戦争と平和構築
2016年の記録から
(1)










海のMCLを
建てよう!


ミンダナオ子ども図書館は、
本部が北コタバト州の
キダパワン市の郊外に
位置している。

ミンダナオの首都ダバオ市から
フィリピンの最高峰アポ山を右に仰ぎ、
左を海に沿って車で走り、

デゴスDigos市から
アポ山麓を巡って右に入り、

マキララMakilalaの峠を越えて
アポ山の裏側の町に着く。
高原の学園都市、
それがキダパワン市だ!

そこを中心に、
さらに西に行くとイスラム地域。
アポ山麓を巡って北東の山に入ると
原住民のいる
アラカン地域がある。

しかし、デゴスから左へ、
海沿いに南に下っていくと、
サンタマリア市から
海に突き出した半島を超えると
クラクシン村に着く。


イスラム地域には、
リグアサン湿原など広大な大自然があり、
絶句するような
太古の美しさに満ちているけれども
反政府地域でもあるがゆえに、
訪問者は、容易に入れない。


東北のアラカン地域は、
先住民族のマノボ族のすむ
山岳地域で、

ここにはMCLの山の宿舎があり、
周辺の村の一つ
電気も無いマノボの村キアタウには、
訪問者も泊まれるようになっている。

かつては、
とても外国人の入れる場所では
なかったけれども、
MCLの奨学生も多く保育所も建設し、

さらに、ラナコランには
遠かったり三食たべられなくて
学校に通えない子たちが住んで、
近くの学校に通える
MCLの下宿小屋がある。

下宿小屋には、
日系人のジケロ君家族が
スタッフとして住んでいて、

20人ぐらいの子どもたちの
面倒を見ていて
ぼくたちは、
山の下宿小屋と呼んでいる。

それに対して、もう一つ、
海の下宿小屋を作ろうという計画が
かつてからあり、
今回、サンタマリアのある漁村の外れに
土地を購入した。





海の下宿小屋を
建てようと思った理由


海のMCL(下宿小屋)を
建てようと思った理由は、
いくつかある。

1,
毎年数回、
MCLに住んでいる子供たちと
海に遊びに行くようにしている。


特に、夏休みやお正月には、
家庭環境が複雑で、
帰郷できない子たちが
寂しいから海に行くけど、

いわゆる外国人向けリゾートは、
なんだか現地の生活から乖離した
金持ちの集う不自然な空間で
好きになれない。

どこかに、
開発されにくい、
素朴で自然な漁村があれば、
そこに下宿小屋を建てたいと思った。

そうすれば、
現地の貧困家庭の孤児たちを救えるし
ときどき、
MCLの子たちも泳ぎに行ける。



日本から来る
若者たちにも


2,
それから、
日本から来る若者たちにも
いわゆるリゾートでは無く、

素朴な漁村の
生活体験をさせてあげれば、
どんなにか心が癒やされることか。



ちょうと、山の下宿小屋の近くの村
電気も無い
マノボ族の集落
キアタウ村での生活体験のように。

MCLに行くとちゅうの
ディゴスの郊外ならダバオ州に属しており、
日本政府の指定の
海外での危険度も低いし・・・

そこで偶然見つけたのが、
サンタマリアから
半島の海沿いと山を、
4輪駆動の車で超えたこの村だった。

ここでは、イスラム教徒と、
先住民族とクリスチャンが
仲良く暮らしていて、
まるでMCLのようだ。



小さな小さな
個人のリゾートがあるけれど、
ほとんど小舟でしか入れない。

信じられないくらいの
真っ白な砂浜。
それに、
漁民たちの生活が素朴だった。

ここに奨学生が住めば、
浜辺を抜けて、
小学校と高校にも通えるから
下宿小屋を作るにはうってつけだ。



村はずれに
土地を購入


信じられないほどの
真っ白な砂浜
そして、素朴な漁民と子どもたち。

偶然この地を訪れて、
村人たちと親しくなり
保育所が酷かったので、
MCLで建てた。

その後、子どもたちと
テントを持って泳ぎに行ったり、
日本から来られた、
訪問者や若者たちも
この村の漁民の家に民泊して
寝食をともにした。

日本で有名なカヌーの野田さんたちと
カナダのユーコン川を下った
身障者カヌーの吉田さんも、
ミンダナオ子ども図書館の日本の理事で
この海でシーカヤックを楽しんだ。


この地で
漁民とカヌーで漁に出かけ
そのおかげで、心が回復していく
青少年も多い。

村の保育所が
酷い状態だったので
保育所もMCLで建ててあげた。

サンタマリア市の市長や福祉局
行政機関とも連携して、
山の先住民の地域にも足を運び、
すでに4ヶ所の保育所を建てた。

また、貧困家庭のなかでも
特に孤児や片親、
崩壊家庭の子たちを
奨学生にとってきた。

そのような繋がりからも
村人たちも、
ぜひぜひMCLに来てもらい、
ここに、下宿小屋を建てて欲しい!
という、要望が生まれてきた。


そこで、
土地を手放しても良いという方から、
村の一番外れの落ち着いて静かな場所に、
下宿小屋を建てるための
土地を買うことにした。


先日、
土地の測量を終えて
弁護士を交えて話し合いを持ち、
購入を完了した。




サンタマリアの
市場


サンタマリアにある市場も
生活の臭いがあって
心が温まる。

ぼくが子どもの頃の東京は、
荻窪駅前にも市場があり、
このような
風景があったのを思いだす。


ミンダナオに帰ってくると
心からホッとするのは、
子どもの頃にあった、
こうした人情味にあふれた、
風景を思いだすからだろう。


本当の幸せや、
生きている喜びは、
物やお金だけでは、
手に入らない?

ちまたの生活の臭い。
壁を作らない
隣人愛や友情、そして
家族の愛のなかにある?



海と山の
下宿小屋の映像
海の下宿小屋に!
山の下宿小屋に!
サンタマリアの 海辺で遊ぶ子どもたち!


ゆめポッケを配った

仏教団体
立正佼成会の子どもたちから
送られてきた
ゆめポッケを配った。


山に追われて
貧困生活を強いられている
原住民の集落だけでは無く、


毎年のように起こる戦闘で、
避難を余儀なくされるような
厳しい地域の子どもたちや、

都市近郊の
海に張り出した
貧困地帯の子どもたちにも、

MCLでは、毎年
立正佼成会から送られてくる
ゆめポッケを
届けさせていただいている。

ゆめポッケは、
日本の子供たちが一食ぬいて、
お金を貯めて、
それで、世界の貧しい子どもたちに、
学用品やぬいぐるみを買って、

親たちが手作りした
色とりどりの
巾着袋にいれてわたす、
愛と友情の支援活動!

心のこもった良い活動なので、
長年、MCLでは、
ゆめポッケの配布を
お手伝いしてきた。


ひとつひとつに、
贈り物を選んだ子どもたちの想いや願い、
そして、手作りで巾着袋を作った
親たちの気持ちがこもっていて、


それが、
現地の子どもや
親たちにも伝わっていく。
本当に喜ばれる贈り物だ。

MCLが来たよ!
ゆめポッケくばるよー!
大喜びで駆けよってくる
子どもたち。




読み語りが
始まった


ゆめポッケを配る前に、
まずは、
MCLの基幹となる読み語りをする。

絵本を読み語るのは、
ミンダナオ子ども図書館の奨学生たち!



原住民の住む、山の貧困は大変で、
毎日、ご飯を食べるのも難しく、
山芋やカエルを
食べて育った子どもたち。


兄弟姉妹も平均して7人で、
小学校にも行けず、
父さんや母さんを助けるために、
川で洗濯をしたり、


料理のための
薪を集めて
家族を助けたり。


そうやって、
助けあいながら、
山で育った子どもたち。




歌や踊りや
劇も披露する


お話しだけでは
なくって、
歌や踊りも披露する。

歌は必ず、
原住民の歌、
クリスチャンそしてイスラムの歌を
みんなで歌う!

そして、最後に
「おおきなカサバイモ」の劇もする
「うんとこしょ、どっこいしょ」



原本は「おおきなカブ」だけれど、
このような山では、
子どもたちは、
カブなど見たことも無い!

いつも山で、
食べるために掘るのは、カサバイモ!
カサバイモの抜き方なら
子どもたちは、誰でも知っている!
だから、劇の名前は、
「おおきなカサバイモ」にした。

猿も出てきて
「うんとこしょ、どっこいしょ」

最後は、ネズミが出てきて
カサバイモのまわりをコツコツ掘って、
「抜けたーーーー!」


絵本のお話が、
実体験と重なって演じられる!
真にお話が生きている世界
ミンダナオ!




ゆめポッケの
配布が始まった


読み語りの後に、
いよいよ
「ゆめポッケ」の配布を開始。

まずは、ポスター写真を見せながら、
日本の子どもたちが
一食ぬいてお金を貯めて、
どのようにゆめポッケを作っていくかを
ソーシャルワーカーのアイリーンが語った。



語り終わってから、
いよいよ
ゆめポッケの配布がはじまる。

本来、立正佼成会から、
親子連れで来られて、
ゆめポッケを子どもたちが直接
現地の子供たちに配るのだけれど、

今回は、
情勢も考えて延期して
立正佼成会の代表の方が訪問されて
ゆめポッケを配布された。

 
MCLの子どもたちに混じって、
私の二人の娘たちも
子どもたちに
ゆめポッケを渡した。


MCLの子どもたちは、
親がいなくなったり、
さまざまな孤独やトラウマを
持っている子たちだけれど、
こうした活動をすることで、
逆に、生きる力を培っていく。

子どもたちの
喜ぶ笑顔に出会って、
大きな生きる喜びを感じる
訪問者の方々!


友情と愛こそが、
生きる力!


今回は、
日本から来た訪問者や
若者たちも参加して
喜びを体験した!




ゆめポッケをもらって、
大喜びの子どもたち



ポッケを開いて
見せあって、
早速
おもちゃで遊び始める!


ゆめポッケを開いてのぞいて
中に入っている、
学用品やおもちゃ、
ぬいぐるみを
取り出して喜ぶ子どもたち。


現地の子供たちにとって
ぬいぐるみなど、
ほとんど夢のまた夢。

古着を渡しているので
服は多少良いけれど、
鉛筆や色鉛筆、
クレヨンや定規も買えない。

このゆめポッケの活動は、
さらに現地に親子が訪れて、
直接手渡すことで、
さらに深い意味を持つ体験となる。

帰る時には、
日本子たちと現地の子供たちは
抱きあって泣く。

こうした体験を通して
日本の子供たちや若者たちも、
現地の子たちから
生きる喜びと力を受けとって、
心を成長させていける
場所にしようと思っています!


みなさん、
いつでもいらしてくださいね!
宿泊費は、とりません。

訪問希望の方は ここをクリック!


配布した子の
家を訪ねた


ゆめポッケの
配布が終わって、
配布した子の家を訪ねた。

家は、
貧しくて
ほとんど竹で出来ている。


平均して7人の子がいて、
家具も無ければ
食器もあまりないけれど、
お金では買えない、幸せがある?

立正佼成会の代表の方々が
家族にインタビューされた。

ゆめポッケをもらって
大喜びの子どもたち。


配布が終わって
大喜びの
MCLの子たちと訪問者。


 ゆめポッケ
17分
 
映像を 見たい方は ここをクリック


訪問してきた
支援者の方々と一緒に

ミンダナオ子ども図書館のある北コタバト州は、
日本政府の指定する
危険地帯になっていて、
キダパワン市は、
現地では安全だと言われているけれど、
MCLでは、訪問者は、
単独で歩かないようにお願いしています。

市内であっても、
必ずスタッフや奨学生達が同行!
MCLの訪問者のポロシーは、
下に紹介しましたのでご覧ください。
訪問希望の方は ここをクリック!

MCLの活動は、読み語りなどは、
本部に住んでいる
奨学生の子供たちと一緒に
山の村を巡ります。

その帰り道に、
時には川で水浴びして
自分自身を洗濯したり・・・


時には、
倒れて妨げになっている
木を切ってよけながら、


山奥の村の
奨学生の子供たちに
会いに行きます。




支援している
子に会えた!


奨学生を支援してくださっている方の場合は、
必ずその子のいる学校と家を訪ねて、
支援している奨学生に
会えるようにします。



車で数時間かけて山々を巡っていくので、
その途中で、
別の奨学生にも会ったり、
病気だった子どもの
病後の経過を確認したり、


学用品を届けたり、

村の状況を見て
病気の子がいないか等、
何に困っているかを調査します。

訪問者も、
危険地域を除いて
同行できます。




子どもたちの生活が
見えてくる


訪問者の方々も、
日々の活動に同行することで
現地の子供たちの
真の生活が見えて来ます。


日本では、
スタディー=勉強が重要で。
海外を知るための
スタディーツアーが盛んなようで、
私たちもずいぶんいろいろなところから
要請を受けました。


経済的な恩恵もあり
真剣に考えた時期も
ありましたが、

しかし、
ひたすら子どもたちに目を向けて
連日のように活動をし、
しばしば、
緊急の医療や戦争避難民救済に
駆け回っていると、


スタディーツアーの
お客様を
接待している暇もなく、

現地で訪問者が、
村の人々に質問をする時間などを設定すると、
場所によっては、
「何の目的出来たのか・・・?」
と不信感を持ってみられるほど、
外国人など見たこともの無い村の人たち。




一番不振に
思われるのが


一番不振に思われるのが、
鉱物資源を調査しに来たのだろう、
という不信感です。

事実、最近山で起こるのが
ニッケルなどの
レアメタルの発掘調査。

これに反対した
マノボ族の酋長が殺されて、
その娘さんが、
MCLの奨学生になっています。

その後、
娘は母親を守るために
奨学生を辞めて農業に同行。

しかし、母親から、
「私も殺されるかもしれない。
下の子たちを、奨学生に受け入れてください!」
と言われて、受け入れたのですが、
2020年に母親も、殺されました。

最初の奨学生だった
娘さんは、結婚しましたが、
その下の子どもたちを
奨学生に受け入れています。





あるマノボ族の
村では


あるマノボ族の村では、
保育所建設を決定したのですが、
その後、
私は、日本政府が
開発調査に派遣した要員だ、
という噂が流され、


再訪したときに
村の全員が恐怖で逃げて
村には子ども以外は、
誰一人いない事態。

そこで、
理事でマノボ族の酋長で牧師でもある
ガボン氏と、懇意の現地の酋長とで、
再度、村に行き、
悪霊払いの儀式をしました。



そういった深層の背景が、
まったく解っていない日本人の訪問者が、
ただ村に入って、撮影したり質問したりしたら、
村人はどれだけ警戒し
疑うことか・・・




村に
いくからには


私たちは、
どこの村を訪れるときも
ただ「見学」に行くような行為は、
危険であるが故に行いません。

村にいくからには、
その村の人々、
とりわけ子供たちにとって、


奨学生の採用や読み語り、
医療や保育所支援や、
古着の配布など・・・、
何らかの良い理由があり、


それを事前に、
コンタクトパーソンを通して
村に通達して、

さらに、現地に通じている人や
現地の人々も良く知っていて信頼できる人、
あるいは現地出身の
奨学生の子供や若者やスタッフに同行してもらい
一緒に行きます。


そうすると危険地域の人々でさえ
「何とかちゃんが、帰ってきたよ!」
「MCLが、読み聞かせに来たよ」
「古着を持って来てくれたよ!」
などといって、大歓迎して迎えてくれます。
そうした配慮が大切です。


それゆえに、MCLは、
基本的に現地では不自然に
受けとられかねない
スタディーツアーなどは行わず。

自分の支援している
奨学生に会いに
活動にいっしょに着いてきた訪問者
として同行してもらい、
村人たちに紹介します。




子供たちと、
庭の掃除とイモ堀

訪問者の若者が、
子供たちと、
庭の掃除とイモ堀をした。


ミンダナオ子ども図書館では、
支援者から送られてくる支援金を、
できるだけ教育費や避難民救済、
そして
貧しくて薬も買えない子たちを
救うための医療に充てようと、


子どもたちは、
自分たちのごはんとおかずを
出来る限り自給して、
活動費に充てることを目指しています。

お米は、
水田を購入して、

本部や下宿施設や
山の下宿小屋などに住んでいる
小学校から大学生までの奨学生たち、
ほぼ250人分の米を
自給しています。


水田での米の自給に並行して、
子どもたちも
少しでも自分たちの力で
自給できるようにしたいと考えて、
MCLの敷地内に食材の野菜や果物を植えて
育てています!


貧しい子どもたちですが、
山でお父さんやお母さんを手伝って、
小さいときから
野菜を育てたり、

ヤマイモ(カサバイモ)を
掘ったりしてきた
経験があるせいか、


本当に、楽しみながら
見事に畑仕事をこなしていきます。
嫌な顔をする子は、一人もいない!

2021年には、
ご寄付によって、精米機も設置されました。
感謝です!

今後も
何とか水田を10ヘクタール加えて、
食材の購入も寄付を使わず、
スタッフの家族や訪問者の食費も
自給できるようにしたいと思っています。



マノボ族の文化を
特別調査


理事で酋長で牧師の
ガボン氏をたずねた。


先住民族の
文化調査が目的で来られた方。

訪問の目的が、
現地の人々にとって意味のある
調査などの場合は、
特別な計らいで、計画をお立てします。

過去、
文化人類学者の増田氏などを
現地の先住民族の方々に紹介しています。


本も
出版されています。

現地の取材など、
可能な限りお役に立ちたいと思いますが、
状況や内容によっては、
不可能な場合もあります。




親のいない子を
奨学生に!


帰りに、
マノボの集落を訪問
親のいない子を奨学生に!


今回、
先住民の取材で来られた方と
帰りがけに、ひさしぶりで
マノボ族の集落を訪れた。

ここは、
山岳地では無いけれども、
平地の良い土地を移民に取られてしまい、
斜面にかろうじて家を建てて、
土地を持っている
移民たちの畑や田んぼの草刈りや、


家々をまわって、
洗濯物を集めて洗濯をして、
日銭を稼いでいる、
マノボの人々が、集まっている集落。


学校まで、
3時間近く歩かなければならない。
それゆえに、
お弁当も持って行けない極貧の子たちには、
学校に行くことすら辛いこと・・・。


すでに、
10年にわたり
奨学生をここから採っていて、
大学を出た子もいるけれども、

中高校や小学校でストップして
結婚した子も多い。
でも、何よりも大事なのは、
幸せになってくれること!


MCLでは、
保育所も建設しているけれど
生活はいつも大変。

今回も
状況を見るために
訪問者といっしょに訪れて、
いろいろな話をうかがった。

そして、最後に、
親がいずに、
学校に行きたくても行けない少女を2人
奨学生候補に決定した。
候補と言っても、
まだ支援者はいないけど、
すでに奨学生としての採用した。


ここから学校に通うよりも
「ミンダナオ子ども図書館に住みたい!」
という、本人の強い希望と意志で、
MCLに住んで、
近くの学校に通うことになった。


村では、
親のいない子も放っておかず、
「仕方がない、うちに住みな!」
と、引きっとって、
一緒に住まわせたりするのだけれど、

自分の子だけでも7人以上いて、
学校に通わせるのも大変なのに、
預かっている子を学校に行かせることなど
無理な話。


そんな子たちが
MCLに80人ほど住み込んで、
近くの学校に通えるようにしている。




奨学生候補の
状況調査に


親がいず、厳しい環境の子で、
学校に行きたくても
行けない子がいる話が聞こえてくると、
私たちは、
スカラシップに採る前に必ずその子の家を訪ね、
状況を調査します。


スタッフは、
ほとんどがMCLの
奨学生だった子たちです。

下のスタッフは、
マノボ族のローズマリー。
現在は、スカラシップセクションのリーダー!


現在スカラシップの子たちは、
500名以上。

今年は、フィリピン政府が、
今までは、小学校を6年で卒業して、
その後ハイスクールを4年間で卒業すれば、
大学に進学できたのに、
ジュニアハイスクール4年にさらに
シニアハイスクールを2年を加えて、
ハイスクールを合計6年制にしたために、


大学進学に燃えていた子が
ショックを受け
停止する子が多く出ました。

理由は、
学校に行けなかった子の場合は、
クラスの中でも、
他の子より年齢が高いケースも多く、
保護者からも、本人の希望からも、
大学に行かせるよりも、働かせたい、働きたい!


結婚させたい、結婚したい!
(こちらの結婚年齢は、16歳から18歳)
そんな希望と焦りが出てきたためです。

将来の事を考えると、
仕事を探すにしても大学に行った方が良いよ・・・
大学で彼氏を探して結婚したら?
というのですが、


年下の兄弟姉妹たちも一生懸命に働いて、
家庭を支えている様子を見て、
いたたまれなくなるようです。


今、MCLでは、
140名ほどの奨学生が、
まだ支援者や里親がいません。

しかし、
どうしても現地に置いておけない子たちや、
アビューズがあって保護の必要な子たちは、
無理してでも採用するので、
これだけ多くなってしまいました。


皆さん、
お願いします。
自由寄付でも助かります。

支援方法のサイトへGo!



北海道と四国を
合わせたほどの島


ミンダナオ島は、
北海道と四国を合わせたほどの
大きさの島で、

ミンダナオ子ども図書館の
活動範囲は、
東はダバオ湾の半島から、

西はイスラム教徒の多いピキット
リグアサン湿原地帯を経て
コタバト市まで。

北は
アポ山山麓のマグペットから、
原住民の住むアラカンや
ブキッドノン。

南の海岸沿いは、
海の下宿小屋がある
サンタマリア等々。

とりわけ、
四角で囲った部分が、スカラシップ、植林、
保育所、戦争避難民救済などで
活動してきた範囲です。

MCLの本部がある場所が、
下の地図上で、
⑪と出ているKidapawan市の郊外で、

活動範囲は、
キダパワンを中心に広がっていると
思っていただければ良いかと思います。

下をクリックしてくだされば、
拡大して
みることが出来ます。

ミンダナオ子ども図書館は、
行動範囲だけではなく、
保育所建設などの活動範囲が、

北コタバト州からダバオ州、
マギンダナオ州にまで広がってきたので、
現在マニラの福祉局と話ながら、
北コタバト州ではなく
フィリピン政府の直轄のFoundation
NGOとして、


フィリピン全体で
活動できるように動いています。
ほぼ、マニラとの話も詰めに入り、
最終調整の段階です。

MCLの現地スタッフが、
ソーシャルワーカーや理事、役員も含めて
しっかりと動いています。

妻でディレクターのエープリルリンが、
全体をしっかりとマネージして、
時には政府から頼まれて、
NGOの集会で講演もしています。

2018年の時点で
フィリピン政府直轄のNGOとなり、
活動許可範囲は、フィリピン全体になりました。
セブ、ルソン島など、
フィリピン全域での活動が許可されています。




学用品も届けます

活動範囲が広いので
調査と平行して、
学用品も届けます。



とにかく、活動範囲が広く、
奨学生候補を調査すると同時に、
すでに奨学生の子どもが、
困窮していないか、


また、
何らかの理由で学業を停止していなか、
スカラシップ担当のスタッフと
ソーシャルワーカーが、
子どもに会いに
現地の学校や家をたずねます。


(ソーシャルワーカーも3人いて、
そのうち2人は、卒業生たち・・・)

本来ならば、
携帯で連絡を取ったり、するのでしょうけれど、
電気も来ていない地域であり、
先生にも、携帯の電波も届かず、
とにかく足を運ぶしかありません。


山道を行く4WDの
ガソリン代だけでも大変なので、
ガソリン節約のために、
一気に仕事を集中させますが、

訪問者も同行して、現地を見ると、
現地の状況や
奨学生たちの生活状況もわかります。




ソーシャルワーカーの
研修生たち


大学から送られてきた
ソーシャルワーカーの研修生たち!


