ミンダナオ子ども図書館の創設ディレクター:松居友(日本文芸家協会会員)の活動日記

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口座名:ミンダナオ子ども図書館

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ミンダナオ子ども図書館とは何か
過去の活動を支援別に振り返る
過去の活動をテーマや分野別にまとめて
見やすくして、逐次掲載していきます。
   
 
 過去の真実の活動を支援者の方々にご報告するために、わずかでも寄付を送ってくださった方に、隔月でお送りしている機関誌だけではなく、インターネットを生かして活動報告を文章だけではなく(文章なら勝手に創作できる)自分で撮った写真に文を加えた絵本スタイルで「ミンダナオ子ども図書館だより」と「日記」を作成していきました。
 ミンダナオに足を踏み込んで20年、特定非営利現地法人MCLを起ち上げて17年、家庭にいられなくなった極貧の子たちを前にすると、その場に放っておけなくなって「何とかしてあげたい」という、強い想いに打たれて奨学生に採用し、その後、必ずおもうのは「この子たちが、ミンダナオ子ども図書館から自立して、一人前に社会に巣立っていくのを見届けるまで、あと20年はがんばらなくっちゃ!」
 ミンダナオ子ども図書館は、17年を経てようやく土台ができた感じ。
 妻や娘も、ここ数年日本に滞在し日本語も見事に話せるようになりましたが、娘たちが言うには「将来は、いっしょに育った兄弟姉妹のようなミンダナオ子ども図書館の仲間たちと、MCLを続けていくこと以外考えられない!」
 長女は今年、ミンダナオに帰り仲間とダバオの高校にいきます。次女も2年後には、ミンダナオに。そのときは私と妻もどり、大学を中退してMCLを支えてきた妻は、理事のアドバイスで大学にもどって社会福祉士の資格を取って、夫婦で生涯ミンダナオを中心にして活動していきます。
 25名いるスタッフたちのほとんどは、大学を卒業したかつての奨学生たちです。そうした次の世代が育っていることを見ると、ミンダナオ子ども図書館のこれからの20年は、農業と文化を基盤においてミンダナオと世界との国境や心の壁をとりさって、日本の若者たちのためにも土台の上に家を建てていこうと思っています。
 さらにこれからの20年を、次の世代に託していくためにも、過去を整理し、新たな出発を準備することにしました。
今回、過去のサイトを、テーマ別に分けて、MCLの活動に関心のある方々、特に若者たちが狭い日本から羽ばたく夢を持つためにも、テーマを絞ってリサーチでき、ミンダナオ子ども図書館を理解できるようにしていきます。  
 

国境を越えたアジアと日本の
友情と愛の交流の中に、和平構築のカギがある
 
ブアラン村で今年最後の読み語り GO! OMIの乾盛夫神父 GO!
平和を願うミサ GO! イスラム自治区の読み語り GO!
奇跡が起こった! GO! 京都暁星高校寄贈の保育所 GO!
子どもたちだったら、
対立を超えられるかもしれない
GO! 京都暁星高校の招待で日本へ GO!
総会はスカラーズデー! GO! 若い世代からの便り GO!
マノボ族の家に体験宿泊 GO!  日常生活に触れた若者たち GO!
福祉大学生リサさんの感想 GO! 先住民族の家庭に宿泊 GO!
森林を復活できないだろうか GO! 下宿小屋が完成 GO!
神秘的な石灰岩洞窟 GO! 保育所候補地を調査 GO!
明治学院の学生さんが訪問 GO! 送られてきた靴の支援もした GO!

ブアラン村で
今年最後の
読み語り


村長選挙の腹いせで、
小学校に火がつけられ、
子どもたちが学校に
通えなくなってしまい、
泣いた!

彼らにとって、
日本の
JICAの支援だけが
今は頼りだ!


読み語りに大勢が集まった。
本当に、
不幸や困難を繰り返し
くぐってきた小さな集落。

向こうに焼けた小学校が見える。
今回、ピキットで、
三つの小学校が
焼かれた。

全てはフィリピン政府系の建物で
マカブアルの日本政府JICAが建設
MCLがお手伝いした学校は、
大丈夫。

話によると
BDAで建設した建物は
決して焼かれることはないとのこと

地域の村長選を巡っての
小競り合い、リドーで
今は、きわめて平和だ。


新たに選出された
村長さんと、
小学校の校長先生。

誠実で村の人々からの
信頼も厚く、
本当に村を良くし
平和を作りたいという
願いを感じる

下は、古く、
2000年の戦闘で
崩れたままの校舎。
ごらんのように
四隅の鉄の柱は腐り、
いつ倒れても
おかしくない危険な建物。
ここでは、授業を続けられない。



読み語りに
大勢の子どもたちが
集まった


学校が焼けて、
大勢の子たちが泣いた。
授業が停滞している。

それにしても、
こんなに大勢の子どもたちが
集まるとは
思ってもいなかった。

親たちも、
おかゆの炊き出しをして、

村の人々や子どもたちの
JICAによる、
学校建設への期待を
強く感じた。


難民救済の時から、
深くつながっている
子たちも多い。

(
下の写真の前列の右二人は、
戦闘で両親が殺された姉妹。
その後MCLに住み、
2019年時点で
右の子は大学生
隣の妹は高校生!


さらに
その中の5名ほどは、
来年から高校生になる。

すでに
4年越しのつきあいで、
多くの奨学生が
ここからMCLに参加している。

私にとっても
思い出の多い
地域の子どもたちだ。


この上の
クリスチャン集落である
ニューバレンシアにも
保育所を建てたことは報告した。

先日は、市長に会い、
クリスチャン集落と
イスラム集落を
つなぐ道を再開建設する
確約をとったばかりだ。

MCLの主導による、
平和構築の試みは続く。
私たちは、
決してあきらめない。



母親たちもがんばって、
おかゆを支給
MCLは、
パンとジュースを
配った


村の女性たちも応援に出た。
本当に貧しい村だけれども、
こうしておかゆを作って
子どもたちに配る。

それだけ、
学校が焼けてしまった悲しみと、
それをたちなおらせる期待と
平和への願いが
大きく感じられる。


ジュースも滅多に
飲めないので大喜び。
ジュースの袋を
大事に集めて、

縫い合わせて、
家の飾りにするために
子どもたちは、
持ち帰っていった。


もちろん、
普通だったら捨てるはずの
プラステックのコップも・・・


彼等にとって
特別な日だけに、
最上の服を着て
集まってきているけれども、

皆さんが、
現地を訪れたら、
あまりにもへんぴな、
集落にもなっていない
貧しい地域に驚くだろう。

もちろん、
普段は子どもたちは、
裸足で、
裸に近い生活をしている。

しかも、
ここの小学校は、
1988年に創設されて、
今年2010年に
初めて6名の卒業生を出した。

なんと、
12年間の半分は、
戦闘による
避難民状態だったのだ。



最後に
古着の支援


古着の支援を終えた後、
建物の背後で
恥ずかしそうに、
5人の子どもたちが
私を呼んで
心から奨学金のお礼を言った。

まだ小学生の子たちで、
その中の3名は、
来年、高校になるという。

見慣れた顔の子たち、
そのなかに、
難民救済でしばしば会った、
子の顔もあった。

下の赤い服の子。

小さいと思っていたけど、
来年中学になるのだ。
それが、感慨深かった。

見かけは小学校3年生ほど、
ここの子たちは
栄養失調が重なって、
とても小柄だ。
お父さんもお母さんも
死んでいない。
下のビデオで
戦争による避難生活の中を
洪水が襲い
助けに行った場面に
出ています。

