一般書・エッセイ等の原稿




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先住民の世界ってどんなところ?

目次
1)ダバオの街を後に 2)キアタウの村に向かって 3)広大な斜面とジャングルの破壊 4)たくさんの子どもたち 5) 6)マノボの村に泊まることに決めた

 

 1,ダバオの街を後に

 

 ダバオはミンダナオの首都で、フィリピンでも二番目に大きな街だと言われいる。
 戦前に日本人がたくさん住んでいた歴史もあって、日本人の血の混じった現地の人々で作っている日系人会もあり、日本語で授業をする学校も、小学校から大学まで作られている。
 北のルソン島のマニラやセブ島の人々にとって、ミンダナオは危険だというイメージが強い。理由は、ミンダナオの南西部にはイスラム教徒が多く住んでおり、40年間にわたり独立闘争を行っていて、しばしば戦争も起こるからだろう。確かに誘拐や爆弾事件もときどき起こるけれど、ダバオに限って言うならば、首都マニラよりもはるかに治安も良く、住みやすい街だ。
 ダバオ国際空港に降り立つと、訪問者たちはスタッフといっしょに、ミンダナオ子ども図書館の二台の四輪駆動のピックアップに分乗した。その中の一台は、台湾の赤十字社が寄贈してくれたものだ。
 日本では、トラックの荷台に人が乗るのは禁じられているようだけれど、こちらではよく見る光景だ。双子くんは、興奮して「イェヘーーィ!」と叫んで、スタッフといっしょに車の荷台にとびのった。
 車は、ダバオ市郊外の丘陵地帯を走り出した。丘からは、ダバオの街並みが見わたせ、その向こうにダバオ湾が広がっている。
 ぼくは、車の窓から外を見ている、シェアハウスの娘さんにいった。
「車の行く手の山並みの向こうに、三角の山がとりわけ高くそびえているでしょう。あれが、アポ山とよばれる休火山で2954m、フィリピンで一番高い山なんです。」
「青い海も見えるし、とっても、すてきな眺めね!」
「ミンダナオ子ども図書館は、あのアポ山の向こうがわの高原地帯にある、キダパワン市の郊外に建っていて、ふだんは手前に広がるダバオ湾沿いに、舗装された国道を走っていくのだけれど、今回は仕事のついでもあって、右手の山脈の中の、マノボ族の村々をぬけてゆくんです。」
「あんな山の中を、ぬけてゆくの?」
「そう、国道ならまだしも、先住民の住んでいる山岳地域に行くときには、なるべく二台で行くようにしているんです。ジャングルや、ときには橋の無い川を抜けて、山道を行くから、何か起こって、一台が動けなくなっても、もう一台で救助できるようにするためにね。」
 娘さんは、目をまるくして絶句している。
 前の車の荷台に乗っている双子くんたちは、熱帯の風にふかれながら、満面笑顔で周囲をみわたしている。
 ミンダナオは、北海道と四国を合わせたぐらいの島で、ミンダナオ子ども図書館のあるキダパワン市は、キリスト教徒の多い東のダバオの街から、イスラム教徒の多い西のコタバトに向かう、舗装された国道を走ると、約3時間で着くことが出来る、中間の街だ。
