戦争と平和構築
2008年の記録から
(4)


 

しかし、
現地の状況は
非常に良くない

炊き出し支援
の内容


炊き出しは、
一ヶ村で週三回×三週間
=合計9回します。
現在、カラカカン、バルヤン、タプドク、
マカシンディク、パイドプランギ
タキパン、ラガィエンを計画しています。
一カ所で200人前後と想定し、
17歳以下の子どもと妊婦を
主なる対象にします。
一村の予算を計算したところ、
およそ3万5千円で、
200名ほどの子どもが
9回の食事を食べられます。
これによって、
栄養失調による病気等から、
保護できると考えています。

食事内容は
1*モンゴ豆と小魚の煮込みとお粥
2*ロスカルド、鶏肉が入ったお粥
3*サンポラード、ココアと
   砂糖がはいったお粥

料理は、現地の母親たちと、
スカラーたちが行います


12月31日 
大晦日の炊き出し


スカラーたちによる、
大晦日の炊き出しが始まった。
中には、自分たち自身が、
難民状態になっている子たちもいる。

そうした子も、
被害者で受け身の状態から
積極的に、同じ立場の、
時には、自分以上に
厳しい状況に置かれた子たちを助け
種々の困難や病気の子を
救済することによって
前向きに生きる力を獲得する・・・

でも、いつもながらこの子どもたちの
笑顔がうれしい!!

8月に戦闘に入って、
炊き出しプロジェクトは
合計4回、
20カ所を超えた。


毎回、
最も困難な地域を選択しながら、
20箇所の場所で、週で数えると12週。
一カ所で200人から300人ほどの
子どもたちが対象だから、
5000人ほどの子どもたちに
食事を提供したことになる。

一カ所で週三回、
三週で合計9回の食事だから、
45000食を提供している。

驚くべき事は、
これが、蚤のような小さなNGOによって、
しかも、100パーセント
個人の寄付によってなされている事だ。


今年度の寄付総額は、
これから4月に向けて
外部会計監査士の
サインが入ったものを
ネット上でも公開します。

時には、日本の幼稚園の子どもたちや、
小中高の学校の生徒たちなどの寄付で
賄われているます。

そして、そのほとんど全てが、
現地の子どもたちの支援のために
使われているます。
人と人、一人と一人と
真剣に向き合う支援活動、
これぞミンダナオ子ども図書館MCL!!


ただ、6年目に入って
いくつかの問題もある。

最大の問題は、
日本人スタッフが居ないこと!!!!
現実には、日本事務局の
山田順子さんと私だけ。
山田さんはおもに
連絡取り次ぎが仕事で
私も含めて、
無給の完全ボランティアだ。
(2008年時点の記事)
**********
2018年には、
宮木梓さんが
現地日本人スタッフに
なってくれています。

*******

現地スタッフは、
ソーシャルワーカー、図書館司書、
会計の専属も含めて11名いる。
彼らの給与も、現地の平均の5000ペソ。
2018年現在、
スタッフは25名で
ほぼすべてが卒業生たちで
物価上昇にもより
給与は倍の10000ペソ


ミンダナオ子ども図書館の給与は
大卒のデパートの正社員や
私立の学校の先生なみ。
ただし、公立学校の先生は1.5倍で
公務員は、軍人を含めて3倍ほど・・・。
他のNGOは、公務員並みの高給取りで
3倍以上であることを考えると
NGOとしての給与は安い。

しかし、保険と年金はMCLで負担し、
みな一緒に食事をして
米は自給していて
スタッフも家族も食費はただ。
敷地内に家も建ててあげて
家族で住み込んで生活費もただ。
仕事場と家庭の境もなく
赤ちゃんをあやしながら仕事をしたり
子どもが仕事部屋で遊んでもOK。

80人余りの親のいない
奨学生の子たちと同居しているので、
奨学生たちがみな、
赤ちゃんを抱っこしたり
スタッフの小さい子たちの
面倒を見てくれるので安心。
ご飯も彼らが作ってくれる!

頼めば喜んで、
洗濯もしてくれる。
奨学生たち曰く
「だって、ここでは
イスラムもクリスチャンも先住民も、
スタッフもその赤ちゃんや
子どもたちも
みんな一つの家族だもん!
そうでしょ、パパとも!」

スタッフたちの医療と教育もただで、
病気も家族は、
入院から手術までMCLが負担し
学費も公立に限り、大学までただ。
北欧の社会福祉を意識して・・・。
その結果、
ミンダナオ子ども図書館にいると
「子育て」という言葉がおかしくて
ほうっておいても「子育つ」場所。
山の村のような
コミュニティーになっている。

賃金にも、大きな格差はなく
運転手もプレシデントも、
家事指導員もソーシャルワーカーも
ほぼ、同一賃金になっていて、
給与は、ほとんど手元に残る。


朝起きて、花壇の
お花を世話する子どもたち

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雨が降ってるのに
滑り台

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ミンダナオ子ども図書館の
日常風景

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ただし今(2008年)の問題は、
日本人スタッフが松居友だけで、
季刊誌やウエッブサイト、
1500名あまりの寄付者の対応から
難民救済や医療支援、
スカラシップ活動などの
実質的な活動をしていることだろう。

事務処理も現地で
一人でしていることもあって
寄付を下さる方々への、
事務的な細かい対応が
欠けている状態になっている。
具体的には、
下さった寄付へのお礼の葉書が遅れたり
例えば、寄付者の方々から、
「自分は今年、いくら寄付をしましたか?」
と質問されると、調べればわかるのだが、
難民救済などに駆け回っていて
事務をしている暇がない。
その様なわけで、今のところ
「ご自身の責任でお願いします」
という事になってしまう。

日本的感覚からすると、いい加減な・・
と言う事になりそうだが、
月給が10倍の日本人スタッフを雇って、
寄付を消費するよりは
皆さんの自主的な協力を仰いで、
皆の力でNGOを
推進できればと思っている。
ただ、問題を解決するのに、
何としても欲しいのは、
日本人の現地スタッフ。
端的に言うと、
事務仕事を補佐してくれる人。
しかし、現地での活動は、
危険な仕事でもあるので、
私の方からお願いできないし、
募集する勇気もないのが事実だ。
**********
(2018年には、
宮木梓さんが
現地日本人スタッフに
なってくれています。)

*******



国軍による炊き出し

今回は、
軍が炊き出しを行った。

前回行った奥の村には
行けなかったが、
今後いくつかの村を調査し、

避難民の状況を把握。

救済支援を継続して
いかなければならないだろう。


新年の支援で
皆様から
送られてきた
古着をもらって
大喜びの子どもたち



































とにかく、
戦争だけは、
やらないで!



毎年数回
洪水が起こる


東南アジア最大の湿原
リグアサン湿原に近い
イスラム地域では、
毎年のように
年に5,6回は大洪水が起こる。


湿原地帯には
およそ5000世帯が住んでいて
おもに魚をとって
生活している漁師さんたち。


しかし、
洪水が起こると
水は床上から
時には軒下まで達して
町に避難しなければならない。






町周辺の村も
水につかってしまう。






小さい子を抱っこして
親戚の家や学校に
避難する子供たち。


学校に行くのも大変。





















町に親戚のない人たちは
モスクなどの外に
避難する。







学校に避難してきた
子どもたち。




























食べ物がないから
ぼくたちで
魚を捕まえよう!



































ミンダナオ子ども図書館の
奨学生の子たちもいた


今は、
ミンダナオ子ども図書館に
住んでいます。

















戦争で
避難生活をすでに
数か月したうえに
洪水が襲ってきた。


アイサちゃんも
元気だった。



















ミンダナオ子ども図書館で
救済活動を続けた


















学校も
すっかり水の中



























洪水は
町もおそった




















































洪水被害を
受けている
湿原の人々に
ビニールシートを
配った
































ミンダナオ子ども図書館で
建てた保育所にも
子どもたちが避難していた





























































































湿原の村に住む
奨学生たちの
安否をたずねて


避難生活している
奨学生たちにも
会って
無事を確かめて
学用品などを
渡した。






とにかく、
無事で何よりだね。
下の子も、
私を護衛するために
鉄砲をもっている奨学生

































戦争が
しばらく
治まっても
繰り返し
洪水が襲ってきた




























































































































































2003年の戦争で
海軍がプランギ河を遡り
この地に上陸して
破壊されたモスク
当時の戦争避難民は120万。
今回は80万人。
























さらに奥地へと
支援を続ける




















































学校もすっかり
水の中
































水が引いても
学校はボロボロ
ここには、2016年に
ミンダナオ子ども図書館
から応募して
日本のODAで学校を完成
洪水の避難場所として
床を一メートルほどあげて建設







晴天でも激流襲うので
おかしいと思ったら
上流のダムが解放されて
激流が起こされていた。
日本政府が支援目的で
造ったダムで
当時建設をしていた
韓国人の技師は殺害され
その後、
まだ完成されていない。

洪水と植林活動

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下は
第二次世界大戦の時に
日本軍が立てこもった要塞。
スペイン時代の要塞で
地下の防空壕には
日本人の遺骨が眠っていると
言われているが、
まだ調査はされていない。



戦争が終結して
ミンダナオ子ども図書館は
ここで平和の祈りを行った。












日本軍は、大戦で崩壊し
湿原地帯に逃げ込んで

その後、
イスラム教徒となった。
日系人と呼ばれ
私も湿原の中で数人会った。
反政府イスラムゲリラの
司令官になっている人もいる。


ミンダナオ紛争を戦った
「キムラさん」の正体

日系イスラム戦士、「日本への思い」を語る


すさまじい証言だが、当地のイスラム教徒の男性は多かれ少なかれ、誰もが同じような経験をしている。孫を抱いた今のキムラは、いかにも優しそうな“好々爺”だが、MILFの軍服に着替えて自動小銃を手にすると、ゲリラ戦を戦い抜いたイスラム戦士らしく表情が引き締まる。
 サイトへGO!


