まさか、自分が選ばれると思っていませんでした。
 日本の皆さまに、私たちの文化や伝統を伝えられる、神さまが与えてくださった運命を感じました。日本でお会いできるのを、とても楽しみにしています。
 私たちの歌やダンスで、皆さんをハッピーな気持ちにできたらな、と思います。





 

6. Ricky L. Mundog(男性)26歳 マノボ族




 こんにちは!私の名前は、リッキーといいます。出身は、アンティパスのマグサイサイ村のプロック7で、プロテスタントです。
 アラカンにあるドロローマン科学技術大学の
4回生で、来年10月に卒業予定です。農学部で勉強して、専門はプランテーションで育てる作物、例えばココナツ、ゴム、アブラ椰子、パイナップル、バナナ、コーヒー、カカオ、サトウキビについて勉強しています。将来は、農業技術者か、ドールやスミフルなどプランテーションを経営している会社で働きたいです。
 
MCLの奨学生で、農業を専攻する学生は珍しいです。農家出身の学生が多く、小さい頃から仕事を手伝っているので、みんなは学校の先生になったり、会社で働きたいと言います。でも、私は大学で学んだ農業の技術を故郷の貧しい農民たちに伝えて、生活が良くなる助けをしたいんです。
 僕の父は、牧師でしたが
15年前に病気でなくなりました。何の病気だったかは、分かりません。
 母はその後再婚し、私は新しい父とも母とも、それなりに上手くやっています。私は
5人兄弟の3番目ですが、兄弟の中で自分だけが高校を卒業しました。
 日本での公演では、みんなが歌うとき、私がギターを弾きます。ギターは、故郷の友達に教えてもらいました。歌うことも、踊ることも好きです。

 MCL
の学生総会は、いつもとても楽しみです。特に6月のマノボデーは、他の民族の奨学生に自分の文化を紹介できるので、張り切ります。
 日本でも、たくさんの方に観ていただければいいな、と思います。日本は発展した国だと聴いています。実際に訪ねるのが楽しみです。また、自分を支援して下さっている方々に、お礼を伝えたいです。

 




7. Dina Marie T. Bade(女性)18歳 イロンゴ族




 私は、ディナマリー。イロンゴ族で、モルモン教徒です。出身は、プレジデント・ロハスのトゥアエル村のプロック6です。
 ノースバレー・アカデミー大学の情報技術科
3回生で、キダパワンにあるMCLの寮に住んでいます。コンピューターのプログラミングなど、パソコンを長く使って勉強するので、目が痛くなることもありますが、学校はとても楽しいです。放課後、友達とスマートフォンで、韓国のドラマをダウンロードして観たりします。
 大学を卒業したら、オフィスワークに就くのが夢です。
 私の両親は離婚して、父はゼネラル・サントスで働いています。今でも時々、お金を送って生活を助けてくれます。
 母は、マニラに出稼ぎに行き、子守りをしています。なかなかミンダナオに帰ってくることができないので、さみしいです。
 私が故郷の家に帰る時は、祖母のところに帰ります。家族がバラバラになってしまいましたが、それでも私は幸せで、毎日楽しんで生活しています。友達やクラスメイトが、いつも私を幸せな気持ちにしてくれるからです。

 MCL
の寮で、違う民族の子たちと過ごすのも楽しいです。日本の皆さんも、いつも幸せでいて下さいね。
 
4月に日本の公演に参加できることになって、とても興奮しています。サクラを見てみたいんです。日本では、私たちの伝統的なダンスをぜひ見て下さい。一生懸命、練習しています。

 


8. Alparapy A. Awal(男性)19歳 マギンダナオ族




 僕の名前はアルパラピー。パガロンガン州のブリオク村サパカンの出身でイスラム教徒です。
 ピキット高校の
6年生です。学校では、たくさんの知識を得られるので、とても楽しんで勉強しています。来年高校を卒業したら、南ミンダナオ大学カバカン校の教育学部で学んで、将来は高校の先生になりたいです。
 子どもたちに麻薬を使わないよう怖さを教えたいんです。僕たちのところでは、隠れてマリファナを育てて売っている人がいます。葉っぱをタバコのように吸うのですが、高校生でも買えるほど安いんです。
 子どもたちの将来のために、教育はとても大切だと思います。それに、先生になれば家族を経済的に楽にできます。
 僕の父は、川で川で魚を採ることを生業としていますが、現金収入は少なく、僕たちの学費を払うことが難しいです。
 母は、父を手伝ったり、家で洗濯や炊事をしています。
 僕は
5人兄弟の上から3番目です。僕が小学4年生の時、MCLがサパカンを訪ねて、調査をし、奨学生に採用されました。 
 僕は、ダンスや歌があまり得意ではありませんが、日本で僕らの文化を紹介できる機会に恵まれ、一生懸命練習しています。
 学校の違うマノボやキリスト教徒のメンバーとも親しくなり、練習中はいつも笑っています。
 日本では、人々が一体どんな暮らしをしているのか、興味があります。僕らはイスラム教徒で、「豚肉を食べてはいけない」など、コーランに従って生活していますが、日本にはどのような風習があるのか、見てみたいです。




スタッフ 

1. Janisa W. Pandian(女性)23歳 マギンダナオ族



 私はジャニサで、イスラム教徒です。この6月からMCLのスタッフとして、医療支援を担当しています。
 本当は前回の日本公演に参加する予定だったのですが、パスポートの申請に時間がかかってしまって、間に合わなかったのです。大学では、コンピューターと電気工学を学びました。今の仕事は大学の専攻とは違いますが、ずっと
MCLで働きたかったので、とても楽しんでいます。
 病気やけがで困っている奨学生たちの手助けをできることは大きな喜びです。それに、マラウィの戦闘から避難している人々の支援にイリガンに行くこともできました。避難所でムスリムやマノボ、ビサヤの歌を歌っているとき、泣いているマラウィの人がいました。
 スタッフとして、人々を助ける仕事に関われるようになったのがうれしいです。それに、お給料で家族を助けることもできるようになりました。
 日本では、特に子どもたちと幸せな気持ちを分かち合いたいです。毎日忙しすぎたり、深刻に悩んでいる子どもたちを、少しでも笑顔にできたら、と思っています。
 
10月に入ってから、毎週土日に歌やダンスを練習しています。日本のたくさんの人々に観ていただけたらうれしいです。そして、支援のお礼を直接会って言いたいです。
 私の兄も
MCLの奨学生で大学を卒業できました。妹は、今、大学3年生です。
 私たちからの、大きな大きなありがとうを伝えたいです。

 



2. Pitty Boy G. Lanay(男性)25歳 マノボ族




 こんにちは。私の名前は、ピティボーイです。MCLのスタッフとして会計で働き始めて3年目になります。信仰は、マノボ族の神さま「マナマ」を信じ、伝統的なお祈りをします。
 出身はアラカンのラナオコラン村のキロハスという集落です。
10人兄弟の2番目に生まれました。父も母も元気で、山で働いています。
 
2010年にバナナのバイヤーが来るようになったので、その頃からバナナをつくっています。その前はトウモロコシを育てていました。今は、年に1回しかトウモロコシをつくっていません。
 私は、小学
12年生はパコパコ小学校、その後ミオカン小学校で学びました。昔はパコパコは小学2年生までしかなかったのです。学校はとても遠く、片道2時間かけて歩いて通っていました。
 高校はラナオコランで、寄宿するお金がなかったので、空き家に友達
5人で住んで通学していたときもあります。小学3年生から高校を卒業するまで、イタリアのファウスト神父の奨学生で、学校で使う文具や宿題に必要な模造紙などを買うのを支援してもらいました。
 高校を卒業後、奨学金がなくなり、
1年間実家でバナナやカカオ、コーヒーなどをつくるのを手伝っていましたが、MCLの奨学金のことを知り、応募しにキダパワンに出てMCLを訪ね、採用してもらえました。
 
MCLの奨学金でキダパワンのセントラルミンダナオ大学を卒業しました。大学では、経営学を学びました。村の人や両親は、私が教師になるのを期待していましたが、私の成績では教育学部に行けなかったのです。
 私はキロハスで、初めて高校、大学を卒業した子どもでした。今では、パコパコ小学校の卒業式の来賓に呼ばれ、スピーチをします。
 私が
MCLのスタッフになったのは、大学卒業後キロハスに帰ってもバナナなどをつくることしか仕事がなく、キダパワンに残りたかったからです。それに、同じマノボ族の奨学生たちに、教育の大切さを伝えたいと思っていました。山の人たちは、勉強を続けることをそんなに大切とは思っておらず、マノボの奨学生たちも、結婚して止めることが多かったからです。
 私は会計担当なので、ハウスペアレントやソーシャルワーカー、スカラシップ部のスタッフのように、子どもたちの悩みに直接関わることはありませんが、お小遣いの前借りなど、お金に関して彼らの相談にのっています。
 働き始めたときは、覚えることが多く大変でしたが、今ではずいぶん慣れて楽しんでいますし、自分の仕事が好きです。
 
MCLに来る前は、ムスリムやクリスチャンの民族のネガティブな噂を聴くこともあったけど、実際に共に暮らして、どの民族も同じだと気が付きました。MCLの寮にいたときは、彼らと一緒に過ごすことを楽しみました。
 日本でも、信仰や文化の違う私たちが一つになって歌やダンスを披露するのを見ていただけるとうれしいです。電車や飛行機に乗ったことがないのでドキドキしていますが、フィリピンにないものを見てみたいです。
 日本の皆様、どうぞよろしくお願いいたします。














































































































































































































































































































































































































































































































 




サンタマリアに
海の寮を建てよう
 
 

映像にGo!
 
 

不登校や悩みを抱えた若者たちがミンダナオ子ども図書館を訪れると、現地で貧しくても、笑顔で生きる子たちを見て感動し、未来への希望、生きる力がよみがえって来ることがわかりました。
 ミンダナオ子ども図書館(MCL)を訪れた日本の若者のなかのある子たちは、その後、大学に行きたくなって、頑張って何と大学に合格!ダバオの大学に留学予定の若者もいます。
 日本の青少年の自殺率は、事故死を含むと世界でも最高レベルですが、フィリピンの青少年の自殺率は、アジアでも最低レベルです。
 日本の人たちが、貧しくても友情と愛のなかに生きている、ミンダナオの漁村や山村の子たちに出会い、生きる力をもらって帰る様子を見るにつけて、MCLでは、場所がダバオ州に属して危険度が低く、ダバオ空港からもそれほど遠くないサンタマリア市に、現地の孤児たちを受けいれるための海の寮を建てて、同時に日本の方々、特に青少年が滞在して心を癒やせる場所にしたいと思ってきました。
 そして見つけたのが、小さな半島の先端にあるクラクシンという名の小さな漁村です。



 すでにMCLでは、先住民の住む山に、男子寮と女子寮を作っており、キダパワン市にも大学生の寮があり、孤児や崩壊家庭や極貧で3食たべられず学校まで遠くて通えない子たちが住んでいます。
 本部に住んでいる80名を加えると総計で200名ほどの子供たちが、皆さんのおかげで安心して生活し学校にも行けているのです。
 寮には、スタッフが常駐し、子供たちや訪問者のお世話もしていますが、今回、海の寮が出来ますと四つ目になります。
 それでも、海の寮を作ろうと思った理由は、美しい海とリゾートとは異なった素朴な漁村人々の生活が、日本の若者たちに想像以上に生きる力を回復するための、良い体験になっていることが解ってきたからです。
 現地の子たちだけではなく、日本の子たちや中高年の訪問者も視野に入れた試みです。
 映像は、村のようすです。
 寄付を下さった方々の名前は、ボードに掲載して残します。
 宿泊費はとりません。
 子供たちに会いにいらしてくださいね。

ご支援についてのサイトへへGO! 
ご支援の方は、メールに「海の寮支援」と記録して、宮木梓さんにメールを送ってください。














  

   バナナプランテーションの事
 


まにら新聞ウエッブで、
以下の記事が出ていました。
ミンダナオ子ども図書館の活動している地域です。
一日本人として、複雑な気持ち。
日本企業も、アジアの底辺で起こっている人々の状況や問題を、しっかりと見つめて活動していかないと・・・。

***********************



 人権擁護弁護士団体の「IDEALs」はこのほど、首都圏ケソン市で記者会見を開き、ミンダナオ地方でバナナ農場を営む農家が日系大手商社系のスミフル社など大手農業企業と不当な契約を余儀なくされ、搾取されていると訴え、契約見直しや労働条件改善を通じてバナナ農家を大企業から守る法律の早期制定を求めた。

 IDEALsダバオ支部のフロリアノ・モレタ氏によると、ミンダナオ地方では主に日本に輸出されるバナナが生産されており、生産に従事する約20万人が最低賃金以下で働いている。モレタ氏は生産者が貧しい理由について「大企業にのみ有利な契約を一方的に結ばされているから」と指摘した。特に生産者が、農産物の買い取り価格設定について関与できないなど、生産者に不利な契約内容になっているケースが多いとしている。 

 IDEALsのアービン・サガリノ弁護士は、大手農業企業と農家が結ぶ契約について(1)契約時に十分な説明がない(2)15年から30年にわたる契約が自動更新される(3)価格決定権は会社が独占(4)出荷後の生産物に対する責任も農家が負う―など問題点を指摘。

 IDEALsは農家からの訴えを受け、スミフル社に契約内容見直しを求めているが、スミフル社は交渉を拒否しているという。サガリノ弁護士は「状況改善のためには農地改革省による契約審査が不可欠」と述べ、小規模農家の権利を保障する法律の早期成立を訴えた。(遠藤美波)

http://www.manila-shimbun.com/category/society/news233672.html

 













 




徒然な想いから 
 

神父や修道士のように、一人ではなく、ぼくたちのように家族で子どもたちを助けていくのも良いし、いままで行ってきましたし、これからもそうでしょう。
先住民も、イスラムもクリスチャンのスタッフたちも家族で活動しています。
そういうスタイルもあって、多様で良いと思います。
エープリルリンも藍花も舞花も、奉仕にとっても理解があって、何よりも子どもたちを愛していて、大好きだからだいじょうぶ。
でも、ミンダナオでの心配は、ぼくだったら誘拐されても、殺されても良いけれど、妻子が誘拐されるとつらい。
そう考えると、家族を持たずに命を人にあたえられる、神父や修道士は、いいなあと思いますね。
家族を守る心配がないから、うらやましい。
「私についてきたければ、家族も財産も全て捨てなさい」と、イエスがおっしゃった意味は、わかる気がします・・・。
財産は、ほぼ捨てているような状態で、今のぼくの個人の全財産は、80万円あるかなあ?
本の印税もすべて、MCLに寄付しているし。
MCLは、みんなで大きな一つの家族!
でも、妻子が誘拐されて、身代金を要求されたらどうしよう。
現地の人々は、ぼくが大金持ちだと思っているし・・・。
300人以上のたくさんの子どもたちを、学校に行かせ、養っていてあげているから。
でも、会社で働いていた経験から言えることは、「利益」は会社の物。
しかし、寄付というのは、子どもたちのための預かり金であって「利益」じゃない。
子どもたちの物。
最小限の生活のために、月給を6万円、妻と合わせて12万円もらって生活。
今は日本と深く関係し始めた今後のMCLのことと、老齢で何とか側にいてくれないかという両親のこともあり日本に滞在。
私立は無理だから、娘たちは公立学校にかよって、貧困世帯の保護を受けていますが、それなりに友だちが出来てうれしくて、日本も捨てた物ではないと思います。
現地のスタッフには、ぼくが身代金を要求されても、一銭たりとも払わないように言ってあります。
個人のお金じゃないからね。
スタッフも自立してきているから、MCLは、ぼくがいなくなっても大丈夫でしょう。
皆さんのご寄付は、守られますよ!



どんなに強い信仰を持っていても、どんなに大きな夢や希望を抱いても、愛がなければ無に等しい。
「おじぞうさまにも、神はやどるよ」とおっしゃっていた、洗礼を授けていただいた懐かしいホイヴェルス神父さまの影響で、「神は愛である」という言葉を大事に生きていくと、神の創造した自然界、宇宙は愛に満ちていて、ミンダナオやアイヌや沖縄の人々や田舎の人々は、それを感じて生活していることがわかってきた。
逆に、人間の創造した都市で、お金と物に心を奪われて生きている人々が、孤独で哀れに見えてしまう時がある。
ミンダナオ子ども図書館に来た若者たち曰く。
「わたし、日本にいたときは、あれが欲しい、あの服が買いたい、レストランでおいしいものが食べたい、化粧品や装飾品が欲しい、そんなことばかり考えていたけど、ミンダナオ子ども図書館の子供たちに出会ってから、そんな気持ちが吹き飛んで、今は日本に帰っても、そんなものにちっとも興味なくなってしまったわ。
大事なのは、友情と愛!」
「宗教や自分の欲や思いだけが優先して、友情や愛が心から失せてしまうと、地位や名声、物欲や経済欲ばかりが価値観として先行して、勝ち負けばかりが意識され、互いに無償で分かちあい助けあう気持ちが消え失せて、結局世界に、争いや対立、戦争が起こっていくんだね。」
ぼくも、愛=神が大事だと思うけれども、日本に欠けている「愛」について、語ると、多くの方々が密かにこう言い広めていることがわかってきた。
「まついさんは、あっちこっち、たくさんの女がいるようだ!」
確かに、かつて一度だけ道を迷ったことがあるけれど・・・。
ただ、大変な状況の人を見ると放っておけない性格で、ミンダナオで、ときどき悪霊に取り憑かれる少女がいて、男性の声になって大声でさけび、見る人見る人に飛びかかってくることがある。
すでに、4人体験している。
子ども時代のトラウマが原因だけれど、スタッフも恐怖で近づけない。
ぼくだけが、しっかりと抱き留めて、耳から声をかけて、魂を呼び戻すと、突然にぱっと目覚めて、後は何も覚えていない。
しかし、その後、そうした子たちは、治っていくけれど、特別な気持ちを、ぼくに抱くこともわかってきた。
愛もそれなりに、現世にいると難しい?
神父、ブラザー、シスターまたは僧侶といった仕事をする人たちが、生涯独身を誓う理由も良くわかる。
ぼくも、ブラザーになってMCLをすることも考えたけれど、イスラム、先住民、クリスチャンなどが一つの家族として暮らすことは難しい?
敷地内に、モスクを建て、マノボ族の祈るパルバランを建てたし、これからルルドを作りイエスとマリアと天使を置き、礼拝堂も作ろうと思っているけど、ぼくが修道士だったら、破門されるかな?
そういうことも、少しずつ、本に書いていくしかないかな?
単なる想像の創作よりも、実体験がこもったものこそ、次の世代につたえなくっちゃいけない???
イスラムの人々を偏見で見てほしくないので、絵本「サダムとせかいいち大きなワニ」(今人舎)も、書いたけれど・・・
世界は、悪い方へと向かっている???
次世代に夢を託すしか、ないのかな?
だったら、子どもや若者たちに、夢と希望をもと
と思う。
子どもたちこそ、未来だから。





























絵本、幼年童話の企画原稿


絵本用に、15場面の絵の展開で考えたお話しです。
版権が出版社に決まり次第、出版社の意向に従い削除しますが、
それまで皆さんに、読んでいただけるように載せました。
子どもたちにも、読んであげて下さい。
感想等をお寄せいただければ幸いです。
mcltomo@gmail.com


  「チャチャとホタルさんとカエルとり」

 ミンダナオのマノボ族の村では、 夜にたいまつをもってカエルを捕って、つぎの日に、ココナッツミルクで煮込んで食べます。
 おいしいよ!
 ここはキアタウという名の村。
 泊まった方もいらっしゃるのでは?
 皆さんも泊まれるし、カエル採りも体験できますよ。


 
 

