|
|
|
|
daidai
第三次世界大戦も
起こりえる |
14)あっ!ここは平和な日本だった!
15)この日記を書かざるを得ない気持ち
16)日本の自衛隊が参加する?
17)第三次世界大戦も起こりえる
18)米の供給がテーマに
19)見る影もなく痩せて
20)ピキットで戦闘が勃発したという
21)子どもたちが困窮している
22)ミンダナオ島における資源をめぐる紛争
|
sp1
2009年:6月16日(火)
14)あっ!ここは
平和な日本だった!
時々、
激しい疲れが午後になって、
重い石車の軋みのように、
頭と体を轢いていく。
去年の8月からの
ピキットでの戦闘。
その後の激しい緊張が、
血の凝りのように
脳髄と背骨とに留まり、
気がつかなかったものの、
氷雪のように
肩から頭にかけて
溜まっていた。
戦闘は、
2月あたりで多少収束に向かい、
3月から5月まで、
ミンダナオ子ども図書館にやってきた
新たな若者たちの
対応に追われていたが、
6月の新学年が
始まると同時に、
少しずつ南に押し流された
北極の氷山となって
溶け出し始めた?のかもしれない。
偏頭痛と、
極端な脱力感と、
夢を交えた重い午睡が突然襲い、
車の中であろうと、
山に訪ねた竹小屋の床であろうと
眠りが襲う。
トラウマ状態は確かにあった。
少しの物音でも、
戦闘を思いだす刺激があると、
緊張が走る。
強風のあえぎやヘリコプターの爆音。
今でも国道で出会う
軍用車などなど・・・。
日本に行ったときも、
九州の湯布院で、
天空を自衛隊のヘリコプターが数機、
爆音をとどろかせて横切ったとたん、
髪の毛がさかだって
「どこで戦闘が起こっているのか!
早く子どもたちを
助けに行かなくては!」と思って、
ふっとまわりを見渡して
呆然とした。
「あっ!
ここは平和な日本だった!」
戦争でイラクなどにいってきた
米軍の若い兵士が、
祖国に帰っても
トラウマ状態になるのが
良く理解できる。
しかし、
規模は小さい物の
ミンダナオで戦争が起こる
(起こされる)現状を
終始見ている者としては、
現在の日本の状況も決して良くはない。
1999年の「周辺事態安全確保法」と
2001年の「テロ対策特別処置法」が通って以来、
尖閣問題も含めて、
戦争を作るために
中国と日本、ベトナム、韓国、フィリピンを
対立させようとしているように思えた。
ad1
15)この日記を
書かざるを得ない気持ち
赤で書いているこの文は、
2020年のものですが、
このサイトページの
黒で書かれた文は、
ミンダナオ情勢が非常に複雑に展開している
2009年から10年に書いたものです。
この時期に文章で
日記を書かざるを得ない
気持ちになったのは、
以下の理由によります。
1996年から2002年の
フィリピン政府軍と米軍による合同演習、
バリカタンという名の実戦と、
2003年の米軍による
テロリスト掃討作戦で、
150万の戦争避難民が出た。
(このときに
避難民の子どもたちを見て
心を痛めて
ミンダナオ子ども図書館を始めました。)
ところが2003年に
イラク戦争が勃発して、
米軍もNGOも、
まだ大量の避難民が
いるにもかかわらず、
いっせいにミンダナオから去って
イラクへ向かっていったのです。
その後は、
小規模な戦闘は
毎年起こるものの、
情勢は比較的安定した感じでした。
ところが
2007,8年頃から、
次第にイラク戦争が
行きづまるにしたがって
ISがアジアにもどりはじめ、
日本政府が主催した
IMT国際監視団による
和平交渉も決裂し、
ちまたでは、東アジアで
第三次世界大戦が起きる可能性がある
と言われ始めました。
その後、
戦闘地域だけではなく、
ミンダナオの全ての学校の屋根に
白のペンキで
大きく番号が書かれ、
理由は
無人爆撃機のドローンが、
避難場所である学校を
爆撃しないように
するためだと聞きました。
テレビ東京の番組で
パックンが来られた時の番組にも、
学校の屋根に
白いペンキで番号が書かれている
理由が紹介されています。
池上彰の
ジャパンプロジェクト
世界の”命の現場”で
奮闘する日本人 |
パックンが
来た |
|
|
jiei
16)日本の自衛隊が参加する?
イラク戦争が、
しだいに行きづまり始めると、
テロリスト集団と呼ばれている
ISIS戦闘員は、
次第にミンダナオに拠点を築こうとしている
と言われ始め、
それを理由に2014年、
日本の議会を集団的自衛権が通り、
バリカタンと呼ばれる
フィリピン政府軍と
米軍による合同演習に、
なんと
日本の自衛隊が
参加する事になったそうです。
ミンダナオの人々の視点から見ると、
これはいよいよ
大規模な戦争が勃発する
前兆だと
言われはじめたのです。
バリカタンは、
演習と呼ばれているのですが、
現地では実戦で、
くり返しミンダナオで起こされて、
2000年頃に
3年ほど続いた時には
空爆も行われて、
150万の避難民が出て
死体を埋めることなく
河に流した
と言われています。
その時の悲惨さ、
とりわけ
表情を失った子どもたちの様子を見て
いたたまれなくなり、
ミンダナオ子ども図書館を始めたのですが、
その後
しばらくおさまっていたものの、
集団的自衛権が通ってからは、
現地では、
次回ミンダナオで大きな戦争が起これば
米軍と共に日本軍も攻めてくる。
(自衛隊は、現地では
日本軍と呼ばれています)
尖閣諸島での中国との対立も
過度にあおられて、
場合によっては東アジアで
第三次世界大戦が勃発するのではないか、
と言われるようになりました。
ただし、
その後、ミンダナオ出身の
ドゥテルテ大統領になって、
フィリピンは米軍とも距離を置き、
日本政府
JICAなどの尽力もあり、
和平交渉が再開されて、
MIFLとフィリピン政府との間に
和平が締結されたのです。
これを書いている2020年現在も
和平交渉の詰めは
進行しています。
そうした複雑な情勢の中を、
ただひたすら子どもたちの事のみを考えて
活動してきた
ミンダナオ子ども図書館の歩みは、
年代別に記したサイトの
「戦争と平和構築」でご参照下さい。
sp2
2009年:6月17日(水)
17)第三次世界大戦も
起こりえる
2000年前後の
150万を超えると言われた
戦争避難民救済支援の後も、
毎年のように起こる
戦闘や地域闘争で、
何度も救済活動を
行い続けてきた体験から見ると、
平和呆けしている日本のことが
心配でならなかった。
ミンダナオで戦争が起こっている
と言う事も知らない日本人。
UN国連の人が、
現地で私に
教えてくれたところによると、
イラク戦争前まで、
世界で最も戦争避難民の
累計が多いのが、
ミンダナオなのだそうだ。
ここで避難民と難民の違いを
明確にしておこう。
僕も知らなかったのだが、
戦争や災害で
国外に脱出できるのが難民で、
家を置いて
避難所や国道で
避難生活を余儀なくされるのが
避難民なのだそうです。
ミンダナオは、
避難民の累計が世界一だと、
そのとき聞きました。
イラク戦争勃発の直前のことです。
現地では、これから
第三次世界大戦も起こりえると
言われていることなどもあり、
ミンダナオに入ってから10年。
日本の事も
多少なりとも意識して、
写真による活動報告だけではなく、
困惑した自分の心も踏まえて
ミンダナオ日記を書くことにしたのです。
けれども、しかし、
その重いトラウマが、
ある時次第に氷解するとき。
確かに久々に
虫の音が耳に聞こえてくる。
普段もいつでも虫は鳴いているのだが、
ついぞその様な
平和な光景を忘れていたのか、
シャットダウンしていたのか・・・・
まだ
本当の心の回復までは、
数ヶ月はかかるだろう。
その後、
2016年に
青少年も意識して久しぶりに、
現地の情勢や活動をまとめたノンフィクション
『手をつなごうよ』(彩流社)を書きました。
|
18)米の供給がテーマに
毎朝のスタッフとのミィーティングで、
若者たちへの
米の供給がテーマにあがった。
ミンダナオ子ども図書館では、
一日で50キロの米袋が消費される。
水田を購入して
自給率を上げていっては、
いるものの足りず、
水田の籾が全部消費され、
9月の収穫まで待たなければならない。
こうなると、
街の市場で
米を買うことになるが、
米の大量の生産地である
イスラムのリグアサン湿原地帯が
極度に危険な
戦闘地域であることも影響して、
毎年、米の値上がりが激しく、
9月までのりきるために、
若者たちに、敷地内に
カサバ芋やサツマイモ、
食用バナナを植えてもらい、
それを夕食前のおやつに
食べることでお腹を満たし、
そのあとで、
夕食を食べることに決めた。
米の消費を
極力抑えるためだ。
まるで、
戦中の配給制度のようだ。
確かに戦闘はあるし、
世界経済も良くないので、
その影響が
ミンダナオにも及んでいる。
私たちは、水田を持ち、
多少なりとも自給米が
食べられるだけましだが、
山のマノボ族や
貧しい多くの家族は、
米どころか、おかずも無く、
三食まともに食べられていない。
kome6
19)見る影もなく痩せて
4月5月の夏休みに、
(後記:2024年現在は、6,7月が夏休みです)
里帰りしていた子たちも
次々と戻ってきたが、
あれだけふっくらとしていた子たちが、
見る影もなく痩せて戻ってきた。
聞くと2ヶ月の間、
家ではほとんど
食事らしい食事をしていない。
これが現実だ。
体力が弱っていたせいだろう。
次々と高熱の子たちが出て、
18名以上が
熱と頭痛と腹痛で治療を受け、
6名が入院した。
これを書いているのは夜で、
気まぐれな地蛍の
漫遊の向こうから、
熱帯の空気を押しつぶしたような、
嗄れた虫の音が聞こえてくるが、
それに混じって部屋から、
ときどき
咳をしている子たちの
乾いた音がする。
他にも
入院患者が立て続けに出て、
すでに8月までの医療予算を
消費してしまった。
治療を受けられるだけマシなのだが・・・。
sp7
20)ピキットで
戦闘が勃発したという
午後一時に
ブアランとアレオサンで戦闘が勃発、
大量の難民が出ている
という連絡が入った。
雨の多いシーズンで、
難民たちは困窮しているので
ビニールシートの支援を開始できないか
という連絡。
緊急にスタッフ会議を開いた。
明日は、病人の搬送のため
ダバオに行く予定だったが、
その件はスタッフの一部にまかせて、
緊急にピキットへ
支援活動をしに行く必要がありそうだ。
ここ数日、頭痛が起こり、
嫌な予感が
絶えず心を襲ってきていたが、
このことだったか?