わたしたちは
支援活動を継続し続けた


























子どもたちは
悲しみに負けずに
元気だ
友情と愛こそが生きる力!




















































避難生活で
雨が降ると厳しい










雨にも負けず
友情と愛で
悲しみに打ち勝とうとする
子供たち











2008年は、
戦争とともに
繰り返し
洪水が襲ってきた































































































その度に
奨学生たちが
支援活動に向かった




















支援活動は
夜も続いた















































































銃弾で
ボロボロになった
小学校




後に
ミンダナオ子ども図書館から
日本政府に要望を出して
ODAで草の根無償基金で
ここにも学校を建設した。


平和構築と学校建築 
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戦争で両親ともに
亡くなった

アイサちゃんと妹は
奨学生でMCLに住み
大学生と高校生に



混沌の中で
松居陽

僕はこの世から四つ、
無くなってくれればと
心から願うものがある。
それが犯罪、無知、狂気、
そして戦争だ。
見るところ、
ある程度人が自由で平等であり、
権利を持つ社会では、
人が倫理や道徳に反した、
自分や、他者や環境など
周囲の生存を脅かす行動をとるとき、
たいがい周りは
それを犯罪とみなし、
正そうとするようだ。

僕にとって無知とは
学歴の有り無しとは違い、
個人が生き、
観察していくうちに
知った真実を知る、
また知る勇気を持つことが
出来ないという意味だ。
知ったことを知り、
それを持って考え、
解決し、決意し、
人生を創り上げていくことが
出来なければ、
上手く彩られた嘘や
正当化された悪事に
屈する可能性も
高いのではないだろうか。

狂気とは、理性的に考え、
行動することが出来ない状態を
示すのだろう。
有害な固定観念や感情に囚われ、
まっすぐ澄み切った
分析が出来ないと、
人の心は奇妙な
解決法を見い出し、
自己と周囲に
混沌をもたらすようだ。

争いとはなんだろう。
外見上、
二者が対立しているように見える。
あること無いことが飛び交う
コミュニケーションは、
弾丸のごとく、
とてもまともに
受け止められるものではない。
狂気に襲われた者達は、
心に平安を保ち、
単に情報を伝達し合い、
ひびの入ったお互いへの理解を
修復するのではなく、
一生懸命お互いを
滅ぼそうと努力する。
それが実弾によって
行われたものを、
戦争というのだろう。

では、争いとは
どのように起きるのだろう。
二者の間の理解の割れ目を狙い、
不正確な情報で
対立を扇動する者、
第三者は、
二つの勢力が争っている外見に
その陰をかき消すものの、
ほとんどの歴史上の争いに登場し、
その存在は
賢明な歴史学者によって
明らかにされている。
それは、時にとんでもない
真実を物語り、
第三者は多くの利己的な利益を、
それはまた
多くの人々の苦しみと
引き換えに得てきたようだ。
ピキット周辺で起き、
増長する可能性を持つ
今回の戦闘も、
思いがけない第三者が双方の
理解の不足を突いて、
対立を扇動し、
悪化させた可能性は
実に高い。
僕にとってそれは過言でも
パラノイアでもなく、
観測から行き着いた
論理的な推測だ。

それにしても
なんとむなしく醜いものだろう。
難民は家を追われ、
恐怖のうちに生き、
中には親族が殺され、
または行方不明になり
悲しみにふける者達もいるのだろう。
戦っている者達は
死に恐れ、
人間同士を殺し、
トラウマを得た心は損傷し、
生涯通常に生きていくのも
難しくなるだろう。
戦争を布告した者達は、
その非倫理的な行為を
正当化しようと骨を折り、
その決断が
恐ろしく破壊的なものだったと
認めるとき、発狂しうる。
それを周りから見る者達も、
人々の苦しみに共感し、
どうしようもない気持ちで、
人類の明るい未来への希望が
薄れていくかもしれない。

そして僕は、
それを煽った者は
一番不幸だと信じる。
自身の善良さを
認めることが出来ず、
自らを悪魔だと思える心を
持つということを、
感じることに恐怖し、
単なる肉体的な存在として、
ただただ死を恐れるだろう存在を、
僕は哀れむ。
果たして僕には何が出来るだろう。
出来ることならたくさんありそうだ。
まずは自身の精神の向上を
図っていきたい。
人の天然の善良さを信じていきたい。
正義の押し売りではなく、
幸せをつかみ、
生き方をもって
インスピレーションを与えていきたい。
こうした文を書くことだって、
決して無駄なことではないはずだ。


ミンダナオに
戦闘が
広がる中
ミンダナオ
子ども図書館に
スカラーたちが
集まり
平和の祈りを行った

平和の祈りは、
平和巡礼と称して、
本来はピキットの市庁舎の裏にある、
丘の上の要塞で
行われる予定だった。
この要塞は、
スペイン時代に建てられて、
その後、第二次世界大戦の時に、
日本軍が司令塔として使ったものだ。

地下壕がめぐらされていて
今でも、日本軍の遺骨があると
言われているが
危険地域であるという理由で
いまだに調査されたことがない。

当時の日本軍は、敗戦で追われ
多くの軍人が湿原地帯に逃げた。
いまでも日本人の血が混じっている
イスラム教徒がたくさんいて
私も出会っているけれども
イスラム反政府ゲリラになって
いる人も多い。

しかし、今回は、
ピキットの政情をかんがみて、
平和の祈りをする場所を
ミンダナオ子ども図書館に
決めた


祈りはまず、
平和を表現する踊りから始まった。
これも皆、スカラーたちが
自ら相談して決めたことだ。


その後、各部族の代表たちによる、
自分たちの言語の
祈りや歌が続いた。

とりわけ歌は、
他の宗教や宗派、
他の言語の歌でも、
みんなで歌った。

特定の宗教に属していても、
友人の持っている
異なった宗教に敬意をはらい、
友人によりそって、
背後から支援する気持ちで、
共に歌うことは可能なのだ。

アッラーの歌、
マノボの神マナマの歌、
イエスの歌を全員が歌う。

神は一つで、
呼び名と風習が
違うだけたと、感じる。

祈りながら涙を流し、
その涙が、
大勢のスカラーたちに
広がっていく。


民族は異なっても、
宗教が異なっていても、
平和に対する願いと愛は同じ。

日本からも、
日本キリスト教団
小田原教会所属のI氏が祈りを捧げ、

マノボの代表として
ガボン牧師が
マノボ族の祈りをささげた。

そして、最後の締めを
カトリックを代表して
山元眞神父が話された。

事態が緊迫しているだけに、
祈りに込める思いも深かった。
イスラム代表のホサイン師は、
妹の突然の死に帰られたのが残念!

代わりに、スカラーのプレシデント、
イスラム教徒のバイヤン君が
感動的な祈りを述べた。

これらの祈りは、
ミンダナオ戦で亡くなった
多くの現地人、
そして、世界大戦で亡くなられた
米軍と日本軍の兵士から始まって

現代に至る戦闘で
亡くなった人々の霊を慰めるために
ミンダナオ子ども図書館が
音頭をとってはじめるものだ。

来年こそは、
ピキットの要塞跡で開催し
毎年、ミンダナオ子ども図書館の
スカラーを核にして
開催していきたいと思っている。

次回は、
仏教界の方々も参加されるだろう。

関連記事は、
行橋カトリック教会のサイトで
今回の訪問の報告が載っています


私(松居友)にも、
話す機会が与えられたので、
こんな内容の話をした。

「言葉で平和を語ることも大事だけれど、
行動で示すことも大事。
たとえば、シラミを採ること。」
(全員?????)