 
チャチャのまえを、数ひきのホタルが飛んで、チャチャが手をのばすと、そのなかの一ぴきの小さなホタルが、チャチャの手にとまった。
「かわいいね、ホタルさん。」
 ほかのホタルたちは、チャチャのあたまのうえで飛び回っている。
「しんぱいしているのね、おとうさん、おかあさんたち。」
 チャチャは、ホタルさんのあたまをなぜるといった。
「さあ、とんでいって!幸せにね!」
 その夜、兄ちゃんのともだちたちがきて、いった。
「さあ、これからカエルをとりに、いこう。」
 お兄ちゃんは、家のうらから、竹カゴとたきぎをとってきた。
「わたしも、つれてって!」
 チャチャが、いうと、お兄ちゃんの友だちたちがいった。 
「女の子も、いっしょにくるなんて、だいじょうぶかなあ。」
「夜のジャングルはまっくらだよ。」
「お化けや妖精もいるよ!」
 すると、お兄ちゃんがいった。
「チャチャだったら、だいじょうぶだよ。山菜とりも、てつだってくれるし、山歩きもなれているし。
 そうだチャチャ、とれたカエルをいれるカゴを、しょってくれる?」
「ばんざい!」
「しゅっぱーつ!」
 お兄ちゃんが、たいまつをもって先頭にたった。
 わたしは、竹のカゴを、あたまからぶらさげて、お兄ちゃんの後についていった。
 靴なんて、だれももってないから、みんな、はだし。
 子どもたちは、村から出ると、ふみあと道をとおって、急な斜面を、はだしで谷へとおりていった。
 夜空には、満天のお星さま。虫の声も、聞こえてくる。
 すべりそうな所にくると、兄ちゃんのともだちが、いった。
「チャチャ、ぼくの手をつかんで!」
「ありがとう!」
 ジャングルのなかに流れている、ちいさな川にでると、お兄ちゃんたちは、水のなかにはいっていった。
「ぼくたち、カエルをさがすから。チャチャ、たいまつもって、ここにいて。」
「わかった。」
 お水が、岩のあいだを、楽しそうにながれている。
男の子たちは、あちらこちらで、カエルをさがした。けれど、なかなかカエルが見つからない。
「カエルの声が、しないなあ。」
「ぜんぜん、見つからない、がっかりだね。」
 岸から、チャチャがさけんだ。
「お兄ちゃん、たいまつ、もえつきちゃうよ!」
 するとふしぎなことに、とつぜんチャチャのまわりを、ホタルがとびはじめた。
「あっ、ホタルさんだ。」
 チャチャの目の前を、一ぴきのホタルがとびまわって、手をさしだすと、手のひらにのった。
「あっ、わたしのお友だちの、ホタルさん!」
 ホタルは、チャチャの手からとびたつと、頭のまわりを、ぐるぐるとんで、とつぜん川上のほうにむかった。
「わあっ。あっちの方見て!」
 みると、川の上流に、たくさんホタルが、とんでいるのがみえる。
「にいちゃん、あっちに、いってみようよ」
「でも、このさきに、大きな木があるんだよ。妖精たちのすみかだって、大丈夫かなあ」
「だいじょうぶよ、だって、わたしのお友だちのホタルさんが、おいでおいでって、いってるもん。」
「なんだか、あのがけのむこう、あかるいねえ。」
 がけをまわったとたん
「わあっ、なんてたくさんのホタルさんたち!」
「大きな木が、たいまつみたいに、かがやいているよ!」
「大きな大きな、クリスマスツリーのようだね!」
 子どもたちは、大木の下に立つと、うえを見あげた。
 大木のまわりを、無数のホタルたちが、ついたり消えたりしながら、飛びかっている。
 それをみて、チャチャが、さけんだ。
「大きな木が、ホタルさんたちの光のお洋服を着て、夜空の星のしたで、輝きながらおどっているよ!」
 子どもたちは、口をあんぐり開けたまま、びっくりして見つめている。
 一人の男の子が、川にはいってさけんだ。
「わーい。たくさん、いるよ!かえるが、いるよ!」
 子どもたちは、いっせいに川に入ると、カエルとりをはじめた。
 たいまつはなかったけれど、ホタルさんたちが飛んできて、まわりを明るく、てらしてくれた。
「ホタルさんたちが、手つだってくれる!」
 男の子の一人が、チャチャを見ると、手をあげていった。
「ほら、チャチャ、かにもとれたよ!」
 そして、チャチャのもっているカゴにいれた。
「たっくさん、とれたねー、さあ、帰ろう!」
「カゴが、いっぱい!」
 お兄ちゃんが、いった。
「チャチャ、カゴおもいだろう。ぼくが、もってあげるよ。」
「兄ちゃん、ありがとう。」
 子どもたちは、おおよろこびで、斜面をのぼった。
 ホタルさんたちも、チャチャたちといっしょに、斜面をのぼって、みおくってくれた。
「ホタルさん、ほんとうに、ほんとうに、ありがとう!」
 村にだどりつくと、父さんと母さんや、村人たちが、家から飛びだして、むかえてくれた。
 みんな、カゴをのぞいて、びっくり。
「すっごい、たくさんのカエルだなあ!」
「カニも、とれたんだね!」
 よくじつ、村中であつまって、大きなお鍋で、カエルとカニの、ココナッツ煮こみをつくって、みんなでたべた。

「ひさしぶりの、おおごちそう!」























 

 「あなたの考えは、とってもいいわね」

 ある村では、小学生に登録しても、二年生になると70パーセントがストップします。
 理由は、「貧しくって、お弁当を持って行けないし、靴も履いていけないから」。
 ここで描かれた子どもも真実、エルニーニョもときどこ起こります。
 先生もMCLの卒業生で、本当に子どもたちを自分の給料で助けています

 

あなたの考えは、とってもいいわね

 ぼくは、一年生のときは、学校にいったけれども、二年生になってやめてしまった。
 学校は、とっても楽しかったよ。
 授業もとっても楽しくって、「はいはい」って、手をあげた。
 先生にあてられると、大きな声で答えた。
 すると、先生はいった。
「あなたの考えは、とってもいいわね。」
 学校で、何よりも楽しかったのは、友だちにあえること。
 休み時間には、いつも校庭で友だちと、かくれんぼしたり、鬼ごっこをしたりしてあそんだし、女の子たちともいっしょに、うしろの正面だーれをしたり、なわとびをしたり、歌ったり踊ったりもしたよ。
 ぼくの家は、山おくだから、学校からすっごく遠い。
 だから、朝は4時半には家をでて、橋のない川をはだしでこえて、ジャングルをぬけて歩いたけれど、友だちといっしょだったし、こわくなかった。
 ニシキヘビにであったときは、木の枝で頭と体を押さえてつかまえて、みんなでもちかえった。
 村の人たちは、おおよろこび!
 串焼きにして食べたら、おいしかったよ!
 夜は、電気もないから、外にでて、月あかりのしたで、がんばって勉強もしたよ。
 休まずにかよったし、成績も悪くなかったから、終業式のときには、表彰されてメダルももらった。
 それなのに、なぜ二年生になったら、学校をやめたのかって。
 二年生になると、午後の授業がでてくるでしょ。だから、お弁当をもっていかなくちゃいけないから。
 お金が無いから、お弁当をつくるための、お米なんて買えないからね。
 山の斜面では、父ちゃんたちが、小さな畑でトウモロコシをつくっているけれど、いつも収穫があるわけじゃないし、ときには何日も、食べものがない日もあるし。
 おなじ村の友だちたちも、二年生になると、お弁当を、もっていけない子た
ちは、つぎつぎに学校をやめていった。
 だからぼくも、やめたんだ。
 でもね、今年はひどい年になった。
 半年近く、雨がほとんど降らなくって、山の草も木もかれてしまった。
 野菜やトウモロコシはぜんめつだし、雑草もかれて、見わたすかぎり茶色い野原だ。
 ジャングルのなかのモンキーバナナも、枯れてしまって実がならないし、川の水も流れてないから、カニやカエルや魚もいない。
 食べるものも見つからなくって、父ちゃんも母ちゃんも、どうしたらいいのかわからずに、こまりはてている。
「このままここで死んで、天国にいくしかないのかしら」と、母ちゃんがいうと、妹たちは、ワッとなきだした。
「そうだ、学校の先生にそうだなんしてみよう!」 僕はいった。
「学校だったら、水があるかもしれないし。
 先生もやさしいから、どうしたらいいか、教えてくれるかもしれないよ。」
 父さんと母さんもうなずいて、着替えの服だけもって、家をでた。
 (絵のみ。学校が見えてくる。)
 学校に着くとビックリ!
 たくさんの家族たちが、食べる物もなく、飲み水も無く、こまりはてて、学校にうつりすんでいることがわかった。
 ぼくは、ひさしぶりに先生を見つけて、話しかけた。
「ここに、しばらく住んでも良いですか?」
「もちろん。
 いまは避難場所として、だれでも住んで良いことになっているから、だいじょうぶよ。多くはないけど、お米もあるし。」
「来てよかった!」
 家族は、おおよろこび。
 ぼくは、先生の顔を見ると、質問した。
「こんなへんな天気は、はじめてです。
 どうして、雨がふらないのですか?野火も起こるし、みんな大変!」
 すると、先生が答えていった。
「これはね、エルニーニョっていってね。人間が、自然を破壊したから、自然が怒って、雨をふらさなくなったのよ。」
「どうしたら、この問題を解決できるのですか?」
 そういうと、先生が言った。
「人間が木を切りたおしたり、空気をよごしたり、いろいろなことが原因としてあるみたい。
 学校で勉強して、本が読めるようになったら知識を得て、それから、どうしたらいいのかを、みんなでいっしょに考えて、実行する必要があるわね。」
「だったら、ぼく、学校にもどって勉強します!
 お昼ご飯が食べられなくっても、外で遊んだり、大声で歌ったりして、お腹がすいたのを忘れればいいから!」
 そういうと、先生は、笑顔でいった。
「あなたの考えは、とってもいいわね。
 だったら、先生が、あなたのお弁当を用意してあげるわ。」
 ぼくは、おもわず先生にだきついた。
 先生は、ぼくを抱きあげて、ぎゅっと抱きしめて、耳もとでささやいた。
「わたしも、親がいなくって、学校に行けなかったけど、行かせてくれた人がいて、それで大学をでて先生になれたのよ。
 こんどは、わたしが、助けるばんね。」

























 

  
青い山の妖精さんたち

 ミンダナオの我が子のような子どもたちの事ばかり、日々考えているのですが、そんな子たちの背景が思い浮かんできて止まらずに、お話しが出てくるのです。 
 頭のまわりを、妖精たちが、飛び回っているような感じ。
 父さんが、岩に閉じこもってしまっていた某さん。
 でも今はもう、だいじょうぶ!


 

 大きな岩にうえに、兄ちゃんと私がすわって、青い山をながめていると、ばあちゃんが側に来ていった。
 「おまえたちは、父ちゃんも母ちゃんもいなくて、かわいそうだのう。」
 「父ちゃん、母ちゃんどこにいるの?」私が聞くと、ばあちゃんがいった。
 「たぶん、あの山のなかにいるんだろう。」
 「どうして、あそこにいるの?」兄ちゃんがきいた。
 「お前の母ちゃんはね、森の泉で、水を汲もうと思ってね。小川をのぼっていったんだが、それっきり帰ってこないんだよ。たぶん泉のそばに生えている、大きな木に吸いこまれて、天にのぼっていったんだろう。」
 「父ちゃんは?」
 「父ちゃんは、母ちゃんが居なくなって、さびしくってさびしくって、泉までいくと、その向こうの岩穴に、ずっと入っていたんだがね。なぜかある日、父ちゃんもいなくなってしまったんだ。」
 「ふたりとも、あの山のなかに消えていったんだね。」
 私がそういうと、兄ちゃんは、私の手を取っていった。
 「ぼくたちで、父ちゃんと母ちゃんをさがしに、山へ行ってみようよ。」
 小川をさかのぼって森を行くと、泉にたどりついた。泉のほとりには、大きな大きな木がはえていて、その後ろには岩穴があった。
 「あの木のなかに、母ちゃんは、吸い込まれていったんだ。」
 「父ちゃんは、あそこの岩穴に入って、母ちゃんがもどってくるのを待ってたけど、どこかに消えてしまったんだ。」
 泉の横には、小さな踏みあと道があったので、兄ちゃんと私は、さらに踏みあと道を登って、森のなかへと入っていった。
 急な登りは、やがて少しゆるやかになり、小道のはたに、お花が咲き始めた。
 森はジャングルになり、キャッキャッキャッと声がするので見あげると、たくさんの猿たちが、枝から枝に飛びうつって、兄ちゃんと私を見おろしている。
 深い谷をこえ、大木の間をぬけて登っていくと、とつぜん尾根うえにとびだした。いちめんにお花畑が広がっていて、その向こうには、うつくしい青い山が、兄ちゃんと私をみおろしていた。
 お花畑のなかにかけだすと、兄ちゃんと私は、青い山に向かってさけんだ。
 「やっほー、父ちゃん!」
 「母ちゃん、どこ!」
 すると、あたりの花たちが、急にゆれだして。お花畑のあちらこちらから、たくさんの妖精たちが飛びだしてきた。
 「わあっ、妖精だ!」
 「こんなにたくさん、どこからきたの!」
 妖精たちは、いっせいにかけよってくると、兄ちゃんと私のまわりで踊り始めた。
 「いっしょに、踊ろう!」
 「手をつないで踊ろうよ!」
 兄ちゃんと私は、うれしくなって、妖精たちと、いっしょに踊り始めた。
 「こんな楽しいの、はじめだ!」
 「妖精さんたちと、お友だちになれて、うれしいわ!」
 兄ちゃんと私は、たくさんの妖精さんたちと、お花畑で歌ったり踊ったり、鬼ごっこをしたり、かくれんぼをしたりして、いちにちじゅう遊びまわった。
 するとだんだん、お日さまがかたむきはじめ、夕焼け空が広がっていった。
 お日さまが、青い山にさしかかったとき、光がきゅうに、金色の川になって、山の頂上から流れだした。
 見ると、その光の流れのなかを、白く輝くふたりの天使が、手をとりあっておりてくる。
 ふたりの天使は、微笑みながら、兄ちゃんと私の前にたった。
 「あっ、父ちゃん!」
 「あっ、母ちゃん!」
 父ちゃんと母ちゃんは、しゃがみこむと、しっかりと兄ちゃんと私を抱きしめてくれた。
 「あいたかった。本当に会いたかったよ。」
 「良くここまで、会いに来てくれたわねえ!」
 まわりにいるたくさんの妖精たちも、嬉しくてうれしくてたまらないといった様子で、踊りだした。
 それを見て私がおもわず、「ここに住みたいなあ!」とさけぶと、妖精たちは、大声で歌いながらいった。
 「すんだら、いいよ!」「すんで、ちょうだい!」
 すると、父ちゃんがいった。
 「気持ちは良くわかるけれど、今はまだ、こっちに来るときじゃないなあ。」
 母ちゃんも、うなずいていった。
 「そうね。でも心配しないでね。高い空から、いつもあなたたちのことを、愛して見まもっているからね。」
 別れるのは、ちょっとさびしかったけれども、涙をながしながら、兄ちゃんとわたしはうなずいた。
 そうして、母ちゃんと父ちゃんに別れを告げると、たくさんの妖精たちといっしょに、山を下りた。
 「ここで、おわかれね。」大岩のところまでくると、私はいった。
 「私たち、せっかくお友だちになったのに、さびいしいなあ!」
 すると、ひとりの妖精が、大岩の上に立つといった。
 「ぼくたちも、この岩のまわりに住もうよ。」
 「そうしたら、毎日みんなと、ここの野原で踊れるね!」 「そうだ。そうだ!」「そうしよう!」
 家の方を見やると、おばあちゃんが心配して、ポツンとひとり腰をかけて、待っているのが見えた。
 「ただいまー、おばあちゃん!」
 「妖精さんたちと、帰ってきたよ!」
(大岩の回りが、すっかりお花畑になり、子どもたちが妖精たちと、踊ったり歌ったりしている様子。遠くに青い山が見え、太陽よ光が降り注いでいる。かすかに両親の姿。ミンダナオ子ども図書館)
 家族が抱きあっている姿。

















 

  
巨人とイノシシ

 ミンダナオ子ども図書館のなかの、某ちゃんのお話です。

 

 朝早く姉ちゃんは起き出して、赤ちゃんをおんぶすると、朝ご飯のしたくをはじめた。
 二人の妹も起きてきて、姉ちゃんのお手伝いをはじめた。
 すると、姉ちゃんが、いった。
 「お料理をしようにも、食べるものが何にもないわ。お父ちゃんが、亡くなってから、いつも食べるものがないよね。」
 二人の妹たちは、泣きだした。
 「お腹がすいたよー。」
 「すきすぎると、お腹が、いたくなってくるよー。」
 それを聞いて、兄ちゃんは、ぼくと弟に声をかけていった。
 「母ちゃんは、下の村に洗濯仕事にいって、まだ帰ってこないし。よし、ぼくたちで、山に食べものを探しに行こう!」
 ぼくらは、ナタをいれた竹カゴを背負うと、食べものをさがしに、山を登っていった。
 谷間におりて、川の流れにはいって「なにか食べられるものはないかなあ」と、さがしたけれど、魚も蟹もカエルもいない。
 「ぼくらの来たのをかんじとって、逃げたのかなあ。」
 しかたがないので、ジャングルの中を、食べものをさがしながら、さらに登っていった。けれども、バナナもサルがとってしまってないし、カサバイモもイノシシがほってしまって、さがしてもさがしても、食べるものが見つからない。
 いちにちじゅう食べものをさがして、山から山へと歩いたけれど、何にもみつからないまま、だんだん日が暮れていった。
 「このまま家に帰っても、姉ちゃんも妹たちも、がっかりするだけだね。」
 弟がいうと、兄ちゃんがいった。
 「そうだね。しかたがない、こんばんは、山の中に泊まろう。」
 見晴らしの良い尾根にたどりつくと、遠くには、海が見えた。
 見あげると、夜空いちめんに、星がかがやいている。
 子どもたちは、大木の下にしゃがんで、お腹をすかせたまま、ぼんやりと星空を見ていた。すると。
 満天の星空の中に、とつぜん巨人が立った。
 こわくなって、思わずたがいに抱きあって、大木の下で震えていると。巨人は、子どもたちほうを見おろして、語りかけた。
 「おまえたち、かわいそうにのお。食べる物もなくって、お腹をすかせているのだな。」
 子どもたちは、怖くて震えながらも、うなずいた。
 すると、巨人は、大きく両手を広げて、天にむかってさけんだ。
 「みんな、行ってあげなさい!肉をあたえて、あげなさい!
 そして、いのちを与えたら、天にもどっておいで。そんなおまえたちを、私は、、心からむかえよう!」
 すると、おどろいたことに、天から無数の流れ星が、雨のように落ちてきて、ジャングルにふり注いだ。
 そのとたん、目の前のしげみの中から、たくさんのイノシシたちがとび出してきた。
 イノシシたちは、子どもたちをとりかこむと、その中のいっぴきが、前に出てきていった。
 「ぼくが死んであげるからね。ぼくの肉を、食べたらいいよ!」
 そして、ごろんとひっくり返った。
 びっくりした子どもたちは、かけよると、そのイノシシを抱いた。けれどもイノシシは、すでに息をひきとっていた。
 子どもたちの目からは、涙がこぼれだした。
 すると天から、声が聞こえてきた。
 「心配しないで、ぼくは、天の父ちゃんのところに、帰っていくよ!」
 子どもたちが天を見あげると、流れ星が一つ、巨人の方に向かって、飛んでいくのが見えた。他のイノシシたちも、みんな天を仰いでいる。
 巨人は、両手を広げて、流れ星を受け止めた。
 翌日の朝、兄ちゃんとぼくと弟は、死んだイノシシを背中にかついで、山を下りた。
 家に近づくと、姉ちゃんと妹たちが、大喜びでかけてきた。
 夕方には、母ちゃんも、おイモと塩を買って帰ってきた。
 そこで家族みんなで、イノシシを丸焼きにして、村の人たちも呼んで、みんなで食べた。
 「イノシシさん、あなたのお肉をくださって、ありがとう!」
 「巨人の父ちゃん、ありがとう!」
 










  
お父さんが撃たれた
(ミンダナオ子ども図書館の子供たち)


 国際リゾート開発に反対して、先住民の酋長だった父親が殺され、自分も足を撃たれた少女と、レアメタルの開発に反対して、酋長だった父親が殺された少女を、ミンダナオ子ども図書館では、奨学生にしています。
 いまは中学生になっていますよ。
 

 ミミンは、ひとり草陰に座っていた。
 すると、目から涙がこぼれ出てきた。
 友だちのジョイが、一人で泣いているミミンをみて、かけよってきた。
 そして、隣にしゃがみこむと、肩を抱いていった。
 「どうしたの。だいじょうぶミミン。」
 ミミンは、顔を上げると、ジョイをみた。
 「ありがとう、ジョイ。わたし、思いだしてしまったの。父さんのこと。」
 「どこにいるの?」
 「私のお父さん、マノボ族の首長だったのよ。でも、死んだの。殺されたの!」
 ジョイは、びっくりしていった。
 「私もよ。私の父さんは、バゴボ族の首長だったけど、やっぱり殺されてしまったの。でも、あなたのお父さん、どうして殺されたの?」
 ミミンは、話し始めた。
 「わたしたち、昔は平地に住んでいて、貧しくても食べるのには困らなかったわ。」
 「でもねえ、平地の土地は、外から来た人たちに取られてしまって、山の上の方に追いやられていったの。」
 ミミンは、つづけた。
 「山での生活はたいへんで、食べものと言えば、山芋やカエルばかり。小さな竹の小屋だったけど、それでも、家族みんなで、仲良く暮らしていたのよ。」
 ジョイは、うなずいていった。
 「それって、私たちも同じ。」
 「ところがある日のこと。山麓の町の方から、シャベルやスコップを持った人たちが、たくさんやってきてね、父さんを外に呼び出すとこういったの。
 『これから、ここの山を掘りかえすから、おまえたちは、どこかへ移れ!』
 『なんで、こんなところを、掘るんだ』と、父さんが聞いたら。
 『ニッケルを、掘り出すんだ。高く売れるからな。』
 それを聞いて、父さんはいったわ。
 『それだけは、やめてくれないか。この山には、たくさんの先住民たちがすんでいるんだ。彼らは、川の水を飲んだり、炊事に使ったりもしている。もしも、ここで鉱山開発をはじめたら、水が汚れて病気になってしまう。ここは、おれたちに残された、最後の土地なんだ。』
 すると、後ろから、鉄砲をかついだ男が出てきて、父さんが、『出ていかないぞ!』と、いったとたん、バーンって撃ったの。
 父さんは、その場で殺されてしまった!」
 ミミンは、ワッと泣き出すと、ジョイにしがみついた。
 ジョイも、目に涙を浮かべるといった。
 「私の父さんも、そう。町から人が来て、かってに戸をあけて、家の中に入ってくるといったの。
 『ここに、外国人が泊まれるようなリゾートを作る。1万円だすから、おまえたち先住民は、ここから立ち去れ!』
 でも、父さんは、バゴボ族の首長だったし、プライドもあったから答えたわ。
 『ここは、先祖伝来のわたしたちの土地だ。出ていかない!』」
 「そういったとたん、バーンって音がして、父さんは撃たれた。
 母さんが叫んで、たおれた父さんに駆けよると、今度は母さんもお腹を撃たれたの。」
 「驚いた私は、父さんと母さんの所に、走りよろうとしたわ。
 でもそのとき、パパーンと音がして、わたしの足に痛みが走った。見るとつま先から、まっ赤な血が飛び散っていたわ。こうして、父さんは死んだ。」
 ジョイは、そういうと靴を脱いで、ミミンにつま先を見せた。つま先の中指は、つぶれて曲がっているのが見えた。
 ジョイが、なきだすと、ミミンは、ジョイをしっかりだきしめた。
 (二人が抱きあっている場面)
 「それで、住むところがなくなって、あなた、ここに(ミンダナオ子ども図書館)来たのね。」
 ミミンがいうと、ジョイがこたえた。
 「そうなの。母さんだけでは、おおぜいの子どもたちを、養っていけないから。」
 「でも、ここに来られてよかった!」
 ミミンとジョイは、たがいに顔を見合わせながらいった。
 「だって悲しくっても、ここにいると、たくさんお友だちがいるから、生きていけるわ!」
 「そうだよね。大事なのは、お金よりも愛と友情!」
 そうさけぶと、ふたりは、草むらにひっくり返って、たがいにしっかり抱きあった。
 まわりの花たちが、二人をみて嬉しそうに、うなずいていた。