教育実習のために、毎年数回、
ミンダナオの大学から3ヶ月
実習授業のために送られてくる
ソーシャルワーカーの卵たち。

ミンダナオ子ども図書館の活動の評判は、
現地の大学でも以外と高く、
毎年、教育実習のために
大学で社会福祉を学んでいる
学生たちが、送られてきて、


ミンダナオ子ども図書館に住み込みで
3ヶ月の実習を行って
単位を取得する場になっています。

彼等は、スタッフの活動に同行し
ミンダナオの山岳民族やイスラム教徒の
状況を学んでいきます。
そして、口をそろえて言うことには、
「今までで、
MCLでの実習体験がどこよりも感動的!」


「本当に現地の状況がわかるし、
驚くべき体験が、
次から次へと出来る!」

「他の施設なども、見てきたけど、
MCLは、
本当に子供たちが明るいし
生き生きとしていてすばらしい!」

これは、
手前味噌で言っているのでは無く
本当の彼等の感想です。

この日は、
MCLのある上の方の山の
ウオーターフォール集落へ行きました。
ここの奨学生の状況を、
調査する必要があったから・・・





泣きだした
少女


MCLディレクターの妻に会って泣きだした少女。
まだ少女でも、
ストップしたまま結婚し
今は、子持ちの母親。

でも、
さまざまな想いが駆けめぐって
会ったとたん、
抱きついたまま泣きだした・・・。

奨学生を続けていれば・・・。
「でも、本当に困ったときには
MCLに駆け込んでおいで・・・」

孤児の子たちにとっては、
離れてもMCLは、我が家のようなもので
困ったときの駆け込み寺!

日本からの訪問者も、
いっしょに、現地を訪れた。
美しい滝にビックリ!
しかし、生活の困難さにも唖然!


下の写真の左端の子は
今もMCLの奨学生で大学に。
右端の赤ちゃんを抱いている子も
かつてのMCLの奨学生で、
高校を卒業して結婚した。

良い仕事に就くつか就かないよりも、
たとえ、生活は大変でも、
幸せになってくれたら、それがなにより!


奨学生の調査が終わり
帰る途中で、
ジャングルのなかにある温泉をたずねた。
熱湯が噴き出している温泉は、
マノボ族の伝説の聖地だ!


日本からの訪問者は、
大喜び!
これが本物のジャングルだわ!

訪問されたい方は、
現地の状況にもよりますが
現地スタッフの宮木梓(あずさ)さんに
相談してみてください。

mclmindanao@gmail.com
宿泊費はとらず、
お客様としてではなく、
ファミリー(家族)として受け入れます。


ただし、MCLの活動は、
子どもたちが中心なので、
訪問規定は、
若干厳しく作られています。

訪問希望の方は ここをクリック!
守っていただけない場合は、
帰っていただく事もありますし、
状況を見極めて、
スタッフの活動に同行する事は出来ますが、
スタディーツアーは、いたしません。

スタディーツアーを 辞めた理由、 訪問者は無償で受け入れ!
しかし、
現地の大学生とも一緒に
本物の体験が、可能です。



山の下宿小屋に!

海の下宿小屋に!

奨学生を決定に山へ!



支援している子と
一緒に


スカラシップで、
支援している子たちからは、
高校生、大学生の場合は年四回
手紙が届きます。


手紙は、英語で書かれていますが、
必要な場合は、
おっしゃっていただければ、
現地日本人スタッフの宮木梓さんが、
翻訳を入れてくださいます。


訪問で来られた場合は、
奨学支援者の場合は、
その子の通っている学校に行き、
その後、
奨学生といっしょに、
その子の家にお連れします。


ただ、
イスラムの危険地域の場合は状況次第です。
難しい場合は
支援している子をスタッフが迎えに行き
ミンダナオ子ども図書館まで連れてきます。


MCLに子供は泊まり、
その子とキダパワンのモール等に
スタッフが同行して、買い物に行ったり、


食事をともにしたりすることも可能です。
とりわけ、卒業式の時など
子供たちは、泣いて泣いて喜びます。

ぜひぜひ、いらしてください。
宿泊費はとっていません。
家族ですから。
何日でも滞在してください。

宿泊は、本棟ですが、
男子部屋と女子部屋と家族部屋があります。
ただし、粗末な?竹のベッドに
マットレスをひいたものです。

食事は、
子どもたちが料理してくれたものを
子供たちと一緒に食べますが、
早起きが難しいときは、
食堂に残しておいてくれますよ!

訪問希望の方は ここをクリック!


日本文理学院高等部の
若者たちと
東大の修士の若者
訪問記


日本文理学院高等部で、
話をした事がきっかけで
梅木先生と
駒澤大学の息子さんと学生二人、

また時期を合わせて、
講演をした東京大学の
修士の若者が、
年始にミンダナオを訪れた。

MCLは、
宿泊費は、取っていないし、
スタディーツアーもしていない。

子どもたちが、ファミリーとして
友人として迎えることが大事で、
お客様の接待という
ムードにだけはしたくないから。

ただし、子どもたちの要望で、
ウエルカムパーティー(歓迎会)と
フェアウエルパーティー(お別れ会)は、
やることにしています!

特に、不登校やひきこもり
悩みのあるこの場合は、
1~2カ月でも、
積極的に受け入れることにしています。

年末にきた、
ペルー人の若者たちもそうだったし、
今回の文理学院の子たちも、
基本的には、そんな子たちだけれど、

とても素直で、
心から子どもたちを愛し、
かえって、将来に
希望がもてる気がしています!

日本の美しく希望に満ちた未来は、
不登校、落ちこぼれ、
引きこもりの子たちにこそ、
実現可能な気がすることもありますね。




サンタマリアの
海辺の村へ


新年開けは、
訪問者の若者たちと
漁村に!

先進国目線のリゾートではなく、
本物の庶民の生活を
体験するところから、
訪問者の第一歩が始まる。

日本語しか、
出来なくっても大丈夫!
落ちこぼれ、引きこもり、
大歓迎!


ここに来たのは、
若者たちにとって、
庶民(漁民)の生活が体験できる
素晴らしい場所であるから。

今、この浜辺の村に
MCLの小学生、
高校生の下宿小屋を
立てる計画を進めている。

山のMCLは、
ラナコランに建ててあるし
海の下宿小屋の企画を
実現するために。

今回は、
ここに一泊し
村長や保育者と話し合った。

一泊は、
日本から来た若者たちも
民家に泊まった。

初めての海外旅行でも、
積極的に、
現地の家族に溶け込んでいく。

日本だったら
難しいだろうけれども、
ミンダナオの開けっぴろげで
明るい人柄故に可能なのかもしれない。

子どもたちも
本当に可愛らしい。




浜を歩いて
学校へ


翌日は、
調査もかねて
通学路の浜を歩いて学校へ!



この地域は、 
イスラム教徒、キリスト教徒、先住民が
仲良く平和に暮らしている。


家族を見ても、
旦那さんや奥さんがイスラム教徒で、
相棒がキリスト教徒や
先住民だったり。


心に壁を作らない
あいまいさがアジアの良さ!
まるで、
MCLのような地域だ。




まずは、
高校へ行き


高校へ行き、
MCLの奨学生達に会った。

親がいなくなったり、
崩壊した家庭の子たちだけれど、
がんばって
表彰もされたという。 


まだ、
MCLの本部に来たことはないので、
3月には訪問する予定。
大学はキダパワンの大学で、
MCLに住むだろうから。


その後、
近くの小学校へ行き、

ここでも、
MCLの奨学生に会った。





クラクシン村に
戻り


奨学生たちの状況を調査した後に、
海辺の村々を抜けて、
クラクシン村に戻って行った。


この地域には、
イスラム教徒とクリスチャンたちが、
平和に仲良く住んでいる。

クリスチャンの家には、
豚が飼われており、

イスラムの村には、
ヤギが飼われていて、
小さなモスクが建っている。


MCLで建てた
保育所に行って、


村の子どもたちにも
会った。

夕暮れ時になると、
漁師のお父さんたちは、
カヌーで漁に出かけていく。


沖に網をしかけて、戻ってくると、
今度は、
早朝の夜明け前のまだ暗いうちに、
沖合に出かけて、

獲った魚を舟にのせると、
昼前に
村に戻って来る。


昼は、
仲間とヤシ酒を飲んだり、


カヌーの修復をしがら、
我が子の
めんどうをみたり、



木陰で、
ゆっくりくつろいだり、
休んだり!


そして、
夕ぐれが近づいてくると、
再び漁に出かけていく。
本当に家族のために、
勤勉に働く男たちだ!


お父さんたちを
海に送り出した後、
日が暮れたにもかかわらず、

子どもたちは、
外で楽しく遊んでいる。




夜は、
漁民の家に分宿


その日の夜は、
テントに泊まらず、
村の方たちと話し合って、
民家に泊めてもらった!

今は
下宿施設にも泊まれます!


民家の家族には、
食事代も含めて民宿費を渡した。
村人たちは、
突然の収入に大喜び!


食事も、
捕りたての魚や貝
エビやカニ、ウニなど、


ヤシの実もとってきて
殻をむいて果肉をとりだし、
地バナナといっしょに、
煮つけに入れて、


日常の食べるものを
出してもらった。

個室ではなく、
竹の小屋の狭い部屋で
身を寄せ合って寝る体験も、

日本から来た
若者たちにとっては、

真の生活体験として
深く心に残ったようだ!



サンタマリアの映像
漁村をぬけて岬へ

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サンタマリアの映像
村の子供たち

 
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美しい白浜と海
サンタマリアに寮を!

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サンタマリアの浜で遊ぶ
地元の子どもたち

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山のマノボ族の村
キアタウに宿泊


若者たちは、電気もない
マノボ族の村で泊まった。
キアタウ村は、
MLCの奨学生がいる村。


MCLが
スカラーを採用し始めてから
近所も村も、
村人たちの顔が明るくなった。

貧しいことは変わらなくても、
以前のような、
人々の困窮感は感じられない。
「いざという時は、
MCLに行けば何とかしてくれる!」

今回の民泊は、
極貧の地域興しのために、
公平に家を選びながら、
宿泊は、
家に1000ペソ(2000円ぐらい)、

そして、
共同体にも1000ペソ、
訪問者にだしていただいて、
水のタンクも作った。



日本からの訪問者のおかげで、
村は明るくなり、
子どもたちにも、
読み語りをしたり、


古着を配ってきたので、
かつての暗い寂れた雰囲気とは
大違い。


しかし、
相変わらず
クリスマスシーズンになると、
ダバオに物乞いに出る家族も多い。

けれども、
町に出たお父さんやお母さんが、
子どもを置いたまま
居なくなることも少なくなり、

町の貧民街に
移り住むこともなく、
クリスマスが終わると
村にもどって来て生活している。


先進国?で、
物とお金が豊かでも、
心の貧困に苦しむ日本。

後進国?で、物とお金が足りなくても、
心豊かな先住民の共同体。
お互いに、経済的にわかちあい、
心をわかちあって友情と愛のなかで、
助け合えると思うのだけれど。


力のあるもの、取る者だけが、
とことん富を収奪し
蓄積して行く世界って・・・
対立を起こし、戦争になっていく?


貧しいからといって、
必ずしも不幸とは限らない!
私たちの生活の方が、
豊かな国の人々の生活よりも
はるかに美しい
と感じるときだってある。


けれども、
どうにもならないのが、
一日三食たべられないときと、
お金が無くて学校に行けないとき、


病気になっても
薬も買えず、
病院に行けないとき・・・




真の友情は、
ちまたで培われる


年明けに、
日本から来た若者たちが、
海と山とMCLに滞在。

真の友情は、
ちまたでの遊びのなかで
培われる。

日本にいると、ちまたで、
伝統的な鬼ごっごやかくれんぼ、
後ろの正面だーれ、
のような遊びをしている
子どもたちの姿が皆無。


石けりや
缶けりもない!

勝ち負けだけを競い合う部活動は、
下手な者にブーイングが飛び、
挙げ句の果てには、
排除されていく。


それで本当の友情が、
培われるのかな?

そして、遊ぶ場所は、
遊具に満ちた児童館だけが遊び場?

物とお金は、満ちているけれど、
友情と愛は、お金で買えない?


日本から来た
若者たちが、
ミンダナオの子どもたちに出会って、
感動して泣き始めるのも理解できる。

若者たちが泊まった家。
MCLの奨学生の家。


宿泊は、
一つの家に訪問者一人で、
スタッフが一人同宿する。

2泊以上も可能だけれど、
その場合は、
公平になるために
毎夜、宿泊する家を代える。

現地の酋長が、
責任を持って、
特に貧しい家庭を優先する。





MCLを訪れた、
真奈美さんの原稿です


ミンダナオ子ども図書館を訪れた、
高田真奈美さんの原稿です。

体験が、
とっても素直に
見事に書かれていますね。




【旅日記その1】
電気のない村キアタウ

フィリピンよりコンニチハ。
Maayong Gabie!(ビサヤ語)
生きてます!が、
また風邪引いてます。

9月10月11月と連続で発熱し、
やっと鼻水止まった
翌々日にまた発熱。
何か検査したほうがいいかなぁ(´・_・`)?

ミンダナオ子ども図書館に行く前に、
キアタウという
電気ない山奥の村に滞在してきました。
この村から図書館に来ている
子どももいるので、
その様子を見てこようと。


ミンダナオ子ども図書館では、
戦争孤児や崩壊家庭、
極貧、虐待などの理由で学校に通えない
子供達の奨学金の支給や、

放っておけない子どもについては
本部で共に生活している。
http://www.edit.ne.jp/
~mindanao/mindanews.htm


さて、しばらく
遊園地のアトラクションは
遠慮したいほどの悪路を、
舌を噛みながら数時間。

四駆じゃないと
絶対進めない凸凹道。 
雨が降れば土砂崩れ。

開けた山々の眺めは素晴らしい。
(妖精に連れていかれるから、
山が綺麗♡とか言ってはダメらしい。)

村に着くと、
子どもたちがじーーっと見つめてくる。 
私たちは異星人に見えるよね。 
村から出たこともない人が
殆どとのこと。


ここでは電気も
上下水道の設備もない。 
ほぼ自給自足で、
塩や白いお米も高級品だ。

私たちが宿泊した二つの家庭では、
鶏肉とコメを出してくれたが、
これは年に数回しか出ないもので、
わざわざ飼っている鶏をしめてくれた。 
おもてなし。。。(T_T)


子どもたちはキャッサバ(芋)や、
甘くないバナナを蒸しただけの
ご飯だった。




竹でできた
簡素な高床式の家


村の朝は
5時頃始まり、
8時か9時には寝る。

竹でできた簡素な高床式の家。
モノは殆どない。 
家ごと燃やしても
残るのは鍋くらいだろう。 

布団もないので床で寝る。
夜中に手の上に
ネズミが落ちてきた。

何かわからない
虫にかまれて、
右手がパンパンに腫れた。

そこら辺にいる犬を
撫でようと思ったら
村人に全力で止められた。

「噛むし汚いし後でそいつ食べるから!」笑
あひるは子どもが叩いて遊ぶもの。
猫はしっぽふんずけて遊ぶもの。
みんな笑う。

夕食はロウソクの明かり一つで、
暗すぎる。 
正直何を食べているんだか
わからない笑。

基本はおかず一品にご飯のみ。
味付けは塩だけだが、
なぜか美味しい。

風呂は水も貴重だから、
たまには入るのだろうが、
シャンプーなどももちろんない。

村人はシャイだし、
英語も通じない人が多いが何も気にしない。 
目が合ったら微笑めば良い。 
他人と自分の境目があまりない、
共同体としての意識。 


おそらく日本でも
70歳以上の人なら体験したであろう、
町や人々に繋がりがあった時代が
ここではずっと続いている。



赤ちゃんは
ほんとに泣かない


東京で若者が感じることは
殆どない意識。
誰が指図するでもなく、
家事、育児がこなされていく。 

立って歩いて言葉がわかるなら、
2歳くらいの子どもから
何か家事をする。

それは「うちの子」「よその子」は関係がない。 
赤ちゃんはみんなが
代わる代わる抱っこして、
枝に布を巻きつけただけの
ゆりかごを揺らす。


(赤ちゃんはほんとに泣かない。
夜泣き、ムダ泣きもない。
というよりみんながずっと構っているので、
泣いて注意を引く必要が
ないのかもしれない)


村のどこを見ても物質的に貧しいが、
半分以上が子どもで凄く賑やかだ。 
そして
なによりのびのび、自由に育っている。 


「何々しなさい!ちゃんとしなさい!
泥がついたら誰が洗うの!」
みたいに叱る母親は皆無。 
怒ることがまずない。 

むしろ母親とは
オマケでついてきた肩書きであって、
村の人たちみんなが面倒を見ているし、
その中で子どもは
勝手に育っていくといったほうが正しい。


日本と何もかも違う。。。
私の細胞の一つひとつが、
エネルギーで
満たされていくのがわかる。

日が昇れば起き、
日が落ちれば寝て、粗食、
1日にすべきことはほとんどなく、
薪をくべて米を炊き、


お湯を沸かして
コーヒーを入れたり、

洗濯物を
足でふみながらお喋りしたり。

擦り切れるほど聞いていると思われる、
なぞのフィリピンポップスを
家族で聴いたり。 

10人家族で
八畳の部屋でねたり。

初めてだけれど懐かしさを感じた、
原始的な村から
1ヶ月のフィリピン生活が始まる。
→旅は続く



【旅日記その2】 
電気のない村キアタウ続き

電気がないと聞いて
一番期待していたこと!
やっぱり星空でしょう( ^ω^ )

夜ワクワクして家からでると、
やっぱり凄い!!! 
こぼれんばかりに星が瞬いていて、
ときおり蛍も流れていく。

恋人でこれを見たならば、
勢い余って
プロポーズしちゃうような、
ずるすぎる星空。


「流れ星あと3つ見つけるの( *`ω´)」
と私が興奮しているのを、
村人はポカンと見ていた。 
え、星がどうしたの。。。?(ざわざわ)
みたいな感じで。

普通って怖い。
この村人たちは、
他の空を知らないから
そう言うしかないのだけれど、
こんな凄い星空も「普通」になっちゃうんだ。

どんなに金銭的に恵まれていようとも、
素敵な人と結ばれようとも、
素晴らしい宝石を手に入れようとも、
それが常に手の内にあると思うなら
普通になる。

普通なんてどこにもない、
毎日が奇跡のような必然の積み重ねだと
考えることができるのも、
一種の強さかな。

強い人になりたいなと
流れる星たちにつぶやいた。



川いくぞー

翌朝みんなで川いくぞーと招集かけると、
大人も子どももわーーっとついてきて、
ぜんぶで20人のパーティーになった笑
時間があるっていいなぁ。。。

村で唯一の?オネエ男子もいた。
言葉はわからないが、
語尾に♡がついてるし、
身振り手振りでオネエだとすぐわかる。

「あたし、一応女のコが好きなのヨ♡
あたしの心も
女のコだけど♡きゃーー!」
世界共通だ。。。((((;゚Д゚)))))))

日本軍が
潜伏していたんだか、
逃れて隠れていたんだか
という洞窟に先ず向かった。

急斜面を下ること40分
(私はこういう怖い、高い道がめちゃ苦手。
手を引いてもらいながら行く。
完全にお荷物系女子。 

日本だったら絶対
「子どもだけで行ってはいけません」とか、
危なすぎる!
と言われるだろう道なき道。 
一応大人もいるけど、誰も何も干渉しない。

ジャングルでは
子どものほうが身軽にすすむし、
何がどこにあるか
良く知っているみたい。 

アンバランスな丸太も、
川を渡るのも、
私がびええぇぇと鳴きながら行く間に、
子どもは風のように走り抜けていく。

森をよく理解していて、
本当の意味で
生きる力があるんだなぁと
ただただ感心…。

洞窟に着くと、
子どもたちが率先して火をおこし、
それを松明にして
真っ暗な洞窟を探検。

70年以上前、
ここに戦争にやってきた
日本人は何を思っただろう。 

この暗闇に
パチパチと燃える火のように、
静かに
戦いへのきもちを高めていたのか。

それとも負傷したり、
亡くなったりする同志を尻目に、
美しいジャングルに守られて、
一時の平安を得ていたのか。。。
手を合わせておいた。

川辺では
バナナの葉でお皿をつくり、
火をおこし、ご飯を炊く。 

魚やカニ、
オオトカゲを捕まえて焼く。



つめたーい川で水浴び。
水も貴重なので
お風呂は毎日入れないからね!
小さい子どもはフルチンで川へダーイブ\(^o^)/

楽しかった!!!
DNAにこういうのを
楽しいと感じます、
と書き込んであるみたい。

タノシイ
オイシイ
タマシイ
ヨロコブ



朝四時に
何キロも
山道を歩いていく


話は変わるが、
キアタウ村から小学校まで、
子ども図書館の支援が入る前は、
朝四時に
出発しなければならなかったらしい。

さらに保育所を卒業しないと
小学校に上がれない
というルールを政府が突然作った。
小さな子達が朝四時に何キロも
山道を歩いていくことはできないし、
お弁当も持って行かせられない。 

そもそも
三食食べられない子も沢山いるし、
何人もいる兄弟でも1人を頑張って
小学校を卒業されられるか程度。 

高校、大学なんて夢のまた夢。
だからといって塞ぎこんだり、
ひきこもりになったり、
自殺したりする子は一人もいない。 

競争に勝とうと考える子も、
リーダーになりたがる子もいない。
大切なのはみんなで協力して、
楽しく暮らすこと。 

お父さん、お母さんを助けること。 
兄弟の面倒をみることだと
泊まった
家の子供達が言っていた。 


物質的には
明らかに貧しいが、
心はお金では買えないくらい
素直ですこやかで素敵だ。

✳︎山に住む人たちには、
好きで僻地に住んでいるわけでなく、
日本軍から逃れるためだったり、
開発の波に追いやられ、
平地を奪われたりと様々な事情がある。

電気もねぇ!水道もねぇ!
キアタウで、
東京とは真逆の何か、
日本にもかつてあったもの、

日本の若者の感じている
生き辛さの解決の
ヒントになるものが
いろいろ見えた気がする。

物質の世界から遠く離れ、
強く、たくましく生きているこの村や、
こどもたちの笑顔が
永く存続しますようにと願い悪路を辿る。


→続く



【旅日記その3】 
天の国は
彼らのものである


ミンダナオ島生活も
20日経って
折り返し地点にきた。

ミンダナオ子ども図書館での
暮らしにもなじんできて、
子どもたちとの生活を
楽しんでいる今日この頃( ^ω^ )

ここに暮らすのは、
戦争孤児や崩壊家庭で
帰る家がなかったり、
極貧で食べられず
学校にも行けない子どもたち。

学費の援助のみの奨学生を合わせると
膨大な数だが、
暮らしを共にしているのは
80人くらい。

いわゆる孤児院なのだが、
創設者の松居さんはもともと
孤児院をつくろうと考えたわけではなく、
絵本の読み聞かせで、子どもたちに
笑顔になってもらいたい
との思いでここを始めた。

今も絵本を中心に
子どもたちだけでなく、
戦地となって取り残された村の人々にも
読み聞かせを通して繋がりをつくっている。


命がいくつあっても
足りない。。。

最初は
こんなに大きな組織にしようだなんて
想像もしていなかった、
と松居さんは言う。

放って置けない子どもたちの
面倒を見ているうちに
やることが次から次へと増えて、
こんなに大きな組織になったらしいが、

殆どが
企業などからの大口寄付でなく、
個人からの少額寄付で成り立っている
というから驚きだ。

「最近はフィリピンの子どものことと
同じくらい、
日本の子ども、
若者の精神が気になりはじめた。

なぜ物質的豊かさでは
フィリピンと比べものにならないくらいの日本で、
子どもが引きこもったり、自殺したり、
鬱病になったりするのだろう?