「ミンダナオ子ども図書館では、
イスラム教徒もクリスチャンもマノボ族も
仲良く暮らしている。
僕が見ていて、
一番平和だなと感じるのは、
イスラム教徒やクリスチャンやマノボ族が
いっしょになって互いの頭の
シラミをとりっこしているところ。」
(大笑い)

「世界中の人々が、
宗教や宗派を超えて、
シラミのとりっこをしたら、
世界は平和になるだろう、
ミンダナオ子ども図書館のように!」


ミンダナオ情勢と
平和の祈り


ご存じのように、
ミンダナオでは長く
イスラム教徒とキリスト教徒の対立が
続いていると言われています。
しかし、これは宗教対立ではなく、
先祖から受けついだ土地の
領有権をめぐる対立であることは、
現地でも知られています。
元々、先住民族の地に、
イスラム教が入り、
そのころは比較的平和だったのですが、
植民地主義による土地領有という概念に、
移民政策に乗った経済植民地化
(大規模プランテーション)等の
政策が加わり
この豊かで美しい地を
複雑な場所にしてしまったのです。


この問題を解決するために、
フィリピン政府とMILFは、
和平交渉を行ってきました。
近年は、
IMT(国際停戦監視団も入り、
マレーシアや日本政府も加えて
交渉が行われ、
昨年末には
いったんまとめられましたが、
フィリピン政府は、
最終回答を引き延ばし、
業を煮やしたマレーシア軍や日本も
一時撤退を決めました。


その後
フィリピン政府が歩み寄りを見せ
先月から、
交渉再開が宣言され、
再びマレーシアのクアラルンプールで
和平交渉が再開され、
仮調印までたどり着き、
8月5日には、
イスラム自治区の領有権をめぐって
最終決着が着く
という話になっています。


しかし、このシナリオは、
調印後新たに
ARMM(イスラム自治区)に
加入する事になる
地区の行政関係者や利害関係者には、
飲みにくい部分があるようで、
それが今後、
戦闘を交えた行動として
複雑化する可能性もあります。
ピキットの背後には、
広大な湿原が広がり、
相当の埋蔵量の石油や
天然ガスが湧出しており、
その権利をめぐる駆け引きで、
フィリピン政府だけではなく、
米国、日本、オーストラリア、
中国なども注目している事が
事態を複雑にしています。


ミンダナオ子ども図書館は、
特定の宗教には関わらない、
非営利、非政治団体です。
よって、いっさいの政治的、
宗教的背景で行動いたしません。
犠牲となる子ども達や女性、
お年寄りを中心とした
救済支援活動を、
皆様の力をお借りして
実行していきます。


また、8月23日には、
ピキットの丘に残る、
世界大戦中に日本軍によって
防空壕が掘られた
スペイン時代に築かれた要塞跡で、
イスラム教徒、キリスト教徒、
先住民族のスカラー300名と、
日本からの訪問者や
現地のピースゾーンの人々や
宗教指導者と共に、
戦死した日本軍人から
現在の戦闘の犠牲者を含めた
慰霊祭を計画しています。

ほら、学用品の入った
バックパックを持ってきたよ。
支援者に写真を送るから
笑顔でわらって。






時には、
あふれる川をわたって
避難民の救済に向かいます。
運転手は、松居陽です。


村から、
この子と一緒に
ここまで逃げてきたの。


避難生活しながら
赤ちゃんを抱いて・・・。


避難生活だと
食べるものもないの・・・
戦争は、もう嫌!


いつも、
お姉ちゃんといっしょ!


みんなで子育つ!
真ん中の子が親がいなくて、
奨学生になりました。


村で作った保育所
床は土だけれど
まだ、良いほう。


真ん中にいる子が
ミンダナオ子ども図書館の
奨学生に!

日本のODAであるJ-BIRD
草の根・人間の安全保障無償資金協力で
ミンダナオ子ども図書館が提案した場所に
最初の小学校が建てられることが決定し
大使館から調査が入り
MCLのスタッフも同行した。


大使館担当者、エンジニア、
教師、そしてスタッフ。
笑顔で写っているが、
周囲にたくさんの反政府軍がおり、
終始表情は無言で
顔は強ばっていたと言う。


しかし、残念なことに
マレーシアで行われていた
反政府勢力MILFと
フィリピン政府の和平交渉は、
完全に頓挫した形となった。

隣村のアレオサンでは、
下記のごとく、
2000を超える難民が出ていると、
先週は下記の記事で報告したが、
状況は急速に悪化してる。

今回の学校調査にも、
私(松居友)は、現場まで
同行できなかった。
初めてのことだ!

現地には、反政府軍が大量に集合している。
MILF軍とは、しばしば面会したことがあるが、
今回は事情が異なる。

軍は、広範囲から集まっているので、
地元のMILFだったら
司令官も、私の事も知っているのだが、
他所から集まってきて
戦闘の準備をしているとなると危険だ。

報道されていないが、
アレオサンの戦闘で
かなりのMILF兵士が死んだ。
その結果、反政府勢力は
かなり逆上しているという。


しかし、子ども達はかわいい、
読み聞かせをしたり、
その中には、
ミンダナオ子ども図書館のスカラーの子達もいる。
彼らが、厳しい難民の状態に置かれたら、
私たちは、何としてでも
救済活動に行かなければならない。

親が亡くなったら、
ミンダナオ子ども図書館に引き取り、
困窮している家族のために、
子ども図書館を難民キャンプとして
解放することも視野に
入れなければならないだろう。

ピキットからの帰りには、
政府軍の装甲車が、
幾台も戦闘地に向けて
走っていくのを目撃した。

戦闘の火種は、
アレオサンからミッドサヤフにも広がっており、
ピキットから、場合によってはカバカン
アラカン、カルメンなどが
飲み込まれるだろう。

ミンダナオ子ども図書館に住んでいる
スカラー達は無事だけれど、
現地にいるスカラー達の事を考えると
本当に悲しい。


そのような戦闘の
不穏な状況のなか
洪水がピキットを
襲った

このピキットの洪水に関しては、
日本でも報道されたようだが

ジャーナリストで現場に入った者はいない。
危険地域に指定されているので・・・
政府の許可が、降りないのだという。

しかし、私たちは、
ピキット市のDSWD(福祉局)と協力して、
難民救済の支援活動を開始した。

まずは、この地域の中のプノルと
パイドプランギ村に
食料支援を持っていった

今回の食料支援は、
市当局によるものだ。
しかし、ミンダナオ子ども図書館は
平和なときにも村々とつながりを持って
行動しているので
市当局のほうから、同行の要請が入ってきた。

まずは米の支給だが、
米の値上がりもあり、
一家族1キロというわずかなものだ。


洪水が発生して2週間がたち、
市のダンプトラックで
途中までは入れたけれども、

しかし、腰を越える水が、
激しく流れる地域で、トラックはストップ。
避難民の人々は、少しでも
乾いた場所を見つけて
避難生活を余儀なくされていた

こうした水害は、
ピキットでは、年に五,六回ほど
しばしば起こり、
最初はなぜかわからなかった。

しかし、次第にわかってきたのは、
原因は、この地域の雨というよりも
この上流にあるフィリピンの最高峰
アポ山の広大な山麓地帯で、
1960年代から現在に至るまで
ことごとくジャングルが伐採されて
ラワン材、マホガニーなどの熱帯材が
ベニアや家具の原材料として
主に日本に輸出された結果だという。

熱帯材の伐採の結果、
保水力が無くなった広大な高原地帯に
雨が降ると、たいりょうの水が
ミンダナオ最大のプランギ河に流れ込み
東南アジア最大の湿原と呼ばれている
リグアサン湿原に洪水を起こすのだ。


日本も深く関わっている洪水なのだ。
(ショックで小さなNGOにすぎないけれど
MCLでせめて何か行おうと後日
先住民の住む高原地帯に
経済支援もかねて
ゴムやカカオの植林を始めた)


私たちは、副市長(写真の黄色い服の方)と、
車で行きどまった地点から
舟に乗り換えて、
さらに奥地の調査に向かった。

このあたりは、
MILFのテリトリーだ。

上の写真は学校だが、一部には、
舟で奥地から避難してきている
難民が住み着いている。

もちろん学校は閉鎖状態


この水の下に、つい近日まで
何とトウモロコシ畑が
広がっていたとは・・・。

想像を絶する光景だった
苦労して育てた
農作物は、すべて壊滅。

彼らは、かろうじて
乾いた場所に避難すると
魚を捕りながら
それをほとんど生で食べて生活している。

もちろん、現金があろうはずも無く、
残りの魚を売って
日銭を稼いで生活している。

広大な湿原の対岸の
ARMM(イスラム自治区)地域の
小学校は、半分ほど水没している。


人々の多くは、
多少でも水の少ない土地に
避難している。

移動は、
バナナを切った筏を使ったり
ボートに頼っている。

最大の問題は飲み水だ。
洪水の汚れた水を飲んでいるので、
激しい腹痛と下痢の症状が出ている

また、素足で水の中を歩くので、
足を切り、
傷口が膿んでいる子が多い。
正露丸の蓄えは多少有るものの、
抗生軟膏が不足している。
風邪の症状も心配だ。

医療ケアは、
これから水が引いていく過程で、
より重要になってくるだろう。

私たちは、
スカラシップを受けている現地の若者たちと、
水が引くに伴って医療活動を展開しようと
話し合っている。

食料もないので米の支援の問題もあるが、
緊急の支援をお願いできる場合は

振替用紙に:
ピキット支援または洪水支援と記入して
ミンダナオ子ども図書館の口座に
振り込んでいただければ、
今回の洪水緊急支援の活動に充てて行きます。
食料も含め、全額を洪水支援に充てます

口座番号はいつもの通り
加入者名『ミンダナオ子ども図書館』
郵便振替口座番号 0010 0 018057

ピキットの洪水被害は、
今後もたびたび続いていくだろう

下は、市のダンプトラックと、
支援の米を受け取りに
近隣からボートで来た人々たち。

通常は、
このあたりは
トウモロコシなどの畑。


洪水でも明るさを失わず、
けなげに生きている
子どもたち!


