「遺伝圏の深層現象学」

ソンディテストを解釈する前の予備知識
読むだけで面白い衝動病理学・臨床心理学の基礎知識
記号で学ぶ運命分析・精神分析の基礎知識

要約
S:愛と死 ---- 性衝動遺伝圏
P:善と悪 ---- 感動発作遺伝圏
Sch:所有と存在 ---- 自我衝動遺伝圏
C:鬱と躁 ---- 接触衝動遺伝圏


P:善と悪 ---- 感動発作遺伝圏

富樫 橋


カインとアベル
ヒステリーhyとエピレプシーe
感動発作衝動遺伝圏

動物であれ、人間であれ、およそ雌雄の別がある生物はすべて性Sと接触Cの2つの衝動が組み合わされて作用しあい、外界に対する行動様式を決めてゆくことが理解されたと思う。この2つをまとめて辺縁衝動という。

Sはhs、Cはdmの、それぞれ2個の遺伝子で構成されているから、例えばある人がh+!s−、d0m+!だとすると、彼は母親か恋人を失くしたが、いつまでも失った対象に執着し、そのために酒に溺れて、アルコール中毒者の方向へ向かっているのではないか、ということが、読者には既に推測できる段階に達したと思う。しかし彼はアルコール中毒の道を歩んではいない。なぜであろうか?

    S       P      Sch      C
  h  s   e  hy   k  p   d  m
---------------------------------------
 +!  −                     0  +!    辺縁=嗜癖(アルコール中毒)へ
                                              の傾向
           +  −   −  +              核心=良心と自制による防衛
                                              結果としての心気症

それは、P感動(発作)衝動と、自我Sch(エスツェーハーと読む)衝動が、コントロールしているからである。SとCは、人格のへりの部分にあるので辺縁衝動(ラント)という。P衝動とSch衝動は、人格のより深い内側にあるので核心衝動(ミッテ)という。核心は、つねに辺縁衝動の異常に眼を光らせ、辺縁の危険性をチェックしている。核心が充分に働いて機能していれば、この人は決して中毒者にはならない。これを核心の防衛活動という。この辺縁と核心の力動的関係を、テスト結果から正しく読み取り、判断するのがソンディ・テストの基本的な解釈法なのである。この人の場合、良心と自我の自制によって、アルコール中毒への傾向は防衛されている。しかしその結果、心気症という症状を呈している。

ここで初心者のために確かめておくべきことがある。すなわち防衛しているということは、防衛に成功してピカピカの健康状態であるということではない。このところが、いつまでも解らず、「防衛しているのに、どうして心気症になっているのか」と悩む人がいる。心理学の世界に、社会的価値判断の基準を持ち込むと、常にこのような種類の概念混乱が起きる。深層心理の世界では、短絡的に防衛の成功とか失敗とかいう日常生活的な価値判断をしないで、この人は今のところ心気症、あるいは強迫神経症型の防衛状態を採用していると判断するだけである。勿論、治療関係になった場合においては、本人の意向に基づいた価値判断によって、心気症治療や強迫神経症の「運命を治療する」という、次の段階に移行するのは当然である。

核心の組み合わせの中から代表的なものを幾つかあげてみよう。心理学徒ならば、そもそもこのPとSchはどのような原理に基づいて機能し、働いているかを知りたくなるであろう。

    P       Sch
   e  hy    k  p
  ------------------
  +  −    −  +  心気症的な核心
  − +  − + 制止的な核心(あらゆる神経症に認められる)
   + 0    ±  +  不安神経症、恐怖症の核心
  ± 0  ± 0 強迫神経症の核心(男性)
   0 ±  0 ±  強迫神経症の核心(女性)
   + +    − 0  ヒステリー型の核心
   0 −  ± − 発作的な(てんかん型の)核心
   + +  +! 0 倒錯の核心

Pは発作による防衛活動であり、Sch自我は、現実原則と理想原則に基づく防衛活動である。そのふるまいを、例によって研究調査しなければならない。先ずP感動発作衝動の基本的な由来から考えてみよう。

