ミンダナオ子ども図書館の創設ディレクター:松居友(日本文芸家協会会員)の活動日記

ミンダナオ子ども図書館日記
     
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日本の子ども、若者たちと
ミンダナオの子ども達


   

 1,ブラジル人の双子の若者
   

 ブラジル人の双子の若者


 「ちょっと、松居くん。話があるんやけど・・・じつは、ブラジル生まれの双子の兄弟を、ミンダナオ子ども図書館に、うけいれてやってくれんかの。」
 日本滞在の最終日に、ひさしぶりに会った大学時代の友人、松浦悟郎ちゃんから、とつぜん話がとんできた。
 「いいけど、またどうして?」
 きくと、その双子の若者は、いま二十歳で、まだ3歳のときに両親が離婚し、母親が二人をつれて日本に移住して来たのだという。
 体も大きく、見た目は純粋なブラジル人だが、日本の学校に入学して、小学校を卒業したあと中学でイジメにあい退学した。
 その後も、素直でよい性格だが、町のヤクザにケンカをふっかけられて、顔を強くなぐられて、下あごがグチャグチャになって、そのときは教会で治してあげたのだという。
 そんな彼らが、立ちなおるために友人が思いついたのが、ミンダナオ子ども図書館のことだった。
 ミンダナオ子ども図書館の話をしたら、双子は、とっても行きたがった。そこで友人は、「行くんだったら、しっかりしたアルバイトを見つけて、働いてお金を貯めて、自分の力で行くように」と話したら、本当にがんばって仕事をして旅費をためたのだという。
 「だから、松居くん、受けいれてやってくれんかなあ。」
 ぼくは、友人の頼みではあるし、苦労している若者のことを思うと放っておけず、二つ返事で承諾した。ただし、一つの問題は、学業も中学二年生でストップしているから。顔は外国人だけれど、まったく英語がわからないという。
 それを聞いて、ぼくは思わず笑って、関西弁で答えた。
 「もちろん、だいじょうぶ!ミンダナオっておもろいところでね、言葉が通じんかっても、心が通じるさかい。」
 ぼくは、初めてミンダナオに足を踏みいれたときのことを思い出した。
 ある日、一人で海辺の漁師さんたちの集落をたずねたときのことだ。真っ白な砂浜を歩いていくと、遊んでいた子どもたちがぼくを見つけて走り寄ってきた。
 子どもたちはぼくを取り囲むと、現地語で話しかけてくる。
 その当時ぼくは、現地で使われているビサヤ語を、まったく理解できなかったが、それにもかかわらず、子どもたちはおかまいなしで、粗末な竹小屋の窓から手をふったり、家からかけだしてきて、ある子は、ぼくの手をにぎって、いっしょに浜辺を歩こうとする。
 ぼくは、思わずつぶやいた。
 「驚いたなあ、本当に心に壁をつくらない子たちなんだなあ!」 
 欧米やアジアをふくめて、諸外国には行った経験があるけれど、言葉がまったくつうじないのに、心がつうじるなんて、初めての体験だった。そのことを思いだしながら、友人にこう語った。
 「たとえ言葉がつうじなくっても、少しも心配ないし、孤独になることなど、絶対ないから、だいじょうぶ。」
 ただ一つ心配なのは、双子たちにとって海外旅行は初めてなので、マニラ空港でダバオ行きの飛行機に乗りかえるときのことが心配だった。そのとき、ふっとぼくの頭に、よいアイデアがうかびあがった。
 「そうだ、ちょうどこの時期に、第二次世界大戦で、叔父さんをミンダナオで亡くした兄弟が、追悼のために大阪からこられる。
 それに、浅草のシェアハウスで共同生活をしている娘さんも、来たいらしいから、いっしょに来てもらったらいいね。」
 「そりゃあ、いい!」
 こうして、ブラジル生まれの双子の若者は、叔父さんをミンダナオで亡くした兄弟と、シェアハウスの娘さんにともなわれて、ダバオ空港におりたったのだ。











 2,ダバオの町をあとに


 ダバオの町をあとに


 今回は、戦死した叔父を慰霊したいという70歳代の兄弟の思いを大事にしたかったので、アポ山の裏側一帯に広がるアラカンの山道を、2台の四輪駆動のピックアップで越えて行くことにした。
 日系人の多く住んでいたカリナンや日系人墓地のあるミンタルにも、ミンダナオ子ども図書館の奨学生たちはいるし、アラカンの山の奥にも、たくさんのマノボ族の集落があり、そこにも奨学生たちが住んでいる。
 特に、ラナコランという名の村にはミンダナオ子ども図書館の運営する、中高生の女子のための下宿小屋が建っていて、学校まで遠くて通えない先住民の子どもたちや、親がいなくなって孤児になった子たちが、20人ほどミンダナオ子ども図書館の奨学生になり、常駐しているスタッフの家族といっしょに生活している。
 そうした子たちのために、本部で精米したお米や、日本の支援者から送られてきた学用品を届けなければならないので、ミンダナオ子ども図書館にとっても訪問者たちにとっても良い機会だ。
訪問者たちは、スタッフといっしょに、さっそく二台の四輪駆動のピックアップに分乗した。なるべく二台で行くようにしているのは、山で何かが起こって一台が動けなくなっても救助できるようにするためだ。
 双子くんは、つきそいのスタッフといっしょに車の荷台にとびのって、興奮して「イェヘーーィ!」と叫んだ。
 車は、ダバオ市の郊外の丘陵地帯を走り出した。丘からは、ダバオの街並みをこえて海がみわたせ、遠くにはフィリピンの最高峰のアポ山が、青い影となって浮かびあがっている。
 双子くんたちは、熱帯の風にふかれながら満面笑顔で周囲をみわたしている。
 途中でミンタルの日本人墓地によった。
 かつて第二次世界大戦前に、ダバオ周辺には2万人を超す日本人が住んでいて、日本人学校も建っていた。彼らの多くは日系人と呼ばれて、先住民のマノボ族やバゴボ族と結婚して家庭をもち、おもにマニラ麻を栽培して生活をしていた。
 しかし、第二次世界大戦が起こり、日本軍の敗戦がせまってくると、日系人たちは、町からジャングルのなかへと逃げこんだ。
 そして終戦後、無条件降伏をして日本にもどった人たちもいたけれど、現地で先住民と結婚して家族を持っていた人たちの多くは、故国に帰ることなく、自分が日本人であることをひた隠しにして、ジャングルのなかで生き続けてきたのだった。
 ミンタルの日本人墓地では、毎年慰霊祭が行われ、ミンダナオ子ども図書館もこの地に招かれて「平和の祈り」をしたことがある。
 叔父がミンダナオで戦死した兄弟は、万感の思いで慰霊碑と、その横にそびえるように生えているマホガニーの大木を見あげていた。
 その後、墓地を後にして国道を山に向かって走り続け、大きな川をわたり左にはずれて、ぼくらは、山の奥へ奥へとはいっていった。
 国道の舗装道路とは段違いで、山道は石だらけのデコボコの細道にかわった。
 まわりには、背の高いシダやカカオやマンゴーの林があり、道の脇の草地には、ガーベラやブーゲンビリアやハイビスカスといった、可憐な熱帯の花々がさいている。
 ときには背の高いラワンやマホガニーがそびえ立ちように生えている、ジャングルのような谷間のなかをぬけながら、ぼくたちはマノボ族の集落のある、山の奥へ奥へと林道を登っていった。
 ミンダナオでは、車の通れる表街道を走っているぶんには貧困の様子はわからない。
 ところが、車道からはずれて山岳地帯に入ったとたん奥へ行けば行くほどに、その貧困の度合いの激しさが目につき始める。
 そこそこ収入のある人たちは、道路沿いに土地をもって住むことができるのだけれど、先住民のような極貧の人々たちは、平地から山へ追いやられて、斜面や谷底といった場所に住まざるをえなくなったからだ。。
 叔父が戦死した兄弟は、マノボ族の人々たちが、このような山のなかの貧しい場所に粗末なぼろぼろの小屋を建てて暮らしているようすをみてつぶやいた。
 「あれまあ、こんな山の奥にまで、人が住んでいるとは・・・。」
 家は、もはや家とは呼べないような、竹の床と壁に椰子の葉で屋根をふいた、吹けば飛ぶような小屋だし、戸口にたっている子どもたちもほとんど裸で、服はボロボロで裸足で遊んでいる。
 ときどき、道端で出会う人や子どもたちは、ミンダナオ子ども図書館を知っていて、ぼくたちが通ると、叫んで手をふってくれる。
 ふと前方をみると、赤ちゃんを背負って山道を登っていく母子がいた。
 ぼくは、車を止めると、空いている窓からたずねた。
 「どこへいくの?」
 「ラナコランに、いくんです。」
 「まだ、かなり遠いよ。後ろの席によゆうがあるから、乗っていったら?」
 母子は、大喜びで、後ろの席にのりこんだ。
 またしばらく行くと、今後は、学校帰りの子どもたちが、山道を歩いている。
 ミンダナオ子ども図書館の車だとわかると、子どもたちは手をふった。
 車をとめて声をかける。
 「乗っていくかい?」
 「わーーーぃ!」
 「ありがとう!」
 「やったーー。」
 子どもたちは、車の荷台に飛びのった。
 やがて荷台は、学校帰りの子どもたちで満載になり、後部座席も、赤ちゃんを抱いた母親等でぎゅうづめになった。
 前の車の荷台を見ると、双子くんが、子どもたちといっしょに声をはりあげて、笑ったり歌ったりして楽しんでいる。
 やがて行く先に、ミンダナオ子ども図書館の下宿小屋の、緑の屋根とピンクの壁が見えてきた。
 下宿小屋の近くで車をとめると、ぼくらはみな車から降りて、細道をラナコランの下宿小屋にむかって歩いていった。
 すると、住んでいる奨学生たちが、手をふって下宿小屋から飛びだしてくると大喜びで迎えてくれた。
 「パパ友が、来たよ。」
 「訪問者も、いっしょだよ!」
 「お米持ってきてくれたよ!」 
 










 











 3,キアタウの村に向かって 
   


キアタウの村に向かって


 キアタウは、山の中腹の美しいマノボの村だ。
 ラナコランの下宿小屋で昼食をとり、お米を置くと、ぼくらは、スタッフで日系人のジケロくんと、キアタウ村生まれの奨学生を二人のせて、ふたたび二台の四輪駆動車のトラックにのって、奨学生に学用品を届けるためにキアタウ村にむかった。
 道は行く手で二手に分かれ、まっすぐいくと丘陵の向こうにジャングルがあり、急な斜面や川を突っ切ってラカンの町にでる。
 ラナコランからさらにミンダナオ子ども図書館に向かうときには、そちらを抜けて行くけれども、ぼくらは途中で左横の細道にはいり、車がようやく通れるような曲がりくねった細道をキアタウ村に向かった。
 斜面を横切ると、広大な風景が広がった。
 180度の展望だ!
 足下にいくつもの丘陵がつづき、その先の濃緑色の平地の向こうには、ふたたび青い影になった広大な丘陵が続いている。
車をとめると、ぼくらは、壮大な風景のまえにたった。
 目の前には広大な山が波のように広がり、左からゆるやかに下って広がる平野のかなたには、遠くダバオ湾がかすんで見えた。
 そして、大きな谷向こうの山並みの彼方には、うっすらと濃紺色の顔を出しているフィリピンの最高峰、アポの姿が浮かびあがっていた。マノボ族の人々にとっては、聖なる神の山だ。
 みんな、絶句している。
 すると、日系人でスタッフのジケロくんが、下手に茶碗を伏せたようなかっこうで見える丘を指していった。
 「あの丘とそして左側の丘が、日本軍がキャンプしていた場所です。
 海が見えるダバオ湾の方から、カリナンをこえて、日系人とともにジャングルに逃げこんで来た日本軍は、ここあたりで米軍と、最後の戦闘を行ったんです。
 もともと戦前からカリナンには、日系人と呼ばれているたくさんの日本人が住み着いていました。彼らは、現地のマノボ族やバゴボ族と結婚して、こちらではアバカとよばれるマニラ麻の栽培をしていたのです。
 私のおじいさんも、そんな日本人の一人でした。
 でも、第二次世界大戦が起こり、日本軍が敗退していくと、兵士たちは日系人といっしょに、カリナンからさらに奥のジャングルに逃げこんでいったのです。
 日系人だった私のおじいさんも、小さい私の父を背おって、ジャングルのなかを逃げまわった話をしていました。
 そして、最後に日本軍が追いつめられて逃げこんだのが、この下に広がっている地域だったんです。
 これからいくキアタウ村には、その先の方に深い谷があって、そこは木々に隠れた大きなトンネルのような洞窟があるんです。
 あそこに見える丘にキャンプを張っていた日本軍が、爆撃を受けて敗残兵となり、最後に逃げこんだ場所がそこだったんです。
 行ってみますか?」
 ミンダナオで戦死した叔父を持つ兄弟は、おおきくうなづいて「死んだ叔父に、導かれているような気がする」言った。
 妻のエープリルリンもいった。
 「わたしも、子どものころ、夜寝ないでいると、おじいちゃんから、『日本人が来るから、早く寝なさい!』といって、寝かされたのよ。
 おじいちゃんは、日本兵の炊事当番をやらされていたみたいだけれど。」
 ぼくの父の兄も、フィリピンで戦死しているけれど、軍医をやっていてスペイン語も話せて、ずいぶんもてた人らしい。
 ときどきその人が側に立ち「本当に戦争は嫌だね。こんな可愛い子どもたちがいるところで、なぜこんな、残酷なことをせにゃならんのか」と、ぼくにつぶやいているのが聞こえる気がする。
 ときどき、その叔父が、ぼくをここに引っ張りこんだような気がすることもある。
 「本当に戦争は、いやですね。」
 叔父がミンダナオで戦死した兄弟がいった。

  
 







 












 4,ダバオ生まれの姉妹のこと 
   


ダバオ生まれの姉妹のこと


 一昨年に九州から来た、70歳代の姉妹のことを、ぼくは思いだしていた。
 彼女たちは、なんと戦前にダバオで生まれたのだった。
 ミンダナオで子ども時代を過ご過ごすことができて、子ども時代は、ほんとうに楽しかった、といっていた。
 戦前まで、ほんとうに多くの日本人、とくに九州沖縄の人々が、ミンダナオにすんでいたのだ。
 お姉さんは、ぼくに語られた。
 「しかし、戦争が起こり、日本軍が上陸してきて、そのご敗戦の色が濃くなると、わたしたちは、身を守るためにも家や土地も放棄して、日本軍といっしょに、ダバオからカリナンに移動しました。
 そして、いよいよ最終戦に突入すると、爆撃を避けて、さらにそこからジャングルのなかに逃げこまなくてはならなかったんです。
 そのご終戦になって、父は、無条件降伏をして、わたしたち家族は、米軍の手によって日本に送還されました。
 それいらい、70年のあいだというもの、当時の事を思いだすと、あまりにもたくさんの想い出がよみがえってきてしまって、ミンダナオに足を踏み入れる気持ちにならなかったんです。
 でも、夫からミンダナオ子ども図書館のことを知らされて、なんとしてでも、自分の生まれた場所に行ってみたくなり、夫や甥や姪といっしょに、思いきってミンダナオに来ることに決めたんです。」
 その話をうかがって、これは、何としてでも思いに答えてあげなければ、と思った。そして、今回と、ほとんど同じルートを考えついたのだった。
 姉妹がダバオで育った場所は、今は繁華街になっていた。
 そこから、ミンタルの日本人墓地により、カリナンの日系人の歴史を展示した資料館についた。
 資料館には、昔のダバオの日本人小学校の生徒がうつっている写真が、アルバムになって保存されていた。
 興味深くページをめくっていた姉妹は、ある写真の前で驚いて声をあげた。
 「ほら、ここに、わたしたちが写っているわ!」
 その後資料館を出て、カリナンからさらにジャングルに逃げたという、山の方の村に向かった。
 その村には、ぼくの知っている日系人のおじいさんがいらっしゃって、日本語もしゃべれて、姉妹は、おじいさんの話に、当時の事を思いだして語った。
「わたしたちは、日本軍といっしょに、カリナンからさらに奥のジャングルを、必死で逃げまわったんです。」
 おじいさんは、答えた。
 「まさに、ここから奥の方のジャングルだね。」
 姉妹は、その体験をこう語った。 
 「でも、現地にすんでいる先住民たちよりも、日本の軍人さんのほうが、怖かった。塩からなにから、もっているものはみな、取りあげられてしまったし。
 けっきょく、まだ小さかった弟は、ここのジャングルのなかで亡くなりました。」
 おじいさんは、自分の母親がバゴボ族だったとかたった。
 その老人は、当時日本軍の司令官が「先住民は、おれたちを裏切る可能性があるから殺せ」という命令をくだして、兵隊たちが大きな穴を掘って、先住民たちを生き埋めにしようとした話を語ってくれた。
 「それゆえに、私の父親は、バゴボ族である妻や子どもたちの事を心配して、日本軍からも離れて、家族をつれて、さらにジャングルの山奥へと逃げていった」のだという。
 その後も、父親は、家族をおいて日本に帰ることなく、現地にとどまって、自分が日本人であることをかくして、ここで生き続けてきたのだという。
 先住民たちといっしょにジャングルに逃れて、自分が日本人であることを隠して行き続けてきた人たちは、今もたくさんジャングルにいる。
 ミンダナオ子ども図書館の仕事で、外国人がとても入れないような先住民の貧困の村々を訪れているとき、ときどき後ろからぼくの肩をたたいて、日本語でこう語りかける老人がいる。
 「実は、わたしのお父さんは、日本人。」  








 








 