こんな子どもたちを見ると
がんばる勇気が
湧いてくる!

洪水と植林活動

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洪水で緊急支援を
必要としている
カバサランに
DSWDと
共に向かった

もともと、年に1,2回、
大きな洪水のある地域だが、
今年の状況は異常だ。
数ヶ月の間に、すでに4回も
大きな洪水に襲われていると同時に、
なんと退いたかと思うと、
数週間後にまた襲ってくるのだ。

すでに前回、
難民キャンプのある
パイドプランギの状況を報告した。
しかし、他の村々の事が
気になって仕方がない。

たとえ戦闘地域から多少離れていたとしても、
川沿いの村は大変だろうと想像し、
ミンダナオ子ども図書館で、
独自に行動を起こそうとしていた矢先に、
市の福祉局が食料支援を決定。
同行することになった。

日本政府が寄贈した
ODAのダンプカーが、
実に役に立っている。
ミンダナオ子ども図書館の支援活動にも
福祉局を通して
私たちも繰り返し使わせてもらっている。

米を積み込み、グリグリ村まで行く。
洪水の影響を受けている
第一の村は、ブロッドだ。
ここは、ミンダナオ子ども図書館で
保育所を建てたところだが、
水が多くて近づけないので、
住民にグリグリ村まで来てもらって
支援物資を手渡した。

さすがに皆、
ミンダナオ子ども図書館の事をよく知っている。
私が珍しい日本人であることもあるが、
「うちの息子がスカラーでお世話になって・・・」
などと声をかけてくれる。

下は、ヘアリップを治療した少女。
久しぶりに再会して、うれしそう、
こちらもうれしい。
ご両親もうれしそうだ。

こういう再会があるから、
この仕事は辞められない。
また、人々が私のことをよく知っているので、
安全も保たれている・・・・
と言っても、危険は常に存在している。

グリグリから、
いよいよ舟に乗ることにした。
と言っても、普段は船着き場ではない。

上の写真は、
一見船着き場に見えるが、
洪水の無いときは、ただの畑なのだ。

ごらんのように、
庭も、野菜畑も、
ココナツの林も水の中だ。

ここから先にある数か村が
水に浸かっていて、
その広さは広大だ。

私たちは、ここで
配給の米をエンジン付きボートに移し替えて
湿原地帯の奥へと向かった。

遠くに家々が見えるが、すべて水の中
広大な地域が水に浸かっている

一見湿地に見えるが、
本来は畑だった場所。
米をもらって、
ブロッドに帰るところの家族たち。

以前にも会ったことのある家族たち。
普段は、歩くか
車かバイクで帰るのだけれど・・・。

まるで、海か湖の上を
走っているようだが、
遠くの家々を見ていただければ

ここが本来、陸地でしかも、
トウモロコシなどの
畑であることがわかるはずだ。

家々はすっかり軒まで水に浸かっている。
難民化している人々もいるが、
驚いたことに、
2階に住んでいる家族もいる

舟をつないで、魚を捕りながら、
それを市場に売って生きている。
しかし、この汚れた水を、
毎日飲んでいるのだ。

世界一大きな
七メートルを超すワニも
この湿地帯には住んでいます。
それを、後日
『サダムとせかいいち大きなワニ』
(今人社)という絵本で書きました。
読んでみてくださいね。



購入サイトへGO!

カバサラン村の
学校に着いた
学校も、
周囲の村も
すべて広大な
水の中だった

「これでまあ、よく生活をしている」
と驚いた。
見渡す限りどこもかしこも
水水水

まったく、陸地というものが見あたらない・・・
教室の中も、学校の周囲も、
村の広場も

小さな売店も
家という家は、すべて水の上。

洪水になったら
どこに避難するのですか?と聞いたら
小さな小舟に避難して
そのうえで寝泊まりするのだという。

この様な場所に、
魚以外に食料が有ろうはずもなく
人々の生活は困窮している。
ここにも、後日
日本のODAの支援をJICAと
政府に提案して小学校を建てた。


しかも、悪いことに、
ピキットの西では
戦闘が起こっている。


戦闘による難民キャンプの方には、
国際的なNGOやワールドフード、
赤十字の食料支援があるが
(今はそれも滞っている)

洪水による避難民たちは、
まったく戦争避難民支援の
対象にはならない。
かろうじて地方自治体のDSWDだけが、
数キロの米を支援したのみ。

現在、ピキットで最も困窮しているのは、
長期滞在の戦闘難民と
洪水の中の人々だろう。

全く支援の手がさしのべられずに、
しかも、ピキットの3分の1以上といった、
広大な領域に住んでいる人々と
その家族が困窮している。

戦闘難民を加えると、
3分の2の広大な地域が
大変な状況だと言える。


中でも、
最も困っているのは、
医療の分野だと判った。


とりわけ、お腹を壊して、
激しい下痢の症状が多い。

次に、風邪と熱。
ここでは、子どもたちの病気が
多いことがわかってきた。

そこで、
ミンダナオ子ども図書館で、
近日中に、ドクターと協力して
洪水地域を対象とした
メディカルアウトリッチ
(医療支援)を行うことに決定した。
他のNGOが皆、
難民キャンプに向かっている現在。
ミンダナオ子ども図書館以外に、
この様な地域を支援するNGOは、
現在ないだろうから・・・

もちろん、
炊き出しや医療も継続していく。


川沿いの
戦争避難民の
キャンプが
洪水に
見舞われている

パイドプランギに近い、
村道上の難民キャンプが、
激しい洪水に襲われている。

つい先週に、
読み語りで訪れた場所も、
完全に水没し、
村にはカヌーでしか、
近寄ることが出来ない。

難民たちは、
戦闘の恐怖の後
さらに水害に襲われ、
踏んだり蹴ったり。

水害は、R7と呼ばれる
川沿いの村々も襲い、
タリタイもラジャムダも水のなかだ。

2年前に、USAIDで作られた、
比較的立派な村道が、
水害を防ぐ防波堤の役割も果たしているが、
逆に川沿いに建つ家々や村は、
屋根まで届く水害に犯されている。

海外による道路支援が、
地域的に水害をひどくした形になり、
R7では、戦闘ではなく、
水害による大量の難民が出ている。

パイドプランギとプノルの分岐点にある
道路沿いの難民キャンプは
激しい洪水の流れで
仮小屋がさらわれてしまった。


かろうじて
水が届かなかった家々で、
難民たちはさらに不自由な生活を
しいられている。
床も、泥だらけで
眠ることも出来ない


ここにすんでいるスカラーの
アイサちゃんの事が気になった。
何とかたどり着くと、
彼女の仮小屋も水の中だったが、
竹で高床をしいて
かろうじて生き延びていた

戦争で両親とも失ってしまった
アイサちゃんと妹に
ミンダナオ子ども図書館に
来るように誘ったが、
家畜がいるので置いていけないのだと
おばあさんが語っていた。
手元にあったパンを袋ごとあげた。

アイサちゃんと妹は、
2018年の今は
ミンダナオ子ども図書館に住んでいる。
アイサちゃんは、もうじき大学生に
後ろで見ている妹は、高校生に!