生物が、恐ろしい敵に突然出会ったらどうするだろうか? 昆虫を棒で突くと、しばらくの間、死んだふりをして動かない。これは、擬死反射といって、外敵から身を守る反応である。兎のような小動物は、例えば虎が急に眼前に現われるとバタッと倒れて動かない。人間でも大地震や火事に遭遇すると腰が抜けて立てなくなる。いままで経験したことのない驚きにより内部にパニックが起き、神経を麻痺させるのである。このように発作的擬死反射ないし失神によって外界からの刺激を無害なものにし、危険な行動を起こさせないようにする自己防衛の衝動は、人間の感情のもっとも古い起源の一つなのである。この衝動は、外敵に対する防衛だけでなく、内部の危険性をも防衛することができる。人間は相手を殺さないために死を装うことができる、それが癲癇発作の本質なのである。このような内部に向かって爆縮する荒々しい感動エネルギーこそ、癲癇の遺伝子として誰でも祖先から受け継いだeエピ遺伝子である。このe遺伝子は、例えば内部にサディズム欲求(s+!)が発生したとき、「殺すな(e+!)」という命令を発して防衛する。だからe癲癇衝動を倫理的検察の機能と呼ぶのである。

もう一つは、同じように外敵に直面したとき、メッタやたらに暴れる反射である。雀や小動物を捕らえて閉じこめると、羽根や毛が抜けるまでヒステリックに暴れる。この激しい暴れざまに驚いて早く退散しろ、と言わんばかりの運動暴発を起す。孔雀も羽根を広げてぶるぶる震わすが、あれは求愛行動に進化しているが、元は外敵を早く追い払おうとする演技的発作衝動のなせる業なのである。自分を大きくて強いものだと、精いっぱい自己顕示して、外からくる危険から防衛する。この衝動も、外敵に対する防衛だけでなく、内部からの危険性をも防衛する。人間は、外から襲ってくる性的刺激に対すると同様に、自らが発する性欲刺激を、まるで何も無いかのように空想界に閉じこめ被い隠すけれども、自己隠蔽の限度を越えると一挙に運動暴発を起こす。それがヒステリー発作の本質なのである。このように、外部に向かって爆発する繊細な感動エネルギーの根源は、人間においてはヒステリーhyの遺伝子として受け継がれている。ここで以上のeとhyの本質を要約しておこう。

e倫理遺伝子は荒々しい感動のエネルギーをうっ積させるもので、社会的にマィナスの傾向である。これは怒りのうっ積であり、悪意であり、eマィナスである。しかし、eプラスは反対に罪の償いや善意という、社会的にプラスの傾向になる。良心的な罪悪感は善人のものであり、殺してやりたい程の怒りは悪人のものである。どちらも人間対神の世界、つまり倫理の領域なのである。

hyヒス遺伝子は繊細な感動のエネルギーをうっ積させるもので、恥知らずで見栄も外聞もなく見せびらかす露出傾向である。これが自己顕示欲求hy+である。しかし、hy−になると、羞恥のあまり人目につかぬように隠れてしまう傾向である。これが自己隠蔽欲求である。自己顕示は恥知らずな人間のものであり、自己隠蔽は恥ずかしがり人間のもので、どちらも人間対人間の世界、つまり道徳の領域なのである。ここで、倫理と道徳について検討しておく事にしよう。

【日本人の精神構造】

倫理と道徳、この両者の違いを調べてみたことがある。昭和54年のことである。わが国の主要な出版社が発行する国語辞典のすべてが、両者を「ほぼ同義なものである」と記述していた。この一流辞典編纂者の概念の混同を目の前にして、小生は、日本の倫理・道徳感覚が、文明世界で希にみる低水準の段階に留まっていることに、深く考え込んでしまったのである。それ以来、新しい国語辞典を入手する情熱を失い、現在に至っている。恐らく現在でも事情はあまり変わってはいないであろう。「倫理」のような言葉は、10年で意味が変わるような、やわな言葉ではないからである。確認のために当時、小生が指摘した内容を再録してみることにしよう。当時の一流出版社の国語辞典は、次のように記載している。

倫理=道徳とほぼ同義である
道徳=人が人らしくふみ行う道筋のことで倫理とほぼ同義と考えられる

別な辞典の記述では次のようになっている。

倫理=間がらの生活をする人間の、間がら(倫)とその道(理)を意味する
道徳=それらの間がらのすじみちを言う

何のことはない。両方とも、倫理と道徳の二つの概念は同じであると言っているのである。(注:1996年の電子辞書には「倫理学=道徳について研究する学問」となっている)