 5,広大な山の斜面とジャングルの破壊 
   


広大な山の斜面とジャングルの破壊


 広大な草原の急斜面のなかを、蛇のように曲がりくねってつづいている、泥と石の山道を下っていくと、下方にキアタウの村の家々が見えてきた。
 「まるで、北海道の大雪山の裾野に広がった開拓地を見ているみたい。」
 シェアハウスの娘さんが、興奮したようすで語った。 
 最初にこの風景を見たときには、まったく同様の驚きを、ぼくも感じたものだった。
 けれど、長く現地で活動していると、その裏側の事情が、少しずつに見えてきた。
 この近辺の山々は、もともとは深いジャングルだったのだが、森林の開発が進み、ラワンやマホガニーといった、ときには50メートルに達する巨大な熱帯樹が、ことごとく切り倒されて、なんと、そのほとんどが、日本に輸出されていったのだという。
 広大な草原のように見える斜面は、なんと膨大な森林破壊の残骸だったのだ。
 後に、日本で会った貨物船の船乗りが、ぼくにこう語ってくれた。
 「ミンダナオのダバオには、よく行ったよ。材木を運びにね。」
 彼の話だと、ミンダナオからの材木の運搬は、最初は米国が行っていたが、アメリカが撤退した後に日本が請け負い、輸入した材木を合板に加工して米国に売却したり、日本で建材や家具やコピー用紙や本や新聞紙にしていったのだという。
 とくに、1960年頃から、日本で自然保護が叫ばれて、自国の森林や里山を保護し始めたころから、ミンダナオから日本への木材輸入量は10倍に増えたという。
 彼が船乗りとして、足繁くミンダナオにかよい始めたのはこの頃からだった。
 フィリピンの特にミンダナオには、良質の木がたくさん生えていただけに、伐採も激しく、かつ乱暴だった。それゆえに、森林に与えたダメージは深刻だった。
 貧しく社会に疎い山の先住民たちにとって、森は神々の世界であり、個人による土地所有という概念は無く、ときにはタバコ一本で、島外からの移民たちや資産家や企業に、先祖伝来の森を手放していったりした。
 たとえ土地を手放さなかったとしても、知識としても経済的にも、植林することは難しく、その結果、今では伐採によってフィリピンでは、国土の60%あった森林は、1985年には27%に減少。ミンダナオでは、原生林は、6%しか残っていないと言われている。
 かつてジャングルにおおわれた島が、ほとんど裸になってしまったのだ。
 このキアタウに向かうアラカン地域の風景は、地平線まで続く広大な緑の大草原のように見えるけれども、激しい森林破壊の残骸だったのだ。
 先住民の焼き畑農業が、森林を破壊していったという説もあるが、現地の首長たちと話を聞くと、伝統的な焼き畑農業は、かつてはジャングルのなかの一部の場所を焼いて畑を作り、その畑も、数年おきに転々と場所を変えておこなっていたのだという。
 なぜなら、狩猟採集文化のコスモロジーを基盤にして生活している先住民族たちにとって、大自然の一部である山も土地も、人間が所有するものでは無く、神々のものであったからだ。
 焼き畑をして農作物を作る場所も、一時的に山の神から借りる場所であり、数年したら神々に返し、すなわち自分たちは別の場所に移動して、かつての畑はジャングルにもどして、新たな場所では神に祈願をしてジャングルの一部を焼いて、つぎの畑を作った。
 こうして、畑を転々と移動することによって、以前の焼き畑は、神々の住み家であるジャングルにもどし、疲弊した土もふたたび落ち葉で豊になり、自然を破壊すること無く神々とともに生活していったのだ。
 土地は人間のものではなく神々のものであり、人間はそこを一時的にお借りして住まわせてもらい、やがて神々に返す、という考え方は、ぼくがかつて北海道に住み、アイヌのイトばあちゃんから聞いた話とまったく同じだった。
  








 
 








6,アイヌの自然観とマノボ族 
   


アイヌの自然観とマノボ族


 アイヌのイトばあちゃんの話だと、たとえ人間の住む家でも、持ち主が亡くなると焼いて、土地を神々に返したのだという。
 なぜなら、人は神々によって生かされていて、神無しに人は、生きられないからだ。
 このことは、『火の神の懐にて』(松居友著)で書いたけれど、人間(アイヌ)は、人間以外の自然界の神々(カムイ)によって、養われている。
 毎日食している、穀物も魚も動物も、みな神々の世界である自然界(カムイモシリ)で育った神々(カムイ)で、人のためなら喜んで死んで肉体を捧げる。
 例えば捕獲した熊や鹿や鮭なども、死んだら肉体から離れて自分の頭に座っていらっしゃるから、神窓から家の中に招いて、囲炉裏の火の神の前に置き、人間(アイヌ)は、そこにいらっしゃるカムイに、感謝し賛美して神の国(カムイモシリ)に送り、その後で肉体を調理していただくのだ。
 アイヌのイトさんは、そのとき最後にこうおっしゃった。
 「そのように、神々(カムイ)を賛美し感謝し祈ること、それがこの世で人間(アイヌ)に課された使命であり役割なのだよ。
 それを忘れて、生きている人間は、もはや人間では無い、少なくともアイヌ(本当の人間)じゃない!」
 たぶん、日本で食べるときに言う言葉「いただきます」も、「あなたが死んで捧げて下さった肉体を、心から感謝していただきます」という、死んでもその場にいる神を天に送るための感謝の言葉だったろう。
 マノボの人々も、アイヌと同様に、山の畑に陸稲などの種を蒔くときには、豊作の祈願をする。
 その祈願の仕方も、アイヌの人々が使うイナウと同様の御幣を使うし、村人たちは、アイヌや沖縄と同様に、大人も子どもも刺繍で飾った赤や青の明るい礼服を身にまとい、森や野原で首長を囲み、御幣の立った祭壇に向かって豊作祈願をする。
 そのご、畑で男性が木の枝をもって、女性はその跡をカゴに背負って、賛美と感謝と祈りをもって踊りながら種を蒔く。
 土地は個人の持ち物ではなく、一時的に神から借り受けている場所なのだ。
 そうした神聖な土地から収穫されたモミ米は、大地という神の懐から授かった神聖な精霊たちでもあり、それゆえに全てみんなで平等に分かちあい、残りは高床式の特別な聖なる穀物倉におさめられ、つぎの種まきや、飢饉のときの緊急の食物として保存された。
 先住民の人々は、森林を保護することの大切さを、狩猟採集文化を基盤とした独自の世界観から、ちゃんと学んで実践していたのだった。
 ところがそうした生活が、海外からの植民地主義で破壊され、さらに大戦後は、お金と物を重視したインターナショナルな経済的自由主義、現地のお目から見ていると新植民地主義と言いたくなるような、島外からの移民や資本家やインターナショナルな企業の力を背景に、つぎつぎに破壊されていったのだろう。
 いまここで目の当たりにしているジャングルの破壊の様相は、まさにその結果起こったことのひとつだ。
 結局は、森林破壊の後は表土が流され、保水力が無くなった広大な大地に降る雨は、下のイスラム地域を襲い、リグアサン湿原の一帯に、毎年6、7回の大洪水を起こしている。
 東南アジア最大と呼ばれているリグアサン湿原には、4000世帯を上回るという漁民が生活していて、屋根まで届く洪水に家を倒され、まだ泳げない幼子たちが亡くなっている。
 現地では、洪水の原因の一つは、ジャングルの伐採による鉄砲水に対応しきれなくなり、湿原の上流に日本政府のODAで作られた、ダムの水が突然解放されることによる言われている。当時、地元の怒りをかって、ダム建設に従事していた韓国人技師が殺害された。

















7,たくさんの子どもたち 
   


たくさんの子どもたち

 
 壮大な風景を目の前にしながら、粘土質の急な斜面を車で下っていくと、キアタウの村が見えてきた。竹の壁に、屋根はニッパ椰子か、良くてトタンをふいたシンプルな小屋だ。
 開けっぴろげの窓や入り口からは、子どもたちが顔を出し、丘の上の方から降りてくる二台の車を見つめている。
 車が村に近づいて来て、それがミンダナオ子ども図書館の車だとわかると、子どもたちは、手をふりながら家から飛びだしてきた。
 荷台からは、ブラジルの双子の兄弟が、同乗しているキアタウ村の奨学生たちといっしょに、大喜びで手をふりかえしている。
 村に入ると、どこからこんなにたくさんの子どもたちが来たのだろう、と思うほど、多くの子どもたちが車を目指してかけよってきた。
 「そんなに家があるとは思えないのに、何でこんなにたくさんの子どもがいるの?」
 シェアハウスの娘さんは、驚いて言った。
 「一家族に平均して7人ぐらいは、子どもがいるから・・・。」
 そう答えると、娘さんは、絶句したあと言った。
 「これじゃあ、子どもを学校に行かせたり、食べさせるだけでも大変ね!」
 「確かにそう。だから、産児制限をすれば良いのに、という人もいるけれど・・・でも、大自然が豊かなように、子どももたくさんいる方が、幸せだと思っているみたい。」
 「子どもは天からの恵みっていう、感覚なのね。」
 「でも、確かに貧しくって、なかなか全員を学校に行かせることはできない家族が多いね。この近くのもっと貧しい村では、子どもたちは全員、小学校の一年生に登録されるのだけれど、2年生になると、70パーセントがストップしてしまう。」
 「何故なの?」
 「2年生になると、午後の授業が出てきて、お弁当なんか持って行けないからね。特に女の子なんかは、食べ盛りの13、4歳になると結婚させられていく。」
 ところがあるとき、マニラから政府の福祉局の職員が来て、「親のいる子は、親元に帰すのが本来の福祉のあり方だ」という講演をして帰っていった。
 確かに、ミンダナオ子ども図書館でも、親元か
ら通える子は、できるだけ自分の村に住んで通うようにしているのだが、なかには親がいても、極貧の子や、学校が遠い子の場合は、本部や下宿小屋に住まないと学業が続を続けられない。
 そういう子たちは、本人の希望と保護者の理解があれば、本部や下宿小屋に住めるようにしていた。村にもどりたくなれば、翌年になって、いつでももどれるので、孤児院とは異なっていて、門が開いていても、逃げ出す子もほとんどいない。
 ところが、マニラから来た福祉局の職員が講演で「親のいる子は、親元に帰すのが本来の福祉のあり方だ」と言ったものだから、ソーシャルワーカーたちも当惑して、本部や下宿小屋にいる、両親がそろっている子たちを、無理やり家に帰した。
 すると、その子たちのほとんどが、半年もたたずに学校をストップして、家政婦や食堂の皿洗いなどの仕事を探しに町に出ていった。
 そして、その中の一人が、ある日突然、ミンダナオ子ども図書館に駆けこんできて言った。
 「もうわたし、どうしたら良いのかわからない。家政婦の仕事をしたら、雇い主からセックシャルな嫌がらせをされたの。
 でも、家に帰っても、貧しくって、みんな3食もたべられないのに、親が良いって言ってくれても、わたしだけが、学校になんて行かれないわ。
 わたしといっしょに、村にもどった子たちも、食べ盛りだから、13歳で、無理やり結婚させられた子もいるし。
 それで、わたしたち決心して、学校をやめて、町に出たんだけれど、嫌な目にあったりして泣いている。
 わたしも、もう絶対に職場にも帰れないし、家にも帰りたくない!」
 といって、ワッと泣き出した。
 それで、親とも話し合い、いったん外に出した子たちを、再び本部や下宿小屋にもどすことにした。子どもたちも親たちも大喜びした。
 そのことを、地元の町の福祉局の職員に話すと、マニラの福祉局とは異なって、地元の福祉局の職員たちは、現状がよく理解できるのでこうおっしゃった。
 「だいじょうぶ、ミンダナオ子ども図書館は、本当に子どもたちを救っていますし、本部が何を言おうとも、見て見ぬふりをしていきますから・・・。」
 2017年に、ミンダナオ子ども図書館は、北コタバト州の認定から、フィリピン政府直轄の認定特別非営利法人になったけれど、今では、マニラから調査に来た職員も、ちゃんと理解し認めてくれている。
 確かに、多産は貧困の原因の一つで、避妊などの出産制限をしたほうが良いのでは、とぼくも最初は思ったけれど、ミンダナオに15年もいると考え方が変わってきた。
 どんなに大変でも、家族がみんなで力を合わせて助けあ事の方が大事だな。だから、せめて子どもは、一家族5人はいた方が良いなあ・・・。  












 
 








8,村に泊まることに決めた 
   


 村に泊まることに決めた


 車が、村のまん中に止まると、子どもたちがまわりを取りまいた。
 ブラジルの双子が、荷台から飛び降り、lシェアハウスの娘さんや、叔父を亡くした兄弟が車から出ると、子どもたちは大歓声をあげて近寄ってきた。
 「今日、ここに泊まっていくの?」
 「どこの家に、泊まるの?」
 「ぼくの家に、泊まったらいいよ!」
 ミンダナオ子ども図書館では、子どもをスカラシップで支援してくださっている、訪問者が来られたときには、必ずその子がいる村までおつれして、当人に会わせ、生活のようすも見てもらっている。
 そういうわけで、たびたび、日本からの訪問者も、キアタウにいる奨学生に会いに来られ、家族からの強い勧めもあり、ときにはその子の家に泊まっていかれた。
 それを見て思ったのだろうけれど、あるとき村の首長から、こんな提案がだされた。
 「この村に、日本から来た人が、泊まれるようにしてはどうだろうか。セキュリティーは、万全にするから。村の発展のためにも、考えてみてくれないかなあ。」
 ぼくも、たびたび泊まっていたし、それによって訪問者も、現地の生活を深く知り、また子どもたちと遊んだりすることで、生涯心に残る、良い体験ができるだろうと思った。
 とりわけ、孤独や心の貧困で悩んでいる日本の若者にとっては、素朴な先住民の生活や、困難にめげずに、いつも明るい子どもたちと出会う、こうした体験そこが、悩みを乗り越えて将来を切りひらく、縁となるだろうと思った。
 そこでその後、村の人々たちと集会を持ち、話しあって、不公平のないように、すべての家々のリストをつくり、特に貧しい家を優先して、訪問者が泊まれるようにした。
 ただし、泊まる場合は、安全のために必ず、スタッフかしっかりした地元の奨学生が同宿し、夜のトイレにもついていき、外で見張っていること。夜のトイレも、地面に穴を掘ったところに板を渡しただけで、囲いはビニールシートだけだったりするし・・・。
 そのかわり、泊まった家には一泊1000ペソ(2000円ほど)民泊代を払うこと。二泊以上する場合は、毎晩泊まる家をかえて、家から家へと収入が公平にはいるようにし、コミュニティーには、べつに1000ペソをはらうこと、ただしこれは何泊しても一回だけにした。
 しかし、村の人々は最初、ちょっと心配そうにいった。
 「寝るところは、うちなんかぼろぼろの竹の小屋だし、床も竹で、せまくて寝心地が悪いし、大丈夫かなあ。」
 そこでぼくは、答えた。
 「むしろ、本当の生活を体験してもらった方が良いですよ。わたしたちの車の中にも、非常用のあつでの服や、寝袋があるから持たせます。」
 たしかに、キアタウは、800メートルを超える標高の場所にあるから、夜などけっこう寒くなる。
 すると、主婦たちが言った。
 「食べものは、どうしたらいいかしら?」
 「うちなんか、貧しくて、お米やおかずを買うお金も無いし?」
 「お塩も買えないし・・・。』
 ぼくは、村人たちにいった。
 「食べ物は、できるだけ皆さんがいつも食べている、日常の食事をだしてあげてくださいね。お米は買わずに、カサバイモとカエルの煮付けが一番いいね。そのほうが、本当の生活が、わかって良いから。
 食事も別々に食べないで、子どもたちも含めて、家族でいっしょにしたほうがいいな。
 床にオイモのかけらが落ちても、拾わないで、いつものように、床の竹のすきまから下に落として、地鶏たちが食べるのを見せてあげたらいいかもしれない。
 そしたら『この村では、ニワトリとも、食べものを分かちあって生活しているんですね!』といって、感動するかもしれないし・・・。』
 村人たちは、大笑いした。
 すでにこの村には、何人もの日本の若者や中高年の人々が、泊まっているので、集まってきた村の子たちは、訪問者の手を取って、「どこの家に今日は泊まるの?」と、聞いてくるのだ。
 子どもたちと手をつないで歩きながら、そんな話を、双子の兄弟やシェアハウスの娘さん、そして叔父さんを亡くした兄弟に話しながら、ぼくらは、コンクリートのタンクの前に立った。
 タンクは貯水槽になっていて、蛇口をひねると、中から水が流れ出してきて、村の女の子たちやご婦人たちが、楽しそうにおしゃべりしながら、食べ終わったお皿を洗ったり、少年たちが水くみをしたりしている。
 「ほら、この貯水タンクも、日本から来た方が、コミュニティーのために置いていった寄付で作ったんですよ」と、訪問者たちに、ぼくはいった。
 「それまで、水くみに、はるか下の小川まで、20分ぐらいかけて行かなければならなかったんです。今でもたくさんの洗濯物があるときには、子どもたちは、洗濯物を山のようにつめたタライを頭にのせて、下の川まで行きますけどね。
 そこには、日本軍が逃げた洞窟もあるし、洗濯が終わると、最後は裸になって川に飛びこんで、自分を洗濯!
 「夜は、どんなお料理をだしてくれるの?」
 シェアハウスの娘がたずねた。
 ぼくは、答えた。
 「斜面でも土地がなんとかある人は、トウモロコシを植えたりして、ひきわりトウモロコシをごはんのように炊いて、出してくれるけど・・・。
 ふだんは、空き地に生えているカサバイモかサトイモを、一日に2回食べられれば良いほうかな。」
 「おかずは、なんなの?」
 「うーん、たまに、川でとった魚とかカエルを料理することもあるけどね。塩か塩辛を、イモにつけられれば良い方かな。
ニワトリを床下に野放しにして飼っているけど、あれは、クリスマスとか父さんの誕生日などのお祝いの日に、特別にさばいて食べるおおごちそうなんだよ。
 もし、父さんが山に猟にいって、猿やイノシシがとれればおおごちそうだし、シキヘビがとれれば、おいしい蒲焼きが食べられる!」
 ニシキヘビと聞いて、みんなは目をまん丸にして顔をしかめた。
 ぼくは、ミンダナオ子ども図書館の文化祭で、マノボ族の料理を食べるときに、ときどきニシキヘビを生け捕りにして、解体して炭火で蒲焼きにすることを話した。
 「ニシキヘビって、解体して心臓をとっても、まだ生きて動いているんだよ。でも、蒲焼きにすると、とっってもおいしい!
 でも、日本の訪問者が泊まるときは、たいがい地鶏をつぶして焼いたりして、陸稲を炊いてだしてくれる。『そんな、特別料理は、出さなくってもいいのに』と言っているんだけどね。さすがに、はずかしいんだろうな。
 村には、ミンダナオ子ども図書館の奨学生もたくさんいるし、君たちのめんどうも見てくれるし、いっしょに野原で遊んだりすると、一生のおもいでになるよ。
 そうだ、君たちも二泊ほど、キアタウ村に泊まってみるかい?」
 そう話すと、シェアハウスの娘さんも双子くんも、待ってましたとばかりにおおよろこびした。双子くんなどは、ガッツポーズだ。
 叔父がミンダナオで戦死した兄弟は、食べものの話などを聞いて、ちょっと緊張したおももちだったけれど、日系のジケロくんがこう語った。
 「ぼくもいっしょに、キアタウ村にいって泊まるからだいじょうぶですよ。
 急病になっても、運転のできるスタッフも同宿するから、すぐにダバオの病院に車でいけるし・・・。」
 まわりにいる子どもたちに「訪問者たちが、今日から二泊ほど、この村に泊まることにした」と、話すと子どもたちは、大喜びで手をたたいた。
 「うちに泊まって!」
 「うちにも、泊まってちょうだい!」
 ぼくたちは、広場から村の首長の家に行き、話をつめた結果、双子の兄弟には運転手のスタッフが、シェアハウスの娘さんには、奨学生の高校生が二人、そして叔父を失った兄弟には、日系人のジケロくんが同宿して、それぞれ、小さな小屋のような家に泊まることになった。
 「ぼくたち、英語が出来ないけど、だいじょうぶかなあ?」
 ブラジル人の双子がいった。
 「だいじょうぶだよ、ぼくらも泊まることに決めたから、何かあったら聞きにおいで。」
 ブラジル人の双子たちの手をひっぱって、子どもたちは、彼らが今宵泊まることになった家の方に、引っぱっていこうとしている。
 そのなかの小さな少年が、急にしゃがんでクワックワックワッと言いながら、二人の前を跳びはねて、何かをしゃべっている。
 「何て言ってるの?」
 双子が聞いた。
 「うん、今日の夜、松明もって、いっしょに晩ご飯に食べる、カエルをとりに行こうって言ってるよ。」
 双子たちは、いっしゅんビックリした顔をしたけれども、子どもたちの方をふり向いて言った。
 「オッケー、オッケー、レッツゴー!」 
