難民キャンプの概況

「戦闘は、一時的であるにしても治まっている」
という判断の元に、避難民は退去させられ、
ピキット市中心部の穀物倉庫や
学校を利用した難民キャンプは、
現在ほとんど閉鎖された。
学校も洪水に襲われてる地域を除いては、
授業を再開した。

あれだけ頻繁に見た
赤十字をはじめとする国際NGOも、
約3週間の活動の後に姿を消した。
たまに、現況視察をしているが、
米や食料の支援も無くなった。

難民は、確かに市中心部からは
消えたけれど、
追い出された人々が、
市の周辺部に移転している。

とりわけ可哀想なのが、
戦闘で家を焼かれた
アレオサン近辺からの難民たちだ。
まだ散発的に戦闘が続いており、
恐ろしくて帰れないのと、
帰っても、家が腐って崩れてしまい
家がないのだ。

さらに、山沿いのカラカカンやナラパアンでは、
山に反政府ゲリラが集結しているので怖く
新たな難民となって
バランガイと呼ばれる村の中心部に
集結し始めている。

現在はラマダン期間中で比較的平穏だが、
ラマダン明けと同時に
反政府組織は、
戦闘を開始すると言われている。

政府軍も集結を開始しているし、
イスラム自治区内では戦闘が継続しており、
時々ピキット市内でも
砲弾の音を耳にする。

現在NGOで活動しているのは、
ミンダナオ子ども図書館と
ポンポン神父率いるOMIの
カトリック教会のみ
という状況に再びなってきている

取り残された難民は
僻地で3ヶ月目に入り
病気などが広がり
死亡する子も出てきている。
難民生活に疲労が見える時期なのだが
国際支援は、消えてしまった。

よりによって
そのような時期に、
洪水が襲った。
今年の気候は確かに変だ
突然の集中豪雨が、
毎日のように襲ってくるのだから

洪水と植林活動

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下の3枚の写真は、つい10日前に、
パイドプランギで実施した
医療と読み聞かせのプロジェクトの写真。
道路は乾いており、
人々も通常の生活をしている。




しかし、さらに下の3枚の写真は、
まったく同じ場所の
先日(9月5日)の写真。
写真のなかに、
同じ大木が写っているので
かろうじて同じ場所だとわかるが、
周囲はどこまでも
水だらけだ。



下の写真は、
山元神父と行橋カトリック教会
が寄贈した保育所だが、
今は難民キャンプとなっている

子どもの健康被害がひどく
風邪、熱、腹痛、皮膚病が蔓延し
死ぬ子が出てきている


原因の多くは、衛生状態と共に
食生活の不足による
基礎健康の悪化だ。


私たちは、かろうじて
この地にカヌーで到達したが、
北海道時代に鍛えたカヌーの腕が、
この様なところで役に立とうとは想像もしなかた。
笑顔で写っているものの、
顔はひきつり、心は鉛のように重たい。

戦闘の進行状況が、
精神や心に絶え間なく重圧として
覆い被さってくるけれども、
一人の力では、
どうにも跳ね返すことの不可能な重圧。
このような経験は初めてだった。

雨がふれば、
難民キャンプでずぶぬれになっているだろう、
子どもたちの事が気になってしかたがない。
砲声の中で、
蚊やブヨにさされて暮らす日々。
汚れた水を飲み、
日に一食も食べられない生活を想像すると
胸が痛む。

私自身も55歳で、
体も精神も、さすがに無理は利かなくなった?
友人たちは、定年退職を
し始めているというのに
ミンダナオ子ども図書館の仕事は、
緒に就いたばかりで、まったく試練の連続だ。

たまに自分の写っている写真を
サイトや機関誌に載せないと、
「現場写真は現地スタッフに撮らせて、
作家の手並みで解説だけを
好きに書いているのでは」
と思われるらしい・・・・。
すべて現場に足を運び、
スタッフに早急の対策や指示を出し、
写真も記事も、
すべて私と息子が撮っているのだが。
下でビデオを撮影しているのは
息子の松居陽。
現在2018年は、
ミンダナオの女性と結婚して
アメリカに住んでいる。


ピキットの戦闘が勃発して以来、
支援者への対応も不規則で、
寄付のお礼の葉書も遅れがちになって、
最近はしばしば
メールで遅滞のお叱りを受ける。
豊かで平和な日本と、
ミンダナオの現状の
あまりの相違が理解できず、
怒り心頭にきて、
離れていく支援者もいらっしゃる。

何しろ、この様な危険と
常時隣り合わせの場所で活動しているので、
日本人は私一人
日本人ボランティアも日本人スタッフも居ない。
(現地NGOですら、怖がって寄りつかない地域)
去る鳥は追わずに、
現地の人々を最優先して、
ゆっくりと地道に活動しよう。



それにしても恐ろしい事になった。
下の写真は、
先週戦闘が起こった、
タブドク村だ。


椰子の木の傷は、
虫食いではなく、
銃撃戦の掃射跡だ。

椰子の幹が、
弾丸で炸裂している
砲弾で見事に椰子の木が折れて
裂けているものもある。


来週から、この村とクランボク
ブアランの子たちを対象に
炊き出しを始める


洪水は、
R7と呼ばれる、
川沿いの村々も
襲った

水量は激しく、
ムアランでは、200世帯が
鉄砲水で家を流されたという。

写真のように、
水は軒下まで達している。
道は水でところどこと寸断され、
タリタイからラジャムダまでも
容易にたどり着くことができない。

それでも、元気に
家の庭で泳ぐ子どもたち。
でも、飲み水が心配だ。

道路は至る所で
寸断されている。

ラァジャムダ高校も
水の中だった。

この地域には、戦闘による難民は居ない
しかし、洪水による難民が出ている。
水は数日で引くので、
戦闘難民のような悲惨さはないが、
戦争状態で復旧は遅れるだろうし、
病気がここでも心配だ。

この比較的立派な村道は、
2年前にアメリカ政府の支援(USAID)
で作られたものだ。
高く作られた道路は、
堤防の目的も担っているようだが、
川沿いに近い家々は、
軒まで達する水の下に、
水没するようになってしまった。

この経験を、
今後の復旧やODAによる道路や
灌漑整備に注意深く
活用しなければならないだろう。

現在の難民キャンプの問題は
長期滞在組が残り、
洪水や衛生、
そして栄養失調で
病人が増えていることだ。
とりわけ、子どもたちや
赤子たちの病気が増え
死者も出てきている。
下の婦人は、強度の腹痛で
病院に運び
翌朝、緊急の手術をした

ヘアリップの少女は、
緊急ではないけれど、
難民キャンプで出会ったからには、
完治する最後まで面倒を見よう。


難民キャンプで大やけどを負った少女は、
体の方は良くなっていたのだけれど、
父親が無理矢理、退院させたために
足のやけどが膿んでいた。

たまたま訪れたカラカカンで見つかり
再び病院へ・・・・
今度は父親も平身、協力してくれた。
この後、少女は奨学生になり、
2018年現在は
高校生になりました。


一方、栄養失調の少女は
親の意向で病院から出て
難民キャンプにもどった
そこで、ビタミン治療を続けるが
両親に、「ミンダナオ子ども図書館で
小さな家を建てるから
そこで半年か一年治療を続けるように」
提案したが、了解が得られない。
親次第で治療の道筋が立つのだが
今後もビタミン治療と栄養補強を
続けていくが、状況は難しくなった


炊き出し支援の実行

ミンダナオ子ども図書館では、
今週から、難民の子どもたちの
フィーディングプロジェクト
(炊き出し支援)を開始することにした。
米の支給だけだと、
一家の大人や大きい家族が食べてしまい、
子どもにご飯が当たらなくなるからだ。
そこで、週3日、三週間継続して、
17歳以下の子どもや
妊婦のみを対象に炊き出しをする。

メニューは、DSWDの
グレイスさんが考えた。
栄養の偏りがないように工夫し、
出来るだけ腹一杯食べさせることが目的。
この企画を、医療と同時に行い、
土曜日はそれに読み語りを加える。
時間の空いているスカラーが手伝うが、
おもに現地の母親の協力を得る。

炊き出しは、
一ヶ村で週三回×三週間=合計9回します。
現在、カラカカン、バルヤン、タプドク、
マカシンディク、パイドプランギ、タキパン、
ラガィエンを計画しています。
一カ所で200人前後と想定し、
17歳以下の子どもと妊婦を
主なる対象にします。

一村の予算を計算したところ、
およそ3万5千円で、
200名ほどの子どもが
9回の食事を食べられます。
これによって、
栄養失調による病気等から、
多少は保護できると考えています。

食事内容は
1*モンゴ豆と小魚の煮込みとお粥
2*ロスカルド、鶏肉が入ったお粥
3*サンポラード、ココアと砂糖がはいったお粥



炊き出しと医療を
決断した
最初の土曜日
スカラーたちと共に、
すぐに企画を
実行に移した


現地視察、
現場のニーズの確認
対策をDSWDのグレイスさんと
その場で検討。

翌日の早朝ミーティングで、
スタッフと早急に検討し
夕方のハウスミィーティングで
スカラーたちが実行計画を作成


三日後には、プランを実行する
この素早さ!!!
これぞ、ミンダナオ子ども図書館の強みだ。

緊急支援が、必要な現場では、
この様な即断実行が欠かせない。


上は、早速開かれた、
カラカカンでの読み語り、炊き出し、医療支援。
対象は17歳以下の子どもたちと妊婦だが、
栄養失調の親にも・・・・

この地域は、G7と呼ばれている
ピースゾーンに入っていて、
ごらんの施設も大渕みほ子さんが関わった、
ピースビルディング。
日本の支援で完成した。
普段はあまり
使われていないように見えたが、
この様なときこそ実力を発揮!