 








  ほんとうのおままごと


 日本から来た青少年が、ミンダナオ子ども図書館の子供たちと出会って、感動して、友情と心と未来への希望が見えてくる体験をして帰っていく姿を思いだして、子どもたちの気持ちを主体に、こんなお話しがうかんできました。

 

 ここは、日本のとなりの国、フィリピンのミンダナオ島にある、ミンダナオ子ども図書館というところ。
 なまえは図書館だけれど、おおぜいの学校にいけない子どもたちが、日本の人たちの支援をうけて、ここにすんで学校にかよっているの。
 わたしのなまえは、サラ。いもうとのなまえは、サノ。
 父さんと母さんにつれられて、サラとサノが、はじめてここについたとき、たくさんの子どもたちが、いっせいにかけよってきた。
 サラとサノは、ここにくる前から、母さんからきいていた。
 「ここにすんでいる子どもたちは、親が死んだりいなくなったり、戦争で殺されてしまったりした、かわいそうな子どもたちなのよ」って。
 けれども、あつまってきた子どもたちの顔をみたら、みんなふしぎなくらい、あかるい笑顔でビックリ!
 「ハロー、ハロー(Hello)!」
 みんな英語がとってもじょうず。
 わたしは、まだ小学校の4年生だし、英語も少ししかわからないし。
 いもうとのサノは、まだ4歳で幼稚園ではじめての海外旅行。
 「だいじょうぶかなあ。」
 でもね、そんなんぱい心には、おかまいなく、子どもたちは、笑顔で語りかけてきたの。
 「ネイム、ネイム(Name)!」ってきくから、名前のことね、とおもっておしえてあげた。
 「わたしは、サラ。いもうとは、サノ。」
 すると、子どもたちは、おおよろこびで、わたしたちの手をとって、食べるまねをしていった。
 「サラ!」「サノ!」「プレイ、プレイ(Play)!」
 「いっしょに、あそぼう」って、いってるんだ。
 「どうやら、いっしょに、おままごとをしたいみたいだね」と、父さんがいった。
 子どもたちは、サラとサノの手をひっぱって、お花畑につれていってくれた。
 サラは、まっ赤なお花をみて、おどろいてサノにいった。
 「あの、大きなお花、ブーゲンビリアだわ。日本では、お花屋さんでしか見られないけど、ここではそこらじゅうに咲いているね。」
 サラは、子どもたちのほうをみると「ビューティフル(Beautiful)!」って、はじめて英語をつかっていってみた。
 そしたら、みんなも「ビューティフル(Beautiful)!」っていって、お花をつむと、わたしとサノのあたまにさしてくれた。
 「サノ、わたしの英語が、つうじたよ!」
 ひとりの女のこが、「プリィティ(Pretty)!キュット(Cute)!」といって、サノをだきあげると、お花畑のなかでおどりはじめた。
 「『きれいね!かわいいよ!』って、いってるよ。」
 それをきくとサノは、うれしそうに笑って、女のこの首にだきついた。
 サラは、サノにいた。
 「みんなとっても目がきれいで、言葉がつうじなくっても、心がつうじるから、さびしくないね。」
 女のこの一人が、男のこたちに、なにかいっている。
 「ハウス、ハウス(House)」という言葉が、きこえてきた。
 「お家をたてよう」って、いっているのかなあ?
 「こんどくるときは、ぜったいに、英語をもっとおぼえてこよう!」
 サラとサノは、たくさんのお友だちといっしょに、お花畑をぬけて、林のなかにはいっていった。
 「枝もないし、ふしぎな木だなあ」って、わたしがいうと、サノがさけんだ。
 「ねえちゃん、これって、ヤシの木じゃないの。絵本で見たことがある!」
 木のてっぺんには、とげとげの葉っぱがしげっていて、そのかげには、緑や茶いろのボールのようなものがたくさんくっついている。
 サラは、ゆびさすといった。
 「そうだね、あのボールみたいの、ヤシの実だよね!」
 男のこのひとりが、こしにナタをぶらさげると、とつぜん木にのぼりはじめた。
 サノが、びっくりしていった。
 「まるで、お猿さんみたい!」
 てっぺんまでのぼると、男のこはナタで、ヤシの実と葉っぱをきっておとした。
 子どもたちは、ヤシの実と葉っぱをかつぐと、小川をわたり、林のおくへとあるいていった。
 すると、小川のそばに、まるで木のようにしげった、せのたかい葉っぱがはえていた。子どもたちは、上のほうを指をさすとさけんだ。
 「バナナ、バナナ!」
 みあげると、なんとバナナが、ふさになってぶらさがっている。
 男のこは、ナタをにぎると、根もとからきりたおしはじめた。
 バリバリバリって音がして、大きなふさをつけたバナナがたおれた。
 男のこは、バナナのふさを切りとると、葉っぱも切った。
 「なんて太いバナナなの。日本のバナナとぜんぜんちがう!」
 子どもたちは、バナナのふさ、ヤシ実、そしてバナナの葉っぱとヤシの葉をかつぐと、楽しそうに歌いながら、林をぬけてお花畑にもどってきた。
 お花畑にもどると、女のこたちは、お花のなかにすわって、ヤシの葉をあみはじめた。
 男のこたちは、小枝をじめんにさして、そのうえに、女のこたちがあんだヤシの葉をおいた。
 床には、バナナの葉っぱがしかれ、かべにはお花がかざられた。
 「わあーい、おねえちゃん。お家ができたよ!」
 「ほんと、ほんと、かわいい、お家ね!」
 女のこたちは、お家にはいると、サラとサノを、てまねきしてよんだ。
 「サラ!」「サノ!」「カムイン(Come in)!」
 「おはいり、っていっているよ。」
 サラは、サノの手をとると、できたての緑のお家にはいって、すわった。
 「きもちいい!」
 あっちこっちにお家がたち、お家のまえで、子どもたちは、たき火をはじめた。
 「おままごとが、はじまったみたいね。」
 子どもたちは、とってきたバナナの皮をむくと、おさとうをつけて、クシにさして、たき火でやきはじめた。
 男のこは、ヤシの実を、ナタでパンパンとわると、サラとサノにさしだしていった。
 「ドリンク、ドリンク(Drink)!」
 「のんだらいいよ、っていってるよ。」
 サラとサノは、ヤシの実をうけとると、口をつけてのみはじめた。
 「わあ、おいしい!」「ちょっぴり甘くて、おいしいね!」
 女の子が、焼きあがったバナナをわたしてくれた。
 ふうふういいながら、バナナをかじった。
 「おいしいバナナ!」
 「焼きバナナって、こんなにおいしいんだ!」
 サラは、サノにいった。
 「これが、ほんとうのおままごとね!」
(楽しいおままごとの風景。赤ちゃんをあやしている子もいる。)

 














 15年ぶりに日本に滞在し、日本の人々、とりわけ若者や子どもたち、青少年だけでは無く、中高年の人々の孤独な様子を見ていると、とにかく、ミンダナオの風を送らなければ・・・!!!と考え始めて、絵本、児童書、ヤングアダルトから大人向けまで、どんどん書いていくことにしました。
 出版されるかされないか、以前に、今の時代に向かって、語りかけずにはいられないことが、次から次へと浮かんできます。
 サイトにもどんどん掲載していきますね。
 ただ、出版が決まり、版権が委譲された後は、削除するかもしれません。
 よろしかったら感想などをお聞かせください。
     mcltomo@gmail.com

 




ミンダナオ子ども図書館
フィリピン現地法人:
Mindanao Children's Library (MCL) Foundation, Inc.

2016~17年度の外部監査師による会計監査報告

 

 
ミンダナオ子ども図書館の外部監査師による
2016~17年度:会計報告へGO! 


質問などは、現地オフィスの副代表Bebinが答えますので、
メールで現地日本人スタッフの宮木梓さんに連絡してみて下さい。
現地のスタッフは約25名で、給与は平均して月8000ペソ(18000円)ほどです。
現地と日本での経理は非常に厳格で、すべて領収をとって経費を最小限に抑えながら運営しています。
mclmindanao@gmail.com
 (宮木梓)
 

日本事務所であるMCLジャパンに関しては、
給与は3名分(松居友、松居エープリルリン、宮木梓)のみで6万円です。
理事長の前田容子はじめ理事は、無給のボランティアで活動しています。
2年前から、両親の強い願いで、松居夫婦と娘二人は、日本に滞在して活動しています。
日本での生活費は妻と私の給与6万×2=月12万円で、娘達も公立の学校に通っています。

事務所は前田個人宅が本部で、東京に滞在場所として支部ができました。
東京支部のマンションは、両親が最後の予算で購入してMCLに寄贈してくれました。
同行するスタッフの経費も、両親が援助してくれています。

日本における活動経費は、毎年4月に総計し12ヶ月で割って翌年度から返金します。
前年度の活動経費は120万円超ですが、今年度に毎月10万円づつ返済しています。
日本での主な活動経費は、講演などの交通費と携帯及びインターネットなどの使用経費です。
それ以外の季刊紙などの印刷や発送などは、経費の安いフィリピン本部に集中させています。
日本事務局の経費は極力削減し、寄付はほぼ現地の子どもたちに行くようにしています。

日本法人に関する質問などがありましたら、理事長の前田容子にメールでお問い合わせ下さい。

mcl.madoguchi@gmail.com
(前田容子
 

余談ですが、私の本の印税も、4月に一括してMCLに振り込んでいます。
なるべく経費を削減し、講演会で地方に向かうときも
パーキングエリアで車中泊して睡眠をとるようにもしています。
MCLの子どもたちは、家族だと思っています。
両親の年齢と希望で数年日本に滞在しつつ現地に通いますが、
それ以降は生涯ミンダナオが我が家となっていくでしょう。
いつか、いらしてください。子どもたちに会いに。
 
 





マラウィ緊急支援報告
私たちは、支援して下さっている方々に、出来るだけの写真を含めて活動報告をしています
松居友のFacebookでも、動画で活動を報告しています。

  マラウィの戦争避難民救済支援の映像へGO! 
  




 急きょマラウィの戦闘避難民救済に行く事に決めた理由は、マラウィ市長始めマラウィDSWD(福祉局)からも要請があったからです。
 また、ピキットのDSWDの所長補佐でMCLの理事のグレイスさんや、キダパワンのDSWDを通して、マラウィのDSWD(福祉局)とも連携し、またマラウィから大量の避難民が流れてきているイリガン市のDSWD福祉局とも連携して活動しました。
 実は、マラウィの市長の奥さんが秘書で、その姉妹がキダパワンでお店を経営していて、その関連の現地NGO(Moro People's Core)の本部が、キダパワン市の隣のカバカンにあり、MCL代表の妻が会合などでも良く会っていて友達です。そこから、ぜひともMCLが救済支援に参加して欲しいと言う要請があり、今回のマラウィ支援を決断しました。




 最初は、少し遠いので決断しかねていたのですが、キダパワンから車で約12時間。しかし、行って良かったと思っています。
 一度関係を持つと、末永く連携していくのがMCLのやり方なので、始まったばかりの支援です。ただし、ミンダナオ子ども図書館は、福祉局とも話し合い、海外NGOや政府DSWD(福祉局)のリストから外れている(外されている)避難民施設をあえて選んで活動しました。
 今回は、子どもたちへの絵本読み語り、おかゆの炊き出し、支援物資(古着・ラーメン・缶詰・ビスケット)の配布、寝たり壁にするためのブルー シートを配布 し、また、父親が戦闘で亡くなったりした子が居ますので、リストアップしました。次回は、福祉局やマラウィ市長の派遣したメンバーと相談して、ミンダナオ子ども図書館の奨学生に採用し本部に住んで学校に通えるようにさらに手続きを進めます。
 医療に関しては、病院に一人患者を運びましたが、薬等の医療支援は次回に行います。
今回は、むしろ状況の調査が主体でした。
 今後数度にわ たり訪れ、マラウィ市に近づけるようになれば(今回は入れませんでした)現地からも親が死んだ子などを奨学生として受けいれていきたいと思っています。
 その意味でも、救済支援は長いおつきあいの出発点だと思っています。


   

まずは読み語りで友情を育む 
 
  


  
 

 




 現地で、まず最も重視される支援活動が、ミンダナオ子ども図書館の場合は、読み語りです。
 支援というと、大量の物資を持ってくるのが一般的なので、読み語りが優先されることを聞いて困惑し、「変なNGO」とガッカリされるような方もいらっしゃるのですが、始めたとたん、子供たちは大喜び!
 それを見て、周囲の親たち、そして大人たちも心が明るくなってきて、避難民収容所の雰囲気がとっても良くなります。
 読み語りをしている間に、別のスタッフ達は、炊き出しをしはじめます。今回は、鶏肉と野菜のはいったお粥を炊いて皆さんにくばりました。
 読み語りは、妻がまず最初に、ぼくの書いた最新作「サダムとせかいいち大きなワニ」(今人舎)を読みました。ミンダナオのイスラムの子たちの物語だけに、皆にとってもとても身近で夢中になって聞いていました。
 支援して下さっている方々には、8月の季刊紙に変わって英語版をお送りします。ミンダナオのイスラムの子供たちの本当の姿を伝えてくて、書いたものです。偏見が世界に蔓延しているのが、子供たちにも可愛そうで・・・。
 
 空に大きな音がするので見あげると、戦闘爆撃機がイリガン市の隣に位置するマラウィ市に向かって飛んでいくのが見えました。
 戦争などと言う、何という馬鹿げたことをするのだろう、とつくづく思いました。目の前に居る被害者の子供たちを見ていると・・・。

 
 

 読み語りの後は、先住民とイスラムとクリスチャンの唄をうたい、最後に平和の歌を唄って、その後に劇をしました。
 「おおきなカサバイモ」という劇で、おおきなカブの絵本から子供たちが独自に作りあげた劇です。現地の避難民の子供たちも、大笑いで大喜び!
 そんな子供たちを見ている親たちも、困難な生活の中でつかの間の安らぎを得ているようでした。


  

(今人舎より刊行)
宣伝になってしまうけれど、この絵本の印税も全て
ミンダナオ子ども図書館に行くようにしていますので
買って下さるだけで支援になります。
よろしくお願いします。

 

この絵本の避難所になっているカルボガン小学校は
ミンダナオ子ども図書館が、日本政府のODA
草の根文化無償資金協力で建てたイスラム自治州ARMYの小学校
です。
ミンダナオのイスラムの子供たちの本当の姿を伝えてくて、書いたものです。
偏見が世界に蔓延しているのが、子供たちにも可愛そうで・・・。


炊き出しでお腹を満たす 

 炊き出しは、現地の大人とミンダナオ子ども図書館のスタッフ達で、鶏肉と野菜の入ったお粥をたくさん炊いて子供たちと大人たちにも食べていただきました。
 楽しい読み語りの後に、おいしいものを食べてホッとしています。
 その後から、いよいよ皆さんから送られてきた古着を配りはじめます。
 楽しい読み語りとおいしいものを食べてホッとして、幸せそうな子供たちを見ていると、逆にこちらが幸せな気持ちになります。


   
 

古着と食料を配給 

 支援物資は、パックに古着を詰め込んだものを500袋用意して、渡して行きました。
 今回は、往復に二日間かかるので、実質まる三日間しか現地に行けませんでしたが、約5箇所の避難民キャンプを巡ることが出来ました。
 特に最初のキャンプは、山から来た貧しい人々が多く、お金も一銭も無く、生活が大変な事が良くわかりました。
 しかし、このようなことを言って良いのかわかりませんが、かつてミンダナオ子ども図書館が戦争避難民を救済してきた場所は、町では無く、極貧の湿原地帯などだったので、こちらの避難民の生活も大変だと思うのですが、ほとんどの人々がイスラム学校などの少なくとも屋根のあるとことに避難しているので、その意味では、路上や空き地に、ヤシの葉を枝に置いて雨をしのいでいる状況から比べると保護されていると感じました。
 現在は、三〇万の避難民と言われていますが、ぼくが体験した戦争では、二〇〇八年には80万人、二〇〇〇年から二〇〇三年には、何と120万人の避難民で死者も三〇万を超えました。
 しかし、今回大変なのは、海外からの支援を受けてイスラム国などが活動していて、爆撃や誘拐、殺害など残酷な手口が多いことです。
 皆さんも、決して安易に行かないでくださいね!
 外国人が一人で歩いていれば、財布が歩いているようなものです。
 私たちは、こうした支援活動の危険も承知しているがゆえに、今回は17名のスタッフで絶えずいっしょに行動してきました。
 また、必ず現地の人々と心を通じ合えるような活動方法をしていますし、市長、福祉局等々とも事前に周到な連携準備をしています。
 まずは、イリガンにある、マラウィ市の市長宅に行き、そこで市長宅に泊まって活動している若者たち7名ほどと、活動をともにしました。
 右の写真で、避難民に支援物資を渡しているのも、現地のボランティアの若者たちで、彼らはマラウィ出身で自身も避難民であるが故に、避難している人々の事も良く知っていて、そうしたところでこちらのへの信頼や安全も確保されていくのです。



 食料は、米、魚の缶詰、ブラッドと呼ばれる干物などが喜ばれました。それから、ビニールシートは、屋内でもコンクリートの床に敷いて寝る場所を作れますので喜ばれます。
衣服などは、あらかじめDSWDなどとチケットを配ってから、交換するようにしています。混乱をさけるために。
 薬も次回は、重要な支援になっていくでしょう。胃腸薬や傷等々、ダバオで買っていきます。




避難民の状況を調査  
 




  
 

 マラウィの避難民は、せめて屋根のある学校などの建物内に避難してきているので、路上生活ではないだけ、かつて見てきた避難民の状況よりもましかと思いますが、それでも、食べものも無く冷たいコンクリートの床に寝る生活は、精神的にも肉体的にも大変だと思います。
 今彼らが一番必要としているのは、寝るときに使う多少厚手の毛布のようなもんです。

 


 また、着るものもほとんど家においたまま逃げてきているので、古着はいくらあっても足りないような状況です。
 そして、食べものは、家族も子供たちも多いがために大変です。しかし、DSWD福祉局の管轄のなかにすでに入っている避難場所が七割以上あるので、これらは政府からの支援があり、米は支給されています。
 大変なのは、まだその管轄下に入っていない施設です。
 また、個人の家々に避難している人々の生活も困窮しています。
 この状態が長く続かないことを祈るのみです。


親が亡くなった子の調査 

 最後に、福祉局やボランティアの若者たちと連携して、親が戦闘で殺されたり、爆発で亡くなったりした子たちの調査を開始しました。右の写真の子たちもそうです。
 現在は、まだ4~5名ですが、今後も調査を続け、そのなかでも特に困窮しいる子たちを奨学生に採用して、ミンダナオ子ども図書館に住みこんで大学まで行けるようにします。
 マラウィの子供たちへの支援は、始まったばかりです。
 状況を見極めつつ、月に2~3度通い、次第にマラウィ市に近づけるようになれば、内部の状況にも合わせて支援活動を続けていきます。
 数ヶ月たつと、病気の子が増えてくるので、現地の医師と連携して薬や医療の支援を重視していく予定です。医療支援は、皆様方からの自由寄付でなりたっています。
 また、生活物資も足りないのでよろしくお願いします。






ミンダナオ子ども図書館支援方法
 
郵便振り込みは以下へ

支援申し込みメールで
ご住所を送っていただければ、
会員登録をして年6回、
季刊誌をお送りします。
自由寄付、医療支援、
スカラシップ、里親支援、
植林支援、緊急支援


郵便振替口座番号:
00100 0 18057
口座名:
ミンダナオ子ども図書館


振り込んだ後に、
メールをいただければ幸いです。

mclmindanao@gmail.com
(以前のアドレスも有効です)
  
銀行振り込みは以下へ
 
■銀行名 ゆうちょ銀行 
 ■金融機関コード 9900
■店番 019  ■預金種目 当座
■店名 〇一九 店(ゼロイチキユウ店)
■口座番号 0018057
口座名:ミンダナオ子ども図書館

ゆうちょ銀行(郵便局)や、
それ以外の金融機関
からの振込もOK


振り込んだ後に、
メールをいただければ幸いです。

mclmindanao@gmail.com
(以前のアドレスも有効です)
 
インターネットバンキングも可能です

現地のボランティアの若者たちと 




緊急支援のお願い

今回は、避難民救済に、まだ現地には行っていません。
掲載した写真は、ミンダナオ子ども図書館を2001年に立ちあげてから、
度重なる戦争と避難民救済を行った過程で支援者に報告するために、
松居友が撮影したものです。 

   

 ミンダナオ子ども図書館では、現地のNGOと福祉局からの要請もあり、現在戦闘が起こっているマラウィに行き、避難民を対象に緊急支援を開始することにしました。
皆さんにも、特に医療と炊き出し支援のための緊急支援を自由寄付でお願いできれば幸いです。

 ご存じの方も多いかもしれませんが、ミンダナオで過激派組織「IS(イスラム国)」に忠誠を誓う武装勢力「マウテ」などが5 月下旬から、マラウィ市でフィリピン軍との戦闘を続けています。フィリピン軍の広報官は6 月13 日、「マウテの戦闘員は市民を人間の盾として動員しており、軍の進行が妨げられているなどと語った。逃げようとする人たちは、射殺されている」と語りました。
 フィリピン軍は17 日、空爆と砲撃で攻撃しましたが、政府によると、マラウィではこれまで過激派戦闘員225 人、軍兵士59 人、民間人26 人の310 人が戦闘で死亡したと発表されています。

 約1 週間ぶりに公の場に姿を見せたフィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ(Rodrigo Duterte)大統領(72)はイスラム過激派組織「イスラム国(IS)」の外国人戦闘員の存在がマラウィでの戦闘を困難なものにしていると語りました。戦闘のためマラウィと同市周辺ではこれまで30 万9000 人以上が避難を強いられており、その多くは友人や親戚宅に身を寄せているが、避難所に収容されている人もいるということです。