二つの言葉の意味の違いが明確でない、ということは、その言葉を使う民族にとって、それらが表現しようとする概念に関心がないことを意味する。これは、全く鈍感であり、厳しくない。「倫理と道徳」に対する言語感覚がいい加減であり曖昧であり無責任である。我々を敗戦に導いた先輩たちは、敗戦とともに道徳も倫理も、その区別とともに価値を下落させてしまったのであろうか、それとも全く別な理由があるのだろうか。1997年4月24日の朝日新聞の隅に、典型的な実例が出ている。

【米国の「西半球問題評議会」は23日、リマの日本大使公邸へのペルー軍の武力突入について声明を発表、橋本龍太郎首相が一貫して平和的解決を求めながら、結果が出た後で一転、武力解決を「称賛」したとし、「倫理的な指導力と誠実さに欠けた」と批判した。】

これは、日本人は「倫理」感覚が皆無な野蛮人であると言っているのに等しく、橋本首相は日本人を代表して、国際的な軽蔑を受けたことにほかならない。ことほど左様に、日本人は、まだ「倫理」の本質を知っていないのである。また、倫理など知らなくても、村社会で生きてゆくには、道徳だけで充分だったということもいえるかも知れない。しかし、国際社会で生きてゆく時代になると、そうはゆかない。世界は、道徳よりも倫理を重要視する国のほうがはるかに多い。さすがに司馬遼太郎は、20代から「日本人の精神構造」を考え続け、ノモンハン事件の原因を知るに至って、この問題の入り口に到達したように思われる。

同じ1997年の「週間朝日4月18日号」に、司馬遼太郎の未公開講演録が掲載されており、そこで彼は、「倫理学というものは明治以前にはない」が、「12世紀鎌倉幕府成立の前から、関東武士の気風の中に文字にする必要のないほどの強い倫理観があった」としている。その本質は「名こそ惜しけれ」であり、「自分という存在そのものにかけて恥ずかしいことはできないという意味」だと言っている。ここで、彼は、せっかく倫理について問題にしながら、やはり道徳と倫理を完全に混同している。名を惜しむという恥の原理に基づく禁止は、あくまでも「3人以上の人間関係が形成する社会」における個人の行動規範なのである。倫理は「社会に対するものではなく、1人対1人、さらに自分対自分という個人的関係」における恐怖の原理に基づく禁止であり行動規範なのである。だから、橋本首相は、「平和的解決が達成できず残念である。わが国はこれからも平和原則を(個人としても)貫きたい。」という談話を発表すれば、世界中の国から「倫理ある人」と思われるところであった。人間である以上当然だから尊敬されることはないけれども残念なことである。

司馬遼太郎がソンディ心理学を知っていれば、次のように解説するに違いない。

現代の文明国で、「赤信号を大勢で渡るという、責任拡散と責任放棄の日本的な集団人格」が、特別な便益を得ているのは我が日本国だけである。この影の権力構造を喜ぶ価値観は、名を惜しむ人々が支配する時代であった明治期には現れず、昭和初期に、無名の中間権力者層や参謀本部のような評論家集団が実質支配するようになって、その正体を現してきた。それが発する現象の数々は、「赤信号を渡る危険を、個人の責任において引き受ける個人的人格」の西欧から見れば極めて薄気味のわるい、よくわからない倒錯者集団の行為に見えるのである。昭和以後、日本人は、何らかの理由によって、「悪の禁止という倫理基準を意識化し主張することを恥じるような社会」を作ってきたのである。現在その末期的現象が、いたるところで噴出している(省庁、官庁、銀行、金融、企業等)。本来、悪は個人に属する。悪を集団に拡散するのは、それ自体が悪である。このとき悪は二重に膨張した悪となり、誇大妄想を伴う憑依した悪になるのである。それを狂った悪と言わずして、何といえばよいだろうか。

このような観察から、日本人の未成熟な精神法則について言及すると、必ず「倫理が、神と人の対立関係から生まれる精神法則であるというのは、キリスト教文化だけの思考だ」と言う、見当違いな反論がでてくるのが常である。そんなことはない、ユダヤ教もイスラム教も、神道でさえ倫理的といえるであろう。最も重要なことは、神の起源がDNAの組み合わせの中に存在していても、仏が遺伝子起源のものであっても少しもおかしくないのである。むしろ、生物的基礎があればこそ、感情や情緒の発生源として納得できるのである。