 普段は、キダパワンとダバオを往復するときには、国道を走るけれども、今回はアポ山の裏側一帯に広がる、アラカンの山岳地帯の山道を抜けて、ミンダナオ子ども図書館に向かうことにした。この一帯は道らしい道もない山岳地帯で、深い山や谷がどこまでも広がっていて、時にはジャングルを抜けて行く。先住民族の住む集落がいくつもある場所で、現地では新人民軍と呼ばれている反政府ゲリラの巣窟で、外国人が安易に入れない場所だと、言われてきた。
 そんな場所に、なぜぼくが入れるようになったかは、後ほど述べることにして、この山の途中のラナコランという村には、ミンダナオ子ども図書館の運営する、中高生の女子のための下宿小屋が建っている。
 ミンダナオ子ども図書館では、山に男女二つの下宿小屋があり、学校まで遠くて通えない先住民の子どもたちや、親がいなくなって孤児になった子たち20人ほどが、奨学生になってスタッフの家族といっしょに住んでいる。その子たちが、食べて学校に行き生活していくためには、本部で精米したお米を、定期的に届けなければならないし、近隣の貧しい村々に住んでいる子たちにも、学用品や古着を届けなければならない。今回は、その用事をかねて、裏道を通って、ミンダナオ子ども図書館に行くことにしたのだ。
 表街道の国道を通れば、ダバオからミンダナオ子ども図書館まで3時間で行けるのだけれど、裏街道の山道を、ジャングルを抜け、時には川を越えて行くには、途中で一泊しなければならない。
 けれど、ブラジル人の双子くんや、シェアハウスの娘さんのような若者たちにとっては、そういう体験が、きっと良い思い出になるだろうと、ぼくは思った。
 ダバオからミンタルを超えてカリナンまでは、舗装道路を行くことが出来る。このあたりは、第二次世界大戦前までは、たくさんの日本人達が住んでいた場所で、ミンタルには、第二次世界大戦前まで住んでいた、日本人たちの古い墓地があり、カリナンには、当時の日本人学校も残っている。九州や沖縄から渡来して住みついた人が多く、彼らはこのあたりで、アバカと呼ばれるマニラ麻を育てていた。マニラ麻は、麻布になるばかりでなく、当時の船のロープなどの材料でもあった。
 そして移民してきた多くの日本人たちは、現地の先住民族である、マノボ族やバゴボ族たちと結婚して家庭を持ち、郷に入りては郷にしたがえの諺どおり、現地に溶けこんで平和な生活をしていたのだ。カリナンには、そうした日系人の、当時の写真や資料を集めた資料館も建っている。
 ダバオから、日系人墓地のあるカリナンを抜けて国道を行ったその先で、ぼくらは大きな川をわたり、突然左に折れて、デコボコの山道を、山奥へ向かってはいっていった。
 そこから先は、国道の舗装道路とは段違いで、道は土と石だらけの急なデコボコ道にかわった。道の脇の斜面には、ガーベラやブーゲンビリアやハイビスカスといった、可憐な熱帯の花々がさいていて、その背後に、人の背丈の2倍もあるような、背の高いシダが生えている。ちょっとした空き地には、カカオやマンゴーときにはドリアンが植えられていて、熱帯果樹の園になっている。