洪水と植林活動

映像を 見たい方は ここをクリック
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missa
イスラムと対立している
クリスチャン集落で
平和を願うミサ


以前も紹介した、
2008年の戦闘が
勃発した集落。

イスラム地域の
丘の上にある、
小さなクリスチャン集落で、

山元神父さまが、
ミサをたてた。

ピキットの町の中心にある
カテドラルから、
3ヶ月に一回だけ、
OMI(オブレード修道会)の神父が
ミサをあげに来られる。

この集落は、
下のイスラム地域と
敵対していて、
全員が民兵として
武装しているといわれている。

さらに、イスラム教徒を
入れないという規定があるが、
今回も、MCLの
イスラムの子たちも参加して
一緒にミサにあずかった。

驚くかもしれないが、
異なった宗派の祈りの場に、
敬意を表しつつ、
抵抗なく参加する気持ちが、
ミンダナオ子ども図書館の
子たちの中には、
自然と培われているのだ。


本当に今までのミサのなかでも、
とりわけ感動的なミサだった。
この地の人々の
平和への気持ちが、
移ったのだろう。

ピキットから
同伴して下さった、
地元の神父さんの目も
潤んでいた。


ピキットのカテドラルの
聖歌隊も参加。

車で20分ぐらいの
近くであるにもかかわらず、
恐れて踏み込んだことのない
集落だったけれども、
最後は笑顔が満面に。

ミサが終わって、
みんなで
平和の歌をうたった。

このような地域に、
はるか日本から神父が訪れ
平和の祈りを捧げたこと自体が、
現地の人々にとって
驚嘆すべきことだった。


ブアランは、
現地の人々も恐れている場所。
よく日本のNGOは、
現地の人々なら、
現地を知っている
と思い込んでいるが、
決してそのようなことはない。

イスラム教徒同士であっても、
同じMILFに近くても、
現地を知っているだけに
かえって恐れて、
自分の小さな集落と町を
往復するだけの人々が、
多いのが現実だ。



夢ポッケの
配布もした


立正佼成会が
残していってくれた
夢ポッケをここでも
子どもたちに配った。

本来は、
この戦闘のあるピキットで
平和の祈りを
されたかったが、
実現できなかった。

だがきっと
そのときが来るだろう。

日本の子どもたちが
自分たちの手で、
自分で作った
夢ポッケを配ることの
出来る日が。

その日が来るまで、
平和構築活動を続けよう。



最後はみんなで、
カゴメカゴメ


ミサが終わって、
すぐ教会の外で、
子どもたちと、
現地の
カゴメカゴメをして遊んだ。

イスラム教徒もマノボ族も
キリスト教徒も、
みんな一緒に。

そうそう、
かつて第二次世界大戦の時
大きな被害をもたらした
「恐ろしい?」日本人も一緒に。

ピキットには、
今も遺骨や
遺品調査もされていない、
日本軍の大きな要塞がある。

いつか、
そのうえで、
カゴメカゴメを踊りたい。



多湖 敬子・
正爾・広紀さま寄贈の

保育所建設も進んでいる

この地のすぐしたには、
ブアラン集落があり、
日本政府によるODAの
小学校建設計画が進んでいる。

すぐ近くにもかかわらず、
現在道はなく、
子どもたちは越境して
7キロの別の地域の
学校に通っている。

これも、
戦闘の憎しみが
生み出した不幸だ。

昔は、この集落の若者たちも、
下のイスラムの村に、
バスケットボールを
しに行っていた。

ミンダナオ子ども図書館では、
独自の平和構築の一環として、
ここに保育所を建設開始。


多湖 敬子・正爾・広紀さま寄贈の
保育所の建設も、
着実に進んでいる。
今月中には、
開所式が可能だろう


現村長さんの
息子さんと奥さん。
奥さんが保育所の先生。


若い世代に、
平和を作る可能性が
生まれつつある。

戦闘で財産を失い、
蒔く種も買えない
農民が多い。
「Mの会」から、
ミンダナオ子ども図書館を通して、
種を支給した。

現地の収入を
確保するための
プロジェクトの一つだ。


kiseki
多湖さんと友人の方々から
寄贈されたブアランの
クリスチャン地域の
保育所で
奇跡が起こった!


多湖敬子さんとご家族、
友人方から寄贈された保育所が、
2008年の戦闘勃発の
発端となった地、ブアランの
ニューバレンシアに建った。

私たちは、この日の
オープニングセレモニーを計画。
子どもたちと一緒に
現地に向かった。


これは、
2009年12月27日に
亡くなった故人・
多湖正紀さんへの
追悼の想いとして

友人方から寄せられた
物心両面の厚志をひとつにして、
ご遺族が、故人の志を
継ぐべくして
寄贈されたものである。


丘の下の
イスラムの人々と、
丘の上の
クリスチャンの人々とが
激しく対立。

かつては交流があったが、
20数年にわたって
交流が途絶え、
かつてあった道も無くなり

クリスチャンの子どもたちは、
7キロも離れた別の村の
学校に通っている。

激しい戦闘の結果、
200家族以上いた村人たちは、
土地を残して避難、
現在は、
36家族になっている。


下のイスラムの村も同様で、
激しい戦闘のために、
卒業式が毎年遅れ、
このことも便りに書いたが、
ようやく今年、12年ぶりに、
開設以来初めて卒業生が出た。

赤十字やIOMなど
国際NGOも注目している地域だが、
平和への決定的な
足がかりがまだない。


私たちMCLは、すでに三年前から、
この地の子たちをスカラー
(奨学生)として採用しており。

2008年の難民救済でも、
砲弾の音がする中、
子どもたちへの
支援活動を行ってきた。
下の子たちも奨学生。

そして戦闘が終わった現在、
現地からの依頼によって
日本政府の
草の根資金ODAに
小学校建設の案件を提出。
大使館からも、
調査に来られたことも書いた。
(その後、見事に建ちました)
平和構築と学校建築 
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MCLの開所式は、
堅苦しいものではなく、
子どもたちの
読み語りから始まる


ニューバレンシアを指導している
クリスチャンの村民。
実は、人も恐れる
豪腕の民兵司令官。

ここの村民は、
すべて民兵として
登録されている。


下の写真イスラム集落の村長。
本来は、クリスチャン地域も
ブアランに属するので、
この集落の村長でもあるのだが、
対立が続いてから、
互いに一歩も
近づいたことは無かった。


当然、開所式には、
村長のサインが必要で、
開所式に参加するのが
通常なのだが、
イスラムの村長は、
恐れて参加を拒否していた。
しかし、当日、
私たちも子どもたちも
同行するので意を決して参加。


heiwago
ブアランの
イスラムの村長が
かつて語った言葉が、
現実となり始めた。

「子どもたちだったら、
この対立を
超えられるかもしれない」


サイン式の後に、
握手を交わす
イスラムとクリスチャン
二人の指導者。

MCLのボードメンバー
DSWDのグレイスさん(左)
所長さん(右)も驚きの笑顔


今回の開所式には、
下のイスラムの保育所
(高橋毅氏寄贈)の
子どもたち親たちも招待した。
彼らが、
平和への足がかりを
作ってくれると思ったからだ。


しばしば、読み語りをしていて、
MCLの活動も
理解してくれているだけに、
喜んで参加してくれた。


対立している
二つの地域の、
大人たちが交流し
心を開きあうには、
まだまだ時間がかかると
思っていた。
まして、
村長や集落長が握手するには・・・


それが、保育所開所式で
突然実現したのだから、
本当に驚いた!
唖然とした!
目頭が熱くなったのは、
私だけではないだろう。


地元の人々も、
事の成り行きにあっけにとられ
感動していた。
5年にわたる
下のイスラム地域と
MCLの若者たちが培った
信頼関係

避難民になったときの
命がけの救済
絶え間ない支援

スカラシップと
小学校建設計画
そして、
山元神父さんによる
平和のミサと読み語り

こうした積み重ねが
有ってのことだろうが・・・

とっさに脳裏を横切ったのは
大学教員の仕事と平行して
「正義と平和」の希求のため、
教会内で、
あるいは市民運動として
真摯に活動を続けてこられた
故人・多湖正紀さんの事だった。