 ミンダナオ子ども図書館のあるキダパワン市、およびMCLの奨学生が多いイスラム地域では戦闘は起こっていません。それどころか、今までの平和活動の努力の成果もありモロイスラム解放戦線(MILF)やモロ民族解放戦線(MNLF)は、静観している状況でしょう。今回のマラウィの戦闘は、分離派にイスラム国派の外国戦闘員が参加して起こされていると言うのが実態のようです。
 現地までは距離もありますし、ミンダナオ子ども図書館も今までは様子見をしてきました。しかし、私たちの友人いるNGO(Moro Peaple Organization)から、避難民救済の支援の要請を受けました。それを機会に現地スタッフと会議を行い、可能な限りの救済支援活動を行う約束をしました。早急に政府、福祉局の許可も得て、すでにマラウィで活動していて現地の状況に通じているNGO、そしてマラウィ市の福祉局とも提携して活動を開始します。

 戦闘員を含む外国が関与している事、またアメリカ軍も特殊部隊を派遣している最近の状況を考えると、私の経験した2003年の「テロリスト掃討作戦」や「バリカタン・フィリピン政府軍と米軍の合同演習」の時のように戦闘は拡大する可能性もあります。当時は、120万の避難民と10万の死者がでました。そうならないことを祈ります。
 支援としては、まず現地の避難民を対象として、その状況を把握するために古着の支援と炊き出し支援(米を配給すると無くなるので、その場で炊いて子供たちに食べさせる)と読み語りから開始し、状況把握後もくり返し通うことによって、医療(薬から手術まで)と、福祉局と相談して戦闘で親が亡くなった子や生活困難な子を本部に保護し、状況によっては住みこんで奨学生に採用しようと思っています。

 とりわけ炊き出し及び、医療には薬代から手術まで資金がかかります。
自由寄付をお願いできれば幸いです。
郵便振替口座番号:00100 0 18057  口座名:ミンダナオ子ども図書館
振り込んだ後に、メールをいただければ幸いです。
mclmindanao@gmail.com



 

戦争が起こると一番大変なのが病気だろう。
もともと薬も買えないような貧しい家庭が多いミンダナオ。特に避難生活では、水や食事も悪く、寝る場所もひどい。
マラウィの場合は、政府が避難所を近郊の街に作っているというので、かつてぼくが体験したピキットなどの路上や空き地でヤシの葉をひいて寝ているような状態ではないと思うのだけれど。
今回、早急の寝床を作るビニールシートの支援をしなかったのはそのためだけれど・・・。
しかし、今回一番心配なのは、空爆だ。
2003年のアメリカのブッシュ政権の時の「テロリスト掃討作戦」では、空爆も行われ120万人の避難民と10万の死者が出た。
空爆はそれで収まるわけでは無く、当時妊娠していた子や小さかった子たちの中に、たくさんの奇形が発生した。
ぼくらは、戦争が終わっても15年間も現地と付き合っていて気がついて、知人に話したら「劣化ウラン」の可能性があると言われた。
当時は、日本の新聞社が取材を希望したけれどストップ。
写真の奇形児の幾人かは手術して今も健在だけれど、多くの子たちが、手術したにもかかわらず、その後亡くなっていった。中には、奨学生の子たちもいる。
今回の戦闘でも、爆撃がされているので心配だ。
薬の配給だけならまだしも、本当に子供たちを治そうとするならば、完治するまでくり返し病院に通う必要もあり、医療支援は、一番大変で根気と時間と費用がかかる支援ですね。

郵便振替口座番号:00100 0 18057
口座名:ミンダナオ子ども図書館

銀行振り込みは以下へ
■銀行名 ゆうちょ銀行
■金融機関コード 9900
■店番 019  ■預金種目 当座
■店名 〇一九 店(ゼロイチキユウ店)
■口座番号 0018057
■口座名:ミンダナオ子ども図書館

   





 




 海の下宿小屋を作ろう 
 
       
 
ミンダナオ子ども図書館の下宿施設を、美しいミンダナオの海辺に作りた
いという夢が、いよいよ実現に向かって動き始めた。
 場所は、ダバオ湾の東側にはりだした小さな半島の先端にあるクラクシンという名の小さな漁村で、ときどき、ウエッブサイトの「ミンダナオ子ども図書館*日記」や松居友のフェイスブックでも紹介してきたから、知っている方もいらっしゃるかもしれない。
 海のMCLを作りたいと思いたって7年の歳月が流れた。
すでにアラカンの山とマキララの山には、男子寮と女子寮があり、孤児や崩壊家庭、そして極貧で3食たべられず、学校まで遠くて通えない子たちが住んでいる。
 スタッフも常駐し、子どもたちには米とおかずを提供している。街に有る大学生の寮にも米を支給しているから、総勢200人分で一日200キロの米が消費されるけれども、なんとか水田で自給している。野菜も子どもたちが頑張って植えて自給している。
 




自由寄付をはじめ奨学金で子供たちを支援して下さっている皆様、本当にありがとうございます。
 その後、支援者の方々が訪れるようになり帰りがけには涙を流され、感動と生きる喜びを現地の子どもたちから受けとられて涙を流されて帰られる。
とりわけ青少年が大泣きに泣いて、自殺や引きこもりや心の病で悩んでいた子たちが、生きる力を受けとって帰っていくようすを見て、5年ほど前からミンダナオ子ども図書館の門戸を開いて、青少年や親たち、そして中高年の方々も受けいれる体制を作ってきた。
 特に山の先住民と生活を分かちあう山のMCL体験が大好評で、リゾートでは無く素朴な漁民たちと生活を分かちあえる、漁村体験をさせてあげたいと思うようになった。それが、今回の企画の出発点になる想いだった。

 ミンダナオ子ども図書館では、滞在を希望される方々からは、宿泊料を取っていません。お客様としてではなく、家族の一員として子どもたちが皆さんを、お迎えできるようにしたいからです。
 海の下宿施設を可能なら来年初めにも建設したいと思っています。可能な方は、振替用紙に「海の家」と書いて、寄付をしていただければ幸いです。完成しましたら開所式をして、お名前をボードに記載させていただきます。
 










   

 クラクシン村の子どもたちは、浜辺を歩いて小学校と高校(日本で言う中学校)に通っている。周辺の村々をめぐり、各村を調査した結果、歩いて通える範囲に高校も出来ることがわかった。
 それならば、ここに下宿小屋を建てて、先住民、イスラム教徒、クリス チャンの孤児の子たちを奨学生として15名ほど住まわせて、スタッフも常時滞在させて、ここに海の下宿小屋をつくれば、夏休みやクリスマス休暇にも、本部の子どもたちも遊びに来られるし、日本からの訪問者たちも素朴な漁村体験で心を癒やせる。
 この地域の子どもたちは、ほとんどが大学まで通えないけれども、ここで卒業した後にミンダナオ子ども図書館の本部の寮に住めば、大学に通って先生になる夢もかなえられる。
 クラクシン村は幸い交通の便が悪くて、大規模なリゾート開発は不可能な場所だから、素朴な漁民の生活が今後も守られていくだろう。それも、子供たちには良いことだ。 


 


学校に行けない子たちを十数名ほど収容する下宿小屋を建てるならば、素朴な漁村に寮を建ててカヌーも買って、子どもたちが自分たちの手で魚をとって浜で干して、干し魚をみんなで作って食べていけるような場所にしたいと思うようになった。そうすれば、ミンダナオ子ども図書館の子供たちのおかず代も節約できるし、大学まで行けない子でも、立派な漁師になれるだろう。



海の下宿施設を可能なら来年初めにも建設したいと思っています。目標は、350万円です。
可能な方は、振替用紙に「海の家」と書いて、寄付をしていただければ幸いです。完成しましたら開所式をして、お名前をボードに記載させていただきます。


郵便振り込みは以下へ

支援申し込みメールで
ご住所を送っていただければ、
会員登録をして年6回、
季刊誌をお送りします。

郵便振替口座番号:
00100 0 18057
口座名:
ミンダナオ子ども図書館


振り込んだ後に、
メールをいただければ幸いです。

mclmindanao@gmail.com
(以前のアドレスも有効です)
  
銀行振り込みは以下へ
 
■銀行名 ゆうちょ銀行 
 ■金融機関コード 9900
■店番 019  ■預金種目 当座
■店名 〇一九 店(ゼロイチキユウ店)
■口座番号 0018057
口座名:ミンダナオ子ども図書館

ゆうちょ銀行(郵便局)や、
それ以外の金融機関
からの振込もOK


振り込んだ後に、
メールをいただければ幸いです。

mclmindanao@gmail.com
(以前のアドレスも有効です)
 
インターネットバンキングも可能です







 

  すでに、青い海と白浜、そこで遊ぶ子どもたちの様子を映像で見て、ぜひとも息子や娘、若者たちを連れて、訪問したいと言う方々も増えてきていた。
 ミンダナオ子ども図書館の理事のお一人で、カヌーイストの野田知佑さんたちとカナダのユーコン川を下られ、「川ガキ養成講座」を主催している日本障害者カヌー協会の吉田義朗さんもそのお一人で、わざわざ日本からシーカヤックを携えてクラクシン村に来られた。今、日本でのパラリンピック開催の役員として活動していらっしゃる。

   
   




訪問者の白鳥くんと中嶋さんご一家の
ミンダナオ体験 


 白鳥くんのお母様が支援して下さっている子の実家を訪ねた。中嶋さんご一家も、いっしょに・・・。白鳥くんも、早い時期に父親を失っているだけに、本当に相手の気持ちを思いやっているようすが良くわかる。
 支援している子は、お母さんが殺され、お父さんもいなくなり、不幸な境遇に陥って、今はMCLに住んでいる少女。お祖父さんとお会いして、その希望もあり、また兄弟姉妹がいた方が寂しくないので、末の男の子もMCLに住んで学校に通うことに決めた。



 少女の語ってくれた身の上話。

 私の名前は・・・だけど、みんなにはデンデンって呼ばれています。14 歳だけど、まだ小学4 年生です。出身はプレジデント・ロハスのグリーンヒルズにある、プロック・オッチョという村です。
 私には、お父さんとお母さんがいません。物心ついたときには、おじいさんとおばあさんに育てられていました。お父さんとお母さんの顔も覚えていないし、写真もありません。私が4 歳の時に2人はいなくなりました。
 どうしていなくなったのか、なにも覚えていません。でも、村の人や友達や、祖父母は事情を知っているみたいです。お父さんがお母さんに嫉妬して、ナイフで刺殺して、逃げて、そのまま戻ってこないらしいです。
 お母さんがお父さんに刺された時、私はお母さんを守りたくてお母さんに抱き付いていたというけれど、なにも思い出せません。私がとても怖がりなのは、その時の経験が原因だそうです。
 私の家は、とても貧しいです。おじいちゃんとおばあちゃんは箒を作って売りに行ったり、お米のもみ殻を飛ばす仕事をしてお金を稼ぎます。でも、おばあちゃんは病気がちであまり働けません。



 私には、13 歳で小学3 年生の弟がいますが、お金がなくて、学校に行けないことも多かったので、学年が遅れています。
 朝ごはんは食べません。お昼と夜は、バナナと小さくて塩辛い干し魚を食べます。バナナの代わりに、キャッサバ芋や里芋を食べる日もあります。
 お米やトウモロコシご飯は、ときどきしか食べられません。
 鶏を絞めたお祝いの日は、鶏のしょう油煮が食べられるからうれしいです。私の一番好きなおかずです。
 ご飯がないと、学校に行くのがつらいです。お米がないからお弁当を持って行けないし、朝ごはんもちゃんと食べられないから、歩いて学校に行くだけで疲れてしまいます。
 進級できないで、学年が遅れていってもあきらめないで学校に行っていたのは、貧しくても学校を卒業したいからです。
 できれば大学を卒業して、小学校の先生になりたいです。
 私が大学を卒業できるころには25 歳になっているはずだけど、それまでは結婚しないで勉強します。
 高校生になって、好きな人に「I love you」って言われても、勉強を選びます。…たぶん。学校を卒業するまではMCL の寮でがんばりたいけど、卒業したら故郷に帰って、そこの小学校で教えて、結婚したいな。
 私の家族は祖父母、弟、みんな仲良しなんですよ。ほとんど毎週教会に行って、神様に家族のことをお祈りしています。
 つらいこともあったけど、MCL に来て友達がたくさんできました。友達と励まし合って、夢を叶えたいです。
















 


 翌日は、中嶋さん一家といっしょに、お父さんが病気で最近亡くなったジュノくんの村へ行った。お母さんも亡くなっていて、小さな弟がたった一人で残されているのを知って、放っておけずに・・・。




ジャングルの中を抜け、川を車で渡り3時間。
 村に着くと、ジュノくんの弟は、さらにそこから先の奥の村にいることがわかった。
 その村からも、ミンダナオ子ども図書館の子どもたちを採っていて、MCLに住んでいる子たちが、これから夏休みになるので、いっしょに向かった。訪問者が良く泊まる、キアタウ村の近く。
 ご主人は、山の様子や貧しいマノボ族の集落、そしてそこで明るく遊びまわっている子どもたちの様子を見て感動されていた。



 村に着くと、ジュノくんの末の弟が見つかった。
 ご主人は、その子を見るなり、自分の支援する奨学生に決めた。
 水球のコーチもやっていらっしゃるご主人は、映像の会社にも勤めていらっしゃって、いつか彼を日本に呼びたいとのこと。
 ジュノくんの末の弟は、小さいながらも天才的に、民族楽器と踊りが上手。いつか、日本にも公演で行く日が来るだろう。
 ジュノくん兄弟は、全部で4人。今はMCLに住んでいる。
 お別れ会の映像で、ギターを弾いて歌っているのがお兄ちゃんのジュノくん。そして、踊っている3人の少年が、彼の兄弟たちです。








   


中嶋一家の送別会
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 日系人でマノボ族の家族に会いに、
ウオーターフォール村に行った
 

 日系人の家族には、残念ながら、お目にかかれなかったけれど、滝で遊んだ。ここは、よくミンダナオ子ども図書館の子どもたちと読み語りをしたり、遊びに来るところ。
 子どもたちは、滝壺に飛びこんで泳いで遊ぶ。
 アポ山への登山口でもあって、この集落のマノボ族のMCLの奨学生のお父さんたちが、山を案内してくれる。...
 アポ山は、3000m弱で、フィリピンで一番高い聖なる山。
 たくさんの妖精たちが住んでいる。





 





 中嶋さんご一家のお別れ会 
中嶋一家の送別会
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 4年生と4歳の娘さんといっしょに、ミンダナオ子ども図書館にこられた中嶋さんご一家。
 サンタマリアの海にいき、漁村の子どもたちと遊んだり。
 ミンダナオ子ども図書館につくと、言葉が通じない子どもたちと、あっという間に仲良しに!
 支援している子にあったり、貧しいマノボ族の子たちのいる、山の村に行って、支援する子を探したりして、あっという間の一週間だった。
 そして、帰る時には、泣いて泣いて・・・
 「あなたたちは、わたしの大事な大事な、お友だち!
 言葉が通じなかったのに、あっというまに、心が通じて、お友だちになれたのには、びっくり!
 ぜったいに、ぜったいに、何度も何度も、もどってくるからね!」
 こうした子どもたちの姿を見るにつけて、日本と現地の子どもたちのために、次の段階のMCLを作っていくことで、ぼくも体験した生きる上での大切なことを、少しでも体験してもらい、伝えていかなければと思った。



 言葉が通じるのに、なぜか心がなかなか通じにくい日本と、言葉が通じないのに、あっというまに心が通じて、友情と愛に包まれるミンダナオ子ども図書館の子どもたちとの違いはどこに?
 かつて日本でも生きていた、こうした心を取り戻すには、どうしたら良いのかを、若い世代に希望を託して考えていかなくっちゃ。
 中嶋さん、次作の絵本『サダムとおおきなワニ』、そしてその次のマノボ族の『みんなでいっしょに 川で洗濯』の絵本、そして新刊の執筆もがんばりますよ。
 次代をになう、子どもたち、若者たち、(寂しい中高年の方々)のためにも!
 ミンダナオ子ども図書館の子どもたちは、本当に絵本の楽しさを知って、それを生かして楽しく遊び、友情と愛の生活している。









 
中嶋一家の送別会
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ミンダナオの若者たちの来日公演

ミンダナオ子ども図書館の若者たち11人が、九州、関西、広島、青森、静岡を巡り
イスラム、クリスチャン、先住民の踊りと歌を披露します。
毎年この時期に来日する予定です。
 
 今年から毎年、五月の連休から月末までの1ヶ月間、ミンダナオ子ども図書館の若者たち十数名が、日本の仏教団体の立正佼成会に招待されて、日本の方々、とりわけ子どもや若者たちと交流することになった。 公演で披露するのは、ムスリムと先住民とクリスチャンの伝統的な踊りと歌で、MCLの若者たちは、大喜び!
 今回、来日する子の中には、マノボ族で、曾祖父母が、日本人だったという子もいる。
 「私は、小さな頃から日本に憧れていました。カリナン出身の母の曾祖父母のどちらかが日本人だと聴いていたからです。日本に行ってみたいという夢が叶ってうれしいです。」
 戦争や家庭崩壊で、想像を絶する苦労を、重ねてきたにもかかわらず明るく笑顔で、生きる力に満ちあふれているミンダナオ子ども図書館の子どもたち。日本から訪れた若者たちは、彼らに出会って感動し別れのときは、大泣きに泣く子も多い。
 経済的には豊で、物やお金があふれていても心は貧困に見える、日本の子供や若者たち彼らが、現地に来て、喜び希望と生きる力を得て帰っていくのを見るにつけて、これから出来ることの一つとして兄弟姉妹、家族としての友情と愛の交流を、公演会で企画して、始めることに決心した。
 毎年五月の連休から1ヶ月、うかがいますので宗教に関係なく、幼稚園や学校や施設や団体等、お声をかけて下されば、喜んでうかがいます。
 ただ一つだけ心配なのは、すでにパスポートは全員とれているのだけれど、最後のヴィザが、フィリピンの日本大使館で拒否されたら、全部おじゃん!それでも、あきらめずに、フィリピンと日本の子どもたちのために、毎年トライしていこうと思っていますので、応援してくださいね!
24  来日





















 25 東京滞在  
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 27 福岡に移動
 28 九州:赤とんぼ主催


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 12 関西にて公演
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 18 立正佼成会での
日本公演
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青森
千葉
静岡
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 31 帰国


今回の日本公演に参加する、
MCLの奨学生たち

Cyril M. Umpan
(男性)19歳

 
 オボ・マノボ族/セブアノ族
 僕の名前はサイリルで、南ミンダナオ大学キダパワン校3回生です。
電気工学を専攻しています。

 僕の学科は3年制なので、日本から戻ってすぐの6月に卒業予定です。
プロテスタントを信仰しています。

 僕の出身は、MCLから車で30分ほどのサヤバンという集落です。
父は、バナナやゴムの樹、アバカ麻を育てて生計を立てています。
私たちは一日3食お米が食べられますが、
学校に行くためのお金は十分にありません。

 私がMCLの奨学生になったのは、高校生の頃に、
MCLのマノボの奨学生たちに踊りや歌を教えていたからです。
僕は、小学校に上がる前から叔父に、
マノボ族の伝統的な楽器の演奏や歌、踊りを教えられて育ちました。

 日本でも、マノボ族の伝統的な踊りを紹介できることに、
とてもワクワクしています。細かいステップを踏みながら踊ります。
昨年から、毎週末練習してきたので、今ではムスリムのダンスも覚えました。

 私はキリスト教徒で、オボ・マノボとしての誇りもありますが、
他の民族も尊重しています。
民族や文化が違っても、私たちは一つの家族で、兄弟です。
日本で皆さんと会えることを、とても楽しみにしています。

Jeck H. Cabudlay
(男性)21歳
 マンダヤ族/ビサヤ族
 
 こんにちは!僕の名前はジェックで、マノンゴル高校5年生です。
選択クラスでは、溶接の練習をしています。信仰はカトリックです。

 僕の故郷は、ダバオ・オリエンタルのマハヤグで、
MCLから車で7時間程かかります。
僕は12人兄弟の上から2番目で、
僕だけが学校を止めずに高校に行っています。
父は、トウモロコシ畑の労働者で、
日給は150ペソくらい(約300円強)ですが、
毎日仕事があるわけではありません。

 母は、弟妹がまだ小さいので家にいます。
子どもが多いと、水汲み、洗濯、炊事、掃除だけでも大仕事です。
家族が多いので、父の収入では一日3食たべられません。
朝と夜だけ食べます。

 僕が奨学生になったのは、小学4年生の時で14歳でした。
それからずっと、MCLに住んでいます。
高校を卒業したらダバオの大学に行って、電気工学を学びたいです。

 日本に行って、僕を支援して下さっている人に会えるのがとても楽しみです。
公演では、マノボの踊りを観てほしいです。
ステップが難しいですが、毎週毎週練習して、上手に踊れるようになりました。

 僕の父はマンダヤ族、母はビサヤ族だけれど、
マノボ族の踊りの方が賑やかで好きです。

 観に来て下さった、たくさんの人と友達になりたいです。
 

Jovalyn C. Landas
(女性)17歳  マノボ族


 私はジョバリンという名前で、ニックネームは「アンジョイ」です。
マノンゴル高校4年生で、プロテスタントを信仰しています。
出身は、アンティパスのカムタン村カマッド集落です。

 私は7人兄弟の上から6番目で、父はトウモロコシ畑の労働者です。
私が小さい頃は土地があったけれど、父が売ってしまったので、
今は小作として働いています。
母は病気がちでいつも咳をしていて、外で働けません。

 私が奨学生になったのは、小学6年生の時です。
最初の2年間はMCLに住んでいたけれど、家が恋しくて村に戻りました。
でも、家から学校がとても遠く、実家にいるときは朝3時か4時に起きて水浴びをし、
朝食を作って食べて、掃除をして、5時に家を出ていました。
徒歩で通学して、学校に着くのは6時半頃で、7時15分には国旗掲揚式が始まります。