 
 






















日本の子ども、若者たちと
ミンダナオの子ども達

   

日本とフィリピンの自殺率
 
   
   
 

 ミンダナオに足を踏みいれて最初の10年というものは、度重なって戦争が起こるイスラム地域の情勢や、平地を追われて山岳地域で極貧の生活を送らざるを得ない先住民などを目の当たりにして、強い衝撃を受けると同時に、日本では想像もできない状況のなかでも、必死に生きようとしている子どもたちの様子を目の当たりにして、心身ともにミンダナオの子どもたちの救済の事だけに熱中して活動してきた。
 そのようなわけもあって、支援者の方々いがいは、ほとんど訪問者を受けいれずにきた。
 ところが、テレビの番組『世界・なぜここに?日本人・停戦内線をくりかえす危険地帯で、マノボ族の首長になった日本人』や、池上彰さんの『ジャパンプロジェクト』という番組で、俳優のパックンが来られたりしてから、日本の若者たちから、訪問希望が入るようになった。
 訪問してきた若者たちは、ミンダナオ子ども図書館に来ると、辛い過去を想像することもできない、たくさんの子どもたちに囲まれて心底感動し、帰る日には、ほとんどの若者たちが泣きだす。
 聞くと、表向きは明るい若者たちであっても、日本での生活が、いかに孤独であるかが見えてきた。
 虐めを受けたり、引きこもりをくり返していたばかりではなく、自殺未遂をした子も多い。
 そこで調べてみたところ、日本の青少年の自殺率は、半端でないという事がわかってきた。
 例えば、武蔵野大学、杏林大学兼任講師の舞田敏彦氏の報告によると、WHOの調べでは、十五歳から二十五歳の青少年の自殺率は、日本が世界一だそうだ。





 絶望の国日本は、世界一「若者自殺者」を量産している
 舞田敏彦:武蔵野大学、杏林大学兼任講師(http://president.jp/articles/-/17058)
15~25歳の自殺率は、90年代以降ずっと上がり続けています。しかもそれは、日本の特徴のようです。
以下の図をご覧ください。





 日本の若者の自殺率は、この20年間でトップにのしあっています。欧米諸国は減少傾向にあるのに対し、日本はその逆だからです。
 お隣の韓国も、似たような傾向を呈しています。「失われた20年」の困難は、若年層に凝縮されてきたといってもよいでしょう。

 これは、有る専門家の方から直接聞いた話だけれど、こうおっしゃっていた。
 「統計では、あたかも韓国や他の国の方が高いように出ていますけれど、日本では、本当は自殺であっても遺書や確証が得られないと『人身事故』と報告されているものがかなりあり、事故死は自殺に数えられないので、若者だけではなく、中高年をふくめた日本の自殺率は世界一かもしれませんね。」
 若いころからぼくも、何度か死の淵に立った経験がある人間だけれども、日本から来る若者たちが、ミンダナオの子どもたちに囲まれて、ときには激しく泣きだす姿をみると、とても放っておけない気持ちになった。
 統計の云々は別にしても、なぜこんな状態になってしまったのかは真剣に考え、取り組まなければならない問題だろう。罪の無い子どもたちが可愛そうだ。
 日本の自殺の多さにくらべると、フィリピンの自殺率は非常に低いのは驚きだ。
 かなりデータに疑問が残ると言われている、世界保健機関による年齢調整自殺率(二〇〇一五年)を見ても150位で、アジアでは最も低い自殺率だと言われている。
 こうした若者たちが、ミンダナオ子ども図書館に来て、明るい子どもたちに囲まれて、生きる力を受けとって、心を回復して帰っていく姿を見せつけられると、日本の若者や子どもたちの現状を、見て見ぬふりをして放っておくことが出来なくなってきた。ぼく自身が、生きる力に満ちた子どもたちから、本当に多くの事を学ばせてもらったから。
 そうした体験からも、これからのミンダナオ子ども図書館のありかたとして、今考え始めていることは、生きる力を失って、引きこもりや自殺に向かっていく日本の子どもたちを、どのように救ったら良いのかという点も視野に入れて、これからの活動を展開していくことだ。
 すでに閉ざしていた門戸を開き、心の傷ついた若者たちを宿泊費もなく受け入れることをスタッフと話しあって決めました。人生に行きづまっている日本の青少年に、ミンダナオの子どもたちの持つ、生きる力を少しでも感じてもらい、一人でも二人でも救うために。   

ミンダナオ子ども図書館を訪れた若者たち 
   
 
  1,北海道から電話をかけてきた少女
    
   


 「もしもし、松居友さんですか?
 わたし、北海道に住んでいる高校生なんですけれど、先日テレビの番組でミンダナオ子ども図書館のことを知って、今年の夏休みに、何としてもそちらを訪ねたくなったんです。」
 「いままで外国旅行は、どこに行ったの?」
 「初めてなんです。まだ、日本から出たことないけど・・・」
 「エッ!
 お父さんやお母さんには、お話ししたの?」
 「まだなんです。」
 「それなら、まず、お父さんやお母さんに話さなくっちゃ!」
 「わたし、お父さんいないんです。
 お母さんは、病院の看護師だけれど、毎日夜遅くまで働いていて、あんまりお話しする時間が無くって・・・でも、話してみます。」
 そうして、電話が切れた。
 それから数日して、母親からメールが届いた。
 「娘が、どうしてもそちらに行きたいと言うので、夏休みに入り次第、わたしもむすめといっしょに、そちらにうかがわせていただけますか。
 わたしは、仕事がいそがしいので、娘を送りとどけたら、その日のうちに、すぐにまた日本に帰らなければなりませんけれども・・・。」
 その夏、彼女は、母さんとミンダナオ子ども図書館にやってきた。
 ついたとたん、大勢の子どもたちに囲まれて、楽しくて楽しくて、母さんも帰りたくなさそうだったけれども、仕事の都合もあり、すぐに娘を残して帰っていかれた。
 まだ高校二年生だった少女は、ミンダナオ子ども図書館の子どもたちと、鬼ごっこをしたり、後ろの正面だーれをして遊ぶだけではなく、手こぎの井戸のそばで、石けんを服につけて、ゴシゴシ洗濯をしたり。ときには子どもたちに習って、庭の花壇に種をまいたり花を植えたりした。
 ミンダナオ子ども図書館は、1・5ヘクタールの草地のなかに、3棟の宿舎が建っていて、80人ほどの子どもたちがいっしょに住んでいる。
 広々とした庭には、花壇や野菜や果樹がうわり、コンクリートのお米干し場も広がっていて、早朝に起きて、子どもたちが大勢で、薪でご飯を炊いたり、モミ米を素足で広げて干したり、野菜を作ったり、花壇の手入れをしたりしている。
 ときには、木に登って、マンゴーやドリアンを採ってきて分けてくれるし、あちらこちらに咲き乱れている熱帯の花、ブーゲンビリアやハイビスカスやガーベラをつんで、髪にさして飾ってくれる。
 少女はすっかり、ここを気に入って、帰った翌年も電話をしてきた。
 「わたし、今年高校を卒業するんですけど、卒業したらミンダナオ子ども図書館のある、キダパワンの大学に行きたいんです。」
 これには、少々ビックリして、今ではその可能性も視野には入れているけれども、さすがに当時はお断りした。
 けれど彼女は、その後、琉球国際大学にはいり、休みになると、今も子どもたちに会いにくる。   

2,九州から訪れた娘さん    
   


 九州から訪れたべつの娘さんも、帰りがけにこう話してくれた。
 「わたし、ミンダナオ子ども図書館に来て、本当に良かった。
 ここの子どもたちだけじゃなくって、あちらこちをの山々を、仕事で走りまわっているスタッフたちに、連れていってもらった集落での体験がすごかった。
 四輪駆動車の後ろにのって、ジャングルをぬけて、橋のない川をジャブジャブわたったのは、本当にもうびっくり。
 あたりは、木のように見える背の高いシダの葉がおいしげっていて、見あげたら高い高い木の枝のうえに、猿たちが飛びまわって遊んでいるのが見えたの!
 そんな山のなかに、マノボ族たちが住んでいるのね。そして、ミンダナオ子ども図書館の奨学生もいて、学用品や、村の子どもたちには日本から送られてきた古着をわたしてあげたの。
 わたしね、自分の持っているボールペンもあげちゃった。
 でも、たくさんの子たちが、靴もはいていなかったし、服はボロボロ。だから、日本に帰ったら、古着を集めてミンダナオ子ども図書館に送ろうとおもっているの。」
 彼女が特に感動したのは、そうした僻村の子どもたちが、たとえ三食たべられなかったり、極貧で学校に行けない子たちも多いのだけれど、なぜかとっても明るくって、心から友情で迎えてくれたことだそうだ。
 「わたし外国人なのに、ここにいる子たちは、そんなことにはおかまいなしで、わたしの手を引っぱって言ってくれたの。
 『いっしょに遊ぼう!』
 『カエルつかまえて焼いたから、いっしょに食べない?おいしいよ。』
 『川に泳ぎに行こうよ!』
 『お花、頭にさしてあげるわね!』
 それに、みんな年齢がちがっていても、とってもなかよしで助けあうの。
 上のお姉ちゃんが、下の子のめんどうをよく見るし、なかには、赤ちゃんをだっこして遊んでいる子もいる。びっくりした。
 変な話だけど、ここだったら結婚して子どもが持てるなあ、と思ったの。生まれた子は、みんなで育てあっていくのよね。
 わたし、こんな体験、はじめてで、思わず涙があふれてきちゃった。」
 たしかにぼくも、ミンダナオにいると「子育て」ということばが、おかしく感じられてくるときがある。「子育つ」というのが、正しい言葉ではないかなあ?
 彼女は、こんなことも話してくれた。 
 「ミンダナオでは、ほんとうに女性が強くって、開放的で、のびのびとしているのにびっくりしたわ!
 働いている母親も多いし。
 たとえお母さんが働きにでていても、小さな子どもたちを、親戚や近所のお年寄りたちが、ちゃんとめんどうを見てくれているし、子どもたちも、子どもたちどうしで、小さい子のめんどうを見るのが当たり前なのよね。」
 それを聞いて、ぼくも思った。
 大事なのは、『子育て』することではなく、放っておいても子どもが育つ、『子育つ』環境をコミュニティーのなんかにつくることなのかもしれない。
 ぼくが子どものころは、そんな環境がまだ日本にもあった気がする。
 親が仕事で留守にしていても、となりのおばさんのことろでご飯を食べたり、お風呂にいれてもらったりしたし。
 子育ての責任を、母親だけに背負わすなんて、ほんらい無理かもしれないと・・・。
 彼女は、帰る時に、ミンダナオ子ども図書館の子どもたちに向かってこういった。
 「今度来るときにはねえ、古着を集めて、色鉛筆ももってくるから、みんなで絵を描いて絵本をつくろうね。
 そうだ、みんなの大好きな、ふりかけも持ってくるよ!」
 「わーーーい!」
 子どもたちは叫んだ。
 お別れ会の時に、彼女は子どもたちに取り囲まれ、抱かれてなきだした。
 「ありがとう!ありがとう!
 また必ずもどってくるわね!」   

 3、泣き出した若者   
  

 なかには、現地に到着したとたん、大喜びで迎えてくれる子どもたちに囲まれて、茫然自失となったあげく、ワッと泣き出す若者もいる。
 「どうしたの?」
 驚いてぼくがたずねると、彼はこう答えた。
 「ぼく、こんな体験、いままで日本で、一度もしたこと無かったんです。
 こんなにたくさんの子どもたちの、明るい笑顔に囲まれて、手をにぎられて、抱きつかれて・・・。」
 聞くところによると、ミンダナオ子ども図書館に到着したときは、日本にいるときと同じように、人と人との間には意識的に距離をたもち、壁を作らなくてはいけない、と思ったという。
 ところが、いくら努力しても、ここの子どもたちに囲まれてしまうと、心の壁がどんどん壊されていって、何が何だかわからなくなって、どっと涙があふれ出てきたのだという。
 「でも泣いた後に、今まで知らなかった別の自分が、心の奥底から湧き上がってきたようで、幸せで幸せで!
 こんな経験は、生まれて初めて!」
 なかには、子どもたちに囲まれて、自分の胸にこみ上げてきた喜びの涙に驚ろいて、部屋に飛びこんで泣いて泣いて、出てきたときには、憑きものを落としたように、さっぱりとした顔になった娘もいた。
 その後数日たって、そうした若者たちから話を聞くと、こうした返事が返ってきた。
 「ぼく、生まれつき臆病で、日本では、心を開いて何でも話せる親友を作るのが、とっても難しかったんです。」
 「たとえ友だちどうしでも、意識的に間合いをとって、距離をたもってつき合うことが礼儀だと、先生から注意されていたし・・・。」
 「わたし、心に壁を作りながら生活しないと、日本の社会では、絶対やっていけないと思っていたの。」
 先ほどの若者の話を聞くと、就学前は、保育園の園庭で遊ぶのがせいぜいで、帰るとほとんど家に閉じこもっていて、近所の友だちと公園で遊ぶこともあまりなかったという。
 小学校にあがってから、学友たちはみんな教室や塾にかよっていて、家にかえっても両親はいないし、ましてミンダナオの子どもたちのように、放課後に子どもたちだけで鬼ごっこをしたり、縄とびをしたり、近くの川でカエルやカニをとったり、野山をかけめぐったり、木にのぼって木の実をとったりすることもなかったという。
 さらに中学校にはいると、運動部の部活がはじまって、勝ち負けを重視したバスケットやサッカーなどのゲームが重視された。
 彼は、うつむきながら、そのときの体験を、こうかたってくれた。
 「そんなとき、運動のできる子はスターになるけど、ぼくは運動神経がにぶかったから馬鹿にされていわれたんだ。
 『おまえなんか、出なくってもいいよ。引っこんでろ!』
 そのあたりから、だんだん学校にいくのが嫌になって、引きこもりになっていった・・・。」
 きくと、彼は、中学だけは何とか卒業したけれど、そのごは受験競争を勝ちぬくために、学習塾にいかされて、とうとう登校拒否をおこしてしまったという。
 「でも両親とも働いていて、だれも家にはいないから、自分の部屋に閉じこもって、スマホあいての孤独な生活だったんです。
 でもここに来ると、子どもたちのようすがぜんぜん違う!」
 ミンダナオ子ども図書館の子どもたちは、年齢や宗教や民族はちがっていても、子どもどうしのあいだに壁がなく、外国人である自分にさえも、心を開いて飛びついてきたのでビックリして、なぜかわからないけど涙がこぼれ出てきたのだという。
 そんな、若者たちの話をきくにつれて、孤独や社会の壁にとり囲まれて、壁をいっきに飛びこえて、自由に世界を見わたすことが出来なくなっている、今の日本の若者たちの生活状況がしだいに見えてきた。
しかし、ミンダナオ子ども図書館で過ごしていると、数日後から、彼らの顔つきがどんどん変わりはじめていくのがわかる。
 まるでそのへんに咲いている花や、空を飛んでさえずっている小鳥たち、とりわけいつも彼を慕っていっしょに遊ぶ現地の子どもたちとおんなじような、自然でおだやかな顔になっていく。
 引きこもりだったという若者も、いよいよ、お別れの日が近づいてくると、ぼくにいった。
 「できれば、ここに住みたいぐらい。本当に日本に、帰れるかなあ?」
 最終日の夜、別れの歌をうたってもらうと、彼は子どもたちと抱きあいながら、大泣きに泣いた。
 「帰ってくるからね。必ずまた、もどってくるからね。
 ぼくのこと、忘れないで!」
 そして翌日、ダバオの空港に送りとどけると、旅立ちの前にぼくにこう語った。
 「日本では、つらいこと寂しいことが、本当にたくさんあって、ときには死にたいと思ったけれど、もう大丈夫!
 これからも、つらいことはあるだろうけど、いざとなれば、ここに来れば救われるから!」
 「うん、いつでも訪ねておいで。ここは君のセカンドハウスだからね。
 再会のときは、子どもたち、もっと喜ぶよ!」   
 


訪問してきた若者からのメール
本人の承諾を得て、掲載しました。 
 
   

おはようございます。
MCLに滞在している間に連絡ができず、すみません、27日に帰国しま した。
今回は20日間という短い間でしたが、また2年ぶりに子どもたち 一人ひとりの生き方に触れることができ、とてもうれしく幸せな時間 でした。
最後の日に、私のこれまでみんなから学んだこと、伝えたかっ たことを、写真と文章でスライドショーにして、みんなにみせることが できました。
みんなからもらったアイデアや考え方をいかして、これ からにつなげていきたいと思います。
写真絵本など完成したらまた連絡します!
一応私が考えている写真絵本のコンセプトは「心の豊かさ」、「身 近にある幸せ」を、MCLの子どもたちや現地の生活のなかから映し出していく。ということです。
私は心の豊かさを育むものは「人のつながり」、「分け合うこと」 、「感謝すること」 、「自然とともに生きること」 だとこれまでのフィジーの村での生活やMCLで、子どもたちや現地 の人たちとの生活の中で感じ学んできました。
それらを多くの人に 、私の写真絵本をみることではっときづいてもらえることができたら いいな、と考えています。
そして身近にある幸せとして、友達がいる こと、家族がいること、家があること、学校にいけることそんなひ とつひとつ些細なことなんだと、気づかせてくれたのも彼らです。 その思いを写真絵本に表したいです。

友さんエープリルさんと行き違いになったのはとても残念でした 、、、、。
5月に9人の学生が、立正佼成会さん企画の文化交流の発表で、九州にやってくると聞きました。
もし可能なら、私も空いている 日に会いに行きたいと思いましたので、そのことに関して情報があ れば、教えていただきたいなと思っています。 
また、私も東京にいったさいには、お会いしたいです!
これから就活で すが、自分らしく生きていける道をしっかり見つけたいと思います 。
またMCLのみんなに会いに行きます。
早くMCLに、 みんなに、この感謝を返していけるようにまだまだがんばっていきます。

     
     

 
お返事有難うございます。帰国して、書こう書こうと思いながらここまで来てしまいました…
一週間、MCLに滞在させていただき、言葉にならない程の、たくさんの素晴らしい体験をさせていただきました。ストーリーテリングは勿論、子どもたちと交わした言葉や、そこで考えたこと、日本のせわしなさの中でも折につけふっと思い出し、しっかりしなくちゃと気持ちを入れ直しています。