正紀さんの霊が
微笑みながら側に建ち
共に開所式を喜んでいるように
思えたからだ。


このような幻想というか
幻視は、たまに起こるから
奇跡だとは言えないが

この日起こった事の感動は
状況をよく知っているだけに
奇跡のように感じられた。


読み語りを聞きに来ている
子たちのなかに、

避難民だった子たちの
顔が散見される


あの例のおばあちゃんも
強力な民兵の一人だった?


今後の平和構築を
話し合ったが、
まずは消えてしまった道を
復活させること

そのために、
MCLは、ピキット市に
道路建設の要望書を
提出することにした。

すでに建設部門に顔を出したし、
市長も副市長も懇意なので
うまくいくだろう。
道が出来れば子どもたちは、
下の村の中心にある小学校に
5分で通えるようになる。

さらに日本政府がODAで、
予定通り7クラスルームの
美しい学校を建てれば
大きな平和のシンボルとして、
評価されると同時に
この村から離れていった、
多くの家族を
呼び寄せる力になるだろう。

クリスチャン地域だけで200世帯、
イスラム地域を加えると400世帯は
くだらない家族が、
ブアランから逃避した。

興味深いことに、
すでに学校を建設した
マカブアルでは、
道が出来、
避難していた家族が帰り、
新たに家が建ち始めている。

200人だった子どもたちも、
600人近くに増えて、
日本政府が建てた
5教室の建物に
古い2教室を加えても
追いつかず、
急きょフィリピン政府が、
2教室の新たな建物を
追加して建てたぐらいだ。


平和構築の正念場は、
これからだ。

平和構築と学校建築 
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omi
オブレード会
(OMI)の
乾盛夫神父

ライオンズクラブ
の面々と
ピキットへ


モンテッソーリ教育でも有名な、
鳴門教会の乾神父。
属しているのは、
ミンダナオのイスラム地域で
イスラム教徒の救済に
奔走している
神父たちがたくさんいる、
OMI(オブレートミッション会)

今回は、日本で同僚だった
フィリピン人の司祭叙会に
参加するために
ミンダナオを訪れた。

以前は、他の神父から、
ミンダナオの奥地には
入るなと止められていたのだが

ミンダナオ子ども図書館が、
全面的にお世話を
することになって
現地に来られた


今回は、グレイスさんからの
たっての要請もあり、
普通ではちょっといけない、

パイドプランギの奥の村に
ボートに乗って出かけた。

ダトゥピアン側から逃れてきて、
一年近く
避難民状態になっている
人々の調査のために。

ライオンズクラブの
役員もいらっしゃるので、

セキュリティーは、
市長もはじめ
万全を期した。

ピキット市長訪問の後に、
民兵の護送船団方式で
現地を訪問・・・

現地のOMIの神父たちも、
めったに足を
踏み入れない地域???


一艘のボートは、
ほとんどが民兵で埋まり
護送船団方式で警護に就く


私たちが行くときには
ここまで警護を
することはないけど・・・


対岸のダトゥピアンから
逃れてきて、

一年以上
避難民に
なっている人々


一見のどかな
風景なのだが、

この地域でも最も
戦闘が多く
不穏な場所だ



armmst
ARMM
(イスラム自治区)
の読み語り


保育所建設の
事前調査もかねて、
イスラム自治区のラヨグ村、
ナムリ集落に行った。

ここは、卒業した
イズラハイダさんの
生まれた村で、
彼女のお父さんは、
イスラムの司祭。

アンパトワン一族の
その後の動向も、
この地の人々から
聞こえてくるが、
アンパトワン一族
に関する記事
クリック
政治上の動きとは別に
子どもたちのことを考えると、
イスラム自治区側にも
保育所を建て、
奨学生を増やしていくことは
平和をつくるためには
重要な課題だと考えている。

すでに、パガルガンや
サパカンにMCLは、
活動領域を広げているが・・・

イスラム自治区には、
道路というものがあまりなく
(ダト・ピアン側は別だが)
ほとんどがパンボートと呼ばれる
乗合船で移動する。

この地区は、外国人には、
特に危険な地域として
指定されているので、
皆さんは、決して気軽に
乗合船に乗ってはならない。

私も以前
「乗合船にだけは乗るな、
どこに連れて行かれても(誘拐)、
見つけることは不可能だから・・・」
と言われていた。

乗るときは、今回もそうだが、
信頼できる知り合いのつてで
舟を貸し切り、
大勢の奨学生や
スタッフだけで乗る。

特に注意しなければならないのは、
ワニで、
スキを見せると
水の中からジャンプして
食いついてくる。(ジョーダン)

ワニがいるのは本当の事
ギネスブックに載っている
世界一大きなワニは7mで
ミンダナオだが、

この湿原には8mを超す
ワニがいると言われている。
リグアサン湿原が
舞台の絵本を
書きました。
MCLの提案で建てた
小学校も出てきます。

注文は、
以下をクリック


クリック! 
 
だが、
とにかく原始のミンダナオを
見ているようで美しさに感動。


この村の村長の父親は、
パナルガンの元副市長で
前選挙の時にリドーにあった。
JICAの碑があったので、
撮影したが、
穀物干し場の寄付のようだ。

サウジアラビアの支援で、
アラビア語学校も出来ているが、
イングリッシュスクール
(公立学校)も含め荒れている。

MCLの今回の目的は、
読み語りをすると同時に、
保育所建設のための実地調査。

子どもの数は多いが、
保育所の建物がない。

今回は、訪問してきた
鳥海武夫さんが同行した。
聾唖者だが、
有名なアイアンマンだ。


村の人から、
こんな場所にまで
良く来ますね。
怖くないですか・・・と言われた。

現地の事情を
知っているだけに
一人か、数名だけで
来ようとは思わないし

奨学生のイズラハイダさんが
いなければ
来ることは考えられない。

少し時間が出来たので、
イズラハイダさんの
家を訪ねた。

彼女のお父さんは、
オスタージュと言う
イスラムの司祭だ。
お母さんと一番下の
妹さんと写真をとった。
(イズラさんは、目の手術後
大学を卒業し、
MCLのスタッフとして活躍)