世界的に見ても
ラマダン明けの6月7月は、
イスラム地域で
不穏な動きがある時期のような気がする。
ブアランからアレオサンでの
戦闘勃発は、
去年の8月の戦闘開始のケースと
まったく同じだ。
今後、拡大しなければ良いのだが。
sp8
21)子どもたちが困窮している
ピキットで戦闘が勃発した
連絡を受け、
翌日の火曜日、
さっそく現地に向かった。
難民が発生している地域は、
まだ限られており、
ブアランとパニコパンの難民の状態が
良くないと言うので、
困窮している地域を優先した。
正直な気持ち、
せっかく去年からの戦闘の疲れというか、
トラウマ状態から抜けだし始めたかな、
と思っていた時だけに、
イタチが巣穴の土手から頭を出して
そろそろ青空の良い天気かな、
と思って天を見上げたとたん、
重くトゲトゲしたドリアンが
首筋に落ちてきたような感じで、
「いい加減にしてくれよー」
と頭を抱えたくなる。
このトゲトゲした重い情感は
本当につらい、
ドリアンならそれなりに
僕には良い臭いで美味しいのだが・・・
しかし、
奮起して活動を開始。
2000年、2003年、2006年、2008年、
そして2009年と
もう5回の戦闘が起こっている。
そのたびに
難民救済を開始するのだが、
こんな事をいつまでも続けていたら、
うんざりして、
逃げ出したくなるだろう。
重い鬱病を抱えたままと思うのだが、
確かにその通り。
それにもかかわらず、
性懲り無く起こる、
人間が起こす馬鹿げた戦争?
落ち込む心に対抗して
性懲り無く救済活動を実行する
原動力はどこにあるのか
と自問すると、
答えは一つしかないことに
気がついた。
その戦闘の中に
子どもたちが
いるからだ!
子どもたちがいて
困窮している、
と想像しただけで、
科学物質で汚染された
汚泥の中に
野の花を
見るような気がして、
恐れを忘れて
その場に行かなくては、
と思い始める。
この気持ちがなかったら、
こんな馬鹿げた活動を
誰がするモノカ!
とも思う。
現場に行くと、案の定、
他の救済支援は全くないから
難民たちは、
困窮して途方に暮れていた。
先日は、子どもたちも
地面の上で寝たという。
今回の戦闘は、
一ヶ月ぐらいで終わるのか?
とある人が、軍の関係者に聞いたところ、
「3ヶ月分の弁当を持ってきているよ」
と答えたという。
3ヶ月分の食糧をあらかじめ
準備しているという意味だ。
それにしても戦闘を起こす理由が
未だに良くわからない。
DSWDの某氏に
今回戦闘が起こった理由を聞くと、
曰く「選挙が近いからでしょう」
「エッ?」
確かに来年は、大統領から
集落の役員に至るまでの総選挙で、
すでに至るところで
道路の補修工事がなされている。
政治家による
選挙前の資金のばらまきだ。
さらに加えて某氏曰く、
「政府からその筋に、
軍資金が落ちるようにするために
戦闘を起こすのでしょう」。
唖然としたが
「なるほど、軍資金というのは、
軍に資金を落とすことか」
と変に納得した。
政治家にとって、
軍は重要な票田なのだ。
ad3
22)ミンダナオ島における
資源をめぐる紛争
ad3
フィリピン・ミンダナオ島における
資源をめぐる紛争の検証
ミンダナオ島中央部の
“Ligawasan (リガワサン)” 湿地帯の
地下資源とそれに関連する
重要行為主体の利害関係の考察
村田俊一
|
はじめに
21 世紀を迎えた私たちの住む世界全体を見渡したときどのような光景が目に浮かぶであろうか。科学や産業の急速な発達により、人類は様々な歴史的な進歩を遂げてきた。途上国もその例外ではない。
世界60 億人の 3/4 に当たる 45 億 人は途上国に暮らし、過去30年間に世界の平均寿命は8年延び、非識字率は47%から 25%に下がった。完全な水を利用できる農村地帯の割合は5倍以上に増加
し、途上国の平均所得は実質ベースではほぼ倍増したが、それでも現在 12 億人 が1日1ドル未満で 20 億人以上が 2 ドル未満で生活するなど、25
億の人々が進 歩や豊かさから取り残されている。
世界の環境汚染や天然資源の枯渇は、豊かな国や特権階級の利害に大きく関連しているように思われる。この報告書を執筆するに当たって、最近の資源と紛争に関連するケースを通じて、重要行為主体の整理と資源と紛争の関連性を検証しながら、ミンダナオ
島のリガワサン(Ligawasan)湿地帯の紛争回避の可能性を模索したい。
村田俊一執筆記事
本文を読みたい方は、以下をクリック!
|
|
hoko
歩行も困難な三人
|
23)誰が学校まで引いていくの?
24)見てしまった以上
25)サトウキビ刈りは厳しい労働だ
26)泣く泣く学校を停止して
27)悪霊が憑いたようになって
28)光は渦を巻き果樹園を染めていく
|
hok1
23)誰が学校まで引いていくの?
筋ジストロフィーのアーリー(名前は全て仮名)が
40度を超える熱を出した。
他にも、メーアンとジュリーが、
38度の熱で昼から学校を休んだ。
ご存じのように、
筋ジストロフィーは、
年齢と共に筋肉が犯されていき、
最後は内臓の筋肉まで機能しなくなり
死ぬ病気だ。
治療の方法はないと言う。
MCLには、アーリーの兄弟
リエルとベンジが同じ病気で、
ベンジのみは
かろうじて松葉杖で歩行しているが、
他の二人は車いすだ。
この家族は、マノボ族で、
本当に山奥の
小さな集落で見つかった。
川を渡り、谷を越えて、
かろうじて4WDが行き着く谷間。
その様な村の竹の家で
歩行も困難な三人が、
どのような惨めな生活をしていたか・・・
想像がつくだろう。
見つかった時、アーリーは、
体を引きずるようにして、
陰へ陰へと隠れようとした。
光を恐れる小動物のように。
彼らが不治の病である
筋ジストロフィーであることが
わかったのは、
ダバオの医者に診せた時だ。
ショックだった。
何よりもこの病が不治の病で、
年齢と共に進行し、
やがて死を待つしかない事を知った時は、
どうしようかと思いあぐねた。
ミンダナオ子ども図書館で
引き取ることを
躊躇したくなる理由は
いくつもあった。
スカラシップをあたえても、
それがどのように役に立つのか?
それ以前に、歩けない子を
どのように面倒を見たらよいのか。
車いすに乗せるとしても、
誰が学校まで引いていくのか?
大きくなったらどのように
面倒を見たら良いのか?
などなど・・・。
hoku2
24)見てしまった以上
もともと身障者の施設や
介護の知識もなく(今も無いが)、
その様な施設や介護をやることに
興味すら持ったことが無い僕が、
この子たちを責任を持って
引き受かられるのか・・・。
しかし、山の小屋の
あの惨めな生活の中に、
知らぬ顔して
放っておく事は出来なかった。
見てしまった以上、
治療を通して関係してしまった以上は・・・
MCLに引き取らなければいられない。
そのためには、
まずは車いすが無くてはならない。
幸いノイ君という
ポリオの若者がいたので、
身障者と暮らす
多少の経験はあったし、
二階建ての本棟を建てるときに、
彼のために階段の無い
スロープで上れるように家を建てていたので、
先のことはその時になったら
考えることにして
思い切って引き受けることにした。
しかし、狭い病室の片隅の
酸素吸入バルブの横で、
鉛のように重い午睡のなかに
埋もれている
アーリーの姿を見ていると、
真剣に彼女の将来の事を
考えれば考えるほどに、
この先アーリーが肉体の不条理の中に
心も深く沈み込んで行くような
気がして胸がつまった。
そのとき、
かすかな救いとして
僕の心に浮かんだのは、
ミンダナオ子ども図書館にいるときの
アーリーのうれしそうな微笑みだった。
僕はそのほほえみが大好きで、
良く彼女の横に座りながら、
下の芝生で遊んでいる
子どもや若者たちの姿を見るのだった。
彼女は、そのほほえみで
周囲を幸せにしている。
それだけでも大きな存在意義を持って
生まれてきたのではないだろうかと、
ふっと思った。
あれから2年。
車いすは、
他のスカラー達が毎朝引きながら、
手も足も萎えているアーリーは、
そのわずかな力で
車いすにすがるようにして、
小学校を卒業した。
お兄さんで同じ障害を持つ
ベンジーもリエルも高校を続けている。
驚くべきは、
彼らの顔の変化で、
ミンダナオ子ども図書館に来てからは、
想像できないほど明るくなった。
学校に行くのも日常生活も、
ほかの子たちが
何も言わずにみんなで
協力して助けてくれるので
スタッフの手もかりない。
友情の中で
協力して生活していけば、
専門的な介護の知識など無くても、
かなりの事は出来るのだ!
その後、ベンジーは
大学を卒業してスタッフに、
リエルは車いすのままで、
コンピューターエンジニアになって
パソコンショップで働き、
アーリーは
歩けないにもかかわらず、
なんと彼氏が出来て結婚して
子どもが生まれた!
sp3
2009年:6月18日(木)
25)サトウキビ刈りは
厳しい労働だ
今日は、キダパワン市の貧困地域へ、
今年度の最後のスカラーを探しに行った。
スタッフの一部は、
先日予告なしに母親の元に行った
エミリーを捜しに山の村へ・・・。
今年は、
小学校と高校で数名が、
親元に行ったきり
学業を停止した。
その多くはマノボ族で、
山の貧困集落から、
家族が低地のサトウキビ農場に出稼ぎに出て
そのまま数週間、
現地に留まることになったのだ。
兄弟姉妹も、
日雇い労働に駆り出されたまま学校を、
ストップしなければならなくなるので、
(親に言われて?自分の意志で?)