倫理=恐ろしくて悪い事をしない(良心の検察による殺人行為の禁止)
道徳=恥かしくて変な事をしない(羞恥の検察による反社会行為の禁止)

これが、遺伝生物学と衝動心理学を統合した運命分析における倫理と道徳の完全な概念であり起源である。これは、特定の民族に通用する概念ではなく、人類全体の世界に通用する普遍的な常識で、日本人だけが音痴なのである。

この地点から導かれる民族的話題は、倫理基準なきが故に多発する、「村八分型集合殺人と鎮魂祭儀による悪の正当化」であり、「一億総ざんげ的な責任拡散者たちの精神構造」である。しかしこれらは、本書の主題ではない。

さて、この倫理と道徳という人間のエモーションが、遺伝子起源であることが理解されたことであろう。根源的なものは、必ず神話に現れているものである。「人間の衝動構造」の図で、感動発作衝動を見ると、e倫理遺伝子が+になると善人、−になると悪人である。旧約聖書に初めて出現した善人はアベルであり、彼が神に喜ばれたことを妬んで殺した兄のカインは史上初の悪人である。そこでe+をアベル欲求、e−をカイン欲求という。e−hy+人間は、悪意を顕示するから純粋なカイン、恐ろしい人である。反対のe+hy−人間は、善人であることをひけらかさないで隠す人であり、今どき珍しく奥ゆかしい純粋なアベルである。e+hy+は、善意を見せびらかす人、e−hy−は、怒りを隠して悶々と苦しむ人である。ただし、これらはすべて無意識内部の状況であるから、テストをして、これらの反応が出ても、本人が気付いていない場合もあり得るから、注意が肝要である。

              S     P      Sch     C
             h  s   e  hy   k  p   d  m
           ---------------------------------------
            +!  −   +  −   −  +   0  +!

さて、上の症例で、h+!s−の危険性は、P感動発作衝動がe+hy−であれば、強すぎる情愛を良心的な罪悪感で抑えるから防衛できるのである。(また、m+!の中毒傾向は、Sch−+抑制自我により防衛される)。こうしてP衝動は、辺縁Sの危険性を防衛する役割を担うのである.これを検察機能(ゼンズールメカニスムス)という。良心eと羞恥hyの検察官である。では次ぎにPe範疇の種族、次にPhy範疇の種族を順次探検調査してゆくことにしよう。

Pe
聖職者、ジェットパィロット、消防士、火の職業で成功する範疇
潜在的カイン性格の範疇:エピレプシー、癲癇の国

この国に住む人々の衝動危険性は、カイン欲求が充足されないことによって、すなわち激怒、憎悪、憤怒、猜疑および嫉妬のうっ積によって規定されている。この範疇に属する人々の最も頻繁に現われる衝動安全弁は、肛門的なd関門であり、あらゆる一切のものを「清潔にしよう」とする衝動である。彼らは様式、言語、概念、文学、科学、芸術、倫理などを浄化しようとする。彼らはあらゆるものを批判し、道徳化しようとする内部的な衝動をもつのである。彼らにおいて、またしばしば用いられる非常口は、kの衝動弁である。それゆえ、態度および思考における自己愛、または頑固さが認められる。

この範疇に属する種族は、e+の道徳的種族と、e−の類癲癇的種族の2つの下位範疇が住んでいる。先ずモラリストの種族から探検調査してゆくことにしよう。

e+
几帳面な宗教人アベル:清教徒および道徳家の種族、「清浄化」の人々

e+範疇の人々は、良心的で人に好意をもち、温情があって寛大な人である。すぐに同情し、可哀そうな人や動物に憐れみの心を起こす。内なる神を恐れ、敬虔に祈る一方、真理にたいいて鋭敏な感覚をもっており、机の上のものが、ちょっと歪んでいてもピリピリするほど曲がったことが嫌いである。この整理整頓の好きな清潔さが癲癇的なところである。しかし、表面はあくまで慈悲深い顔をしている。焚火でもラィターでもよい、とにかくめらめらと燃える火が好きでうっとりと眺める。早い乗り物なら何でも好きなメカマニアでもある。交通法規をきちんと守り、日曜日になると決まって「宗教の時間」のテレビを見る。律儀なのである。そのくせ、賽銭箱に入れるのは一円玉、せいぜい十円玉である(衝動安全弁にd範疇が多出)。頭痛病みのひとが多い。