家の前の道を、
鉄砲を持った人が
横切っていった。
学校がえりの、
数人の子どもたちを守って
前後を歩いて行く。

何を警戒
しているのだろうか。



読み語りが
始まった


ここのイスラムの
人々が使う言語は、
マギンダナオ語。

私たちは、
まずは現地の言葉を
優先する。

しかし、
マギンダナオ語の話せない
奨学生たちは、
ビサヤ語やタガログ語で物語り
イスラムの奨学生たちが通訳する。

みんなでイスラムの歌、
マノボの歌、
ビサヤの歌もうたった。


地元の子どもたちと
友情で結ばれて
保育所建設を約束し、

再会を誓って
ムラリ集落を後にした。
「また、来るからねーー!」



kyotogs
京都暁星高校
寄贈の
保育所が完成


京都の宮津にある、
京都暁星高校は、
前から奨学生を
支援して下さっている。

フィリピンとの関係は深く、
夏休みに
植樹プロジェクトに
いったりもしているが、


今年も
ミンダナオ子ども図書館の
奨学生3名、
イスラム教徒の子と
マノボ族の子と
クリスチャンの奨学生が

11月末招かれて、
日本の子どもたちと
交流をする計画が進んでいる。

今回で
2度目のプロジェクト。
それ以外にも、
この保育所と
下宿小屋の一部に
支援をして下さっている。

こうした寄付は、
暁星高校の若者たちによる、
ウォーカソンと呼ばれる
ボランティアプロジェクト
から寄贈される。


上の写真のアルバート君、
政府系ラジオ局のスタッフで
現地取材に訪れた。
なんと、彼も、
京都暁星高校が支援して
下さった奨学生で、

キダパワンの
ノートルダム大学の
マスコミュニケーション学科を
卒業したマノボ族の
青年なのだ。

自分を支援してくれた
日本の高校が、
同じマノボ族の集落に
保育所を建設した事を
現地取材に訪れて、
村の福祉職員に
インタビューしているところ。

ミンダナオ子ども図書館から、
こうした人材が多数
出ていることは
うれしいことだ。



この地から
新たな奨学生
(里子)を


保育所を建てた村から
家庭の問題を抱えた

数人の子たちを
MCLの奨学生に採用した。


物的支援も大事だけれど、
奨学生を採用することで
集落との長い心の関係と
つながりが生まれてくる。


gssyoutai
京都暁星高校の
招待で
奨学生が日本へ


京都暁星高校は、
長年にわたって
MCLの奨学生を
支援し続けて下さっている。

保育所建設や下宿小屋も、
生徒の協力を得て
すすめている。

今回は、
支援して下さっている
3名の奨学生が、
招かれて交流した。


初日は、
歓迎と紹介を兼ねて、
私が現地の映像を
見せながら講演をした。
その後、彼等が、

マノボ族の踊りと、

イスラムの踊りを紹介。

最後は、
日本の若者たちを交えて、
一緒に踊った。


京都暁星高校は、
独自の課外授業を
実施している。

その一つが、
堤防での釣りだ。
宮津の漁港に
めんしているだけに、
好釣り場。

イスラムの
モハジール君にとっては、
飛行機に乗るのも
海を見るのも初めてだが、

ピキットの大湿原で、
漁もしているのでお手の物。

戦闘地のピキットから来て、
父親を失っている
モハジール君。
大学生だ。

「こう言う交流は、
本当に素晴らしいと思う。

友さんが、
どんなに日本で大変で、
一生懸命に支援者を
探しているかもわかったし、


将来は、
友さんのような仕事がしたい。
平和を作るためにも、
重要だと思う。」


日本の文化を
学ぶ時間も




日常は、
他の学生さんたちと一緒に
授業に参加もした。




平日は学校が終わると、
生徒の家庭でホームステー。



日本の家が、
ミンダナオの裕福な
家のように大きくはなく
質素な生活をしながらも、


支援をして下さっている
様子に感動!


このような体験こそが、
戦闘のトラウマを超えて、
平和を作る若者を生み出す。

京都暁星高校の皆さん、
ありがとう!




12soukai
12月の総会は
スカラーズデー!


日本に招かれた、
3名の奨学生の
報告から始まった


年四回、中高校生、大学生が集まる
イスラム、マノボ、クリスチャン文化祭
に12月はクリスマスだが、
イスラム教徒もいるので、
奨学生みんなで
シンポジウムを行い
お祝いする日として、

スカラーズデー(奨学生の日)
とみんなで決めた。
とにかく一年の終わり、
みんなで楽しもうと言う日だ。


今回はまず、
日本を訪問した
三人の子たちに登場願った。
上のサイトでも紹介したが、
京都暁星高校の招きで
日本に10日間滞在した三人。

今回の総会で、
日本での体験を語った。
マノボ族のグレンは、
初めて乗る飛行機が、
どんなに恐かったか。

イスラム教徒のモハジールは、
日本の人々は、
決して裕福ではないのに、
一生懸命私たちを
支援して下さっていること。

マノボ族のマリテスは、
向こうの学生たちの様子、
家庭の様子。
時には、
水の飛び出すトイレの話。
温泉で素っ裸に
ならなければならないこと等

会場の笑いをさそいつつ、
日本の体験を語ってくれた。
何よりも、日本の人々の
親切が心にしみたようだ。



学校別の
アトラクション


その後は、
学校別に
アトラクションを披露した。

歌あり、

劇あり、
その多様で上手なこと。

彼等の表現力の豊かさは、
いったいどこから
来るのだろう。


とりわけドラマは
感動的だ。

金持ちで傲慢な
雇い主に、

とことん虐められる
家政婦。

貧富の差の中で、

自分たちも身近に
体験するような事柄が

表現力豊かに、
ドラマティックに
演じられるものだから

見ている方も、
涙ぐんで鑑賞している。


日本から見ると、
まだ小学生と

中学生と
高校学生なのに、

なんと驚くべき
表現力を

身につけている事か




今年の成績優秀者と
がんばった
子たちを表彰!


平均成績が
85%以上の
好成績の子たち、

学校からオナーとして
表彰を受けた子たち


表彰の対象と
なった子たちは、
全体で39名に昇った


高校と大学生子たち
(フィリピンに中学はない)
230名ほどで

39名が
受賞というのは

成績優秀の子ではなく、
孤児、片親、
問題家庭、極貧といった

学校へ通うものも
困難な子たちの
集合体としては、

高い
パーセント?



最後に
古着を配る


クリスマスプレゼントに
自宅の両親や兄弟たちに
あげるために!


12月の総会で、
クリスマスもかねて
毎年、古着を配る。

家にいる両親、
曾祖父、

そして、
平均7名という
兄弟姉妹のために
古着、靴、バッグなど
一人10品に限り
持ち帰れる。

皆それはそれは、
大喜びだ!



suguru
若い世代からの
便り
今回、日本に滞在して、
最も強く感じたことは、
日本の若者達の心の状況だった。
それと、世界に、特に日本も含む
アジアに迫っている?
戦争を起こそうとする
見えざる外からの足音だ・・・

ミンダナオのコタバトで、先日、
IMT(国際停戦監視団)の菊地さん、
落合さん達と、
福祉局のグレイスさん、
プレシデントのアスレーさん、
バイスのマージーさん、
妻のエープリルリンと話したときに
グレイスさん曰く、

「この非常に複雑な戦闘を作る状況を
解決でするために必要なのは
次の世代に期待を
かけるしかないのだと思う。
その点で、
ミンダナオ子ども図書館が
行っている事は
画期的な試みだと思う。」

ここ8年あまり、
現地の若者達と関わってきて、
ぼくが今、非常に重要に思うことは
現地の若者だけではなく、日本を始め、
先進国の若者達を大切にして
彼らが夢を持って未来が見えてくる
場やきっかけを作っていかなければ
いけないという事だ。

そのためには、
彼らがミンダナオ子ども図書館に来て、
こちらの若者達と交友を
深める体験の機会を
作る必要がある。




MCLとの
出会い

大澤 すぐる
20105月、大学院で発展途上国の
貧困問題について勉強していた僕は、
学部生時代の恩師である先生の
ゼミで後輩の指導にあたっていた。
そんな時、
ミンダナオ子ども図書館という
フィリピンで子供たちの
就学支援や医療支援等を行っている