自分も学校をやめて
労働して稼ぐことに決めたのだ。
山地に畑仕事の無い家族は、
三食たべるのにも事欠き、
サトウキビ農場の差し出す
ダンプトラックに乗せられて
サトウキビ刈りに向かう。
特に3月下旬から5月は、
学校が夏休みに入るので、
サトウキビ刈りに
子どもの動労力を駆り出すのに
適当な時期なのだ。
サトウキビ刈りの労働は、
ウオーターフォール村から来ている
子たちに多いが、
スカラーの一人が言うように、
炎天下の厳しい労働だ。
「わたしも時々したけれども、
暑い日差しのしたで、
サトウキビを刈る仕事は
本当に本当につらい仕事なの。
刈り取って
女では肩に担ぐことが出来ないほどの
束にして
それで2ペソ(4円)稼げるの。
女では、一日に30ペソ(60円)を
稼ぐのがやっとかしら。
男の人なら
100ペソ(200円)ぐらい稼ぐけれども、
その日の三食の食事をするだけで、
ほとんど手元には残らない。
家族みんなで
出稼ぎに行って、
もちろん子どもたちも手伝うわ。
そう、小学校の子どもたちもね。
わたしもしたわ。
そうして、家族みんなで働いて、
なけなしの賃金を
家に持って帰るのだけれども、
お米を食べられるのは2週間ぐらい。
その後は、また
一日2食の芋と野バナナ。
学用品の鉛筆やノートも買えない。」
hok4
26)泣く泣く学校を停止して
今は、世界的な経済危機が
ミンダナオも襲っていて、
サトウキビ労働の賃金も仕事も
カットが続いている。
その一方でここ数年、
諸物価の値上がりが家計を直撃。
2年前まで、
50キロの米袋が
850から900ペソで買えたのが、
今は倍近い1500ペソもする。
極貧家庭では、
ちょっとした値上げが死活問題になるのだ。
ミンダナオ子ども図書館では、
7.5ヘクタールの水田を持ち、
籾米の値段で
米を供給しているから良いようなものの・・・。
それでも
今年の5月から9月の収穫までは
米が底をつき、
市販の米を
買わざるを得なくなり、
急きょみんなで
庭の芋やバナナを食べて
米の消費を
押さえることにした。
それでも、
子どもたちにとっては、
MCLの毎日の食卓に、
米が三度出てくるだけでも
贅沢なのだ。
そう考えれば、
学業を続けたくとも、
例えスカラシップを出してもらっていても、
泣く泣く学校を停止して、
一家がたべていくための
手伝いをする方を
選ばざるを得ない
子どもたちの気持ちや状況は理解できる。
例えそれが、
小学校の女の子であったとしても、
両親が働いている間に
小さな兄弟や赤ちゃんの
面倒を見ることも、
家族を助ける労働の一部なのだ。
しかも、
大概の家族は多産で、
平均して7人の子どもが居る。
こうして、数名の子たちが、
スカラシップからこぼれていった。
支援者には、
申し訳ないのだが、
本当の極貧の子たちを
学校に行かせてあげるためには、
授業料だけではだめで、
ミンダナオ子ども図書館では、
高校生には
月に500ペソのお小遣いをだして
学用品を買えるようにもしていますが、
それでも無理なことが多々あります。
エミリーは、
それを知っているものだから、
こっそりとMCLを抜けだして、
働いている両親の事を案じて
帰ったのだ。
それがわかった時、
即翌日、
わたしたちは朝のミィーティングで
この件を話し合った。
そして、
状況を調査するために、
とりあえず現場に
スタッフが向かった。
エミリーは成績も良いし、
口数は少ないけれども
素直なよい子だ。
そしてスタッフが迎えに行くことで、
親も納得し夕刻MCLに戻ってきた。
親だって、
できれば我が子が
学校を卒業できるのを
望んでいるのだから。
今日、高熱を出して学校を休んだ、
同じ地域のジュリーやメリーンなど
子どもたちが、
2ヶ月の夏休みの間に、
なぜ見る影もなく痩せて帰ってきたのかが
今ようやくわかった。
十分な食物が無かっただけではない。
出稼ぎのサトウキビ刈りや、
山の薪拾い等、
業者に売って日銭を稼ぐための
激しい労働を毎日していたからだ!
夕刻、帰ってきたエミリーは、
わたしの姿を見ると少し恥ずかしそうに、
そして本当にうれしそうに微笑んだ。
やはり本当は、
学校に行きたかったのだ。
sp4
6月19日〔金)
27)悪霊が
憑いたようになって
50を過ぎた頃、
予期せぬ離婚を体験し
何もかも
崩壊したような気がしてから、
物に執着しなくなったような気がする。
ここミンダナオで、
しかもピキットを中心とした危険地域で、
日本人はおろか外国人で、
あちらこちらに入り込んで
活動しているのは僕一人だ。
それでも
怖くないのは、
自分の命に対する執着が、
薄れてしまったからだろうか・・・。
しかし、興味深いのは、
自分の命に対する執着が
薄れれば薄れるほど、
次の世代の子どもたちや若者たちの命が、
美しく見えてきて、
「この子達のためだったら何でもしたい、
自分の命が失われても!」
と言った気持ちが
強く起こってくることだろう。
それでも、
アーリーのケースもそうだが、
どんなに救いたいと思っても、
完全には救えない時の気持ち。
また、どんなに寄り添っていて
あげたいと思っても、
生涯寄り添って
あげられない時の気持ちは、
愛する人から
無理矢理引き離されて、
どっと血が流れながら手術をしても、
修復できない裂け目に似ている?
激しい頭痛が続いてスピリットが憑いて、
振り乱した髪の毛の間から
真っ赤に血走った目で中空を見据え。
どう見ても狂気の化け物のような
顔になっていた少女。
スタッフも奨学生たちも恐れて
近寄ろうにもよれないので、
僕が必死に
抱きかかえて落ち着かせた少女。
普段はおとなしく
本当によい子なのだけれど・・・。
その後も相変わらず
頭痛と狂気が戻ってくる。
本人は僕に、
「このまま、わたしは
気が狂って行くような気がする。
最後には気が狂って
死んでしまうような気がする。
死んだ妹が、私を向こうに
連れて行こうとしている・・・
それが怖い!」
と言って泣いた。
僕は繰り返し、
「死者は天使になって、
神さまと共に、イエスさまと共に
空から君を見守っている。
死んだ妹もそうだから、
落ち着いて
安心するように。」
と話すのだが。
あるときには少女は、
とつぜん
男のような声になって
狂って暴れだした。
その声を聞いて、親戚の子が
僕に言った言葉が忘れられない。
「あれは、死んだおじさんの声だわ!
死んだおじさんの霊が
取り憑いている!」
誰も恐れて近寄れず、
あんまり酷く暴れるので
僕は彼女を抱きしめて、
耳もとから彼女の魂に
声をかけて呼び戻すと、
ようやく少女の意識が戻り、
倒れたまま眠り込んだ。
翌朝起きても
全く何も覚えていない。
50を過ぎていくと、
そして人生に対する執着が無くなっていくと、
自分のいのちはどうでも良いから、
次の世代を生かしたいと言う
強い気持ちが生まれてくる。
今やっている活動も、
そうした気持ちの
延長線上に有るように思う。
しかし、言うに安しであって、
そのことを少女に言っても、
心の痛みは、なかなか
当人から離れる物ではないし
それが悲しい。
それでも、
僕の言葉を聞いて、
本当におだやかに微笑んだ
少女の笑顔が忘れられない。
彼女は今、
実家に近いところから学校に通っている。
両親に近い方が良いと思って
そちらに移したのだが、
相変わらず頭痛に襲われて、
ときどき意識が遠くなるようだ。
今まですでに5人
そうした子に出会っている。
人には話せない
辛い経験をしてきた子たちだけに、
ときどき悪夢に苛まれるのだろう。
sp5
6月21日(日)
28)光は渦を巻き
果樹園を染めていく
朝起きてポーチに立つ。
夜明けの光が、
正面のアポ山と
その前山の
山並みの向こうから、
黄金の水がこぼれ出したように、
正面に高くたつ
椰子の木立におちる。
こぼれだした光は、
渦を巻きながら
果樹園を染めていく。
ランブータン、ランソネス、
マンゴー、ドリアンといった
果物の木が
輝く虹色の光を浴びていく。
早朝のミンダナオ子ども図書館。
家の裏では
子どもたちが井戸端で、
朝の水浴びや洗濯をしている。
キッチンでは、
4時半の暗い頃から、
朝食の準備がはじまっている。
子どもたちが相談して
グループ分けして、
毎朝交代で
自分たちの手で料理を作る・・・
気持ちの良い朝の一時。
そんな様子を眺めながら
コーヒーをいれる。
目の前にコーヒーの木が、
植わっているのが見えるのだから、
地場そのものの味わいだ。
ポーチに座っている
僕を見つけた子どもたちが、
下から叫ぶ。
「パパとも-!おはよーーぅ!」
日々の活動で、
悲惨な戦闘をピキットで体験しても。
難民の困窮している様子を見ても。
この自然の美しさと
子どもたちの
無邪気な笑顔だけは変わらない。
「こんな美しい世界で、
なぜ戦車が走ったり、
迫撃砲やM16ライフルが炸裂したり、
ヘリコプターから
砲撃を加えたりするのだろうか。」
それは、その部分だけとれば
地獄絵のような光景なのだが、
その地獄絵は
人間が人工的に作り上げている
カリカチュアに過ぎないことは、
その地獄絵図の周囲に、
まったくかわらない
美しい自然の風景が
広がっている事で良くわかる。
小鳥たちもさえずっている。
あるイスラムの村長さんが
言った言葉が忘れられない。
「昔はここでは人間達も、
宗教や種族を超えて
平和に暮らしていたんだよ。
先進国がこの地に関心を持つまではね。
ピキットのリグアサン湿原には、
膨大な石油や天然ガスが眠っている。
海外がそれに関心を示しさえしなければ、
今でもここは、
美しいパラダイスなんだ。」
|
katal
語る力がすばらしい! |
29)生きている実感の中から伝える
30)現地へ来て体験して
31)奨学生たちが話し合って決めた
32)16歳は結婚適齢期
33)恋愛もかまわないし
|
sp6
6月22日(月)
29)生きている
実感の中から伝える
昨日と一昨日は、
子どもたちによる
読み語りがあった。
新しく来た子たちも
読み語りが大好きで、
小学校1年生の子でさえも、
初めてだし、まだ字も読めないのに、
堂々と絵本の読み語りをする。
絵を見て
自分でお話をつくりながら、
周囲に爆笑を引き起こして語る・・・
語る力がすばらしい!
初めてミンダナオに来た後、
一時、ニュージーランドに行った。
英語を磨くためだった。
その後、世界の特にアジアの
現状を知りたいと思った。
これは、昔から暖めてきた思いだった。
すでに30年前、
『昔話の死と誕生』(教文館)を書いた頃から、
アジアにこそ
これからの平和な未来を作る
世界観、宇宙観が
まだ生きていると感じていたからだ。
そこで最初は、
ジャーナリストのように、
あちらこちらの貧困地域や紛争地域を
めぐって現状を取材して
執筆しようかと考えたが、
それはそれなりに意味はあるが、
訪問者として旅行記や
ジャーナリスティックな物は書けても、
その地域の人々の心の中に
深く宿る真実は、
なかなか見えてこないと思った。
むしろ、
一カ所に留まって、
現地の人々と
何らかの活動をしながら、
そこに住む人々と深くつながり、
そこから見えてくる物こそが
僕が求めている
ものであるように思ったし、
今もそう感じる。
物を書くことが
本来の目的ならば、
あちらこちらをめぐって
取材して書く方が
多彩で量も多くて良いだろう。
しかし僕の場合は、
書くために生きるのではなくて、
生きている実感の中から、
人々に伝える必要があると
感じた事を書くのが、
自分のやり方だと思った。
確かに
一点に滞在して
深く掘り下げる仕事は、
書く視点から見ると効率は良くない。
けれども、
そこから世界につながる
普遍的な真実を見いだすことは可能だし、
書くことが先に立つのではなく、
生きることが先に立つ方が面白い。
ミンダナオという東南アジアの
北海道と四国を合わせたほどの
大きさの小さな島のさらにその、
ごく一部分の場所にすぎないけれど、
実体験を通して
深く掘り下げた中から、
次第に見えてくる真実を追究したい!
gen5
30)現地へ来て体験して
しかしその後、
ミンダナオ子ども図書館を始めてから
7年がたつが、
ほとんど本を書いていない。
書け書けとは言われるのだが、
可哀想な一人の子どもが
笑顔になる様子を
目の前にしてしまうと、
絵本も本も
絵画も文学も芸術も、
空に吹っ飛んでしまうほど
感動的で美しい!