 読み聞かせについて知りたくて、プグハナンの子どもたちに本の楽しさを伝えたくて、走ってきました。でも、何度も不安になりました。本当に読み聞かせで子どもたちを笑顔にできるのだろうか。独りよがりの企画になっていないだろうか。
 でもそんな不安は、MCLの子どもたちに会って吹き飛びました。
 本棚からお気に入りの本を持ってきて、恥ずかしそうに、誇らしげに読み語ってくれたたくさんの子どもたち、初めて読んだ絵本「みにくいアヒルの子」がどれだけ自分にとって大事なお話しなのか話してくれた子や、照れながら手作り絵本をくれた子どもたち。皆の笑顔に、どれだけの力と、心を動かす物語をもらったかしれません。

 誰もが心に、一冊の本を持っていて、どれだけ最初の頁が読むのが辛い、悲しいものであっても、今子どもたちの物語は、希望に向けて歩き出している。それが本当に嬉しくて。その未来を、私はこれからもずっとずっと祈り続けると思います。
 今はまだ何もできないけれど、いつかあの子たちの心を支えられるような、そんな社会人になれるよう、就活も頑張ろうと思います。何より、プグハナン版子ども図書館を作って、あの子たちにも笑顔になってもらえるように、できること全部しようと思います。

 話は変わりますが、今回私と同行した友人や、ここでのお話しをした後輩たちが、感動しています。もしお時間があれば、お話しをお聞きしてみたいと言っておりました。
 私は故郷松本に帰省がてらに、25日の講演会を、母と聞かせていただく予定です。とても楽しみです。

 長くなりましたが、ここにおいでと言って下さって、本当にありがとうございました。


 




ミンダナオ子ども図書館のスタッフ イズラハイダさん

イズラハイダさんから、サイトに載せてもらっても、OK!むしろ嬉しい!という連絡をいただいて載せます。
彼女は、本当にしっかりと奨学生セクションを支えてくれています。
お父さんは、オスタージュといってイスラムの宣教師です。
人のために尽くすことを、父親からも学んだようですね。

       






わたしの名は、イズラハイダで、27歳です。
5人兄弟の2人目ですが、右の眼が白く盲目で生まれました。でも、もう片方の目で美しい世界を見ることができて感謝です。
片眼が盲目で、貧しい一家でしたが、愛に満ちた家族のなかに生まれたことを幸せに思います。
6歳になって、学校に通い始めました。でも、学校友だちやクラスの子たちを前にすると、盲目であることが恥ずかしかったので、いつもサングラスをかけていました。
盲目であることが知られたら、いじめられるんじゃないかと怖かったから。
そんなわけで、大きくなるまでずっとサングラスをかけ続けていました。
家は、経済的に豊ではなかったけれど、盲目であることは、学業を終了したいという思いの妨げにはなりませんでした。それどころか、高校を卒業したいという思いは強くなっていったのです。
学校は遠くて、通うのが大変でした。
小さな舟で川を渡り、川岸沿いに歩きます。授業のある日は、父さんが毎日、舟で送ってくれました。
雨の日などは、洪水になって大変でした。おぼれそうになって、救ってもらった記憶もあります。
ありがとうアッラー!
片眼が見えなかったけど、出来ればいつか、お医者様に診てもらいたいという夢は持っていました。
2004年のある日、友さんと奥さんが、わたしの叔母の家にやってきました。
そのときわたしも偶然いたのですが、彼らはわたしを見て哀れに思ってたずねました。
「目は、どうしたの?病院にいって診察してもうかい?義眼を入れることもできるかもしれない。」
それを聞いて、嬉しい気持ちとちょっと怖い気持ちが起こりました。
「ゆっくり、考えたら良いよ。」
その後すぐに、わたしは、のちのち後悔しないためにも、思い切って目を診てもらうことに決めたのです。
そして、手術の結果、わたしの病気の目はとって、義眼をいれたのです。
手術は、大成功でした。
手術のあと、わたしは、MCLと出会って、MCLが自分の人生を変えてくれたと感じました。
そして、高校の卒業式の日、MCLのスタッフの女性がわたしをたずねて写真をとって、わたしを奨学生にしてくれたのです。
「ビックリ仰天!」
彼女はいいました。
「あなたは、今MCLの奨学生になったのよ。これで、大学に行けるのよ!」
その時の気持ちは、言葉でいいあらわせません。それを聞いたとたん、うれしすぎて、うれしすぎて。
「わーーぃ!本当にわたしの夢がかなったわ!!!」
我が家には、娘を大学にいかせるほどの経済的な余裕など無かったからです。
アッラー神様!わたしは、学業を続けられる!
わたしは、南ミンダナオ州立大学の商科に入りました。
MCLの友さん、エープリルリンさん、スタッフのみなさん、そしてなによりも支援して下さった方のおかげで2010年に卒業できたのです。
それは、わたしの人生でも、一番嬉しいときでした。
MCLがなかったら、大学までは行けなかったからです。感謝という言葉を超えて、どう表現したら良いかわからないくらい。
現在わたしは、MCLのスカラシップセクションで、スタッフとして働いています。
MCLは、一つの家族だと感じています。
これを読んで下さっている皆様も、ここの子どもたちを支えて下さっている、家族だと感じています。
わたしは、いつもお祈りを捧げるときに、これからもいつまでも、MCLが貧しい子どもたちを助ける神様の道具として働き続けることができますように、と祈り願っています。

  
 
 
     




 生きる力ってなんだろう
   ミンダナオの子どもと日本の子ども

(2:中高年の訪問者が言うには)  
中高年の訪問者が言うには

 また中高年の訪問者がミンダナオ子ども図書館を訪れて、生き生きと遊んでいる子どもたちを見て必ずいうのが、「自分が子どもの頃には、ちまたに同じ風景が広がっていたものです。」という言葉だ。
 神戸からこられた六十代の支援者の方は、現地の子どもたちのようすを見て、こう語られた。
 「ほんとうに、懐かしい風景ですね。
 わたしが子どもの頃には、学校が引けると毎日裏の山を走りまわって遊んだものです。
 裏山にのぼると、海が見えて、春にはワラビやフキノトウ、それにツクシも摘みました。
持って帰ると母さんが、大喜びで料理してくれたものです。
 住宅地の道路が舗装されてからも、路上で石けりや缶けり、縄跳びやおにごっこをして、学校の友だちだけではなく、近所の子どもたちどうしでも、本当に仲良く遊びました。
 小さい子も大きい子もみんな集まって来て、ときには赤ちゃんをおんぶしたお姉ちゃんもいっしょになって、おままごとや後ろの正面だーれ、などをして遊んだものです。
 ここの子どもたちを見ていると、当時のことが思いだされてなつかしくて、いいなあ。
 いっそうのこと、老後はここに住みたいなあ。」
 わたしも決して日本が嫌いなわけではないのだが、ミンダナオに帰って、子どもたちが遊んだりしている姿を見ると、心底ホッとする一人だ。
 子どもたちが遊んでいる姿が見えるのは、ミンダナオ子ども図書館の敷地内だけではない。そこから外に出ても、路地裏でも、林のなかにでも、子どもたちが遊んでいる姿が見受けられる。
 十五年前に、今の場所にミンダナオ子ども図書館を建てたころは、このあたりはゴムの木の林と果樹園ばかりだった。
 最初の建物は、あえて敷地に塀をつくらず、地域の住民たちが敷地内を行き来したり、外に住んでいる子どもたちもなかで、自由に遊べるようにしていた。
 今は、福祉局の指導で、どうしても塀を作らざるを得ず、針金のワイヤーをまわしているけれども、子どもの頃に住んでいた東京の杉並区の荻窪のあたりの家々でも、住宅と住宅のあいだにブロックやアスファルトの塀はなく、あって生け垣だったから、ときには学校からの帰り道に、お隣さんとの境の生け垣をくぐり、庭をとおりぬけて帰ったりした。
 するとお隣のおばさんは、声をかけてくださった。
 「おかえりなさい!
 そろそろ柿の実も熟れてきたから、木に登ってとったらいいよ!」
 ミンダナオ子ども図書館の敷地内でも、子どもたちは木に登って、マンゴーやマンゴスティン、ときにはドリアンをとっては、みんなで分けあって食べている。
 また、山の集落ならば、草原や斜面でも、走りまったり木登りしたりしているのは日常で、とりわけ感動的なのは、洗濯物をつめたタライを頭に、友だちどうしが弟や妹を引きつれて山の斜面の小道をかけくだり、ふもとの川に洗濯に行くようすだ。
 貧しくて学校に行けない子たちやお姉ちゃんも、ときには赤ちゃんをおんぶして、おなじもの同士があつまって、みんなで川に洗濯にいく。
 そして、洗濯が終わって、木の枝と枝の間にはりめぐらせた紐に、洗濯物を干してからが本番!
 いっせいに、みんなで素っ裸になって川に飛びこんで、自分を洗濯しながら大はしゃぎだ。
 中高年の方々が、そんな風景を目の当たりにして感動する気持ちはよくわかる。
 ぼくが小さかったころ育った東京の杉並の荻窪でさえ、当時は都電の終点で、そこから向こうは畑と田んぼと林の広がる武蔵野だった。
 駅前周辺には、トタン屋根の市場が広がり、裸電球のしたで、魚屋や八百屋が叫んでいた。
 「いらっしゃい、いらっしゃい。
 取れたてのマグロだよ。サバもアジもあるよ。新鮮で美味しいよ!」
 「そこのトマト、仕入れたばかり。キャベツもキュウリも美味しいよ!」
 青梅街道沿いには、焼き鳥屋も団子屋もあって、おばあさんが、タレをつけて炭火で焼いていたりしていた。
 母が、鶏の丸焼きを買ってくれたときなどは、弟や妹といっしょにぼくは叫んで歩いたものだ。
 「母さんが、鶏の丸焼き買ってくれた!」
 これとまったく同じ風景が、ミンダナオ子ども図書館のあるキダパワンの街に生きている。
 キダパワンは、北コタバト州にあり、フィリピンの最高峰2954メートルのアポ山の山麓の高原都市で、車で走れば5分で抜けてしまうような小さな都市だけれど、この街にも市場があって、裸電球のしたで、魚や肉や野菜が売られている。
 ミンダナオ子ども図書館の炊事担当のスタッフは、夫の運転する三輪バイクのトライシクルに乗って、毎日かならず市場に買い出しに行くので、訪問者の若者たちや中高年の方々も同行する。
 市場は、活気に満ちていて、大勢の売り子たちの前には、大きなマグロからはじまって、サバ、アジ、サンマといったいろいろな魚やイカ、タコ、貝、そして海ブドウやモズク、ヒジキなど、さらに生きて動きまわっているヒトなども売っている。
 「おいしいよヒト。焼いて食べるとおいしいよ。
 このヒトは、とりたてだよ!
 生きているよ!」
 それを最初に聞いたときは、「ヒト(人)を売っているのかとビックリしたけれど、後で、ナマズのことをこちらでは、ヒトと呼ぶのを知ってなっとく。
 また、こちらでは、幾種類もの塩のきいた干物の魚が売られている。
 さらにその横には、樽に入ったさまざまな小魚や小エビの塩辛が売られていて、注文するとビニール袋に入れてくれる。
 山から街に出稼ぎに出た人々は、たいがいこの干物と塩辛をおみやげに買って家にかえる。
 山には電気がないので冷蔵庫がない。だから生魚は腐るので、日持ちのする食材を買って帰って、小さな魚を家族みんなで割いて分けて、山芋に塩辛をつけて食べるのだ。
 そんな生活を中高年の人々が見ると、自分の子ども時代を思いだし、とっても懐かしく故郷に帰ったような気持ちになるようだ。
 ミンダナオで、子どもの姿を見ない場所はない。
 こうした市場の中でも、子どもたちはどこにでもいて、ときには小さなザルに、現地ではラマスと呼ばれる味付けに使う小粒のニンニクやトマト、香草やショウガなどをつめてやってきて言う。
 「ねえ、これ買って!」
 「いくら?」
 「10ペソ(25円ぐらい)。」
 「学校、いってるの?」
 「ええ、でも母さんの収入だけじゃノートも買えないし。」
 「偉いなあ、それで、がんばっているんだね。
 それでじゃあ、そっちのショウガも買ってあげるね。」
 「わーい。ありがとう。」
 ミンダナオの子どもたちは、とっても家族おもいで、嫌な顔一つせずに、本当によく母さんや父さんのお手伝いをする。
 かつてスカラシップの一般公募を9月にしたら、なんと一ヶ月だけで毎年500名を超す子どもや若者たちが、ミンダナオ子ども図書館を訪れてきた。
 ミンダナオ子ども図書館のスカラシップは、成績ではなく、家庭状況の困難さを基準に、極貧のなかでも、孤児や崩壊家庭の子たちを優先する。
 必ずインタビューするだけではなく、その後、ぼく自身がスタッフとともに実家を訪ね状況を把握してから慎重にえらぶ。
 しかし、学校に行きたい理由をインタビューすると、ほとんどの子たちの返事が共通しているのに驚いた。
 学校に行きたい最大の理由は、
 「卒業して少しでも良い仕事について、家族を助けたい。」
 「父さんはいないけど、わたしががんばって、妹や弟の一人でもいいから、学校にいかせてあげたいの。」
 正直に言って、リーダーになりたいとか、有名になりたいとか、競争に勝ちたい、と言った野心的な答えは、あまり聞いたことがない。彼らにとっては、お互いに助け合うこと。友情や家族愛が優先なのだ。
 なりたい職業で一番多いのが「地元の学校の先生」だ。すでに200名ほどが卒業しているけれど、地元の学校の先生になったりソーシャルワーカー(社会福祉士)になっている子が結構多い。
 安定していることと、公務員であるが故に給料が高いことも理由だろうけれども、 なかには、先生になって、自分の給料の一部を使って、故郷の村の貧しい子たちを、学校に行かせてあげている卒業生たちもいる。
 街にいても、鬼ごっこやかくれんぼといった、遊びをしている子どもたちがたくさんいるし。
 山でも嫌な顔一つせずに、まだ赤ちゃんの妹を抱っこしてめんどうをみたり、市場や街角でも、親のお手伝いをしてトウモロコシや総菜を売ったりしている子たちをみると、なぜか心が和んでホッとする。
 また骨休めのために、妻と二人で夜の屋台で焼き鳥をほおばりながらビールを飲んでいても、働いている母親のそばに、けっこう子どももいっしょにいて、なぜかちまたにも友情と家族愛が感じられ、自分が子どもの頃に遊びまわった場所や風景、そしてちまたの時間の流れが思いだされてホッとする。
 日本で講演会などでお会いして、それがきっかけでミンダナオに来られた方々が、現地でのぼくの顔を見てよく言われる言葉がある。
 「松居さん、日本にいるときの顔と、ミンダナオにおられるときの顔つきが、まったく違いますね!
 こんなに明るくのびのびとして、しかも笑顔の松居さんを、ついぞ日本では見たこともない!」
 「子どもたちが、笑顔をくれるからですよ!」
 中高年の訪問者がおっしゃるように、日本にもかつてあった、友情と愛に満たされた、ちまたの風景が、ここにはいたるところで生きている。
 ここ数十年のあいだに日本では、そうした子どもの遊びや人情あふれるちまたの風景が、経済の高度成長とともに消えていき、お金と物が優先される、仕事社会に変わっていった?
 厳しい衛生管理を適応しているためなのか、今の東京では路上の屋台も見かけない。禁止されているせいか、路上で鬼ごっこをしたり、かくれんぼをや缶けりをしたりしている子どもの姿も見かけない。
 そして、勝ち負けをより重視するゲームと競争社会になっていき、気がつくとその陰で、いじめや引きこもりそして自殺、孤独な子どもや老人たちが増えていった?
 フィリピンの人の目から見ると、日本は、仕事優先で家族を大切にしない社会に見えるようだ。
 日本の人の目から見ると、フィリピン人はなまけもので、だから政治も経済もだめなんだ、と見えるようだ。
 子どもたちが未来だとするならば、たとえ貧しくとも、子どもたちが明るい社会は、未来が明るい?
 たとえ経済的には豊でも、子どもたちが引きこもって自殺していくような社会は、未来も暗く、世界の中で引きこもっては死んでいく?
 生きる力ってなんだろう。




生きる力ってなんだろう
   ミンダナオの子どもと日本の子ども

(1)

「生きるってなんだろう」(仮題)で、執筆を開始しました。
部分的に抜粋を、サイトで掲載していきますね。


  なぜ生きる力について考えるようになったのか
 

 『生きる力ってなんだろう』というタイトルの本を、どうしても日本の人々、とりわけ引きこもりや自殺、心の貧困が年々増えていく日本の子どもや若者たちのために、そしてまた、子育てに悩んでいる親や孤独な中高年の方々のためにも、書かなくてはいけないと思いたった。
 その動機は、日本からミンダナオ子ども図書館を訪れた若者たちや中高年の方々が、現地の子どもたちに囲まれて、生きる力と勇気や希望をもらって帰っていく様子を見せつけられてきたからだった。
 ミンダナオ子ども図書館の子どもたちに囲まれて、帰りのお別れのときは、ほとんどの訪問者たちが目に涙を浮かべ、ときには手をにぎられ抱きつかれて泣き出す。
 なかには、現地に到着したとたん、大喜びの子どもたちに囲まれて茫然自失となり、ワッと泣き出す若者たちも少なくない。
 「どうしたの?」
 驚いてぼくがたずねると、若者はこう答えた。
 「ぼく、こんな体験、いままで日本で、一度もしたこと無かったんです。こんなにたくさんの子どもたちの、明るい笑顔に囲まれて、手をにぎられて、抱きつかれて・・・。
 日本にいるときと同じように、自分と人との間に壁を作らなくてはいけない、距離を持たなくてはいけない、と思っていくら努力しても、ここの子どもたちに囲まれてしまうと、心の壁がどんどん壊されていって!
 何が何だかわからなくなって、涙があふれ出てきたんです。
 でも涙がでた後に、なんだか今まで知らなかった別の自分が湧き上がってきたようで、幸せで、幸せで。」
 話を聞くと、日本では、生まれたときから、たとえ友だちどうしでも意識的に距離をたもち、あるていど心に壁を作って生活しないといけないという。
 「でも、こんな経験は、生まれて初めて!」
 また中高年の訪問者が、現地の生き生きと遊んでいる子どもたちを見て必ずいうのが「わたしが子どもの頃には、こういう風景が日常でした。なつかしくて、いいなあ・・・。」
 わたしもミンダナオに帰るとホッとする。
 鬼ごっこやなわとび、うしろのしょうめんだーれといった、現地でも伝統的な遊びを毎日している子どもたちを見ていても、スタッフといっしょに日々の総菜を買い出しに、街の市場を歩いていても、また骨休めのために、妻と二人で夜の屋台で焼き鳥をほおばりながらビールを飲んでも、自分が子どもの頃に遊びまわった場所や風景、そしてちまたの時間の流れが思いだされてホッとする。
 日本で講演会などでお会いして、それがきっかけでミンダナオに来られた方々が、必ず言う言葉。
 「松居さん、日本にいるときの顔と、ミンダナオにおられるときの顔つきが、まったく違いますね!こんなに明るくのびのびとして笑顔の松居さんを、ついぞ日本では見たこともない!」
 「子どもたちが、笑顔をくれるからですよ!」
 日本にもかつてあったちまたの風景が、ここにはいたるところで生きている。
 そうした子どもの遊びや人情があふれていたちまたが、経済の高度成長期に入ると、仕事とお金と物が優先されて消えていった?
 厳しい衛生管理を適応しているためなのか、今の東京では路上の屋台も見かけない。
 路上で鬼ごっこをしたり、かくれんぼをや缶けりをしたりしている子どもの姿も見かけない。
 そして、勝ち負けをより重視するゲームと競争社会になっていき、気がつくとその陰で、いじめや引きこもりそして自殺、孤独な子どもや老人たちが増えていった?