忙しくて本来は訪問者にまで
手が回らないのだけれど、
ミンダナオの風を届 けたい」ということで
今回は色々あって
働けていない私に白羽の矢が立った。

(ここまで私が来れたのも、
周りの方々の沢山のアシストがあったから。
私の意志 とは関係なしに
ここに来ることが、トントン拍子で決まっていった。
本当に驚くべきことなのだけれど。)



すべてがゆるい

ミンダナオ島での毎日はとてもすこやかで、
怒ったり、焦ったりするようなことは一つもない。
すべてがゆるい。
ズルしても、真面目にも、
生きていける気がしたよ。

朝焼けを拝めるよう5時に起き、
明日の朝焼けのために、9時に寝る。
フィリピンといえど
標高の高い場所に居るので、
長袖長ズボンでも寒い。

シャワーはもちろん水。
最初は震えあがっていたけれど、
今は頭からさっさとかぶれる。
南無!

トイレはもちろんインド式。
便座はないが、
なんてことない。

新疆ウイグル→パキスタン→
インド旅での青空トイレや、日々のう⚪︎こ語り、
空港でパンツをおろした事件を
経験していなかったら
できなかったことが沢山ある。

改めてあの旅を
ほぼ強制的に行かせてくれた
ビリヤニ一行に感謝したい。。。

さて、ここにきて驚いたのは
子どもたちの明るさや、素直さ、
強さに圧倒されて浮き彫りになった
私の心の壁のほうだった。 

まったくこころが開かない。 
自分の指では届かないくらい深いところに、
その扉はある。



天国はまさに
彼らのものだった


東京で暮らしている間、
私はコミュニケーションは得意なほうだと思っていた。
そうです、みんなが良く知るまなちゃんの心は、
ある意味ではとても硬く閉ざされて
歪んでいたのです。

(え?知ってた?)
笑顔だけど笑顔じゃない。
元気だけど元気じゃない。
健康な精神と粗食と広い空の下で、
そのことが触れられるくらいハッキリと、
明確にわかってしまった。

私は親を目の前で殺されたり、
虐待されてきた子どもたちと
どこか一部でも影の部分が一致して
分かち合えるような気がしていた。 
(全くそんなことはなかった、というか
そこは重要ではなかった。)

今、ここに居て三食食べられ、
沢山のともだちがいて、
パパトモ(松居さん)やハウスペアレント
(ダディー、マミーと呼ばれる住み込みの親役)
がいて学校に行ける。

夢がある。
笑える強さがある。
天国はまさに彼らのものだった。。。

この天国に近い場所で、
鍵を失くして家に入れない、
核家族の一人っ子になった気分だった。

細胞壁を溶かされて、
中身が全部出てしまいそうで、
合体吸収させられそうな気分になって、
ぐちゃぐちゃで。

どうして良いか
わからなくなった
27歳の日本人の私。

保てない。すっぴんの私では。
なにをすべきなのか
なにをしたいのかんがえることはたくさんあり
でもまずはこのかんじょうをせいりしなくては。。。

と、3日ほど目眩とともに過ごしていたら
風邪を引いて寝込んで。。。
はぁ、思ってたより色々と
気持ちの面では重労働になりそうだな。。。
と思いながら、知らない天井を仰いでいた。


→続く 



【旅日記その5】
前々回のつづき

大量の蟻いりCoffeeの
せいなの何なのか、
フィリピン二度目の発熱で
寝込んで過ごしたクリスマスでした、

皆さま
いかがおすごしでしょうか。
やっと復活してみると、
年の瀬ではありませぬか! 

私はもうすっかりと
ミンダナオの生活に馴染み、
師走とは日本のものであって、
ここには関係がないものだと知りました。
誰も走ってないよ、牛歩。


今は子ども図書館から離れて、
帰省する家、
親、親戚のない子どもたち数人と、
スタッフやその家族と
海でキャンプをしています。


やることといえば、
遊ぶことだけ。

ずっと大きな木の下でお昼寝したり、
子どもと遊んだり。
なんという贅沢な時間。




そう、
ここは自由の国


さて、前回の長文の続きです。
感じることがありすぎて、
とても伝えきることはできないと思っていますが、
この年の瀬に暇を持て余している
幸せなかたが居れば、読んでみてください。


子どもたちの
圧倒的な輝きに気圧されて、
自分の心の壁に気づいた、
というのが前回までのおはなし。

悶々としているとはいえ、
毎日フィリピン流のご飯、
水浴び、遊び、
うた、お祈りなどをして楽しく過ごしている。

本当にここはフリーダム。
誰も怒らない。
誰も何に対しても
怒らないのだから、フリーダム。

全てがテキトー。
日本では3秒で怒られるような、
行儀の悪い行為も、
道路交通法を完璧に無視した
乗車スタイルも全部ゆるされる。

笑顔で鼻くそをほじり、
何食わぬ顔で私の足に落として、
その手で私のケータイを
スクロールしてもオールオッケー!!
《そう、ここは自由の国》

日本では
何であんなに怒られてきたんだろう、
と不思議に思うくらいだ。
仕事では、怒っても怒らなくても変わらない、
一銭の得にもならないことで
一時間くらい怒られたりする。

「そこはすみませんじゃなくて、
『申し訳ございません』だろう!!」みたいなこと。
どっちでも良いんですけど。
機嫌で怒りをぶつけてきたり、パワハラ野郎も多い。
彼らが不憫だ。

私に限らず、家でも学校でも、
うるさいだの行儀が悪いだの、
細かいことで誰でも何かと
怒られてきたんじゃないだろうか。

細かすぎだよ日本人、
と小さい頃から思ってきた。 
だから、
とてもここは心地よい。



怒る必要なんて
どこにもない


東京では、誰かの怒りを見ない日はない。
空気全体がピリリとして、
早くこんな1日よ
終われと言わんばかりに
どんどん時計は進んでゆく。

ぶらさがるマンゴーが、
風にゆらゆら揺れるのを眺めながら、
怒る必要なんてどこにもない、
ぜんぶゆるせばいいということに
凄くホッとした自分がいた。

そう、怒るより
ゆるすほうがずっと良い。
揺れていれば良い。
どうせこの世には善も悪もないのだから。

化粧もしないし
(一回化粧道具を子どもたちに見せたら、
もうぐちゃぐちゃに
使われまくったのもあるが笑)
鏡もみない。(鏡がない。。。)

着るべき服は昨日の雨で濡れたので、
昨日と同じ服。
私のナルシシズムは最小限に抑えられ、
自我はとても小さくなり、

なにも気にしない、バッチコイ!
精神が整ったところではたと気づく。
おお!
私ここに馴染んできた!

ビサヤ語も少しずつ覚えてきたし、
子どもたちと遊ぶことにも慣れてきた。
(そしてご飯に飽きてきた。。。
プリーズギブミー味噌スープ)

第一、
心をどう開こうなんて考えて開くものなら、
カウンセラーはいらないのだ。
ただ感じる儘にしている。 
そこにただよう。 
同じようにしている。一緒に笑う。

他人をゆるしてないから、
自分に対しても
ゆるすことができずに
壁をつくり出していたのかな。

いや、反対か。
壁の成分のひとつに「ゆるせない」
という気持ちがあることがわかり、
今その壁を壊せた。
がしゃん。

今はとても清々しい。
側では子どもが賑やかに唄っている。
希望の歌だ。
→続く




【旅日記その6】
個性を超えて


年末の休みで
殆どの子は帰省していたが、
帰る家のない子たちと、
スタッフとでワイワイ過ごしてきた。

素朴な椰子の木のビーチ。
砂のベッドで眠ると星の絵本があり、
風のタオルケットが涼しい。

そして青空トイレ。
嗚呼なんというメルヘン。。。
!!!笑



《競争心は壁をつくる》

さて、ミンダナオ島の人たちは
本当に競争心がない。
何でもかんでも良くしていこう
という気があんまりない
(ような気がする)。

あるモノで満足しよう
という気持ちがある。
これでオールオッケー!
明るくてタフでテキトーだ。


以下は旅先で感じた
各国の国民性について。


韓国「競争心の塊、誰にも負けたくない。」
中国「何でもパクって劣化させる!!」
ベトナム「努力は実る、頑張ろう!
アメリカにも勝った誇りがある☆」

台湾「日本大好き、
日本みたいになりたいなぁ。。。」
香港「ペチャクチャペチャクチャ
ペチャクチャ!!!!」
インド「はい、1000ルピーダヨ」

フィリピン『。。。これでヨシ!』←イマココ
✴︎個人の見解です。
どの国も私は好きです。

ここの人たちは、
集団でいるときは怪獣のように
ワーワー騒ぐのだが、
個人になると急にしおらしくなる。

カメラも皆に向けると
「撮って撮ってー!!!」なのだが、
誰か一人にフォーカスすると
恥ずかしがってどこかへ行ってしまう。

自我やエゴ、
目立ちたい気持ちがとても小さい。
コミュニティに属していると強くなれる。
レオ・レオニのスイミーという絵本を思い出した。

だから個性を発揮しなさいとか、
人と違うことが素晴らしいよね
とかそんな考えがない。
誰かより抜きん出る必要も、
競争に勝つ必要もない。

協調性を
ことさら意識しているわけではないけれども、
小さい頃からそういう環境なので当たり前に
なっているのだろう。
すべてのことが、
リーダー役がいなくても阿吽の呼吸で進んでいく。



でも
どうしようもなくて


ところで、
運動会で勝てない子がいるから、
順位をつけるのを止めようという記事が
炎上していたのを前に見た記憶がある。

その時私は
「酢いも甘いも経験させないと、
大人になってから困る。
運動が得意な子は自信をつけられるし、
苦手な子も何か他の得意なことを見つける
チャンスじゃないか」と思っていた。

運動会云々は置いておいたとしても、
学校でも会社でも
競争ばかりに目をつけすぎていないかと
疑問に思えてくることもある。

競争原理は効率的で
合理的な部分もあるだろう。
個人の力を高めることで、
全体の力を高めるというのは
一見筋が通っているように思える。

けれど、たぶんここの人たちは
これをヨシとは言わない。
《多くの人は個人主義、
成果主義の社会に
疲れ果ててているのではないか》

『私のスキル』『私の個性』
『私が他人より優れた点』
『私が御社に提供できるもの』
『私の資格』『ノルマ』
『コンプライアンス』『ヴィジョン』
『我が社のクレド』etc。。。

会社では、相談役の窓際族
(私は見たことがないが)は排除され、
情報屋のお茶汲みのお姉さん、
おせっかい焼きの掃除のおばちゃんは
効率主義の名の下に消えていった。

企業戦士の末裔が頑張れよと、
精神論を持ち出して説教してくる。
ストレスで
頭がおかしくなっていることにも気づかない
おっさん達のパワハラ。

日々成果を出さなくてはいけない。
成長は続けなくてはならない。
頑張り続けたら、いつか伸びきった
ゴムのようになってしまうのに。
鬱病の経験が
美徳のように語られることもある。

いつまで私たちは資本主義に魂を
売り続けなければいけないのか?
そんな風に思うのは
私だけだろうか。

私たち20代ですら、
社会に出て楽しいと思っている人は
少数な気がする。
会社が楽しくて!という人は
聞いたことがない。
楽しくないのが仕事の本質なのか?

仕事は人生ではない、
割り切ろうというのも淋しい話だ。

やりがいがあっても、
東京では手取り20万円もらっても、
残業時間や、給料の出ない労働時間が
長い人にとっては
ワーキングプアと言える。

手取り30万円もらう頃には
責任も大きくなって、
時間もさらになくなる。
50万円もらって精神内科に
お金を沢山落としている人も少なくない。

不安で、焦って、
でもどうしようもなくて。
恋人をつくることも結婚も子育ても、
なんだか別世界の話に見える。



《曖昧な心、
曖昧な生活》


ミンダナオでは、
個人と集団の境目も
曖昧なように、
仕事もプライベートも曖昧だ。

働いているスタッフは、
子ども図書館の敷地内に
家を建てて
暮らして良いことになっている。

日本だとどうか?
家庭に仕事仲間や、
上司がいると考えただけで
ゾッとする人がほとんどだと思う。

レストランでもどこでも、
赤ちゃんをあやしながら仕事をする。
子どもがギャーギャー騒いでいる横で仕事をする。
みんな気にしない。
この差は何なのだろう。

さぁ、叫んでしまおう。
ストレス抱えてまで
仕事なんてやりたくないんだよ!
会社のヴィジョンなんてどうでもいいんだよ!

さぁ声高に言ってしまおう。
うちの会社のサービスなんてどうでもいいんだよ!
生きるために仕事してるんだよ!
宝クジ当たったら翌日から行きたくないんだよ!
ほら言ってごらん!


『御社のヴィジョンに共感しまして。。。』
とか思ってもないこと言うのは
今日で止めよう、
と海に叫びましたワタクシでございます。

でも、それでも、
生きていかなくてはならない。
(私も帰ったら働かなきゃ。。。)
お金のある人ない人の
二極化は日本でも始まっている。

豊かさを実感しにくい、
豊かな国の残念賞。
豊かさは『選択できる』ことだと思っている。

日本ではやり直しも再出発も、
遅刻も許されがたい雰囲気がある。
もう私のような
カリスマネオニート(元取締役笑)は
ほとんど身動きがとれない。

私から愛する友人たちへ言いたいのは、
会社から帰ってつかれた〜と
暗い顔をしなくて済むように、
仕事は適当にしましょうよ。
日本のGDPを下げまくろう。

1億総活躍より、
みんなでみんなが
幸せになる方法を考えようよ。
活躍なんてしなくていい。

とはいえ別に今の社会の全てを
批判するつもりなどないし、
受けている恩恵にも感謝している。
それは海外にいるからこそ
実感できることだ。



もうすぐ
旅は終わる


さて話を戻すと。
個性を発揮して、
他人より優れようという考えについては、
立ち止まってみても良いのかもしれない。

限界はもうきていて、
東京の空気は
人々のストレスや怒りや
かなしみでビリビリしびれるくらいだ。

個人でやるより、
みんなでやれることのほうが、
遥かに強くて大きい。

戦後、日本はそれで世界が驚くような
復活を遂げたのではないか。
この可能性についてもっと考えられないか。
喜びもかなしみも
自然と分け合っていけるのは、
アジア人の良いところだ。

今ある文化、習慣から一旦脱出してみて、
驚くほど軽いきもちになれた。
この一カ月の思い出は
ずっと忘れないだろうし、
今後の生き方に影響を与えるだろう。

今までどれだけ自分の手入れ、
自分をどう見せるかに
注力してきたかわかった。

個性的であることなど必要ない。
ヒトは生まれた時から
十分魅力的なんだ。
そんなものは超えていこう。
自我など宙に漂っていればいいのだ。

他人よりも優れようと思う点が
自分にあるなら、その力で
他人のその終わっていない仕事を手伝おう。
自分の小ささを認めてしまおう。
私が1人でできることなんて少ない。

モテたい、可愛くなりたい。。。
そんな気持ちが膨らみすぎて、
お金かけ過ぎたり、
心労を抱えすぎていないか、
考えてみてもいいかもしれない。

いっそ、その素敵な服は
物質的な貧しさを抱える人に送ってしまおう。
スッキリするし、
本当に喜ばれるぞ!笑

心につける羽は
「個性的であろうとすること、
人より優れようと考えること」
を超えたところにある。。。たぶん。

ミンダナオ島の生活も
あと少し。
もうすぐ旅は終わる。




思った以上に
日本の子どもたちの
感性は素晴らしい



日本での講演会が、
今まで多かった幼稚園の母親から、
大学、高校、中学、
そして小学校にも広がっていきはじめた。

いろいろな
心理的な問題や生活不安、
家族関係での孤独を感じている子も多く、
自殺率も
世界でも最高の国だと聞いている。

しかし講演での印象では、
幼い子も 含めて
心から耳を傾け、感動してくれる。

ミンダナオの子どもたちの
「困難の中でも生きる力を失わない」様子を
映像で見せて、
友情と愛こそが生きる力であることを理解し、
涙ぐむ子たちも多い。

思った以上に、日本の子どもたち、
若者たちの感性は素晴らしい。
若者たちのデートも多いし、
イケメンよりもイクメンに未来を託せそう!

問題は、
それをとりまく社会的環境、
とりわけ遊びの中で友情を培う
「ちまた」が存在しないことだろう。

来年はミンダナオの総選挙があり、
6月までは
訪問者をストップするけれども、
そのあいだに、海のMCLも含めて、

将来の日本の子どもたち
若者たちを受け入れて、
現地の子たちと友情と愛を結べる場を
作るための計画を進めていこう。


写真は、
ミンダナオ子ども図書館に
住んでいる子どもたち。
日本から送られてきた古着を来ている。

親がいなかったり、
事情があって
親といっしょに住めない子たちだけれど
とっても明るい。




本やサイトから
飛びだそう


私は、インターネットやフェイスブックを
必ずしも否定していません。
絵本も本もそうですが、
大切なのはそこに込められた心でしょう。

私は、日本の若者たちが、
ミンダナオ子ども図書館のサイトや
私のフィイスブックをみて影響を受けて、
そこからまだ見ぬ世界に
飛びだしてくれることを願って発信しています。

その場限りのものも、
多いとは思うのですが、
それをきっかけに、
人生が開かれていく物もあります。

その意味では、絵本や本も同じで
その場限りの物もありますが、
人生が開かれていく
きっかけになる物もあります。

編集者をやり、作家もやりながら、
そして子供時代から、
4000冊を超える絵本や本を読みながらも
結局は、作り物ではなく、
真の体験から生まれてくる物こそが
素晴らしいと感じるようになりました。

絵本「サンパギータのくびかざり」(今人舎)や
ヤングアダルト「手をつなごうよ」(彩流社)も
同様の思い書きました!

私の体験からも、
読書もサイトも異なった部分と
同じ部分を持っています。

本やサイトを、読んだり見たりすると、
そこから世界に羽ばたいて行きたいと思うような
力を持った作品と、
ただただ面白いけれど、
引きこもっていく作品があるような気がします。

引きこもりや死の瀬戸際に立った
体験から言えることは、
真実の体験から生まれてくるものこそが
生きる力に満ちているような気がします。

15年前に
予期せぬ離婚を告げられたとき、
自由の身になり、
あちこち旅して取材することを考えたけど、
書くために見て歩くような体験よりも、

僕の場合は、執筆も放棄して、
ミンダナオという一つの場で、
深く現地の子どもたちと生きることのほうが、
本当の世界が見えてくると思いました。

実際、ミンダナオの子どもたちと過ごしていると、
本の世界も絵本の世界も
飛んで行ってしまうほど子どもたちが魅力的で、
子ども図書館を作ったにもかかわらず、
本の魅力が飛び去ってしまった時がありました。

しかし、MCLの子どもたちと一緒に、
山の村々に
読み語りに行った時の
子どもたちと奨学生の交流が素晴らしく、

天使たちが、大喜びで飛び回るのに
絵本も役に立つ
という事がわかってきて、
絵本の価値が別の観点から
浮かび上がってきたのです。

15年間、
書くことは全く考えずに、
ミンダナオの子どもたちの事にのみ、
心を向けてきましたが、

最近、
日本からの訪問者が多くなり、
悩んでいる子どもたちや現代社会を見ていると、
何とかしなくちゃ、
という思いで再び執筆を決心しました。

「サンパギータのくびかざり」(今人舎)につづく、
第二の絵本
「サダムとせかいいち大きなワニ」も、
ほぼ原画が完成に向かっています。

第三弾の絵本の文もすでに完成。
若者向けの読み物は
「手をつなごうよ」(彩流者)に続く作品も
執筆予定です。
「山菜売りの少女」も仕上げました。

日本の若者たちが、
ミンダナオ子ども図書館のサイトや
絵本や本を読んで影響を受けて、
そこからまだ見ぬ世界に
飛びだしてくれることを願って
発信しています。




娘も勇気と希望を
いただきました

以下のような投稿がありました。
ここに掲載します。


5年前フィリピンに
親子で行かせていただいた時は
松居さん、MCLの皆さまには
大変お世話になりました。

娘は当時中学3年生で
転校、友達、先生との関係で
心理的にどん底状態でしたが
温かい皆さんに接する事ができ、
娘も勇気と希望をいただきました。

今は看護師目指して
まだ学生ですが
看護の道を歩んでいます。
何か恩返しを
させていただきたいと思っているところです。




お便り、
ありがとうございます


北海道では、アイヌ文化と沖縄文化、
そして自然が探求の対象でした。
しかし、思わぬ離婚。

家族のために働いてきたからと、
子どものために貯めておいた
大学までの教育費、
そして家も土地も売り払い
全財産を送り、その後無一文になり、

愛する子どももいなくなり、
追いかけようと思ったのですが、
自由になりたということがわかったので、
ぼくはミンダナオで
生涯を送ることに決めまし た。

その後、そこで会ったのが、
エープリルリン。今の妻です。
共に生きていく運命を感じました。
そして再婚。

我が子がいなくなってので、
そこで会った
親のいない子たちを我が子として、
ミンダナオ子ども図書館をはじめました。

のちのち息子が、
ミンダナオに来て、10年。
今は結婚して、
しっかりと自立の道を歩み始めています。

末の娘も、ときどきやってきます。
末の娘は、2022年には、
ジュリアード音楽院の修士を卒業、
フランスで作曲とバイオリニストとして
活躍しています!


まさか、
ミンダナオに暮らすことになるとは、
思いませんでしたが、
これも運命かなと思っています。

ただ、
親のいない子たちのために、
父親代わりに生きていきたい
と強く思っています。

そんなことを、
「手をつなごうよ」(採流社)
でも書きました。

兄弟姉妹のなかでは、ずば抜け読書家で、
哲学書も含め
4000冊以上の本を読みましたが、
正直にいって読書だけではだめだと思います。
スマートフォンでもだめだと思います。

創造主(神)の創った世界に
直接で会うことが最高!
特にミンダナオでは、
それを強く感じます。

一人の子ども(天使)の笑顔の前では、
人間の作った物は
すべて吹き飛んでしまいますね。
日本の若者たちが、MCLで泣き出す理由です。

いつか
ミンダナオの子どもたちに
会いにいらしてください。
また、お目にかかれれば幸いです。




子どもたちの様子を
映像から紹介




1,
ミンダナオ子ども図書館の夜明け


朝起きて、
ミンダナオ子ども図書館の花壇の
お花を世話する子どもたち。


朝4時半には起きて、
朝食の支度をするのも子どもたち。
5時を過ぎると、
部屋の掃除や花壇の手入れ。

野菜作りも、お米干しも、
子どもたちが自分たちで決めてします。
本当にしっかりした、良い子たち。


映像を見たい方は、 ここをクリックしてください。


2,
雨が降っているのに、
滑り台!


一緒に、長女のエンジェルと
次女のアンジェラ
(藍花と舞花)も滑り台!

ミンダナオ子ども図書館の第二棟と第三棟は、
ヤシの葉っぱで葺かれています。
痛みが早いので、現在はトタンになりました。
紅く見えるのは、
ファイアーツリー(火炎樹)です。

映像を見たい方は、 ここをクリックしてください。


3,
ビサヤデーの映像です


海をテーマに、クリスチャンの文化祭
ビサヤデーの映像です。
子どもたちと、
海にキャンプに行った時の想い出。


最初の山の家は、
妻のエープリルリンの育った家です。

初期のミンダナオ子ども図書館の
奨学生達の様子がわかります。
懐かしいですね。

小さい赤ちゃんは、
長女の藍花です。

この子たちの多くは卒業して、
スタッフになったり仕事を持ったり
結婚したり・・・


映像撮影、編集もすべてド素人の私、松居友です。
映像を見たい方は、 ここをクリックしてください。


日本に少し
重きを置いて


日本に少し重きを置いて、
去年から活動しています。

ミンダナオ子ども図書館の敷地のなかにある
セメント作りの穀物干し場。
ここで自分たちが食べる
お米を干すMCLの子どもたち。

その多くが、
孤児や崩壊家庭の子どもたちです。
戦争で親が殺された子もいる。
それなのになぜこんなに明るく、
生きる力に満ちているのだろう。


この子どもたちと、
スタッフとその家族をいれて約100人。
さらに下宿施設と山の下宿小屋の奨学生、
そして町に下宿している大学生をいれると、
約250人の米をここで干す。

一日100キロの米が消費されるけれども、
水田を持ち、2.5期作で、
干害がなければほぼ自給している。

おかずは子どもたちが植えている野菜と
皆さん方から送られてくる自由寄付で
なんとかまかなっています。

でも、偉いのは、
子どもたちが率先して、
楽しみながら協力してくれること。

生きることの大変さと意味と、
そして
友情のなかで助け合う
喜びと楽しさを知っている子どもたち。


一方で日本の青少年の場合は、
引きこもりや自殺が多いという
話がしきりに聞こえてきて、
日本の若者たちの事が心配で、
その状況を知ろうと思ったことと、

小学校の高学年になってきたけれど、
まったく日本の文化も知らず、
言葉も話せない二人の娘の将来と、
MCLの未来も考えて、

そしてまた、
年老いていく親が、
死に向かう気持ちを少しでも感じ取り、
受け止めることも必要だと感じて、
今後数年は、日本に移住して、
活動をしていくことにしました。

それから5年、2022年、娘たち二人も
公立の小学校から中学を卒業して
日本語もペラペラ!
コロナのために帰国できなかったのですが、
ダバオの日系人会の高校を
オンラインで卒業し、

長女は、
小児科医になって子どもたちを助けたいと
ダバオのサンペドロ病院付属の
高校の医学部に入りました!
現地の私立大学は、
医学部でも年間授業料が20万円!