 私の家は貧しく、お米が買えないことも多いので、
そうするとお弁当を持って行けません。
その時は、午後の授業を欠席して家に帰っていました。

 本当は実家にいて母を手伝いたいのですが、
2年間実家から通学してみると厳しくて、昨年MCLに戻りました。
両親が大学に行ってもいいと行ったら、
進学して社会福祉士になるための勉強がしたいです。

 日本に行ったら、たくさんの人と友達になりたいです。
公演を観て下さる人たちが、私たちの伝統文化を知って下されば、うれしいです。

 私が特に好きなのは、ムスリムの「ファンダンス」です。
扇子がお花が咲くように動いて、とっても素敵なんですよ。
マノボの踊りはステップが難しくて、時々訳が分からなくなります。

 皆さんが、私たちの踊りや歌を楽しんで下されば、うれしいです。

Mariza E. Linao
(女性)17歳 マノボ族/ビサヤ族




 私はマリサで、マノンゴル高5年生です。
MCLの敷地内にある女子大生寮に、昨年から住んでいます。
アラカンの山あいの村、キアタオが私の故郷で、プロテスタントを信仰しています。

 父はマノボ族で、母はビサヤ族です。
父は、カカオ、コーヒー、トウモロコシを育てて売って、収入を得ています。
一日3食十分に食べられる稼ぎがあります。

 母は、ダバオでマッサージ師をしています。
両親は8年前に離婚しました。
父が突然、精神的におかしくなり、誰かに殺されるという恐怖に取り付かれたからです。

 私は3人兄弟の真ん中ですが、母が妹を連れて家から逃げ、
私と兄が父の元に残されました。
母はダバオで新しい恋人ができ、今は子どももいます。
妹も母の所から高校に通っています。

 私と兄はMCLの奨学生になり、兄はキダパワンのMCLの寮から高校に通っています。
 私は将来、大学で心理学を勉強して、教育関係の仕事に就きたいです。
母に置いて行かれて家族がばらばらになったことは辛かったけれど、
この経験を通して私は強くなりました。
将来の目標があって、勉強を続けられたから、
自分の人生を受け入れられたのかもしれません。

 公演では、マノボの踊りを観てほしいです。
私の民族の踊りだから、特に頑張って練習しました。

 私は、小さな頃から日本に憧れていました。
カリナン出身の母の曾祖父のどちらかが日本人だと聴いていたからです。
日本に行ってみたいという夢が叶ってうれしいです。


Norhaiya W. Pandian
(女性)  19歳 マギンダナオ族

 私はノルハイヤといいますが、
色が白いので「ポテ(白)」というニックネームで呼ばれています。
南ミンダナオ大学キダパワン校2回生で、教育学部で勉強しています。
7年前から奨学生で、高校1年生の時からMCLに住んでいます。
出身はピキットのシリックで、イスラム教徒です。

 私は7人兄弟の上から4番目です。
父は、トウモロコシ畑で働いたり、プランギ川で魚を取っています。
母は、身体が弱く痩せてしまったので、家で休んでいます。
トウモロコシ畑の日給は100ペソちょっと(約250円)で、
お魚が取れないとお米を買うことができないので、トウモロコシを買って食べます。

 私は小さい子どもたちが好きなので、小学校の先生になるのが夢です。
MCLでの生活は楽しいです。
小さな弟、妹たちが「アテ(お姉さん)、アテ」と慕ってくれます。
クリスチャンや少数民族の友達と過ごすのも楽しいです。
一つの家族として、心地よく感じます。

 日本でも、たくさんの子どもたちに会って、一緒に遊んだり、おしゃべりしたいです。
公演では、ムスリムの「マロンダンス」を観てほしいです。
マロンという、大きな布を使って踊ります。

 日本の子どもたちが、私たちのダンスや歌を楽しんでくれたらうれしいです。

 

Valentine H. Rarugal
(男性) 18歳 イロカノ族


 僕は、バレンタインズデーに生まれたので、バレンティンと名付けられました。
この4月に小学校を卒業して、マノンゴル高校に進学予定です。
プロテスタントを信仰しています。
出身は、マタラムのキビヤ村で、8人兄弟の6番目に生まれました。

 僕の本当の父は、母が僕を妊娠中に、
タンドゥアイ(ラム酒)の飲みすぎで、体を壊して亡くなったそうです。

 母は再婚し、子どもが2人できたけど、再婚相手もお酒の飲みすぎで亡くなりました。
母は心の病気になってしまい、僕は10歳までルソン島の祖母に育てられ、
その後ミンダナオの母の元に戻りました。

 僕が奨学生になったのは小学2年生、13歳の時です。
その頃、僕はあまり学校に行かず、不良友達とフラフラしていました。
ある日、友達とバイクを盗もうとしたら、警備員に見つかりました。
友達は警備員に打ち殺されましたが、
僕は福祉局に保護され、MCLを紹介されました。

 その時からMCLに移り、5年目です。
将来の夢は、勉強を続けて高校を卒業することです。
勉強は苦手ですが、ものを作るのが好きなので、大工か農業をしたいです。

 日本に行ったら、自然を見たいです。
飛行機や電車に乗るのも楽しみです。
公演では、マノボの踊りと「ティニクリン」を特に観てほしいです。

 僕たちのダンスを観て楽しんでもらえたら、僕も幸せです。
そして、MCLのことを忘れないでいてくれたらいいな、と思います。

 

Walter Jhon D. Magbasa
(男性)  18歳 マンダヤ族/ビサヤ族


 僕は、ウォルタージョンという名前だけど、「ドドン」と呼ばれています。
南ミンダナオ大学キダパワン校2回生で、自動車経営学を専攻しています。
信仰はカトリックで、出身はダバオ・オリエンタルのマティという町の近くです。

 父はマンゴーのプランテーションで働いていて、
月収は7000ペソ(約2万円弱)です。
僕は7人兄弟の上から2番目で、小さな弟妹がいるので、母は主婦をしています。
僕がMCLの奨学生になったのは小学6年生の時で、その時からMCLに住んでいます。

 実家は、今はマティの近くに移ったけれど、僕が家にいた頃は山に住んでいました。
時々一日3食たべられないことがあり、お米が買えず、トウモロコシをよく食べました。

 僕の夢は、プロのギタリストになることです。
小学校6年生の頃から、ギターを弾き始めました。
でも、まずは大学を卒業して、トヨタの様な自動車を扱っている会社に就職して、
ギタリストになる夢を追うつもりです。

 日本に行ったら、色々な所を見てまわって、楽しい思い出をたくさん作りたいです。
日本の学生たちと、学校や勉強について話してみたいです。
公演で観てもらいたいのは、「ティニクリン」です。
竹に足が挟まれそうでドキドキするけれど、踊るのが面白いです。
ミンダナオの様々な民族の踊りをぜひ観に来て下さいね。

 僕も歌に合わせてギターを弾くので、聴いて下さるとうれしいです。 
 
Claudine Grace M. Malasan
(女性) 18歳 ビサヤ族
 
 
 私は、クラウディン・グレイス。
キダパワン大学2回生で、IT(情報技術/コンピューター)を専攻しています。
カトリックを信仰していて、毎週キダパワンのカテドラルに礼拝に行きます。
 私はキダパワンで生まれましたが、両親が幼い頃に離婚したので、
父の家と母の家を行ったり来たりして育ちました。
今は、キダパワンの父の家に住んで、大学に行っています。
大学から、MCLの奨学生になりました。
大学を卒業したら、キダパワンかダバオでOLになりたいです。
 MCLの奨学生になって、様々な民族の子と出会い、友達になって、
違う文化や宗教についての理解が深まりました。
自分のすぐ近くに、色々な人がいることに気付くことができました。
それぞれの民族の違いを、受け入れることを学びました。
 今回、日本に行くチャンスを与えられ、
日本の文化に触れることができるので、うれしいです。
たくさんの人に出会いたいと思っています。
 公演で観てほしいのは、ビサヤの「ティニクリン」という、竹を使ったダンスです。
ステップに失敗して、足を竹に挟まれたら痛いけれど、
挟まれないように上手くステップを踏むのが本当に楽しいんです。
皆さんも楽しんで観て下さったらいいな、と思います。
 




日本の子ども、若者たちと
ミンダナオの子ども達


   

 1,ブラジル人の双子の若者
 

 ブラジル人の双子の若者

 「ちょっと、松居くん。話があるんやけど・・・じつは、ブラジル生まれの双子の兄弟を、ミンダナオ子ども図書館に、うけいれてやってくれんかの。」
 日本滞在の最終日に、ひさしぶりに会った大学時代の友人、松浦悟郎ちゃんから、とつぜん話がとんできた。
 「いいけど、またどうして?」
 きくと、その双子の若者は、いま二十歳で、まだ3歳のときに両親が離婚し、母親が二人をつれて日本に移住して来たのだという。
 体も大きく、見た目は純粋なブラジル人だが、日本の学校に入学して、小学校を卒業したあと中学でイジメにあい退学した。
 その後も、素直でよい性格だが、町のヤクザにケンカをふっかけられて、顔を強くなぐられて、下あごがグチャグチャになって、そのときは教会で治してあげたのだという。



 そんな彼らが、立ちなおるために友人が思いついたのが、ミンダナオ子ども図書館のことだった。
 ミンダナオ子ども図書館の話をしたら、双子は、とっても行きたがった。そこで友人は、「行くんだったら、しっかりしたアルバイトを見つけて、働いてお金を貯めて、自分の力で行くように」と話したら、本当にがんばって仕事をして旅費をためたのだという。
 「だから、松居くん、受けいれてやってくれんかなあ。」
 ぼくは、友人の頼みではあるし、苦労している若者のことを思うと放っておけず、二つ返事で承諾した。ただし、一つの問題は、学業も中学二年生でストップしているから。顔は外国人だけれど、まったく英語がわからないという。
 それを聞いて、ぼくは思わず笑って、関西弁で答えた。
 「もちろん、だいじょうぶ!ミンダナオっておもろいところでね、言葉が通じんかっても、心が通じるさかい。」
 ぼくは、初めてミンダナオに足を踏みいれたときのことを思い出した。
 ある日、一人で海辺の漁師さんたちの集落をたずねたときのことだ。真っ白な砂浜を歩いていくと、遊んでいた子どもたちがぼくを見つけて走り寄ってきた。
 子どもたちはぼくを取り囲むと、現地語で話しかけてくる。
 その当時ぼくは、現地で使われているビサヤ語を、まったく理解できなかったが、それにもかかわらず、子どもたちはおかまいなしで、粗末な竹小屋の窓から手をふったり、家からかけだしてきて、ある子は、ぼくの手をにぎって、いっしょに浜辺を歩こうとする。
 ぼくは、思わずつぶやいた。
 「驚いたなあ、本当に心に壁をつくらない子たちなんだなあ!」 
 欧米やアジアをふくめて、諸外国には行った経験があるけれど、言葉がまったくつうじないのに、心がつうじるなんて、初めての体験だった。そのことを思いだしながら、友人にこう語った。
 「たとえ言葉がつうじなくっても、少しも心配ないし、孤独になることなど、絶対ないから、だいじょうぶ。」
 ただ一つ心配なのは、双子たちにとって海外旅行は初めてなので、マニラ空港でダバオ行きの飛行機に乗りかえるときのことが心配だった。そのとき、ふっとぼくの頭に、よいアイデアがうかびあがった。
 「そうだ、ちょうどこの時期に、第二次世界大戦で、叔父さんをミンダナオで亡くした兄弟が、追悼のために大阪からこられる。
 それに、浅草のシェアハウスで共同生活をしている娘さんも、来たいらしいから、いっしょに来てもらったらいいね。」
 「そりゃあ、いい!」
 こうして、ブラジル生まれの双子の若者は、叔父さんをミンダナオで亡くした兄弟と、シェアハウスの娘さんにともなわれて、ダバオ空港におりたったのだ。










 2,ダバオの町をあとに


 
ダバオの町をあとに

 今回は、戦死した叔父を慰霊したいという70歳代の兄弟の思いを大事にしたかったので、アポ山の裏側一帯に広がるアラカンの山道を、2台の四輪駆動のピックアップで越えて行くことにした。
 日系人の多く住んでいたカリナンや日系人墓地のあるミンタルにも、ミンダナオ子ども図書館の奨学生たちはいるし、アラカンの山の奥にも、たくさんのマノボ族の集落があり、そこにも奨学生たちが住んでいる。
 特に、ラナコランという名の村にはミンダナオ子ども図書館の運営する、中高生の女子のための下宿小屋が建っていて、学校まで遠くて通えない先住民の子どもたちや、親がいなくなって孤児になった子たちが、20人ほどミンダナオ子ども図書館の奨学生になり、常駐しているスタッフの家族といっしょに生活している。
 そうした子たちのために、本部で精米したお米や、日本の支援者から送られてきた学用品を届けなければならないので、ミンダナオ子ども図書館にとっても訪問者たちにとっても良い機会だ。
訪問者たちは、スタッフといっしょに、さっそく二台の四輪駆動のピックアップに分乗した。なるべく二台で行くようにしているのは、山で何かが起こって一台が動けなくなっても救助できるようにするためだ。
 双子くんは、つきそいのスタッフといっしょに車の荷台にとびのって、興奮して「イェヘーーィ!」と叫んだ。
 車は、ダバオ市の郊外の丘陵地帯を走り出した。丘からは、ダバオの街並みをこえて海がみわたせ、遠くにはフィリピンの最高峰のアポ山が、青い影となって浮かびあがっている。
 双子くんたちは、熱帯の風にふかれながら満面笑顔で周囲をみわたしている。
 途中でミンタルの日本人墓地によった。
 かつて第二次世界大戦前に、ダバオ周辺には2万人を超す日本人が住んでいて、日本人学校も建っていた。彼らの多くは日系人と呼ばれて、先住民のマノボ族やバゴボ族と結婚して家庭をもち、おもにマニラ麻を栽培して生活をしていた。
 しかし、第二次世界大戦が起こり、日本軍の敗戦がせまってくると、日系人たちは、町からジャングルのなかへと逃げこんだ。
 そして終戦後、無条件降伏をして日本にもどった人たちもいたけれど、現地で先住民と結婚して家族を持っていた人たちの多くは、故国に帰ることなく、自分が日本人であることをひた隠しにして、ジャングルのなかで生き続けてきたのだった。
 ミンタルの日本人墓地では、毎年慰霊祭が行われ、ミンダナオ子ども図書館もこの地に招かれて「平和の祈り」をしたことがある。
 叔父がミンダナオで戦死した兄弟は、万感の思いで慰霊碑と、その横にそびえるように生えているマホガニーの大木を見あげていた。
 その後、墓地を後にして国道を山に向かって走り続け、大きな川をわたり左にはずれて、ぼくらは、山の奥へ奥へとはいっていった。
 国道の舗装道路とは段違いで、山道は石だらけのデコボコの細道にかわった。
 まわりには、背の高いシダやカカオやマンゴーの林があり、道の脇の草地には、ガーベラやブーゲンビリアやハイビスカスといった、可憐な熱帯の花々がさいている。
 ときには背の高いラワンやマホガニーがそびえ立ちように生えている、ジャングルのような谷間のなかをぬけながら、ぼくたちはマノボ族の集落のある、山の奥へ奥へと林道を登っていった。




 ミンダナオでは、車の通れる表街道を走っているぶんには貧困の様子はわからない。
 ところが、車道からはずれて山岳地帯に入ったとたん奥へ行けば行くほどに、その貧困の度合いの激しさが目につき始める。
 そこそこ収入のある人たちは、道路沿いに土地をもって住むことができるのだけれど、先住民のような極貧の人々たちは、平地から山へ追いやられて、斜面や谷底といった場所に住まざるをえなくなったからだ。。
 叔父が戦死した兄弟は、マノボ族の人々たちが、このような山のなかの貧しい場所に粗末なぼろぼろの小屋を建てて暮らしているようすをみてつぶやいた。
 「あれまあ、こんな山の奥にまで、人が住んでいるとは・・・。」
 家は、もはや家とは呼べないような、竹の床と壁に椰子の葉で屋根をふいた、吹けば飛ぶような小屋だし、戸口にたっている子どもたちもほとんど裸で、服はボロボロで裸足で遊んでいる。
 ときどき、道端で出会う人や子どもたちは、ミンダナオ子ども図書館を知っていて、ぼくたちが通ると、叫んで手をふってくれる。



 ふと前方をみると、赤ちゃんを背負って山道を登っていく母子がいた。
 ぼくは、車を止めると、空いている窓からたずねた。
 「どこへいくの?」
 「ラナコランに、いくんです。」
 「まだ、かなり遠いよ。後ろの席によゆうがあるから、乗っていったら?」
 母子は、大喜びで、後ろの席にのりこんだ。
 またしばらく行くと、今後は、学校帰りの子どもたちが、山道を歩いている。
 ミンダナオ子ども図書館の車だとわかると、子どもたちは手をふった。
 車をとめて声をかける。
 「乗っていくかい?」
 「わーーーぃ!」
 「ありがとう!」
 「やったーー。」
 子どもたちは、車の荷台に飛びのった。




 やがて荷台は、学校帰りの子どもたちで満載になり、後部座席も、赤ちゃんを抱いた母親等でぎゅうづめになった。
 前の車の荷台を見ると、双子くんが、子どもたちといっしょに声をはりあげて、笑ったり歌ったりして楽しんでいる。
 やがて行く先に、ミンダナオ子ども図書館の下宿小屋の、緑の屋根とピンクの壁が見えてきた。
 下宿小屋の近くで車をとめると、ぼくらはみな車から降りて、細道をラナコランの下宿小屋にむかって歩いていった。
 すると、住んでいる奨学生たちが、手をふって下宿小屋から飛びだしてくると大喜びで迎えてくれた。
 「パパ友が、来たよ。」
 「訪問者も、いっしょだよ!」
 「お米持ってきてくれたよ!」
 
 











 3,キアタウの村に向かって 
 


キアタウの村に向かって

 キアタウは、山の中腹の美しいマノボの村だ。
 ラナコランの下宿小屋で昼食をとり、お米を置くと、ぼくらは、スタッフで日系人のジケロくんと、キアタウ村生まれの奨学生を二人のせて、ふたたび二台の四輪駆動車のトラックにのって、奨学生に学用品を届けるためにキアタウ村にむかった。
 道は行く手で二手に分かれ、まっすぐいくと丘陵の向こうにジャングルがあり、急な斜面や川を突っ切ってラカンの町にでる。
 ラナコランからさらにミンダナオ子ども図書館に向かうときには、そちらを抜けて行くけれども、ぼくらは途中で左横の細道にはいり、車がようやく通れるような曲がりくねった細道をキアタウ村に向かった。
 斜面を横切ると、広大な風景が広がった。
 180度の展望だ!
 足下にいくつもの丘陵がつづき、その先の濃緑色の平地の向こうには、ふたたび青い影になった広大な丘陵が続いている。
車をとめると、ぼくらは、壮大な風景のまえにたった。
 目の前には広大な山が波のように広がり、左からゆるやかに下って広がる平野のかなたには、遠くダバオ湾がかすんで見えた。
 そして、大きな谷向こうの山並みの彼方には、うっすらと濃紺色の顔を出しているフィリピンの最高峰、アポの姿が浮かびあがっていた。マノボ族の人々にとっては、聖なる神の山だ。
 みんな、絶句している。



 すると、日系人でスタッフのジケロくんが、下手に茶碗を伏せたようなかっこうで見える丘を指していった。
 「あの丘とそして左側の丘が、日本軍がキャンプしていた場所です。
 海が見えるダバオ湾の方から、カリナンをこえて、日系人とともにジャングルに逃げこんで来た日本軍は、ここあたりで米軍と、最後の戦闘を行ったんです。
 もともと戦前からカリナンには、日系人と呼ばれているたくさんの日本人が住み着いていました。彼らは、現地のマノボ族やバゴボ族と結婚して、こちらではアバカとよばれるマニラ麻の栽培をしていたのです。
 私のおじいさんも、そんな日本人の一人でした。
 でも、第二次世界大戦が起こり、日本軍が敗退していくと、兵士たちは日系人といっしょに、カリナンからさらに奥のジャングルに逃げこんでいったのです。
 日系人だった私のおじいさんも、小さい私の父を背おって、ジャングルのなかを逃げまわった話をしていました。
 そして、最後に日本軍が追いつめられて逃げこんだのが、この下に広がっている地域だったんです。
 これからいくキアタウ村には、その先の方に深い谷があって、そこは木々に隠れた大きなトンネルのような洞窟があるんです。
 あそこに見える丘にキャンプを張っていた日本軍が、爆撃を受けて敗残兵となり、最後に逃げこんだ場所がそこだったんです。
 行ってみますか?」
 ミンダナオで戦死した叔父を持つ兄弟は、おおきくうなづいて「死んだ叔父に、導かれているような気がする」言った。




 妻のエープリルリンもいった。
 「わたしも、子どものころ、夜寝ないでいると、おじいちゃんから、『日本人が来るから、早く寝なさい!』といって、寝かされたのよ。
 おじいちゃんは、日本兵の炊事当番をやらされていたみたいだけれど。」
 ぼくの父の兄も、フィリピンで戦死しているけれど、軍医をやっていてスペイン語も話せて、ずいぶんもてた人らしい。
 ときどきその人が側に立ち「本当に戦争は嫌だね。こんな可愛い子どもたちがいるところで、なぜこんな、残酷なことをせにゃならんのか」と、ぼくにつぶやいているのが聞こえる気がする。
 ときどき、その叔父が、ぼくをここに引っ張りこんだような気がすることもある。
 「本当に戦争は、いやですね。」
 叔父がミンダナオで戦死した兄弟がいった。

 
 
 