 今まで現地に住みミンダナオ子ども図書館の活動に没頭して、まったく日本を顧みなかったけれども、年老いた両親の事もあり、また日本の若者たちのことも心配になり、ミンダナオと日本をつなぐスタッフや若者たちの育成のことも考えて、十五年ぶりに妻子と日本に拠点をうつし、執筆や講演を含めて活動をはじめた。
 本当にひさしぶりに日本に拠点を置いて、日本の状況にも目を向けて驚いたこと、驚いたこと。まずは電車に乗ると、毎回のごとく電車が止まり、人身事故の報告。専門家の話だと、いろいろなデーターが出ているようだけれど、日本は世界でも最高度の自殺率で特に青少年の自殺の多い国だという。
 武蔵野大学、杏林大学兼任講師の舞田敏彦氏の報告によると、WHOの調べでは、十五歳から二十五歳の青少年の自殺率は、日本が世界一だという。


絶望の国 日本は世界一「若者自殺者」を量産している
舞田敏彦:武蔵野大学、杏林大学兼任講師
http://president.jp/articles/-/17058
15~25歳の自殺率は、90年代以降ずっと上がり続けています。しかもそれは、日本の特徴のようです。図1をご覧ください。日本の若者の自殺率は、この20年間でトップにのしあがっています。欧米諸国は減少傾向にあるのに対し、日本はその逆だからです。お隣の韓国も、似たような傾向を呈しています。「失われた20年」の困難は、若年層に凝縮されてきたといってもよいでしょう。


 「統計では、韓国や他の国の方が高いように出ていますけれど、本当は自殺であっても『事故』と報告されているものがかなりあり、事故死は自殺に数えられないようなので、それを加えると日本の自殺率は世界一かもしれませんね。」と、おっしゃっていた方もいらっしゃる。
 統計の云々は別にしても、なぜこんな状態になってしまったのかは真剣に考え、取り組まなければならない問題だろう。罪の無い子どもたちが可愛そうだ。
 ミンダナオ子ども図書館では、読み語り活動以外にも、三食たべられない極貧家庭の子どもたちのなかでも、戦争その他で親が殺されたり、育児放棄で父親や母親がいなくなって家庭が崩壊して、そのあげくに道に立たされて売春を強要されていたり等々、とりわけ不幸な境遇の先住民、イスラム、クリスチャンの子たち500名ほどにスカラシップをあたえて大学まで通えるようにしてあげている。
 もちろん、成績優秀な子たちばかりではないから、大学という選択肢いがいにも、その子にあわせて技術学校に通って裁縫や運転免許をとらせてあげたり、出来るだけマイナスの環境から脱却できるようにしてあげている。そして、そのなかでもとりわけ保護が必要で、現地に置いておけない子たちは、本人が希望し保護者が了解すれば、本部や下宿施設に引き取って、ぼくや妻やスタッフたちが、めんどうを見ると同時に生活を保障してあげている。
 孤児施設としての許可もとっているけれども、村に帰って学校に通いたくなったら翌年帰れるから、「ここは奨学生が学校に通うための宿泊場所で君たちは奨学生、ここは孤児院とは違うよ」と言っている。
 たとえ孤児であっても、子どもたちは「オルファン(孤児)」と呼ばれるよりも「スカラー(奨学生)」と呼ばれる方が気持ちが楽なようだ。しかし、住みたい子が多くて・・・2017年の現在、本部に住んでいる子たちの数は80名。山の下宿小屋、海の下宿小屋、町の下宿小屋をいれると100名ぐらいの子どもたちが、ハウスペアレントと共同生活をしながら安心して学校に通っている。


 




ミンダナオ子ども図書館が提案し
日本政府のODA「草の根・人間の安全保障無償資金」でイスラム自治区に建設の

カルボガン小学校の最終チェック



カルボガンは、ARMM(イスラム自治区)のなかでも、戦闘が多く
最もデリケートと言われていた地域だ。
東南アジア最大と言われているリグアサン湿原の内部に位置していて
反政府ゲリラの巣窟と名指しされていた。
ミンダナオ子ども図書館(MCL)では、2000年初期の戦争で
150万の避難民が出て、
3年近く実家に帰れない日々が続いたときから
医療、読み語り、スカラシップ、保育所建設支援を通して
こうした最もデリケートな地域の子どもたちも助け
村の人々と繋がりを持ち活動し続けてきた。
今回は、この地からの強い要望で建設を決めた
小学校の最終チェックをしに向かった。
MCLでは、この地から親のいない子などを奨学生に採用し
本部にも数人住んで学校に通っている。
冬休みに入るので、その子もいっしょに舟で村まで送った。
右の男の子がその子。
日本の支援者から送られてきたジャケットを着て
おみやげに、支援者の方々から送られてきた
古着などを持って故郷に。
親はいなくても、やはりふる里は懐かしの我が家!
ワニの出没する湿原を抜けて、先端のカルボガン集落に着く。

 
 
MCLの奨学生も一緒にふる里へ送りとどけた 
 
ご覧のように、校舎は床が底上げされている。
毎年数回おそってくる洪水。
そのたびに人々は、避難場所を探し回る。
今回の学校は、授業を受ける場所であると同時に
洪水のさいの緊急避難場所として
活用できる場にするためだ。
サパカンでの学校のように、
土盛りでは無く、柱で底上げされているのは、
洪水でおそってくる水流を
床下に流して、
家を倒す水草などから
建造物を転倒崩壊から守るため。 

 

教室の中のチェック 

ミンダナオ子ども図書館のスタッフは、ほぼ2週間に一度現地に行き、
作業の状況と流れを調査してきた。
実は、この地域は、ODAでは最も難しいと言われている地域で
多くが、完成しないまま放置されたり、
完成しても、コミュニティーセンターとして作られたものが、
現地の有力者によって私物化したりしている。
資材の盗難は、日常茶飯事。MCLでも、経験がある。
MCLでは、今まで2棟の学校を、ピキット市サイドに建ててきたが、
つくづく、建物や物資の支援の難しさを感じ続けてきた。

なかでも、今回のカルボガンは、教育省が建てた学校すら
土台と壁がコンクリートで建てられた後に
屋根も無く、窓も無く、そのまま現地に放置されている。
それでも、現地の子どもたちが通う小学校の状態や
ひどさを見る度に放っておけず、
また、現地が反政府地域のなかでも、
度重なる分離派とのリドー(戦闘)で、
取り残されたように疲弊している様子を見ていたたまれず、
困難な地域の中でも、和平構築に最も重要な地点として
読み語り、医療、スカラシップや洪水、戦争による
難民救済支援を続けてきた。

今回も、2週間ごとのチェックを継続して最終チェックを迎えたが
一つ気になっていたのは、
床がスムーズな仕上げをされていない事だった。
以下の写真が、ラフなまま完成とされた教室。
 

ラフなまま、完成とされた教室 


最終チェックをしに現地へ
床自身は、ラフのママだったが、
表面の補修が行われ厚いペンキが塗られていた。

エンジニアからは、ラフに仕上げたのは、スムースにしてしまうと
滑りやすく、子どもたちが転倒する可能性があるからだ、
と言う話を聞いていたが、
スタッフとしても、また現地の校長先生からも
このままでは、あまりにも雑な仕上がりでは無いか、と言う意見が出た。
実際に代表の妻も私も、日本で写真を見て、同感だったし、
大使館の担当職員も、同様の感想を送ってきた。
そこで、エンジニアに連絡をすると、
その感想を受けて、床の仕上げに手を加えて
数日以内に修復が完了すると言う返事が来た。
それで、ミンダナオに戻ったのを機会に私が訪れて
自分の目で最終チェックをした。
床自身は、ラフのママだったが、
表面の補修が行われ厚いペンキが塗られていた。
むき出しのコンクリートのラフな状態よりも
はるかに良くなってはいたが、
最終的な仕上げをなぜラフなままにしたのかを
現地の村長を始めとする村人にたずねると・・・
意外な背景がわかってきた。


教室の床を、ラフのままにして欲しいと、
エンジニアに提案したのは、
現地の住民たち、村長、村人、コミュニティーだった。
理由は、
スムーズな床は滑りやすく、子どもが転倒してケガをする。
とりわけ、この建物の目的の一つが、
洪水の時の避難場所にも使うこと
である事を考えると、水や泥の多い湿原地帯では
スムースな床は、転倒の危険があって危ない!
と言うものであった。
ここで行われた議論は、現地スタッフがFacebookに挙げています。
https://www.facebook.com/MindanaoChildrensLibraryFoundationInc/?fref=ts

現地で、人々が話すのを聞いて、私自身はすぐに納得した。
戦争避難民が大量に出て、その救済に行くと
多くの場合、学校内に大量に避難している。
しかし、その学校の教室は、
一般的にはスムースと呼ばれる仕上げがなされていて
さらに教育の一環であると思われるのだが、
毎日のように子どもたちが、ヤシの実の殻を半分に切ったものを
足で滑らしながら磨きをかけている。
しかし、正直に言って、このような湿原地帯で、
しかも滑りのある泥の地面であるが故に
私自身も、教室に足を踏み入れたとたん、
何度か滑って転倒しそうになった経験を持つ。
それを思いだすと、最も転倒を避けられるのは、
確かにエンジニアが言うように、むき出しのコンクリートのラフな床である。
むき出しだと、吸水力もあって滑りにくい。
しかし、上記の写真で見てもわかるように、
いかにも不完全なままに放置された感じがする。
現地の住民の意見と、MCLと大使館の意見の狭間に立たされて
悩んだエンジニアが、ダバオから建設会社の担当者を呼んで
最終的に出した結論が、ラフな床に厚めのペンキを塗ることだった。
ペンキを塗ると、見た目ははるかに良くなる。
ただ、水分は吸収されにくいので、むき出しの床よりは多少滑りやすい
しかし、床のデコボコは残っているので、スムースな床よりははるかに滑らない。
私も、他の建物で、同様の床が広がっていたのを思いだした。
現地では、こちらの方が好まれることも、住民から聞かされた。
ただし、下の写真のように、階段だけは、子どもたちが滑ることを恐れて、
ペンキは塗らずに、完全にラフなままに残されていた。
 
   
 

階段だけは、子どもたちが滑ることを恐れて、完全にラフなままに残された。 
スタッフも校長先生も、仕上げになっとく。 
       

私自身ここから学んだことは、
やはり現地の住民の視点に立たないと
なかなか深層までは、理解できないという事。
そして、現地の住民との率直な意見交換が
出来るようになるためには、
現地の人々との壁を取り去った
信頼関係が、長年の交流によって作られて
いないと不信感が先に立ってしまうという
自身を交えての反省事項だった。
支援する側とされる側が
同じ目線に立てる場所が住民との友情
そして、子どもたちへの愛だ。
今回のこの学校は、
この湿原地域に最適な建物の
モデルになるだろう。
今後もこうした学校を、子どもたちのために
建てていきたい。

    

ギネスブックに登録されている
世界最大のワニは、ミンダナオ出身で
今僕は、ここの湿原のワニとイスラムの少年と少女の物語を絵本にして
来年の4月には、今人舎から、
『サンパギータのくびかざり』の第二弾として出版される予定です。
まさにこの湿原と学校が舞台で、内容は、
父親が戦争で殺されて、学校を止めて漁師をしながら
母さんと妹たちを助けている少年と、
隣で学校に行けている幼なじみの少女。
しかし、洪水が起こって家がながされそうになり
勇敢な少年は、水牛にまたがって、
母親たちと、さらに隣で助けを求めている幼なじみの少女の家族を助け、
濁流の中を必死で避難場所の学校に向かう。
ところが、学校の近くまで来たときに、巨大がワニが後ろから近づいてきて・・・。
イスラムの子たちの物語、お楽しみに!
 
 



学校建設の記録から
6月16日

       
       
       
       

7月18日
マニラ新聞の記者が来られた!
 
       
       
       
       
 
8月24日
いよいよ壁が出来上がっていく
       
       

9月16日
屋根の建設へ向けて資材を搬送
  
       
       

11月10日
洪水が襲ってきた。教室にも到達。滑らない工夫をしなければならない。
  
       
       
       
       
       

12月6日
家具を搬送。滑らないためにセメントラフで完成したが、見た目がいまいちだ。
   
       
       
       

ペンキを塗って、校長、村長も村人たちもなっとくしけれども、
大使館では気に入らないようだ。 
     
      

 皆さんご心配なく、余分な費用が出た場合は、
MCLからではなく、私が個人で負担します!
寄付は全て、皆さんが支援している子どもたちのためですから・・・


今、スタッフのベビンと話しました。
ぜひ彼女がそちらのエンジニアとも連絡をとり、現地調査をして
子どもたちのためにもベストの形で完成したいと思います。
今日中にもカルボガンの村長と話します。
そして、26日にはダバオでエンジニアと話しますし、
1月初旬にはピキットの市長、校長、村長、MCLのプレシデントでやはりエンジニアのダニー氏、
そして担当のエンジニアも交えて現地で話をつめていくことにしました。
ぜひ現地調査にそちらのエンジニアが来られる時には、
現地スタッフを交えてカルボガンの校舎を視察できればと、ベビンも村長も言っています。
最終的な見解がでましたら、担当者のベビンに教えていただければ幸いです。

費用の足りない分は、MCLの寄付からは出せませんが(寄付は使い道が全て決まっていますので)
私が個人で負担いたします。
現地の平和と子どもたちの事を考えますと、カルボガンの学校建設は重要で、
長年にわたり何とかしたいと思い続けていますので・・・
いよいよ、最終的な詰めの段階になってきましたね。
現地の子どもたちの事を考えると、完成が待ち遠しいです。
完成しましたら、平和の祈りの祭典をカルボガンで行います。







Mindanao Children's Library Foundation, Inc.
MISSION STATEMENT
ミンダナオ子ども図書館のミッション


 
愛を必要としている不幸な子どもたちに仕え、互いに愛し合うこと。
悲しみの中にある子たちに喜びを、傷ついた心に癒やしをあたえ、
互いの文化を分かちあい、一つの家族として生きること、
そして夢をかなえて平和な世界を作ること。






ミンダナオ子ども図書館は、現在は北コタバト州の認定NGOですが、
政府の要請により、フィリピン政府の直轄のNGOとして認定を進めています。
理由は、ダバオ地域の海辺の下宿小屋やイスラム自治区など、
活動範囲が広範囲にひろがっているのと、
フィリピン政府からも評価されているからです。
先日も、マニラから福祉局の役員が調査視察に来られて、
MCLを見て感動して帰られました。
基準も満たして、近くフィリピン政府直轄のNGOとして認定を受けると思います。
ダバオでNGOの会合が開かれると、妻のエープリルリンが講演を頼まれたりしています。
また、大学生などもOJT(郊外学習体験授業)として、研修生を派遣して来て、
半年ぐらい実習をする場所になってきています。




ミンダナオ子ども図書館の理事
ダニー・イサカ氏 マリセリノ・ガボン牧師 メリー・グレイスさん サムソディン氏 エラ・セスパニヨーラさん
プレシデント バイス・プレシデント セクレタリー 経理 メンバー
エンジニア(設計技師)で、
庁舎などのビルも建ている
MCLの全ての建物も
政府の基準を満たして

災害時や構造の
基準などを満たして

氏の設計で
建てられています

カトリック教会のカーバック
も勤めている。
マノボ族で教会の牧師
アライアンス派
マノボ族の儀式にも
通じていて
首長を勤めている。

奥様が日系人。
山岳地域の先住民の
人々とも深く繋がり
広く知られている。

イスラム地域のピキット市
福祉局所長補佐

カトリック教会のソーシャル
ワーカーも勤める。
イスラム婦人たちと活動し
戦争が起こると
爆弾の落ちる中を
子どもたちを救済。
多くのNGOや政府からも
高く評価されている。
イスラム地域の
ピキット市の社会福祉局
グレイスさんと協働している
イスラム教徒。
イスラム自治区にも通じて
コマンダーとも親しい
パックンが訪れたときには、
いっしょに北コタバト州の
MILFの最高司令官の
お宅にも行きました。 
 マノボ族で、フィリピンの
先住民族協会の代表
ワシントンにも招待され

日本とも関係が深く、
那須のアジア学院に留学

有機農法に詳しく、
ご主人は、
その時に知り合った
アルゼンチンの方。



現地法人と日本法人(MCLジャパン)をつなぐ役割を持つ
ディレクター 
松居友
マノボ族の酋長名は
アオコイ・マオガゴン
エープリルリン・松居 宮木梓さん
エクゼクティブ・ディレクター  ディレクター  ディレクター
MCLの創設者になっていますが
法人を取ったのも
現地での読み語り
医療、スカラシップ、
戦争避難民救済、保育所建設
すべて現地の若者たちが
行ってきました。
ディレクターの役割は、
日本とフィリピンをつなぎ
支援者を見つけることです。 
松居友の妻で、
実質的に現地法人の代表
2003年創設時期の
法人登録も、当時16歳の
彼女が中心になり
数人の若者たちが
立ち上げた。
拙著『手をつなごうよ』(彩流社)
に当時の様子を書きました。)
マンダヤ族の血を引く。
子どもの頃に、母親が失踪
その経験を、機関誌に連載。

フィリピンが好きで
アジア学院を出た後に
ネグロスのシスターの
農場で8年間
有機農法をする。
その後、MCLをたずね
すっかり気に入って
「ここしかない!」と
スタッフになる。
日本の支援者、訪問者への
対応をしっかりとやってくれている 
 







本部で活動している現地スタッフ

現地運営役員 
       
ノエミ・バセテ(通称ベビン)   バイヤン・サバス ピティーボウイ・ラナイ  ニトニト・ギアマルディン 
 アドミンオフィサー  秘書  会計  経理
父親が殺害され
シスターの所に住みながら
学校に行っていた
大学までは無理なので
MCLの奨学生に。
妻と創設に携わった。
しっかり者で信頼も厚く、
代表の妻をサポートして
副代表を務めている。
イスラム地域のピキットで
苦労して育ちMCLの奨学生に。
正直で性格も良く、
行政に提出する
書類などを作成
やはりMCLの奨学生で
貧困地域で親を亡くして育った
クリスチャンの女性と結婚
子どもも出来、
MCLに住んでいる。
マノボ族で山の中の貧困集落で
殺害されたファウスト神父の
奨学生として
集落で初めて
小学校を卒業。
高校を出た後、
MCLの奨学生となり、
大学を卒業。
しかりと会計を
してくれています。
ご主人がイスラム教徒で
MCLの奨学生で大学卒。
本人は、クリスチャン。
MCLの入り口の前に建つ
家で育ち、スタッフに。
子どもも生まれ
教師のご主人と幸せに
暮らしています。