長女も次女も、
成績優秀で表彰されて、
学級委員も引き受けています!
日本の公立の中学でも
半年は持たないだろうと思ったものの、
「友だちがいるから、楽しいよ!」

中学校で男の子たちからいじめにあっても
ビシッと言い返す娘たちの生きる力に
先生方もビックリ!
わたしもビックリ!

MCLで、
不幸な体験を切り抜けてきた
大勢の子たちと一緒に育ってきた体験が
生きる力になったのでしょう。



本当に飛び出してみて
体験すること


けれども、
いきいきとした
コミュニケーションの場であるはずの、
家の外、
学校や幼稚園保育園の外、

誰にも属さず
全ての人に属している中間の場所であり
生活の場所であるはずの、
「ちまた」が日本にはほとんどなく、

ちまたがないから
隣近所ともコミュニケーションがなく、
伝統的な遊びをしてはしゃいでいる
子どもたちの姿も消えて、

学校の中でも、
友情よりも
勝ち負けばかりが強調される社会に当惑。
15年いないとずいぶん変わる?

日本人は、自国を
なんとさびしい世界にしてしまったのだろう、
と、地方を車で走っていても感じる。
商店街も食堂も殆ど閉鎖?

路地や野原で子どもたちが、
缶けりや石けり、
ときには木登りをする様子がないと、
散歩するご老人達もさびしいだろう。

人々が、スマートホンの映像から
出てきたような恐ろしい目つきで、
硬い表情で目を合わすことなく
あるいていくのを見るにつけて思う。
日本は大丈夫かな?

スマートフォンを否定はしないけれど、
それだけが
コミュニケーションの場になっているのは、
あまりにも見ていて孤独でさびしい・・・・

スマートフォンで、
MCLのサイトを見るのが唯一の生きがいだ
という、若者やお年寄りも日本に多い。
ときどきメールをくださいます。

しかし、読書だけでは、
世界が外に広がっていかないのと同様に、
スマートフォンだけでは、
本当の友情と愛の体験にはならないだろう。

子どものころ、本ばかり読んでいると、
周囲の人から、
『本ばかり読んでいると駄目になるよ。
もっと友だちと遊びなさい』
といって怒られたことを思い出す!

ぼく自身、本にこもりすぎて
死にそうなった体験からわかるけれど、
読書同様に
スマートフォンを見ているだけでは、
引きこもりの閉じこもり。

ぼくも読書が好きだけれど、
何千冊も
読書体験を重ねるうちに、
読むと心が奮い立ち、
本をこえて現場に飛び込むのがさらに
楽しみになる本と、

ますます閉じこもる本が
あるのがわかってきた。

本もサイトも人間が作ったもの、
そこから外に=神が創造した愛の世界に
目が開かれて、行動が始まる!
そういう本やサイトなら
見たい読みたいと思うけれど、

そういう世界を
実際に深く体験して
実体験から書いたり描いた
本やサイトがあまりない?

それでも、

サイトでMCLを見ていた若者たちが
僕の書いた本も読み、
さらに日本での講演会に参加して、
現地の映像を見て話を聞き、
その結果どうしても行きたくなって、
実際にMCLにも来てみると、

子どもたちに会って涙を流し、
その後顔が変わり始め、
本当にいろいろなことが見えてきて、
自分の人生も変わり始める!

そうした事実から
読書もサイトも否定できない、
救いの第一波?
世界に飛び出すきっかけになればと思い、
あらゆる手段を通して
実体験から生まれてくる言葉を選んで
発信しはじめているけれど、

もっと大事なのは、
本人が本当にいってみて体験すること。
そして、そこで体験したものを、
大切なものを喪失している日本社会で、
どのように再生し生かしていくかを考える、
若者たちが育っていくことだろう。




中園さんが作られた
文教大学の若者たちの
訪問サイトから


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「ミンダナオ子ども図書館」に、
京都文教大学の花岡さんたち
学生さん3人がやって来ました。

平地から山に追われた先住民として
貧しい生活を続けてきた
マノボ族の村に行き、
一緒に医療支援の手伝いをし、
電気のない村にも泊まってもらいました。

そして現地の子どもたちと歌ったり踊ったり、
「後ろの正面 だーれ」といった伝統的な遊びをして、
日本にいるとき以上に
楽しい時を過ごしたと思いました。


京都文教大学の学園祭では、
現地での体験を
花岡さんたちがまとめて発表し、
僕も呼ばれて講演をしました。

花岡さんをはじめ
京都文教の学生さんたちは、
やさしくて、
心があたたかいですね。




日本の若者たちが
訪れるように


最近、
「ミンダナオ子ども図書館」に
日本の若者たちが
訪れるようになりました。

現地の子どもたちに囲まれて、
友情や愛情のこもった
優しい言葉をかけられたり
抱きつかれたりすると、

彼らは泣き出したり
涙を浮かべ、
やがて硬かった顔に
自然で優しい表情がもどってきます。

そして、帰る時には
「また来るね、 私たちのこと、忘れないで! 」
と言って帰っていく。
これこそが、
本物の国際交流の体験だと思います。


京都文教大学でも講演をしましたが、
日本の大学、中高、小学校で
講演をするようになって感じることは、
日本の子どもたち、若者たちの感性 は
フィリピンの子どもたちと同様に
純粋で素晴らしいということ。

しかし、
それを生かす社会的な場が
「ちまた」=生活の場が少ないことです。


日本から来た若者たちが、
現地の素朴な子たちに出会って
感動し泣き出すのは、
日本の社会で失われた何かが、
アジアの特に貧しい人々の生活のなかに
生きているからでしょう。


「ミンダナオ子ども図書館」に住んでいる子は、
いわゆる「問題家庭」の子たちだけれど、
孤児になっても
明るく生きています。

みなさんも学生時代に
「ミンダナオ子ども図書館」に来て、
生きる力とは個人でがんばることではなく、
友情と愛であることを、
ぜひとも体験してください。


こんなふれあいを通じて、
アジアの若者たちが手をつなぎ、
相互理解や平和構築に
つながっていけばと願っています。




花岡風子の訪問記
「ミンダナオ子ども図書館」

現地で“よさこい”の踊りを披露。
集めた子ども服も配りました。


フィリピン・ミンダナオにある
「ミンダナオ子ども図書館」は、
紛争で親をなくした子、
貧しい家庭の子たちが暮らす寄宿舎です。

私は大学の先生から
この施設のことを聞き、
ぜひ訪問したいと仲間を募りました。

集まったのは、
私が所属していた“よさこい”のサークル
「風竜舞伝」の仲間2人。

私たちは
「京都文教大学ミンダナオ国際交流チーム」 (MIA)
という任意団体をつくり、
事前に寄付を集めて
よさこい踊りで使う「鳴子」を買い、
そこに寄付者のメッセージを書いてもらって
ミンダナオの子どもたちに
プレゼントすることにしました。


また、着なくなった子どもの服や靴を集めて
ミンダナオに持って行くことも計画。
帰国したあとは、
「ミンダナオ子ども図書館」の松居友さんを
学園祭にお招きして
帰国の報告会を開催することにしました。


さて、
3ヵ月あまりの準備期間を経てミンダナオへ。
ミンダナオはイスラム教徒と政府との紛争が
長く続いている場所ですが、
図書館のスタッフの方が
空港の出口まで迎えにきてくださり、
また現地でも常にそばにいて
サポートしてくださったので安心でした。


1週間という短い期間でしたが、
私たちは踊りを披露したり、
日本で集めた子ども服を配ったり、
フィリピン風の「飛び出し坊や」を
子どもたちに描いてもらう
活動などを行いました。


現地で出会った子どもたちの笑顔、
スタッフの方々の献身的なお仕事の様子、
そしてこの図書館を立ち上げ、
フィリピンの貧しい人たちのために
尽くしていらっしゃる松居さんのお姿に触れ、
多くのことを感じ、
考える機会を与えていただいた旅でした。


私は在学中に
世界中を旅してまわり、その経験から、
卒業後は
旅行会社で働きたいと考えていました。

ミンダナオから帰ると就職活動が本格化して
大忙しになりましたが、
「社会人になってまたミンダナオに行き、
子どもたちに会いたい」
という思いでがんばり続け、
志望していた会社から
内定をいただくことができました。


またミンダナオの子どもたちに
会いに行きたいと思っています。


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子どもたちが
大喜びで迎えてくれた



ミンダナオ子ども図書館に
帰ってきた。
子どもたちが、大喜びで駆けよって
抱きついて迎えてくれた。
「パパ友!!!」「お帰りなさい!」


親のいない子や
不幸な環境で育った子にとって、
思いっきり「パパ!」と叫んで
抱きつくことが出来る人がいるという事が、
とっても大切だという実感が、
子どもたちの姿を見ていてわいてくる。

もちろん、女の子だけでは無く
男の子たちも
「パパ!」
と言って、抱きついてくる。





皆さんの自由寄付で、
ダバオで手術をした子


ミンダナオ子ども図書館に帰ると
先日、ダバオの病院で
手術をした子がいた。

まだ、経過を見るために繰り返し、
3時間かかるダバオの病院に
通わなければならない。

そこで、当分は
ミンダナオ子ども図書館に泊まって
病院に通うことになった。
お母さんといっしょ。

これからの活動の重要な要素が、
医療です。


医者どころか、薬も買えず、
マナナンバルという祈祷師に
祈ってもらうしかない
子どもたちが沢山います。

医療は、
自由寄付で保っています。




子どもたちが植えた、
カカオの苗


3月は、
エルニーニョによる干ばつで
特に、山岳地域の先住民は、
作物が枯れて大変だった。

MCLでも、
緊急の米などを支援した。

3月に撮った写真
ミンダナオ子ども図書館の庭。


世界的な気候変動のせいか
干害が起こり、作物だけでは無く
雑草から木まで枯れ始めました。

特に山の人々は、
食べ物が無くなり、
政府の支援に
頼るしかなくなりました。

しかし、貯蔵米や
ワールドフードから届いた米も
横流しされて、
山の人々の元には、届かず。

それに怒った人々は、
政府の支援を求めて
デモ行進を行いましたが、
逆に発砲されて
けが人や死人が出ました。

干害が激しく、
農民が食べられず、怒り。
政府の支援が届くはずが届かず。
デモをして、3人が殺され、
けが人がたくさん出ました。

下の写真は、
MCLのスタッフの
ピティーボウイ君の従兄弟で、
撃たれて亡くなりました。


今は、少し雨が降り、
子どもたちが植えた
カカオの種も育ち始めた。

もう少し大きくなったら、
植林をする予定。




今は、
すっかり
草木ものびた


今回、MCLに帰ったときは
干害は去り
逆に、集中豪雨で
イスラムの湿原地帯が
洪水に見舞われるぐらいでした。

庭のドリアンの実も豊作で
子どもたちは、
収穫の日を涎をたらして、
待っています。 


洗濯の水も出て
子どもたちが
手入れしている花壇も
野菜畑も順調に育っています。

岩の中に住む妖精たちも
ホッとして、大喜び。




モスクの修復が
終わっていた


ラマダンと
イスラム文化さんに合わせて
モスクの修理を進めてきましたが、

屋根も内部も、
きれいに仕上がりました。


イスラムの奨学生達は、
大喜びです。

内も外もピンクの外観で
晴れやかですし、
夜を断食して
徹夜で過ごすには最高。


MCLの庭も
華やかになりました。


村にモスクがないので、
イスラムの子たちが可愛そう!
という、子どもたちの提案で、
建てたモスクです。




野菜売りの
子どもたち


「野菜売りの少女」は、
支援してくださっている方にお送りしている
季刊誌『ミンダナオの風』に連載している童話。
サイトにも掲載されています!

山菜売りの少女童話 
松居友作
GO!  
山菜売りの少女(映像)
松居陽 制作
GO!

そこに登場する子たちが、
何と小さな従兄弟たちと一緒に
MCLにやってきた!

学校にも行かずに、
家族のために頑張っている姿は
いじらしい。





先住民の
文化祭の準備


年四回の文化祭。
2月末の日曜日は、イスラム教徒。
6月末の日曜日は、先住民マノボ族。
8月末の日曜日は、クリスチャン。
11月末の日曜日は、シンポジウム。


参加したい方は、
どうぞいらしてください。
文化人類学的にも、
非常に貴重な体験が出来ますよ!


著名な文化人類学者の増田和彦さまも、
MCLのサイトと活動をご覧になって、
独自に調査を開始されました。

MCLもお手伝いして、
立派な学術書が出ています。

本当の祭りは、
神々の住む自然界、
山や湿原や川や海から、


魚や動物や
山菜や果実といった神々
精霊やアイヌ語のカムイたち!

沖縄では、マブイたち!
が、死んで自分の肉体を捧げて
霊=神となって訪れてくださるのを
心からお招きして、

祈りと祭りによって天に返し、
再訪して下さることを祈願する、
神聖な祭礼なのですよ!


ですから、
出来るだけ私たちは、
市場で素材を買うことよりも、
山にカエルやヘビや蟹やトカゲ、
カサバイモやヤシの実といった食材を
獲りに行くことから始めます。


良かったら、
そこから一緒に体験しましょう!


夜中に川に行って
松明をともしてカエルを捕ったり、
ニシキヘビを捕獲して
解体して、蒲焼きにしたり。


上の写真は、「マノボデーの文化祭」の映像から
取り出して掲載したものです。
以下をクリックすれば、
「マノボデーの文化祭」のオリジナル映像を
ご覧になれますよ!
原住民の文化祭 マノボデー!
食は、重要な文化で
相互理解を深めていきます。
下宿で、お米に塩をかけて食べている
大学生の栄養補給の意味合いも!


その後は、原住民の子どもたちが、
徹夜で料理を作ってくれます。
もちろん、ガスレンジではなく、
薪を使って焚火を炊いて!


山ではお鍋もないから、
竹筒に入れて炊きこんだり!

ふる里で体験してきたことを
MCLの中でやってくれます。





友情のなかで
生きる力


仕事も遊びも、みんなでやれば
友情のなかで
生きる力に変わっていく!


ミンダナオ図書館の子たちは、
極貧で学校に行けないだけではなく、
戦争で親が殺されたり、

貧困で家庭が崩壊して、
自分の土地や畑も無く、
兄弟姉妹が10人以上いて、
一日三食、お米を食べるのも無理で、
親戚に預けられて、下働きをさせられて
時には、アビュースを受けていたり。

スカラシップに採用するときには、
必ず僕自身が、
その子の生まれ育った村や
生活している家に足を運び、
状況をキチッとチェックしているだけに、

MCLを始めたときは、
こんなに多くのいわゆる問題児を抱えて
大丈夫だろうかと、心配したけれど、
ところが、それにもかかわらず、

住み込みで生活している子たちが、
明るく元気に助けあい、
宗教や部族が違っていても、
友情と愛で生きていく
その姿に、驚きを隠せなかった。


学校から帰ってくると、
「パパトモー!」と叫んで駆け寄ってくる
子どもたちを見ると、
この子たちの父親だと
自分自身を思わざるをえないけれど、

父親として、
うちの子たちを助けているはずなのに、
どれだけ彼らによって、
助けてもらってきたかわからない!


子育つ世界 ミンダナオ
ミンダナオ子ども図書館とふる里の子ども達!
ビデオ映像13分
ビデオ映像へGO!



ヤシの実とりに
行った


MCLの男の子たちが
文化祭を前に、
山に芝刈りに・・・
否、山にヤシの実とりに行った。

ヤシの木は、本当にすばらしい!
ヤシの実は、鉈で割って、
ヤシ汁を
そのまま飲んでもおいしいけれど、

飲み終わった後に、
ヤシの殻を割いて、
白い実を食べても本当においしい!

山や湿地帯で、
川や湿原の水は、
衛生上飲むことは出来なくっても、


ヤシの木が生えていれば、
実をとって汁を、
水代わりに飲めるし、
実を食べるとお腹がすいたのが癒される!

食べた後のヤシ殻も、
乾燥させて、
ご飯を炊く薪にもなるし、


さらにそれをヤシ殻炭にして、
たくさん作って保存用の炭もできる。
ヤシ殻炭で焼いた魚はおいしいよ!
下の写真は、ナマズの塩焼き!


しかも、エルニーニョ現象で干害が襲っても、
ヤシの木は枯れることがない。
ヤシの葉は、家の屋根や壁にも使えるし、
乾燥させてホウキも作れる。


さらに、古くなった木は、
倒して、皮の割いて剥がして、
中は建材として使えるし、
剥がした皮は薪としても活用できる。


ヤシの実とりが終わって、
帰りがけに、川を渡るとき
みんなで川に飛び込んで泳いで
汗を流した!


日本から送られてきた
古着を着ているので、
現地の子たちより豊かな感じ!

















































マノボデー
(先住民族の文化祭)




ミンダナオ子ども図書館では、
年四回の総会があり、
イスラム、先住民、
クリスチャンの文化祭をやり、
最後にシンポジウムをします。

毎年、学生たちの選挙により
代表メンバーを選出。
若者たちが、運営していきます。

6月の最終日曜日は、マノボデー、
文化祭を通して互いの文化の
違いを感じ、認め合って、
平和を築く礎にしていきます。







マノボ族の結婚式








文化も部族も宗教も、
異なっているからおもしろい。
人間の顔も、
皆同じではおもしろくない・・・

異なっているから、
友情や愛が生まれてくる。







マノボ族の結婚式

まずは、両家の父親が
結婚の相談と話を持ちかけて
話し合う。
結納の品物も、山羊や馬など・・・

ダトゥ(首長)を挟んで、
両家族の両親が座り
結婚する二人が向き合う。

そして、目の前に置かれた
ご飯とおかずを
相手の口元に持っていき
それを口に入れて食べる。

まわりでは、キャーーーッという
感動?の悲鳴がわき上がる。

その後、初夜では、
二人のあいだに子どもを置いて
寝るのだという。








日本から来た
若者たちも歌った




アンダンテの若者たち
子どもたちは大乗で、
一緒に歌い拍手喝采。






MCLのボードメンバーである
ガボン牧師の奥様と息子さん
奥さんは、日系人で、
日本人の血が混じっている





卒業生の
アロナの講演





もとミンダナオ子ども図書館の奨学生で、
卒業後に
先生になったアロナさん。

自分の体験を通して、
自分たちの持っている文化を、
これから未来を担う子どもたちに
伝えることの意味と大切さを語った。

すばらしい講演だった。
ミンダナオにおける、
イスラムとクリスチャンと先住民族の
調和と平和の重要性についても
熱弁をふるった。

かつて、
小さな小学生だった子が、
大学出て一人前になっていく姿をみるのは
本当にうれしい。








学業を
断念する子が増えて




もうすぐ
今年度の卒業式が近づいています。

しかし、ここに来て、
今年は高校4年生で
学業を断念する子が増えて、
支援者の方々をガッカリさせています。

そうした子たちの
ほとんどの理由は、
働いて家族を支えること。

調べると、

1,
物価高で家族の生活が
厳しくなってきていること。
米なども、4,5年前の倍の価格。
貧富の格差が激しくなってきて、
山の子たちは大変。

2,
高校が今までの4年制から、
今年から6年制に変わったこと。
これが大きい原因です。

高卒まで、
さらに2年間が加わったことで、
18歳で卒業。
大学卒業は22歳。

これは日本と同じなのですが、
15,6歳で結婚することも多い山では、
18歳だけでもかなりな年齢。
もはや家庭で両親や
妹弟を助ける年齢なのです。

そんなわけで、今年から
突然高校卒業まで2年増えて、
特に今年卒業の子たちがショックを受けて、
学業を停止することを選びました。

おそらく親からも
プレッシャーがかかっているようです。
停止の理由の殆どが、
「仕事を見つけて、家族を助けたい」でした。

MCLに住んで通うことを
提案したのですが、
親が子に、働いてほしいと言う
要求がつよい場合もあり、
引き留めることの出来ない子もいました。

何と答えて良いのやら。
頑張ってね、
としか言えない。

ただし、前も都会に行かされて
女中や子守りで雇われて、
雇い主からアビューズされて
MCLに飛び込んできて、
泣きながら、

「家にも帰れない。
雇い主の所は絶対に嫌!」と泣いて、
最終的にMCLに
住むことになった子も数人います。

駆け込み寺の
ミンダナオ子ども図書館!



















年末まずは
子どもたちと
ダバオハウスへ








あけけまして、おめでとうございます。
去年の暮れの
ダバオハウスの様子から



ここは、
MCLのダバオ拠点のダバオハウス。

今回は、クリスマスと正月に、
親もいなくて
里帰りが出来ない子どもたち15人ほどと、

赤ちゃんもいるスタッフ達も
一緒にここに泊まり、
日本から来る、
妻と娘とここで合流。

ここからさらに、海にいき、
お正月を過ごしました。
孤児の子たちが、
さびしいクリスマス、お正月にならないように!



このダバオハウスを説明しますと、
ここは、これからのMCLの活動を考慮して
支援金は使わずに、
前田容子さんとぼくで、
約600万円で手に入れた中古の家。

持ち主の息子さんが、
心を込めてくつられたのがわかる家で、
持ち主はある村の村長さん家族。

最初は家を
一年間借りたけれども、
MCLが気に入って、
出来ればあなた方に譲りたい、
と言う話をうかがって、

日本のみならず
海外諸国との関係が密になり始めた、
今後のMCLを考えて、

アメリカの古いスタイルで
クーラー時代の前の建物で
扇風機だけだと少し暑いし修理も必要だけども、
思い切って購入しました。




けれど、二階もあり、
今回のように、
大勢の子どもたちと寝られるのが利点。

ダバオに出るたびに、
ホテルでは経費も大変だし、
訪問者も多くなり、
決して裕福でない日本の若者達もいて、
MCLに来たくても、ホテル代が無駄。

そうした日本の中高年や若者たちとの
交流を考えて、
思い切ってこの家を手に入れた。

ここならば、
訪問者も20名以上でも
無理すれば
泊まれるし宿泊費もかからない。

空港まで10分程度で近いし、
早朝や深夜の到着や出発も問題ない。
日系人会のミンダナオ国際大学もすぐ近くだし、
デパートの買い物も可能。

近所に、日系人や米国人も住んでいて
治安も良いし・・・。
戦争が起きたときに、
スタッフもキダパワンから避難できる。

支援者の皆さん、
ご利用なさってください!

連絡は、現地日本人スタッフ宮木梓へ
mclmindanao@gmail.com











さらに、上の写真の前に来た
ペルー人の
双子の若者が選んだ奨学生を、
正式にスカラーに採用した。

「僕らが働いて支援しますから、
採用してあげてください!」
下の写真が、その奨学生で、
父親がいず大学に行けない。

この近所の家で働いていたのを
双子の兄弟が見つけた。

以前から、何とか大学に行きたいと
ダバオハウスの前に、時々来ては
話をしていた若者。
大喜びだ。















海で迎えた
お正月!




















