戦争と平和構築の記録
2006年





ビニールシート、食料、古着等
緊急支援のお願い
 


































































先週、ミドサヤフで、
イスラム教徒のモロ独立解放戦線(MILF)と
政府軍の間に小規模な戦闘が起き、
1000世帯を超す
難民が出たという知らせを受けた。


私たちは、
ミンダナオ子ども図書館の
ボードメンバーをつとめてくださっている、
ピキット市の福祉局所長:
グレイスさんと難民状況と
古着支援に向かった。
写真上は、難民の世帯数、
当時の状況および現状、困窮状態を
聞き取り調査しているグレイスさん。


避難民たちは、
ビニールの米袋に
かろうじて生活道具をつめたまま、
着の身着のままで
徒歩でミドサヤフから
ピキットに越境避難してきていた。
写真上は、崩れかけた廃屋の穴や壁を
米袋でふさいで生活している家族。

避難民生活は、食料もなく、
衛生も悪い状態で、
小さな子供や赤子、
お年寄りにとっては過酷な生活。

難民生活中に
病気や栄養不良で死ぬ子も多い。
ようやく戦闘のない地にたどり着いて
ホッとしている様子もあるが、
総じて表情が険しく、
子どもたちはやせ細り衣服はボロボロ。
あきらかに栄養不良の子供も見られる。
また、お年寄りが、
本当に痩せて苦しげであった。

今回の戦闘は小規模で、
かつての2000年、2002年の
ピキットやカルメンでの戦闘のごとく、
ヘリコプターなどによる
空からの広範囲な空爆などはなかった。
その意味では、
かつて2000年のフィリピン政府軍と米軍の
合同演習と呼ばれる実戦バリカタン、
ついで避難民が帰宅することが出来ずにいる
にも関わらず開始された米軍による
テロリスト掃討作戦で出た120万の避難民!
当時はショックも酷く写真を撮る気にもならずに
3年以上救済支援に駆け回った。
その体験は、
拙著「手をつなごうよ」(彩流社)に
書いて後日発刊しました。
 
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当時、地平線のかなたまで広がる
私が見たピキットの難民キャンプと比べると、
まだ絶望感が希薄だが、
彼らの生活が過酷であることは変わりない。

今回のメンサヤフでの推定1000世帯あまりのうち、
150世帯あまりが、越境して
ピキットに入ってきていると言われている。
一家族6人と考えても、
900人が難民として移動してきている。
彼らが逃れた先は、
ミンダナオ子ども図書館の
活動とも関係がある
(同地域から奨学生をとる)地域でもあり、
避難してきた難民のために、
私たちが出来ることは衣料支援
(日本から送っていただいた古着を支給すること)
だと判断し、即実行に移した。

ピキットへ越境した避難世帯は150世帯あまりだが、
数カ所に分散して逃れてきており、
一カ所に、数世帯から50世帯が、
分散したり固まったりしながら
避難しているのが特徴。
一世帯は5人から7人が平均で、多い家族では
12人ほどの子供も含めた大家族だから、
今回訪ねた地域だけでも
少なく見積もっても200人はくだらない数になる。
1000世帯の難民は、
5000人規模を超える難民が出ていることだ。
(毎日新聞の3月6日記事では、
4000人と出ているが、
その後増えたことを考えると5000人規模と思える)

写真上は、届けられた服を着ている喜ぶ子どもたち。
今回は、まずグレイスさんが難民家族名を登録し、
登録世帯を順番に呼びながら、
大人と子どもたちに古着を渡していった。

(写真上は、MCLの役員も務めてくださっている
ピキット市のソーシャルワーカーのグレイスさん)
彼らのほとんどが服らしい服も持たずに
避難してきたので喜ばれた。
子供服は貴重であり、大人の服も有用である。
さらに翌日曜日には、
別地域にも50世帯あまりが到着し、
難民生活を始めていると言う連絡を受けて
同地域にも古着を運んだ。