 シェアハウスの娘さんは、それを見ていった。
「わたし、初めて、ドリアンが生えているのを見たわ!
 あれ、日本で買うと高いのよね。マンゴーだって、生のものは、めったに買えないわ。」 
 さらに深く、山間の道を登っていくと、両側には背の高いラワンやマホガニーが、そびえ立つように生えていて、だんだんあたりは、熱帯のジャングルのような様相を帯びてくる。
 そのような熱帯雨林のなかに、ところどころ、マノボ族の集落がある。ミンダナオでは、車の通れる表街道を走っているぶんには、貧困の様子はわからない。ところが、車道からはずれて、山岳地帯に入ったとたん、奥へ行けば行くほどに、その貧困の度合いの激しさが目につき始める。
 そこそこ収入のある人たちは、道路沿いに土地をもって、住むことができるのだけれど、先住民のような極貧の人々たちは、平地から山へ追いやられて、斜面や谷底といった場所に、住まざるをえなくなったからだ。
 山間の粗末な小屋に住んでいる、マノボ族の家を見て、シェアハウスの娘さんはいった。
「まあ、こんな山の奥にまで、人が住んでいるのね・・・。」
 家は、もはや家とは呼べないような、竹の床と壁に椰子の葉で屋根をふいた、吹けば飛ぶような小屋だし、戸口にたっている子どもたちも、ほとんど裸で、服はボロボロで裸足で遊んでいる。
 ときどき、道端で出会う人や子どもたちは、ミンダナオ子ども図書館を知っていて、ぼくたちが通ると、叫んで手をふってくれる。
 ふと前方をみると、赤ちゃんを背負って山道を登っていく、母子がいた。ぼくは、車を止めると、空いている窓からたずねた。
「どこへいくの?」
「ラナコランに、いくんです。」
「まだ、かなり遠いよ。後ろの席によゆうがあるから、乗っていったら?」
 母子は、大喜びで、後ろの席にのりこんだ。
 またしばらく行くと、今度は学校帰りの子どもたちが、山道を歩いている。ミンダナオ子ども図書館の車だとわかると、子どもたちは手をふった。
 車をとめて、声をかける。
「乗っていくかい?」
「わーーーぃ!」
「ありがとう!」
「やったーー。」
 子どもたちは、車の荷台に飛びのった。
 やがて荷台は、学校帰りの子どもたちで満載になり、後部座席も、赤ちゃんを抱いた母親等でぎゅうづめになった。前の車の荷台を見ると、双子くんが、子どもたちといっしょに声をはりあげて、笑ったり歌ったりして、楽しんでいる。
 それからさらに小一時間、やがて行く先に、ミンダナオ子ども図書館の下宿小屋の、緑の屋根とピンクの壁が見えてきた。
 下宿小屋の近くで車をとめると、ぼくらはみな車から降りて、細道をラナコランの下宿小屋にむかって、歩いていった。
 すると、住んでいる奨学生たちが、手をふって、下宿小屋から飛びだしてくると大喜びで迎えてくれた。
「パパ友が、来たよ。」
「訪問者も、いっしょだよ!」
「お米持ってきてくれたよ!」










