今回は、
ハウスオブジョイの
浦和ビーチを訪問した。

MCLでも、
海のMCLをサンタマリアに
作る予定で進めているけれども、

ぼくが、
ミンダナオで最初に過ごした
ハウスオブジョイとも
今後も交流を進めていきたいと思って滞在。
懐かしいビーチで、正月を過ごした。

ここは、
妻のエープリルリンと出会った場所。
さまざまな思い出が、
どっと押し寄せてきて
これからのMCLを、じっくりと
考える年明けを迎えることができた。

娘も大喜びで友だちと再会
一緒に泳いだり木に登ったり!
取れたての魚で、子どもたちで
おいしい料理も作ってくれた。

イスラムのスタッフたちも一緒に行き
隣のイスラムの村の人々とも
楽しい会話で年を開けた。
Happy New Year!
Muslim+Christian+Lumad=MCL













































そんなことが
起こっているの?



ミンダナオ子ども図書館の、
最初の会計をしてくれた
ダバオ出身のスタッフ。

(お母さんは、
ダバオの修道会の調理師をしています)が、
「自分の叔父さんは、
バナナプランテーションで働いていたけれども、
農薬の空中散布で死んだ」
と語ってくれました。

当時は、
ミンダナオに足を踏み込んで間のない頃で、
何も知らずに驚いて言いました。
「そんなことが起こっているの?
それは酷い、裁判所に訴え出るべきだよ!」

すると彼女は、こう言いました。
「そんなことをしたら、刺客を雇って殺される!」

『参考「フィリピン・私の家族は国家に殺された
―家族を奪われた女性たちの戦い」
工藤律子著 長崎出版
(アマゾンで古本で買えるかもしれません。)』


さらに驚いたのですが・・・
アラカンで先住民族を40年間擁護してきた、
イタリア人のファウスト神父さまも、
シスターの話によると
体制側に雇われた刺客に殺された、
とのことです。

農薬汚染と山岳地でも
希少金属(ニッケル)の開発に、
反対していたからだということです。
(ぼくも、暗殺される危険がある!)

その後にも、
希少金属の開発に反対した
山のマノボ族の酋長がその場で殺され、
その娘さんは、
ミンダナオ子ども図書館の奨学生にしています。
https://www.youtube.com/watch?v=d_24-TUKkdA


ミンダナオ出身の
今のドゥテルテ大統領は、その事を知っていて
鉱山開発を抑制する処置をとっていると、
貧しい人たちは考えています。

写真は、大量に廃棄されたバナナ。
食べられるけれども、現地の人々は、
「農薬がかかっているから死ぬかもしれない」
と怖がって食べない。

地元のバナナは食べるけれども、
違いは、地面に下草や
雑草が生えているかどうかでわかる。

地元産のバナナは、
日本のフェアトレードでも売られているバナナで、
現地の人たちも安心して食べている、
低農薬の地元産のビナガイとかトゥンダン・・・








土地を失った先住民たち。
彼等の唯一の収入は、
プランテーションのバナナを拾ってきて、
切りきざんで、豚の餌として売ること。

お腹がすいていても、
バナナは怖くて食べない。

ミンダナオ子ども図書館の奨学生で、
戦前の日本人の血が混じっている日系人
(戦争の時に、日本人であることを隠して
山に逃げた一族)の娘の・・・さん、曰く。

「わたしの叔父さんも、
食べ物がなくって、
プランテーションのバナナを食べて、
お腹がいたくなって死んだの・・・」








下の写真
(90%は、わたしが現地で撮影)は、
先住民の村。
この村からも奨学生をとっています。





高原バナナが有名になって、
プランテーションは、
みるみるうちに
山麓の高原地帯に広がっていった

ミンダナオ子ども図書館のある、
アポ山の北コタバト州。

プランテーション=駄目だとは言わないけれど、
せめて農薬の被害や、
平地の肥えた土地を追われ、

斜面に居住地を移さなければならない
状況などを解決して、
土地持ちの土地持ちの金持ちだけが
より私腹を肥やして、

貧富の差が
拡大するようなことを防いで欲しい。
日本であんなに安く売られているけれど、
利益はほとんど富裕層と海外に?

プランテーションでは、
日雇いになるにも、
高卒の学歴(中退でも良い?)と
出生証明書が必要。








でも、貧しく山に追われた先住民は、
小学校も出ておらず、
出生届も出ていないので、
雇ってもらえない。

唯一、落ちたバナナを拾ってきて、
豚の餌を作って売るだけ。
それを食べて、豚が死んだという
話も聞いている・・・。

できれば、利益が、
こうした人々にも
行き渡れば良いのだけれど。

少なくとも、
ミンダナオ子ども図書館では、
写真の村々に保育所を建て、
奨学生を採っています。








それでも、生きるために
明るく力をあわせる子どもたち。
お金が無くっても、
友情と愛があれば大丈夫。

でも、辛いのが、
一日じゅう食べられないときと、
病気になっても薬も買えないとき。
学校に行きたくても、行けないとき。













































『バナナと日本人』の
その後は?



『バナナと日本人』の
その後はどうなっているのか?
深刻な農薬被害



『バナナと日本人』の
その後はどうなっているのか?
深刻な農薬被害



ご案内には、クリック
http://www.labornetjp.org/
news/2016/0929banana







農薬の空中散布と先住民の
衝撃のドキュメントは、以下の
YouTubeへ

YouTubeへGO1

上のYouTubeは、
そこに載っていたドキュメンタリーです。
バナナの農薬の空中散布によって、
先住民がいかに
被害を受けているかを描いています。
https://www.youtube.com/watch?v=d_24-TUKkdA
   







以下のサイトで、ミンダナオにおける、
バナナプランテーションの現地住民への
被害状況に関する報告会が、
行われることがわかりました。
http://www.labornetjp.org/
news/2016/0929banana

私にとっては、ミンダナオの日常で、
人ごとではないので
参加しようと思っています。
以下、サイトの記事より

**************************
 かつて、『バナナと日本人』という
大ベストセラーの本がありました。

あの本で告発されていた
バナナ・プランテーション、
残念ながら今も
フィリピン・ミンダナオで拡大しつつあります。

プランテーションで働く労働者だけでなく、
その家族からも
健康の問題について
不安が高まっています。

出生障害、麻痺や原因不明の病気で
なくなるケースなども報告されており、
その実態は深刻です。

その状況を知るために
訪問団が9月初旬に派遣されました。
その報告会が今週土曜日に開かれます。
会場は東京の連合会館(御茶ノ水)になります。
ぜひご参加いただけますようお願いいたします。

これに先立ち、
バナナ・プランテーションで使われている
農薬がいかに危険なものであるか、
アジアでの農薬規制、
日本での農薬政策の問題などについて学習会を行い、
そのまとめを作っています。
16ページですぐに読めます。ぜひご活用ください。
http://altertrade.jp/archives/12800

日本のバナナ市場にバナナを出荷する
住友系のスミフルのプランテーションで
農薬空中散布が行われており、
先住民族の村が被害を受けている状況を
現地のNGOがドキュメンタリーとして制作しています。
その日本語字幕版もぜひご覧ください。(印鑰 智哉)

『毒の雨』(Poison Rain)
https://www.youtube.com/watch?v=d_24-TUKkdA

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フィリピン・ミンダナオと私たちの今を考える
『バナナと日本人』で描かれた問題は現在、
どうなっているか?
ミンダナオ訪問団報告
------------------------------------------------

私たちの食卓と
海外の産地がどうつながっているか、
バナナを通じて追求した
鶴見良行著『バナナと日本人』が
出版されたのは1982年でした。

日本にあふれるようになったフィリピン・バナナが
危険な農薬が空中散布される中、
過酷な労働条件のもと、
バナナ・プランテーションで
働かざるをえなくなっていった人びとによって
作られていること、

しかも、日本のバナナ市場のために
多国籍企業によって
そのプランテーションが
作られていったことを明快に描き、
日本社会に大きな衝撃を与えた名著です。


それから30年あまりがたちましたが、
今なお、日本で消費されるバナナの
9割以上はフィリピン、
ミンダナオ島のプランテーションから来るバナナです。

現地での状況は
ほとんど報道されることはありませんが、
その現状はどうなっているのでしょうか?

日本に輸入されたプランテーション・バナナからは
国際農薬監視行動ネットワークなどが
使用禁止を世界中で訴えている
危険度の高い農薬や
ネオニコチノイド系農薬の残留が確認されています
(東京都健康安全研究センター研究年報2013など参照)。

それを生産する現場では
環境や現地の人びとの暮らしや健康に
何が起きているのでしょうか?
プランテーション・バナナに代わる
オルタナティブは存在するのでしょうか?

そうした状況を確かめるために、
9月上旬にミンダナオ現地に
訪問団が派遣されました。
参加者は農薬問題や
現地の社会問題を研究する研究者や
生協関係者の方たちです。

現地報告をもとに、
フィリピン・ミンダナオの人びとと
私たちの関係を考えます。

ぜひ、この機会にご参加ください。

【日時】2016年10月1日(土) 1
4:00~16:30 (開場13:30)
【場所】連合会館 201会議室
(東京都千代田区神田駿河台3-2-11)
http://rengokaikan.jp/access/index.html
【参加費】800円
【定員】90名(申込み先着順)
【お申込み先】
【お問い合わせ】オルター・トレード・ジャパン(ATJ)政策室
電話 03-5273-8176
FAX 03-5273-8162




キダパワンでデモ
3人殺害される






MCLのあるキダパワンが、少し不安定ですね。
干害が激しく、農民が食べられず、怒り。
政府の支援が届くはずが届かず。
デモをして、3人が殺され、
けが人がたくさん出ました。

下の写真は、MCLのスタッフの
ピティーボウイ君の従兄弟で、
撃たれて亡くなりました。

この一家は、アラカンで殺害された、
ファウスト神父さまとも繋がりがあって、
MCLのスタッフのマノボ族のピティーボウイくんは、
高校までファウスト神父さまの奨学生でした。

ファウスト神父さまは、本当に優しい方で、
イタリア人の神父で、
40年間にわたって
先住民を支援してきましたが、

新人民軍の仲間と疑われて、
シスターの話ですと、
政府の送ってきた刺客に殺されました。
そのときの悲しみは、
ドンボスコ社の「カトリック生活」に以前書きました。


後に詳しく書きたいと思いますが、
MCLでも米などの支援を考えています。

MCLの田んぼは、
いまのところ灌漑用水があり、収穫があり、
200人の子ども、若者たちを養っていますが、
干害が続くとどうなることやら・・・

いま、とりわけ貧困が厳しい
山岳地帯の状況を調査しています。

食べられない家族が多く、
場所によっては
炊き出しなどの支援もしたいのですが、
円安以降財政が厳しく、
よろしければ緊急の支援をお願いします。
http://www.edit.ne.jp/
~mindanao/siennhouhou.htm


日本で私も、講演をこなし、
本の印税も全て送って頑張っているのですが・・
・一人ではなかなか。
MCLは、ほとんどが個人支援なので!
以下は、記事です。


サイトの記事へGO!




医療支援を
お願いします






日々の食べ物にも困っている
経済的に貧しい人々にとって
何よりも大変なのが、
病気になったときだろう。

私たちが活動している地域の人々は、
都会に住んでいる人は別にして
山岳地や湿地に住んでいて
日々の食べ物にすら困る人たちだ。

しかし、食べ物は、
無ければせめて、カエルを捕ったり
山芋を探したりして、何とかなるけど
病気だけは、どうにもならない。

何しろ貧困の度合いが違い
薬も買えなければ、
医者の診断など不可能で、
入院などは、夢のまた夢。

そんな状況を見かねて、
長年医療をしてきたけれど
10年近く、
毎年大口の寄付を続けてくれていた団体が、
一昨年急にストップした。

理由は、まったくわからないけれど・・・。
MCLでは、
投薬から手術、入院まで
可能な限り、子供たちを助けている。

病院の先生方とも、長いつきあいで
特別に安く引き受けてくれるばかりで無く、
時には自分の給与をなげうって
MCLの患者たちを助けてくださる。

ことしも、左の子たちの手術から
500名以上の奨学生の投薬や
医師の診断まで、やってきているけれど
多くの方々の個人の自由寄付に頼っている。

もしよろしければ、
自由寄付でも寄付に「医療」と書いてくださって、
わずかでも良いので、
お願いします。


 支援方法のサイトへGo!









手術後の経過の
調査も行っています。


















ミンダナオ子ども図書館
の医療活動









左右の写真は、
先年末に、足の手術をしたときと、
終わったときのノルジャナ
キダパワンのドクトルスペシャリスト病院にて。

足に大きな腫れ物が出来て、
歩けなくなった
イスラムのノルジャーナ。

手術をしたあと、
現地のイスラム地域に、
その後の経過を確認に行きました。

もうすっかり元気で、
ちゃんと歩いて学校に通えています。
お母さんもうれしそう。 




















写真下は、元奨学生で薬剤学科を卒業。
今は、医療担当になった、ジナ。
山奥で、母がいなくなり、極貧で云々。
でも、MCLに住んで大学を卒業できた!
しかも、あこがれのMCLのスタッフに。

ジナの役割は、
キダパワンの総合病院、
ドクトルスペシャリスト病院の医師と
貧困の中の病気の子どもの間に入って、
診察の手配、薬の購入、
手術の手はずをすること。

(ここにはCTスキャンもあり、
十数人の専門医師が働いている。
長年の関わりでMCLは、
特別に時には医師が
自分の給与を棚に上げて診てくださる。
だから、訪問者が
コブラに噛まれても大丈夫!)


MCL自身は、
医療支援活動はするものの、
医療そのものは
病院の先生方が行う。

貧困の親は、
病院の手続きもわからず、
薬の購入も、
その後の再診もわからないから。








写真の子どもは、
血液に障害を持ち、
千年末に輸血手術をした
マノボ族のプロックエイト集落の子ども。

その後
チェックしましたけど、
すっかり良くなっていました。
なおしてあげるだけではなく、
その後のフォローが医療では大事。
自分たちでは、医者には行けないから。

寄付をくださった
JICAの・・・さん、
安心してください。

同じこの村で、
あるNGOが手術をしたあと、
抜糸をしないでこどもをほったらかしにしていて、
その子の抜糸を
MCLでしてあげた子のことを思いだしました。

医療は、
本当に責任と
手間がかかるプロジェクトです。



現地に行くと、さまざまな患者に出会う。
そのたびにインタビューをして、
後日、または即日、
子どもたちを病院に運ぶ。
写真は、妻のエープリルリン。

ミンダナオ子ども図書館の医療活動は、
100万人規模と言われた
2000年、2002年の
イスラム教徒難民の悲惨な現状に
出会った事から始まりました。

その後、デング熱などの治る病気でも
死んでいく、山岳民族など、
現地の貧しい子どもたちの
現状を見るにつけて、

高額治療でも
予算の許す限り行う、
医療プロジェクトの必要性を痛感して
実施を始めた活動です。

下は、避難民状態の患者達。
中には、精神障害を起こしている子もいて
ダバオの精神病院にも・・・
























奇妙なのは、
空爆も含む
激し戦争だった2000年の
米比合同演習と、

2002年の
テロリスト掃討作戦の後
戦闘地域に、
急激に奇形が増えたこと。

友人の松浦悟朗司教に話して
写真を見せると
「劣化ウランの症状とちゃう!」

それで調べたところ
その頃、体内にいた子が
ひどい奇形を持っていることが見えてきた。
MCLで、何人手術をしたことか。

日本の某新聞社がそれを知って
取材に行きたいと言ったものの
なぜか、ストップ!

その後も、2006年に緒方さんが
JICAのトップになり、
和平交渉が推進されるまで
殆どの取材は、拒否されました。













診察や薬を含め、
年間140人ほどの子どもの
医療をしています。

毎年200万ほどの
医療代がかかっています。
支援をよろしくお願いします。

医療は、
自由寄付で
まかなっている分野です。










私たちの医療活動は、
手術の必要な重篤患者の子ども
デング熱や生命に関わる緊急医療を
必要とする子どもたちを、
主な対象としています。(17歳以下)

このような入院を伴う緊急医療は、
時として膨大な費用を
必要としているので、
貧しい家族には不可能なケースが多い。

また、メディカルアウトリッチと呼ばれる
健康診断や風邪などの軽い病気を
医師が派遣されて治療するNGOや
ファンデーションはあるのですが、

重篤な病気に対する
治療を支援する団体は、
現地ではあまりありません。

それゆえに、MCLでは、
他では診てもらえない子たちを
特別に、受け入れるようにしています。









下の彼に会った訪問者も多いのでは?
とっても明るくておもしろい子、
そして、ちょっといたずら好き。

いまは、山のお父さんの所から
学校に通っています。
手術も終わって美男子に・・・

















下は、日本から訪問された医師に
治療してもらった、
マノボ族の少女。








顔は載せていないけど、
下の子は足を撃たれた。

リゾート開発で
5000ペソやるから
ここを出て行けと言われ
マノボの酋長の父親が
「嫌だ!」と言ったらその場でズドン!

殺されて、母親も腹をバーン。
少女が助けに寄ると
足をババーン!

現在、私たちの医療活動は、
山岳地域の子どもたちや
イスラム教徒難民など
年間100名以上の子どもたちに
本格的な医療の機会をあたえています。

いざというときには、
ミンダナオ子ども図書館に
足を運べば何とかしてくれる!

医療プロジェクトは、
多くの人々に
信頼と安心を与えている
重要なプロジェクトです。 

自由寄付が、
医療に使われます。
よろしくお願いします。













 

支援申し込みメールでご住所を送っていただければ、
会員登録をして年4回、季刊誌をお送りします。
直接下記に振り込んでいただけると早く確実です
自由寄付、医療支援、スカラシップ、里親支援、
植林支援、緊急支援


郵便振替口座番号:00100 0 18057
口座名:ミンダナオ子ども図書館

振り込んだ後に、メールをいただければ幸いです。

mclmindanao@gmail.com
(以前のアドレスも有効です)
  
 インターネットバンキングも可能です
■銀行名 ゆうちょ銀行  ■金融機関コード 9900
■店番 019  ■預金種目 当座
■店名 〇一九 店(ゼロイチキユウ店)
■口座番号 0018057
口座名:ミンダナオ子ども図書館
ゆうちょ銀行(郵便局)や、
それ以外の金融機関からの振込もOK

振り込んだ後に、メールをいただければ幸いです。
mclmindanao@gmail.com
(以前のアドレスも有効です)
 

連絡、スカラシップや支援方法の問い合わせ、訪問希望
 講演会、公演、家庭集会の希望、
支援に関する質問は、こちらへ。

現地日本人スタッフ宮木 梓:
mclmindanao@gmail.com






アルアルくんの
手術が成功



本当に小さい頃から
ミンダナオ子ども図書館に住んで
学校に通ってきたアルアルくん。



先住民のマノボ族で
バナナ開発のプランテーションに
土地を追われて行き場が無く、
家族が苦労しているのを見かねて
ミンダナオ子ども図書館に・・・。

小さかった彼も、
いまは大学生に。
だけれども、とつぜん病気が解り
腹部の手術を断行。
「MCLが無かったら、ぼくは死んでいた。」



ミンダナオ子ども図書館では、
大きな手術から、病院での診察、
薬の投与まで、
17才以下の子どもたちを
予算の許す限り助けています。

下は、毎年行っている
三ツ口の子どもたちの治療。












































ミンダナオ子ども図書館の
子どもたち


ミンダナオ子ども図書館の中心は、
いつも子どもたち!
土曜日の午前中に庭に出て、
庭作りをしながら、
花や野菜を育てる子どもたち。



日本では、ちょっと考えられない姿だけれど
本当に自然がすき、というか
生まれたときから、
自然と共に生きている。

きれいな花を
育てるのが好きで
時には、花を摘んで
髪にさしておしゃれする。



山芋作りや、
雑草の草刈り掃除もお手の物
不思議なぐらい嫌がらずに
むしろ笑顔で楽しくお掃除。



掘った山芋も料理に

















ピキット市の
保育所の開所式



いつもは、ミンダナオ子ども図書館は
比較的豊かな人々の多い市内や
都市近郊では無く、

山や湿原地帯の僻地のなかでも
最も貧しい村や集落で活動し
保育所も、そのような場所を選んで
建ててきた。

しかし、今回はピキット市の
ソーシャルワーカーで、
MCLの理事でもある
グレイスさんから、

市内の広場に
スタンダードのしかも
総セメント製の保育所を建てられないか
という要請があった。

大きさは簡易保育所の2倍あり、
セメント製であるから暑いのでエアコンも
寄贈されるという。

本来竹壁と窓の方が、
総セメント製よりも
暑さをしのげるので良いのだが。

しかも、土台は一メートル以上高くして作る。
理由は、戦争や洪水の時の
避難場所として
機能するものを作って欲しい
という事だった。

確かに過去の経験から、
戦争や洪水が起こると、数十万から
時には百万を超える避難民が
僻地から逃げてきて、

半年から一年
時には数年にわたる
避難民生活を余儀なくされる。

そのたびに救済支援を行ってきたから
このような避難場所があると、
助かると同時に
救済避難ベースにもなる。

セメント製なら、
鉄砲玉が飛んできても命が守られるし、
1メートルの高さがあれば
洪水になっても大丈夫だ。

そうした理由を納得して
お二人のスタンダード保育所支援者に
カトリック教会の寄付を加えて
160万で建てたのが今回の保育所。



開所式には、保育所の先生、
福祉局のでMCL理事のグレイスさん
そして、神父さまも参加されて
サイン式と祝福を行い、

その後で、
MCLの若者たちが読み語りをして
子供たちと一緒に
開所式を楽しんだ。























イスラム、クリスチャン、
先住民の子たちが
読み語りをした















読み語りの後に、
みんなでパンを食べた
 



それにしても、
10年前に比べると、
資材、文具、生活費、
ガソリン代などの値上げが激しく、

フィリピン経済は
表向き上向いていると言われていても
貧困層の生活は、
ますます酷くなってきている























保育所のチェックと
修理を始めた


保育所支援は、フィリピン政府が
小学校入学の条件として
「小学校に併設される幼稚園を
せめて卒業しなければ入学できない」
という条件を出したところから始まった。

山岳地の貧しい村では、
小学校のある村の
中心部まで8キロあり、

ジャングルや山道を小学生は
3時間もかけて
歩かなければならないのは
普通の事だ。

ミンダナオ子ども図書館で、
下宿小屋を作っているのも、
そうした子供たちが、
小学校や高校の有る村の中心部に住み、
学校に通えるようにするためだ。

特に孤児や崩壊家庭、
そして両親はいても極貧で食べられない
家庭の子たちを優先して
奨学生にしているMCLでは、
下宿小屋に住んでいる子たちに、
米も支給している。

すでに山に男子寮と
女子寮を作っているが、

現在、海にもう一つ、
下宿小屋を作る
準備をしている。

話を保育所にもどすと
そうした貧しい村の幼い子供たちが、
8キロもある道を通って幼稚園に
行けるわけが無い。

そこで、政府は、
村に保育園を作り
そこでABCを学んだ子も
とりあえず小学校に入学できる
ということにした。

保育所は、
福祉局の管轄下で
村単位で建設、維持する。

保育所といっても、
日本のように親が働きに出ている間に
子供を預かる場所では無く、
一日2時間ほど、
ABCや簡単な算数を学ぶ場所なのだ。

村単位で建設といっても、
貧しい村にお金が有るわけもない。

保育所の先生も
せめて高校卒業で
読み書きが解ることが前提だが、
小学校卒業生もまれな村で
先生になれる人がいない村もある。

建物などはさらに不可能で、
木の下やプロックと呼ばれる
屋根だけの休み場所で
勉強していたりする。

ぼくには、政府の政策は、
豊かな村のある程度お金のある人々だけが
小学校に入学し、
教育が受けられる形にする、
貧困層を切り捨てる教育システムのように
思えたものだが、