多くの難民は、
写真のような掘っ立て小屋に住むことになる。
屋根のシートは、ピキットのカトリック教会
オブレード会から支援されたビニールシート。
難民の発生過程は、何らかの理由で
不明確な場合が多いが、総じて
「イスラム教徒どうしがぶつかって
戦闘が始まり軍が割って入った」
と言う事になっている。
別の話では、
「さらに背後で、政府側が
イスラム教徒民兵を使って引き起こすことが多い」
とも聞くが、真相は常に闇のなかだ。
結果的に、
「反政府組織が攻撃をしかけた」とされ、
反政府地域を政府軍が襲撃し、
住民を強制的に退去させるところから
大量の避難民が家を放棄して
安全と呼ばれている町の周囲に集まる。

グレイスさんの聞き取りによると、
難民となった人々に対しては、
ミドサヤフ市が米を支給したと聞いているが、
夫または男がいずに、
女性と子供だけで避難してきた家族には支援がない。
男性が反政府活動をしていると断定されるのが理由。
人々を難民化させることによって
敵側と味方側に区別して、
味方側だけ支援しようとする政治的傾向が、
かつてのピキットと同様にここでも見られる。
ピキットのOMIのカトリック教会からは、
テント(と言ってもビニールシート)を
分け隔てなく緊急支援している。
カトリックのグレイスさんも、神父さんといっしょに、
時には、爆弾の落ちる中を
避難キャンプに入れてもらえない地域の子供たちを
救済して駆け回る。

また、思いがけない所で、
ミンダナオプロジェクトの車と出会った。
これは、JICAも支援している
プロジェクトである。
どのような活動に行ったのか知らないが
(おそらく国際監視団の活動の一部だろう)、
JICAのような大きな組織が
こまめに有意義な活動をしてくれるとうれしい。
お互いに手を振ってすれ違った。

現地では赤十字も支援していると聞くが、
このような大規模難民キャンプから
さらに逃れてきた
数々の小規模難民集団に対しては、
全く支援は行き届かない。
これは、非難ではなく、
無数にこぼれ落ちていく難民たちを
全てすくう事は不可能に近い状況なのだ。
衣料の支援をしているのは、
現在の所ミンダナオ子ども図書館のみ。

しかし、ミンダナオ子ども図書館が支援出来るのは、
ピキットに逃れてきた
ほんの一部の難民に対してのみである。
今回の二度の衣料支援で、
最後のジャンボボックス7箱に入っていた、
日本から古着は、すべて配布されてしまった。

それにもかかわらず、
未だ36世帯あまりが同村では未配布になり、
「今度はいつ来てくれるのか」
と難民に聞かれ、
「日本から支援物資が届き次第に来ます」
と、苦しい答弁。
せめて、子どもたちのために
読み聞かせ活動は出来るので
再訪しますと、つらい思いで引き上げた。

こちらで古着を購入してとも考えたが、
医療などで予算が逼迫している。
皆さん、古着の緊急支援をお願いします。!
 
今後も、いくつかの箇所で
戦闘が発生する様子があります。

 戦争と平和
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現在、私たちが救済支援で関わっている
難民に関する記事をウエッブサイト上で見つけました。
以下全文を掲載します。


フィリピン:イスラム勢力と軍が戦闘、
17人死亡
【マニラ大澤文護】
フィリピン軍は6日、
南部ミンダナオ島で軍部隊と反政府勢力
「モロ・イスラム解放戦線(MILF)」
メンバーが衝突し、
MILF側の16人と兵士1人の
計17人が死亡したと明らかにした。
軍当局者によると
約200人のMILFメンバーが
2カ所で軍部隊を襲撃し、
その後、戦闘が拡大した。
住民約4000人が避難した。
フィリピン政府とMILFは停戦合意を結び、
日本を含む
国際監視団メンバーの監視の下で
和平交渉を試みている。
しかし今年1月には約100人の
MILFメンバーと軍部隊が交戦するなど、
最近は緊張状態が続いている。
軍高官は地元メディアに
「我々は停戦を守っていたが、
相手が攻撃を続けたため、
やむを得ず応戦した」と語った。
MILF側は攻撃を仕掛けたことを
否定している。