 2,キアタウの村に向かって
 

 キアタウは、山の中腹の美しいマノボの村だ。
 ラナコランの下宿小屋で昼食をとり、お米を置くと、ぼくらは、スタッフで日系人のジケロくんと、キアタウ村生まれの奨学生を二人のせて、ふたたび二台の四輪駆動車のトラックにのって、奨学生に学用品を届けるためにキアタウ村にむかった。
 道は行く手で二手にわかれ、まっすぐに右の道を登っていくと、丘陵の向こうにジャングルがあり、急な斜面を下り、ジャングルの中の川を突っ切って行くと、アラカンの町にでる。ミンダナオ子ども図書館のあるキダパワンに向かうときには、そちらを抜けて行くけれども、斜面の中腹にあるキアタウ集落に行くために、ぼくらは途中で左横の細道にはいり、車がようやく通れるような曲がりくねった細道を下りながらマノボ族の村に向かった。
 草の生えた斜面を横切ると、広大な風景が広がった。
 180度の展望だ!
 足下には、いくつもの丘陵がつづき、その先の濃緑色の平地の向こうには、ふたたび青い影になった、広大な丘陵が波のように続いている。
 車をとめると、ぼくらは、壮大な風景のまえにたった。
 目の前に広がる山並みは、広大な谷となって下り、その向こうから、ふたたび山並みが盛りあがり、その先にはうっすらと、濃紺色の顔を出しているフィリピンの最高峰、アポの姿が浮かびあがっていた。マノボ族の人々にとっては、聖なる神の山だ。左から、ゆるやかに下って広がる平野のかなたには、遠くダバオ湾もかすんで見えた。
 日本から来た、3人の若者たちは、みんな絶句している。
 すると、日系人でスタッフのジケロくんが、下の方に茶碗を伏せたようなかっこうで見える、丘を指していった。
「あの丘と、そして左側の丘が、日本軍が、キャンプしていた場所なんです。ダバオ湾の方から、カリナンをこえて、日系人とともにジャングルに逃げこんで来た日本軍は、ここあたりで米軍と、最後の戦闘を行ったんです。
 もともと戦前からカリナンには、日系人と呼ばれている、たくさんの日本人が住み着いていました。彼らは、現地のマノボ族やバゴボ族と結婚して、こちらではアバカとよばれる、マニラ麻の栽培をしていたのです。
 私のおじいさんも、そんな日本人の一人でした。
 でも、第二次世界大戦が起こり、日本軍が敗退していくと、兵士たちは日系人といっしょに、カリナンから、さらに奥のジャングルに逃げこんでいったのです。私のおじいさんも、小さい私の父を背おって、ジャングルのなかを、逃げまわった話をしていました。
 そして、最後に日本軍が追いつめられて、逃げこんだのが、この下に広がっている地域だったんです。
 これからいくキアタウ村には、その先の方に深い谷があって、そこは木々に隠れた大きなトンネルのような洞窟があるんです。あそこに見える丘に、キャンプを張っていた日本軍が、爆撃を受けて敗残兵となり、最後に逃げこんだ場所が、そこだったんです。
 みなさん、行ってみますか?」
 ブラジル人の双子くんとシェアハウスの娘さんは、興味深げにうなずいた。
 妻のエープリルリンもいった。
「わたしも、子どものころ、夜寝ないでいると、おじいちゃんから、『日本人が来るから、早く寝なさい!』といって、寝かされたのよ。おじいちゃんは、日本兵の炊事当番を、やらされていたみたいだけれど。」
 ぼくも言った。
「ぼくの父のお兄さんも、フィリピンで戦死しているけれど、軍医をやっていてスペイン語も話せて、ずいぶんもてた人らしい。
 ときどきその人が側に立ち『本当に戦争は嫌だね。こんな可愛い子どもたちがいるところで、なぜこんな、残酷なことをせにゃならんのか』と、ぼくに、つぶやいているのが、聞こえる気がする。
 ときどき、その叔父が、ぼくをここに、引っ張りこんだような気がすることもあるよ。」






