 4,ダバオ生まれの姉妹のこと 
 


ダバオ生まれの姉妹のこと

 一昨年に九州から来た、70歳代の姉妹のことを、ぼくは思いだしていた。
 彼女たちは、なんと戦前にダバオで生まれたのだった。
 ミンダナオで子ども時代を過ご過ごすことができて、子ども時代は、ほんとうに楽しかった、といっていた。
 戦前まで、ほんとうに多くの日本人、とくに九州沖縄の人々が、ミンダナオにすんでいたのだ。
 お姉さんは、ぼくに語られた。
 「しかし、戦争が起こり、日本軍が上陸してきて、そのご敗戦の色が濃くなると、わたしたちは、身を守るためにも家や土地も放棄して、日本軍といっしょに、ダバオからカリナンに移動しました。
 そして、いよいよ最終戦に突入すると、爆撃を避けて、さらにそこからジャングルのなかに逃げこまなくてはならなかったんです。
 そのご終戦になって、父は、無条件降伏をして、わたしたち家族は、米軍の手によって日本に送還されました。
 それいらい、70年のあいだというもの、当時の事を思いだすと、あまりにもたくさんの想い出がよみがえってきてしまって、ミンダナオに足を踏み入れる気持ちにならなかったんです。
 でも、夫からミンダナオ子ども図書館のことを知らされて、なんとしてでも、自分の生まれた場所に行ってみたくなり、夫や甥や姪といっしょに、思いきってミンダナオに来ることに決めたんです。」
 その話をうかがって、これは、何としてでも思いに答えてあげなければ、と思った。そして、今回と、ほとんど同じルートを考えついたのだった。



 姉妹がダバオで育った場所は、今は繁華街になっていた。
 そこから、ミンタルの日本人墓地により、カリナンの日系人の歴史を展示した資料館についた。
 資料館には、昔のダバオの日本人小学校の生徒がうつっている写真が、アルバムになって保存されていた。
 興味深くページをめくっていた姉妹は、ある写真の前で驚いて声をあげた。
 「ほら、ここに、わたしたちが写っているわ!」
 その後資料館を出て、カリナンからさらにジャングルに逃げたという、山の方の村に向かった。
 その村には、ぼくの知っている日系人のおじいさんがいらっしゃって、日本語もしゃべれて、姉妹は、おじいさんの話に、当時の事を思いだして語った。
「わたしたちは、日本軍といっしょに、カリナンからさらに奥のジャングルを、必死で逃げまわったんです。」
 おじいさんは、答えた。
 「まさに、ここから奥の方のジャングルだね。」



 姉妹は、その体験をこう語った。 
 「でも、現地にすんでいる先住民たちよりも、日本の軍人さんのほうが、怖かった。塩からなにから、もっているものはみな、取りあげられてしまったし。
 けっきょく、まだ小さかった弟は、ここのジャングルのなかで亡くなりました。」
 おじいさんは、自分の母親がバゴボ族だったとかたった。
 その老人は、当時日本軍の司令官が「先住民は、おれたちを裏切る可能性があるから殺せ」という命令をくだして、兵隊たちが大きな穴を掘って、先住民たちを生き埋めにしようとした話を語ってくれた。
 「それゆえに、私の父親は、バゴボ族である妻や子どもたちの事を心配して、日本軍からも離れて、家族をつれて、さらにジャングルの山奥へと逃げていった」のだという。
 その後も、父親は、家族をおいて日本に帰ることなく、現地にとどまって、自分が日本人であることをかくして、ここで生き続けてきたのだという。
 先住民たちといっしょにジャングルに逃れて、自分が日本人であることを隠して行き続けてきた人たちは、今もたくさんジャングルにいる。
 ミンダナオ子ども図書館の仕事で、外国人がとても入れないような先住民の貧困の村々を訪れているとき、ときどき後ろからぼくの肩をたたいて、日本語でこう語りかける老人がいる。
 「実は、わたしのお父さんは、日本人。」
  











 

 5,広大な山の斜面とジャングルの破壊 


広大な山の斜面とジャングルの破壊

 広大な草原の急斜面のなかを、蛇のように曲がりくねってつづいている、泥と石の山道を下っていくと、下方にキアタウの村の家々が見えてきた。
 「まるで、北海道の大雪山の裾野に広がった開拓地を見ているみたい。」
 シェアハウスの娘さんが、興奮したようすで語った。 
 最初にこの風景を見たときには、まったく同様の驚きを、ぼくも感じたものだった。
 けれど、長く現地で活動していると、その裏側の事情が、少しずつに見えてきた。
 この近辺の山々は、もともとは深いジャングルだったのだが、森林の開発が進み、ラワンやマホガニーといった、ときには50メートルに達する巨大な熱帯樹が、ことごとく切り倒されて、なんと、そのほとんどが、日本に輸出されていったのだという。
 広大な草原のように見える斜面は、なんと膨大な森林破壊の残骸だったのだ。




 後に、日本で会った貨物船の船乗りが、ぼくにこう語ってくれた。
 「ミンダナオのダバオには、よく行ったよ。材木を運びにね。」
 彼の話だと、ミンダナオからの材木の運搬は、最初は米国が行っていたが、アメリカが撤退した後に日本が請け負い、輸入した材木を合板に加工して米国に売却したり、日本で建材や家具やコピー用紙や本や新聞紙にしていったのだという。
 とくに、1960年頃から、日本で自然保護が叫ばれて、自国の森林や里山を保護し始めたころから、ミンダナオから日本への木材輸入量は10倍に増えたという。
 彼が船乗りとして、足繁くミンダナオにかよい始めたのはこの頃からだった。
 フィリピンの特にミンダナオには、良質の木がたくさん生えていただけに、伐採も激しく、かつ乱暴だった。それゆえに、森林に与えたダメージは深刻だった。
 貧しく社会に疎い山の先住民たちにとって、森は神々の世界であり、個人による土地所有という概念は無く、ときにはタバコ一本で、島外からの移民たちや資産家や企業に、先祖伝来の森を手放していったりした。
 たとえ土地を手放さなかったとしても、知識としても経済的にも、植林することは難しく、その結果、今では伐採によってフィリピンでは、国土の60%あった森林は、1985年には27%に減少。ミンダナオでは、原生林は、6%しか残っていないと言われている。
 かつてジャングルにおおわれた島が、ほとんど裸になってしまったのだ。



 このキアタウに向かうアラカン地域の風景は、地平線まで続く広大な緑の大草原のように見えるけれども、激しい森林破壊の残骸だったのだ。
 先住民の焼き畑農業が、森林を破壊していったという説もあるが、現地の首長たちと話を聞くと、伝統的な焼き畑農業は、かつてはジャングルのなかの一部の場所を焼いて畑を作り、その畑も、数年おきに転々と場所を変えておこなっていたのだという。
 なぜなら、狩猟採集文化のコスモロジーを基盤にして生活している先住民族たちにとって、大自然の一部である山も土地も、人間が所有するものでは無く、神々のものであったからだ。
 焼き畑をして農作物を作る場所も、一時的に山の神から借りる場所であり、数年したら神々に返し、すなわち自分たちは別の場所に移動して、かつての畑はジャングルにもどして、新たな場所では神に祈願をしてジャングルの一部を焼いて、つぎの畑を作った。
 こうして、畑を転々と移動することによって、以前の焼き畑は、神々の住み家であるジャングルにもどし、疲弊した土もふたたび落ち葉で豊になり、自然を破壊すること無く神々とともに生活していったのだ。
 土地は人間のものではなく神々のものであり、人間はそこを一時的にお借りして住まわせてもらい、やがて神々に返す、という考え方は、ぼくがかつて北海道に住み、アイヌのイトばあちゃんから聞いた話とまったく同じだった。
 
 








 

6,アイヌの自然観とマノボ族 


アイヌの自然観とマノボ族

 アイヌのイトばあちゃんの話だと、たとえ人間の住む家でも、持ち主が亡くなると焼いて、土地を神々に返したのだという。
 なぜなら、人は神々によって生かされていて、神無しに人は、生きられないからだ。
 このことは、『火の神の懐にて』(松居友著)で書いたけれど、人間(アイヌ)は、人間以外の自然界の神々(カムイ)によって、養われている。
 毎日食している、穀物も魚も動物も、みな神々の世界である自然界(カムイモシリ)で育った神々(カムイ)で、人のためなら喜んで死んで肉体を捧げる。
 例えば捕獲した熊や鹿や鮭なども、死んだら肉体から離れて自分の頭に座っていらっしゃるから、神窓から家の中に招いて、囲炉裏の火の神の前に置き、人間(アイヌ)は、そこにいらっしゃるカムイに、感謝し賛美して神の国(カムイモシリ)に送り、その後で肉体を調理していただくのだ。
 アイヌのイトさんは、そのとき最後にこうおっしゃった。
 「そのように、神々(カムイ)を賛美し感謝し祈ること、それがこの世で人間(アイヌ)に課された使命であり役割なのだよ。
 それを忘れて、生きている人間は、もはや人間では無い、少なくともアイヌ(本当の人間)じゃない!」
 たぶん、日本で食べるときに言う言葉「いただきます」も、「あなたが死んで捧げて下さった肉体を、心から感謝していただきます」という、死んでもその場にいる神を天に送るための感謝の言葉だったろう。




 マノボの人々も、アイヌと同様に、山の畑に陸稲などの種を蒔くときには、豊作の祈願をする。
 その祈願の仕方も、アイヌの人々が使うイナウと同様の御幣を使うし、村人たちは、アイヌや沖縄と同様に、大人も子どもも刺繍で飾った赤や青の明るい礼服を身にまとい、森や野原で首長を囲み、御幣の立った祭壇に向かって豊作祈願をする。
 そのご、畑で男性が木の枝をもって、女性はその跡をカゴに背負って、賛美と感謝と祈りをもって踊りながら種を蒔く。
 土地は個人の持ち物ではなく、一時的に神から借り受けている場所なのだ。
 そうした神聖な土地から収穫されたモミ米は、大地という神の懐から授かった神聖な精霊たちでもあり、それゆえに全てみんなで平等に分かちあい、残りは高床式の特別な聖なる穀物倉におさめられ、つぎの種まきや、飢饉のときの緊急の食物として保存された。
 先住民の人々は、森林を保護することの大切さを、狩猟採集文化を基盤とした独自の世界観から、ちゃんと学んで実践していたのだった。
 ところがそうした生活が、海外からの植民地主義で破壊され、さらに大戦後は、お金と物を重視したインターナショナルな経済的自由主義、現地のお目から見ていると新植民地主義と言いたくなるような、島外からの移民や資本家やインターナショナルな企業の力を背景に、つぎつぎに破壊されていったのだろう。
 いまここで目の当たりにしているジャングルの破壊の様相は、まさにその結果起こったことのひとつだ。
 結局は、森林破壊の後は表土が流され、保水力が無くなった広大な大地に降る雨は、下のイスラム地域を襲い、リグアサン湿原の一帯に、毎年6、7回の大洪水を起こしている。
 東南アジア最大と呼ばれているリグアサン湿原には、4000世帯を上回るという漁民が生活していて、屋根まで届く洪水に家を倒され、まだ泳げない幼子たちが亡くなっている。
 現地では、洪水の原因の一つは、ジャングルの伐採による鉄砲水に対応しきれなくなり、湿原の上流に日本政府のODAで作られた、ダムの水が突然解放されることによる言われている。当時、地元の怒りをかって、ダム建設に従事していた韓国人技師が殺害された。











7,たくさんの子どもたち 


たくさんの子どもたち
 
 壮大な風景を目の前にしながら、粘土質の急な斜面を車で下っていくと、キアタウの村が見えてきた。竹の壁に、屋根はニッパ椰子か、良くてトタンをふいたシンプルな小屋だ。
 開けっぴろげの窓や入り口からは、子どもたちが顔を出し、丘の上の方から降りてくる二台の車を見つめている。
 車が村に近づいて来て、それがミンダナオ子ども図書館の車だとわかると、子どもたちは、手をふりながら家から飛びだしてきた。
 荷台からは、ブラジルの双子の兄弟が、同乗しているキアタウ村の奨学生たちといっしょに、大喜びで手をふりかえしている。
 村に入ると、どこからこんなにたくさんの子どもたちが来たのだろう、と思うほど、多くの子どもたちが車を目指してかけよってきた。
 「そんなに家があるとは思えないのに、何でこんなにたくさんの子どもがいるの?」
 シェアハウスの娘さんは、驚いて言った。
 「一家族に平均して7人ぐらいは、子どもがいるから・・・。」
 そう答えると、娘さんは、絶句したあと言った。
 「これじゃあ、子どもを学校に行かせたり、食べさせるだけでも大変ね!」
 「確かにそう。だから、産児制限をすれば良いのに、という人もいるけれど・・・でも、大自然が豊かなように、子どももたくさんいる方が、幸せだと思っているみたい。」
 「子どもは天からの恵みっていう、感覚なのね。」
 「でも、確かに貧しくって、なかなか全員を学校に行かせることはできない家族が多いね。この近くのもっと貧しい村では、子どもたちは全員、小学校の一年生に登録されるのだけれど、2年生になると、70パーセントがストップしてしまう。」
 「何故なの?」
 「2年生になると、午後の授業が出てきて、お弁当なんか持って行けないからね。特に女の子なんかは、食べ盛りの13、4歳になると結婚させられていく。」
 ところがあるとき、マニラから政府の福祉局の職員が来て、「親のいる子は、親元に帰すのが本来の福祉のあり方だ」という講演をして帰っていった。
 確かに、ミンダナオ子ども図書館でも、親元か
ら通える子は、できるだけ自分の村に住んで通うようにしているのだが、なかには親がいても、極貧の子や、学校が遠い子の場合は、本部や下宿小屋に住まないと学業が続を続けられない。
 そういう子たちは、本人の希望と保護者の理解があれば、本部や下宿小屋に住めるようにしていた。村にもどりたくなれば、翌年になって、いつでももどれるので、孤児院とは異なっていて、門が開いていても、逃げ出す子もほとんどいない。




 ところが、マニラから来た福祉局の職員が講演で「親のいる子は、親元に帰すのが本来の福祉のあり方だ」と言ったものだから、ソーシャルワーカーたちも当惑して、本部や下宿小屋にいる、両親がそろっている子たちを、無理やり家に帰した。
 すると、その子たちのほとんどが、半年もたたずに学校をストップして、家政婦や食堂の皿洗いなどの仕事を探しに町に出ていった。
 そして、その中の一人が、ある日突然、ミンダナオ子ども図書館に駆けこんできて言った。
 「もうわたし、どうしたら良いのかわからない。家政婦の仕事をしたら、雇い主からセックシャルな嫌がらせをされたの。
 でも、家に帰っても、貧しくって、みんな3食もたべられないのに、親が良いって言ってくれても、わたしだけが、学校になんて行かれないわ。
 わたしといっしょに、村にもどった子たちも、食べ盛りだから、13歳で、無理やり結婚させられた子もいるし。
 それで、わたしたち決心して、学校をやめて、町に出たんだけれど、嫌な目にあったりして泣いている。
 わたしも、もう絶対に職場にも帰れないし、家にも帰りたくない!」
 といって、ワッと泣き出した。
 それで、親とも話し合い、いったん外に出した子たちを、再び本部や下宿小屋にもどすことにした。子どもたちも親たちも大喜びした。
 そのことを、地元の町の福祉局の職員に話すと、マニラの福祉局とは異なって、地元の福祉局の職員たちは、現状がよく理解できるのでこうおっしゃった。
 「だいじょうぶ、ミンダナオ子ども図書館は、本当に子どもたちを救っていますし、本部が何を言おうとも、見て見ぬふりをしていきますから・・・。」
 2017年に、ミンダナオ子ども図書館は、北コタバト州の認定から、フィリピン政府直轄の認定特別非営利法人になったけれど、今では、マニラから調査に来た職員も、ちゃんと理解し認めてくれている。
 確かに、多産は貧困の原因の一つで、避妊などの出産制限をしたほうが良いのでは、とぼくも最初は思ったけれど、ミンダナオに15年もいると考え方が変わってきた。
 どんなに大変でも、家族がみんなで力を合わせて助けあ事の方が大事だな。だから、せめて子どもは、一家族5人はいた方が良いなあ・・・。 
 












 

8,村に泊まることに決めた 


 村に泊まることに決めた

 車が、村のまん中に止まると、子どもたちがまわりを取りまいた。
 ブラジルの双子が、荷台から飛び降り、lシェアハウスの娘さんや、叔父を亡くした兄弟が車から出ると、子どもたちは大歓声をあげて近寄ってきた。
 「今日、ここに泊まっていくの?」
 「どこの家に、泊まるの?」
 「ぼくの家に、泊まったらいいよ!」
 ミンダナオ子ども図書館では、子どもをスカラシップで支援してくださっている、訪問者が来られたときには、必ずその子がいる村までおつれして、当人に会わせ、生活のようすも見てもらっている。



 そういうわけで、たびたび、日本からの訪問者も、キアタウにいる奨学生に会いに来られ、家族からの強い勧めもあり、ときにはその子の家に泊まっていかれた。
 それを見て思ったのだろうけれど、あるとき村の首長から、こんな提案がだされた。
 「この村に、日本から来た人が、泊まれるようにしてはどうだろうか。セキュリティーは、万全にするから。村の発展のためにも、考えてみてくれないかなあ。」
 ぼくも、たびたび泊まっていたし、それによって訪問者も、現地の生活を深く知り、また子どもたちと遊んだりすることで、生涯心に残る、良い体験ができるだろうと思った。
 とりわけ、孤独や心の貧困で悩んでいる日本の若者にとっては、素朴な先住民の生活や、困難にめげずに、いつも明るい子どもたちと出会う、こうした体験そこが、悩みを乗り越えて将来を切りひらく、縁となるだろうと思った。
 そこでその後、村の人々たちと集会を持ち、話しあって、不公平のないように、すべての家々のリストをつくり、特に貧しい家を優先して、訪問者が泊まれるようにした。
 ただし、泊まる場合は、安全のために必ず、スタッフかしっかりした地元の奨学生が同宿し、夜のトイレにもついていき、外で見張っていること。夜のトイレも、地面に穴を掘ったところに板を渡しただけで、囲いはビニールシートだけだったりするし・・・。
 そのかわり、泊まった家には一泊1000ペソ(2000円ほど)民泊代を払うこと。二泊以上する場合は、毎晩泊まる家をかえて、家から家へと収入が公平にはいるようにし、コミュニティーには、べつに1000ペソをはらうこと、ただしこれは何泊しても一回だけにした。
 しかし、村の人々は最初、ちょっと心配そうにいった。
 「寝るところは、うちなんかぼろぼろの竹の小屋だし、床も竹で、せまくて寝心地が悪いし、大丈夫かなあ。」
 そこでぼくは、答えた。
 「むしろ、本当の生活を体験してもらった方が良いですよ。わたしたちの車の中にも、非常用のあつでの服や、寝袋があるから持たせます。」
 たしかに、キアタウは、800メートルを超える標高の場所にあるから、夜などけっこう寒くなる。



 すると、主婦たちが言った。
 「食べものは、どうしたらいいかしら?」
 「うちなんか、貧しくて、お米やおかずを買うお金も無いし?」
 「お塩も買えないし・・・。』
 ぼくは、村人たちにいった。
 「食べ物は、できるだけ皆さんがいつも食べている、日常の食事をだしてあげてくださいね。お米は買わずに、カサバイモとカエルの煮付けが一番いいね。そのほうが、本当の生活が、わかって良いから。
 食事も別々に食べないで、子どもたちも含めて、家族でいっしょにしたほうがいいな。
 床にオイモのかけらが落ちても、拾わないで、いつものように、床の竹のすきまから下に落として、地鶏たちが食べるのを見せてあげたらいいかもしれない。
 そしたら『この村では、ニワトリとも、食べものを分かちあって生活しているんですね!』といって、感動するかもしれないし・・・。』
 村人たちは、大笑いした。
 すでにこの村には、何人もの日本の若者や中高年の人々が、泊まっているので、集まってきた村の子たちは、訪問者の手を取って、「どこの家に今日は泊まるの?」と、聞いてくるのだ。
 子どもたちと手をつないで歩きながら、そんな話を、双子の兄弟やシェアハウスの娘さん、そして叔父さんを亡くした兄弟に話しながら、ぼくらは、コンクリートのタンクの前に立った。
 タンクは貯水槽になっていて、蛇口をひねると、中から水が流れ出してきて、村の女の子たちやご婦人たちが、楽しそうにおしゃべりしながら、食べ終わったお皿を洗ったり、少年たちが水くみをしたりしている。
 「ほら、この貯水タンクも、日本から来た方が、コミュニティーのために置いていった寄付で作ったんですよ」と、訪問者たちに、ぼくはいった。
 「それまで、水くみに、はるか下の小川まで、20分ぐらいかけて行かなければならなかったんです。今でもたくさんの洗濯物があるときには、子どもたちは、洗濯物を山のようにつめたタライを頭にのせて、下の川まで行きますけどね。
 そこには、日本軍が逃げた洞窟もあるし、洗濯が終わると、最後は裸になって川に飛びこんで、自分を洗濯!