NGO
の代表である松居さんが
そのゼミで講演会を
開いてくださることになった。

将来は国際協力ができる場で
働きたいと考えていた僕は
松居さんとの出会いに胸が躍った。
MCLのホームページをチェックし、
松居さんの著書を読んで
自分の研究と照らし合わせて、
いくつもテクニカルな質問を考えて
講演会に臨んだことを今でも覚えている。

しかし、結果的に
その質問をすることはなかった。
それは、松居さんの
子供たちの話をする時の
幸せそうな顔や、
綺麗ごとではすまない
ミンダナオでの戦闘の様子を見て、
自分が学んできた机上の研究を
どこかちっぽけに感じたからである。

以前から様々な発展途上国と
いわれる国に足を運んで、
色んな状況を見てきたつもりでいた。
だが、松居さんの講演を聞き
自分のやっていることに
物足りなさを感じ、
講演会後、松居さんを追いかけ
とっさに出た言葉が
MCLで勉強させてください。」
というものだった。


20109月、僕はMCLに向かった。
不安がなかったかというと嘘になるが、
そんなものは初日から
子供たちの笑顔が吹き飛ばしてくれた。
MCLに着いて最初に感じたことは、
子供たちのエネルギーの凄さである。
これに関してはまた回を改めて
詳しく書きたいのだが、
とにかく子供たちの
そのエネルギーには圧倒された。

それは、塾講師のアルバイトを通して
MCLのスカラー達と同世代の
日本人の子供たちと接する
機会が多い僕にとって、
日本人の子供たちからは
感じることができないものだった。
MCLの子どもたちが持つ
底抜けな明るさや優しさは、
夜眠りにつくときになって
「そういえばあの子たちは
色々な境遇にある子たちだったな。」
とやっと思いだすほどに
純粋なものだった。

滞在中、子どもたちに
勉強を教えたりもしたが、
僕の方が多くの事を
教えてもらった気がする。
印象的だったのは、
彼らの手紙や会話の中に
僕の家族を気遣う内容が
多く含まれていたことである。
たいていの日本人は(少なくとも僕は)
誰かに手紙を書くときに
その人の親を気遣う文面を
書いたことがないだろう。
しかし、彼らは僕の
家族までも気遣ってくれた。
とても心が温まる思いだった。
今では僕も友人に手紙を出す際には、
友人の家族を気遣う文面を
加えるようにしている。

一般的に、
MCLのような団体や
発展途上国を想像する時、
僕たち日本人は、そこに暮らす人々を
「希望がない可哀そうな人々」
と考える節がある。
しかしそれは違うのだということを

MCL
の人たちが体現してくれている。
MCL
は支援者だけでなく、
不登校になってしまった生徒や
精神的に疲れてしまった人の
日本からの訪問を歓迎している。

これはそのような人々が
訪問することで、
MCLの人々のエネルギーに触れ、
何かを感じ取ってほしいという
松居さんの心遣いであるように思う。
近年、日本では「心の貧しさ」が
社会問題となっている。
そういった点から考えると、
僕たち日本人とフィリピン人、
どちらが豊かなのかはわからない。


MCLと出会って、
日本人にあって
フィリピン人にないもの、
フィリピン人にあって
日本人にないものを
少なからず見つけることができた。
多くの日本人は
発展途上国の人々に対して
何かを「してあげている」
という意識がある。
しかし、述したように
彼らから学ぶことも多い。
したがって上からの「援助」でなく、
手と手を取り合う「協力」をしていく
という意識こそが
互いが発展していくために
必要であると思う。

帰国する際、
MCLの子供たちが
「私たちは友達だよね。」
と尋ねてきた。
その際は、「そうだよ。」としか
答えられなかったが、
今この場を借りて
僕も彼らに言いたい。
「僕たちは既に
友達ではなく家族だよ。」と。

大澤君は、今年、上智の大学院、
修士課程を卒業する。
現代っ子だが、真剣に
発展途上国の貧困問題を考えている。
将来は、国連で仕事をしたいそうだが、
こうした若者たちが日本にも
着実に増えてきていると感じる。

閉塞的な日本に見切りを付けて、
世界の、とりわけ先進国文化から
「取り残されている」と
言われている地域に
真実の可能性を
発見しつつある若者達・・・
彼の文章を、ときどき連載しながら、
今後も若い世代からの意見を
サイトで公にしていきたいと思う。

お別れ会の日、
大澤君の顔がこわばっているな
と思っていたら、
突然、堰を切ったように
号泣したのには驚いた。
別れの時に、泣き出す若者達は多いのだが
(若者達だけではなく、中高年も・・・)

その泣き方が、あまりにも
激しかっただけに、
周囲の涙も誘った。
「涙が出るとは思わなかった、
小学校以来です・・・」
一人で来ただけに、さらに深く、
若者達との友情の輪が
深まったのだろう。
manobosyuku1
マノボ族の家に
体験宿泊


山元眞しんぷさんと、
MCLジャパンの面々に、
福祉を専攻している
若き女性リサさんが加わって
キアタウのマノボの集落に一泊した。

夜になると、
満天の星空以外は、
灯りのまったく無い世界。

子どもたちの無邪気さに、
一生消えない
すばらし体験だったという。


最初に、
アラカンのミラノ宣教会の
イタリア人神父、
ジョバンニ神父を訪ねた。

有名なファウスト神父は
いなかったが、
モトクロス用のバイクで、
山でミサを上げている。

政府側の人々からも、
反政府側の人々からも、
敬意をもって
見られている神父たちだ。



美しい
キアタウの丘と村


この宿泊体験の企画は、
地元から
上がってきたものだ。

スカラーたちの
お父さんたちから、
村をあげて歓迎し、
セキュリティーも
万全を期するという条件で

今回、
MCLジャパンの面々で、
初めて実行した。

その体験の
すばらしさは、
予想以上のものだった。

スカラーたちのいる
貧しい現地が、
多少でもうるおう
プロジェクトなら、
無償で貢献したい
と思っている。

三食つきで
一泊1000ペソ。
すべて直接
宿泊家庭に渡されます。

贅沢な
スタディーツアーに慣れた
人々には、
とうてい無理?

現地に適応する心の
無い方には、
帰っていただく、
あくまでも
現地重視の企画です。


必ずスタッフが同行し宿泊。
MCLに住んでいる
集落出身のスカラー
(奨学生)たちも、
休日であれば同行します。

また、現地にも、
小学生、高校生の
奨学生たちがたくさんいる。

彼らたち、
そして両親たちが、
皆心から歓迎してくれる。

およそ外国人が、
来ることのない世界。

外国人どころか
地元の人たちも、
この隔絶した
マノボの集落を知らない。


電気もなく、
下界から遠く離れているから、
文明の影響がほとんど無い。

特に子どもたちは、
貧しいけれども、
本当に心が純粋で美しい。

こうした
子どもたちの姿に、
私もどれだけ
救われてきたことか、
その体験を
多少でも分かち合いたい。


ごらんのように、
子どもたちは
普段裸足だ。
学校に行くときには、
すり減ったゴム草履を
履いたりするけれども、
ほとんど靴は持っていない。

MCLで
古着の支援を
したことがあるので、
服は比較的良いものを
着ていたりするのだが・・・


ここの住人の一人
オンゴイ君

猿の事をオンゴイと呼ぶ
まだ小さな小猿だ



各々、
自分の宿泊先へ


宿泊先は、
普通の民家で、
家族と寝食をともにする。

食べ物は、日常のもので、
特別に用意はしない
(はずだが、
ニワトリを一羽
つぶしてくれた
家族もあった。

普段は、
蛙やカニがおかずで

ニワトリは、こちらでは、
一年に一度あるかの
大変な歓迎。
米も普段は食べられず、
カサバイモだけだったりする。)


ただし、マンツーマンで、
MCLスタッフや
高校生のスカラー(奨学生)が
付き添い同宿する。


看護師のフェさん、
空手が堪能な秀君
(亡くなった日本事務局の
山田さんの息子さん)
も同行した。

ちなみに、トイレは
外の木を二本並べただけの、
和式(?)便所だが、
(うんこ以外は)
落ちないようになっている・・・?