毎日新聞 2007年3月6日 20時09分

ピキットで新たな難民
4月15日
キダパワン市の隣のピキット地域で
戦闘が起こり、難民が出た。
恐れていたことが現実になった

前回のミドサヤフの難民の
メールニュースを出した翌日。
今日、4月15日の日曜日。
早朝、DSWDのグレイスさんから
ピキットで難民が出ていると言う、電話が入った。
私たちは、すぐに現状を見に行くために車を出した。

ピキットは、キダパワンの隣町で、
ほぼ3年おきに戦闘が起こり難民が出る。
小規模な地域紛争リドーは毎年。
戦闘は1900年の後半から続き、
特に2000年の米比合同演習バリカタン
2002年の米軍によるテロリスト掃討作戦は、
空爆に及び120万人を超した。
私は、その現場を見てショックを受け、
それがミンダナオ子ども図書館の活動を
始めるきっかけになったことは、
拙著「手をつなごうよ」(彩流社)にも書いた。
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ピキットは、ミンダナオ子ども図書館に
多くの奨学生や里子がきている場所である。
このメールを受け取っている方々のなかでも、
ピキットのイスラム教徒のスカラーを
支援されている方は多いはずだ。
ミンダナオ子ども図書館の
イスラム教徒のスカラーは、
ほぼピキット周辺から来ていると言ってもよい。

今回の戦闘地区は、ピキット市ではなく、
キダパワンからピキット市に入る手前の
パガルガン・ピキットと呼ばれる地域である。
この地域は、ピキット市と隣接しているものの、
大きなプランギ川を挟んで、
ARMMと呼ばれるイスラム自治区に属している。
行政的には別の地域だ。
この地からは、私たちのスカラーである、
ノライダさん、アスレーさん等が来ている。
戦闘は、昨夜起こり、
ノライダさんもアスレーさんも、
着るものも何も持たずに、
徒歩で対岸のピキット市郊外、
タリタイ村に非難した。
(たったいま訪ねてきましたが、
顔に疲労の度が見えるものの
無事ですので、ご安心ください)

今回の難民の規模は、
今日DSWDのグレイスさんと調査した結果、936世帯。
一世帯5人から7人
(こちらでは一世帯7人から12人がふつう)
としても5000人から7000人の
避難民が出ている計算になる。
私たちが現状を調査している間にも、
避難民は続々と、トライシクルやバイクに
積めるだけの家財道具を積んだり、
あるいは徒歩で集まってきていたから、
さらに増えるものと考えられる。

また、調査中に、パガルガン市の警察が、
パガルガン地域の全ての居住者は
ピキット市およびその郊外に
避難するように通告をだした。
今夜から軍が介入して
かなりの規模の戦闘が起こる可能性があるという。
戦闘が起こると、
ピキットに足止めされたまま
帰れなくなる可能性があるので、
私たちは夕刻になる前早々に引き上げた。
途中、パガルガンを抜けたが、閑散としていた。

現地で聞こえてくる戦闘の原因は、
政治に絡んだ内紛であると言われている。
昨夜一人の市の役員が殺害された。
この内紛は、今後拡大する傾向があり、
選挙が終わる5月までは
継続するのではないかと言うのが、
現地の人々の考察である。
しかし、常に戦闘は、
内紛に軍が介入するといった
シナリオで行われるので、
背後まではわからない。
拡大しないことを祈るのみである。