この裏に、イロンゴ系、
道の奥にビサヤ系、
離れたところにムスリムの難民がおり
山岳地域に、ミンダナオ子ども図書館の
スカラーたちの村がある。
ここに現在多くの難民が
集まってきているのは、この山の方で、
反政府勢力が活発に活動しているからだ。!!

しかし、現在このことはあまり知られて居ず、
私たちが炊き出しを終えて
食事をしているときに
初めてDSWDのみなさんが、
初調査に来られたほどだ。



炊き出しが始まった

今日のメニューは
モンゴ豆と
干し小魚の煮込み


配給の間に
さらに先のナラパアンに
昨夜出たマノボ族の難民調査へ。

そのために
多くの写真を撮りのがしたが、
とにかく子どもたちは
おなか一杯になって
「ありがとう」
を繰り返していたと言う。


こちらは、カラカカンの
医療プロジェクト
病気の人に
無償で薬をくばる。

先日、10万円分を
買い足したが、
今後も、ダバオに出るたびに
医薬品を買い足し
補充していく必要がある。

ビタミン剤が足りない!

去年まで、私たちのスカラーだった
アスレーさん。
今年から、日本のNGO、
ICANのスタッフとして活動を開始。
事務所は、ミンダナオ子ども図書館に置き
常時、私たちと共に活動をする。

現在は、ピキット市の職員


仕事は、ピキットの現地報告で
ジャーナリストのような仕事だ。
私も、出版社で編集の仕事をしてきたので
一人前のジャーナリストとして、
育てていこうと考えている。
ちなみに、彼女のお父さんのホサイン師は
ミンダナオ子ども図書館の
ボードメンバーの一人だった。

洪水地区の医療活動

前号で、ピキットの洪水地区の
様子を伝えた。
とりわけ、洪水地区の子どもたちのなかに、
下痢、腹痛、熱が広がっている。

緊急支援を求めた結果
山本幸子さまから10万円が届いた。
うれしかった。
さっそくピキット市の福祉局DSWDを通して
医師に相談し、必要な薬を用意した。
薬代は10万円を超えたが、
不足分は医療プロジェクトの
予算で満たした。



ドクターは、
無休のボランティアで
参加してくださった。
看護婦も3名同行した。


さすがピキットのドクター
(住んでいるのはダバオだが)は、
こうした緊急支援に好意的だ。
「私の親戚は日本にも行っているが、
私はこのミンダナオにとどまって、
貧しい人々の医療につくすのが信念だよ」
ドクターは、そう話された。

ミンダナオでは、時々
このような僻地医療に命をかける
気骨あるドクターに出会う。

多くの医者が、
看護士の資格をとり、
海外に出稼ぎに行くのが
フィリピンの現状なのだが。

ミンダナオ子ども図書館にも、
いつか常駐の看護士を
置きたいと思っている。
クリニックもあると最高だが・・・・


上は、今回、
山本幸子さまのおかげで購入できた、
10万円分の医薬品だ。
やはり診察を始めて見ると、
圧倒的に多いのが
腹痛と下痢の症状だった。
それと、熱の症状。

洪水被害を受けている近隣の村に、
あらかじめ福祉局から伝令が入り、
子どもやお年寄りを連れて
人々が駆けつけた。
300人を超す人々が来た。
ほとんどが普段、
医薬品も買えない人々だ。

宝物でも持つように、
大事に薬を抱えて帰る姿が印象的だ。


医薬品は、大人用の熱や腹痛の薬が、
予想を超えて使用され、底をついた。
さらに、上記の緊急難民支援で、
8割方消費された。
その結果、第二回洪水医療支援の
場所として予定していた
川沿いのカバサラン村や
ブロル地域への支援が
不可能になってしまった。

この日は平日だったが、
ここでも、時間の割ける
スカラーの若者たちが手伝った
医師や看護士の指示で
医薬品を渡したり、
患者のお世話をしたり・・・



カバサランの
医療プロジェクト


先日、洪水に見舞われた
カバサラン地域を紹介した。
そのときに、人々が激しい腹痛、下痢、
高熱に困っていると言う報告をした


翌週、私たちは、
スカラーたちと一緒に
医療プロジェクトと読み語りを実施した。


ピキットのドクターと看護士が
同行してくださった。


上と下の写真を
見比べてみてください。
つい数日前の写真ですが、
上が洪水時、下は今回の写真




水は退いたが、
舟でしか、たどり着けない事に
代わりはない




今も、周辺は、
かなり深い水に覆われている


私たちは、医療を開始した。
ドクターが処方箋を出し
看護士が薬品を渡す


スカラーたちは
その指示に従って
お手伝いをしている


一方の木陰では
読み語りが始まった
読み語りは、
心の心のトラウマを解消する
心理治療!




この対岸は、ARMMの
ダトゥ・ピアンで激戦地の一つ
この村には、対岸からも
子どもたちが通っている
MILF系の地域


私たちも、かなり長く
この地域と関わってきているが


これから本格的に関わる地域の一つ。
MILFの力が強く、
対岸と協調をしながら
入っていく必要がある。


その中心でもある、カバサランと
良い関係を築くことが
今後の活動を左右する。


カバサランからの帰り、
すでにミンダナオ子ども図書館で
保育所を建てたブロッドを抜けた。
のどかな田圃のあぜ道を、
17歳前後の若者たちが、
散歩でもするかのように歩いていた。
通りすがりに、手を振ると、
うれしそうに笑顔で答えてくれた。
数人は、ミンダナオ子ども図書館の
私を知っているようだ。


彼らの服は、よれた迷彩服で、
手にはM61ライフルや、
ロケット弾が握られていた。
ミンダナオ子ども図書館の若者たちと、
ほとんど同じ年のあどけない若者たち。
学校に行きたくて
反政府組織に応募する子がは多い。
組織が戦闘参加を条件に、
スカラシップを出してくれるし、
食べ物も食べさせてくれる。


先進国からは、
少年兵の問題が声高に
非難され議論されるが、
少年兵を生み出す、
不条理な貧困や差別の問題の解決無くして、
少年兵の問題は議論できないだろう。


ミンダナオ子ども図書館に来た
若者たちの中には、
NPAやMILFに
応募する予定だった子もいる。


下の少年も、そのご奨学生になり
今(2018年)は高校生に!
わたしを守ってくれているのだが
戦争はしたくない・・・



医療プロジェクト報告
ヘアリップの子たちの
手術も終わりました




ヘアリップの子たちは、
緊急ではないが、
こうした子たちとの関係を通して
新たな地域と関係を築いていける
この子たちも
新たにスカラーとなれれば幸いだ。



のどに腫瘍が出てきた子を
病院でチェックすることに


もうすでに何人、この種の腫瘍を
手術してきたことだろう。
すでに拡大して、
手術が出来ない子もいる。


この地域に戦闘後、
こうした腫瘍を始め
奇形、未熟児が多いのは
劣化ウランのせいではないか
と、ある専門家の言葉


普段の
医療プロジェクトも
続いている
相変わらず
予算との戦いだ
   
松居 陽

MCLは、限られたスタッフと共に
複数の入り組んだプロジェクトを
同時進行しているため、
常に活動内容、スケジュール、予算などの計画と
整理を慎重に行わなければ、
寄付者の方々やプロジェクトの対象になる
子供達に対して顔を向けにくい結果が
訪れる可能性がありうる。

特に治安の不安定な地域や、
スムーズなシステムが存在しない場合の多い
ミンダナオでは、
上手く立てたつもりの計画も、
次の瞬間には一変していることも少なくない。
忍耐力と、考えを切り替える力が
十分に無ければ、
苛立ちを感じてしまうこともあるだろう。
6月から今まで、腫瘍を持った赤ん坊の手術と
栄養失調の子供の処置が行われ、
スカラーの中には
カリウムの不足で下半身が麻痺した、
不清潔な環境で皮膚病を起こした、
そして急な腹痛で入院をした等のケースが
医療の対象になっている。

全体の活動の感覚が
つかめるようになるためには、
一つ一つのプロジェクトに深く入り込み、
じっくり観察し、学び、
経験する必要があると思った僕は、
手始めに何かと脇に置かれがちな
医療プログラムを受け持つことになった。
計画上、毎月同一の限られた予算の中で
行われるプロジェクトだが、
すぐに手を打たなければならないケースが生じると、
処置の実行を優先することになるだろう。

MCLの医療プロジェクトは全スカラーをはじめ、
17歳以下の子供を対象としている。
さらにMCLは、患者の下に
スカラーやスタッフの中から責任者を置き、
完治するまでなるべく常に
側で見守らせる方針をとっている。