e+の人は、良心を肯定する。カイン的な、荒々しい悪意の人に良心を呼び起こさせ、忍耐と正義、安らかな善意の人にしようと導く世話焼きであり、他人に自分と同じ信仰心を抱かせようとする人である。エジプトからユダヤの民を連れだしたモーゼは、人々に十戒を示して殺人を禁止し、善人になれと呼びかけた。エネルギッシュで荒々しいモーゼは、アベルに変身したカイン人間なのである。

もしも、このe倫理遺伝子のe+アベル欲求がなかったら、この世に善人の行いもなく、良心も忍耐も、法律も存在しないであろう。だから、e+人間は、軟らかい女性的なハートをもっている。なにも気にする必要がないのに良心の苛責にさいなまれ、人前に出ると、吃ったり、赤くなる。赤面恐怖は、カメレオンが、周囲の色と同じ色になって外敵から身を守る保護色反射の名残りで、e倫理エネルギーが皮膚の裏側にうっ積して変色させるのである。それが舌にくると吃音で、高所恐怖にもなる。原因は、根源的なe+、良心の苛責である。要するにe+人間は怒りのうっ積が背景に潜み、それにたいして良心が痛む状態なのである。だから善への欲求e+が極端に高まり、e+!以上になると発作が起こり、e0になって解放するのである。

e+の人々の職業は、交通に関する職業が好きである。自動車や電車の運転手、ジェットパィロットなど、絶え間ない無意識の感動的緊張が、癲癇欲求を日常的に解放して無害なものにするのである。そして、火に関する職業、消防士、製鉄、鍛冶屋、溶接、鋳物、花火師、ダィナマィト発破関係、ボィラー、燃料商など。

電力・発電、石油関係も火の事業である。強電・弱電の電気装置製造業も、火の変形である。ロケットエンジン研究者もe+人間、宗教家も魂の火を灯す職業である。僧侶・牧師・尼僧、神主・結婚式場の巫女まで、カソリックからゾロアスター教まで、およそ職業としての宗教家はすべてe+の危険な癲癇欲求を社会化する道である。

いくら新興宗教に身を打ち込んでもe+欲求が満たされないe+!人間はどういう運命をたどるのであろうか。車も運転できないし、いまさら飛行士にもなれない、というe+!アベル人間は、病的な良心の苛責と、ありもしない架空の罪を神経症的に償おうとする。怒りのうっ積(e−!)の逆である。

e+!人間は、外見からでは、癲癇の遺伝素質があることが殆ど判らない。ただ、顔や身体つきが弱々しく細りした、華奢なタィプであることが多い。しばしば女性的な、美しい体型を示すのは、抑圧された癲癇に由来するのではなく、自我がk構造であることの顕れであろう。

この癲癇型の衝動の渦巻の中から、「神聖な」職業、例えば僧侶、裁判官、医者などへの出口を探す人々と、反対に排泄物や不潔物に固執する人々とが存在する。高い段階の社会化された人は道徳家や浄化主義者(ピュリフィカトール)となり、あらゆるものを清浄化しようとする願望をもつ。聖職で昇華できなかった人々は、国語「浄化主義者」のような文化清掃人となり、低い段階では道路掃除人、腸の掃除人、窓ガラス磨き等の職業で衝動解放するのである。最近の地球環境浄化主義者はボランティア活動へ、道徳や宗教等の浄化主義者はテレビ評論家の方向へ、生活様式の浄化主義者はリフォームの方向へ向かっている。この範疇に属する人の清浄化欲求は、癲癇型の衝動の渦巻きからの、最も手慣れた非常口が、肛門的なd衝動弁であることに由来する。清浄化への欲求は、肛門愛欲求を社会化する最も良い形式であることが経験的に知られている。

彼らは外見上、子羊のように柔和で、几帳面で、女性的で、他人に対して献身的に奉仕しようと努力しているように見える。しかし、彼らは、その努力にたいして高い誇りとねぎらいを期待している。それは、彼らe+!の種族の衝動構造式を見ると、しばしば症候ファクタにdとkの非常口(価値の獲得と所有)が現れることで証明される(症候ファクタは衝動構造式の項を参照)。

e+!種族の女性は、しばしば潅腸をする。それは癲癇のエネルギーをd非常口で発散するためで、これをアナル・オナニストという。e+!青少年は学校で元気がないことがよくある。