2018年10月に加筆
ミンダナオのイスラム教徒の人々は、
スペインがキリスト教を普及させる100年前から
マレーシア、インドネシアを経由して
商業貿易を発展させてきた。
Wikipedia
その後、フィリピン政府の元に入ったものの
フィリピンにおける、イスラムの独立を求めて
50年に至る反政府活動を続けている。
その成果?として1090年に、
MNLFによってイスラム自治区が独立したものの
それに満足できない人々が
分離派MILFを形成して
自治州の独立を求めて闘争をつづけた。

その後、この要求はフィリピン政府を
通りそうになるたびに
大規模な戦争が勃発してご和算になってきた。
ミンダナオ子ども図書館が発足したのが
2001年であり、現地の人々
病気を治してあげた子の父親や
集落の首長の方々などの話を聞くと
すでに40年の間に3,4年おきに
大規模な戦争が起こり
特に、1090年からはひどかったという。
私たちが体験した、
2000年から2005年にわたる
バリカタン(比米合同演習)と
米軍によるテロリスト掃討作戦は特にひどかった。

あまりにひどく、当時は写真を撮ったり
サイトに記録する気持ちにもなれず
このサイトも、2006年からの記録。
この年から日本もJICAのトップが
UNHCRにおられた緒方貞子さんの尽力で
IMT国際監視団が形成されて
成田でアキノ大統領とMILFトップの
和平交渉が実現して、
積極的に和平が動き始めた。
しかし、それも2008年に決裂。
80万を超す避難民が発生し
ミンダナオ子ども図書館は救済に走り回った。

それから10ねん、度重なる戦争で
避難民救済を重ねてきたが、
2016年、ミンダナオのダバオ市長を
30年間勤めて、大統領になれなれと言われ
嫌だいやだと逃げ回ってきたドゥテルテ大統領が
仕方がないと言って大統領を引き受けてから
イスラム勢力との和解も進み、
これを書いている2018年
自治州の独立が議会を通り
MILFは、イスラム国の力による
マラウィの激しい戦争でも政府側に付き、
自ら過激な分離派を抑え込んでいる。
20年近くにわたり戦争避難民救済に
走り続けてきたミンダナオ子ども図書館歳は
驚くべき展開だけれど、
多少の紆余曲折はあったとしても、
子どもたちの事を考えると
とにかく、
平和が実現することを心から願いたい。

ピキットの人々は、
繰り返される避難民生活に
ほとほと疲れ切っている。
町のイスラム寺院の周辺や
公に提供された地域、
また親戚のいる村に避難しているが、
食料やビニールシートの支援は全くなく
不安で空腹の夜を過ごしたことが
表情からうかがえる。

とりわけ、お年寄りや小さな子供や
赤ちゃんがいる家族は大変である。
学校の教室などに避難できた家族は良いが、
コンクリートの床に寝るのはつらい。
屋根もなく避難している家族は、
雨が降れば散々である。
ピキット市の行政は、
避難民の行政地域が異なっている
という理由で、
まだまったく難民救済に動いていない。
国際的なNGOや赤十字はもとより、
現地のNGOもまだ活動していないが、
現地ボランティアは動き始めている。
下の写真の私たちのスカラー、ハフサさんも、
難民救済ボランティアーとして活動していた。

ピキットのカトリック教会、
OMIのロベルト神父にであった。
下の写真は、グレイスさんと語るロベルト神父。
いつもながら活動は迅速で、
続々と到着する難民に
小学校を解放する交渉をした。
とりあえず教会で、緊急の米の支給と
ビニールシート支給を開始する、と語っていた。

緊急支援で必要なのは、
とりあえずビニールシートと米である。
とりわけビニールシートは、
雨をしのぐことの出来ない
難民家族にとっては、
早急に必要とするものである。
米は、一家族に3キロで二日分にも満たないが、
行政や国際NGOが行動を開始するまでの
つなぎとして必要であり、
心細い難民生活の開始時期の
精神的な安堵感にもつながる。