ティシューと懐中電灯は必携。
飲み水は、ミネラルを買っていく。
地元のコーヒーが旨い。
その辺にたくさん生えている。


スカラーの家族と一緒に。
彼女には、
お父さんがいない
久しぶりにお父さんのような
人が来て大喜び!

神父さんが
泊まられたのは
村の牧師さんの家。

翌日の礼拝に
神父さんも参加した。


MCL事務局の山本幸子さん
スタッフの
ジェックジェクと一緒に

「何しろ、夜は部屋もなにも
みんな真っ暗。
手探りで外に出たら
満天の星空!!!」


「今回のMCL訪問で
何よりも良かったのが
このホームステーだった」


「本当の貧しい家の
それでも
心豊かに生活している
家族に触れて
学ぶことが、
本当に多かった。」



risa
今回、唯一の?若手
福祉大学生の
リサさんの感想


先日はMCLに
訪問させていただき
ありがとうございました。
大変、実のある経験を
させてもらいました。

松居さんは
お忙し中にもかかわらず、
いろいろな場所に
連れて行ってくださり
ありがとうございました。


この10日間で
私が経験したことは
私にとって
すごく大きなものになりました。

知らないこと、感じたこと、
子ども達から笑顔や元気
いろんなものを貰いました。

又、考えさせられることも
多くありました。
これから、自分なりに
考えていきたいと思いました。


貧困の地域や
戦争が
今にも起こりそうな地域、

そこに住んでいる人々と
触れ合う機会など
めったに無いような
経験をさしてもらい
本当に多くのものを感じました。

現地の方たちと触れ合うと
私のほうが元気や笑顔を
貰った気がします。

皆さんからいろいろなものを
貰ってばかりで、
何も出来なかった自分が
恥ずかしく思いました。

MCLのみなさんにも
感謝の気持ちで
一杯です。

子ども達と過ごした
何気ない時間などが
とても大好きでした。


日本に帰ってからは
みんなに逢えなくて
寂しいです。

いろんな過去を背負っている
子ども達とは思えないほど
パワフルで元気で
愛があって、
私は本当に癒されました。

私自身子ども達から
学ぶことや気づかされることが
多くありました。
感謝の気持ちで一杯です。

ミンダナオが平和になること
さまざまな問題がなくなること、
子ども達やみんなに
幸せが訪れること、

MCLにある平和が
もっともっと広がっていくこと
を祈りたいと思いました。

又、自分ができることを
見つけられるように
頑張りたいと思います。



sinrinfukkatu1
失われた森林を
復活できない
だろうか


キアタウ集落があるのは、
森がなく、一見、
イタリアの丘陵地帯を
思わせる高原地帯。

だが、山頂付近や谷間に、
わずかに残っている、
巨大なシダや
天を目指して枝を広げる
壮大なラワン木を見ると、

ここが昔、
水の豊かな、深いジャングルで、
たくさんの虫や鳥、
猿やイノシシが住んでいる、
豊かな大地であったことがわかる。

その視点で見ると、
どこまでも森の無い丘陵地帯が、
いかに不自然な自然破壊の
残骸であるかが理解できる。


見渡す限り、木の無い、
広大な草原地帯。
ここは、かつて
ジャングルだった。

1900年代後半、
ちょうど日本の
高度経済成長期に、
ミンダナオのジャングルは
伐採され
ラワン、マホガニーといった
熱帯材の多くが切られて
日本に輸出され
建材や家具、ベニヤ板された。

その後、さらに雑木も伐採されて、
土地が安く売却されると同時に、
低地に住んでいた先住民族
(マノボ族バゴボ族等)たちは
こうした山岳地の
斜面に追いやられた。

山岳地は、すでに
森林が伐採された後で、
飲料水の供給もままならない
斜面は、腐葉土が流出して、
作物が育たない。


キアタウの村人たちは、
写真のように、
遙か谷間の下の、
多少は保水力の残っている
傾斜地にかろうじて
バナナやトウモロコシを
植えて収穫し、
口糊をしのいでいる。

かつて森林が
豊かであったころは、
このような
貧困はなかっただろう。
森林破壊によって
作られた貧しさ。

下の写真は、
望遠レンズで撮影した、
低地のバナナプランテーション。
日本資本のAJMR(スミフル)の
展開するプランテーションで、
いわゆる皆さんが
食べている高原バナナ。


こうしたプランテーションに
雇用されるのは
おもに移民系の人々で、
最低限でも高校大学を卒業した
学歴のある人々。

日雇いですら、出生届や
中学校卒業程度の
学歴は要求されるから、
山の貧しいマノボ族には、
仕事はほとんど回ってこない。


この広大な伐採跡の大高原地帯。
見た目は、イタリアの
丘陵地帯のようなのだが、
ここは、ピキットに注ぐ大河川
プランギ川の
上流地帯にあるために、

ここに降る集中豪雨は、
信じがたい鉄砲水となって
毎年、ピキットをおそう。



下はピキットの洪水
(MCLで救済支援をした)
2008年・松居友撮影


水につかった学校

ここは、
普段はトウモロコシ畑で
車で活動している地域



洪水と植林活動

映像を 見たい方は ここをクリック
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せっかく植えた作物も
小さなお店も家も
水につかり


人々は、
舟で緊急避難。
年5,6回は洪水が襲う。


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キアタウの
神秘的な石灰岩洞窟


キアタウの谷底に、
神秘的で手つかずの
鍾乳洞があると聞いて、
私たちは向かった


引き水が涸れると、
キアタウの人々は、

遙か谷底のこの地まで、

水をくみにやってくる。

かつてジャングルが、
国土を豊かに覆っていた頃は、

どこもかしこも
このような風景だった。

清水は美しく、
飲んでもまったく問題はない。


巨大な洞窟は、
大きなトンネルになっている。

手探りで登っていくと、

さまざまな鍾乳洞がある。

真っ暗闇の向こうに、
緑のトンネルの出口が
見えたときは感動した。



出口近くの小さな穴。

地元の人の話だと、
その奥にさらに巨大な
鍾乳洞が広がっていて

いったい、
どこまで続いているのか、
わからないのだという。

かつて、一度だけ、
神父に同伴してきた外国人が、

簡単な調査をして、
驚嘆していたという。



再びキアタウの村に
たどりついた。

夕暮れが
近づいてきた。


訪問者たちが、

地元の
子どもたちと、

本当に楽しそうに
遊んでいた。



父親のいない子の
支援者になった

















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明治学院
経済学部の
学生さんたちが
高島教授と
いっしょに訪問

生きた
経済を学んだ?


