松居友プロフィール

1953年3月2日 東京に生まれる
父・松居直は福音館書店の初代編集長で戦後の子どもの本の世界の一翼を担うと同時に、ユネスコアジア文化センターや国際児童図書評議会を通して海外、とりわけアジアの出版の発展に心を注いだ。
母・松居身紀子は染色画家。
編集者の子どもとして、小さいときから絵本の読み聞かせの体験を持ち、後に福武書店(現ベネッセ)で絵本の編集にたずさわったのを機会に『わたしの絵本体験』(教文館)と『絵本は愛の体験です』(洋泉社)にまとめる。

小学校は明星学園。自由な雰囲気の中で、まだ自然の残る武蔵野で思う存分遊ぶ。
勉強はそれほどしなくても良いというのが、当時の学園の雰囲気で、夕刻まで外で遊び、帰ると本を読んで寝るというのが生活パターン。
休暇中も家にいず、まだ自然の豊富な武蔵野で、友人たちと徒党を組んで冒険をするという、受験競争以前の生活体験を少年時代に持つ。
また遠足は奥多摩で、基本的な山歩きの方法を学ぶ。後々の家にじっとしていられない、山好き海好き冒険好きな性格はこのころに培われたように思える。
小学校高学年の担任は、無着成恭先生で生涯の恩師として深く影響を受ける。数学は松井幹夫先生、理科は遠藤豊吉先生で後ほどの自由の森学園の創設者。
授業は面白く、学校で学ぶことの楽しさを満喫したのはこの時。

中学は、公立の高井戸中学校。公立の良さで、さまざまな境遇の友人に出会い、生涯の友の多くにこの時期に出会っている。
友人同士でテントを担いで尾瀬へ行き、山登りの楽しさを知ったのもこのころ。
坂本直行の画文集『山・原野・牧場』などの影響を強く受け、北海道にあこがれる。
後に北海道に住み、アイヌ文化などに深い関心を持ったのはこのころの影響。当時は、短歌を作るのが楽しみであった。

高校は、桐朋学園。短い期間であるが、山岳部に籍を置き、沢登りの楽しさをしる。
高校2年の時に、70年代の学生闘争が吹き荒れ、友人たちが職員室を封鎖して退学処分。
善悪二原論に共鳴できず、右翼でも左翼でもなく、第三の道を求めて、ニーチェ、サルトル、キルケゴールなどの実存主義的哲学書や
ドストエフスキー、シェイクスピア、ゲーテやヘッセなど、世界の小説や哲学書を年間400冊近い本を読む。
宗教を否定し、疎外や虚無や絶望について考察し続け、世の中のすべてが無意味に見え、意識的に死に近づいていく。
その結果、死にそうになるが、今でいえば引きこもり体験か。
そうした自分自身の体験もあり、その後も青少年の心の問題、不登校や自殺、引きこもりにといった社会問題や心理学に深い関心をもつようになった。
『昔話とこころの自立』(教文館)など、本当の生きる力とは何かを執筆。

大学は、上智大学文学部、ドイツ文学専攻。読んだ本でドイツ文学が若干多かったので選ぶ。
授業にはあまりまじめに出席せず、聖歌隊に入り初めてカトリックを知る。
実存主義の延長で虚無の前にたち、死の縁から黒い聖母の不思議な体験をして救われたのはこの時であった。
このことは、絵本「サンパギータのくびかざり」(今人社)にも描かれている。
この体験ののちに、この世を超えた愛が存在することに目覚め、後にイグナチヲ教会でホイヴェルス神父に出会い洗礼を受ける。
孤独を愛し、暇を見ては、一人で八ヶ岳山麓の高原を彷徨する。