私たちは、今週から、
ミドサヤフの難民救済を
開始しようと計画していたが、
多くの奨学生のいるピキットの方が
早急であると判断し、
明日から米とビニールシートの
支援を開始することに決めた。
雨をしのぎ、とりあえず
空腹をしのぐことが大切である。
ミンダナオ子ども図書館も
財政的には厳しいが、
行橋カトリック教会から届いた
100万円を中心に、
難民の緊急支援の方に予算を振り向ける。
大きな医療支援がなければ良いが、
医療が必要な子が出てくる可能性が高く、
医療費のストックが欠かせない。

難民の子どもたちを見ていると、
思わず涙がわき上がって泣くのをこらえるのに苦労した。
またもう一つの長い戦いが始まる。
いい加減にして欲しいのだが・・・














































避難民救済支援を
連日継続
避難民は毎日のように増えていく
難民キャンプといっても、
テントがあるわけではなく
場所が定められただけで、
地面に横たわって寝ることになる
雨になったらどうしようもなく、
緊急に必要なものは雨除けの
ビニールシートだ。


ろくに着るものもなく家を後にした難民にとって、
雨をしのぐ仮小屋を造ることが
まずとりあえず必要となる。
ピキット市内では、
数カ所にキャンプが設営された。
DSWDの調べでは、4月17日時点で
すでに1210世帯、
7117人の難民が出ている。
その後さらに増えているので、
パガルガン地区を含めると、
8000から10000ぐらいの難民だろう。
しかし、2002年の5万人以上の難民の
風景から見ると小規模で、わずかに見える。
あれはひどかった・・・・


今回の難民の特徴は、
隣のイスラム自治区で発生した戦闘のために、
イスラム自治区からリージョン12に
難民が流れた事だ。
ピキット市の存在するリージョン12は
中央政府の管轄だが、
パガルガンは自治区であり活動が異なる。 
イスラム自治区の人々は、
貧困世帯がほとんどだから、
家を建てるための材料を買うことなど出来ない。
学校などに避難できた家族は幸いだが、
屋根のない、時には道ばたや林で
小屋を建てなければならない。


ミンダナオは雨も多く、湿度も高く、
またピキットは高原地帯のキダパワンと違い、
昼間の直射日光も厳しい。
赤道に近い熱帯雨林の島なのだ。
難民キャンプは腐敗した悪臭で満ちる。


このような、椰子の葉をかけただけの家では、
雨が降ればたちまち水浸しになるし、
料理やトイレの問題も深刻になる。


たとえトタン屋根の下に
避難できたとしても、
土の上で寝るのは厳しい。
とりわけ子供とお年寄りには
過酷な生活が始まる。
読み聞かせに行った日の前夜、
ミンダナオ子ども図書館の
スカラーの一人、
ノルハナさんのお祖父さんが
難民キャンプで亡くなった。
心臓発作だった。
難民生活がいかに過酷かが、
理解できるだろう。
彼女は、悲しみにうちひしがれていた。


私たちは、
医療プロジェクトも持っているので、
病気の子供がいるとすぐに救済に向かう。
今回も、39度近い熱の子どもたち、
激しい腹痛と下痢の子どもたちに
30名ほど出会った。


読み聞かせを聞きに来た子供の一人は、
腹が写真のような状態。
もう一人は高熱を出している。
病院に運ぶことに決定した。
ビニールシートの次に必要なのは、
とりあえず米だ。
食べ物もほとんど持たずに
出てきているから、
3日もすれば食料は底をつく。
緊急の食糧支援が必要とわかり、
急きょキダパワンの
NFA(食料貯蔵センター)に行き、
難民救済用の米を市価より安く購入した。
50キロの米袋を60俵、皆さんの寄付で購入し、
ピキット市が出してくれたダンプカーで運ぶ。