そのような子どもたちに
囲まれた生活が、
あまりにも感動的で面白いからだろう、
「子ども図書館」を作りながら、
一時期は絵本や本に対する
興味すら吹き飛んでしまった。
しかし、子どもたちが
お互いに絵本を楽しみ、
読み語りを楽しむ姿を見ていると、
絵本や本の存在価値も感じられて、
これはこれで良いなと思いはじめた。
そして、
いたるところに生きている、
子どもたちの本当の笑顔や
心の豊かさや生きる力を見るにしたがって、
逆に日本の子どもたちに、
この世界を
伝えてあげなければいけない
と思うようになった。
経済的には豊かだけれど、
自殺や引きこもりが増えている、
心の貧しい日本の子ども・・・?
そこで、久しぶりに
絵本『サンパギータのくびかざり』(今人舎)
『サダムとせかいいち大きなワニ』
(今人舎)をだし、
青少年のために
『手をつなごうよ』
(彩流社)を出しました。
本の良さは、
いつでもそばにいてくれること!
携帯は、
スイッチを消すと
幽霊のように飛んでいく!
しかし、絵本や本だけだと
特定の
本好きな家庭の子にしか
行き渡らないし、
今の時代の落ちこんでいる子どもや
若者たちの事を考えると、
サイトでも、買わずにただで読んだり
楽しんだり出来るように工夫して、
絵本や本や携帯で見て何かを感じたら、
そこから
本当の世界に飛び出したくなるような、
踏み石になるような物語を
絵本や本やサイトや映像で
作ろうと思うようになった。
ミンダナオ子ども図書館のサイトでも、
昔話や物語、
創作や映像をただで
読んだり見たり出来ますよ。
でも
それをきっかけに、
ぜひ現地へ来て体験して、
子どもたちに出会ってみてください!
sp11
31)奨学生たちが
話し合って決めた
今月の最終の日曜日は、
高校大学の
スカラー達が全員集まり
総会ジェネラルミィーティングを行った。
前回は、
今年度の
役員選挙が行われたので、
新役員の議事により進められた。
次回は
マノボデー先住民の文化祭なので、
今月は一般的な話し合いがなされた。
学校での諸問題、下宿での問題、
また多少改正したポリシーが承認された。
学校に関する問題は、
今年入学した奨学生に、
制服がまだ支給されていない事などが
議題にあがった。
下宿は、最低350ペソを
MCLで支給しているが、
毎年下宿代が高騰しており、
平均で400から500ペソになっていて、
差額は個人負担なので
厳しい状況だと報告された。
今後は、家を一軒借り切って、
集団生活をすることで、
奨学生が下宿代を出さなくても
やっていける体制を作っていく。
ミンダナオ子ども図書館では、
奨学生たちが話し合って決めた
独自のポリシーがあり、
保護者にもサインをしてもらっている。
自宅から通う子達は、
恋愛も含めて保護者の責任で、
MCLに住んでいる子たちの場合は、
帰宅時間など独自のルールがある。
恋愛に関しては、
スタッフが責任を
持たなくてはならないので、
高校生は本部に住みこむ場合は、
家族として互いに愛し合うことが原則。
もし、恋愛が発覚しても、
スカラシップは、
続けることが出来るけれど、
親戚など保護者の元に帰ること。
そうすれば、
責任は、
保護者に移るから、
保護者が良ければ恋愛はOK。
sp19
32)16歳は結婚適齢期
かつて、フィリピンの教育制度は日本と違い
2015年以前までは、
小学校を卒業すれば
四年制のハイスクールに入り、
16歳で卒業して大学へ行き、
20歳で大学を卒業できた。
村では、16歳が
結婚適齢期であることを思うと、
以前の制度では、
12歳で小学校を卒業後、
出来ればハイスクールに4年間行き、
16歳で卒業して、
その後、結婚して、
家の仕事をしたり、農業を手伝いながら、
我が子を育てていくのが夢だった。
出来れば高校を卒業後、
4年間大学に行っ
て20歳で卒業すれば、
街のモールや学校教師、
役所や会社など
高給とりの仕事に就ける。
けれども、貧しい家庭では、
小学校を卒業するだけでも
夢のまた夢・・・!
ところが2015年以降、
ハイスクールが、小学校を卒業後、
四年間ジュニアハイスクール
(日本で言えば中学校)に行き、
その後さらに新しく出来た
シニアハイスクール
(日本で言えば高校)に二年間通い。
その後に、大学を受験することになった。
ということは、
日本と同じ18歳で大学に入学し、
順調に四年間で大学を卒業できれば、
22歳で卒業できる制度となった。
ミンダナオ子ども図書館の
スカラシップの子たちの中には、
家庭崩壊が極貧ゆえに
小学校もまともに行けなかったが故に、
すでに年齢がクラスメートよりも
多少上の子たちもいるし!
そうした子たちにとっては、
大学を卒業できるのが
22歳以上になった事がショックで、
この時期ずいぶん
ジュニアハイスクール(中学)を卒業したまま
シニアハイスクール(高校)には行かず
学業をストップしたり、
がんばって二年間、
シニアハイスクールを卒業したけれども、
成績も良く才能もあるのに
大学は行かず、
学業を諦める奨学生たちが沢山でた。
でも、大学を卒業できるなど
夢のまた夢で、
大学を出れば良い仕事について、
家族をたすけることが出来る!
だから、たとえ16歳を超えて
結婚適齢期を逃がして
中高年に入るような感じがしても。
わたしが犠牲にって家族を支えて、
妹や弟を学校に行かせてあげたい!
それでも、
ミンダナオの若者たちにとって、
最大の夢と喜びのひとつは、
若くして家庭をもって
子育てをすること!
子どもを持つことこそが、
最大の夢と希望!
少なくとも5人、
平均して7人、
多い家庭は10人以上は子どもが欲しい。
ミンダナオ子ども図書館に来て、
そんな夢を子どもたちから聞くと、
日本の若者たちも、
驚きを隠せないけれど、
だんだん、何が本当の幸せかを
考え始めるようになる。
sp20
33)恋愛もかまわないし
集会で若者たちにたびたび話すことは、
「学校を続けるか、結婚するかは、
自分の判断で決めたら良いよ!
何よりもだいじなのは、
幸せになることだからね!」
「ハイスクールで彼氏が出来ても、
本部に住む場合は、
スタッフの責任があるから
とりあえず恋愛はだめだけれど、
親や知人や
親戚の元に住むのだったら、
保護者が認めてくれたら、
恋愛もかまわないし、
スカラシップは続けられるよ。」
「でもね、妊娠したりさせたりしたら、
スカラシップはストップだからね。
なぜって何より大事なのは子どもだから、
まずはしっかり家庭をきづいて、
赤ちゃんの面倒を見ることに集中してね。」
(僻村では、
コンドームなら売っていないし、
売っていても貧しい子たちの場合は、
避妊はほとんど出来ないから、
妊娠=結婚を意味する。)
「もちろん卒業前に妊娠して結婚して
学業をストップしても、
後ろめたく思わないでいいからね。
大事なのは愛!
結婚式には、呼んでね!
そして、赤ちゃんが生まれたら、
だっこして訪れてね。」
「その後も、ときどき来たらいいよ。
君たちの赤ちゃんや子どもたちが、
幸せに育っていくのも見たいから。
人生、何が起こるかわからない。
辛いことや相談したいこと、
何か困ったことや悩みがあったら、
いつでも駆け込んでおいで。」
すると若者たちは、
答えて言う。
「うん、わかった!そうする!」
「ミンダナオ子ども図書館は、
わたしたちの我が家、ホームだから!」
そして、大学生は
恋愛も携帯も許されるけれど、
高校生に対する影響を考えて、
出来れば、本部の外で
下宿して生活すること、
恋愛も外でつきあうことを原則とした。
高校生の場合は、
親戚や保護者のもとなら
恋愛もOKだけれど、
出来れば卒業まで頑張ること!
下宿している子たちも、
土曜日や日曜日や休日は、
本部に来て畑仕事などを手伝ったり、
一緒にお昼や夕ご飯をお腹いっぱい食べたり、
夏休みや翌日学校が無い場合は、
泊まってもいいという事が、話し合われた。
総会の最後には、
支援者から送られてきた
手紙、カード、贈り物などが渡されて、
彼らも支援者宛に手紙を書く。
今回から、
お礼の葉書も
支援者への機関誌に同封する形で
一括して送ることになりました。
|
bokbok
遊んだ体験と
お話しが僕を救った
|
34)本に囲まれて育ってきた
35)神が創った世界で遊ぶ
36)子どもの頃はいたずらっ子で
37)自然体験の視点を交えて
38)遊んだ体験が僕を救った
39)自然のなかでのびのびと遊んだ
40)公立の中学校に
41)その後、高校になって
42)後にドイツ文学科に入り
|
ad4
34)本に囲まれて育ってきた
僕は子どもの頃から、
本に囲まれて育ってきた。
父親をはじめ、
母方の親戚が福音館書店に属し、
父は、今もそこを拠点に版編集の活動している。
妹も弟も本を書いている。
その後、
2022年に他界しました。
物事の判断力を養うためには、
お話の体験は、大切で、
それゆえに絵本や本や
テレビや携帯が無い時代から、
昔話が、語り継がれてきたと思うけれど、
絵本や昔話が、
愛をもって語られることによって、
それが、子どもの心に
どのような喜びをもたらすか、
そして、大人になっても生き続け、
どのように生きる力になるか等
「わたしの絵本体験」(教文館)
「絵本は愛の体験です」(洋泉社)
「昔話とこころの自立」(教文館)
「昔話の死と誕生」’教文館)
等などで書き綴ってきましたし、
小学校、中学、高校、
大学から大人になるまで
絵本、児童文学から小説から哲学まで
数千の本を読みあさって来ましたが、
そのあげく
本の世界に閉じこもり、
死にそうになった経験も持つことから、
(死の瀬戸際から、どのように救われたかは
この後に書かれていますので、
参照してくださいね!)
ぼくが、最近思う事の一つは、
もしも、本の世界だけに
閉じこもって育ってきていたら、
今の携帯だけで育つ子のように、
引きこもりになっていたのではないか?
僕が子どもの頃は、
読書は、今の携帯と同様に見る大人もいて、
電車の中で本ばっかり読んでいると
周囲の大人から言われたものだ。
「そんなに本の世界に
閉じこもってばかりいないで、
もっと友だちどうしで外で遊びなさい!