といっても
そうした村の子供たちが惨めで放っておけず
福祉局からの強い要請もあり
保育所建設を
開始することに決断した。

保育所には、
スタンダードと呼ばれて
大きくてトイレも2つあるものと、

簡易保育所が
あることもわかってきた。

福祉局からは、
とにかく保育所が無い村が
あちらこちらにあるので、
「簡易保育所で良いから、多数建てて欲しい」
と言われた。

そして、簡易保育所を見たが、
床も土で全部竹だけだと、
あっという間に腐ってくる。

そこで、
せめて土台と壁の半分は
セメント製にすることにした。

最初は、
30万円で可能だったが
10年で資材の値上がりが厳しく40万にし、
すでに75件を建ててきた。

ただし、10年もすると
簡易保育所の問題点が見え始めた。
補修は、寄贈式のときの調印と取り決めで
村で行うことになっているのだが
村には、補修の費用すら持てない場所もある。

さすがに土台はOKでも、
竹壁が腐ってきたりもする。

せっかくドネイションしていただきながら
色あせて補修も必要としている
保育所を目にし、

現地の子供たちや教師、
支援者の気持ちを無視できずに、
今年から保育所補修の寄付を募り
補修を行うことにして、実行し始めた。

ただ、補修や時には
再建が必要な保育所は以外に多く、
数年は、補修プロジェクトを
続けなければならないだろう。
経費も大変。

しかし、新たにピンクのペンキが塗られ
壁も補修された保育所で
うれしそうに学ぶ子供たちを見ると
頑張ろうと想う気持ちがわいてくる。

サインボードも
塗り替えて張る。

今後は、今までの展開の経験を踏まえて
一時しのぎの簡易保育所を辞めて、
室内に2つのトイレを置き
部屋の大きさも広くして
セメントの壁にドアも二つつけて、

すべてを
スタンダードにして
90万円で建てることにした。
総セメント製だと130万になる。








全面的に
立て替えた保育所



















保育所には、
下にピンクか緑のペンキを塗り
屋根もペンキを塗って
錆を防ぐことにした









簡易保育所より
面積が広くトイレも二つあり、
扉も二つあるスタンダード保育所






















小学校建設の
打ち合わせ
 




途中で建材が行方不明になって
建設が中途でストップした
教育省の建物





竹でようやく建っている
校舎



今年の3月に
日本大使館で正式にサインし、
大統領選後の6,7,8月あたりから
政情を確認しながら進める予定の、
パガルガン地域に小学校建設の詰め。

ミンダナオの戦闘地域でも、
最も不安的で、
微妙な場所に位置しているだけに、
和平構築に重要な場所、

イスラム自治区のカルボガンに
日本政府の支援で
小学校が建設予定。

3月に、日本大使館で
私がサインすることになっていますが、
不安要因もあり、
最終的なつめをしました。

先日、イスラム自治区で、市長代理、エンジニア、
カルボガン村の村長、校長先生と、
MCLのイスラムのスタッフ4名と、
代表の妻と私とで、
カルボガン小学校の詰めをしました。

しかし、一つの不安事例は(戦争は別にして)、
前に推奨して自治体が主体となり
建設したサパカンの小学校が、
危険地域であるがためか
マニラに本部のある業者のチェックがあまりなく、

一部建設が良くないという
学校の校長からの指摘があり、
MCLには直接責任はないのですが、
一日本人としても恥ずかしく、

エンジニアと話し合って
3月はじめまでには完璧に修理し、
MCLのスタッフが
チェックすることになりました。

イスラム地域での建設は、
過去の経験からも難しい部分があり、
今回は会議を開き、業者の選択も含めて、

エンジニア、村長、校長、
市と密接に協力しながら、
MCLのイスラムスタッフがたえず同行して、
資材の調達、運搬、
そして建設の現地の村の職人の選択、
また現地に泊まり込んで資材の紛失などの
管理をするこ とで一致しました。

MCLとしては、
全くボランティアで活動しますが
(皆さんの支援金の一部を使いますが、
現地の子どもたちのためです!奨学生もいます。)

現地の子どもたちとの繋がりを考えると、
不完全なまま放置されている
海外支援の建設物が多い地域だけに、
現地の人々の日本への信頼を構築する
重要な仕事ととらえていま す。

IMTの中川さん、
サパカン心配ないので安心してください。
床を上げたことは大正解です!

洪水の時の避難場所にもなりますし、
喜ばれています。

ただ、置き土の固める経験がなかったことが
ベランダに亀裂がはいる原因となったようです。
3月上旬には、
全面修理がなされます。

今回、私もサパカンの小学校をチェックし、
カルボガンも舟で行こうと思ったのですが、
ピキットサイドのタリタイとラジャムダで
選挙関係のリドーがあり、
危険で入れませんでした。











小学校建設の調印式

コタバトで
カルボガンの小学校建設の調印式








MCLから、副代表のベビン、
スタッフのサダム
そして、現地のエンジニア、村長、
市長代理が出席









大使館の職員とエンジニア、村長が握手
現地でもしっかりと
取り組んでもらうためにも
こうした計らいが重要



いつも
マニラで調印式を行うが、
今回は、大使の意向で
初めてコタバトで調印式が行われた。

イスラムのバンサモロBDAの
拠点であるだけに
現地でも親しく、
迎えられた。

2006年いらい、
和平交渉における日本の役割は大きい。
マレーシア、インドネシアと共同して
IMT国際停戦監視団を形成し
和平に貢献してきた。

MCLは、それに
直接携わってきたわけではない。
特定の政治団体の下
または、宗教団体の下では、
活動しない定款をもっている。

しかし、どのような国、
主教団体であれ
良い企画であれば、
現地のために協働する。

MCLは、15年間
現地の最も複雑で、
戦闘や対立が絶えない地域に入り
奨学生をとり、保育所を建て、

さらに、現地からの
小学校を建てられないかという要望で、
個人の支援でほぼ成り立っているMCLでは、
学校を建てるほどの資金は無いので、
日本政府に応募して、学校を建ててきた。

最初に建てたのは、
マカブアル村。

道も無く、反政府ゲリラの拠点がある
危険な地域だったが、
学校が建ってから、道も出来
村も明るくなり、人々も帰ってきた。

次に建てたのが、
ブアラン村。

こちらは、40年間、
丘の上のクリスチャンと
丘の下のイスラム教徒が
対立し殺し合いが続いてきた
最も複雑で危険な地域。

それが、学校建設を条件に
和平交渉を現地で行い、
クリスチャンとイスラムの村人たちが、
共同して、

かつてあった道を切りひらき、
イスラムとクリスチャンの両者が、
同じ学校に通えることを条件に
建設した。

今は、すっかり
平和になっている。
そのときの活動と様子を
映像であげました。

以下をクリックして、ご覧ください。

和平構築の映像へGO!
インターネットエックスプロラーで
見ることができます。





IMT国際停戦監視団で活動し
今回の提案にも
お声がけをしてくださった
中川さん





いよいよ
これからが本番で大変です!






カルボガンの
学校建設を視察










MCLの法人資格が、
現地の若者たちの手で取得されて、
公的に活動が開始されたのが
2003年の8月のこと。

元々のきっかけは、
2001年に
キダパワンのバリエス司教につれられて
イスラム地区の戦争を見て、

その避難民の状態のひどさ、
特に笑顔を失った子どもの姿を見てから、
ここで読み聞かせ、医療、奨学制度が出来る
NGOを作らなければと思ったからだ。

そのことは、
拙著『手をつなごうよ』(彩流社)で、
青少年向けに書いた。

それから13年、
ミンダナオに足を踏み入れて
15年の歳月がん流れた。

その後も
2002、3年の米軍による
テロリスト掃討作戦で、
120万の避難民。

さらに2005年にも、戦争が勃発。
リドーと呼ばれる
小さな戦闘にいたっては、
毎年のように起こり、

2006年の
日本政府による和平交渉以降も、
2008年には、和平交渉決裂により
80万の避難民が出る戦争になった。

今年も
小さな戦闘がしばしば起こり、
そのたびに避難民救済に駆け回って
あっという間の13年!


  

ミンダナオの全ての学校には、
上の写真のような番号が、
書かれている。

これは、学校が
避難所として指定されており
空爆防止のためだ。

2008年の戦争の時にも、軍の兵士が
リグアサン湿原の上を指して言った。
「ほら、あそこにフワフワ飛んでいる
飛行機が見えるかい!
あれは、米軍の無人偵察爆撃機だよ。」

すると、そこから爆弾が、
ドーンと落とされた。

爆弾を落とす引き金を引くのは
戦場から遠い遙かアメリカにいて、
オフィスのコンピューターながめている
捜査官なのだという。

そのしたに、
どれほど多くの避難民の子供たちが、
なけなしのシートのしたに
避難しているのか、
解っているのだろうか?




そんな爆弾が落とされていた地域。
とても入れない
と思っていた反政府地域。
東南アジア最大の湿原と呼ばれている
リグアサン湿原のイスラム自治区にも、

戦争がある度に、
逃げてきた子たちを支援し、

親が殺された子たちを、
奨学生に採り。

読み語りをし、保育所を建て
10年間にわたる交流を続けてきた。
その結果、現地の人々は心を開き
MCLを信頼し
受け入れてくれるようになった。

和平構築は、
ヒナイニナイ バスタ カヌナイ
(MCLの合い言葉で、
ゆっくりゆっくり でも絶えることなく)
友情と愛のお付き合いをしていくなかで
培われていくものだと、感じている。

一時的に巨額な支援をしても、
現地の人は簡単に信じてくれない。
「何を下心に支援するの・・・???
目的は、リグアサンに眠っている
膨大な石油と天然ガスの資源を奪うこと?」

事実、ここで40年間にわかって
起こされてきた戦争の原因は
国際的な天然資源の
奪い合いだと聞いている。


 

ミンダナオ子ども図書館の活動は、
政治目的でも無く、
宗教目的でも無い。
子供たちへ愛と友情だけが行動規範だ。




それを理解してくれるから、
彼等は言う。
「MCLは、お金目的の他のNGOと
違っているね・・・」

その結果、今回のような、
一般では外国人が入れないような
非常に難しい場所にも、
学校建設が可能になった。

ただ、こうした活動に
妬みを持ったり、あるいは逆に、
妨害して戦争を起こす
きっかけにしたい動きも過去見ている。

たとえば、中東でのイスラム国による
日本人誘拐殺害のように
ぼくを誘拐殺害して、

あるいは、今の大統領を殺害して、
イスラム国の仕業と大々的に報道して、
一挙に政府軍、アメリカ軍。そしておそらく
集団的自衛権と憲法改正を利用して
日本軍(現地では自衛隊では無く、
一般的に日本軍とみんな呼んでいる)

まで、ミンダナオのイスラム地域に攻め込んで、
軍隊を駐留させて、
リグアサン湿原の石油と天然ガス、
そして、山岳地たちの希少金属の
資源の発掘の基盤にするのではないか?




皆さん!
戦争を起こすための口実に
ぼくが、誘拐され、殺されても、
決してこの地のイスラムの人々を
悪く思わないで欲しいです。

ぼくは、この地のイスラムの子供たち、
とりわけ、戦争で親が殺された子たちを
心から愛し、また、地域の人々を
友人だと思っているのでお願いします。

戦争を起こすために行われるのが、
誘拐と殺害、
爆弾事件であることは、
過去何回も見てきています。

それでも、
この子たちのためならば、
ぼくは、殺されていってもかまわない・・・
そんな思いで、活動しています。










































物的支援の難しさ












ミンダナオ子ども図書館の
根幹の支援は、読み語りで、
いわゆる物的支援ではない。

しかし、平行して、
現地からの強い要望にあわせて保育所支援、
学校建設支援などの物的支援も行っている。

保育所までは、
日本からの個人寄付で建てられるものの、
学校までは無理。
そこで、日本政府のODAに提案して、
マカブアル村についで、ブアランに建設。

前回は、国際停戦監視団IMTに
JICAから派遣されている、中川さんから
「どこに建てたら良いか、推薦して欲しい」
といわれて、

MCLの責任ではないが、
イスラム自治区下のカルボガン市の責任で、
サパカンに学校を建てた。

しかし、マニラの業者からの調査も無く
現地でも、
洪水から避難するための
床上げの技術が初めてで、

本来は、地方自治体の責任なのだが、
提案した手前もあり、MCLで調査し
行政とエンジニアと話し合い、
修復を完了した。

写真は、
下が修復後の小学校、
下の下が、修復前の小学校

現地にいると、海外の支援の問題を
見せつけられる事が多い。
公に言いにくいのだが、USAIDやEU、
日本のODAやフィリピン政府で建設した、
コミュニティーセンターなどの建物が、

資材の盗用や技術の未熟で
建設途中でストップしたまま放置。
さらに多いのが、
現地の有力者の
個人の所有になってしまっている例も多い。

MCLの保育所も、個人の物にされて
話し合いで返してもらったりした経験もある。
また、セメントなどの資材をとちゅうで横領されて、
建設が中途でストップしたり。

手抜き工事で、壊れたり・・・
現地では、公的支援という物は、金銭も含め
関係した有力者の懐を埋める物
という考え方が常識で、特に選挙前に行われる。

ただし、MCLの場合は、
その後のフォローも続けていくので
一目置かれているが・・・

そういう経緯を見ているので、
今回コタバトで調印式があった
カルボガンの小学校は、

去年がサイン会だったのを
一年延ばして、
大統領選挙後の6月あたりから、
着工することにした。

この村では、
フィリピン政府が建設しようとした校舎の一部も、
セメントで壁を作ったところでストップしており、
反政府地域の最も複雑で難しい場所の一つだ。

MCLでは、完璧に校舎を作るために
現地出身のMCLのイスラム卒業生を
建設現場に常駐させ、

資材の盗用などを防ぐため
資材調達には、
イスラムのスタッフを
常に同行させることにした。

支援というのは、戦争の時の支援もそうだが、
「支援」という美名の元で入ってくるのは
良いのだけれど、
現地でたいしたこともせずに
支援金を得て帰って行く国際NGOも結構多い。

特に、2002年のブッシュ政権時代の
アメリカ軍による「テロリスト掃討作戦」の時など
NGOの見本市と呼ばれるほど
国道沿いに欧米のNGOが入りお店を出して、

テレビのカメラの前で
「これを買っていただければ、
支援に利益が回されます」
などと宣伝をしていた。

けれども、ほとんど危険な外には出ず
やがて、イラク戦争が勃発すると、
次々に消えていった。

「こんなに避難民がまだ沢山いるのに
なぜ、去っていくのですか」と聞くと
「もう、ミンダナオじゃないですよ、イラクですよ。
ここにいても、もう支援金は落とされないしね・・・」
といって、あっという間にいなくなり、

MCLだけが、残った。
当時のイギリスに本部を置く国際NGOも、
沢山井戸を掘ったけれど
数ヶ月後に、ほとんど壊れていた。

無経験のぼくには、
近著の「手をつなごうよ」(彩流社)にも
当時のことを書いたけれど、
支援というのは、体のいい、ビジネスで
NGOというのは、
死体に集まる、ハゲタカのような物だと思った。


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印税は、100%MCLに寄贈しています。
買っていただくだけで、支援になります。
 

NGOの資金も、実際に携わっている方々から、
スタッフの給与が大変で6割から、
時には7割消えていくという。

現地NGOでは、この仕事は、
給料が良くて、
楽な仕事といわれている。

それで、MCLでは、
日本サイドは送金を中心としたボランティアで、

日本で時に活動する、
日本人の私と梓さんそして、
妻でプレシデントのエープリルリンに
月々6万円の給与が支払われる。
梓さんとエープリルリンには、
現地の給与が8000ペソ出される。

海外ボランティアの長かった梓さん曰く
「MCLは、現地では、食事、住居、年金、
医療、そして子供が生まれたら、
教育が大学まで保証されている。

そして、現地での給与の他、
日本での給与6万円は、
毎月使うことも無く貯蓄できる。
日本では、貯蓄することだけでも大変!
子ども達と毎日楽しいし、本当に幸せ!」






















学校建設の記録から







































マニラ新聞の
記者が来られた!








































いよいよ壁が
出来上がっていく























屋根の建設へ向けて
資材を搬送
  




















洪水が襲ってきた

教室にも到達。
滑らない工夫をしなければならない。

















































家具を搬送

滑らないために
セメントラフで完成したが、
見た目がいまいちだ。



















































ペンキを塗って


ペンキを塗って、
校長、村長も村人たちもなっとくしたけれども、
大使館では気に入らないようだ。










皆さんご心配なく、
余分な費用が出た場合は、
MCLからではなく、
私が個人で負担します!
寄付は全て、皆さんが支援している
子どもたちのためですから・・・



今、スタッフのベビンと話しました。
ぜひ彼女がそちらのエンジニアとも連絡をとり、
現地調査をして
子どもたちのためにも
ベストの形で完成したいと思います。
今日中にもカルボガンの村長と話します。

そして、26日には
ダバオでエンジニアと話しますし、
1月初旬にはピキットの市長、校長、村長、
MCLのプレシデントでやはりエンジニアのダニー氏、
そして担当のエンジニアも交えて
現地で話をつめていくことにしました。

ぜひ現地調査に
そちらのエンジニアが来られる時には、
現地スタッフを交えて
カルボガンの校舎を視察できればと、
ベビンも村長も言っています。

最終的な見解がでましたら、
担当者のベビンに教えていただければ幸いです。

費用の足りない分は、
MCLの寄付からは出せませんが
(寄付は使い道が全て決まっていますので)
私が個人で負担いたします。

現地の平和と子どもたちの事を考えますと、
カルボガンの学校建設は重要で、
長年にわたり
何とかしたいと思い続けていますので・・・

いよいよ、最終的な
詰めの段階になってきましたね。
現地の子どもたちの事を考えると、
完成が待ち遠しいです。

完成しましたら、
平和の祈りの祭典をカルボガンで行います。









ミンダナオ子ども図書館が提案し
日本政府のODA
「草の根・人間の安全保障無償資金」で
イスラム自治区に建設の

カルボガン小学校の
最終チェック






カルボガンは、
ARMM(イスラム自治区)のなかでも、
戦闘が多く
最もデリケートと言われていた地域だ。

東南アジア最大と言われている
リグアサン湿原の内部に位置していて
反政府ゲリラの巣窟と名指しされていた。

ミンダナオ子ども図書館(MCL)では、
2000年初期の戦争で
150万の避難民が出て、
3年近く実家に帰れない日々が続いたときから、

医療、読み語り、スカラシップ、
保育所建設支援を通して
こうした最もデリケートな地域の子どもたちも助け
村の人々と繋がりを持ち活動し続けてきた。

今回は、
この地からの強い要望で建設を決めた
小学校の最終チェックをしに向かった。

MCLでは、この地から
親のいない子などを奨学生に採用し
本部にも数人住んで学校に通っている。

冬休みに入るので、
その子もいっしょに舟で村まで送った。
下の男の子がその子。

日本の支援者から送られてきた
ジャケットを着て、
おみやげに、支援者の方々から送られてきた
古着などを持って故郷に。

親はいなくても、
やはりふる里は懐かしの我が家!
ワニの出没する湿原を抜けて、
先端のカルボガン集落に着く。


 







MCLの奨学生も
一緒にふる里へ送りとどけた















ご覧のように、
校舎は床が底上げされている。
毎年数回おそってくる洪水。
そのたびに人々は、避難場所を探し回る。

今回の学校は、
授業を受ける場所であると同時に
洪水のさいの緊急避難場所として
活用できる場にするためだ。

サパカンでの学校のように、
土盛りでは無く、柱で底上げされているのは、
洪水でおそってくる水流を
床下に流して、

家を倒す
水草などから
建造物を転倒崩壊から守るため。






教室の中の
チェック
 











ミンダナオ子ども図書館のスタッフは、
ほぼ2週間に一度現地に行き、
作業の状況と流れを調査してきた。

実は、この地域は、
ODAでは最も難しいと言われている地域で、
多くが、完成しないまま放置されたり、
完成しても、
コミュニティーセンターとして作られたものが、
現地の有力者によって私物化したりしている。

資材の盗難は、日常茶飯事。
MCLでも、経験がある。
MCLでは、今まで2棟の学校を、
ピキット市サイドに建ててきたが、
つくづく、建物や物資の支援の難しさを
感じ続けてきた。

なかでも、今回のカルボガンは、
教育省が建てた学校すら
土台と壁がコンクリートで建てられた後に
屋根も無く、窓も無く、
そのまま現地に放置されている。

それでも、
現地の子どもたちが通う小学校の状態や
ひどさを見る度に放っておけず、

また、現地が反政府地域のなかでも、
度重なる分離派とのリドー(戦闘)で、
取り残されたように
疲弊している様子を見ていたたまれず、

困難な地域の中でも、
和平構築に最も重要な地点として
読み語り、医療、スカラシップや洪水、戦争による
難民救済支援を続けてきた。

今回も、2週間ごとのチェックを継続して
最終チェックを迎えたが
一つ気になっていたのは、
床がスムーズな仕上げをされていない事だった。
以下の写真が、ラフなまま完成とされた教室。












ラフなまま、
完成とされた教室















最終チェックをしに
現地へ




床自身は、ラフのママだったが、
表面の補修が行われ
厚いペンキが塗られていた。





エンジニアからは、
ラフに仕上げたのは、
スムースにしてしまうと滑りやすく、
子どもたちが転倒する可能性があるからだ、
と言う話を聞いていたが、

スタッフとしても、
また現地の校長先生からも
このままでは、あまりにも雑な仕上がりでは無いか、
と言う意見が出た。

実際に代表の妻も私も、
日本で写真を見て、同感だったし、
大使館の担当職員も、同様の感想を送ってきた。

そこで、エンジニアに連絡をすると、
その感想を受けて、
床の仕上げに手を加えて
数日以内に修復が完了すると言う返事が来た。

それで、ミンダナオに戻ったのを機会に
私が訪れて
自分の目で最終チェックをした。
床自身は、ラフのママだったが、
表面の補修が行われ厚いペンキが塗られていた。

むき出しのコンクリートのラフな状態よりも
はるかに良くなってはいたが、
最終的な仕上げを
なぜラフなままにしたのかを、
現地の村長を始めとする村人にたずねると・・・
意外な背景がわかってきた。


教室の床を、ラフのままにして欲しいと、
エンジニアに提案したのは、現地の住民たち、
村長、村人、コミュニティーだった。
理由は、
スムーズな床は滑りやすく、
子どもが転倒してケガをする。

とりわけ、この建物の目的の一つが、
洪水の時の避難場所にも使うこと
である事を考えると、

水や泥の多い湿原地帯では
スムースな床は、転倒の危険があって危ない!
と言うものであった。
ここで行われた議論は、
現地スタッフがFacebookに挙げています。
https://www.facebook.com/
MindanaoChildrensLibraryFoundationInc/?fref=ts


現地で、人々が話すのを聞いて、
私自身はすぐに納得した。
戦争避難民が大量に出て、その救済に行くと
多くの場合、学校内に大量に避難している。

しかし、その学校の教室は、
一般的には
スムースと呼ばれる
仕上げがなされていて、

さらに教育の一環であると思われるのだが、
毎日のように子どもたちが、
ヤシの実の殻を半分に切ったものを
足で滑らしながら磨きをかけている。

しかし、正直に言って、
このような湿原地帯で、
しかも滑りのある泥の地面であるが故に
私自身も、教室に足を踏み入れたとたん、
何度か滑って転倒しそうになった経験を持つ。

それを思いだすと、
最も転倒を避けられるのは、
確かにエンジニアが言うように、
むき出しのコンクリートのラフな床である。

むき出しだと、吸水力もあって滑りにくい。
しかし、上記の写真で見てもわかるように、
いかにも不完全なままに放置された感じがする。

現地の住民の意見と、
MCLと大使館の意見の狭間に立たされて
悩んだエンジニアが、
ダバオから建設会社の担当者を呼んで
最終的に出した結論が、

ラフな床に厚めのペンキを塗ることだった。
ペンキを塗ると、見た目ははるかに良くなる。
ただ、水分は吸収されにくいので、
むき出しの床よりは多少滑りやすい。

しかし、床のデコボコは残っているので、
スムースな床よりははるかに滑らない。
私も、他の建物で、
同様の床が広がっていたのを思いだした。

現地では、
こちらの方が好まれることも、
住民から聞かされた。

ただし、下の写真のように、階段だけは、
子どもたちが滑ることを恐れて、
ペンキは塗らずに、
完全にラフなままに残されていた。


















階段だけは、
子どもたちが滑ることを恐れて、
完全にラフなままに残された。

 



校長先生も、
仕上げになっとく








私自身ここから学んだことは、
やはり現地の住民の視点に立たないと
なかなか深層までは、
理解できないという事。

そして、現地の住民との率直な意見交換が
出来るようになるためには、
現地の人々との壁を取り去った信頼関係が、
長年の交流によって作られていないと
不信感が先に立ってしまうという
自身を交えての反省事項だった。

支援する側とされる側が
同じ目線に立てる場所が
住民との友情
そして、子どもたちへの愛だ。

今回のこの学校は、
この湿原地域に最適な建物のモデルになるだろう。
今後もこうした学校を、
子どもたちのために建てていきたい。








ギネスブックに登録されている
世界最大のワニは、
ミンダナオ出身で、

今僕は、
ここの湿原のワニと
イスラムの少年と少女の物語を絵本にして
来年の4月には、今人舎から、
『サンパギータのくびかざり』の第二弾として
出版される予定です。

まさにこの湿原と学校が舞台で、内容は、
父親が戦争で殺されて、
学校を止めて漁師をしながら
母さんと妹たちを助けている少年と、
隣で学校に行けている幼なじみの少女。

しかし、洪水が起こって家がながされそうになり
勇敢な少年は、水牛にまたがって、
母親たちと、さらに隣で助けを求めている
幼なじみの少女の家族を助け、
濁流の中を必死で避難場所の学校に向かう。

ところが、学校の近くまで来たときに、
巨大がワニが後ろから近づいてきて・・・。

イスラムの子たちの物語、お楽しみに!