この意気消沈少年がS++であれば、彼らは間違いなく潜在的なd非常口者(アナルオナニスト)である。Sch−−、Sch±−なら確度は一層高まる。彼らがしばしば自我変換Sch00を示すのも希れではない。

e+!人間のk非常口タィプは、態度や思考が頑固で、しばしば女性的な、美しい身体つきをしている。その奇妙な姿勢や独特な話しかたで、まるで牧師のような宗教性を感じさせる。e+!人間の極端な運命可能性は、浄化的な道徳家、不安神経症、不登校、窃盗と放浪、吃音、癲癇代理症としての殺人狂(タナトマニー)などである。死亡形式は焼身自殺や高所からの飛び込み自殺である。

d非常口(アナル・サドマゾヒスト)の人間は、e+!をドラィブで発散するのが最も早い治療法であろう。昔は、これほど自動車があふれていなかったから、さぞアナル非常口の武士が多かったであろうと思われるが、結構、馬に乗ってドライブしていたのではなかろうか。e+人間の結婚対象はSch++の人が最も良い。

e−
怒りの競争者カイン:潜在的類癲癇性格、アナルリーベの人々

e−人間は悪意の人である。人を憎悪し、復讐の炎を胸に抱き、激情のおもむくまま怒りを煮えたぎらす。疑り深い。しかし、これはあくまで無意識の中でのことであって、今すぐ怒りを爆発させるわけではない。というのは、心の深いところで、欲求を抑圧している、耐えている状態を意味しているのである。

e−人間はカインである。アダムとイブの間に生まれた長男カインは、弟アベルの供物がヤハウェの神に喜ばれ、自分の供物が受け入れられなかったのを恨み、弟を惨殺したのである。これが人類史上最初の悪の発生である。わが日本には、頼朝カインと義経アベルが古典的である。カインのこころの内部では、次ぎのような悪の形成過程が進行する。

「神は俺の供物を喜ばず、アベルの供物を喜ばれた。俺はもうだめだ。」不幸感が始まり、劣等感、自己卑小感が増大する。カインが、もっと大らかな気持ちを持っていたら、この次にもっとましな供物を捧げればよいという発想が起こるのだが、あらゆるものを批判するという癲癇型の内部欲求が、自己愛的清浄化の化合物、狭量さを生み出すのである。

「生意気な弟の奴め」嫉妬の発生である。ついに良心を喪失するに至る。
「もし、アベルがこの世からいなくなれば、俺の供物しかないのだから、神は俺を喜ぶことになるだろう」

競争相手が居なければ、自分の価値は相対的に浮上し、幸福になる。
「奴を無きものにしてやれ」

これがカインの原理なのである。

突然の外敵の出現に擬死反射(e−hy−)が起き、自らを仮死させ失神させ、脅威を瞬間的に無化してしまうのは、e癲癇遺伝子の相対的自己救済の機能である。それにもかかわらず、もし相手に食べられたとしても既に私は死んでいる。死んでいるから何も恐くない。外敵は驚愕して食べる気を喪失する。

相手が不幸になれば自分は以前と全く変わらないのに幸福を感じる。平凡人の5分の1が、このような他人の不幸を喜ぶ人間だといわれる。「他人の不幸は蜜の味」とか、「隣の火事は、がんの味」とか、この種の殺意願望に彩られた諺はどこにでもある。この陰湿さは、e−人間の感情生活の本質をよく現している。

e−の危険性を社会化し、無害にする職業は一般に、e+とまったく同じ交通に関する職業である。なぜだろうか。それは、次のように説明できる。すなわち、交通に関する職業の本質はスピード、比較、競争である。カインの供物がアベルのと比較して内容が良くなかったのが悪の原因であり、結局はどちらが神に喜ばれるかという競争である。だからe遺伝子は、競争と比較の状況で、つねにハラハラして興奮する性質を秘めている。その代表的社会機構が交通なのである。また、火はすべてのものを灰にする。比較も競争も、その基準である神ですら炎の中で無と化してしまう。あらゆる生命を完全に消滅させる超越的な火は、e人間をうっとりさせる。ここに、火に関する職業をe人間が選ぶ秘密がある。すべての葬儀的宗教の祭壇に火が灯っている理由でもある。心理学徒には、自動車の内燃機関が、石油を燃やして疾走する祭壇と見ることも必要であろう。