本ばっかり読んでいると駄目になるよ!」
kamiga
35)神が創った世界で遊ぶ
本に囲まれて育ちながら言うのもおかしいが、
「本」は、都市やテレビや携帯と同様に
人間が作った文化の一部で、
それはそれなりに役に立ち
意味も持っているのだけれど、
「人間が作った文化」以上に
感動的で面白いのは、
神によって創造された「世界」
ミンダナオの手つかずのジャングルや
海や山などの自然界や
とりわけその中で
生き生きと遊んでいる
子どもたちを見ていると、
これこそが、
神が創った世界だと感じられる。
神=愛が創造した
自然や人間こそが、
真に深く感動的なのであって、
その魅力に取り憑かれると、
本や音楽や商品や都市文化などといった
人間の作ったものは、
酒の絞りかすのように見えてくる。
小学校の高学年ころから、
奈良や京都の
古代遺跡や神社仏閣など、
文化財を徘徊するのが好きになり、
一人で比叡山なども巡ったけれど。
古跡が好きで
小学校を卒業したら
京都に住もうと決心して、
京都の中学を受験して落第。
近くの公立の中学にいったけれど、
公立の良さは、
近所に友だちがたくさんいて、
八百屋や布団屋の息子から、
比較的金持ちのお嬢さんまで
混ざっていて楽しかった!
小学校の頃は球技が得意で
ドッジボールやソフトボールや
サッカーも大好きで、
いつも負けそうな組に飛び込んだ!
その方が、集中的に狙われて
球がたくさん飛んでくるから面白い!
縄跳びや
ケンケンパーや木登りや
学校の屋根にまで登って
先生に怒られ注意されたけれど、
学校が引けてからが本番で、
当時の井の頭公園は湿地帯で、
カニやカエルや蛇もいて、
友だちと冒険しまくる毎日だった!
夕暮れ時
暗くなって家に帰り
母にしょっちゅう怒られた。
「こんなに遅くまで
どこで遊んでいたの!!!」
zurai
36)子どもの頃はいたずらっ子で
小さいころから、
小柄でもいたずらっ子で?
長男の僕だけが、
しょっちゅう叱られ、
「とうとうのひゃくひゃくですよ!」
と怒鳴られて
布団たたきで、お尻を10回叩かれては、
押し入れに入れられて
鍵をかけられ閉じ込められた。
ぼくにとっては、
自由でいたずらっ子で過ごせた
小学校があって、
そこで生きる喜びを実体験できたからこそ、
今の自分があるような気がする。
しかし、日本が急速に
近代化するにしたがって、
住宅地が広がっていき、
森や野原や畑は無くなっていき、
子どもたちの遊び場も消えてゆき。
自然の中の野原で凧あげをしたり、
ちまたの路上でも
石けりや缶けりが縄跳びをして
遊ぶ姿も消えていき、
いたずらっ子も少なくなり?
中学になると
家庭や図書館での
読書は勧められたものの、
学校が終わっても、
塾やクラブ活動が要求されて
ぼくの場合は、
家庭教師は良かったけれど、
塾はまったく馴染めず、
クラブ活動には興味が持てず、
学校が終わると
一人家に帰って本を読み漁り、
唯一の外での体験といえば、
庭に花を植えたり野菜を育てたりして、
母親からは、
「まるで、隠居老人のようだねえ」
と言われたけれど、
祖父が、山梨で晩年に
農業をやっていたこともあり、
自然界に興味を持ち
山々を歩き始めたのもこのころだ。
shizen
37)自然体験の視点を交えて
庭に野菜を植えたり
花を育てたりする体験は、
ミンダナオの子たちにとっては、
生活と結びついた日常の体験で、
小中学校の子どもたちは、
学校が終わると
村の広場に集まって
「後ろの正面だーーーれ」や
鬼ごっこや
かくれんぼをして遊び、
その後、
ジャングルに入って、
山芋堀を手伝ったり
洗濯かごを
頭に載せて
川に洗濯にいったり、
最後は、
みんなで泳いで
水浴びをして、
帰るときも、
薪にする枯れ枝を
拾い集めて
方に背負って帰ってきたり・・・
そうした生活と結びついた
自然体験が、
子どもの心と体の成長に
大きな力を注ぎ込み、
さらに、いっしょに遊んだり
洗濯したり
芋を掘ったり
おかずにするための、
カエルを捕まえるといった、
自然体験のなかで
お互いに助け合ったり
分かち合う、
愛と友情の体験こそが、
青年期から大人になり、
やがて親になり
高齢者になっていく過程でも
生きる力になるのだと思えてならない。
そうした意味では、
少なくとも僕の場合は、
都会に生まれ育ったけれど、
子ども時代に
庭で野菜や花を植えたり、
母方の祖父が、
晩年、山梨の山すそで、
ブドウ栽培から有機農法まで、
やっていた事からも影響を受けて、
有機栽培からコンポストまで、
農業の視点を交えて
人類の未来を考えるための
コスモロジーと呼ばれる
世界観や宇宙観を考える基盤が
養われたと思うときがある。
友情と愛を育てる遊びと同様に
花や野菜を育てたり、
山野を巡り歩いたりする体験は、
青少年の頃には
絶対にした方が良いと今も思う。
ミンダナオ子ども図書館の子どもたちが
貧しくとも困難や悲劇を乗り越えて
明るく生きる力に満ちているのも
子どもたち同士の遊びと自然体験が、
あったからだとつくづく感じられる。
こうした体験は、
大人になる前の子ども時代に
しておいたほうが良い!
asot
38)遊んだ体験が僕を救った?
都市で目にする
本や携帯や音楽や美術などなど、
文化財を巡るものも好きだったし、
それはそれなりに良いのだが、
そこから目を上げて、
ミンダナオの自然やそのなかで
生き生きと遊んだり生活している
子どもたちの魅力にかかっては、
お化けのように飛んでいてしまう?
人間が中間にはいって
作ったものと、
神が自らの愛で創造したものの違いが
そこにはある?
むろん、子どもよりも
酒を飲む方が好きな大人もたくさんいるが、
ミンダナオには本屋はないが、
自然とそこで遊ぶ子どもたちの姿があって、
それらが何よりも心を癒し
救ってくれているような気がしてならない!
思春期の頃には引きこもって、
本を読む時期もあったが、
僕の場合は、
小学校の頃に
学校内でも学校帰りも、
外で思う存分友人たちと
自然の中で徒党を組んで
遊んだ体験が僕を救った?
学校がひけてからが本番だった。
校門を飛び出し、
当時武蔵野で湿地だった
井の頭公園で、
ザリガニやドジョウをとり
葦の原を探検した。
そんな好奇心と冒険好きの性格が、
後に北海道でアイヌの人々と出会い
カヌーで川を下り、
厳冬の山を彷徨したり、
道のない日高の沢筋を
ザイルを持って登ることに発展した?
その体験こそが今、
ミンダナオで役に立っている。
sp9
39)自然のなかで
のびのびと遊んだ
僕が子どもの頃は、
まだ東京の杉並は、
トトロの世界だったから、
自然のなかでのびのびと毎日遊んだ。
小学校が良かった。
受験制度に蹂躙されるまえの明星学園。
担任の無着成恭の授業は楽しかったし、
数学の松井幹夫、理科の遠藤豊先生たちの
授業も素晴らしかった。
学校では、知識の詰め込みや
成績で子どもたちを評価するのではなく、
自分たちで考えて
意見を発表して、
みんなで結論を探求していく!
たとえば、数学の松井先生は、
3×0は、ゼロになるけれど、
三つあったリンゴにゼロをかけると
なぜ、無くなるのか?
ゼロとは、何か?
無著先生の国語の授業は、
特に面白かった!
文学を読みながら、
子どもたちに疑問をなげかけて
みんなで討論しながら
世界観宇宙観を探求していく・・・
正解を出すことよりも
考える事、そのものを重視したから、
質問を投げかけると
ほどんどの子たちが手を挙げて、
自分の考えを述べていく!
また、休み時間も
遊ぶことを重視して、
馬飛びや缶けりや石けり、
後ろの正面だーーーれ
などなど、
伝統的な遊ぶをたくさんした。
まるで、ミンダナオの
山の子どもたちとそっくりな世界!
たぶん、日本でもそういう遊びが
地方や山では、生きていたから
そこに人間として成長していくための
大きな基盤があると感じ、
都会生活のなかから
そうした伝統が消えていくのを
案じていたのがうかがえる。
今の日本の青少年たちが
生きづらさを感じるのも
そうした
伝統的な遊びで培われる
実体験が欠けているからだと思う。
しかし、こうした
先生方に学べる機会があって、
何が良かったかと言えば・・・
勝ち負けを競争させたり
知識を詰め込むことよりも、
生きる意味を自分で考え、
疑問を持ち、
自分で答えを見いだそうとすることを
学んだことだ。
これこそアジアの文化の特質?
私立の明星学園には、
小学校だけ通って、
京都の私立中学を受験した。
理由は、父が滋賀の出身で
関西の神社お寺や歴史に詳しく、
小さいころから父に誘われて
奈良や京都の神社仏閣を
巡り歩くのが大好きだったので、
中学生になったら、
京都に住みたいと思ったからだ!
しかし、
受験勉強もしていたかったので、
落第!
でも、その後も何度も
京都や奈良にも通って
読書好きと並行して得た、
文化に対する好奇心と
冒険好きの性格が、
後に東北文化に興味を持って、
ねぶた祭や
ネプタ祭りで踊ったり、
子どもの頃は、
稲荷神社で遊びまわていたので、
神社も好きで、
月山をはじめとする
出羽三山を放浪したりした。
そういう意味では、
日本の祭りや文化は大好きで、
盆踊りは、
近くのお寺に必ず行って、
踊ったし、
全国の祭りや祭儀も
巡ったりした!
今も僕は、
日本文化が大好きです!
本来はそこには、
先祖の霊たちも
大人も子どもも集まて来て、
みんなで楽しんだはずなのだが、
最近は、
祭りの本質が見失われて
それらがほとんど
パレードになって、
道脇で見るだけで終わるのが
寂しくてならない。
kouri7
40)公立の中学校に
京都の私立高校は
落第して、
中学校は、
公立の高井戸中学校に行った。
公立の小中学校は、
受験も無く、
近所に住む同級生が多く、
学校が終わっても、
同級生にも、
八百屋、ふとん屋、ソバ屋、
質素な家や公共アパート
に住んでいる子たちの家に
遊びに行った。
周囲にも林が残っていたし、
玉川上水や神田川で
ザリガニやカエルを捕ったり
イカダを浮かべて
遊んだりした。
先生も、
理科や美術の先生も
のびのびとして
とても良かった。
ただ、このころから
受験競争や塾通い
成績を含めて体育も
ルールに沿った
勝った負けたの勝負になりだした。
小学校の頃は、
ソフトーボールやドッジボールなど
ボール遊びが大好きで、
負け組の方に入った。
その方が球がたくさん飛んでくるので
楽しかったから!
そんなわけで、
野球クラブに入ったけれど、
笛の音にしたがって、
ワッショワッショとグランドを走り、
上からの
指示とルールに従ってのみ
行動できるやりかたが、
だんだんつまらなくなり
辞めてしまった。
家に帰るとむしろ自分で
庭に野菜や花を育てたり
山登りを始めたのも
このころからだ。
宇宙に関心を持ち始めたのも
中学生のころからで、
天体を望遠鏡で、
星をながめ始めて、
「宇宙は、どんな力で
創造されてきたのだろう?