経済学部の学生たちが
キアタウ村に一泊
忘れられない体験


生きる力は、
学校教育からは得られない、

というのが持論だが、
本当にそう思う。

ここで遊んでいる
子どもたちに出会うと、
自分の少年時代を思い出す。

本当に、
夕暮れまで、よく遊んだ。

それに加えて、
ここの子たちは、
本当に良く
生活のお手伝いをする。




コミュニティーの
生きている社会では、
子どもたちが
生き生きとしている


MCLに泊まられた方々が
口をそろえて、
フィリピンの若者たちが
自立していることに驚く。

炊事、洗濯、掃除、
身の回りのすべてのことを、
全く嫌がらずに
自分たちだけでこなしていく。

「子ども時代に
一番大切なのは、
思う存分遊ぶこと、
と夜に昔話を聞くこと」

日本にいたころ、
子どもたちの現状を憂えて、
拙著や講演で
繰り返し話してきたことが、
間違っていなかったことが
ここでは良くわかる。

『わたしの絵本体験』
『昔話とこころの自立』
『昔話の死と誕生』
に執筆しました。
教文館から出ています。
購入したい方は
下をクリック
してみてください
クリック! クリック!   クリック!  
しかし、
その本質を
体験したければ、

この地に
足を運ぶのが
最善だろう。

昔話だけはなく、
ここには、たくさんの
妖精も生きているから。


nichijyo
日常生活に
触れた若者たち


ココヤシのジュースは、
渇いたのどにおいしい。

蒸しバナナは
味が無く食べずらいが、
これがほとんど
毎日3食の食事なのだ。

コーヒーだけは、
いくらでも飲める。
そこら中に
木が生えている。

ただし、砂糖は
買わなければ
手に入らないので、貴重だ。

砂糖を買ってあげると
子どもたちは、大喜びで
たくさんたくさん入れて飲む!

干して乾燥した豆を
木の臼でついて粉にした物を
ぼくは、
ブラックで飲むけど・・・

子どもたちと
夜たいまつを持って
川でとった蛙は、
煮込んで食べると
とってもおいしい!

早朝と夕刻の
水くみは
子どもの
重要な仕事の一つ


エルニーニョで、
引き水が涸れると、
ここから遙か
30分以上も歩いて下る

子どもの足だと、
1時間近くかかるだろう
谷底のわき水から、
水をくみ、運び上げる。

例の巨大な
鍾乳洞のある場所から。

この引き水は、
アラカンのミラノ宣教会の
プロジェクトとして完成した。

それでも、
乾燥時期になると
水はしばしば涸れてしまう。


くんだ水でお洗濯。
子どもたちの
大事な仕事の一つ。


お母さんといっしょに、
夜食べる
ドジョウインゲンを収穫する。

すごく長いので、ぼくは、
ウナギインゲンと呼んでいる。

現地ではバトンという。


lumadhause
先住民族の家庭に
案内されて宿


各家庭に、
男性または女性の
スタッフかスカラー
(奨学生)が付きそい同宿する。

スタッフの一人、
フェさんは看護士。
(右から二人目の赤い服)
病気の事態に備えている。

緊急の時は、
スタッフのドライバー
(このときは、ジェニーボーイ君下左)
が、麓のダバオの病院まで
30分ぐらいで移送できる。

MCLにもあるけれど、
寝袋があるほうが良いだろう。
懐中電灯は必携。
夜のトイレもスタッフを誘って・・・

飲み水は、
MCLから持っていくが、
ぼくは現地の水を飲む。
山だから大丈夫?



一緒に同じものを
料理して、
いっしょに食べる


今回も、
お客様が来ているので、
特別に米を炊いて出した。

普段は、写真にある、
カサバイモかバナナがせいぜい。

米は、
焼き畑の斜面に植えた
陸稲だろうが、
本当に貴重な食物だ。

写真のように、
木の杵で精米する。


カエルで良いと言っているのに
大事なニワトリを
つぶしてくれた。
一年に何度あるか
ないかの鶏肉料理だ。


村人たちには、
日常食べているものを、
食べさせてあげれば
良いのだから、
と話しているのだが、

さすがに、
恥ずかしいと
思うのだろう。


夕ご飯は灯りを中心に
座って食べる。
フラッシュを使って
撮影したので明るいが、
真っ暗闇にほのかな
石油ランプの明かりがあるだけ。

それがまた、暖かく、
情緒があって心が和む。
食事の後は、
みんなで語ったり唱ったり、
昔話をしたりする。

こんなに
おかずがあるのは珍しい。
町で買ってきたビーフンに、
家で育てたニワトリをつぶした
鶏肉まで添えてある。
もちろん、
スプーンなどは使わずに、
手で食べる。
たぶんMCLで
スプーンも用意したのだろう。


数字が先行する
経済学ではなく、
幸せな暮らしを
保証する経済学が
理論的に生まれないだろうか



ranako
ラナコランの
下宿小屋が完成


初めての
下宿小屋の試みが、
成功した。

保育所の二件分で建てたが、
多少予算が足りなかったが、
その重要性が確認できた。

下宿小屋は、
遠くて学校まで
通えない子どもたちが、
そこに住み込み
近くにある、
小学校や高校に
通えるようにする試みだ。

ラナコランの下宿小屋には、
女の子30名が、
ハウスキーパーと共に住める。

ここに住むのは、
ケロハス村(片道10キロ)、

キアタウ村(片道7キロ)、

そして
今回調査したカンポゴン村
村の子達と、

それ以外にも
はるかに
遠い地域の子達だ。

住むことが出来るのは、
MCLの奨学生だけではなく、
他の子達にも解放している。

この試みは、大成功で、
さらに今後の展開が楽しみ・・・
他にも、こうした下宿小屋を
必要としている地域は多く、

マネージメントの仕方を含めて、
今後のプロジェクトとしての
可能性を秘めている事が
明らかになった。


建設した施設には、
必ず支援者の看板を作って
かけてある。
河野優子さんと

京都暁星高校が、
今回は、支援して下さった。



開所式には、
村人たちが集まった。


部屋は、全体を
寝るスペースとしている。
外部に食堂とトイレがある。

勉強や読書、
交流や食事は、
オープンスペースで・・・


ここに到達するには、
4WDで3時間はかかる、
大変な山の中だが、
それだけに素朴な人々たち。
マノボ族が多い



下宿小屋を文庫として
地域の子どもたちにも
解放!


地元の村々の
親の協力を得て運営するが、
一日に3食たべられない
極貧家庭も多く、
子どもたちの食事は、
米はMCLが面倒を見る。
副食の野菜は、村人たち。

おもに中高校生が下宿をするが、
年下の小学生もいるので
その面倒を見たり、
家庭教師の役割を持つ。

文庫としても、地域の子どもたちに解放し。
ほぼ、月に一回の割合で、
MCLでは、当地の子どもたちに
学用品などを支給しているので
その都度、
運営に支障が無いかをチェックする。


今回は、
スタッフで奨学生担当のマリベールと
ソーシャルワーカーのマルチェジンが
子どもたちに、文庫の使い方や、
勉強の仕方、
守るべき最低の規則などを語った。
二人とも、ミンダナオ子ども図書館
(MCL)の卒業生だ