MCLの活動は、福祉局の規定による、
孤児施設のようになレジデンスベース(施設内活動)と、
読み語り、医療、保育所建設、植林、避難民救済など、
各地域を広範に巡る
コミュニティーベース(地域活動)にわかれ、
それぞれのトップにソーシャルワーカー(社会福祉士)がついています。



本部施設(レジデエンタルベース)の
運営責任者 
アーリン・ジラドさん
 ソーシャルワーカー(社会福祉士)
 ダバオ市のNGOでの体験も長く、その後MCLに来られて
「MCLが最高!」といって過去の経験を生かして勤めて下さっています。 

 ハウスペアレント他
       
 ペルラ・ラフォール
通称アカイさん
 ジョイ・ジョオラン君 エレンジョイ・ムロドさん   タベタ・ジョオランさん
 ハウスペアレント ハウスペアレント ハウスペアレント ハウスペアレント
ご主人が牧師さんでしたが
訳あって殺害され、
苦労されているので
娘さん、息子さんを
奨学生に採用。
今は、大学を卒業して
娘さんは教師に、
息子さんは、ダバオのトヨタに。
高校生以上の
高学年の子たち担当です。
イロンゴ族の移民系。 
長くトライシクル
(三輪乗り合いバイク)
の運転手でしたが、
MCLの奨学生で大学卒
スタッフになっている
マノボ族のタベタさんと
結婚して、2児の父親。
今は男の子たちの
ハウスペアレントとして
子どもの面倒を見ている。
クリスチャン。
MCLを始める前に滞在した
孤児施設(ハウスオブジョイ)で
まだ小学生の頃に会う。
(当時のことは、
拙著『サンパギータの白い花』
(女子パウロ会)に書きました。)
その後、マニラで妊娠し
未婚の母で苦労しているので採用
今は、イスラムのご主人と
結婚して子どもも2人います。
卒業生で奨学生
貧しい山の先住民マノボ族。
大学を卒業して
MCLのスタッフに。
今は、やはりハウスペアレントの
ジョイ君と結婚して
2人の子の母親。
MCLに家族で住んでいます。
     
 チャロ・マラサンさん ジェニーボーイ・レベリエザ 
調理担当  家屋修理担当
チャロさんは、ご主人と別れ、
子どもと苦労していたので採用。
小さな食堂を経営していた
経験を生かして、料理担当に。
クリスチャン。
 
上のエレンジョイさんの弟。
両親が殺され
孤児施設(パウスオブジョイ)で育ち
小学校で中退。
苦労していたのと、
ケンカで骨折した話を聞いて
病院で治療してあげ、
その後スタッフとして採用。
現在は結婚して
妻子とMCLに住んでいます。


多くの集落に住んで学校に通っている、400名あまりの奨学生の管理。
また、MCLは積極外向型で広範囲の地域の貧困集落を巡って、
読み語り、スカラシップ、医療、保育所建設、農業植林の活動を行っています。
そうしたコミュニティーベースと呼ばれる外部活動のスタッフたちです。



外部活動(コミュニティーベース)の
活動担当者 
 
アイリーン・ディゾンさん 
ソーシャルワーカー(社会福祉士) 
妻エープリルリンの妹で
子どもの時に母がいなくなり、家庭崩壊を経験。
MCLのおかげで、大学を卒業して、ソーシャルワーカーになり活動。
マンダヤ族。 

外部活動スタッフ
     
ローズマリー・バコスさん   イズラハイダ・バンスナンさん ベンジー・アゴマイ君  レイナルド・パセテ君  
 スカラシップセクション  スカラシップセクション  スカラシップセクション 農業植林担当 
外部に住んでいるMCL奨学生
500名あまりの状況や
背景を把握して、
授業料や学費、
学用品などから支援者からの
贈り物などを届ける
スカラシップセクションの
リーダー。
MCLの卒業生。
マノボ族。
イスラム自治区出身の
イスラム教徒。
MCLで目の義眼手術を
した卒業生。
お父さんが、
イスラム教徒の司祭で
しっかりした女性。
外部の奨学生たちの状況、
特にイスラム教徒たちの
状況をしっかり把握。
生まれつき筋ジストロフィー症で
手足が悪く、お兄ちゃん、
妹も同様の病気でしたが
車いすで卒業。
彼も、杖が無くては
歩けないのですが、
積極的に動こうとします。
コンピューターが専門で、
Facebookも彼が作っていますが
奨学生の管理も行っています。
マノボ族。
副代表をしている
ベビンさんのご主人。
しっかり者で信頼も厚く、
妻の仕事を精神的にも
サポートしながら、
MCLが自給している
200人分の米の
水田管理と
植林支援を支えています。
       
ジナ・マリグロさん  サダム・アダン君  ロベン・カルボン君
通称;タタ 
リチェジン・カリギド君 
 医療担当  読み語り担当 保育所建設担当 菜園庭仕事担当
山に住む、崩壊家庭で
母親の行方が不明。
MCLの奨学生で、
薬剤学科を卒業。
妹は、まだ小学生で
MCLにいっしょに
住んでいます。
病院の医者と密に
連絡を取り合いながら、
投薬から手術まで
子どもたちの医療補助をします。
卒業生で、イスラム教徒。
戦闘地域のピキット出身。
読み語りのための集落との
コーディネートを行っています。
人里離れた僻村に行くので、
事前に集落長や
MILFのコマンダーなどと
会って状況判断をしないと
危険もともなうからです。
そうした仕事を担当。。
崩壊家庭で苦労して
育ったのですが、
MCLで大学を卒業。
結婚して自動車修理工を
数年してMCLに。
その後、エンジニアリングの
才を生かして保育所建設の
担当してます。
結婚して子どもがいます。
クリスチャン。
山で父親が殺されて
困窮している家族を引き取って
妹と弟を奨学生に。
長男の彼は、
MCL内で作物を作り
食材の野菜で
少しでも経費を
削減するために
仕事をしています。
   



下宿小屋は、山に男子寮と女子寮
キダパワン市に大学寮と高校男子寮、そして現在、海に寮を計画しています
 
下宿小屋の管理者
   
マリセール・タカさん ロクサン・ティゴさん
下宿小屋管理・女子寮  下宿小屋管理・大学寮
アラカン市の山奥の
ラナコラン村にある下宿小屋を、
家族で管理をしてくれている
ハウスペアレントです。
ご主人のジケロ・タカ君と
結婚して子どももいます。
ご主人は、日系の男性です。 
キダパワン市にある、
大学生と高校生の男子の
下宿施設を家族で管理
してくれている
ハウスペアレント。
子どももいます。






ミンダナオ子ども図書館の子どもたち 

ミンダナオ子ども図書館の中心は、
いつも子どもたち!
土曜日の午前中に庭に出て、
庭作りをしながら、
花や野菜を育てる子どもたち。




日本では、ちょっと考えられない姿だけれど
本当に自然がすき、というか
生まれたときから、自然と共に生きている。
きれいな花を育てるのが好きで
時には、花を摘んで髪にさしておしゃれする。




山芋作りや、
雑草の草刈り掃除もお手の物
不思議なぐらい嫌がらずに
むしろ笑顔で楽しくお掃除。




掘った山芋も料理に





アルアルくんの手術が成功

本当に小さい頃から
ミンダナオ子ども図書館に住んで
学校に通ってきたアルアルくん。



先住民のマノボ族で
バナナ開発のプランテーションに
土地を追われて行き場が無く
家族が苦労しているのを見かねて
ミンダナオ子ども図書館に・・・。
小さかった彼も、いまは大学生に。
だけれども、とつぜん病気が解り
腹部の手術を断行。
「MCLが無かったら、ぼくは死んでいた。」



ミンダナオ子ども図書館では、
大きな手術から、病院での診察、
薬の投与まで、
17才以下の子どもたちを
予算の許す限り助けています。
右は、毎年行っている
三ツ口の子どもたちの治療。





カトリック新聞や朝日小学生新聞
熊本日々新聞やキリスト新聞で取り上げられました

講演会、家庭集会など、謝礼に関係なくうかがいます。
よろしくお願いいたします。








『バナナと日本人』の
その後はどうなっているのか?
深刻な農薬被害

9月30日


『バナナと日本人』のその後はどうなっているのか?
深刻な農薬被害




ご案内には、クリック
http://www.labornetjp.org/news/2016/0929banana






農薬の空中散布と先住民の
衝撃のドキュメントは、以下の
YouTubeへ


YouTubeへGO1

上のYouTubeは、そこに載っていたドキュメンタリーです。
バナナの農薬の空中散布によって、
先住民がいかに被害を受けているかを描いています。
https://www.youtube.com/watch?v=d_24-TUKkdA   





以下のサイトで、ミンダナオにおける、バナナプランテーションの現地住民への
被害状況に関する報告会が、行われることがわかりました。
http://www.labornetjp.org/news/2016/0929banana
私にとっては、ミンダナオの日常で、人ごとではないので参加しようと思っています。
以下、サイトの記事より

**************************
 かつて、『バナナと日本人』という大ベストセラーの本がありました。
あの本で告発されていたバナナ・プランテーション、
残念ながら今もフィリピン・ミンダナオで拡大しつつあります。
プランテーションで働く労働者だけでなく、その家族からも健康の問題について不安が高まっています。
出生障害、麻痺や原因不明の病気でなくなるケースなども報告されており、その実態は深刻です。

 その状況を知るために訪問団が9月初旬に派遣されました。
その報告会が今週土曜日に開かれます。
会場は東京の連合会館(御茶ノ水)になります。ぜひご参加いただけますようお願いいたします。

 これに先立ち、バナナ・プランテーションで使われている農薬がいかに危険なものであるか、
アジアでの農薬規制、日本での農薬政策の問題などについて学習会を行い、
そのまとめを作っています。
16ページですぐに読めます。ぜひご活用ください。
http://altertrade.jp/archives/12800

 日本のバナナ市場にバナナを出荷する
住友系のスミフルのプランテーションで農薬空中散布が行われており、
先住民族の村が被害を受けている状況を現地のNGOがドキュメンタリーとして制作しています。
その日本語字幕版もぜひご覧ください。(印鑰 智哉)

『毒の雨』(Poison Rain)
https://www.youtube.com/watch?v=d_24-TUKkdA

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フィリピン・ミンダナオと私たちの今を考える
『バナナと日本人』で描かれた問題は現在、どうなっているか?
ミンダナオ訪問団報告
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私たちの食卓と海外の産地がどうつながっているか、バナナを通じて追求した
鶴見良行著『バナナと日本人』が出版されたのは1982年でした。
日本にあふれるようになったフィリピン・バナナが危険な農薬が空中散布される中、
過酷な労働条件のもと、バナナ・プランテーションで働かざるをえなくなっていった
人びとによって作られていること、
しかも、日本のバナナ市場のために多国籍企業によって
そのプランテーションが作られていったことを明快に描き、
日本社会に大きな衝撃を与えた名著です。

それから30年あまりがたちましたが、今なお、日本で消費されるバナナの9割以上はフィリピン、
ミンダナオ島のプランテーションから来るバナナです。
現地での状況はほとんど報道されることはありませんが、
その現状はどうなっているのでしょうか?

日本に輸入されたプランテーション・バナナからは国際農薬監視行動ネットワークなどが
使用禁止を世界中で訴えている危険度の高い農薬や
ネオニコチノイド系農薬の残留が確認されています
(東京都健康安全研究センター研究年報2013など参照)。
それを生産する現場では環境や現地の人びとの暮らしや健康に何が起きているのでしょうか?
プランテーション・バナナに代わるオルタナティブは存在するのでしょうか?

そうした状況を確かめるために、9月上旬にミンダナオ現地に訪問団が派遣されました。
参加者は農薬問題や現地の社会問題を研究する研究者や生協関係者の方たちです。
現地報告をもとに、フィリピン・ミンダナオの人びとと私たちの関係を考えます。

ぜひ、この機会にご参加ください。

【日時】2016年10月1日(土) 14:00~16:30 (開場13:30)
【場所】連合会館 201会議室 (東京都千代田区神田駿河台3-2-11)
http://rengokaikan.jp/access/index.html
【参加費】800円
【定員】90名(申込み先着順)
【お申込み先】
【お問い合わせ】オルター・トレード・ジャパン(ATJ)政策室
電話 03-5273-8176
FAX 03-5273-8162



そんなことが起こっているの?



ミンダナオ子ども図書館の、
最初の会計をしてくれたダバオ出身のスタッフ
(お母さんは、ダバオの修道会の調理師をしています)が、
「自分の叔父さんは、バナナプランテーションで働いていたけれども、
農薬の空中散布で死んだ」と語ってくれました。
当時は、ミンダナオに足を踏み込んで間のない頃で、
何も知らずに驚いて言いました。
「そんなことが起こっているの?
それは酷い、裁判所に訴え出るべきだよ!」
すると彼女は、こう言いました。
「そんなことをしたら、刺客を雇って殺される!」
『参考「フィリピン・私の家族は国家に殺された
―家族を奪われた女性たちの戦い」
工藤律子著 長崎出版
(アマゾンで古本で買えるかもしれません。)』


さらに驚いたのですが・・・
アラカンで先住民族を40年間擁護してきた、
イタリア人のファウスト神父さまも、
シスターの話によると体制側に雇われた刺客に殺された、とのことです。
農薬汚染と山岳地でも希少金属(ニッケル)の開発に、
反対していたからだということです。
(ぼくも、暗殺される危険がある!)
その後にも、希少金属の開発に反対した
山のマノボ族の酋長がその場で殺され、
その娘さんは、ミンダナオ子ども図書館の奨学生にしています。
https://www.youtube.com/watch?v=d_24-TUKkdA


ミンダナオ出身の今のドゥテルテ大統領は、その事を知っていて
鉱山開発を抑制する処置をとっていると、貧しい人たちは考えています。

写真は、大量に廃棄されたバナナ。
食べられるけれども、現地の人々は、
「農薬がかかっているから死ぬかもしれない」と怖がって食べない。
地元のバナナは食べるけれども、
違いは、地面に下草や雑草が生えているかどうかでわかる。
地元産のバナナは、日本のフェアトレードでも売られているバナナで、
現地の人たちも安心して食べている、
低農薬の地元産のビナガイとかトゥンダン・・・








土地を失った先住民たち。
彼等の唯一の収入は、
プランテーションのバナナを拾ってきて、
切りきざんで、豚の餌として売ること。
お腹がすいていても、バナナは怖くて食べない。
ミンダナオ子ども図書館の奨学生で、
戦前の日本人の血が混じっている日系人
(戦争の時に、日本人であることを隠して山に逃げた一族)
の娘の・・・さん、曰く。
「わたしの叔父さんも、食べ物がなくって、
プランテーションのバナナを食べて、
お腹がいたくなって死んだの・・・」







下の写真(90%は、わたしが現地で撮影)は、
先住民の村。
この村からも奨学生をとっています。




高原バナナが有名になって、プランテーションは、
みるみるうちに山麓の高原地帯に広がっていった。
ミンダナオ子ども図書館のある、アポ山の北コタバト州。
プランテーション=駄目だとは言わないけれど、
せめて農薬の被害や、平地の肥えた土地を追われ、
斜面に居住地を移さなければならない状況などを解決して、
土地持ちの土地持ちの金持ちだけが
より私腹を肥やして、貧富の差が
拡大するようなことを防いで欲しい。
日本であんなに安く売られているけれど、
利益はほとんど富裕層と海外に?
プランテーションでは、日雇いになるにも、
高卒の学歴(中退でも良い?)と
出生証明書が必要。







でも、貧しく山に追われた先住民は、
小学校も出ておらず、
出生届も出ていないので、雇ってもらえない。
唯一、落ちたバナナを拾ってきて、
豚の餌を作って売るだけ。
それを食べて、豚が死んだという
話も聞いている・・・。
できれば、利益が、
こうした人々にも行き渡れば良いのだけれど。
少なくとも、ミンダナオ子ども図書館では、
写真の村々に保育所を建て、奨学生を採っています。







それでも、生きるために
明るく力をあわせる子どもたち。
お金が無くっても、友情と愛があれば大丈夫。
でも、辛いのが、一日じゅう食べられないときと、
病気になっても薬も買えないとき。
学校に行きたくても、行けないとき。








 














 


































     






奨学生候補の状況調査に
9月7日

 
親がいず、厳しい環境の子で、学校に行きたくても行けない子がいる話が聞こえてくると、
私たちは、スカラシップに採る前に必ずその子の家を訪ね、状況を調査します。
スタッフは、ほとんどがMCLの奨学生だった子たちです。
下のスタッフは、マノボ族のローズマリー。
現在は、スカラシップセクションのリーダー!


現在スカラシップの子たちは、500名以上。
今年は、フィリピン政府が、
今まで小学校を6年で卒業して、
その後4年間で卒業し、大学に進学できた
ハイスクール(高校)を、ジュニア4年に
シニア2年を加え、6年制にしたために、
大学進学に燃えていた子がショックを受け
停止する子が多く出ました。

理由は、学校に行けなかった子の場合
すでに他の子より年齢が高く
保護者からも、本人の希望からも
働かせたい、働きたい
結婚させたい、結婚したい、
(こちらの結婚年齢は、16歳から18歳)
そんな希望と焦りが出てきたためです。

将来の事を考えると、仕事を探すにしても
大学に行った方が良いよ・・・
彼氏を探すにしても、大学が良いよ・・・
というのですが、兄弟姉妹が年下でも
働いて家庭を支えている様子を見て
いたたまれなくなるようです。

 
支援方法のサイトへGo!
今、MCLでは、140名ほどの奨学生が、まだ支援者、里親がいません。
しかし、どうしても現地に置いておけない子たち、
アビューズがあって保護の必要な子たちは、無理して採用するので
これだけ多くなってしまいました。
皆さん、お願いします。
自由寄付でも助かります。

 

ミンダナオ子ども図書館の活動範囲は、
東はダバオ湾の半島から、
西はコタバト市まで、
北はアラカンから時にはブキッドノン。
南はサンタマリアとリグアサン湿原地帯。
下の地図に、おおよそ過去において
避難民救済、保育所建設、スカラシップ
植林、などなどで活動してきた
範囲を示しました。
写真をクリックしてくだされば、
拡大してみることが出来ます。
キダパワン市が、MCLのある場所で、
そこを中心に楕円形に広がっていると
思ってみていただければ良いかと思います。


ミンダナオの地図へGo!