写真は、NFAから運び出される米。
これを現地で手分けして、
ビニール袋に小分けした。
とりあえず緊急用に3キロづつ詰める。


3キロというのは、
家族の1日か2日分だが、
まったく空腹の家族にとっては、
精神的にも見放されていないと言う
安心感を与える。
この時点では、
行政も他のNGOからも
まったく手がさしのべられていない。
現地のカトリック教会の
難民救済で有名なライソン神父が、
あらゆる手段を講じて米をかき集めて
30俵ほど難民に
手渡しているだけであった。
教会で使うシートも全部難民に支給した。


ミンダナオ子ども図書館の
支援の米が
現地に運び込まれた。


米は、事前に市の福祉局DSWDの
グレイスさんの指示で、
ボランティアから手渡された
チケットをもとに配られる。
ボランティアの活動は大きく、
難民の状況によって、
家庭数、個人数、困窮状況が
グレイスさんのもとに報告されて、
それによって無駄なく効率的に米が配られる。


米の配給に殺到する人々。
私も米をくばった。
いつも写真を撮る側だが、
このときはスタッフにとってもらったので、
珍しく私自身が写っている。


その後、ワールドフードの食料支援が決まった。
よかった。これで何とかなる。
ワールドフードの難民対策
米支援が決まるまでに、2週間が経過。 
私たちの食糧支援は、
そのつなぎとして役に立った。
次に、私たちが行ったのは、
ミンダナオ子ども図書館で
スカラシップを出している
若者たちによる読み聞かせ支援だ。
難民状態になると、衛生も悪く、
大人は怒りっぽくなり、
子どもたちの精神状態も不安定になる。
読み聞かせは、そのような子どもたちに、
心の癒しを提供する
貴重な時間であることがわかった。


ミンダナオ子ども図書館では、車を3台だし。
二手に分かれて、
午前に2カ所、午後に2カ所、
一日に計4カ所の読み聞かせを実施した。


読み聞かせは、2時間続き、
それでも子どもたちは
夢中になってお話を聞く。
母親たちにとってもつかの間の心の休息。
歌や踊りも入り、歓声があがる。


お話を聞く
子どもたちの顔は真剣だ。


モスクの中でもお話会をした。
モスクの中でやるのは初めてだ。

お話が終わった後に、
子どもたちは絵本を
手にとって見ることが出来る。
私たちの本の中には、
アラビア語のイスラムの絵本も入っている。

手渡したパンを頬ばって
絵本を見る子どもたち。
ひさびさの笑顔だ。

読み聞かせ中の午後、大雨が襲った。
難民キャンプは水浸しだ。
こんな中で、どうやって眠るのだろうか。
夜になると、12頭ほどの牛も入り込み、
あちこち牛糞で足の踏み場もない。
ゴミも飛散し、
屎尿のにおいが充満している。
衛生状態が心配だ。
裸の子も多く、
次に実行すべきは、衣料支援だろう。
まだ衣料が届いていない。

今後も、読み聞かせはたびたび行い、
そのたびに
医療のチェックもして
行かなくてはならない。
戦いは始まったばかりだ。





















































避難民その後

以下の記事は、
復活祭前に書いた物です。
復活祭は、訪問客もあり、
支援している村にいったりして
報告しているひまもなく、
あっという間に過ぎました。
御復活おめでとうございます。
こちらの教会では、
聖金曜日にキリストが
十字架から降ろされて、
大勢が口づけをしに
夜教会に行きますが、
総じて復活祭は死と復活儀式で
荘厳、厳粛で、
日常の活動が全て止まります。

・・・・・・・・・・・
復活祭前に、
難民が出ているミドサヤフに行った
ピキットのDSWDのグレイスさん、
ミドサヤフのDSWDの方々と
共に状況視察。
午前に小学校を建てる件でピキットの村に行き、
その後1時にミドサヤフに着いたので、
午後だけだと遠隔地の難民キャンプに行くのは
大変危険だと言うことで、
今回は町周辺のキャンプに足を運んだ。
復活祭明けにも、再び訪れて
遠隔地に足を運び、
さらに広範な情報を得る予定。