進路が決まらずに、大学院を受けて落第。一年浪人してかろうじて大学院に進む。
ゲーテの自然科学と芸術論を通して宇宙論を学ぶ。恩師はゲーテ研究家の木村直司教授。
ゲーテを通し、ユングにも関心を持つ。恩師は、トーマス・インモース教授。
ユング心理学とゲーテの宇宙像を通して、コスモロジーに関心を持ち、後ほど『昔話とこころの自立』(教文館)『昔話の死と誕生』(教文館)を執筆する。
成績が悪く博士課程進学を断念。修士課程を修了してオーストリアのザルツブルグ大学に私費留学。
当時の体験から、『ナディアと灰色オオカミ』(女子パウロ会)が生まれる。

帰国後、職を探したが見つからず、ようやく福武書店(現ベネッセ)に拾われ、児童書部の設立の命を受け初代編集長となる。
講演会を始め、時には年に300回を超える数をこなし、膨大な計数を見ながら事業戦略を立てるという、典型的なビジネスマンを体験。
とりあえず一事業部を三年で黒字化し軌道に乗せるという貴重な体験をさせてもらい、編集者として、手島圭三郎など数々の絵本を出し、海外でも編集者として知られ始めた。
しかし、妻子と家庭らしい家庭を持ちたくて、事業を軌道に乗せたのちに十年後に退社。
自然のある生活への渇望が止みがたく北海道に移る。

北海道のごくふつうの人々の声をまとめた、『北の森通信』を創刊し2000部を超える。
現代文明をもう一度根底からとらえ直すよすがとしてアイヌ文化と沖縄文化の宇宙像に関心を持ち、その成果として『火の神の懐にて』『沖縄の宇宙像』(洋泉社)を執筆。
またいくつかの絵本や児童書を執筆。
アイヌ文化を通して、霊(スピリット)と実存(マテリアル)の狭間としての自然を心眼で感じたいという思いから、登山を開始。
高じて冬のトムラウシや春の日高の沢、山スキーからロッククライミングまで試みる一方で、孤独に耐え一人自然と向き合うために、しばしば山頂で一人夜を明かす。

北海道生活十年後、中年の危機を体験。21世紀から、大変な時代が来るという予感で落ち込む。
その後も、911やイスラム国などの戦争を含め、まさにそれが、的中していく・・・。
善悪二原論を超えた総合的世界観の復活が東アジアで可能であるという「昔話の死と誕生」(教文館)にも書いたことを思い出して、気持ちを切り替えようと、神父に相談したところ、フィリピンの孤児施設を紹介される。
フィリピンに興味はなかったのだが、孤児施にいき、心が回復したてきたので、滞在中に電話で妻から離縁を言い渡される。
生涯ないと信じていたことが起こり、絶望の底へ。
しかし、離婚を認めるのも愛の印だという話を受け入れて、子供たちの大学までの学費を含む全財産、家も土地も売って送り無一文となる。
イエスへの信仰がなければ、命つきていたであろう。
孤独の中で再びフィリピンを訪れ、貧しい孤児たちが精神的な危機を救ってくれる。これらの子どもたちのことは、『サンパギータの白い花』(女子パウロ会)に執筆。

子どもを見るたびにもはや会えない我が子とだぶり、その苦しみから立ち直るために、フィリピンの親の居ない崩壊家庭の貧しい子どもと若者たちを我が子と見なし、彼らのために生涯を捧げることを決意。
ダバオで現地語のビサヤ語を学んだのち、2001年キダパワンに『ミンダナオ子ども図書館』を設立。
小さな島に、文化、宗教にいたるが世界の諸問題からすべて入っていることに驚きと興味を持ち、ここに投げ込まれたのも運命化と感じ活動をはじめる。
2003年にフィリピンの特別非営利法人として登記し、読み語り以外に、スカラシップ(奨学制度)、医療、植林、保育所や学校建設といった活動を、先住民、イスラム、クリスチャンの領域で始める。
首長らの推薦で、マノボ族の首長の洗礼を受ける。アオコイ マオガゴン(心から人を助けるわれらの友)が首長としての名前。
生涯の伴侶として、現在の妻エープリルリンに出会う。
現在は、ミンダナオのキダパワン市で『ミンダナオ子ども図書館』を主催している。


2014年の活動報告