ミンダナオの地図です。
画面をクリックしていただければ、
大きくなります。
四角で囲った部分が、スカラシップ、植林、
保育所、戦争避難民救済などで
活動してきた範囲です。

  

ミンダナオの地図へGo!
地図上で、⑪と出ているKidapawan市が、MCLのある町です。

ミンダナオ子ども図書館は、行動範囲だけではなく、
保育所建設などの活動範囲が、
北コタバト州からダバオ州、そしてマギンダナオ州に広がってきたので、
現在マニラの福祉局と話ながら、
北コタバト州ではなく
フィリピン政府の直轄の
Foundation
NGOとしてフィリピン全体で活動できるように動いています。
ほぼ、マニラとの話も詰めに入り、最終調整の段階です。
MCLの現地スタッフが、
ソーシャルワーカーや理事、役員も含めてしっかりと動いています。

妻でディレクターのエープリルリンが、全体をしっかりとマネージして、
時には政府から頼まれて、
NGOの集会で講演もしています。
日本でも講演を少しずつはじめました。


活動範囲が広いので調査と平行して、学用品も届けます。 

とにかく、活動範囲が広く
奨学生候補を調査したり
奨学生の子どもが、何らかの理由で
学業を停止していたりする場合、
スカラシップ担当のスタッフと
ソーシャルワーカーが子どもに会いに
現地の学校や家をたずねます。
(ソーシャルワーカーも3人いて、そのうち
2人は、卒業生たち・・・)
山道を行くガソリン代だけでも大変。
節約のために、一気に仕事を集中させます。
訪問者も同行して、現地を見ます。
   
     

大学から送られてきた
ソーシャルワーカーの研修生たち

 

教育実習のために、毎年数回
ミンダナオの大学から3ヶ月
実習授業のために送られてくる
ソーシャルワーカーの卵たち。
ミンダナオ子ども図書館の活動の評判は、
現地の大学でも以外と高く、
毎年、教育実習のために
大学で社会福祉を学んでいる
学生たちが送られてきて、
3ヶ月の実習を行って単位を取得する。

彼等は、スタッフの活動に同行し
ミンダナオの山岳民族やイスラム教徒の
状況を学んでいく。
彼等は、口をそろえて言う。
「今までで、MCLでの実習体験が
どこよりも感動的!」
「本当に現地の状況がわかるし、
驚くべき体験が、次から次へと出来る!」
「他の施設なども見てきたけど、
MCLは、本当に子供たちが明るいし
生き生きとしていてすばらしい!」
これは、手前味噌で言っているのでは無く
本当の彼等の感想です。
この日は、MCLのある上の方の山の
ウオーターフォール集落へ行った。
ここの奨学生の状況を、
調査する必要があったから・・・




MCLのディレクターの妻に会って
泣きだした少女。
少女でも、ストップしたまま結婚し
今は、子持ちの母親。
でも、さまざまな想いが駆けめぐって
会ったとたん、抱きついたまま
泣きだした・・・。
奨学生を続けていれば・・・。
「でも、本当に困ったときには
MCLに駆け込んでおいで・・・」
孤児の子たちにとっては、
離れてもMCLは、我が家のようなもので
困ったときの駆け込み寺!

日本からの訪問者も、
いっしょに、現地を訪れた。
美しい滝にビックリ!
しかし、生活の困難さにも唖然!
でも、下の写真の左の子は
今もMCLの奨学生で、大学に。
左の赤ちゃんを抱いている子も
かつてのMCLの奨学生で、
高校を卒業して結婚した。
生活は大変でも、
幸せになってくれたら、それがなにより!

 

奨学生の調査が終わり
帰る途中で、ジャングルのなかにある
温泉をたずねた。
熱湯が噴き出している温泉は、
マノボ族の伝説の聖地だ!
日本からの訪問者を、大喜び!
これが本物のジャングルだわ!

訪問されたい方は、
現地の状況にもよりますが
現地スタッフの宮木梓(あずさ)さんに
相談してみてください。
宿泊費はとらず、ファミリーとして
受け入れますが、 ただし、
MCLの訪問規定は、
子ども中心で、
非常に厳しく作られています。
守っていただけない場合は、
帰っていただきますし、
スタッフの活動に同行する以外に
特に、スタディーツアーはしません。
しかし、現地の大学生も含めて
本物の体験が、可能です。

 
 
   
   
  
   
 



医療支援をお願いします 
 





日々の食べ物にも困っている
経済的に貧しい人々にとって
何よりも大変なのが、
病気になったときだろう。
私たちが活動している地域の人々は、
都会に住んでいる人は別にして
山岳地や湿地に住んでいて
日々の食べ物にすら困る人たちだ。
しかし、食べ物は、
無ければせめて、カエルを捕ったり
山芋を探したりして、何とかなるけど
病気だけは、どうにもならない。
何しろ貧困の度合いが違い
薬も買えなければ、
医者の診断など不可能で、
入院などは、夢のまた夢。

そんな状況を見かねて、
長年医療をしてきたけれど
10年近く、毎年大口の寄付を続けて
くれていた団体が、一昨年急にストップした。
理由は、まったくわからないけれど・・・。
MCLでは、投薬から手術、入院まで
可能な限り、子供たちを助けている。
病院の先生方とも、長いつきあいで
特別に安く引き受けてくれるばかりで無く、
時には自分の給与をなげうって
MCLの患者たちを助けてくださる。

ことしも、左の子たちの手術から
500名以上の奨学生の投薬や
医師の診断まで、やってきているけれど
多くの方々の個人の自由寄付に頼っている。
もしよろしければ、自由寄付でも
寄付に「医療」と書いてくださって、
わずかでも良いので、お願いします。

 支援方法のサイトへGo!


   
手術後の経過の調査も行っています。 
   
 
   



日本から訪問してきた
支援者の方々と一緒に


ミンダナオ子ども図書館では、
訪問者、独断で独自に行動することは、
市内で有っても許されていない。
必ずスタッフや大勢の奨学生と同行し
現地に赴く。
MCLの訪問者のポロシーは、
下に紹介しましたのでご覧ください。


活動は、読み語りなどは、
MCLに住んでいる子供たちと一緒に
山の村を巡ります。
その帰り道に、時には川で水浴びして
自分自身を洗濯したり・・・






時には、倒れて妨げになっている
木を切ってよけながら
山奥の村の奨学生の子供たちに
会いに行きます。

支援している子に会えた! 
 

奨学生を支援してくださっている方の場合は、
必ずその子のいる学校と家を訪ねて
奨学生に会えるようにします。




ただ、車で数時間かけて
山々を巡っていくので、
その途中で、別の奨学生に会ったり、
病気の子どもの病後の経過を確認したり、
学用品を届けたり、
現地の子供たちや村の状況を見て
病気の子がいないか等、
何に困っているかを調査します。
訪問者も、危険地域を除いて同行します。


 
 
 
 

活動に同行することで
現地の子供たちの生活が見えてくる




日本では、「スタディー勉強」が重要で
海外を知るためのスタディーツアーが
盛んなようで、私たちもずいぶん
いろいろなところから要請を受けました。
しかし、現地に入って行く事自体が
「何の目的出来たのか・・・?」
と不信感を持ってみられるほど
外国人など見たこともの無い村の人たち。
一番不振に思われるのが、
おそらく鉱物資源を調査しに来たのだろう、
という不信感です。
事実、最近山で起こるのが
ニッケルなどのレアメタルの発掘調査。
これに反対したマノボ族の酋長が殺されて、
その娘さんが、MCLの奨学生になっています。

ある村では、私も日本政府が
開発調査に派遣した要員だ、
という噂が流され、再訪したときに
村の全員が恐怖で逃げて
村には誰一人いない事態。
そこで、理事でマノボ族の酋長で
牧師でもあるガボン氏と、
懇意の現地の酋長とで
再度、村に行き、悪霊払いの儀式をしました。




そういったことが、まったく解っていない
日本人の訪問者が、
ただ村に入って、撮影したり
質問したりしたら、村人はどれだけ警戒し
MCLをも疑うか・・・
私たちは、どこの村を訪れるときも
ただ「見学」に行くような
愚かな行為は危険であるが故に行いません。
村にいくからには、その村の人々
とりわけ子供たちにとって
奨学生、読み語り、医療、保育所等々
何らかの良い理由があり、
それを事前に、コンタクトパーソンを通して
村に通達して、さらに現地に通じている人や
現地の人々も良く知っていて
信頼できる人、あるいは現地出身の子供
若者やスタッフと一緒に行きます。
そうすると、危険地域の人々でさえ
「何とかちゃんが、帰ってきたよ!」
「MCLが、読み聞かせに来たよ」
「古着を持って来てくれたよ!」
などといって、大歓迎して迎えてくれます。
そうした配慮が大切です。


 

それゆえに、MCLは、
基本的に現地では不自然に
受けとられかねない
スタディーツアーなどは、行わず
自分の支援している奨学生に会いに
たまたま活動にいっしょに着いてきた
訪問者として同行し
村人たちに紹介します。
 
 
 

 
 
 

支援している子と一緒に





支援している子たちからは、
高校生、大学生の場合は、年四回
手紙が届きます。
手紙は、英語で書かれていますが、
必要な場合は、現地日本人スタッフの
宮木梓さんが、翻訳を入れてくださいます。
おっしゃってください。
奨学支援者の場合は、
その子の家にお連れします。
ただ、イスラムの危険地域の場合は、
状況次第で、難しい場合は
支援している子をスタッフが迎えに行き
ミンダナオ子ども図書館まで連れてきます。
そこで子供は泊まり、
そして、その子とキダパワンのモール等に
スタッフが同行して行ったり、
食事をともにしたりすることも可能です。
とりわけ、卒業式の時など
子供たちは、泣いて泣いて喜びます。
ぜひぜひ、いらしてください。
宿泊費はとっていません。
家族ですから。
何日でも滞在してください。
男子部屋と女子部屋と家族部屋があります。
食事は、子供たちと一緒に
同じものを食べます。

 
   
 
  

 訪問者の若者が、MCLの中では
子供たちと芋掘りと庭掃除をした
     
     
     
   

マノボ族の文化を特別に調査
理事で酋長で牧師のガボン氏をたずねた 
先住民族の文化調査が目的で来られた方。
訪問の目的が、現地の人々にとって
意味のある調査などの場合は、
特別な計らいで、計画をお立てします。
過去、文化人類学者の増田氏などを
現地の先住民族の方々に紹介しています。
本も出版されています。
現地の取材など、
可能な限りお役に立ちたいと思いますが、
内容によっては、不可能な場合もあります。
   
     
 

帰りに、マノボの集落を訪問
親のいない子を奨学生に! 
     

今回、先住民の取材で来られた方と
帰りがけに、ひさしぶりで
マノボ族の集落を訪れた。
ここは、山岳地では無いけれども
平地の良い土地を移民に取られて
斜面にかろうじて家を建てて
土地を持っている移民たちの
畑や田んぼの草刈りや
家々をまわって、洗濯物を集めて
洗濯をして日銭を稼いでいる
マノボの人々が集まっている集落。
学校まで、3時間近く歩かなければならない。
それゆえに、お弁当も持って行けない
極貧の子たちには、
学校に行くことすら辛いこと・・・。

すでに、10年にわたり
奨学生をここから採っていて
大学を出た子もいるけれども
高校や小学校でストップした子も多い。
MCLでは、保育所も建設しているけれど
生活はいつも大変。
今回も状況を見るために
訪問者といっしょに訪れて
いろいろな話をうかがった。
そして、最後に
親がいずに、学校に行きたくても
行けない少女を2人
奨学生候補に決定した。
候補と言っても、まだ支援者はいないけど
すでに奨学生としての採用で
ここから学校に通うよりも
「ミンダナオ子ども図書館に住みたい!」
という、本人の強い希望と意志で、
MCLに住んで
近くの学校に通うことになった。

村では、親のいない子も
放っておきはしないのだけれど
自分の子だけでも7人以上いて
学校に通わせるのが大変なのに
預かっている子を学校に
行かせることなど無理な話。
そんな子たちがMCLに80人ほど
住み込んで、近くの学校に通っている。



  
   
 
  
 
     
 

訪問者の手引き

ガイドラインとポリシーについて

  
 
1     はじめに
 

 ミンダナオ子ども図書館は日本のNGOではなく、フィリピンの現地法人NGOであり、
福祉局のソーシャルワーカーからの要請も受けつつ、

マネージメントは現地役員がスタッフや
MCLソーシャルワーカーとともに行っています。

 MCLの主役は子どもたちです。

訪問者の存在や行動が、子どもたちにマイナスの影響を与えるといった判断、
また子どもたちを救済する活動になんらかの支障が出るといった状況判断が、
子どもたち自身や現地スタッフから出された場合は、現地役員が即会議を開き対応が検討されます。

指示や対応が出された場合は、従ってください。

 訪問希望者が増えていますが、現地スタッフは子どもたちへの活動に全力を注いでいますので、
必ずしも訪問者のご希望に答えきれるとは限りません。
現地では、訪問者の方よりも、現地の子どもたちが常に優先されることをご承知おきください。

 マネージメントを含む現地活動は現地スタッフが責任を持ち、日本人は脇役です。

 ただ、治安状況にもよりますが、出来るだけ訪問者はスタッフの活動に同行し、
MCLの現地活動が見られるように配慮いたします。
MCL
は、活動範囲も広大で危険地域も多く、戦闘や戦争もあり、必ずしもどこにでもお連れすることはできませんが、
訪問者の将来を考えて可能な限りの事は現地スタッフと相談の上、要望にお応えしたいと思っております。

 すでにスカラシップ支援をしてくださっている方々の場合は、
現地の情勢や置かれている子どもの状況などにもよりますが、支援している子の家にお連れいたします。

以下は、スタッフ会議で検討され出された、ガイドラインとポリシーです。

必ず、ご一読ください。

 

 2     滞在者について

滞在者はビジターボランティア2 種類に分けられます。

1.         ビジター(短期訪問者)とボランティア(長期滞在者)の場合

 

     ビジターとは:

滞在20日間以内(ビザ無し渡航可)の訪問者を、MCLではビジターと呼びます。
受け入れ人数は状況によって逐次判断します。

     ボランティアとは:

滞在20日間以上の長期滞在者をボランティアと呼びます。
ボランティアの滞在限度期間は例外をのぞき3ヶ月を上限とし、
現地受け入れ人数は常時最大2~3名と考えています。最初の訪問はビジターとして来ていただき、
その後ボランティアとして再訪されたい方は相談して下さい。

 

 

★他の若者達にも機会を提供するため、原則ボランティア体験は一人一回とします。

3     ビジターとボランティアのためのガイドラインとポリシー

①安全確保(セキュリテイ)について

1.         訪問者は、MCLのスタッフの同行なく、むやみに敷地外にでることはできません。

MCL 門の前のサリサリストアで買い物をする場合であっても、スタッフの同行が必要です。

   またスタッフ同伴でも、門の外のサリサリストア(雑貨屋)での
スタンバイ(長居)は禁止です(誘拐を避けるため)。
万が一誘拐されても、
MCLは身代金を払うことができません。

   近所の人に果物や食べ物をふるまわれた場合は、MCLに持って帰ってきて食べて下さい。
果物や食べ物があるからと招待を受けても、家について行かないで下さい
(家に入ってカギをかけられ、誘拐される危険性があるため)

(現在、MCLの敷地内にコーヒーやタバコなどを買ったり、
水や清涼飲料水を飲んだりできるサリサリストアを準備中です。
できるだけ、敷地内のサリサリストアを利用してください。)。

   MCLに住む奨学生たちと同じように、午後6時が門限です
(スタッフと活動で山の村々を回って遅くなるときや、
スタッフ同伴でキダパワンのバーベキューに行くときなどを除きます)
(暗くなると危険なため)。

2.    訪問者は、MCLのスタッフの同行なしに、町や遠隔地に行くことはできません。

町へ行きたいときは、スタッフにたずねてください。最低1~2名のスタッフが同行します。

3.         訪問者がスタッフと活動地域に行く場合も、決してスタッフから離れないで下さい。
野外トイレに行くときも声をかけ、出来れば同行してもらって下さい。

4.         キアタウやサンタマリアの集落の民家に泊まるときには、必ずスタッフが同宿します。
その場合も、野外トイレに行くときも声をかけ、出来れば同行してもらって下さい。

5.         移動中のセキュリティを守るため、MCLが訪問者をダバオ空港まで送り迎えをします
(何度も訪れている方で移動方法を知っている場合例外があります)。

6.         安全の確保のため、訪問者がMCL到着後にスタッフが簡単なオリエンテーションをして、
「訪問者の手引き」に同意のサインをして下さった方のみ滞在可能です。
現地の状況に応じて、「訪問者の手引き」に書いてない注意事項を
口頭で伝えることがありますので、ご了承ください。

7.   戦闘、戦争、爆弾事件や誘拐事件の頻発など、
ミンダナオの情勢が悪化し訪問者を受け入れる余裕がないとスタッフが判断したときも、
退去していただくことがあり得ます。(過去に例があります。

②生活について

1.  訪問者の個人の持ち物、とりわけ携帯電話、i PhonePC、カメラなどの電子機器を
   安易に子どもたちに
貸さないで下さい。

2.  訪問者の居室に、奨学生を入れないで下さい(過去に盗難があったため)。

8.         訪問者は、特別な関係(恋愛関係など)をスカラーと持つことは許されません。

FaceBookE-mailでの個人的なやり取りも禁止されています
(支援している奨学生との手紙でのやり取りは可能ですが、
トラブルを避けるために手渡す前に一度開封して内容を確認しています)。

MCLの寮に住む奨学生は、MCLが保護者になるために高校生以下の恋愛関係を禁止されています。
発覚した場合は保護者のもとへ帰り、スカラシップは継続するものの、保護者の管理下に戻されます。
大学生及びスタッフは恋愛を許可されていますが、
MCL内部では恋愛行為が禁止されています。
婚約済や既婚の場合は別です。これらは、自身が自主的に学生総会で決めたことです。)

9.         訪問者は、スタッフ同様に敷地内での飲酒禁止、禁煙を守って下さい
(子どもたちの悪影響を避けるため)。室内でも同様です。

   MCLの敷地外であってもサリサリストアでの飲酒は禁止です。
   お酒を飲みたいときは、スタッフ同伴でキダパ
ワンの町に飲みに行くことになります
  (誘拐を避けるため)。

   喫煙は、MCLの敷地内の喫煙所でお願いします(村を回るときを除く)。
   
MCLの敷地外であっても、門の外での喫煙は禁止です。

10.     敷地内で上半身裸体又はセクシーな服の着用は控えて下さい。

11.     土日や平日などに、買い物などで町に行きたい場合は、数日前にスタッフに申し出て下さい。
仕事や私用を調整してスタッフが同行しなければならないためです。

12.     男性の訪問者は、男子スカラー同様に、夕方6時以降は
高校・大学女子スカラーの泊まる宿舎2階に入らないで下さい。

 

 

13.     男性の訪問者は女性の訪問者の部屋で眠ったり、長居をしないで下さい。逆も同じです。

    夫婦やご家族で訪問される場合、家族ルームを一部屋用意しております。

14.     MCLのインターネットの環境は良くなく、フリーWi-Fiはありません。
緊急連絡などで必要な場合のみ、
LANケーブルが使用可能です。スタッフに相談して下さい。

③食事について

1.  イスラム教徒がいるため、台所では豚肉又は冷凍豚肉を料理しないで下さい。

2.  食事の時間にMCLにいる場合は、MCLの食堂で食べて下さい
   (村を回っているときや、特別にスタッフ
同伴で町に食事をしに行く場合を除きます)。

 

 

以上のことが守れない場合、又は子どもに対する肉体的・精神的に
マイナスの影響を与える行為があるとスタッフが判断した場合、
又はスカラーから問題が提起された場合などには、スタッフ会議が開かれ役員の裁決により、
場合によっては退去などをしていただくことがあります。

 

 

 



