ひかりの子幼稚園・
フィシャー幼稚園
寄贈の保育所



去年の秋から暮れにかけて、
三つの保育所を建設しました。

ひかりのこ幼稚園と
フィッシャー幼稚園寄贈のスタンダード保育所は
サンタマリアの山奥の先住民の村に!

北野生涯学習振興会寄贈のスタンダード保育所は、
サンタマリアの海の村に!
大道教本部の保育所は、先住民の村に!
子どもたちは、大喜びです。


























こちらは、
ひかりのこ幼稚園と
フィッシャー幼稚園寄贈の保育所。

サンタマリアの山奥の
先住民族が住んでいる地域
こんな山奥に
こんな沢山の先住民がいることにビックリ!

というのも、元々住んでいた平地が、
政府によって売却され追い出され、
バナナプランテーションになってしまい

山に逃れて
住むしかなくなったから・・・
でも、立派なスタンダード保育所が出来て
大喜び!



日本では、
保育所は子どもを預かるところですが、
こちらでは、
ABCを2時間ほど学ぶところで、
幼稚園は学校に併設、
遠くて通えない村には保育所。

貧しい村は建てられないけど、
政府は幼稚園か保育所をでなければ
小学校に入学できない決まりを作り
貧しい村は、悲鳴を上げている。

MCLは、すでに
70近い保育所を建てたけれども
まだまだ足りません!





北野生涯教育振興会の
寄贈の保育所























こちらは、
北野生涯学習振興会寄贈の保育所
海のそばの浜の村に作った。

元々戦前まで、
日本人が多く移民していた場所で、
敗戦後、米軍によって、
土地が一人の家族にわたされて
85ヘクタールを所有することになったが、

日本人を追い出すことなく、小作となったので
この地の人たちには、
日系人が多いということを、
この日初めて地主からうかがった。

そういえば、
日本人によく似た顔の子たちが多い。
「息子を日本人と結婚させたい!」
としきりにいわれた。
母親がイスラム系で、とても良い方だった。





大道教本部の
寄贈の保育所



















去年の後半、
3っつの保育所を完成した。
下は、大道教本部の寄贈の保育所。

先住民族地域に建てた保育所で
50万で建設。
(現在は、簡易保育所は辞めています)

ぼろぼろの屋根の下で、
細々と保育をしていただけに、
地元の人々も子どもたちも、大喜び。
保育所寄贈に関するサイトは、こちらです。
http://www.edit.ne.jp/~mindanao/
hoikusyosien.html







土曜の夜は
MCLで読み語り








ミンダナオ子ども図書館に帰ると、
子ども達は大喜び!

これは、土曜日の夜、
映画を見る前に楽しむ読み語り。

今回は、長野ヒデ子さんから
送られてきた絵本と
うさこちゃんを読みました。

読む前に、歌を歌ったりして
雰囲気を盛り上げるのがとっても上手!
とにかく、皆で、楽しむこと!!!
愛と友情が、MCLのポリシーです。




ミンダナオ子ども図書館の
出発


いまでこそ、
ミンダナオ子ども図書館の読み語り活動は、
マニラからおとずれた
フィリピン政府の社会福祉の専門家からも、

 「孤児や崩壊家庭といった
悲惨な状況からきた子たちが、
ほかの子どもたちのまえにでて
読み語りをして喜ばれ、拍手をうけている。

彼らはこうしたボランティア活動をとおして、
すごい自信と前向きな人生観をもてるでしょう。
すばらしい活動ですね。」
などといって評価されるけれども、

初期のころには、周囲の人々から、
孤児施設運営の常識をこえてしまった活動
とみなされても、
しかたがなかったのかもしれない。

そんなわけで、某孤児施設で
読み語り活動をはじめたのだけれども、
ときがくると、むしろ施設からはなれて
独立して活動をするほうがよいのではないか、
とすすめられた。

そのけっか、某孤児施設をはなれて
市内のアパートに移り住むことになったけれど、
そのときに、エープリルリンとレイセルのほかに、
ジェクジェクという名の
高校生の若者たちがついてきた。

もっとついて来たい子たちもいたのだけれど、
そのころぼくは無一文で、
やしなっていく自信がもてなかった。

アパートでの生活は、
質素でもそれなりに楽しかった。

独立したおかげで、
イスラム地域にも自由にいけたし、
現地のカトリックの人々たちも、
背後から理解して助けてくれた。

経済的には厳しかったけれども、
現地での生活費が
日本の10分の1ぐらいだったこともあり、
若者たちを学校にいかせながらも
何とか生活できたのだ。

若者たちが学校にいったあと、
ぼくのやくわりは洗濯と便所掃除だったし、
仕事としてできるのは、
運転手と絵本のはいった箱を運ぶことぐらいだ。

読み語り活動も医療活動も、
じっさいに出来るのは
現地の若者たちで、
ぼくはもっぱら下働きだった。




























MCLのなかでの
読み語り映像





上の写真か、ここをクリックしてビデオ映像に!

こうして、ミンダナオ子ども図書館で
読み語りをして、楽しんで。
やがて、皆で車に乗って、山の村、
海の村々にいって読み語りをします。

誰に聞いても、
ミンダナオ子ども図書館に住んでいることの
最高の楽しみが、
なんと読み語りに行く事。

親の無い子や、
戦争の犠牲となった子たちだけれど、
読み語りで、
生きる力を回復していく!


 長野ヒデ子さんの絵本
「おかあさんが、おかあさんになった日」
の読み語りを
MCLの子ども達が楽しんでいます。

長野さん、
絵本を送ってくださってありがとう。
いつか、子ども達に
会いにいらしてくださいね。





上の写真か、ここをクリックしてビデオ映像に!


 「うさこちゃん」の読み語りの場面も載せました。
絵本の語りの方法など、
私も学んだことがないので、
子ども達の自由な表現にまかせています。

形にとらわれず、
心から自由に表現して、
皆で楽しむのが良いような気がします。

「読み聞かせは、
こうしなければいけない」などと、
一度も言ったことありません。

それよりも、「手をつなごう」(彩流社)
http://www.amazon.co.jp/…/obi…/
ASIN/4779122236/hanmotocom-22

でも書きましたが、
彼らの表現力から、
学ぶことの方がよっぽど多い日々でした。

語りの生きている世界、
社会はすごいですね!
彼らの持っている世界に出会って、
しばらく絵本がつまらなく
見えた時期すらありました。

でも、
子ども達は絵本が大好き。
それで救われました。
やっぱり絵本も悪くない・・・










ミンダナオ子ども図書館は、
図書館という名前がついていても、
図書館の建物があるわけではなく
(いつか建てたいとはおもっているけど)、

1・5ヘク タールの敷地のなかに
3棟の長屋が建ち、
イスラム教徒とキリスト教徒と
先住民の子どもたち約80人が、
なかよくいっしょに暮らしている場所だ。

絵本や本は、どこにあるかというと、
奥の第三棟の二階の、
木造のポーチにしつらえた
本棚にならべられている。

学校からかえってくると、
子どもたちは
ポーチの板の床にすわって、
思い思いに本棚から絵本をとりだして、

ときにはおおはしゃぎしながら、
ときにはいっしょに唄いながら、
みんなで絵本を見たり、
お話を語りあったりして楽しんでいる。

この土地を
手に入れたときは、
ここはゴムの木の農場だった。

さいしょに
青いトタン屋根の母屋をたてて、
そのときは一階のコンクリート壁の部屋のなかに
図書室をつくった。

本棚には、きちっと貸出カードをつけた
本をならべて司書もおいた。

けれども図書室だと、
なんとなく暗いイメージになって、
よほど本好きな子ども以外はよりつかなかった。

絵本があっても、
子どもたちが手にとらないのでは
意味がないので、
思いきって図書室をやめて、

とりわけおおぜいの
子どもたちの宿舎になっている、
奥のかやぶき長屋の
二階のポーチに本棚をつくり、
すべての絵本や本をそこにうつした。

それが大成功!
子どもたちは、本棚から
いつでも自由に絵本をとりだし、
見せあって語りあったり、
ときには絵本をみながら歌ったりと、

ポーチがコミュニケーションの
楽しい空間になった。

時には絵本を
ちゃん本棚にともどさなかったり、
いたずらがきがしてあったり
することもあるけれども、

家庭ではふつうに起こることで、
しだいに絵本のあつかい方も学んでいくし、
本たちも孤独にさびしげに
図書室にならんでいるよりも、
よっぽどうれしそうに見えてくる。

ポーチの手すりからは、
庭で遊んでいる仲間たちの姿も見えるし、
時には小鳥たちもやってきて、
屋根裏に巣をつくって雛を育てたりしている。


4月に書店にならぶ、
拙著『手をつなごうよ』(彩流社)から
アマゾンで予約できますよ!
http://www.amazon.co.jp/…/obi…/
ASIN/4779122236/hanmotocom-22













誕生日の
お祝いの歌と祝辞



MCLの子ども達が
ミンダナオから贈ってくれた
誕生日のお祝いの歌と祝辞
ハラナです!



子ども達のお祝いの歌と
祝辞を聞かれる方は
以下の画像かマークをクリックしてくださいね!




ハラナの映像へgo!


MCLの子ども達が歌ってくれた、
誕生日の歌です。
歌と、パパ友への
祝福のメッセージが聞こえてきますよ。

この子たちが、孤児や片親、
崩壊家庭や戦争で
親を殺された子だとは思えない。
その明るさと生きる力をみならいたいな・・・

ミンダナオ子ども図書館の子ども達が、
誕生日のお祝いの歌と、
お祝いの言葉を贈ってくれました。
本当に良い子たち。

胸が熱くなって、妻と娘たちと
「早くMCLに帰りたいなあ」
でも、日本でこの子たちのために、
頑張らなくっちゃ!

I love you!





かつての奨学生からのメールを
匿名で掲載しました。



Happy Birthday, Papa Tomo!
Though we have not seen each other for a long time,
I've been praying for you and your family a good health,
safety and happiness as you continue your service to the people of Mindanao.
Thank you for being a Father to us and the rest of the children in MCL.
I am keeping you and will always be in my heart.
Being my father,
I do keep asking forgiveness for being a prodigal daughter to you.
May God continue to bless you with more years as you embrace
the wounded and healed by your helping hands.
I love you, Papa Tomo!
Daghang Salamat sa tanan.




戦争について
思ったこと










ミンダナオは、今のところ
予想以上に平和に動いていて
驚いています。

五月の総選挙が山場でしょうが・・・。
和平交渉が継続されれば
イスラム反政府側も
平和への希望を持てるでしょう。

ただ、内部は分裂の可能性も否定できません。
しかし、現地の一般の人々は
40年も続いている戦争に
飽き飽きしているというのが、
本音だと思います。

ただし、本当に平和になるか否かは
安易に言えません。
2008年和平交渉の
サイン直前に崩壊して戦争が勃発、

80万の避難民が出て
救済に向かった経験から、
最後まで軽信しないようにしています・・・。

平和がミンダナオから
世界に広がっていくと良いですね。

私は、ときどきスタッフに話します。
「ぼくは、いつ誘拐や殺害に
会うかわからない外国人だ。

しかし、もし誘拐グループに囲まれても、
決して抵抗してはならない。
反撃してもならない。
ぼくを置いて、逃げなさい。
ぼくは、彼らと一緒に行くから。

決して身代金を、
一文たりとも払ってはならない。
浄罪は、ぼくのためではなく、
親が殺されたり、
いない子どもたちのためだから。」

私は、右でも左でもなく、
政府側でも反政府側でもありません。
神は愛であり、
全ての人を愛していると思っています。

ただ、戦争だけは肯定できない。
武器を持つな、
剣を持つものは剣で滅びる。
聖書イエスの言葉。

MCLには、父親が政府軍側の民兵で、
戦闘で殺された子も奨学生にいます。
MCLは、非政治で、子どもたちへの
愛のみで活動します。





















今回、天皇陛下のフィリピン訪問
過去の戦争にも触れて
平和への大きな貢献だったと思います。
私は天皇制反対論者でもなく、
賛成論者でもありません。
大変なお生まれでご苦労様です。

このお二人とは、
エジンバラ公が来られたとき、
編集者時代にかつて
吉田遠志さんの原画展で、
ご覧になっているときに
気さくに立ち話をした思い出があります。

ボンペレスさんと私が書いた絵本
「サンパギータのくびかざり」も
読んでいらっしゃいますよ。
ボンペレスさん!

結構MCLのこと、
知っていらっしゃる。
戦争に利用されなければ
良いのだけれど。

ミンダナオ子ども図書館の活動は、
偶然笑顔を失った子どもを見たからで
特別なことをしている気持ちはないのです。
人間としてもたいしたことないし・・・。

ただ、怖いと思っても、
そこに子どもたちがいるとおもうと、
放っておけな くなって。
行かなくっちゃ!
命の二つや三つ、あげてもいい!
と思ってしまう。
二つ三つあればの話ですが・・・ハハハ。
子どもって可愛いですね。




思い出から

2001年、ミンダナオの母なる大河、
プランギをわたったとたん、
風景はいっぺんした。

「なんだこれは?」
今までつづいてきた、
平和な田園風景のあちらこちらに、
避難生活をしている、
避難民たちの姿があらわれだしたのだ。

ピキットにむかって走る車のりょうがわ、
国道ぞいのわずかな空き地に、
着の身着のままの姿で生活をしている。

彼らのすんでいる場所は、
避難小屋などとはとても
よべないようなしろものだった。

1畳か、良くて3畳半ぐらいの
スペースにゴザをしき、
どこからとってきたかわからない
木の枝を四方にたてて柱にして、
そのうえに青いビニールシートを
かむせて屋根がわりにしている。

ビニールシートを買うことができる
家族はよいほうで、
おおくの家族が、ヤシの葉をかさねて
おいたしたで生活している。

車でピキットにむかうにつれて、
その数はまたたくまに増えだした。

少し小高い国道を
はしりながら見わたすと、
道ぞいだけではなく、
りょうがわの牧草地のような農地にも
避難民の仮小屋はひろがっている。

しかもその数がはんぱではない!
見わたすかぎり地平線まで、
避難民なのだ!

「避難民キャンプ」というのは、
キャンプという言葉から想像していたように、
戦争で避難してきた人々を、
空き地なりにテントをはって
収容する施設であり、

そこにいけば、医療や食料も
用意されている場所であると
おもいこんでいただけに、
初めて見る避難者の状況に
強ショックをうけた。

たしかに場所によっては、
特定の空き地などに
集められてはいるものの、

そのほとんどは国道ぞいどころか
農地や川ぞいにいたる
あらゆる場所に、
雨よけのシートをはって生活しているのだ。

そのときは、なぜこのようなことが
起こっているのか、
見当もつかなかった。

あとでわかったことだが、
2000年にエストラーダ大統領のもと、
フィリピン軍とアメリカ軍の
合同演習(バリカタン)があったのだ。

しかし、演習というのは名ばかりで、
事実じょうの実戦がおこされて、
100万人いじょうの人々が避難民となった。

さらに、これらの避難民が
まだ家にかえらずに、
苦しい避難生活を
つづけているにもかかわらず、

二〇〇一年に、フィリピンの
アロヨ大統領とアメリカの
ブッシュ大統領の主導による
「テロリスト掃討作戦」がはじまった。

このけっか、避難民は三年近く
避難生活をしいられたのだ。
ぼくが、この地につれて
いかれたのは2001年の
はじめのころのことだから、
このときの避難民を見たことになる。


避難民キャンプというものも初めてだったが、
雨がふればそこらじゅうから
水がもれてくる、
タタミ二畳ぶんもないような、
椰子の葉やビニールシートの屋根のしたに、

まるでちじこまるようにして二年いじょう、
家族が生活している姿を
みるのはあわれだった。

しかも、その数たるやはんぱではない。
そのおおくは町からはなれた
平地や丘陵地帯で、
トウモロコシをちゅうしんに
ほそぼそと畑をたがしている農民や、
湿原地帯の漁民たちだった。

戦争が勃発してまもないころは、
彼らは、農業倉庫や
政府機関によって指定された
難民キャンプに収容される。
それはモスクのそばだったり、
学校のそばだったりする。

しかし行政も、
毎日のようにあふれでてくる
避難民たちに対応しきれず、
その数があまりにもとほうもないので、
たちまち収容場所からはみだして、

道路わきから畑地にも、
乞食小屋よりもさらにひどいものが
立ちならぶようになっていく。

避難民たちは、
ほんとうに骨の髄から
疲れきったという顔をしている。

何しろ数年おきに
同じことがくり返されるし、
水も不自由でトイレもなく、
食料もない暮らしが、
半年から一年以上も続くのだから。

食料といえば、日に二度の
トウモロコシを薄くとかしたようなお粥を
食べられれば良いほうで、

ときには何日も食べるものがなく、
おなかが痛くなってきて、
しまいには栄養失調になって
体が弱っていく。

それにくわえて不衛生な環境で
病気になり、薬もなく、
たとえあっても買えるだけの
お金もないので、
キャンプで死んでいく大人や子どもも多い。

案内をしてくだった女性がいった。
「あなたは、ナマズをスープにした料理、食べますか?」
ぼくは、こたえた。
「ええ、大好きですよ。
ここは、河も湿原もちかいから、
おいしい川魚料理がたべられそうですね。」

「ええ、雷魚も鯉もおいしいですよ。
でもねえ、人の味がするんです。」
「ええ?人の味?」
おどろいて絶句するぼくにむかって、
女性はこたえた。

「あのプランギ河をコタバトから海軍が、
戦闘用のボートでのぼってきて、
いっせい射撃をしながら、
このさきのランディングピースと
名づけられている場所に上陸したとき、

おおぜいの人々が
にげるひまなく殺されて、
その死体を埋めるひまなく
川にながしたんです。

このあたりの魚は、
その死体をたべてそだっているから、
人の味がするといわれている。」
ぼくは、答えにきゅうしてだまってしまった。

まわりをみると大人たちも
疲れきった顔をしているけれども、
子どもたちの疲労困憊ぶりはさらにひどい。

父さんも母さんも絶望的に
機嫌が悪いし、ひもじいし、
泣きはらした顔がそのまま
こおってしまったような表情をして、

ぼくが手をふっても、
ほとんど表情がなく
笑おうともしない。


げんちで活動しはじめてからしったことだが、
ミンダナオ紛争が、
イスラム自治区の
独立闘争としてはじまったのが1970年。

そのご3年おきぐらいに大きな戦争がおこり、
そのたびに住民たちは、避難民として
このような生活をよぎなく
されてきたのだった。

そのお父さんは、
こうぼくにかたってくれた。
「わたしは、生まれてからこのかた、
子ども時代から青年時代、
そして結婚して子どもが生まれてからも、
数年おきにこうした
避難生活をさせられてきたのです。

戦争になるたびに、
母親に手をひかれてにげました。
ちかくで、おおきな爆発がして、
世界がひっくりかえったような気がしました。

母さんはないています。
父さんは、牛車に、
なけなしの服と家財道具をのせて、
ビニールシートをかけて、
わたしたちをのせて家を
あとにして逃げだします。

家畜はおいたまま、
帰ってみると
なにもかもなくなっているんです。

国道近くまでくると、ちいさな空き地に、
ヤシの葉っぱを地面にしいて、
おおぜいのみしらぬ人たちといっしょに、
ときには一年以上も地面のうえでねる生活。

ねていると、
とつぜん爆弾が、ドカーーーン!
銃声が、パンパン、パパンパン!
また逃げなければならない。

じゅうぶんな着がえもないし、
体はいつもよごれたまんま。

しかも空腹で、食べものもないから、
しだいに体が弱っていき、
たくさんの子どもたちが、
病気になって死んでいきました。

とくに1990年代の戦闘と
難民生活はひどかった。」

いま目のまえで、まのあたりにしている
状況でさえひどいのに、
もっとひどいときがあったという事実に、
ぼくは心を痛めた。

その方の小さな娘さんは、
ほおに大きなこぶができていて、
後にぼくたちは、
その切開手術をしてあげた関係で、
いまも親しくおつきあい
させていただいている。


たしかに、周囲の山々からは、
散発的に大砲の音がドドーン、
ドドーンときこえてくる。

子どもたちも、大人たちも、
そうした砲声にはなれきっているのか、
避難シートにすわったまま、
大砲の音がしても、
とくべつな反応をしめすこともなく
ぼんやりとしている。

バリエス司教は、案内の女性にたずねた。
「ピキット教会のライソン神父は、
どうしていますか?」
女性は、三つ又に編んで
うしろにゆわえた髪を、
左手でたくしあげながらいった。

「いま、教会なかまで、
市のソーシャルワーカでもある
グレイスさんといっしょに、
戦闘地のなかをかけまわっていますよ。
村に残された子どもや
女性を助けるために!

(このグレースさんは、
ミンダナオ子ども図書館の
役員の一人になられた方。)」

「村に残された子どもや女性って!
なぜ難民キャンプに
収容しないんですか?」
おつきの者が、おどろいてたずねた。

「いちぶの村は、
反政府ゲリラよりだという理由で、
町の難民キャンプにも
入れさせてもらえないのです。」

「それは、ひどい!」
「それで、教会の神父や教会員が、
命がけで救済にむかっているというのですね。」
「ええ、そうです。
時には、爆弾の落ちるなかを!」

ぼくには、おどろくべき話だった。
イスラム地域で戦争がおこっている
という話を聞いたときには、
てっきりクリスチャンとイスラム教徒が
反目しているのだとおもっていた。

ぼくは、その女性にたずねた。
「つまり、カトリックの信者が、
反政府組織とよばれている
イスラムの人々を、
命がけで救済しているというのですか?」

「そうです。
隣人をほうっておけないでしょう。」
 「今、おこっているのは、
宗教戦争ではないのですね。」

困惑したような顔をしている女性をみて、
バリエス司教がいった。
「現地では、クリスチャンもイスラム教徒も、
一部をのぞいてひかくてき仲良く
やっているんですよ。

とくに、ここからコタバトに
いたるイスラム地域で、
戦前からながく活動してきた
オブレート修道会はね。」

案内の女性が言葉をついだ。
「第二次世界大戦中に、
日本軍がここに攻めてきたときに、
イスラムの人々をかくまって助けたのも、
オブレート会の神父たちだったんです。

ピキットの街なかには、
日本軍が駐留していた
スペイン時代の要塞跡があります。

地下にはいくつもの防空壕があって、
遺骨や遺品がのこっているようだけれども、
何しろここがきょくどの危険地域なので、
いまだに日本政府も調査団を
派遣できないでいるのです。

まさにここが、
日本軍と米軍の
激戦地だったのです。

ですから、いまだに湿原地帯には、
当時逃げた日本兵の末裔がいますよ。
イスラム教徒になっていますがね。」

ぼくの父方の叔父も、
ミンダナオではないけれども、
レイテ島で戦死している。

叔父は、海軍の医師で、
スペイン語もたんのうで踊りもうまく、
ずいぶん現地でモテたらしい。
遺体もなにも見つかっていない。

これはあとになって、
ぼくたちが現地で活動しはじめて、
おこったことだけれども、

病気を治してあげたイスラム教徒の
子どものお父さんが、
ぼくの耳元で、
「自分の祖父は日本兵だった」、
と語ってくれたことがあった。

どうようのことは、山岳地域にすむ
先住民のマノボ族の人々からも
しばしば聞いた。
さすがにショックだった。

日本の隣の国で、
大量の避難民がでるような
戦争がおこっているなどとは、
想像もできないことだったし、

それがすでに40年間、
3年から5年おきに
大きな戦闘をくりかえして
現在にいたっていたなんて!