これから未来は、
どうなって行くのだろう?」
「光とは、何だろう?
物質とは、何だろう?
人間を含む生物は、
何を目的に創られた?」
などなど考えながら
宇宙論に関心を持ち、
アインシュタインの
「物理学はいかに作られたか」(岩波新書)
等も読みはじめた。
kouri8
41)その後、高校になって
その後、高校は、
私立の桐朋学園に通ったけれど、
すでに中学時代に山登りが好きで
一人で登り始めていたので、
登山部に入ったけれど、
部活としての登山は、
とにかく一列に並んで
頂上を目指して登山道を
ワッショワッショと登っていくのみで、
道脇に咲いている花も見れず、
感動的な風景を前にして
立ち止まって
景観を見ることもできず、
何のために山登りをするのか?
頂上に立つことだけが目的なのか?
美しい大自然に感動する機会も
与えれもらえないのか?
とショックを感じ辞めてしまった。
登山自体は、
その後も好きで
高校や大学になってからも、
八ヶ岳や南北アルプス、
奥秩父などをさ迷い歩いたけれど、
その後、
北海道に住んだ時期にも、
一人山頂で
テントもなしに眠ったり。
氷雪の中をカヌーで川を下ったり、
厳冬の山を彷徨して
雪洞を掘って眠ったり、
道のない日高の沢筋を
ザイルを持って登ったりもした!
これが今、
ミンダナオで役に立っている?
ミンダナオ子ども図書館の裏には、
3000m弱のアポ山がそびえていて
ジャングルのなかの踏み跡道を
MCLの若者たちと
登っていくのは楽しいよ!
kouri3
42)後にドイツ文学科に入り
後に、上智大学で
ドイツ文学科に入り、
ゲーテ研究家の
木村直司教授の元で
ゲーテの
自然科学にも関心を持ち、
錬金術的な宇宙像をも
探求するが、
それを縄文の基層である
アイヌと沖縄にも見いだして、
さらに偶然、その後、北海道で
アイヌのイトばあちゃんに出会い、
「火の神の懐にて」(洋泉社)を執筆したり、
「火の神の懐にて」(洋泉社) |
|
紀伊国屋書店のサイトから引用
内容説明
北海道を終いの住処ときめた著者が、
ひとりのアイヌの古老とじっくり膝をまじえ、話を聞いた。
その古老の語ることばや生き方の
なんと黄金のようにきらめいていることか。
―死と葬儀と引導渡し、
臨死体験と死後霊、鮭の霊送り、熊送り、
一匹の蠅も神になるなど、
神々と人間の交歓を描いて、
アイヌの精神文化と豊かな世界に私どもを誘ってくれる。
目次
誕生の丘、神々に囲まれて
移住、大地は個人の所有物ではない
家は聖堂であり主人は祭司
最初の記憶、父さんの死
彼岸への思い、墓標は死者を送る杖
天界の方位と世界像
死者の国は、どこにあるのか
死と葬儀と引導渡し
死後の霊の状態
先祖供養、死者の国における霊の成熟〔ほか〕
|
沖縄の神の島、
池間島で
前泊徳生さまにお目にかかり、
宮古島のシャマニズムの宇宙像
「沖縄の宇宙像」(洋泉社)を執筆しました。
|
syunkan
死か発狂の瞬間に |
43)ちまたこそがぬくもりの環境
44)剣を持つものは剣で滅びる
45)現代人の死生観の問題
46)死か発狂の瞬間に
47)落ちこぼれ人生にも触れておこう
48)初めての海外旅行
|
sp14
43)ちまたこそがぬくもりの環境
小学校の高学年から中学は
友人と自然と共に
ちまたで過ごす事も出来た、
最も楽しい時だったが、
リゾート開発が盛んになり、
ありのままの自然と共に
素朴で伝統的な
庶民の生活が消えていくのに、
強い不安と寂しさを覚えた。
下の絵は、
僕の絵本の挿絵を描いてくださった
ボン・ペレスさんの絵です。
駄菓子屋や屋台、銭湯や縁台、
公共と個人との中間に位置する
ちまたの空間こそが、
人々の心を通わせる
ぬくもりのある生活環境であったはずだが、
個人の資産が尊重され、
住宅は
見かけがきれいになっても
高い壁で囲まれてしまった。
昔は生け垣が主流で、
生け垣の下をかいくぐって
学校に通ったり、
他の家の庭にはいることも出来た。
すると、
隣のおばさんが声をかけてくれた。
「柿の実が熟れたよ、
採りに(盗りに?)おいでー。」
「お風呂が沸いたよ入りにおいでー!」
外部は道も舗装されて、
電灯も裸電球ではなくなり
瀟洒な外灯になったのだが、
立ち話やちょっとした食事が出来たりする、
縁台、屋台、駄菓子屋といったものがなくなり
街頭紙芝居もなくなっていった。
どこでも遊んでいた子どもたちは
公園に隔離?され、
やがて学童センターに
閉じこめられることになる?
老人は、老人ホームに。
ちまたのコミュニケーションは、
コミュニティーセンターの
建物の中に・・・?
gen2
44)剣を持つものは剣で滅びる
現代文化の発展に
疑問を持ち始めたのもこのころだ。
戦後経済を背負って、
生き生きと働いていた人々の姿は、
牛詰めの地下鉄のなかで、
深海魚のようなうつろな目をした
サラリーマンに代わっていった。
「俺もあんな人生を送るのか・・・」
と思うとぞっとしたが、
今の若者たちも
そんな想いで社会を見ているようだ!
一方で、小学校の頃から聞き始めた
ビートルズやベンチャーズ、
といったグループサウンズ、
後には、
岡林信康や高石ともやといった、
テレビやステージよりもむしろ
ちまたで歌うフォークソングに
かすかな希望を見いだすのだが、
新宿西口広場でフォークソングを
唄う事も禁止され、
学生運動の阻止と共に消えていった。
ムスタキ、ジョーンバエズ、フレディー アギラ・・・
感受性豊かな高校時代は、
一橋大学の学生運動とつながって?
友人たちが桐朋高校の
職員室を封鎖したりして、
学生運動のさなかだったが、
唄やフォークソングが、
ヘルメットやゲバ棒に代わるにいたって、
僕自身は、
それに加担する気は
まったく起きなかった。
表現の自由は、
守らなければならないけれど、
「剣を持つものは剣で滅びる」
というイエスの言葉が、
心から離れることがなかった。
今でも、ミンダナオで紛争が起き、
避難民、特に子どもたちを救うために
時には、爆弾の落ちる中を
駆けまわったりするけれど、
MCLは、
決して自衛のための
武器も持たず、
警護の兵士も
こちらからは決して要請せず、
危険地域から来たスタッフや
奨学生たち、その親族などから
状況を聞いて、
最大限に安全を確保しながら、
入っていく。
ミンダナオの戦闘地域から
学んだことの一つは、
戦争を作るために、
意図的にゲリラを勧誘して、
敵方に武器を渡し、
それをきっかけに
ドローンでの空爆も含む
大きな戦争を起こすテクニック!
武器とお金を使って
イザコザを起こさせ
それを拡大させて
紛争を起こす、
戦争の作り方は、
本当に良く研究されている。
イスラムの村長が言った言葉、
「世界がここに
関心を持ちさえしなければ、
ここは、平和だったのになあ・・・」
そんなこともあり、
ミンダナオ子ども図書館のスカラシップでは、
軍に入るための学科
クリミノロジーは、
選択できないことになっている。
ただ個人的な思いを加えると、
他国に攻め込むような
軍隊はだめだけれど、
自国の外には派遣せず、
国民を守り
助けるような自衛隊は、
必要かなと思っています。
ミンダナオの戦争を見ていると
多くの戦争が、
現地での宗教や
民族の対立というよりは、
石油やニッケルやレアメタルといった
鉱物資源の利権や
林業、農業、海産物など
作物や海産物を得るために
意図的に
海外から仕組まれている
仕掛けのように見えてなりません。
可哀そうなのは、
貧しい人々と子どもたち。
gen3
45)現代人の死生観の問題
現地で子どもを助けてると、
なぜ、このような貧困格差や
貧しい子たちを
兵士やゲリラに勧誘して、
時には、海外にまで送っていく・・・
イスラムの
貧困地域から採用した
奨学生の何人かが
言った言葉が忘れられない。
「ぼくたちの村の若者たちは、
貧困で学校にもいけず、
ゲリラになれば、
給与を渡すと誘われて、
家族を助けるために
ゲリラに応募して
中東に送られていった友人も
何人もいるけれど、
ぼくは、それだけは嫌だった!
でも、ミンダナオ子ども図書館の
奨学生になれて良かった!
大学まで出れば、
それで家族を
養うことが出来るから!」
教育の無い貧しい人間など、
ちょっと金をまいて戦争に駆り出して、
先進国の世界制覇?や
利権獲得のために
犠牲にしていけばいいんだ・・・
といった上から目線は、
いったい、
どこからどうやって
生まれてきたのだろう
と思い始めた。
若いころから、
現代人の心の問題には関心を抱き、
現代社会に置ける疎外感など、
ニーチェ、キルケゴール、サルトル、
ハイデガー、ボーボワール、
小説ではサガン、ウイルソンなど、
片っ端から読みふけり、
他方でモーツアルトや
ベートーベンや
シューベルトや
マーラーなども聞きながら、
アルフレート アインシュタインの
モーツアルト論なども読みながら
クラッシックの作曲家も
どのように死を
受け止めていたかを考察し、
自ら死をテーマにした問題への
歩みを進めていった。
しかし、そのあげく
何と突然、
自分自身も死にそうになった!
sp15
46)死か発狂の瞬間に
実存主義哲学は、
「神は死んだ」世界であるから、
宗教は拒否して
虚無との戦いにのめり込んでいった。
「虚無を超える強い意志」を
人間は持たなければならない、
という強い思いに答えをだすために、
鬼門から虚無の世界に
積極的に踏み込んでいった。
その結論は・・・
「虚無を超える強い意志など人間は、持てない!」
で、人間の意志など、
死の恐れを前にすれば、
絹糸のごとく張りつめて、
その結果、容易にプツンと切れる!
それにもかかわらず
奇跡的に生きながらえたのは、
予期せぬ
不思議な体験のおかげであった!