 「夜は、どんなお料理をだしてくれるの?」
 シェアハウスの娘がたずねた。
 ぼくは、答えた。
 「斜面でも土地がなんとかある人は、トウモロコシを植えたりして、ひきわりトウモロコシをごはんのように炊いて、出してくれるけど・・・。
 ふだんは、空き地に生えているカサバイモかサトイモを、一日に2回食べられれば良いほうかな。」
 「おかずは、なんなの?」
 「うーん、たまに、川でとった魚とかカエルを料理することもあるけどね。塩か塩辛を、イモにつけられれば良い方かな。
ニワトリを床下に野放しにして飼っているけど、あれは、クリスマスとか父さんの誕生日などのお祝いの日に、特別にさばいて食べるおおごちそうなんだよ。
 もし、父さんが山に猟にいって、猿やイノシシがとれればおおごちそうだし、シキヘビがとれれば、おいしい蒲焼きが食べられる!」
 ニシキヘビと聞いて、みんなは目をまん丸にして顔をしかめた。
 ぼくは、ミンダナオ子ども図書館の文化祭で、マノボ族の料理を食べるときに、ときどきニシキヘビを生け捕りにして、解体して炭火で蒲焼きにすることを話した。
 「ニシキヘビって、解体して心臓をとっても、まだ生きて動いているんだよ。でも、蒲焼きにすると、とっってもおいしい!
 でも、日本の訪問者が泊まるときは、たいがい地鶏をつぶして焼いたりして、陸稲を炊いてだしてくれる。『そんな、特別料理は、出さなくってもいいのに』と言っているんだけどね。さすがに、はずかしいんだろうな。
 村には、ミンダナオ子ども図書館の奨学生もたくさんいるし、君たちのめんどうも見てくれるし、いっしょに野原で遊んだりすると、一生のおもいでになるよ。
 そうだ、君たちも二泊ほど、キアタウ村に泊まってみるかい?」
 そう話すと、シェアハウスの娘さんも双子くんも、待ってましたとばかりにおおよろこびした。双子くんなどは、ガッツポーズだ。




 叔父がミンダナオで戦死した兄弟は、食べものの話などを聞いて、ちょっと緊張したおももちだったけれど、日系のジケロくんがこう語った。
 「ぼくもいっしょに、キアタウ村にいって泊まるからだいじょうぶですよ。
 急病になっても、運転のできるスタッフも同宿するから、すぐにダバオの病院に車でいけるし・・・。」
 まわりにいる子どもたちに「訪問者たちが、今日から二泊ほど、この村に泊まることにした」と、話すと子どもたちは、大喜びで手をたたいた。
 「うちに泊まって!」
 「うちにも、泊まってちょうだい!」
 ぼくたちは、広場から村の首長の家に行き、話をつめた結果、双子の兄弟には運転手のスタッフが、シェアハウスの娘さんには、奨学生の高校生が二人、そして叔父を失った兄弟には、日系人のジケロくんが同宿して、それぞれ、小さな小屋のような家に泊まることになった。
 「ぼくたち、英語が出来ないけど、だいじょうぶかなあ?」
 ブラジル人の双子がいった。
 「だいじょうぶだよ、ぼくらも泊まることに決めたから、何かあったら聞きにおいで。」
 ブラジル人の双子たちの手をひっぱって、子どもたちは、彼らが今宵泊まることになった家の方に、引っぱっていこうとしている。
 そのなかの小さな少年が、急にしゃがんでクワックワックワッと言いながら、二人の前を跳びはねて、何かをしゃべっている。
 「何て言ってるの?」
 双子が聞いた。
 「うん、今日の夜、松明もって、いっしょに晩ご飯に食べる、カエルをとりに行こうって言ってるよ。」
 双子たちは、いっしゅんビックリした顔をしたけれども、子どもたちの方をふり向いて言った。
 「オッケー、オッケー、レッツゴー!」
 

















 




日本の子ども、若者たちと
ミンダナオの子ども達

   

日本とフィリピンの自殺率 
   
 

 ミンダナオに足を踏みいれて最初の10年というものは、度重なって戦争が起こるイスラム地域の情勢や、平地を追われて山岳地域で極貧の生活を送らざるを得ない先住民などを目の当たりにして、強い衝撃を受けると同時に、日本では想像もできない状況のなかでも、必死に生きようとしている子どもたちの様子を目の当たりにして、心身ともにミンダナオの子どもたちの救済の事だけに熱中して活動してきた。
 そのようなわけもあって、支援者の方々いがいは、ほとんど訪問者を受けいれずにきた。
 ところが、テレビの番組『世界・なぜここに?日本人・停戦内線をくりかえす危険地帯で、マノボ族の首長になった日本人』や、池上彰さんの『ジャパンプロジェクト』という番組で、俳優のパックンが来られたりしてから、日本の若者たちから、訪問希望が入るようになった。
 訪問してきた若者たちは、ミンダナオ子ども図書館に来ると、辛い過去を想像することもできない、たくさんの子どもたちに囲まれて心底感動し、帰る日には、ほとんどの若者たちが泣きだす。
 聞くと、表向きは明るい若者たちであっても、日本での生活が、いかに孤独であるかが見えてきた。
 虐めを受けたり、引きこもりをくり返していたばかりではなく、自殺未遂をした子も多い。
 そこで調べてみたところ、日本の青少年の自殺率は、半端でないという事がわかってきた。
 例えば、武蔵野大学、杏林大学兼任講師の舞田敏彦氏の報告によると、WHOの調べでは、十五歳から二十五歳の青少年の自殺率は、日本が世界一だそうだ。





 絶望の国日本は、世界一「若者自殺者」を量産している
 舞田敏彦:武蔵野大学、杏林大学兼任講師(http://president.jp/articles/-/17058)
15~25歳の自殺率は、90年代以降ずっと上がり続けています。しかもそれは、日本の特徴のようです。
以下の図をご覧ください。




 日本の若者の自殺率は、この20年間でトップにのしあっています。欧米諸国は減少傾向にあるのに対し、日本はその逆だからです。
 お隣の韓国も、似たような傾向を呈しています。「失われた20年」の困難は、若年層に凝縮されてきたといってもよいでしょう。

 これは、有る専門家の方から直接聞いた話だけれど、こうおっしゃっていた。
 「統計では、あたかも韓国や他の国の方が高いように出ていますけれど、日本では、本当は自殺であっても遺書や確証が得られないと『人身事故』と報告されているものがかなりあり、事故死は自殺に数えられないので、若者だけではなく、中高年をふくめた日本の自殺率は世界一かもしれませんね。」




 若いころからぼくも、何度か死の淵に立った経験がある人間だけれども、日本から来る若者たちが、ミンダナオの子どもたちに囲まれて、ときには激しく泣きだす姿をみると、とても放っておけない気持ちになった。
 統計の云々は別にしても、なぜこんな状態になってしまったのかは真剣に考え、取り組まなければならない問題だろう。罪の無い子どもたちが可愛そうだ。
 日本の自殺の多さにくらべると、フィリピンの自殺率は非常に低いのは驚きだ。
 かなりデータに疑問が残ると言われている、世界保健機関による年齢調整自殺率(二〇〇一五年)を見ても150位で、アジアでは最も低い自殺率だと言われている。
 こうした若者たちが、ミンダナオ子ども図書館に来て、明るい子どもたちに囲まれて、生きる力を受けとって、心を回復して帰っていく姿を見せつけられると、日本の若者や子どもたちの現状を、見て見ぬふりをして放っておくことが出来なくなってきた。ぼく自身が、生きる力に満ちた子どもたちから、本当に多くの事を学ばせてもらったから。
 そうした体験からも、これからのミンダナオ子ども図書館のありかたとして、今考え始めていることは、生きる力を失って、引きこもりや自殺に向かっていく日本の子どもたちを、どのように救ったら良いのかという点も視野に入れて、これからの活動を展開していくことだ。
 すでに閉ざしていた門戸を開き、心の傷ついた若者たちを宿泊費もなく受け入れることをスタッフと話しあって決めました。人生に行きづまっている日本の青少年に、ミンダナオの子どもたちの持つ、生きる力を少しでも感じてもらい、一人でも二人でも救うために。   












ミンダナオ子ども図書館を訪れた若者たち 
   
 
  1,北海道から電話をかけてきた少女    


 「もしもし、松居友さんですか?
 わたし、北海道に住んでいる高校生なんですけれど、先日テレビの番組でミンダナオ子ども図書館のことを知って、今年の夏休みに、何としてもそちらを訪ねたくなったんです。」
 「いままで外国旅行は、どこに行ったの?」
 「初めてなんです。まだ、日本から出たことないけど・・・」
 「エッ!
 お父さんやお母さんには、お話ししたの?」
 「まだなんです。」
 「それなら、まず、お父さんやお母さんに話さなくっちゃ!」
 「わたし、お父さんいないんです。
 お母さんは、病院の看護師だけれど、毎日夜遅くまで働いていて、あんまりお話しする時間が無くって・・・でも、話してみます。」
 そうして、電話が切れた。
 それから数日して、母親からメールが届いた。
 「娘が、どうしてもそちらに行きたいと言うので、夏休みに入り次第、わたしもむすめといっしょに、そちらにうかがわせていただけますか。
 わたしは、仕事がいそがしいので、娘を送りとどけたら、その日のうちに、すぐにまた日本に帰らなければなりませんけれども・・・。」
 その夏、彼女は、母さんとミンダナオ子ども図書館にやってきた。
 ついたとたん、大勢の子どもたちに囲まれて、楽しくて楽しくて、母さんも帰りたくなさそうだったけれども、仕事の都合もあり、すぐに娘を残して帰っていかれた。
 まだ高校二年生だった少女は、ミンダナオ子ども図書館の子どもたちと、鬼ごっこをしたり、後ろの正面だーれをして遊ぶだけではなく、手こぎの井戸のそばで、石けんを服につけて、ゴシゴシ洗濯をしたり。ときには子どもたちに習って、庭の花壇に種をまいたり花を植えたりした。
 ミンダナオ子ども図書館は、1・5ヘクタールの草地のなかに、3棟の宿舎が建っていて、80人ほどの子どもたちがいっしょに住んでいる。
 広々とした庭には、花壇や野菜や果樹がうわり、コンクリートのお米干し場も広がっていて、早朝に起きて、子どもたちが大勢で、薪でご飯を炊いたり、モミ米を素足で広げて干したり、野菜を作ったり、花壇の手入れをしたりしている。
 ときには、木に登って、マンゴーやドリアンを採ってきて分けてくれるし、あちらこちらに咲き乱れている熱帯の花、ブーゲンビリアやハイビスカスやガーベラをつんで、髪にさして飾ってくれる。
 少女はすっかり、ここを気に入って、帰った翌年も電話をしてきた。
 「わたし、今年高校を卒業するんですけど、卒業したらミンダナオ子ども図書館のある、キダパワンの大学に行きたいんです。」
 これには、少々ビックリして、今ではその可能性も視野には入れているけれども、さすがに当時はお断りした。
 けれど彼女は、その後、琉球国際大学にはいり、休みになると、今も子どもたちに会いにくる。   

2,九州から訪れた娘さん    


 九州から訪れたべつの娘さんも、帰りがけにこう話してくれた。
 「わたし、ミンダナオ子ども図書館に来て、本当に良かった。
 ここの子どもたちだけじゃなくって、あちらこちをの山々を、仕事で走りまわっているスタッフたちに、連れていってもらった集落での体験がすごかった。
 四輪駆動車の後ろにのって、ジャングルをぬけて、橋のない川をジャブジャブわたったのは、本当にもうびっくり。
 あたりは、木のように見える背の高いシダの葉がおいしげっていて、見あげたら高い高い木の枝のうえに、猿たちが飛びまわって遊んでいるのが見えたの!
 そんな山のなかに、マノボ族たちが住んでいるのね。そして、ミンダナオ子ども図書館の奨学生もいて、学用品や、村の子どもたちには日本から送られてきた古着をわたしてあげたの。
 わたしね、自分の持っているボールペンもあげちゃった。
 でも、たくさんの子たちが、靴もはいていなかったし、服はボロボロ。だから、日本に帰ったら、古着を集めてミンダナオ子ども図書館に送ろうとおもっているの。」
 彼女が特に感動したのは、そうした僻村の子どもたちが、たとえ三食たべられなかったり、極貧で学校に行けない子たちも多いのだけれど、なぜかとっても明るくって、心から友情で迎えてくれたことだそうだ。





 「わたし外国人なのに、ここにいる子たちは、そんなことにはおかまいなしで、わたしの手を引っぱって言ってくれたの。
 『いっしょに遊ぼう!』
 『カエルつかまえて焼いたから、いっしょに食べない?おいしいよ。』
 『川に泳ぎに行こうよ!』
 『お花、頭にさしてあげるわね!』
 それに、みんな年齢がちがっていても、とってもなかよしで助けあうの。
 上のお姉ちゃんが、下の子のめんどうをよく見るし、なかには、赤ちゃんをだっこして遊んでいる子もいる。びっくりした。
 変な話だけど、ここだったら結婚して子どもが持てるなあ、と思ったの。生まれた子は、みんなで育てあっていくのよね。
 わたし、こんな体験、はじめてで、思わず涙があふれてきちゃった。」
 たしかにぼくも、ミンダナオにいると「子育て」ということばが、おかしく感じられてくるときがある。「子育つ」というのが、正しい言葉ではないかなあ?
 彼女は、こんなことも話してくれた。 
 「ミンダナオでは、ほんとうに女性が強くって、開放的で、のびのびとしているのにびっくりしたわ!
 働いている母親も多いし。
 たとえお母さんが働きにでていても、小さな子どもたちを、親戚や近所のお年寄りたちが、ちゃんとめんどうを見てくれているし、子どもたちも、子どもたちどうしで、小さい子のめんどうを見るのが当たり前なのよね。」





 それを聞いて、ぼくも思った。
 大事なのは、『子育て』することではなく、放っておいても子どもが育つ、『子育つ』環境をコミュニティーのなんかにつくることなのかもしれない。
 ぼくが子どものころは、そんな環境がまだ日本にもあった気がする。
 親が仕事で留守にしていても、となりのおばさんのことろでご飯を食べたり、お風呂にいれてもらったりしたし。
 子育ての責任を、母親だけに背負わすなんて、ほんらい無理かもしれないと・・・。
 彼女は、帰る時に、ミンダナオ子ども図書館の子どもたちに向かってこういった。
 「今度来るときにはねえ、古着を集めて、色鉛筆ももってくるから、みんなで絵を描いて絵本をつくろうね。
 そうだ、みんなの大好きな、ふりかけも持ってくるよ!」
 「わーーーい!」
 子どもたちは叫んだ。
 お別れ会の時に、彼女は子どもたちに取り囲まれ、抱かれてなきだした。
 「ありがとう!ありがとう!
 また必ずもどってくるわね!」   







 3、泣き出した若者   
  

 なかには、現地に到着したとたん、大喜びで迎えてくれる子どもたちに囲まれて、茫然自失となったあげく、ワッと泣き出す若者もいる。
 「どうしたの?」
 驚いてぼくがたずねると、彼はこう答えた。
 「ぼく、こんな体験、いままで日本で、一度もしたこと無かったんです。
 こんなにたくさんの子どもたちの、明るい笑顔に囲まれて、手をにぎられて、抱きつかれて・・・。」
 聞くところによると、ミンダナオ子ども図書館に到着したときは、日本にいるときと同じように、人と人との間には意識的に距離をたもち、壁を作らなくてはいけない、と思ったという。
 ところが、いくら努力しても、ここの子どもたちに囲まれてしまうと、心の壁がどんどん壊されていって、何が何だかわからなくなって、どっと涙があふれ出てきたのだという。
 「でも泣いた後に、今まで知らなかった別の自分が、心の奥底から湧き上がってきたようで、幸せで幸せで!
 こんな経験は、生まれて初めて!」



 なかには、子どもたちに囲まれて、自分の胸にこみ上げてきた喜びの涙に驚ろいて、部屋に飛びこんで泣いて泣いて、出てきたときには、憑きものを落としたように、さっぱりとした顔になった娘もいた。
 その後数日たって、そうした若者たちから話を聞くと、こうした返事が返ってきた。
 「ぼく、生まれつき臆病で、日本では、心を開いて何でも話せる親友を作るのが、とっても難しかったんです。」
 「たとえ友だちどうしでも、意識的に間合いをとって、距離をたもってつき合うことが礼儀だと、先生から注意されていたし・・・。」
 「わたし、心に壁を作りながら生活しないと、日本の社会では、絶対やっていけないと思っていたの。」
 先ほどの若者の話を聞くと、就学前は、保育園の園庭で遊ぶのがせいぜいで、帰るとほとんど家に閉じこもっていて、近所の友だちと公園で遊ぶこともあまりなかったという。
 小学校にあがってから、学友たちはみんな教室や塾にかよっていて、家にかえっても両親はいないし、ましてミンダナオの子どもたちのように、放課後に子どもたちだけで鬼ごっこをしたり、縄とびをしたり、近くの川でカエルやカニをとったり、野山をかけめぐったり、木にのぼって木の実をとったりすることもなかったという。
 さらに中学校にはいると、運動部の部活がはじまって、勝ち負けを重視したバスケットやサッカーなどのゲームが重視された。
 彼は、うつむきながら、そのときの体験を、こうかたってくれた。



 「そんなとき、運動のできる子はスターになるけど、ぼくは運動神経がにぶかったから馬鹿にされていわれたんだ。
 『おまえなんか、出なくってもいいよ。引っこんでろ!』
 そのあたりから、だんだん学校にいくのが嫌になって、引きこもりになっていった・・・。」
 きくと、彼は、中学だけは何とか卒業したけれど、そのごは受験競争を勝ちぬくために、学習塾にいかされて、とうとう登校拒否をおこしてしまったという。
 「でも両親とも働いていて、だれも家にはいないから、自分の部屋に閉じこもって、スマホあいての孤独な生活だったんです。
 でもここに来ると、子どもたちのようすがぜんぜん違う!」
 ミンダナオ子ども図書館の子どもたちは、年齢や宗教や民族はちがっていても、子どもどうしのあいだに壁がなく、外国人である自分にさえも、心を開いて飛びついてきたのでビックリして、なぜかわからないけど涙がこぼれ出てきたのだという。
 そんな、若者たちの話をきくにつれて、孤独や社会の壁にとり囲まれて、壁をいっきに飛びこえて、自由に世界を見わたすことが出来なくなっている、今の日本の若者たちの生活状況がしだいに見えてきた。
しかし、ミンダナオ子ども図書館で過ごしていると、数日後から、彼らの顔つきがどんどん変わりはじめていくのがわかる。
 まるでそのへんに咲いている花や、空を飛んでさえずっている小鳥たち、とりわけいつも彼を慕っていっしょに遊ぶ現地の子どもたちとおんなじような、自然でおだやかな顔になっていく。
 引きこもりだったという若者も、いよいよ、お別れの日が近づいてくると、ぼくにいった。
 「できれば、ここに住みたいぐらい。本当に日本に、帰れるかなあ?」
 最終日の夜、別れの歌をうたってもらうと、彼は子どもたちと抱きあいながら、大泣きに泣いた。
 「帰ってくるからね。必ずまた、もどってくるからね。
 ぼくのこと、忘れないで!」
 そして翌日、ダバオの空港に送りとどけると、旅立ちの前にぼくにこう語った。
 「日本では、つらいこと寂しいことが、本当にたくさんあって、ときには死にたいと思ったけれど、もう大丈夫!
 これからも、つらいことはあるだろうけど、いざとなれば、ここに来れば救われるから!」
 「うん、いつでも訪ねておいで。ここは君のセカンドハウスだからね。
 再会のときは、子どもたち、もっと喜ぶよ!」   





 


訪問してきた
若者からのメール

本人の承諾を得て、掲載しました。 
 
 

おはようございます。
MCLに滞在している間に連絡ができず、すみません、27日に帰国しま した。
今回は20日間という短い間でしたが、また2年ぶりに子どもたち 一人ひとりの生き方に触れることができ、とてもうれしく幸せな時間 でした。
最後の日に、私のこれまでみんなから学んだこと、伝えたかっ たことを、写真と文章でスライドショーにして、みんなにみせることが できました。
みんなからもらったアイデアや考え方をいかして、これ からにつなげていきたいと思います。
写真絵本など完成したらまた連絡します!



一応私が考えている写真絵本のコンセプトは「心の豊かさ」、「身 近にある幸せ」を、MCLの子どもたちや現地の生活のなかから映し出していく。ということです。
私は心の豊かさを育むものは「人のつながり」、「分け合うこと」 、「感謝すること」 、「自然とともに生きること」 だとこれまでのフィジーの村での生活やMCLで、子どもたちや現地 の人たちとの生活の中で感じ学んできました。
それらを多くの人に 、私の写真絵本をみることではっときづいてもらえることができたら いいな、と考えています。
そして身近にある幸せとして、友達がいる こと、家族がいること、家があること、学校にいけることそんなひ とつひとつ些細なことなんだと、気づかせてくれたのも彼らです。 その思いを写真絵本に表したいです。

友さんエープリルさんと行き違いになったのはとても残念でした 、、、、。
5月に9人の学生が、立正佼成会さん企画の文化交流の発表で、九州にやってくると聞きました。
もし可能なら、私も空いている 日に会いに行きたいと思いましたので、そのことに関して情報があ れば、教えていただきたいなと思っています。 
また、私も東京にいったさいには、お会いしたいです!
これから就活で すが、自分らしく生きていける道をしっかり見つけたいと思います 。
またMCLのみんなに会いに行きます。
早くMCLに、 みんなに、この感謝を返していけるようにまだまだがんばっていきます。

 

 お返事有難うございます。帰国して、書こう書こうと思いながらここまで来てしまいました…
一週間、MCLに滞在させていただき、言葉にならない程の、たくさんの素晴らしい体験をさせていただきました。ストーリーテリングは勿論、子どもたちと交わした言葉や、そこで考えたこと、日本のせわしなさの中でも折につけふっと思い出し、しっかりしなくちゃと気持ちを入れ直しています。

 読み聞かせについて知りたくて、プグハナンの子どもたちに本の楽しさを伝えたくて、走ってきました。でも、何度も不安になりました。本当に読み聞かせで子どもたちを笑顔にできるのだろうか。独りよがりの企画になっていないだろうか。



 でもそんな不安は、MCLの子どもたちに会って吹き飛びました。
 本棚からお気に入りの本を持ってきて、恥ずかしそうに、誇らしげに読み語ってくれたたくさんの子どもたち、初めて読んだ絵本「みにくいアヒルの子」がどれだけ自分にとって大事なお話しなのか話してくれた子や、照れながら手作り絵本をくれた子どもたち。皆の笑顔に、どれだけの力と、心を動かす物語をもらったかしれません。

 誰もが心に、一冊の本を持っていて、どれだけ最初の頁が読むのが辛い、悲しいものであっても、今子どもたちの物語は、希望に向けて歩き出している。それが本当に嬉しくて。その未来を、私はこれからもずっとずっと祈り続けると思います。
 今はまだ何もできないけれど、いつかあの子たちの心を支えられるような、そんな社会人になれるよう、就活も頑張ろうと思います。何より、プグハナン版子ども図書館を作って、あの子たちにも笑顔になってもらえるように、できること全部しようと思います。

 話は変わりますが、今回私と同行した友人や、ここでのお話しをした後輩たちが、感動しています。もしお時間があれば、お話しをお聞きしてみたいと言っておりました。
 私は故郷松本に帰省がてらに、25日の講演会を、母と聞かせていただく予定です。とても楽しみです。

 長くなりましたが、ここにおいでと言って下さって、本当にありがとうございました。


 






ミンダナオ子ども図書館のスタッフ 
イズラハイダさん


イズラハイダさんから、サイトに載せてもらっても、
OK!むしろ嬉しい!という連絡をいただいて載せます。
彼女は、本当にしっかりと奨学生セクションを支えてくれています。
お父さんは、オスタージュといってイスラムの宣教師です。
人のために尽くすことを、父親からも学んだようですね。


わたしの名は、イズラハイダで、27歳です。
5人兄弟の2人目ですが、右の眼が白く盲目で生まれました。でも、もう片方の目で美しい世界を見ることができて感謝です。
片眼が盲目で、貧しい一家でしたが、愛に満ちた家族のなかに生まれたことを幸せに思います。
6歳になって、学校に通い始めました。でも、学校友だちやクラスの子たちを前にすると、盲目であることが恥ずかしかったので、いつもサングラスをかけていました。
盲目であることが知られたら、いじめられるんじゃないかと怖かったから。
そんなわけで、大きくなるまでずっとサングラスをかけ続けていました。
家は、経済的に豊ではなかったけれど、盲目であることは、学業を終了したいという思いの妨げにはなりませんでした。それどころか、高校を卒業したいという思いは強くなっていったのです。
学校は遠くて、通うのが大変でした。
小さな舟で川を渡り、川岸沿いに歩きます。授業のある日は、父さんが毎日、舟で送ってくれました。
雨の日などは、洪水になって大変でした。おぼれそうになって、救ってもらった記憶もあります。
ありがとうアッラー!