では、職業や日常生活でe−欲求を解放できないe−!人間はどんな運命を歩むであろうか。激怒、憤怒、猜疑、憤怒、悪意のうっ積であるe−!は、荒々しく彼の肉体を駆けめぐり、激しい感情の渦巻となって吹き荒れる。そしてe−!!の段階に達すると、まさに相手を殺してやりたいというレベルになる。自我Schのコントロールが効いていれば、彼のe−!!エネルギーは、他人を殺す代わりに自分の脳や心臓、手足の血管に襲いかかり、痙攣を起こさせる。そして、相手を青痣のできるほどうちのめす代わりに、自分の皮膚を内側から掻きむしって発疹を起こさせ、自分の舌を吃らせる。

しかし、自我Schが制御できない場合は、実際に他者を破壊し、自殺もする。これは、道を歩いているときに何の関係もない人々を刺し殺すようなことが起きる。 行きずり殺人、衝動殺人といわれているものである。これは一口のビール、ただ一語の言葉でも引き金となり得る。ここまで行かないe−!!人間は、徘徊狂(ポリオマニー),放火狂(ピロマニー)、窃盗狂(クレプトマニー)、渇酒狂(デイプソマニー),ひどくなれば、殺人狂(タナトマニー)の運命可能性がある。普通のe−!人間の運命傾向は、酒に溺れる傾向、アナル同性愛者、発作的に胸が動悸する不安ヒステリー、欝を伴う鶏姦(ペデラステイ)、放浪者である。

倫理的、宗教的世界が、最高の昇華分野である。当然であるが、e−!は殺人者の危険性、e+!は聖職者の傾向をもつことが理解されたと思う。e+人間とe−人間は同じ遺伝圏であり、e倫理遺伝子の働きが、社会的プラス方向とマィナス方向に分れたのであり、ドストエフスキーは、まさにそうした家系の人なのであった。殺人者と僧侶、罪人と神に仕える人、放火魔と消防士、白バイ族と暴走族、お巡りさんと泥棒...は、根源(ルーツ)において同じ運命遺伝圏なのである。死亡形式は焼身自殺やピストル、火薬爆発による自殺である。

Phy
俳優、芸能人、演技者、政治家、市場経済、モデルで成功する範疇
潜在的露出症の範疇:ヒステリーの国

hy人間は、いつも他人に気に入られたい、いつも人前に出たい人々である。ある人と一対一で居る時には、全然そんな気配はなく、ごく穏やかな感じであるのに、ちょっと気になる第3者が現れると、急激に変貌して自分が前に出る。3人のうち二人が話をしていると、相づちを打つような温和しいものではなく、いきなり話に割り込み、横取りする。そして、自分がいかに知識が豊富であり、すぐれた考えをもっているかをひけらかすのである。しかし、これは決して嫉妬からではない。単純に、自分が前に出たいという前列意識(正しくは前列無意識)から発するのである。自分を見せびらかしたい、他人に気に入られたいだけなのである。

このスタンドプレイに性衝動が加わると、媚態になる。男性でもしばしばなまめかしい媚態を表現する人がいる。そこには羞恥が作用している。

2人から3人になると、急にこういう変化が起きるのは、まことに不思議であるが、次のように考えるとすぐに理解される。

1対1の人間関係は、己れと相手が融け合った平面的な二者一体関係で、内輪の2次元世界である。そこへもう1人誰かが加わって3人の人間関係になると、2次元から3次元へ、立体的な「社会」という外的世界に変化し、比較と競争の世界となる。そのとき二者一体関係は解体し、ばらばらの個人になる。