寝床に横たわったまま
死の恐怖に捕われて
自殺か発狂のどちらかしかない
瀬戸際の瞬間に、
見えないけれども
存在しているのが解って見える
母なる存在が
枕元に立ちあらわれて、
「あなたは、
もう充分やったのだから、
今は休みなさい」と、言われて、
その瞬間、巨大な恐怖も重圧も
体からスーーーっと抜けて、
救われたのだった。
黒い服を着たその女性は、
目の前に立っては
居ないのだけれど、
なぜかぼくは、
その膝の上に
抱かれているのが感じられて、
自分の苦しみのすべてが
その愛の中に
吸いこまれていき、
「救われた!」ことがわかった。
当時は、
宗教はアヘンであるという言葉を信じて、
宗教など信じていなかったが、
宗教を信じていなくても、
この世を超えた愛が存在することは、
認めざるをえなくなった。
『サンパギータのくびかざり』(今人舎)にも、
その時の体験が書かれていますが、
ミンダナオでは、
イスラムも原住民もクリスチャンも、
こうした出来事は、
当たり前のこととして信じています。
その体験の後から、
この世を超えた愛の存在を
確信するようなった。
愛以外に物事を
真に解決する力は無いと悟った。
多量に本を読み続け、
本の世界に閉じこもって
時を過ごすことに興味が無くなり、
読むに値したのは
聖書のとりわけ福音書。
ただ、自然の中にあるコスモロジーには、
深い関心が生まれてきて、
小説や劇の執筆の背景に
植物論や宇宙像を論じ執筆している
ゲーテは面白いと思った。
上智大学の独文科を選んだのも
ゲーテの研究者、
木村直司教授の元で
ゲーテを研究したいと思ったからだ。
ゲーテはたえず
メメントモーリ「死を想う」のではなく、
ゲデンケツーレーベン、
「生きることを考えよ」と、
語っている。
すると次第に再び
神が創った世界が、
強烈な光を帯びて見え始めた。
特に自然界が美しかった!
木も花も草も、
光のように輝いて見えるのには
驚いたけれど、
人間の心が
自然を破壊し汚さない限りは、
神によって創られたこの世は
本質的に美しいと
今でも思う。
その後、
読んで多少面白いと思ったのは、
ドストエフスキー、
森敦そんなところかな?
sp10
47)落ちこぼれ人生にも
触れておこう
書きづらいけれど、
大学の頃から後の
落ちこぼれ人生にも、
ここで少し触れておこう。
後に
上智大学の独文科にうかり、
(あの頃はまだ、
上智は有名な大学ではなく、
仏教系???とよく言われた)
しかし、居心地の良い大学で
授業には集中せず、
音楽が好きだったので聖歌隊に入り、
休みには友だちと皆で山に行ったり
スキーに行ったりした。
けれど、
相変わらず授業もそこそこで
卒業を迎えるころ父に、
「お前は、将来何をやりたいのか?」
と聞かれて、
「この世の本質が知りたい」と、答えると、
呆れた顔で
「大学を卒業したら、
どこに就職するのかと聞いているのだ!」
と言われ返答に困っていると、
「お前のような人間は、
社会に適応できないから、
とりあえず大学に残って
修士課程に行きなさい!」
と言われて、受けたけれど落第。
ただし大学の恩師で、
ゲーテ研究者の木村直司教授が、
「卒業論文は良いから、
一年浪人してドイツ語を学び直して
来年もう一度受けなさい」
と言われて浪人。
教授が、
夏休みにも別荘で
ドイツ語の
集中講義もしてくださった。
大学を卒業して、
浪人生活が始まった春、
父から
「家にばっかりいないで、
一度、海外のドイツに旅してごらん」と言われ、
自分で計画をたてて
生まれて初めて飛行機に乗り、
最初に海外で降り立ったのが
チェコのプラハだった。
当時のチェコは共産圏で、
西側諸国の人はほとんどいず、
1968年のプラハの春が
終わったばかり。
最初にプラハを訪れた理由は、
ゲーテのいた東ドイツの
ワイマールに行きたかったから。
当時は、日本は
東ドイツとの国交は無く、
日本ではビザが取れなかったので、
ある方の知り合いが
プラハに住んでいるとうかがって、
東ドイツと国境線がつながっていて、
プラハならビザが取れると聞いたから。
行ってみるとプラハは、
中世のヨーロッパが
そのまま感じられる
美しい街だった!
そこで
東ドイツ大使館に行き、
ビザをとって東ドイツに入り、
かつてゲーテのいた
ワイマールに向かった。
haji6
48)初めての海外旅行
生まれて初めて飛行機に乗り
海外旅行に向かったのは
東ドイツのワイマールだった。
1975年で、
当時、共産圏に入る日本人は
ほとんどいなく珍しかった。
その後、1990年には、
東西ドイツがひとつになって、
今に至っているけれど、
一帯になった後は、
ドイツには行っていない。
ぼくが、初めて
東ドイツに入ったころは、
東ドイツもチェコもスロバキアも
資本主義の国とは
何故か雰囲気が異なっていて、
お店やホテルの看板も無く、
本当に質素で素朴な石畳の街で
夜、食堂で食べようと
レストランに行くと
大勢入り口に並んでいて、
立札が、立てられていて
「忍耐!待てば必ず食べられる!」
と書かれていた。
人も素朴でのんびりしていて
コミュニケーションも悪くなく、
ホッとする何かがあった?
上の写真は、ドイツのワイマール
下の写真は、ミンダナオのキダパワン
市場は、
庶民の生活が感じられる?
現地で友達になった人に誘われて、
ドイツの温泉にも行ったけれど、
服を脱いで
お湯に入るのかと思っていたら、
服を着たまま白いガウンを羽織って
岩から出る蒸気の周りを人々が、
息を吸ったり吐いたりしながら
歩くのが温泉だった。
|
senrei
カトリックの洗礼を受けた |
49)ホイヴェルスさんがそうだね
50)なぜ日本が気に入った?
51)カトリックの洗礼を受けた
52)違っているから面白い
53)フィリピンの宗教は土着的
|
hoy7
49)ホイヴェルスさんがそうだね
落第の翌年、
上智大学の独文科の修士に合格して、
一対一の授業の時に、
恩師の木村直司教授に
「ニーチェのように神を否定した人の中にも、
神の力は現れると思うのですが、
そのようなことを語っている人はいますか?」
と聞くと、
「ホイヴェルスさんがそうだね。」
「どこの哲学者ですか?」
「裏にいるよ!」
上智の裏のイグナチヨ教会にいる
詩人で有名な
ドイツ人神父だという。
面白い神父さんがいるもんだと思い、
早速たずねると、
当時はすでに、80歳を超えた
ホイヴェルス神父さまの前に
座ったとたん、
「洗礼を受けます」
と言っている自分に驚いた!
その後、くり返し通って
『人生の秋に』(春秋社)などの
ご自身で書かれた著書を
読んでさしあげていたけれども、
あるとき自分が死にそうになった時、
黒い姿の女がわたしを膝に抱いて、
「あなたは、十分やったのだから
今は休みなさい」
と、言われて救われた話をすると。
「それは、黒い聖母だね。
最近でも、
ポーランドやアルゼンチンに
現れているよ!」とおっしゃった。
naze4
50)なぜ日本が気に入ったか
ドイツ生まれのホイヴェルス神父さまが、
1923年に来日して、
なぜ日本が気に入ったかというとご本人曰く、
「その当時の日本の子どもたちが、
とっても素朴で純心で生き生きとした
子どもたちだったから・・・」
ぼくが、子どものころから
仏教も神道も好きで、
幼いころは、
家の前にあった神社、
お稲荷さんのけいだいで遊びまわり
なっているザクロの実をとって食べたこと。
父方の祖母は、熱心な仏教徒で
毎日、部屋のタンスの上の飾られている
観音様の前で、
あなかしこーあなかしこー
と拝んでいて、
その横に小さなイエスが描かれた
カードも置いてあったこと・・・
そして、小学校から大学を超えても
京都や奈良は大好きで、
奈良の大仏や
比叡山の円覚寺にも
何度も行って拝んだこと・・・を話すと
ホイヴェルス神父さまは、
笑顔でうなずきながら、
「お地蔵さまのなかにも
神様はいますよ!」
ホイヴェルス神父さまは、
アジア文化に深い造詣をもって
「細川ガラシア」の劇や
たくさんの詩を書いた詩人。
日本人の信者や信徒の人々にとっては、
外国人ではなく、
お父さんのようだった。
僕もその後、イグナチヨ教会で
子どもたちの土曜学校に
シスター影山さまと参加して
たくさんの子どもたちと
教会学校で遊んでいたけれど、
ホイヴェルス神父さまの
創造の根底にあった、
アジアの子どもたちへの魅力と愛は、
ミンダナオの子どもたちに
出会って感じている、
僕の今の気持ちと通じているな!
sp16
51)カトリックの洗を受けた
その後、カトリックの洗礼を受けた。
ここだけの話、
カトリックは厳しいという
イメージが強かったけれど、
実際的には南米からアジア、アフリカと
世界に大きく広がり、
人種も多様で貧困層も多く、
特にフィリピンにいると
日本のカトリックと違って
厳しいようでゆうずうがきいて、
仏教もイスラム教も
先住民の精霊崇拝も
好きな僕には居心地がいい?
カトリックでは、父と子と聖霊の
三位一体で祈るけれど、
父に集中するとイスラム教?
神の子イエスに集中するとプロテスタント?
聖霊や精霊に集中すると
先住民や仏教や神道?
(これは、ぼくの勝手な思い込み!)
カトリックだとその三位が一体で、
プロテスタントの教会でも
モスクに行っても
神社やお寺や、
ミンダナオのマノボ族の
酋長の一人として、
原住民の収穫祭の祭儀に加わっても、
愛があればどれもが違和感なく、
身近に感じられて、
どこに行ってもホッとする。
(これは、僕のかってな解釈!)
宗教に関しては、
どれが良いとか悪いではなく、
多少の違いはあったとしても
根底になる神の愛はひとつだから、
木や草花のように
神の愛のうえに
それぞれが居心地のいい
居場所を創れば、
それで良いといつも思う。
chiga8
52)違っているから面白い
僕にとっては、カトリック
特にフィリピンのカトリックは、
アジア的でゆうずうがきいて居心地がいい。
ろうそくから出る煙を
手で体につけて健康を祈ったり
(信仰というより信心みたいで
神道や仏教と同じしぐさ?)。
こんな事を書くと、
日本や欧米の
厳格なキリスト教徒から
批判と反感を受けそうだけれど、
フィリピンで驚いたのは教会で、
「あの神父さん、子どもいるんだよ。
母子とも養ってあげているんだけど、
神父さんも人間だからなあ」と言って、
非難もせずに
子持ちの神父も認めているし、
カーバックと言って、
結婚して家庭を持っていても、
神父の代理を務められて、
MCLの代表理事の建設技師の
ダニー氏もその一人。
MCLのある高原の街キダパワンでぼくは、
最初は神父さんたちと一緒に
司教館に住んでいたけれど、
知り合いの神父さんやシスターが
修道会を離れて結婚すると、
信者達が言った
言葉が忘れられない!
「やったー、愛を貫いた!」
「それはそれで、良いんじゃない?」
「幸せになって、良かったね!」
決して批判しているのではなく、
例え既定の道を踏み外しても、
それはそれで、幸せだったら良いじゃない!
神様は、愛で
見守ってくれているから大丈夫!
多様でファジー曖昧で
壁を作って排除しない!
そのへんにアジアの良さがある?