片眼が見えなかったけど、出来ればいつか、お医者様に診てもらいたいという夢は持っていました。
2004年のある日、友さんと奥さんが、わたしの叔母の家にやってきました。
そのときわたしも偶然いたのですが、彼らはわたしを見て哀れに思ってたずねました。
「目は、どうしたの?病院にいって診察してもうかい?義眼を入れることもできるかもしれない。」
それを聞いて、嬉しい気持ちとちょっと怖い気持ちが起こりました。
「ゆっくり、考えたら良いよ。」
その後すぐに、わたしは、のちのち後悔しないためにも、思い切って目を診てもらうことに決めたのです。
そして、手術の結果、わたしの病気の目はとって、義眼をいれたのです。
手術は、大成功でした。
手術のあと、わたしは、MCLと出会って、MCLが自分の人生を変えてくれたと感じました。
そして、高校の卒業式の日、MCLのスタッフの女性がわたしをたずねて写真をとって、わたしを奨学生にしてくれたのです。
「ビックリ仰天!」
彼女はいいました。
「あなたは、今MCLの奨学生になったのよ。これで、大学に行けるのよ!」
その時の気持ちは、言葉でいいあらわせません。それを聞いたとたん、うれしすぎて、うれしすぎて。
「わーーぃ!本当にわたしの夢がかなったわ!!!」
我が家には、娘を大学にいかせるほどの経済的な余裕など無かったからです。
アッラー神様!わたしは、学業を続けられる!
わたしは、南ミンダナオ州立大学の商科に入りました。
MCLの友さん、エープリルリンさん、スタッフのみなさん、そしてなによりも支援して下さった方のおかげで2010年に卒業できたのです。
それは、わたしの人生でも、一番嬉しいときでした。
MCLがなかったら、大学までは行けなかったからです。感謝という言葉を超えて、どう表現したら良いかわからないくらい。
現在わたしは、MCLのスカラシップセクションで、スタッフとして働いています。
MCLは、一つの家族だと感じています。
これを読んで下さっている皆様も、ここの子どもたちを支えて下さっている、家族だと感じています。
わたしは、いつもお祈りを捧げるときに、これからもいつまでも、MCLが貧しい子どもたちを助ける神様の道具として働き続けることができますように、と祈り願っています。

  
   




 
 




 生きる力ってなんだろう
   ミンダナオの子どもと
日本の子ども

(2:中高年の訪問者が言うには)  
中高年の訪問者が言うには

 また中高年の訪問者がミンダナオ子ども図書館を訪れて、生き生きと遊んでいる子どもたちを見て必ずいうのが、「自分が子どもの頃には、ちまたに同じ風景が広がっていたものです。」という言葉だ。
 神戸からこられた六十代の支援者の方は、現地の子どもたちのようすを見て、こう語られた。
 「ほんとうに、懐かしい風景ですね。
 わたしが子どもの頃には、学校が引けると毎日裏の山を走りまわって遊んだものです。
 裏山にのぼると、海が見えて、春にはワラビやフキノトウ、それにツクシも摘みました。
持って帰ると母さんが、大喜びで料理してくれたものです。
 住宅地の道路が舗装されてからも、路上で石けりや缶けり、縄跳びやおにごっこをして、学校の友だちだけではなく、近所の子どもたちどうしでも、本当に仲良く遊びました。
 小さい子も大きい子もみんな集まって来て、ときには赤ちゃんをおんぶしたお姉ちゃんもいっしょになって、おままごとや後ろの正面だーれ、などをして遊んだものです。
 ここの子どもたちを見ていると、当時のことが思いだされてなつかしくて、いいなあ。
 いっそうのこと、老後はここに住みたいなあ。」



 わたしも決して日本が嫌いなわけではないのだが、ミンダナオに帰って、子どもたちが遊んだりしている姿を見ると、心底ホッとする一人だ。
 子どもたちが遊んでいる姿が見えるのは、ミンダナオ子ども図書館の敷地内だけではない。そこから外に出ても、路地裏でも、林のなかにでも、子どもたちが遊んでいる姿が見受けられる。
 十五年前に、今の場所にミンダナオ子ども図書館を建てたころは、このあたりはゴムの木の林と果樹園ばかりだった。
 最初の建物は、あえて敷地に塀をつくらず、地域の住民たちが敷地内を行き来したり、外に住んでいる子どもたちもなかで、自由に遊べるようにしていた。



 今は、福祉局の指導で、どうしても塀を作らざるを得ず、針金のワイヤーをまわしているけれども、子どもの頃に住んでいた東京の杉並区の荻窪のあたりの家々でも、住宅と住宅のあいだにブロックやアスファルトの塀はなく、あって生け垣だったから、ときには学校からの帰り道に、お隣さんとの境の生け垣をくぐり、庭をとおりぬけて帰ったりした。
 するとお隣のおばさんは、声をかけてくださった。
 「おかえりなさい!
 そろそろ柿の実も熟れてきたから、木に登ってとったらいいよ!」
 ミンダナオ子ども図書館の敷地内でも、子どもたちは木に登って、マンゴーやマンゴスティン、ときにはドリアンをとっては、みんなで分けあって食べている。
 また、山の集落ならば、草原や斜面でも、走りまったり木登りしたりしているのは日常で、とりわけ感動的なのは、洗濯物をつめたタライを頭に、友だちどうしが弟や妹を引きつれて山の斜面の小道をかけくだり、ふもとの川に洗濯に行くようすだ。
 貧しくて学校に行けない子たちやお姉ちゃんも、ときには赤ちゃんをおんぶして、おなじもの同士があつまって、みんなで川に洗濯にいく。
 そして、洗濯が終わって、木の枝と枝の間にはりめぐらせた紐に、洗濯物を干してからが本番!
 いっせいに、みんなで素っ裸になって川に飛びこんで、自分を洗濯しながら大はしゃぎだ。
 中高年の方々が、そんな風景を目の当たりにして感動する気持ちはよくわかる。
 ぼくが小さかったころ育った東京の杉並の荻窪でさえ、当時は都電の終点で、そこから向こうは畑と田んぼと林の広がる武蔵野だった。
 駅前周辺には、トタン屋根の市場が広がり、裸電球のしたで、魚屋や八百屋が叫んでいた。
 「いらっしゃい、いらっしゃい。
 取れたてのマグロだよ。サバもアジもあるよ。新鮮で美味しいよ!」
 「そこのトマト、仕入れたばかり。キャベツもキュウリも美味しいよ!」
 青梅街道沿いには、焼き鳥屋も団子屋もあって、おばあさんが、タレをつけて炭火で焼いていたりしていた。
 母が、鶏の丸焼きを買ってくれたときなどは、弟や妹といっしょにぼくは叫んで歩いたものだ。
 「母さんが、鶏の丸焼き買ってくれた!」
 これとまったく同じ風景が、ミンダナオ子ども図書館のあるキダパワンの街に生きている。




 キダパワンは、北コタバト州にあり、フィリピンの最高峰2954メートルのアポ山の山麓の高原都市で、車で走れば5分で抜けてしまうような小さな都市だけれど、この街にも市場があって、裸電球のしたで、魚や肉や野菜が売られている。
 ミンダナオ子ども図書館の炊事担当のスタッフは、夫の運転する三輪バイクのトライシクルに乗って、毎日かならず市場に買い出しに行くので、訪問者の若者たちや中高年の方々も同行する。
 市場は、活気に満ちていて、大勢の売り子たちの前には、大きなマグロからはじまって、サバ、アジ、サンマといったいろいろな魚やイカ、タコ、貝、そして海ブドウやモズク、ヒジキなど、さらに生きて動きまわっているヒトなども売っている。
 「おいしいよヒト。焼いて食べるとおいしいよ。
 このヒトは、とりたてだよ!
 生きているよ!」
 それを最初に聞いたときは、「ヒト(人)を売っているのかとビックリしたけれど、後で、ナマズのことをこちらでは、ヒトと呼ぶのを知ってなっとく。
 また、こちらでは、幾種類もの塩のきいた干物の魚が売られている。
 さらにその横には、樽に入ったさまざまな小魚や小エビの塩辛が売られていて、注文するとビニール袋に入れてくれる。
 山から街に出稼ぎに出た人々は、たいがいこの干物と塩辛をおみやげに買って家にかえる。
 山には電気がないので冷蔵庫がない。だから生魚は腐るので、日持ちのする食材を買って帰って、小さな魚を家族みんなで割いて分けて、山芋に塩辛をつけて食べるのだ。
 そんな生活を中高年の人々が見ると、自分の子ども時代を思いだし、とっても懐かしく故郷に帰ったような気持ちになるようだ。
 ミンダナオで、子どもの姿を見ない場所はない。
 こうした市場の中でも、子どもたちはどこにでもいて、ときには小さなザルに、現地ではラマスと呼ばれる味付けに使う小粒のニンニクやトマト、香草やショウガなどをつめてやってきて言う。
 「ねえ、これ買って!」
 「いくら?」
 「10ペソ(25円ぐらい)。」
 「学校、いってるの?」
 「ええ、でも母さんの収入だけじゃノートも買えないし。」
 「偉いなあ、それで、がんばっているんだね。
 それでじゃあ、そっちのショウガも買ってあげるね。」
 「わーい。ありがとう。」
 ミンダナオの子どもたちは、とっても家族おもいで、嫌な顔一つせずに、本当によく母さんや父さんのお手伝いをする。
 かつてスカラシップの一般公募を9月にしたら、なんと一ヶ月だけで毎年500名を超す子どもや若者たちが、ミンダナオ子ども図書館を訪れてきた。
 ミンダナオ子ども図書館のスカラシップは、成績ではなく、家庭状況の困難さを基準に、極貧のなかでも、孤児や崩壊家庭の子たちを優先する。
 必ずインタビューするだけではなく、その後、ぼく自身がスタッフとともに実家を訪ね状況を把握してから慎重にえらぶ。
 しかし、学校に行きたい理由をインタビューすると、ほとんどの子たちの返事が共通しているのに驚いた。
 学校に行きたい最大の理由は、
 「卒業して少しでも良い仕事について、家族を助けたい。」
 「父さんはいないけど、わたしががんばって、妹や弟の一人でもいいから、学校にいかせてあげたいの。」
 正直に言って、リーダーになりたいとか、有名になりたいとか、競争に勝ちたい、と言った野心的な答えは、あまり聞いたことがない。彼らにとっては、お互いに助け合うこと。友情や家族愛が優先なのだ。
 なりたい職業で一番多いのが「地元の学校の先生」だ。すでに200名ほどが卒業しているけれど、地元の学校の先生になったりソーシャルワーカー(社会福祉士)になっている子が結構多い。
 安定していることと、公務員であるが故に給料が高いことも理由だろうけれども、 なかには、先生になって、自分の給料の一部を使って、故郷の村の貧しい子たちを、学校に行かせてあげている卒業生たちもいる。
 街にいても、鬼ごっこやかくれんぼといった、遊びをしている子どもたちがたくさんいるし。
 山でも嫌な顔一つせずに、まだ赤ちゃんの妹を抱っこしてめんどうをみたり、市場や街角でも、親のお手伝いをしてトウモロコシや総菜を売ったりしている子たちをみると、なぜか心が和んでホッとする。
 また骨休めのために、妻と二人で夜の屋台で焼き鳥をほおばりながらビールを飲んでいても、働いている母親のそばに、けっこう子どももいっしょにいて、なぜかちまたにも友情と家族愛が感じられ、自分が子どもの頃に遊びまわった場所や風景、そしてちまたの時間の流れが思いだされてホッとする。
 日本で講演会などでお会いして、それがきっかけでミンダナオに来られた方々が、現地でのぼくの顔を見てよく言われる言葉がある。
 「松居さん、日本にいるときの顔と、ミンダナオにおられるときの顔つきが、まったく違いますね!
 こんなに明るくのびのびとして、しかも笑顔の松居さんを、ついぞ日本では見たこともない!」
 「子どもたちが、笑顔をくれるからですよ!」
 中高年の訪問者がおっしゃるように、日本にもかつてあった、友情と愛に満たされた、ちまたの風景が、ここにはいたるところで生きている。
 ここ数十年のあいだに日本では、そうした子どもの遊びや人情あふれるちまたの風景が、経済の高度成長とともに消えていき、お金と物が優先される、仕事社会に変わっていった?
 厳しい衛生管理を適応しているためなのか、今の東京では路上の屋台も見かけない。禁止されているせいか、路上で鬼ごっこをしたり、かくれんぼをや缶けりをしたりしている子どもの姿も見かけない。
 そして、勝ち負けをより重視するゲームと競争社会になっていき、気がつくとその陰で、いじめや引きこもりそして自殺、孤独な子どもや老人たちが増えていった?
 フィリピンの人の目から見ると、日本は、仕事優先で家族を大切にしない社会に見えるようだ。
 日本の人の目から見ると、フィリピン人はなまけもので、だから政治も経済もだめなんだ、と見えるようだ。
 子どもたちが未来だとするならば、たとえ貧しくとも、子どもたちが明るい社会は、未来が明るい?
 たとえ経済的には豊でも、子どもたちが引きこもって自殺していくような社会は、未来も暗く、世界の中で引きこもっては死んでいく?
 生きる力ってなんだろう。













生きる力ってなんだろう
   ミンダナオの子どもと日本の子ども

(1)

「生きるってなんだろう」(仮題)で、
執筆を開始しました。
部分的に抜粋を、
サイトで掲載していきますね。

 

  なぜ生きる力について考えるようになったのか
 

 『生きる力ってなんだろう』というタイトルの本を、どうしても日本の人々、とりわけ引きこもりや自殺、心の貧困が年々増えていく日本の子どもや若者たちのために、そしてまた、子育てに悩んでいる親や孤独な中高年の方々のためにも、書かなくてはいけないと思いたった。
 その動機は、日本からミンダナオ子ども図書館を訪れた若者たちや中高年の方々が、現地の子どもたちに囲まれて、生きる力と勇気や希望をもらって帰っていく様子を見せつけられてきたからだった。
 ミンダナオ子ども図書館の子どもたちに囲まれて、帰りのお別れのときは、ほとんどの訪問者たちが目に涙を浮かべ、ときには手をにぎられ抱きつかれて泣き出す。
 なかには、現地に到着したとたん、大喜びの子どもたちに囲まれて茫然自失となり、ワッと泣き出す若者たちも少なくない。
 「どうしたの?」
 驚いてぼくがたずねると、若者はこう答えた。
 「ぼく、こんな体験、いままで日本で、一度もしたこと無かったんです。こんなにたくさんの子どもたちの、明るい笑顔に囲まれて、手をにぎられて、抱きつかれて・・・。
 日本にいるときと同じように、自分と人との間に壁を作らなくてはいけない、距離を持たなくてはいけない、と思っていくら努力しても、ここの子どもたちに囲まれてしまうと、心の壁がどんどん壊されていって!
 何が何だかわからなくなって、涙があふれ出てきたんです。
 でも涙がでた後に、なんだか今まで知らなかった別の自分が湧き上がってきたようで、幸せで、幸せで。」
 話を聞くと、日本では、生まれたときから、たとえ友だちどうしでも意識的に距離をたもち、あるていど心に壁を作って生活しないといけないという。
 「でも、こんな経験は、生まれて初めて!」
 また中高年の訪問者が、現地の生き生きと遊んでいる子どもたちを見て必ずいうのが「わたしが子どもの頃には、こういう風景が日常でした。なつかしくて、いいなあ・・・。」



 わたしもミンダナオに帰るとホッとする。
 鬼ごっこやなわとび、うしろのしょうめんだーれといった、現地でも伝統的な遊びを毎日している子どもたちを見ていても、スタッフといっしょに日々の総菜を買い出しに、街の市場を歩いていても、また骨休めのために、妻と二人で夜の屋台で焼き鳥をほおばりながらビールを飲んでも、自分が子どもの頃に遊びまわった場所や風景、そしてちまたの時間の流れが思いだされてホッとする。
 日本で講演会などでお会いして、それがきっかけでミンダナオに来られた方々が、必ず言う言葉。
 「松居さん、日本にいるときの顔と、ミンダナオにおられるときの顔つきが、まったく違いますね!こんなに明るくのびのびとして笑顔の松居さんを、ついぞ日本では見たこともない!」
 「子どもたちが、笑顔をくれるからですよ!」
 日本にもかつてあったちまたの風景が、ここにはいたるところで生きている。
 そうした子どもの遊びや人情があふれていたちまたが、経済の高度成長期に入ると、仕事とお金と物が優先されて消えていった?
 厳しい衛生管理を適応しているためなのか、今の東京では路上の屋台も見かけない。
 路上で鬼ごっこをしたり、かくれんぼをや缶けりをしたりしている子どもの姿も見かけない。
 そして、勝ち負けをより重視するゲームと競争社会になっていき、気がつくとその陰で、いじめや引きこもりそして自殺、孤独な子どもや老人たちが増えていった?



 今まで現地に住みミンダナオ子ども図書館の活動に没頭して、まったく日本を顧みなかったけれども、年老いた両親の事もあり、また日本の若者たちのことも心配になり、ミンダナオと日本をつなぐスタッフや若者たちの育成のことも考えて、十五年ぶりに妻子と日本に拠点をうつし、執筆や講演を含めて活動をはじめた。
 本当にひさしぶりに日本に拠点を置いて、日本の状況にも目を向けて驚いたこと、驚いたこと。まずは電車に乗ると、毎回のごとく電車が止まり、人身事故の報告。専門家の話だと、いろいろなデーターが出ているようだけれど、日本は世界でも最高度の自殺率で特に青少年の自殺の多い国だという。
 武蔵野大学、杏林大学兼任講師の舞田敏彦氏の報告によると、WHOの調べでは、十五歳から二十五歳の青少年の自殺率は、日本が世界一だという。


絶望の国 日本は世界一「若者自殺者」を量産している
舞田敏彦:武蔵野大学、杏林大学兼任講師
http://president.jp/articles/-/17058
15~25歳の自殺率は、90年代以降ずっと上がり続けています。しかもそれは、日本の特徴のようです。図1をご覧ください。日本の若者の自殺率は、この20年間でトップにのしあがっています。欧米諸国は減少傾向にあるのに対し、日本はその逆だからです。お隣の韓国も、似たような傾向を呈しています。「失われた20年」の困難は、若年層に凝縮されてきたといってもよいでしょう。


 「統計では、韓国や他の国の方が高いように出ていますけれど、本当は自殺であっても『事故』と報告されているものがかなりあり、事故死は自殺に数えられないようなので、それを加えると日本の自殺率は世界一かもしれませんね。」と、おっしゃっていた方もいらっしゃる。
 統計の云々は別にしても、なぜこんな状態になってしまったのかは真剣に考え、取り組まなければならない問題だろう。罪の無い子どもたちが可愛そうだ。
 ミンダナオ子ども図書館では、読み語り活動以外にも、三食たべられない極貧家庭の子どもたちのなかでも、戦争その他で親が殺されたり、育児放棄で父親や母親がいなくなって家庭が崩壊して、そのあげくに道に立たされて売春を強要されていたり等々、とりわけ不幸な境遇の先住民、イスラム、クリスチャンの子たち500名ほどにスカラシップをあたえて大学まで通えるようにしてあげている。
 もちろん、成績優秀な子たちばかりではないから、大学という選択肢いがいにも、その子にあわせて技術学校に通って裁縫や運転免許をとらせてあげたり、出来るだけマイナスの環境から脱却できるようにしてあげている。そして、そのなかでもとりわけ保護が必要で、現地に置いておけない子たちは、本人が希望し保護者が了解すれば、本部や下宿施設に引き取って、ぼくや妻やスタッフたちが、めんどうを見ると同時に生活を保障してあげている。
 孤児施設としての許可もとっているけれども、村に帰って学校に通いたくなったら翌年帰れるから、「ここは奨学生が学校に通うための宿泊場所で君たちは奨学生、ここは孤児院とは違うよ」と言っている。
 たとえ孤児であっても、子どもたちは「オルファン(孤児)」と呼ばれるよりも「スカラー(奨学生)」と呼ばれる方が気持ちが楽なようだ。しかし、住みたい子が多くて・・・2017年の現在、本部に住んでいる子たちの数は80名。山の下宿小屋、海の下宿小屋、町の下宿小屋をいれると100名ぐらいの子どもたちが、ハウスペアレントと共同生活をしながら安心して学校に通っている。



 








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