しかもそのあいだ多くの人々が殺され、
国連のしらべでは、
累計では世界でも最大規模の
避難民がでていたなんて!

宗教対立ではないとしたなら、
いったい何が原因なのだろう?

青いビニールシートのしたで、
ぼうぜんとしゃがんでいる
避難民たちを目のまえにしていると、

世界でおこっていることにたいする、
自分の無知をしらされると同時に、
さまざまな疑問が、
翼をもった妖怪のように頭の
なかをかけめぐった。

しかし、避難民のとりわけ
子どもたちの顔をみると、
「とにかく、まずは、
何とかしてあげなければならない!」
という気持ちのほうが、
疑問をおしのけてわいてくるのだった。






























































兵士に応募するのも
貧しい若者たちが多い。

演習という名の実戦に配備され
多くの若者たちが
命を失っていく。
誰のために?































現地で15年
次第にわかってきた


現地で15年
次第にわかってきたのだけれど、
結局戦争の理由は、
宗教対立と言うよりは、

東南アジア最大の湿原、
リグアサン湿原に眠る、
膨大な量の石油と天然ガスの
資源の利権を、
国際的にどこが取るかという事だった。

ある村長さんが言った
言葉が忘れられない。
「世界が、ここに関心さえ持ってくれなければ、
ここは平和なんだけどなあ。」

****************

戦争がおこると避難民たちは、
町ちかくの国道ぞいに避難して
雨よけもなく寝ているので、

ミンダナオ子ども図書館では、
戦争がおこるたびに
ビニールシートを配布したり、
炊きだしや医療をおこなってきた。

戦争で親を殺された子どもたちも、
かなりたくさん奨学生にしている。

ある若者は、戦争で目の前で
両親が殺された。
そして、殺された両親のもとに
駆けよったときに、
本人も撃たれて腹部に深い傷をおった。

彼はその後、
ミンダナオ子ども図書館に住み、
池上彰さんの番組で、
パックンがインタビューをしたけれども、
うつむきながら当時のようすを
ぼくに語ってくれた。

戦争がおこされる理由は、最初は、
イスラム教徒とキリスト教徒が
対立しているかのように思っていたし、
そのように報道される。

けれども次第にわかってきたのは、
戦闘の最大の原因は、
リグアサン湿原にねむっている、
ぼうだいな石油と天然ガス資源の
国際的な利権をめぐる争いだということだ。

戦争は勃発するのではなく、
じつに巧妙に意図的に、
第三者の手によって
つくられているのだという。

現地でも体験したけれども、
戦争が勃発する前に起こるのが
誘拐と殺害、
そして爆弾事件だ。

新聞やテレビで大々的に報道され、
戦争気分が高められる。
可哀想なのは、
罪もない住民や子どもたち。


当時、UNHCRの方から聞いたところでは、
ミンダナオが避難民の累計は世界一。

難民は海外に移動する人々。
まだお金が多少でもある人々で、
避難民は現地で
避難生活をする貧しい人々。

そのたびに救済活動をしてきました。
日本では、
隣国であるにもかかわらず、
ほとんど報道されなかった。なぜだろう。


2008年の戦闘の時、
軍の人が空を指していった。
「ほら、あそこに飛行機が
ふわふわ浮いているだろう。
無人偵察爆撃機だよ。」

すると突然、そこから爆弾が
発射されて、ドドーーーン!

あまりにも毎年のように、
小さな戦闘も含めて救済してきたので、
日本に帰って天空を自衛隊の
ヘリコプターが飛んでも、
髪の毛が総毛立ち、

「どこで戦闘が起 こっているのか!
子どもたちを助けに行かなくっちゃ!」
と思い、周囲を見ると、
「ああここは、
憲法9条の生きている日本だった!」
と思う始末です。

2000年から2013年頃まで、
何度戦闘があり、
避難民救済に駆けつけたことか。

これらは、
2008年の80万の
避難民が出て救済に言った時、
またその後の戦闘の子どもたちです。

正直に言って、多くのクリスチャンが、
武器を持って戦うことを正義とし、
良しとしているのが信じられない。
カトリック教会では、
中世に十字軍を送り出したことを、
過ちであったとして謝罪しています。

たとえ戦う相手がイスラム教徒でも、
ぼくは、一平凡なキリスト教徒として
戦争は認められない。

キリスト教徒が空爆で、
イスラムの子どもたちを爆撃するなら、
ぼくはイスラムの子どもたちを
命がけでも守りたい。

ミンダナオでしてきたように。
神は愛であり、全ての人を
愛していると思っているから。
もちろん、イスラムの人々も仏教徒も。

高校三年生の時、
絶対に武器は持たない、
殺すなら殺されることを選ぼう、
と決めました。

イエスのように。
人間であるからには、
罪も犯すこともあるでしょう。
しかし、神は愛を持って罪人を許し救いたもう。

「どんな強い信仰を持っていても、
どんな強い希望を胸に抱いていても、
愛がなければ無に等しい。」聖書

お金や物、地位や名誉、国家や宗教も
繁栄への希望も
全ての子どもたちへの愛がなければ
無に等しい????
































Mindanao Children's Library Foundation, Inc.
MISSION STATEMENT
ミンダナオ子ども図書館
のミッション






愛を必要としている不幸な子どもたちに仕え、
互いに愛し合うこと。
悲しみの中にある子たちに喜びを、
傷ついた心に癒やしをあたえ、
互いの文化を分かちあい、
一つの家族として生きること、
そして夢をかなえて平和な世界を作ること。




ミンダナオ子ども図書館は、
現在は北コタバト州の認定NGOですが、
政府の要請により、
フィリピン政府の直轄のNGOとして認定を進めています。

理由は、ダバオ地域の海辺の下宿小屋や
イスラム自治区など、
活動範囲が広範囲にひろがっているのと、
フィリピン政府からも評価されているからです。

先日も、マニラから福祉局の役員が
調査視察に来られて、
MCLを見て感動して帰られました。

基準も満たして、
近くフィリピン政府直轄のNGOとして
認定を受けると思います。

ダバオでNGOの会合が開かれると、
妻のエープリルリンが講演を頼まれたりしています。
また、大学生などもOJT(郊外学習体験授業)として、
研修生を派遣して来て、
半年ぐらい実習をする場所になってきています。





ミンダナオ子ども図書館
の理事





ダニー・イサカ氏

プレシデント

エンジニア(設計技師)で、庁舎などのビルも建ている
MCLの全ての建物も政府の基準を満たして
災害時や構造の基準などを満たして
氏の設計で建てられています
カトリック教会のカーバックも勤めている。





マリセリノ・ガボン牧師

バイス・プレシデント

マノボ族で教会の牧師アライアンス派
マノボ族の儀式にも通じていて
首長を勤めている。
奥様が日系人。
山岳地域の先住民の人々とも深く繋がり
広く知られている。






メリー・グレイスさん

セクレタリー

イスラム地域のピキット市福祉局所長補佐
カトリック教会のソーシャルワーカーも勤める。
イスラム婦人たちと活動し戦争が起こると
爆弾の落ちる中を子どもたちを救済。
多くのNGOや政府からも高く評価されている。





サムソディン氏

経理

イスラム地域のピキット市の社会福祉局
グレイスさんと協働しているイスラム教徒。
イスラム自治区にも通じて
コマンダーとも親しい。
パックンが訪れたときには、
いっしょに北コタバト州の
MILFの最高司令官のお宅にも行きました。






エラ・セスパニヨーラさん

メンバー

マノボ族で、フィリピンの先住民族協会の代表
ワシントンにも招待され日本とも関係が深く、
那須のアジア学院に留学
有機農法に詳しく、
ご主人は、
その時に知り合ったアルゼンチンの方。




増田和彦氏の本が
出版された





文化人類学者でミンダナオに来られ、
ミンダナオ子ども図書館でも全面的に
ご協力させていただいていた、
増田和彦氏の本が出版された。

数年にわたる実地調査に基づく、
本格的な研究書だけれども、
しばしば
ミンダナオ子ども図書館にも触れられ、

特に第九章の2節で、
「ミンダナオ子ども図書館の活動」について
専門分野から書かれている。

定価は6000円だけれども、
ミンダナオ子ども図書館の支援者の方は、
5000円に割り引きとのこと。
申し込みは、
FAX 043-441-3014 和算研究所
メール masudak2004@yahoo.co.jp

貴重な数々の写真もあり、
ミンダナオの先住民族を知るための貴重な本。









ドンボスコ社から月刊誌、
『カトリック生活』
三月号が出ました



表紙の子どもたちは、
ミンダナオの子どもたち。
2~4ページは、カラー写真付きで、
私が原稿を書きました。
読んでいただければ幸いです。










カトリック新聞や


朝日小学生新聞


熊本日々新聞や


キリスト新聞で
取り上げられました

講演会、家庭集会など、謝礼に関係なくうかがいます。
よろしくお願いいたします。







『手をつなごうよ』
が出来ましたよ!




ミンダナオ子ども図書館の
創立について書いた本
『手をつなごうよ』(彩流社)
が出来ましたよ!
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この本に限らず、著者印税は全て、
ミンダナオ子ども図書館に寄付されます
全ての子ども達が、僕も含めて一つの家族!






ミンダナオ子ども図書館を設立した経緯を、
ヤングアダルト向けに読みやすく書いた本
『手をつなごうよ』(彩流社)が
出版されましたよ!
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ミンダナオに足をふみこんで15年。
ミンダナオの子どものことしか
考えずにすごしてきた
日々でもある。

しかし、近年になって日本からの訪問者、
とりわけ若者たちを
受け入れるようになってから、
日本のようす、
とくに若者たちのことが気になってきた。

この本の執筆は、
そういった気持ちが背中をおしている。
(はじめにより)

第一章:
ミンダナオ子ども図書館の子どもたち
第二章:
ミンダナオ島ってどんなところ?
第三章:
ぼくが図書館をはじめたきっかけ
第四章:
いざ、ミンダナオ子ども図書館の開設
第五章:
生きる力ってなんだろう

今回の本では、
ミンダナオ子ども図書館の創設と出発、
戦争やこどもたちの様子、
理念について書いています。

次作も、平和構築について、
さらに先住民の状況と
文化についても執筆予定。
楽しみにして下さいね。

本は、アマゾンの
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小学校高学年から大人まで、
読めると思いますよ。
感想をお知らせ下されば幸いです。

内容紹介:内容紹介

絵本で子どもたちに 笑顔を!
15年前、フィリピンの紛争地域に
「子ども図書館」の一粒の種がまかれた。

その芽は着実に成長し、
社会不安と貧困で
笑顔が消えていた子どもたちに、
強い力をあたえ続けている。
そして、これからもかならず。

肥沃で鉱物資源も豊富、
漁場にもめぐまれている
フィリピンのミンダナオ島……。

だがこの島では、
宗教対立や民族対立などにより、
この40年間、紛争が絶えたことがなかった。
ひどい貧困状態と社会不安のなか、
子どもたちからは笑顔が消えていた。

紛争で親を亡くした 子どもも多い。
なかには銃を手にする子どももいた。
いわゆる少年兵だ。

2000年、ぼくがこの島を訪れたとき、
苦境にあえぐ子どもたちの
現実に直面して、
自分にできることはないだろうかと考えた。

いろいろ思い悩んだすえに考えたことが、
絵本の読み聞かせだった。
そして、 少しでも多くの子どもたちに
絵本の世界を知ってもらいたい
との思いで考えたのが、
図書館をつくることだった。

この本は、日本にいちばん近い
イスラム紛争地域といわれるミンダナオ島で、
ぼくがどのようにして、
多くの人たちの協力を得て
「ミンダナオ子ども図書館」をつくり、

絵本の力で子どもたちの
笑顔を取りもどしたのか、
その軌跡と現状、
これからについて記したものである。

その背景にある地域の状況や、
ぼく個人についても
ふれてみることにする。
(「はじめに」)より

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この本に限らず、著者印税は全て、
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全ての子ども達が、
僕も含めて一つの家族!













『手をつなごうよ』(彩流社)
執筆動機


今回の作品『手をつなごうよ』(彩流社)
副題「フィリピン・ミンダナオ子ども図書館・
日本にいちばん近いイスラム紛争地域での活動」は、
紛争地域での私(文芸家協会会員)の
15年間の実体験をまとめたものです。

出発当時、無一文だった私が、
イスラム地域に連れて行かれ、
その地のイスラムの子ども達の笑顔のない悲惨さを目撃。
あまりのひどさから読み聞かせ活動を考えつきました。

その後、現地の若者たちが法人資格をとり、
日本で言えば高校生ぐらいの若者の力で
立ちあがっていったのが、
フィリピンの非営利現地法人ミンダナオ子ども図書館でした。

その後、2006年から、日本も和平交渉に参加。
IMT国際停戦監視団でもなかなか入れなかった、
イスラムゲリラMILFの湿原地帯にも同行し、
4棟の小学校建設にも協力。

読み聞かせ活動を中心に、スカラシップ
(現在600名で、イスラム教徒、先住民、クリスチャン。
孤児や崩壊家庭の子たち)
医療(年間100名ほど、薬から手術まで)、
保育所建設、植林をし、和平に貢献。

現在は本部には、
現地においておけない孤児たちが
60人あまり住み込み、
衣食住をいっしょにしています。

今回、その実体験を青少年向きに書いた理由は、
第一に日本の若者たちが訪れるようになって、
日本の若者たちのいわば生きがいが見つからず、
精神的に引きこもり、
自殺など追い詰められた状態が見えてきたことです。

ミンダナオの青少年は、
いろいろな問題を抱えているものの、
自殺や引きこもりはほとんどありません。
特に、貧しい山岳部の先住民族やイスラム、クリスチャンのなかにも、
友情と愛で互いに助けあう、コミュニティーが生きているのです。

日本の若者たちが、ミンダナオに来て、子ども達に囲まれ泣き。
数日たつと生きる喜びと力を得ていく。
その姿を見て、ミンダナオでの体験。
日本人がたった一人でも、現地の人々と
こうしたNGO活動を作っていけるという喜びを伝えて、
青少年に希望を送りたかったことが、執筆の根底にあります。

第二に、現地から見ると、
日本自体がアジアのなかで引きこもっているような感じがして、
本当の国際化と何か、「上から目線」を破棄して、
どういう気持ちで現地の人々の中に
溶け込んでいったら良いかなど、

また報道で流されるイスラムと現地の差異、
開発によって追われる先住民の状況などを、
青少年にもわかる言葉で語り、
今後の明るい日本の未来を
考えてもらおうと思って作品を書きました。

 よろしくお願いいたします。
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買っていただくだけで、支援になります。

















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熊本で
講演会が決まりました



先日も、福岡で、熊本地震の募金活動の講演会を
開いて帰ってきたばかりですが、
こんどは地震のあった熊本で、
予定通り講演会を開くことになりました。

すでに、震災の前に、
熊本子どもの本研究会で企画されていた、今回の講演会。

震災のために延期と思いきや、
現地の方々の情熱で
予定通り実行されることになりました。
震災に負けない素晴らしい情熱は、
驚き以外の何ものでもありません!

テーマは、
「ミンダナオ子ども図書館」を通して、日本と世界を考える。
「ミンダナオ子ども図書館」の活動を通して、
日本の今を考えます・・・

現地で多きときには80~120万の戦争避難民を、
3、4年おきにミンダナオで見て、
MCLの子供たちと救済してきた私としては、
震災の避難民、
特に子供たちの心が気になっていました。

避難民をくり返し体験している、
ミンダナオの子供たちの事にも触れて、
これからの世界を考えてみたいと思います。
可能であれば、数日滞在して、
ミンダナオの戦争避難民の子供たちの前で行っているように、
読み語りを少ししてみたいと思います。

来年の5月には、MCLの子供たちが日本に来て、
イスラム、先住民、移民系クリスチャンの
踊りや歌を披露する予定ですが、
熊本にも行きたいと思っていました。

今回の講演は、
日本の子どもたちと
ミンダナオの子どもたちを結びつけるための、
架け橋になれればと思います。







写真は、戦争避難民を
私たちが救済しに行っているところの写真です。
何度、避難民救済をしてきたことか!!!!

以前にミンダナオに来られた
大分の首藤さまから、
熊本地震の体験に関して、
以下のメールをいただきました。

こんにちは
大分県由布市庄内に住む首藤智子です。
今回の熊本、大分地震のことを心配してくださり
ありがとうございます。

また、早速大分に足を運んでくださったとのこと
そのお気持ちが嬉しく、
心が励まされました大分では観光の名所、
湯布院に大きな被害が出ましたが、
その隣町の庄内でも局地的に被害がでました。

私の住む畑田地区は
その局地的な地域の一つで
あちこち家の屋根瓦が落ち、
梅雨を前に今もブルーシートで覆われた家々が
点在しています。

我が家も屋根の被害の他に、
壁にヒビが入ったのか
部屋のあちこちに亀裂が入り、食器も割れました。
何より気になっているのは、
家と地面の間に隙間ができたことです。

余震が続き、まだ余談を許さない状況ですが
大分は大半の地域が普通に生活できていますので、
被災した地域との温度差を感じながら、
日々の生活をこなしていっています。

少し…いえ かなり体も心も疲れていた時に
ミンダナオ図書館だよりが届き
高田真奈美さんの記事を拝見し、
不思議なほど元気をいただきました。

色々と考えさせられましたし、
何より肩の力がふっと抜け
笑顔が自然に出てきました。

ミンダナオの子どもたちに
益々会いたくなりましたとはいえ、
私が支援させていただいているノルディン君には
一度も手紙の返事を書いていません、

申し訳ないです
直接伝えてはいませんが
彼の頑張りに私自身ずっと支えられてきました。
幼かった字が
今ではすっかり整った大人の青年の字になり
ずいぶん成長した姿を実感し、嬉しく思っています。

そして、いつも変わらずに
私や私の家族の健康を気遣い、
幸せを願ってくれていて
本当にありがたい限りです。

実は今回の地震で、
被害が逆にこれくらいですんだのはノルディン君の
祈りのおかげと感謝していいます。
日本にいると気づかない多くのことを、
ミンダナオの風がいつも爽やかに運んできてくれます。

現地や日本で
色々と働いて下さるスタッフの方々のおかげで
この支援が
息の長いものになっているのだと思います。

そして、この支援はミンダナオに住む方々を
サポートしているように見えて
実は経済の急成長を遂げ
経済大国の肩書きを得る代わりに日本が失った、
とてつもなく大きなものを
日本に住む私たちにミンダナオの風が
緊急支援してくれているのだと感じています。

日々の忙しさに埋没し、
本当にやりたいことができないまま来た一週間が過ぎ 、
またこれから仕事に向かう前に
このメールが打てたことに
今日はいつもより充実感を感じています。
ありがとうございました。










支援してくださった方々に、
ミンダナオよりお送りしている
季刊誌『ミンダナオの風』54号です。
以下のリンクをクリックしてください。
自由寄付で購読できます。


Link
ミンダナオの風54号のpdf









子どもたちは、
ベッドで寝ないで


福祉局の指導で、
二人で寝られるベッドをやめて、
一人ひとスペースのベッドに代えた。
そしたら子どもたちは、
ベッドで寝ないで、
木の床にござを引いて寝る方を選んだ。

みんなで寝る方がさびしくないよーーー!

以下は、
拙著『手をつなごうよ』(彩流社)で、
書いた一節です。

*************
竹をくんで作られた
二段ベッドがならんでいる。

「子どもたちは、この部屋に寝ているんですね。
部屋の壁も、ベッドも
竹をあんだ伝統的なつくりで、
あたたかい感じだなあ。」

「ええ。
広いポーチが共同の生活空間で、
部屋は寝るだけ。」

「個室ではないんですね。」
「ハハハ、こちらの子どもたちは、
個室ではさびしくて寝られない!

いちど、
日本に8名ほど招待されたことがあって、
ホテルの個室を用意してくださった。
そしたら、ぜんいんが一つの部屋に集まって、
ベッドをわけあって床にも寝ていた。

こちらの山の生活も、竹の床で
家族がみんなで川の字になってねている。

ここに住んでいる子たちは、
ほとんどが
孤児や崩壊家庭からきた
孤独な子たちだからこそ、

個別に孤立したコンクリートの個室をあえて作らず、
故郷を思いおこすような伝統的なあたたかい
デザインの竹の部屋のなかで、
肩をよせあって寝られるようにしたのです。

最初は、あえてさびしくないように、
少し広めの竹ベッドで、
二人がならんで
寝られるようにしたのですが、

福祉局の規定と指導で、
一人ひとスペースに
作りかえざるをえませんでした。」

「西洋的個人主義で物事を考えている
専門家というのは、そういうものですよ。」
「子どもたちは、二人のほうがいいよー!
と叫んでましたけどね。
******************



結局、みんなで並んで
床に寝ることを選んだ、
子どもたち!
個別化よりも、一緒が良いよ!






ミンダナオ子ども図書館は、基本的に 
Non Politic Non Religious sect
(政治の元では行動しない、
特定の宗派の下でも行動しない)

つまり、子どもたちへの愛だけで行動する、
という規定を持っています。
Serve the less fortunate children
who need love and love each other
これが、ミンダナオ子ども図書館の基本理念です。
 
ただ、子どもたちを救済し支援していくためにも、
政情を含め、世界情勢のあらゆる動きを
可能な限り把握するようにしています。











マノボ族の酋長の
洗礼を受けたときのスライドショーです。



酋長の役割は、
親のいない子のめんどうを見ること。
母子家庭の面倒を見ること。
病気を祈祷と薬草で治すこと。

諍いがあったときに、治めること。
部族どうしの戦争が起こりそうなとき、
酋長どうしで話し合い、
平和を構築すること。

私がそれをやっているので、
酋長に任命すると言う話が、
マノボ族の中で持ち上がり、

ミンダナオ子ども図書館での、
先住民の文化祭で、
酋長の洗礼を受けることになりました。



世界の指導者たちも、大統領も首相たちも、
子供が幸せに大きくなれて、
貧しくても教育をうけ、
病気を治せて、

戦争のない平和な世界を
構築してくれたらどんなに良いか。
本当の指導者(酋長)リーダーってなんだろう?
世界がマノボ族の社会のようになった良いのに。
映像を見たい方は、 ここをクリックしてください。




支援してくださった方々に、
ミンダナオよりお送りしている
季刊誌『ミンダナオの風』54号です。
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今回は、
「草の根・人間の安全保障無償資金協力」の
調印式の様子と学校建設の場所について。
妻のエープリルリンの文を
本人の意志と希望で掲載。

辛い気持ちの若者たちへの
メッセージになるように、願って。
連載している
現地スタッフ宮木梓さんの記事。

そして、
連載の童話「野菜売りの少女」などです。
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