今でも妻は、
シスターを辞めて結婚した女性と
Facebookでつながっていて、
「子どもがかわいいね!
幸せになれて、良かったね!」
親鸞聖人の
「善人なおもて往生をとぐ、
いわんや悪人おや」が、
カトリックの本質かなと思い始めた。
その後ある本で、
親鸞聖人が比叡山で
修行をしていたころには、
聖書もあったから、
読んだ可能性もあると聞いた。
親鸞の言葉と、
罪人への愛を持って身を捧げ、
地獄に降りて罪人を救った
イエス姿はどこかつながる。
親鸞聖人も、
罪の許し体の復活、
永遠の命を信じていた!
いつも良く思うけれど、
仏教もイスラム教も
先住民の精霊崇拝も
ユダヤ教もキリスト教も、
人間の顔や肌の色のように、
見かけは多少異なっていても
創造主の愛の基盤は、
一緒なのではないだろうか。
人類がみな
同じ顔をしていたら
面白くない、
違っているから世界は楽しく面白い。
sp17
53)ミンダナオの宗教は土着的?
フィリピン(ミンダナオ)の教会は、
日本とはずいぶん違って
土着的でかつ、
自然な感じがしてならない。
教会にもジーンズやTシャツで着て、
司祭にも「神父」ではなく、
「ファーザー、ファーザー」「父さん父さん」
と、呼んで近づき、
修道士は「ブラザー」で兄さん、
修道女は「シスター」で姉さん、
兄弟姉妹の大家族のような
雰囲気で接してくる。
これぞアジアに根ざしたカトリック?
プロテスタントも土着的で、
原住民の酋長が、
伝統的な祭儀もやり、
村の牧師も努めているし、
イスラムの結婚式では、
蛇の顔した
獅子踊りが舞われて、
悪魔祓いの儀式も行う。
しかも、驚いたことに
クリスマスは、なんと9月から
飾りつけがはじまって、
謡ったり踊ったり、
まるでクリスマスのために生きているよう。
そして、
クリスマスが明けると正月で、
七つの丸い果実を祭壇にそなえ、
年越しの夜には、
長寿の祈願をこめて、
蕎麦はないから
年越しの焼きソバか
スパゲッティを食べて
そこらじゅうで花火があがる。
ミンダナオが面白いのは、
イスラム教やキリスト教など、
西洋の信仰を受け入れ、
現代文明の力にさらされながらも、
根っこは素朴で、
原始宗教の宇宙観も失わず、
自然の中に神の力を感じ取り、
誰もがお化けや妖精や
幽霊がいることを認めている!
万物は、
天地創造の
神の愛で創られ、
新たに生まれ続けていくし、
世界中には、
見えない妖精や
天使や霊たちもいて
人間同様に、愛と友情で結ばれながら、
生きていると感じている!
|
wakamono
日本の若者たちにも伝えたい |
54)君は野人だからなあ
55)日本の若者たちにも伝えたい
56)機関誌『ミンダナオの風』と
57)イケメンよりもイクメンに未来を託せそう!
|
sp18
54)君は野人だからなあ
話がそれたけれど、もとにもどすと。
修士を卒業するころに恩師にいわれた。
「君は、このまま博士課程には入れないね。
学業を仕事にするには向いていないよ。
野人だからなあ。」
当時は、
何を言われているのかわからなかったが、
今では「野人」と
言われた理由がよくわかる。
アウトサイダーの落ちこぼれ・・・
「ゆいいつの可能性は、
ドイツの大学にはいって
博士の資格をとることだね。
修士を出ていれば、
無条件に大学生には席をおけるから。」
それを聞いて、
モーツアルト好きで
当時はまだ『中心の喪失』(美術出版)
を執筆した美術史家
ハンス・ゼーデルマイヤーも生きていたので、
ザルツブルグの大学に席を置いた。
けれども、たまにしか授業には出ずに、
実際に自分の目で見て
ヨーロッパ文化の宇宙像を感じ取ろうと、
中古のポンコツ車で
一人で
チェコやスロバキアや東ドイツ、
オランダやベルギーや
フランス、スペイン、イタリアなどに
旅にでた。
東ドイツの国境を超えたあたりで
軍用地にまぎれ込んで、
軍隊につかまって
尋問も受けたりしたけれど、
「途中で写真を撮ったか?」
「はい、撮りました!」
「何を撮ったか?」
「牧場の牛を撮りました!」と答えると、
「はっはっはっ!
バイクが先導するから、
気を付けて出ていきなさい!」
旅は一人が面白い?野人だから?
ミュンヘンでは、
ドイツ人の児童文学作家で
『モモ』を書いた
ミヒャエル・エンデさんとも
気があって、
親友になりよく話した。
その後もいろいろな大学から
教授になるように誘いがあったけれど、
「講師先生」と呼ばれるのが苦手で
講演会でも「先生」ではなく、
「トモさん」と呼んでもらうようにしている。
ミンダナオでは「パパともーーー!」
ad5
55)日本の若者たちにも伝えたい
ミンダナオにいると、
人が人に語りかけるために作った言葉と、
神の愛によって創られた世界が
語りかける言葉とは、
その力に大きな差があるように
感じられることがある。
たとえば、ここに
僕が書いている言葉に感動して
現地に来て、
本当に現地の山の子たちに出会うと、
僕が書いた言葉など
頭のなかから吹き飛んでしまう!
そういう体験をして欲しい。
一人の子どもの
美しい表情を前にすると、
全ての絵本や本、物やお金、
文化文明が消えてしまうほど
心に深くしみ通る!
特に人間の作った文化に影響を
受けていないような世界に生きている
子たちの表情は、
言葉にならないほど美しい。
そのときにぼくが思うのは、
「ああ、今ぼくが体験し
感じていることを、
日本の若者たちにも伝えたい!」
いちばん良いのは、
ここに来て体験してもらうことだろう。
事実、
ミンダナオ子ども図書館に来られた
支援者の方々や
とりわけ日本の若者たちは、
MCLの子どもたちが、
孤児や家庭崩壊を
体験してきた子たちなのに、
笑顔で驚くほど明るいのに驚くと同時に、
そんなミンダナオ子ども図書館の
子どもたちに囲まれて
抱きつかれると、
涙が湧き出て止まらない。
泣き出したある若者が僕に語った。
「ぼくは、小さいときから
生きるためには、
心に壁を作らなければいけない、
いけないと考えて、
今まで何とか生きてきたけれども」
「ここへ来て
明るい子どもたちに
囲まれたとたん、
あっという間に壁が崩れて、
あわてて壁を作ろうとしても
どんどん崩れてしまって、
うれしくってうれしくって、
涙が湧き出てとまらない!」
そのような
若者たちを目の前にして、
これは日本の人々、
とりわけ若者や子どもたちに、
僕の経験してきたことも、
伝えなければと思うようになった。
kikan7
56)機関誌『ミンダナオの風』と
しかし、日本から遙か遠く、
郵便物も届かない
辺境な奥地に住みながら、
日本の若者たちと
交流が持てるとしたら、
印刷所で隔月で作って
お送りしている機関誌と
インターネットしかないので、
機関誌『ミンダナオの風』と
ウエッブサイトを立ちあげました。
また、出版社と連携して
絵本や本も出したけれど、
インターネットで情報を送れるものの
印刷物にこだわる理由は、
ある方曰く
「やはりサイトを読むのと
機関紙『ミンダナオの風』を読むのとは、
心に入る入り方が違うし、
他の人にも見せてあげられるし
全部大事にとってありますよ。」
機関紙は、わずかでも
自由寄付等の支援を
してくださる方々に、
現地から隔月でお送りしています。
希望の方は、現地日本人スタッフの
宮木あずささんにメールか、
ゆうちょに寄付を振り込んでいただければ、
登録してお送りします。
宮木あずさメール
mclmindanao@gmail.com
こうした印刷物や
サイトに込めた思いは、
少しでも現地で感じた体験を
伝えたいという気持ちと、
可能なら
いつかいらしていただいて、
現地で皆さんと喜びと感動とを
分かち合いたいという思いからだ。
若者たち、来たらいいよ!
宿泊費はとらないし、
ダバオ空港まで
マニラでの乗り換えはあるけれど、
安くて往復6~7万円ぐらい。
到着時間を現地スタッフの
宮木あずささんに伝えておけば、
ダバオ空港まで
車で迎えに行くし、
スタッフといっしょに
山の村々をめぐってみたらいいよ。
訪問希望の方は ここをクリック!
ミンダナオの子どもたちとの
出会いをきっかけに、
日本の若者たちの心に、
夢と希望と生きる力がよみがえってこれば、
こんなうれしいことはない。
サイトや本を飛び越えて、
現地で本物の体験をして欲しいと
つくづく思う。
ぼくの作ったサイトや本や
講演会で発する言葉は、
現地で本当に子どもたちに出会うと、
幽霊かお化けのように
消し飛んでいく!
その意味でも、
人が発した言葉が
目的になるのではなく、
きっかけになって行動が起こり、
文明の世界から飛び出して、
言葉の向こう側に生きている
真実の言葉、
子どもの表情や声が聞こえ、
見えてきたらよいのだと思う。
ミンダナオ子ども図書館の
子どもたちは、
小さな子でも昔話が語れる。
祖父母から聞いているから。
人の言葉でも
我が子や孫への愛があれば、
それは神の言葉と同じ。
本物の言葉が生きている。
絵本がなくても、
本物のお話の生きている社会ミンダナオ!
何故ここに日本人などのテレビ映像
その他の貴重な
活動映像を掲載 |
民話、絵本原稿、
青少年から大人までの読みものを
自由購読で提供しています。 |
夏の訪問者の記録・・
|
若者たちと
絵本画家の
体験記
|
最後に海の
下宿小屋に
泊まった
|
避難民に
読み語りと
炊き出し支援
|
イスラム地域
緊急避難
支援
|
iku
2021年に見た日本
子どもこそが未来だから、
57)イケメンよりも、
イクメンに未来を託せそう!
|
日本に帰って5年間
娘を公立の小学校に通わせ
まったく日本語を話せなかった
娘たちもペラペラ
その間、日本に滞在中、
ウイルスの期間を経て
日本の子どもたちや、
親子の様子を見ていると、
最初は
ちまたで子どもたちが、
まったく遊んでいなかったのに、
あちらこちらで、
子育てに大切なのは、
子どもたち同士で遊ぶこと!
そして、
親同士が集まって
時には、
ゴザをひいて
おしゃべりをしたり食べる事!
つまり、
学校でも家庭でも
保育所や幼稚園や仕事場でもない、
それを一歩出たところの第三の場所、
ちまたでの交流が大事な事に、
とりわけ
若い世代が
気がつきはじめた
ようなのだ!!!
日本の子どもたちや
青少年、
そして子持ちの親子も、
人生における
本当の幸せとは、
お金や物の追求ではなく、
まずなによりも
大事なのは、
友情とそして、
愛だということに、
気づき始めている
気がします。
2021年に見た日本、
子どもこそが未来だから、
イケメンよりも、
イクメンに未来を託せそう!
|
|
|