先月、病院で患者の世話をしていると、
一人のスカラーのいとこに当たる小児が
熱病で亡くなったという報告が入った。
僕はその足で、スカラーと共に
急斜面にあるマノボの村へ向かった。

小児の家では、
悲しみと啜り泣きが空気を満たしており、
死んだ子供を前に、母親は
やるせなさと絶望にあふれたありさまだった。
家の前では、男達が小さな棺おけを作っていた。
僕のお父さんが聞くところによると、
彼らは自分達の貧乏さを恥に思い、
助けを求めなかったとか。
さらに、MCLの医療プロジェクトは
スカラーにのみ当てられたものだと
勘違いしていたようだ。

僕達は、彼らとプロジェクトの概要を確認し、
今後こういったことが起こらないためにも
MCLの活動をパンフレットにして
各村に配布する必要性を認識した。
さらに、ピキット方面の洪水の後に起こった
伝染病等の薬代も、
少々プロジェクト費から出されている。
先の見えないことも多いが、
信用の置ける情報の入手手段によって、
できるだけ早く、
多くの子供達を救う手伝いをしていくつもりだ


マカブアルの小学校に
最後の届け物

日本政府のODA支援を
ミンダナオ子ども図書館がお手伝いする形で
建設を進めてきた、
マカブアルの小学校

日本国民の税金によって、
平和支援として建てられた。
そのお預かりしていたお金の銀行での利子が
10000円ほどあったので

最後に
トイレの掃除道具を買って納めた。


マカブアルの小学校は、
MILF戦闘地域での
すばらしい平和支援となった。

この村にいる
私たちのスカラーの成長も楽しみだ。

この村から戦争ではなく
平和の戦士が育っていく日も近いだろう。

これで、税金の全額は利子も含めて
支援金として使い果たした・・・・
ガソリン代などの諸経費は
ミンダナオ子ども図書館で負担した。
結果、すばらしい小学校が完成!!!
現地の子どもや大人たちに
心から喜んでもらえた。
日本国民のみなさん
ありがとう。
これからも、一緒にがんばりましょう。


それにしても、ここも洪水!
なんと、学校が水の中に浮いていた。


幸い、教室の中には届かず
午後の授業は終わっていたが、
プロジェクトのために残った
高学年の子どもたちが元気に
作品づくりに励んでいた。



昨夜からナラパアンで、
マノボ族の
難民が出ている

彼らは、ピキットの山岳部に住んでいたが
周囲にMILFの反政府組織が
多く現れるようになり
恐ろしくて、
低地にある村の中心に逃れてきた。

実に、昨夜の事である。
このバルヤン集落は、
G7と呼ばれるピースゾーンに属し、

その中でも
ムスリム、マノボ、クリスチャンが
平和に共存している村として
注目を集めていた。


私たちのスカラーで、
盲目のベルリーンは、
一時この奥の村にすんでいて

私たちも、この村で、
読み語りをした場所である。

しかし、現在、
ピースゾーンの支援は、
新しいイノクオグ等に集中しており

ここは、再び
辺境の見放された
集落と化している。

昨夜逃れてきた
マノボ族の難民のために

私たちは、
至急ピキットで
ビニールシートを購入し

カラカカンで
読み聞かせを終了した
スカラーたちと、

急遽、
バルヤンに向かった。


今回、
読み聞かせに参加したスカラーは
マノボ族が多い。

彼らが中心になり、
次々にシートが張られていく。

道沿いは、
イロンゴやビサヤの人々。

彼らのためにも
張られていくが

結局、足りずに、
再度訪問することになった。


ここでも、
多くの子どもたちが
お腹をすかせていた。

今回は、
カラカカンの残り物の
ご飯しかなかったが、
次回から、ここも
炊き出しの拠点とすることにした。

それにしても、
いつも子どもたちは可愛らしい。

彼らの姿を見るたびに、
疲れも吹き飛び、
この様な仕事をしていて
良かったと、心底思う。


年末の総会で
若者たちが
支援活動を話し合って
すぐに実行!
年末年始は、休暇に入り、
NGOも行政も難民支援を
休止させる時期だ。

難民生活も、5ヶ月目に入り、
子どもたちが栄養失調となり、
疲労の度合いも大きくなる時期。
周囲が、楽しい、
クリスマスやお正月を祝っているときにも
彼らは、お金や
食べ物も事欠きながら、
仮小屋で生活を続けている。

そのような状況を見かねて、
ミンダナオ子ども図書館では、
奨学生たちが集まる総会で、
「年末年始の難民支援」を決断した。

12月13日に開かれた、
スカラー達の全体会議。


この日は、
このサイトでも提供されている、
現在のピキットでの戦闘と
難民の状況を映した、
ビデオが上映された。
 戦争と平和
映像を 見たい方は ここをクリック
映像を 見たい方は ここをクリック 
身近に起こっていながらも、
以外と知らない難民の状況を
時には涙を流し、
食い入るように見る若者たち。

その後、全体のミィーティングで、
難民救済活動の計画が練られた。
12月15日から1月2日まで計9回、
月水金で三週間、
5カ所の難民キャンプで子どものための
炊き出しが行われることが決定された。

その中の、金曜日は、
炊き出しと同時に、読みきかせも行う。
さらに、場所を選びつつ、
古着の支給も行うことが決まった。

名付けて、
「Happy Christmas and New Year with Refugees」
(難民たちと共に過ごす、クリスマスとお正月)
若者たちも、16日あたりから、
クリスマス新年休暇に入るが、
積極的に同行したいと言う声が、
あちらこちらから挙がった。
NGOスタッフはあくまで脇役で、
現地の若者たちが、現地の人々の支援に
自ら立ち上がるのが、MCL流。


ムスリム難民キャンプ
からのクリスマス!


バゴンイグド難民キャンプ
での読み聞かせ

ここのキャンプは、初期の頃から、
なぜか「疎まれて」きた難民キャンプだ。
十分な支援が回らずにある。

支援にも優先順位や、
さまざまな「戦略」があるのだろうか?
未だに分からないことが多い。
所詮戦闘は、人間がやることだから、
「戦略」が思った効果を発揮せず、
予想外の展開になることもあるだろう。

以下、クリスマスから
新年にかけての
報告をします


私たちは、こことシリックで、
現状を見て、
難民支援をはじめた。
まずは、炊き出しと読み聞かせ。

地方行政には、
それなりの思惑もあるとは思うのだが、
特定の政治や宗教にかかわらない方針の
ミンダナオ子ども図書館は、
現地を見て、
必要としている場所を見極めてから、
自分たちで活動内容を決め
奨学生たちが、即実行にうつす。

地方行政の依頼にも耳を傾けるが、
あくまでも現地を見てから
自分たちで判断する。

ちょっと頑固だが、
時には有力者の依頼も断る。
福祉局もそれを良く知っていて、
互いに一定の距離を置きつつ、
重要な情報も共有し会って、
尊重し会い行動している。

DSWD局長補佐のグレイスさんが、
MCLのボードメンバーであり、
ピキットカトリック教会の
(例の有名なライソン神父の右腕)
ソーシャルワーカーで有ることも大きいが。


シリック難民キャンプ
難民でスカラーの
アイサちゃんとお兄ちゃん

アイサちゃんの結膜炎は
治ったけれど、
お兄ちゃんの左目が充血していた。
すぐに診察を受けた。


もう、5ヶ月も難民生活で
学校もストップしている。

あの歯の出ている子は、
いったん
難民キャンプに帰り
戦闘が収まるであろう
来年度から、
ダバオの病院で
手術も視野に入れた
本格的な治療に入る予定。

この地域の住民は、
ムスリムがほとんどだから、
クリスマスこそ無いが
イエス・キリストが貧しい人々を愛し、
この世に来たとしたら

家庭で七面鳥をたべて、
おいしいケーキを囲んで、
プレゼントをいくつももらいながら、
裕福なパーティーをしているクリスチャンと、
すでに五ヶ月以上も困窮し、
地べたに寝ているような、
イスラム教徒の難民と
どちらを深く憐れみ、
共にいたいと思っただろうか???



クリスマス炊き出し

子どもの体力を
回復させるところまでは
行けないにしても、
せめて体力を維持させるには
子どもに限定した炊き出しは、
とても有効なプロジェクトだ。

今回も、難民キャンプで
一番気になったのは、
病気の子どもが多いという事だった。

確実に体力の低下と、
衛生の悪さ、
外で寝ているのと同じような
生活環境の劣化が
子どもたちの基礎体力を奪っている


こうした子どもたちの体力を
維持させるために、
炊き出しは、
確かに有効な手段だが、

一度きりでは、
「やってあげた」の自己満足に過ぎないだろう。
少なくとも週三回、
三週間続けることによって、
体力の多少の回復や健康維持が
可能になるのではないだろうか。

しかし、最も大事なのは、
早く戦争が終わり
難民が家に帰って
通常の生活にもどれることなのだ。


炊き出しを実行している間に
私たちは、
病気の子どもが居ないか、
難民キャンプを回った


すると、思った通り
あちらこちらに、
寝たままになっている
子どもたちが居る。
多くが、風邪による高熱だった。

すでに、医療に費やすことが出来る予算が
ギリギリのところまで来ているので、
すぐには、規模の大きな
医療支援は出来ないけれど、

現在、支援者に機関紙を送っているので、
そのリスポンスを見て
1月から医療を再開始することにした。

運営活動は、予想がつかない事も多く
激動的で常に数字との格闘だ。
戦闘と言うものの性格を象徴している?