3,広大な斜面とジャングルの破壊
 

 広大な草原の急斜面のなかを、蛇のように曲がりくねってつづいている、泥と石の山道を下っていくと、下方に、キアタウの村の家々が見えてきた。
「まるで、北海道の大雪山の裾野に広がった、開拓地を見ているみたい。」と、シェアハウスの娘さんが、興奮したようすで語った。
 確かにぼくも、最初にこの風景を見たときには、まったく同様の驚きを、感じたものだった。けれど、長く現地で活動していると、目の前にしている美しい草原のような風景が、実は、不自然で異常な風景であることが、少しずつわかってきたのだ。

 この近辺の山々は、もともとは、深いジャングルだったのだが、森林の開発が進み、ラワンやマホガニーといった、ときには50メートルに達する巨大な熱帯樹が、ことごとく切り倒されて、なんとそのほとんどが、日本に輸出されていったのだという。
 広大な草原のように見える斜面は、なんと、膨大な森林破壊の残骸だったのだ。
 日本で会った貨物船の船乗りが、ぼくに、こう語ってくれたのを思いだす。
「ミンダナオのダバオには、よく行ったよ。材木を運びにね。」
 彼の話だと、ミンダナオからの材木の運搬は、最初は米国が行っていたが、アメリカが撤退した後に日本が請け負い、自国に輸入した材木を、合板に加工して、米国に売却したり、日本で建材や家具や、コピー用紙や本や新聞紙にしていったのだという。
 とくに、1960年代の頃から、日本では自然保護が叫ばれて、自国の森林や里山を保護し始めた。そのころから、ミンダナオやボルネオから、熱帯材が大量に切られて海外に持ち去られ、日本への木材輸入量は10倍に増えたという。
 彼が船乗りとして、足繁くミンダナオにかよい始めたのは、この頃からだった。
 フィリピンの特にミンダナオには、良質の木がたくさん生えていただけに、伐採も激しくかつ乱暴だった。それゆえに、自然環境に与えたダメージは深刻だった。
 貧しいながらも質素に暮らしていた、素朴な先住民たちにとっては、森は神々の世界であり、個人による土地所有という概念も無く、ときにはタバコ一本で、島外からの移民たちや資産家や企業に、先祖から受け継いできた森を手放していったりした。
 たとえ土地を手放さなかったとしても、経済的に極貧故に、植林して森林を復活することは難しく、その結果、今では伐採によって、国土の60%を占めていた森林は、1985年には27%に減少し、ミンダナオでは原生林は、なんと6%しか残っていない、と言われている。かつて、ジャングルにおおわれた島が、ほとんど裸になってしまったのだ。
 いま、目の前にしているアラカン地域の風景は、地平線まで続く広大な、緑の大草原のように見えるけれども、なんと、激しい森林破壊の残骸だったのだ。
 先住民の焼き畑農業が、森林を破壊していったという説もあるが、現地の首長たちと話を聞くと、伝統的な焼き畑農業は、かつては、ジャングルのなかの一部の場所を焼いて畑を作り、その畑も数年おきに、転々と場所を変えておこなっていたのだという。
 なぜなら、狩猟採集文化のコスモロジーを基盤にして生活している先住民族たちにとって、大自然の一部である山も土地も、人間が所有するものでは無く、神々そのものであったからだ。
 焼き畑をして農作物を作る場所も、一時的に山の神から借りる場所であり、数年したら神々に返し、自分たちは別の場所に移動して、かつての畑はジャングルにもどして、新たな場所で、神に祈願をしてジャングルの一部を焼いて、新たな畑を作ったのだ。
 こうして、畑を移動することによって、以前の焼き畑は、神々の住み家であるジャングルにもどし、疲弊した土も、ふたたび落ち葉で豊になり、自然を破壊すること無く、神々とともに生活していったのだ。
 土地は人間のものではなく神々のものであり、人間はそこを、一時的にお借りして住まわせてもらい、やがて神々に返す、という考え方は、ぼくがかつて北海道に住み、アイヌのイトばあちゃんから、聞いた話とまったく同じだった。


 