 
以上は、ミンダナオ子ども図書館の現地スタッフ、日本人スタッフ
現地の理事役員が、過去の体験から相談して決めたポリシーです。
厳しいと思いますが、責任も重大なのでこのようになりました。
スタディーツアーや論文執筆は、
基本的に現地で違和感を住民与えるので行っていませんが、
内容によって特別な場合は考慮しますので、松居友までご相談ください。

 






海のMCLを建てよう!
8月23日

ミンダナオ子ども図書館は、
本部が北コタバト州のキダパワン市の
郊外に位置している。
そこを中心に、西のイスラム地域
北東の山のアラカン地域
西のダバオ地域がある。
イスラム地域には、リグアサン湿原など
広大な大自然があり、絶句するような
太古の美しさに満ちているけれども
反政府地域でもあるがゆえに、
訪問者は、容易に入れない。
東北のアラカン地域は、
先住民族のマノボ族のすむ
山岳地域で、ここにはMCLの
山の宿舎があり、周辺の村の一つ
電気も無いマノボの村キアタウには、
訪問者も泊まれるようになっている。
かつては、とても外国人の入れる場所では
なかったけれども、MCLの奨学生も多く
保育所も建設し、さらにラナコランには
遠かったり三食たべられなくて
学校に通えない小学生、高校生たちが
住んで通えるMCLの
女子の下宿小屋がある。
下宿小屋には、日系人のジケロ君家族が
スタッフとして住んでいて、
20人ぐらいの子どもたちの面倒を見ていて
ぼくたちは、山の下宿小屋と呼んでいる。
それに対して、もう一つ、
海の下宿小屋を作ろうという計画が
かつてからあり、今回、
サンタマリアのある漁村の外れに
土地を購入した。



海のMCL(下宿小屋)を
建てようと思った理由は、いくつかある。

1,毎年数回、MCLに住んでいる子供たちと
海に遊びに行くようにしている。
特に、夏休みは帰郷できない子たちが
寂しいから海に行くけど、
いわゆる特に外国人向けリゾートは、
なんだか現地の生活から乖離した
金持ちの不自然な空間で好きになれない。
どこかに、開発されにくい、素朴で自然な
漁村があれば、そこに下宿小屋を建てて
現地の貧困家庭の孤児たちを救えるし
ときどき、MCLの子たちも泳ぎに行ける。

2,それから、日本から来る若者たちにも
いわゆるリゾートでは無く、素朴な漁村の
生活体験をさせてあげれば、どんなにか
心が癒やされることか。
ちょうと、山の下宿小屋の近くの村
電気も無いマノボ族の集落
キアタウ村での生活体験のように。
MCLに行くとちゅうのディゴスの郊外なら
ダバオ州に属しており、日本政府の指定の
海外での危険度も低いし・・・



そこで偶然見つけたのが、サンタマリアから
半島の海沿いと山を、4輪駆動の車で超えた
この村だった。
ここでは、クリスチャンとイスラムと
先住民族が仲良く暮らしていて、
まるでMCLのようだ。
小さな小さな個人のリゾートがあるけれど
ほとんど小舟でしか入れない。
信じられないくらいの真っ白な砂浜。
それに、漁民たちの生活が素朴だった。
それに、浜辺を抜けて、
小学校と高校にも通えるから
下宿小屋を作るにはうってつけだ。
 


 
   


   

村はずれに土地を購入 
     

信じられないほどの真っ白な砂浜
そして、素朴な漁民と子どもたち。
偶然この地を訪れて、村人たちと親しくなり
保育所が酷かったので、MCLで建てた。
その後、子どもたちとテントを持って
泳ぎに行ったり、日本から来られた
訪問者や若者たちも
この村の漁民の家に民泊して
寝食をともにした。
日本で有名なカヌーの野田さんたちと
カナダのユーコン川を下った
身障者カヌーの吉田さんも
ミンダナオ子ども図書館の日本の理事で
この海でシーカヤックを楽しんだ。
この地で漁民とカヌーで漁に出かけ
そのおかげで、心が回復していく
青少年も多い。
村の保育所が酷い状態だったので
保育所もMCLで建ててあげた。
サンタマリア市の市長や福祉局
行政機関とも連携して
山の先住民の地域にも足を運び
すでに4ヶ所の保育所を建て
貧困家庭のなかでも特に
孤児や崩壊家庭の子たちを
奨学生にとってきた。
そのような繋がりからも
村人たちも、ぜひぜひMCLに来てもらい
ここに下宿小屋を建てて欲しいという
要望が生まれてきた。
そこで、土地を手放しても良いという
方から、村の一番外れの
落ち着いて静かな場所に、
下宿小屋を建てるための
土地を買うことにした。




先日、土地の測量を終えて
弁護士を交えて話し合いを持ち、
購入を完了した。

 
 
 
 
 
     
     
    
     

サンタマリアの市場

サンタマリアにある市場も
生活の臭いがあって心が温まる。
ぼくが子どもの頃の
東京は荻窪駅前にも市場があり
このような風景があったのを思いだす。
ミンダナオに帰ってくると
心からホッとするのは、
子どもの頃にあったこうした
人情味にあふれた、
風景を思いだすからだろう。
本当の幸せや、生きている喜びは
物やお金だけでは、手に入らない?
ちまたの生活の臭い
壁を作らない隣人愛や友情そして
家族の愛のなかにある?
  





カルボガンの学校建設を視察 


MCLの法人資格が、現地の若者たちの手で
取得されて、公的に活動が開始されたのが
2003年の8月のこと。
元々のきっかけは、2001年に
キダパワンのバリエス司教につれられて
イスラム地区の戦争を見て、
その避難民の状態のひどさ、
特に笑顔を失った子どもの姿を見てから、
ここで読み聞かせ、医療、奨学制度が出来る
NGOを作らなければと思ったからだ。
そのことは、拙著『手をつなごうよ』(彩流社)
で、青少年向けに書いた。
それから13年、ミンダナオに足を踏み入れて
15年の歳月がん流れた。
その後も2002、3年の米軍による
テロリスト掃討作戦で、120万の避難民。
さらに2005年にも、戦争が勃発。
リドーと呼ばれる小さな戦闘にいたっては、
毎年のように起こり、
2006年の日本政府による和平交渉以降も、
2008年には、和平交渉決裂により
80万の避難民が出る戦争になった。
今年も小さな戦闘がしばしば起こり、
そのたびに避難民救済に駆け回って
あっという間の13年!


  

ミンダナオの全ての学校には、
上の写真のような番号が、書かれている。
これは、学校が避難所として指定されており
空爆防止のためだ。
2008年の戦争の時にも、軍の兵士が
リグアサン湿原の上を指して言った。
「ほら、あそこにフワフワ飛んでいる
飛行機が見えるかい!
あれは、米軍の無人偵察爆撃機だよ。」
すると、そこから爆弾が、ドーンと落とされた。
爆弾を落とす引き金を引くのは
戦場から遠い遙かアメリカにいて、
オフィスのコンピューターながめている
捜査官なのだという。
そのしたに、どれほど多くの避難民の
子供たちが、なけなしのシートのしたに
避難しているのか、解っているのだろうか?



そんな爆弾が落とされていた地域。
とても入れないと思っていた反政府地域。
東南アジア最大の湿原と呼ばれている
リグアサン湿原のイスラム自治区にも
戦争がある度に、逃げてきた子たちを支援し
親が殺された子たちを、奨学生に採り。
読み語りをし、保育所を建て
10年間にわたる交流を続けてきた。
その結果、現地の人々は心を開き
MCLを信頼し
受け入れてくれるようになった。

和平構築は、ヒナイニナイ バスタ カヌナイ
(MCLの合い言葉で、
ゆっくりゆっくり でも絶えることなく)
友情と愛のお付き合いをしていくなかで
培われていくものだと、感じている。
一時的に巨額な支援をしても、現地の人は
簡単に信じてくれない。
「何を下心に支援するの・・・???
目的は、リグアサンに眠っている
膨大な石油と天然ガスの資源を奪うこと?」
事実、ここで40年間にわかって
起こされてきた戦争の原因は
国際的な天然資源の
奪い合いだと聞いている。

 

ミンダナオ子ども図書館の活動は、
政治目的でも無く、宗教目的でも無い
子供たちへ愛と友情だけが行動規範だ。




それを理解してくれるから、彼等は言う。
「MCLは、お金目的の他のNGOと
違っているね・・・」
その結果、今回のような、
一般では外国人が入れないような
非常に難しい場所にも、
学校建設が可能になった。
ただ、こうした活動に妬みを持ったり
あるいは逆に、妨害して戦争を起こす
きっかけにしたい動きも過去見ている。

たとえば、中東でのイスラム国による
日本人誘拐殺害のように
ぼくを誘拐殺害して、あるいは、
今の大統領を殺害して、
イスラム国の仕業と大々的に報道して、
一挙に政府軍、アメリカ軍。そしておそらく
集団的自衛権と憲法改正を利用して日本軍
(現地では自衛隊では無く、一般的に
日本軍とみんな呼んでいる)まで、
ミンダナオのイスラム地域に攻め込んで、
軍隊を駐留させて、
リグアサン湿原の石油と天然ガス、
そして、山岳地たちの希少金属の
資源の発掘の基盤にするのではないか?




皆さん!
戦争を起こすための口実に
ぼくが、誘拐され、殺されても、
決してこの地のイスラムの人々を
悪く思わないで欲しいです。
ぼくは、この地のイスラムの子供たち、
とりわけ、戦争で親が殺された子たちを
心から愛し、また、
地域の人々を友人だと思っているので
お願いします。
戦争を起こすために行われるのが、
誘拐と殺害、爆弾事件であることは、
過去何回も見てきています。
それでも、この子たちのためならば、
ぼくは、殺されていってもかまわない・・・
そんな思いで、活動しています。



   
 
 
 
 

 
   
 
 
 



立正佼成会の子どもたちから送られてきた
ゆめポッケを配った


     
 

貧困だけでは無く、時には戦闘で
避難を余儀なくされるような
厳しい地域の子どもたちに
立正佼成会は、ゆめポッケを送りとどける。
ゆめポッケは、日本の子供たちが
一食ぬいてお金を貯めて
それで、貧しい子どもたちに
学用品やぬいぐるみを買って
それを親たちが手作りした
色とりどりの巾着袋にいれてわたす。
長年、MCLでは、ゆめポッケの配布を
お手伝いしてきた。
ひとつひとつに、贈り物を選んだ子どもたち
そして、手作りで巾着袋を作った
親たちの気持ちがこもっていて
本当に喜ばれる贈り物だ。

  

MCLが来たよ!ゆめポッケくばるよ!
大喜びで駆けよってくる子どもたち。


  
 
  

読み語りが始まった 
 



 





ゆめポッケを配る前に、まずは読み語りをする 
  
  
  
 

お話しだけでは無くって、歌や踊りも披露する


そして、最後に「おおきなカサバイモ」の劇もする
「うんとこしょ、どっこいしょ」

 

ゆめポッケの配布が始まった
 

読み語りの後に
いよいよ「ゆめポッケ」の配布を開始。
まずは、ポスター写真を見せながら
子どもたちが一食ぬいてお金を貯めて
どのようにゆめポッケを作っていくかを
ソーシャルワーカーのアイリーンが語る。



語り終わってから、
いよいよゆめポッケの配布がはじまる。
本来、立正佼成会から、親子連れで来て
ゆめポッケを子どもたちが直接
現地の子供たちに配るのだけれど、
今回は、情勢も考えて延期して
立正佼成会の代表の方が訪問されて
ゆめポッケを配布された。


 

MCLの子どもたちに混じって
私の二人の娘たちも
子どもたちにゆめポッケを渡した。
MCLの子どもたちは、
親がいなくなったり、
さまざまな孤独やトラウマを
持っている子たちだけれど、
こうした活動をすることで
逆に生きる力を培っていく。
子どもたちの喜ぶ笑顔に出会って
大きな生きる喜びを感じる。
友情と愛こそが、生きる力。


 

今回は、日本から来た訪問者や
若者たちも参加して
喜びを体験した。
 


   
   


ゆめポッケをもらって、大喜びの子どもたち 
     
   

ゆめポッケを開いてのぞいて
中に入っている、学用品やおもちゃ
ぬいぐるみを取り出して喜ぶ
子どもたち。
現地の子供たちにとって
ぬいぐるみなど、
ほとんど夢のまた夢。
鉛筆や色鉛筆、
クレヨンや定規も買えない。

このゆめポッケの活動は、
さらに現地に親子が訪れて
直接手渡すことで
さらに深い意味を持つ体験となる。
帰る時には、日本子たちと
現地の子供たちは
抱きあって泣く。

こうした体験を通して
日本の子供たちや若者たちも
心を成長させて行き
生きる喜びと力を受けとり
感じて欲しい。
特に自殺の多い、
日本の子どもや若者たちに!!!
 
   
     


 

ゆめポッケの配布が終わって
配布した子の家を訪ねた。
こちらの家は、貧しくて
ほとんど竹で出来ている。
家具も無ければ
食器もあまりない。


立正佼成会の代表の方々が
家族にインタビューする。
ゆめポッケをもらって
大喜びの子どもたち。


 
 
   
   
    
 

配布が終わって大喜びの
MCLの子たちと訪問者
 





保育所のチェックと修理を始めた

保育所支援は、フィリピン政府が
小学校入学の条件として
「小学校に併設される幼稚園を
せめて卒業しなければ入学できない」
という条件を出したところから始まった。

山岳地の貧しい村では、小学校のある
村の中心部まで8キロあり、
ジャングルや山道を小学生は
3時間もかけて歩かなければならないのは
普通の事だ。
ミンダナオ子ども図書館で、山岳部などに
下宿小屋を作っているのも、
そうした子供たちが、
小学校や高校の有る村の中心部に住み、
学校に通えるようにするためだ。
特に孤児や崩壊家庭、そして両親はいても
極貧で食べられない家庭の子たちを優先して
奨学生にしているMCLでは、
下宿小屋に住んでいる子たちに、
米も支給している。
すでに山に男子寮と女子寮を作っているが
現在、海にもう一つ、下宿小屋を作る
準備をしている。

話を保育所にもどすと
そうした貧しい村の幼い子供たちが
8キロもある道を通って幼稚園に
行けるわけが無い。
そこで、政府は、村に保育園を作り
そこでABCを学んだ子もとりあえず
小学校に入学できるということにした。
保育所は、福祉局の管轄下で
村単位で建設、維持する。
保育所といっても、日本のように
親が働きに出ている間に
子供を預かる場所では無く、
一日2時間ほど、ABCや簡単な算数を
学ぶ場所なのだ。

村単位で建設といっても、貧しい村に
お金が有るわけもない。
保育所の先生もせめて高校卒業で
読み書きが解ることが前提だが
小学校卒業生もまれな村で
先生になれる人がいない村もある。
建物などはさらに不可能で、
木の下やプロックと呼ばれる
屋根だけの休み場所で勉強していたりする。
ぼくには、政府の政策は、豊かな村の
ある程度お金のある人々だけが
小学校に入学し、教育が受けられる形にする
貧困層を切り捨てる教育システムのように
思えたものだが、といっても
そうした村の子供たちが惨めで放っておけず
福祉局からの強い要請もあり
保育所建設を開始することに決断した。

保育所には、スタンダードと呼ばれて
大きくてトイレも2つあるものと、
簡易保育所があることもわかってきた。
福祉局からは、とにかく保育所が無い村が
あちらこちらにあるので、
「簡易保育所で良いから、多数建てて欲しい」
と言われた。
そして、簡易保育所を見たが、
床も土で全部竹だけだと、
あっという間に腐ってくる。
そこで、せめて土台と壁の半分は
セメント製にすることにした。
最初は、30万円で可能だったが
10年で資材の値上がりが厳しく40万にし
すでに75件を建ててきた。

ただし、10年もすると
簡易保育所の問題点が見え始めた。
補修は、寄贈式のときの調印と取り決めで
村で行うことになっているのだが
村には、補修の費用すら持てない場所もある。
さすがに土台はOKでも、
竹壁が腐ってきたりもする。
せっかくドネイションしていただきながら
色あせて補修も必要として保育所を目にし
現地の子供たちや教師、
支援者の気持ちを無視できずに、
今年から保育所補修の寄付を募り
補修を行うことにして、実行し始めた。
ただ、補修や時には再建が必要な
保育所は以外に多く
数年は、補修プロジェクトを続けなければ
ならないだろう。経費も大変。
しかし、新たにピンクのペンキが塗られ
壁も補修された保育所で
うれしそうに学ぶ子供たちを見ると
頑張ろうと想う気持ちがわいてくる。
サインボードも塗り替えて張る。

今後は、今までの展開の経験を踏まえて
一時しのぎの簡易保育所を辞めて
室内に2つのトイレを置き
部屋の大きさも広くして
セメントの壁にドアも二つつけて
すべてをスタンダードにして
90万円で建てることにした。
総セメント製だと130万になる。





全面的に立て替えた保育所 
   

保育所には、下にピンクか緑のペンキを塗り
屋根もペンキを塗って錆を防ぐことにした 
   

簡易保育所より面積が広くトイレも二つあり、
扉も二つあるスタンダード保育所 
  
   





ピキット市の保育所の開所式

いつもは、ミンダナオ子ども図書館は
比較的豊かな人々の多い市内や
都市近郊では無く
山や湿原地帯の僻地のなかでも
最も貧しい村や集落で活動し
保育所も、そのような場所を選んで
建ててきた。

しかし、今回はピキット市の
ソーシャルワーカーで、MCLの理事でもある
グレイスさんから、市内の広場に
スタンダードのしかも
総セメント製の保育所を建てられないか
という要請があった。
大きさは簡易保育所の2倍あり、
セメント製であるから暑いのでエアコンも
寄贈されるという。
本来竹壁と窓の方が、総セメント製よりも
暑さをしのげるので良いのだが。

しかも、土台は一メートル以上高くして作る。
理由は、戦争や洪水の時の
避難場所として機能するものを作って欲しい
という事だった。
確かに過去の経験から、
戦争や洪水が起こると、数十万から
時には百万を超える避難民が
僻地から逃げてきて、半年から一年
時には数年にわたる避難民生活を
余儀なくされる。
そのたびに救済支援を行ってきたから
このような避難場所があると、
助かると同時に救済避難ベースにもなる。
セメント製なら、鉄砲玉が飛んできても
命が守られるし、1メートルの高さがあれば
洪水になっても大丈夫だ。

そうした理由を納得して
お二人のスタンダード保育所支援者に
カトリック教会の寄付を加えて
160万で建てたのが今回の保育所。




開所式には、保育所の先生
福祉局のでMCL理事のグレイスさん
そして、神父さまも参加されて
サイン式と祝福を行い
その後で、MCLの若者たちが
読み語りをして
子供たちと一緒に
開所式を楽しんだ。

  
   
 
 
 

MCLのイスラム、クリスチャン、
先住民の子たちが読み語りをした 
    
   

読み語りの後に、みんなでパンを食べた 
     
   

それにしても、10年前に比べると、資材、文具、生活費、ガソリン代などの値上げが激しく
フィリピン経済は表向き上向いていると言われていても
貧困層の生活は、ますます酷くなってきている 




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