まだ難民キャンプに移動して一ヶ月ぐらいなので、
幸い子どもたちの顔に
疲労はあまり見られない。
都市近隣の状況は、
難民が集まっている地域によって
悲惨さに若干の違いがある。
つまり、土地持ちの難民の場合と、
土地なし難民で沼地での漁をしている人々では、
後者の状況が悪い。
土地持ち難民は、
昼間土地に帰って米の収穫をしている人もいる。
この場合は、米も収入も確保できる。
また、町に親戚があり、
親戚の提供する土地に引っ越している例もある。
しかし、衛生状態も含めて
問題の多いところも多く見られる。
ミドサヤフ周辺では、
赤十字やワールドフード等の支援があり、
病気も含めてまあまあのケアがいっている。
古着の支援は、
現地のカトリックの大学が多少支援しているのと、
JICAも関係しているバンサモロが
1000着ぐらい支援しているが、
一部のバランガイだけで
全体から見れば、
ほとんどないといって良いとのこと。

真新しいビニールシートは、
国際NGOからの支援。
衛生状態が気になる・・・・・
国際赤十字などから、
とりあえずの食糧支援などは届いている。
ただし、遠隔地の場合は別。
問題は、遠隔地と、
とりわけピキットなど
他の地域に流れ込んできた難民には、
赤十字も、ワールドフードも、
医療支援も行き届かず、
わずかにピキットのカトリック教会が
ビニールシートと米5キロ
(二日分にも満たない)を
一度、限定的に支援しただけで、
遠隔地や他地域の方が、
自分の故郷から遠く、服や鍋釜ももてずに
歩いてきているので悲惨だ。
これらの土地なしの漁猟民は、
国道沿いの町へではなく、
遠隔地の川沿いに非難してきている。

DSWDの方々とも話したが、
古着の支援は有用で、
私たちは、現地に近く
繰り返し通えるという利点を生かして、
国際的なNGOが届かないような地域を
とりわけ選んで活動しようと言う事になった。
DSWDが出している資料によると、
この近郊には、
10000人ほどの難民が出ていると考えられている。

今回の戦闘は局地的なもので、
難民は、おそらく半年あまりは難民生活を
余儀なくされるのではないかと思われる、とのこと。
難民にとって、
衣食住は第一の問題だが、
第2の問題は、現地の子どもたちの心のケアだ。
難民生活が長くなればなるほど、人々の心、
とりわけ子どもたちの心が
複雑にゆがんでいくことは、
ピキットでの大規模難民を見ているので
良く理解出来るし、
またこちら出身のスカラシップ学生の
体験からも察することが出来る。

私たちは、読み聞かせを
中心とした図書館として、
心のケアの問題を前面におき、
補助的に古着と医療に取り組むことにした。
具体的には、4月5月のこちらでの
夏休みを利用して、
各地の難民キャンプでの
読み聞かせ活動を開始。
(選挙期間で自粛し予定でしたが、決行)
スカラーたちと話し合いも終わった。

読み聞かせ活動と共に、
古着の支援をすれば最良だが、
残念ながらまだ一部しか届いていない。
しかし、読み聞かせで多くの子どもたち
(100人から200人は集まる)ので、
現地の子どもたちの健康を含めた
状況のチェックは確実に出来るし、
緊急医療の必要な子がいれば
キダパワンの病院に運ぶことも出来る。
戦闘後の心のケアも考えれば、
これからも長くスカラシップなどを通して
この地域の難民と
関わっていくことになるだろう。

ご存じのように、難民生活が終わって
土地に戻っても、
竹の家は腐りが入り、
残された衣類や鍋、家財道具や水牛、
鶏や山羊は盗まれていたりして、
支援は難民がキャンプから
離れた後にもさらに続く。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上の記事を書いた後に、
復活祭に入り、
日本から訪問者が来られたこともあり、
活動は中断した。