4,たくさんの子どもたち
 

 壮大な風景を目の前にしながら、粘土質の急な斜面を車で下っていくと、キアタウの村が見えてきた。竹の壁に、屋根はニッパ椰子か、良くてトタンをふいた、シンプルな小屋だ。
 開けっぴろげの窓や入り口からは、子どもたちが顔を出し、丘の上の方から降りてくる、二台の車を見つめている。
 車が村に近づいて来て、それが、ミンダナオ子ども図書館の車だとわかると、子どもたちは、手をふりながら、家から飛びだしてきた。
 荷台からは、ブラジルの双子の兄弟が、同乗しているキアタウ村の奨学生たちといっしょに、大喜びで手をふりかえしている。
 村に入ると、どこからこんなにたくさんの子どもたちが来たのだろう、と思うほど、多くの子どもたちが、車を目指してかけよってきた。
「そんなに、家があるとは思えないのに、何でこんなにたくさんの子どもがいるの?」
 シェアハウスの娘さんは、驚いて言った。
「一家族に平均して、7人ぐらいは、子どもがいるから・・・。」
 そう答えると、娘さんは、絶句したあと言った。
「これじゃあ、子どもを学校に行かせたり、食べさせるだけでも大変ね!」
「確かにそう。だから、産児制限をすれば良いのに、という人もいるけれど・・・でも、大自然が豊かなように、子どももたくさんいる方が、幸せだと思っているみたい」と、ぼくは答えた。
「子どもは天からの恵みっていう、感覚なのね。」
「でも、確かに貧しくって、なかなか全員を学校に行かせることは、できない家族が多いことは確かだね。この近くの、もっと貧しい村では、子どもたちは全員、小学校の一年生に登録されるのだけれど、2年生になると、70パーセントがストップしてしまう。」
「何故なの?」
「2年生になると、午後の授業が出てきて、お弁当持って行けないからね。特に女の子なんかは、食べ盛りの13、4歳になると結婚させられていく。
 ところがあるとき、マニラから政府の福祉局の職員が来て、『親のいる子は、親元に帰すのが本来の福祉のあり方だ。』という講演をして、帰っていったんだ。
 確かに、ミンダナオ子ども図書館でも、親元から通える子は、できるだけ自分の村に住んで、通うようにしているんだけれど、なかには親がいても、極貧で三食たべられなかったり、学校まで4時間もかけて通わなければならない、子たちもいる。そんな子の場合は、本人の希望と保護者の理解があれば、本部や下宿小屋に、住めるようにしていたんだ。
 もちろん村にもどりたくなれば、翌年になってもどれるから、孤児院とは異なっていて、門が開いていても、逃げ出す子もほとんどいない。
 ところが、マニラから来た福祉局の職員が講演で『親のいる子は、親元に帰すのが本来の福祉のあり方だ。』と、言ったものだから、ソーシャルワーカーたちも当惑して、本部や下宿小屋にいる両親が、そろっている子たちを、無理やり家に帰したんだ。
 すると、その子たちのほとんどが、半年もたたずに学校をストップして、家政婦や食堂の皿洗いなどの仕事を探しに、町に出ていった。
 そして、その中の一人が、ある日突然、ミンダナオ子ども図書館に駆けこんできて、こう言ったんだ。
『もうわたし、どうしたら良いのかわからない。家政婦の仕事をしたら、雇い主からセックシャルな嫌がらせをされたの。
 でも、家に帰っても、貧しくって、みんな3食もたべられないのに、親が良いって言ってくれても、わたしだけが、学校になんて行かれない。わたしといっしょに、村にもどった子たちも、食べ盛りだから、13歳で、無理やり結婚させられた子もいるし。
 それで、わたしたち決心して、学校をやめて、町に出たんだけれど、嫌な目にあったりして泣いている。
 わたし、もう絶対に職場にも帰れないし、家にも帰りたくない!』といって、ワッと泣き出した。
 それで、親とも話し合って、いったん外に出した子たちを、再び本部や下宿小屋にもどすことにしたんだよ。そしたら、子どもたちも親たちも大喜びした。
 そのことを、地元の町の福祉局の職員に話すと、マニラの福祉局とは異なって、地元の福祉局の職員たちは、現状がよく理解できるので、こうおっしゃった。
『だいじょうぶ、ミンダナオ子ども図書館は、本当に子どもたちを救っていますし、本部が何を言おうとも、見て見ぬふりをしていきますから・・・』
 2017年に、ミンダナオ子ども図書館は、北コタバト州の認定から、フィリピン政府直轄の認定特別非営利法人になったけれど、今では、マニラから調査に来た職員も、ちゃんと理解し認めてくれている。 
 確かにぼくも最初に来たときは、多産は貧困の原因の一つだから、避妊教育をして出産制限をしたほうが良いのではと、思ったけれども、ミンダナオに15年もいると、なぜか考え方が変わってきたよ。
 どんなに大変でも、家族がみんなで力を合わせて、助けあって生きる経験の方が、子どもの心が育っていくんだな。だから、せめて子どもは、一家族5人はいた方が良いなあって。」


 