日本の経済状態も良くない事は、
充分承知だ。 
どこまで救済活動が出来るのか、
予断はゆるされない。
「日本の事だけでも大変なのに、
外国の事まで考えていられるか・・・・」
と言う意見も聞こえてくる。

しかし、その様な時だからこそ、
平和国家日本は、
国境を越えて、平和を構築する努力を
日本はするべきではないだろうか。
とりわけ、隣人である
国々の人々と手をつないで。


困窮しているときに、
心から手をさしのべられた体験は、
単なる経済的な、
開発支援による関係よりも
深く人と人をつなぐと感じる。

開発支援も重要だが、
見返りを求めない、
心の支援も大切だろう。

人間のベースは、愛であり、
その上に経済が来るのだが、
現代社会は、物とお金が優先される。

その結果、先進国は、
最も大事な「心」を失った
空虚な化け物になってしまった???

マイナスからゼロに持っていく支援が
基礎にあって、
初めてゼロからプラスに持っていく
次の支援が可能になる?

日本人の心に必要なのも、
マイナスからゼロに持っていく支援だろう。
日本の若者たちを救うために・・・



歯の治療をしつつある子を
その境遇ゆえに
スカラーにと考えていたのだが
ガンの可能性があるという


私は、どうしても
あの歯の出ている子が気になって
しかたがない


写真を撮ろうとすると、
すぐに後ろを向いて逃げてしまう
しかし、僕の顔を見ると、微笑む
と言っても、
飛び出した歯が目立つだけだが・・・・


何とか、来年は、治療を開始して、
この子が恥ずかしがらずに人前に出て
出来れば学校に行けるように
してあげたいと思う。
悲しい思いをした子は、
立派に活躍する子にならなくても
心の優しい子になるだろう


支援者が見つかった!
おめでとう
歯の治療をしつつある子に
付き添ってきた従姉で
生活は大変だけれど、成績は良い。


その家族には、
16人の子供がいて、
そのうちの10名が存命です。
そのうちの一人
4年生の女の子は偶然に
従妹の歯の治療に同行して
19日までMCLにいました。
頭のよい子どもですが、
貧困ゆえに学業が
続けられないということでした。
その子を、ミンダナオ子ども図書館で
支援することになりました。
「わずか」月に2000円で貧しい一人の子を
学校に行かせてあげられて
将来に希望を持たせてあげられるのです。
そのノリちゃんの写真を貼付しました。



難民キャンプで
最後は、奨学生たちが
劇をした。


おおきなかぶの劇は
子どもたちの大きな
お楽しみの一つ!

MCLの奨学生たちの演技に、
笑いと拍手がまきおこった。

難民キャンプに
ひさびさの笑顔と歓声があふれて
子どもたちだけではなく、
親や大人たちも大喜び!


最後に絵本を
手渡してあげる

初めて手にする絵本たち







読み語りが終わって
パンを配る







長く続いた対立に
軍が介入


国軍の司令官と懇談・・・
状況について、意見を聞く
直接的な軍の関与は
今回が初めてだ。


多かった避難民が、半減していた。
それでも数は多いのだが・・・
国軍が入り、
戦闘地に滞在しにらみをきかせ
MILFとMNLFの和解も開始。

避難民は、半強制的に
ここから現地に送り届けられた。
その事を事前に知って、
戦闘のある郷里に
帰ることを怖れた避難民たちが
新たに親戚などをたよって
移動したのだ。

思い出したが、
今回の対立の芽は、
1月7日あたりに発している。
土地をめぐる小競り合いゆえ、
リドー(地域紛争)だと解釈し、
すぐには、行動を起こさなかったが
事実を知るにつけて、
根の深さが表面化してきた。
先祖伝来の土地の問題やマノボ族、
アブラヤシプランテーションの拡張
フィッシュポンドからウナギまで・・・
軍が入って、若干の秩序が回復したものの
戦闘は拡大するというのが、大方の見方。


授業がない日は、
こうして教室の中で寝られるが、

普段は教室から
外に追い出され

雨が降っていても、

外で過ごさなければならない。


わたしたちは、
古着の支援


大成功だった
古着の支援

思ったより湿原や山の奥から
出てきた家族たちで

貧しく
着るものも
十分ではない。

戦闘の様子を見ながら
今後、この地域を支援し続けて

深い関係を築いていく
必要を感じた。

日本では、
秋から冬の服でも

暖かくて
夜寝るためにも
とても役に立つ。

こちらでは、
パジャマは
ほとんど着ない。
服のまんま眠るから。

とりわけ、
子供服は数が少なく
貴重だ。

服は普段、
古着屋で買うのがせいぜいで
それでも、貧しい人々には
値段も高くて、
なかなか買えない。

ふだんは、穴の開いた
ボロボロの服を着ている。

服がないので、
裸で過ごしている子が多い。

子どもだけではなく
親や大人たちにも
服が足りない。

そこで、
日本から送られてきた
古着を村の人々に渡した。




そして、最後に
ビニールシートを渡した


ビニールシートは、
最も必要としている
支援なのだけれども

MCLのような小さなNGOでは、
高価でなかなか
皆にゆきわたらない。

DSWDの事前の事前の調査で
本当に必要としている
選ばれた家族に渡すが、
なかなか難しい。

この地域の
今後の展開が気がかりだ。
とりわけ、
ムスリムと共存している
マノボ族の事も気になる。

MILFとMNLF
見かけは、
同じムスリム同士の対立だが
背後に、世界の潮流を感じる。

イスラム原理主義と
石油資源の開発を狙った
海外資本の対立?
でも、MCLは、
ひたすら子どもたちの事だけを考えて
子どもたちが、子どもたちのために
行動しています!





年の初めの
炊き出し支援の様子


ピキットの炊き出しは
年が明けてもまだ続く。

福祉局のグレイスさんの話だと、
炊き出しを継続しているのは、
支援団体では、
ミンダナオ子ども図書館だけ。

ワールドフードが、
一ヶ月に一回、
半サックの米を支給するだけで

後は、ミンダナオ子ども図書館の
炊き出しだけが食べ物だけしかない。


炊き出し、医療など、
ミンダナオ子ども図書館は、
8月からすでに5ヶ月続けている。

絶え間なく継続しつつ、
難民支援をしている理由は、
ただただ、
子どもたちを放っておけないから。

子どもたちは、
良くて一日に一食か、
二食がせいぜいだろうと言う。
すでに支援の資金は
枯渇し始めている。

皆さんの継続的な
支援をお願いします。


私たちは、
皆さんの手足となって、
思いを現地に届けます



炊き出しと同時に、
ここでも、
古着の支援を行った


スカラーたちも
休みを利用して

年末年始にもかかわらず
積極的に参加してくれた。


古着をもらって
うれしそうな子どもたち

古着は単なる
物資支援だとは思わない、

クリスマスやお正月の時も、
ちゃんと皆さんの事を

忘れていませんよ、
と言う、

心の
メッセージだと思う。

難民状態で
お正月を迎える彼らに

せめてもの心のプレゼントが
出来たら良いな、と思う



アルバちゃんも訪ねた
ご主人が、MCLで
引き取ることを拒否しているが、
それでも、繰り返し訪ねることで、
周囲の家族の気持ちも
違ってきているのがわかる。

そして、うれしいことに、
アルバちゃん自身も、
少し太って元気になってきている。
行橋カトリック教会で、
粉ミルクやお粥の支援をこれからも
続けることを、話し合った。

何故こんな子にこだわるのか、
と言う考えもあるかも知れないけれど、
こうした小さなこだわりが、
難民キャンプの多くのイスラム教徒の人々に、
異邦人でもある私たちを、
受け入れてくれる心の素地を
提供していると感じる。

この様な機会には、
なるべく多くの同行した
異なった部族の子たちを連れて行く。
彼らに対する影響も大きい。
最後に、同じ場所で難民になっている
バイヤンくんと妹さんを紹介します。
とても献身的で
いつも難民支援を手伝ってくれます。

妹さんには、まだ支援者が居ません。
ちなみにバイヤン君は、
ミンダナオ子ども図書館で
選挙で選出されたプレシデントです。
とても穏やかで謙虚なイスラム教徒



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