復活祭は、こちらでは日本の
正月休みと同じで、
役場も商店も学校も全て活動が停止し、
休眠状態に入る。
復活祭の日は、旅や仕事もしてはいけない、
と言う迷信がある。
キリストが死んだ時であり、
葬式休みに入ると言って良い。
聖金曜日には、
あのめまぐるしいダバオの町に、
昼間から人っ子一人いなくなったのは驚いた。
迷信深いフィリピン人ならでは????
下は、大阪、兵庫からの、
訪問客とプロック8の子どもたち。


今年、10月下旬に、
上述のピキットから来た
イスラム教徒の若者たち6名が、
クリンタンの演奏や踊りを披露しにうかがう予定。
それを話し合ったと共に、
復活祭明けにプロック8の
子どもたちの所へ読み聞かせに行った。

皆さんで、お話組木の実演をしてくださる。
大阪の図書館司書OB小林さん、
読み聞かせのプロ錺さんなど、
若者たちに読み聞かせの指導もしてくださった。
こちらの子どもたちが2時間以上も
集中してお話を聞くのにビックリ!
「日本の子どもたちの集中は
45分が限度なのに・・・・・」
支援しているスカラーのいるマノボ族の村、
ドンパナカにも行き、山の奥なのでビックリ。

訪問客が帰られると同時に、活動開始。
まずは、ピキットのグレイスさんと、
戦闘地だった村の教室を
建てる件で話し合った。
福岡の行橋カトリック教会から
100万円の寄付が
突然復活祭明けに届いたので、ビックリ!


教室は、1年から3年までがコンクリートで、
4,5年生がトタン屋根の仮設教室、
6年生の教室がなく卒業できない状態だが、
最悪でも行橋カトリック教会の寄付で
6年生の教室は実現できるめどがついた。
これで卒業が可能になる!
すばらしい復活祭の贈り物に感動。
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ナカブアル小学校増築

現地では、本当は、
仮設の4,5年生の教室と、6年の教室、
ひどい状態のトイレを作りたいのだが、
試みにピキット市と教育委員会を通じて、
ODAの草の根基金に応募してみることになった。
日本の日の丸がついていても
問題はないとのこと・・・・・

写真は、トイレ。
現物は非常に小さい。
もしもODAで学校建設が可能にれば、
行橋カトリック教会からの資金は、
さらに不足しているデーケアセンターの
建設に回せる、という話が
グレイスさんから出てきた。
デーケアセンターは、
就学前の児童が行くプレスクールで、
コンクリートを床にした竹の小屋。

福祉局のグレイスさんの話によると、
信じられない話だが、
昨年から、政府は、
デーケアセンターを出た子以外は
小学校の入学を認めない事にした、とのこと。

デーケアセンターは、
村の費用で作らなければならず、
都市近郊や国道沿いの場所はよいが、
貧しい村ではとても作れない。
ピキットに関して言えば、
イスラム教徒のMILF地域は
全くデーケアセンターがなく、
多くの子どもたちが
小学校に入学できないという事になる。
この小学校のある地域でも、
10件以上不足しているし、
ピキットのように戦闘のあった地域全体では、
イスラム教徒の村は極端に貧しく、
多くのデーケアセンターが不足している。
しかも、国政的なODAは、学校は建設しても
デーケアセンターは対処外だ。
貧しい地域の子どもたちが
学校に行けないように工夫しているのか・・・
と疑いたくなる話。

写真は壁の銃痕
コンクリートの壁には、
2002年の激しい戦闘時の
生々しい銃痕が今も消えずに残っていた。
これを毎日見て、
子どもたちは学校に通っているのだ。
この隣で、目の前で両親を殺された子もいる。
壁にベッタリと残った血の跡の話も聞き
背筋が凍った。

復活祭が開けたが、
難民キャンプへの古着の支援の件と、
ミドサヤフの難民調査と読み聞かせスケジュールの
立案の話し合いが終わり、
いよいよ本格的な活動がはじまる。
復活祭明けて、ますます忙しくなりそうだ。





























































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