6,マノボの村に泊まることに決めた
 

 「今日、ここに泊まっていくの?」
 「どこの家に、泊まるの?」
 「ぼくの家に、泊まったらいいよ!」
 ミンダナオ子ども図書館では、子どもをスカラシップで支援してくださっている、訪問者が来られたときには、必ずその子がいる村までおつれして、当人に会わせ、生活のようすも見てもらっている。
 そういうわけで、たびたび、日本からの訪問者も、キアタウにいる奨学生に会いに来られ、家族からの強い勧めもあり、ときにはその子の家に泊まっていかれた。
 それを見て思ったのだろうけれど、あるとき村の首長から、こんな提案がだされた。
 「この村に、日本から来た人が、泊まれるようにしてはどうだろうか。セキュリティーは、万全にするから。村の発展のためにも、考えてみてくれないかなあ。」
 ぼくも、たびたび泊まっていたし、それによって訪問者も、現地の生活を深く知り、また子どもたちと遊んだりすることで、生涯心に残る、良い体験ができるだろうと思った。
 とりわけ、孤独や心の貧困で悩んでいる日本の若者にとっては、素朴な先住民の生活や、困難にめげずに、いつも明るい子どもたちと出会う、こうした体験そこが、悩みを乗り越えて将来を切りひらく、縁となるだろうと思った。
 そこでその後、村の人々たちと集会を持ち、話しあって、不公平のないように、すべての家々のリストをつくり、特に貧しい家を優先して、訪問者が泊まれるようにした。
 ただし、泊まる場合は、安全のために必ず、スタッフか、しっかりした地元の奨学生が同宿し、夜のトイレにもついていき、外で見張っていること。夜のトイレも、地面に穴を掘ったところに板を渡しただけで、囲いはビニールシートだけだったりするし・・・。
 そのかわり、泊まった家には一泊1000ペソ(2000円ほど)民泊代を払うこと。二泊以上する場合は、毎晩、泊まる家をかえて、家から家へと、収入が公平にはいるようにし、コミュニティーには、べつに1000ペソをはらうこと、ただしこれは、何泊しても一回だけにした。
 しかし、村の人々は最初、ちょっと心配そうにいった。
 「寝るところは、うちなんか、ぼろぼろの竹の小屋だし、床も竹で、せまくて寝心地が悪いし、大丈夫かなあ。」
 そこでぼくは、答えた。
 「むしろ、本当の生活を、体験してもらった方が良いですよ。わたしたちの車の中にも、非常用のあつでの服や、寝袋があるから持たせます。」
 たしかに、キアタウは、800メートルを超える標高の場所にあるから、夜などけっこう寒くなる。
 すると、主婦たちが言った。
 「食べものは、どうしたらいいかしら?」
 「うちなんか、貧しくて、お米やおかずを、買うお金も無いし?」
 「お塩も、買えないし・・・。』
 ぼくは、村人たちにいった。
 「食べ物は、できるだけ皆さんが、いつも食べている、日常の食事をだしてあげてくださいね。お米は買わずに、カサバイモとカエルの煮付けが、一番いいね。そのほうが、本当の生活が、わかって良いから。
 食事も別々に食べないで、子どもたちも含めて、家族でいっしょにしたほうが、いいな。
 床にオイモのかけらが落ちても、拾わないで、いつものように、床の竹のすきまから下に落として、地鶏たちが食べるのを、見せてあげたらいいかもしれない。
 そしたら『この村では、ニワトリとも、食べものを分かちあって、生活しているんですね!』といって、感動するかもしれないし・・・。』
 村人たちは、大笑いした。
 すでにこの村には、何人もの日本の若者や中高年の人々が、泊まっているので、集まってきた村の子たちは、訪問者の手を取って「どこの家に今日は泊まるの?」と、聞いてくるのだ。
 子どもたちと手をつないで歩きながら、そんな話を、双子の兄弟やシェアハウスの娘さん、そして、叔父さんを亡くした兄弟に話しながら、ぼくらは、コンクリートのタンクの前に立った。
 タンクは貯水槽になっていて、蛇口をひねると、中から水が流れ出してきて、村の女の子たちやご婦人たちが、楽しそうにおしゃべりしながら、食べ終わったお皿を洗ったり、少年たちが水くみをしたりしている。
 「ほら、この貯水タンクも、日本から来た方が、コミュニティーのために置いていった、寄付で作ったんですよ」と、訪問者たちに、ぼくはいった。