普段は、
ボロボロの家に住んでいるが故に
質素な建築であるにもかかわらず
このような、新しい、
ステキな家に住めることに
子どもたちは大喜びだ。

この地域は、
ことのほか学力が低く
その向上にも役立つだろう。



hoikusyocho
先住民地域の
和平構築も
考慮して
保育所候補地
を調査


ミンダナオに戻って、
休む暇もなく、
保育所建設候補地の
調査を始めた。

12月中に、
建設を開始するのは
以下の地域。
年開けて、さらに5カ所の
建設予定が決まっている。

カパタガン・ソロプチミスト 
原田万紗子 /
ムナリ・錺 栄美子/
カンポゴン・
(財)北野生涯教育振興会

今回は、その中で、
カンポゴンの保育所候補地を
調査決定した。
ここは、上述した、
ラナコランの下宿小屋から
さらにジャングルを
小一時間入る村だ。


この先に本当に
集落があるのだろうか

行く先をジャングルが覆う。
小さな踏み跡道を
たよりに集落を目指す。

道は時々、
枯れ沢状になっている。
雨が降れば濁流となり、
家にたどり着くのも困難だろう。

こんなところを、
毎日4時や5時に起きて、
子どもたちが
学校に通っているのだ。

今までは、
こうした困難な地域の
子たちを優先して、
MCLに住まわせてきたが、
現在、100名近くなり、
もう満杯状態だ。

苦肉の策が、
下宿小屋だが
下宿小屋の重要さが
良く理解できる。


谷を越え、
尾根をたどり、
ようやく山上に近い
集落に着いた。
比較的大きな家が一軒、
首領の家だ。
そこに人々が集まっている。

それ以外の家は、
ようやく建っているような
貧しい集落。

子どもたちは、
お客様が来るというので、
最良の服を着て
集まってきていた。
普段は、
裸足で裸同然の生活。

子どもたちも多いが、
今の時期、
多くの親が
子どもたちを連れて、
遙か彼方のダバオの町へ
行っているという。

クリスマスを控えて、
集団で、物乞いに
出かけているのだ。

ダバオの町の物乞いは、
子どもたちが中心で、
風物詩にもなっているが
そのほとんどは、
山から下りてくる
先住民だと聞いていた。

道ばたで寝起きしながら、
子どもたちは、
車から投げてもらう
小銭を期待して
何時間も道脇にたっている。

なんと、
こんなに遠い地域から
来ていたのだ。
ダバオまで、
数日かけて歩くのだろう。

この方が、保育所の先生になる

この集落で一人
弟や妹を学校に
行かせるために
高校を停止して
父親の農業を手伝っている
若者に出会った
学校に行きたくて
MCLに期待してやってきたのだ

日曜日は、この村の
牧師の仕事も引き受けている
成績も良いし
心根も良い
将来は、大学を出て
マノボ族を守るために
弁護士になりたいという

「親が、土地を取られた
苦い経験から
先住民族を守る
弁護士になりたい・・・」


今後、同村と
深い関係を持つためにも

コンタクトパーソンとして
スカラシップ候補とすることにした。
どなたか支援者に
なってくれませんか?

ミンダナオ子ども図書館支援方法



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北九州小倉
ライオンズクラブの
役員が訪問


北九州小倉ライオンズクラブの
役員の方々が、
ミンダナオ子ども図書館を
訪れられた。

実際に自分たちの目で、
MCLを見、

MCLの活動を
視察するために・・・

私たちは、
ピキットの
避難民がいる地域に、
乾神父さまと共に行き

後日、マノボ族のいる、
カヨパトン集落を訪ね、
読み語りの活動をした。


その後、
ラナコランの下宿小屋に、
とりわけ貧しい三集落


ケロハス村、キアタウ村、

ムヤス村、カヨパトン村の
集落長に集まってもらい
各集落に、雄ヤギ一頭、
雌ヤギ五頭を寄贈された。



山羊を寄贈

今回のヤギの寄贈は、
個人的なものだけれども、
このような山岳地域では、
ヤギは貴重だ。

ヤギの良さは、
豚や牛のように、
特別に餌を用意することなく、
山地の草を食べてくれること

乳は、
地元の子どもたちの
栄養になること。

増えやすいことなど、
貧しい地域にとって、
大きな支援となる。

これらのヤギは、
個人ではなく、
集落のものとして増やし、
増やした分をさらに
貧しい個人家庭に分け与えていく。


今回の訪問は、現地の実地視察。
ベトナムやカンボジアなども、
絶えず訪問し、
現地を良く知っていらっしゃる
ベテランの役員の方々も

思った以上に貧困度の激しい
現地の状況や
ミンダナオ子ども図書館の
誠実な活動に
胸を打たれた様子。

多くの
ドキュメントフィルムを
撮影して帰られた。

これから、北九州小倉
ライオンズクラブとの
長いおつきあいが
始まろうとしている。


friends
亡きフレンズ幼稚園の
園長先生が
主体になって
寄付された保育園で・・・


北九州で有名な、
フレンズ幼稚園の
園長先生が亡くなられた。
去年の秋に、
病室にお見舞いにいったときは、
まだお元気そうだったのだが・・・

親身に
ミンダナオ子ども図書館の事を
考えて下さっていた先生で
この小笠原ライオンズクラブの
保育所も、先生が
主導して作って下さったものだ。

Mの会とも関係が深く、
その追悼の意も込めて、
ボアイボアイ村を訪ねた


上の写真で、
青いユニセフのシャツを着て、
一緒に踊って下さっているのが
現地の保育園の先生。

若く情熱的な若者の先生で、
この先生のおかげでユニセフから
机の支援が入っている。

50万で建設された
この保育所は、
本当に立派だ。

非常に貧しい村だが、
古着の支援を度々しているので、
着物はそれほど悪くはない。


フレンズ幼稚園の園長先生は、
ミンダナオ子ども図書館の
活動を愛し、遺言で
100万円を寄贈して下さっていた。

私たちは、
Mの会と相談して、
この遺産で水田を買うことにした。
ミンダナオ子ども図書館の
子どもたちの食べる、米が
毎年2度、
先生のおかげで食卓に並ぶ。

米の値上がりが激しく、
住み込みの子たちも
スタッフを入れて
100人を超え、
米が足りなかったのでホッとした。
心から感謝します!!!!!!!!


otaru1
OTARUワールドフレンズから
送られてきた、
靴の支援もした


毎年、数度にわたって、
北海道から古靴を
箱いっぱいに送って下さる
小樽ワールドフレンズの方々。

ミンダナオの山の
子どもたちにとっては、
靴は、夢のまた夢なのだ。

小学校に入ると、
特に高校になると、
靴を履いて
登校する規定がある。

しかし、もちろん、
多くの親たちは、
子どもに靴を
買ってやることが出来ない。


このボアイボアイ村も
非常に貧しく、特に
マノボの人々は、
自分たちの自給地も
持っていない。

この村のそばには、
日本資本のAJMR(スミフル)の
バナナプランテーションが
近年急速に広がり、

アンティパス県のほとんどは、
日本向けバナナ(完熟王)の
出荷地となってしまった。

このボアイボアイには、
そのときに、
土地所有者と企業の契約で、
自給していた土地を追われた
マノボの家族が多く住んでいる。


子どもたちは、
ほとんど裸足だが、
小学校に行くときには、
せめてすり切れた
ゴム草履を履く

本当は、
ゴム草履ではなく、
靴を履く規定に
なっているのだが・・・

そのようなわけで、
古靴の支援は、
古着と並んで、
本当に喜ばれる
支援なのだ。


靴を持って、
大喜びで家に
かけていく子どもたち


この家などは、
屋根がトタンで家自体も大きく
まだ経済的に良い方だ。


現地に足を運び、
時には寝食をともにして、
経済的な貧しさの不幸と、

心の豊かさと美しさを、
自分の目で見て
体験する事は、

今の日本人、
特に若者たちにとって

欧米やオーストラリアなどに
体験留学するよりも、
大きな収穫だと思う。









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