 「それまで、水くみに、はるか下の小川まで、20分ぐらいかけて、行かなければならなかったんです。今でも、たくさんの洗濯物があるときには、子どもたちは、洗濯物を山のようにつめたタライを頭にのせて、下の川まで行きますけどね。
 そこには、日本軍が逃げた洞窟もあるし、洗濯が終わると、最後は、裸になって川に飛びこんで、自分を洗濯!
 「夜は、どんなお料理をだしてくれるの?」
 シェアハウスの娘がたずねた。
 ぼくは、答えた。
 「斜面でも土地がなんとかある人は、トウモロコシを植えたりして、ひきわりトウモロコシをごはんのように炊いて、出してくれるけど・・・。
 ふだんは、空き地に生えている、カサバイモかサトイモを、一日に2回食べられれば良いほうかな。」
 「おかずは、なんなの?」
 「うーん、たまに、川でとった魚とかカエルを料理することもあるけどね。塩か塩辛を、イモにつけられれば良い方かな。
 ニワトリを床下に野放しにして、飼っているけど、あれは、クリスマスとか父さんの誕生日などのお祝いの日に、特別にさばいて食べる、おおごちそうなんだよ。
 もし、父さんが山に猟にいって、猿やイノシシがとれればおおごちそうだし、シキヘビがとれれば、おいしい蒲焼きが食べられる!」
 ニシキヘビと聞いて、みんなは目をまん丸にして顔をしかめた。
 ぼくは、ミンダナオ子ども図書館の文化祭で、マノボ族の料理を食べるときに、ときどき、ニシキヘビを生け捕りにして、解体して炭火で蒲焼きにすることを話した。
 「ニシキヘビって、解体して心臓をとっても、まだ生きて動いているんだよ。でも、蒲焼きにすると、とっってもおいしい!
 でも、日本の訪問者が泊まるときは、たいがい地鶏をつぶして焼いたりして、陸稲を炊いてだしてくれる。『そんな、特別料理は、出さなくってもいいのに。』と、言っているんだけどね。さすがに、はずかしいんだろうな。
 村には、ミンダナオ子ども図書館の奨学生も、たくさんいるし、君たちのめんどうも見てくれるし、いっしょに野原で遊んだりすると、一生のおもいでになるよ。
 そうだ、君たちも二泊ほど、キアタウ村に泊まってみるかい?」
 そう話すと、シェアハウスの娘さんも双子くんも、待ってましたとばかりにおおよろこびした。双子くんなどは、ガッツポーズだ。
 叔父が、ミンダナオで戦死した兄弟は、食べものの話などを聞いて、ちょっと緊張したおももちだったけれど、日系のジケロくんがこう語った。
 「ぼくもいっしょに、キアタウ村にいって泊まるから、だいじょうぶですよ。
 急病になっても、運転のできるスタッフも同宿するから、すぐに、ダバオの病院に車でいけるし・・・。」
 まわりにいる子どもたちに「訪問者たちが、今日から二泊ほど、この村に泊まることにした。」と、話すと子どもたちは、大喜びで手をたたいた。
 「うちに泊まって!」
 「うちにも、泊まってちょうだい!」
 ぼくたちは、広場から村の首長の家に行き、話をつめた結果、双子の兄弟には、運転手のスタッフが、シェアハウスの娘さんには、奨学生の高校生が二人、そして、叔父を失った兄弟には、日系人のジケロくんが同宿して、それぞれ、小さな小屋のような家に泊まることになった。
 「ぼくたち、英語が出来ないけど、だいじょうぶかなあ?」
 ブラジル人の双子がいった。
 「だいじょうぶだよ、ぼくらも泊まることに決めたから、何かあったら聞きにおいで。」
 ブラジル人の双子たちの手をひっぱって、子どもたちは、彼らが今宵泊まることになった家の方に、引っぱっていこうとしている。
 そのなかの小さな少年が、急にしゃがんで、クワックワックワッと言いながら、二人の前を跳びはねて、何かをしゃべっている。
 「何て言ってるの?」
 双子が聞いた。
 「うん、今日の夜、松明もって、いっしょに晩ご飯に食べる、カエルをとりに行こうって言ってるよ。」
 双子たちは、いっしゅん、ビックリした顔をしたけれども、子どもたちの方をふり向いて言った。
 「オッケー、オッケー、レッツゴー!」
































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ミンダナオ子ども図書館日記      
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