この時に活動し始めるのがhy道徳(ヒス)遺伝子である。

hy遺伝子は、もともと動物が身を隠したり、自分を大きく見せて外敵の危険から身を守る自己防衛遺伝子である。進化の果てに達した万物の霊長である人間にも、これが伝達されていて、第3者という外敵が現われると、hy−の、恥ずかしいから自分を隠す欲求と、hy+の、自己顕示して相手を圧倒しようとする欲求とが、内部から突きあげてくるのである。hy−は羞恥、hy+は厚顔無恥であり、これが人間界に道徳を作らせた[恥ずかしさ]の根源となっているのである。道徳心があるのは人間だけというと笑われる。急いで身を隠す小衝動からhy道徳遺伝子を受け継いでいるのであるから。hy+人間は虚栄が強く露出症的である。自分を美しく飾り、顔を作り、まつ毛を加工し、眉を剃ったり描いたり、髪の毛をちぢらせたり伸ばしたり、耳に穴を開け鼻輪を通し、入墨をしたり、首輪や指輪をつけたりする。変身願望である。hy+!になると、身に着けるものでは間に合わなくなって、身振り手振りがひとりでに出る。第三者から長く続く拍手をされたいのである。hy+人間にとって、人生は自分が出演すする劇場であり、演技をやる舞台空間だと感じる。たから、時には他のタィプの人間の顰蹙をかうこともある。しかし本人にとっては無意識のなせるわざであるからそれがわからない。他人が眉をしかめると、まだ自分のすばらしさがわかってくれないと、ますます演技に磨きをかける傾向がある。hy+人間は羞恥を否定し、顕示を肯定する。しかし彼は、恥ずかしがりやの人に自己顕示欲求を呼び起こさせ、虚栄と賞賛の楽しさを味あわせてやろうとはしない。つねに自分だけが前に出て有名になりたいのである。したがって自己愛的である。hy+露出欲求は、ひどくなると性的露出症の段階にまで達する。さらに運動暴発や手足の痙攣を伴って倒れる。ヒステリーの発作である。この範疇の人々には、Phy+、Phy−の、2つの下位衝動範疇がある。

hy+
牧師および奉仕性格の範疇:昇華されたメタトロピストの人々

hy人間は水に関する職業を好む。とはいえ実際の水に限らず、水のように流動し、入れ物の形によって変容するような職業という意味である。これは火に関する職業を好むe倫理人間と対照的である。では水のように流動的な職業とは何であろうか。選挙は水物という。先ず国会議員のような政治家を連想する。華やかなフットライトを浴び、自分を女王のように変身させるモデル、台本に基づいて他者に変身する舞台俳優からタレントに至るまで、自己顕示的変身欲求を社会化する仕事は多い。どれをとっても多くの競争者を押しのけて選挙に当選し、水着テストで選抜され、演技テストに勝ち抜いたhy+の人々である。彼らは現在の状態を獲得するまでは、社会の大海のなかで水の流れに身をまかせていた名もない魚であった。しかも、こういう職業は不安定である。政治家は次の選挙では落選する。アイドルの人気も永続きはしない。社会という容れ物の形が変われば水のように変転する。彼らは再び大河の流れの中の一匹の魚となる。だからhy+の政治家は、状況によって背景のhy−虚言者に変身し、賄賂などの金品を獲得することがある。そして反道徳者(hy0)になる。どうせ浮世は水まかせ波まかせという唄がある。いわゆる水商売。舞妓や芸者、ダンサー、ホスト、ホステス、芸人、露天商など。野球の選手も、スカウトにより所属を変えるホステスと同じ流動的職業でもある。魚市場などを始めとする各種仲買人、その日の政治経済的によって株価や価値が変動するものを扱う証券取引業や外国為替関係も、空気より密度の濃い水の中を泳ぐ魚のような能力が要る。魚は水のなかで良く鼻が利くのである。こういう職業は、自分が変身しなくても、時々刻々と相場がヒステリックに変動してくれるから、hy欲求が充足する。水泳選手もhy遺伝圏の人々が多いのではないかと思われる。教壇に立って講義をしたり講演をする人も、hy+欲求が必要である。教室も一つの劇場、教壇は舞台であるから。

hy+人間は、変身願望人間であるから、神になり代わりたい、または母親のように慈悲深くありたいといったタイプの聖職者にもなる。「聖職についている」ことや慈善家になることによって、女性になりたい願望または母親でありたいという欲求や自己顕示欲求を社会化するのである。また、奉仕的に他人を変身させるような職業、理髪、美容、マニキュア師、洋服や着物や帯、さらに装身具の製造組立、ファッション関係、着物の気付け業など、各種の下僕的な接客サービス業に就く。低いレベルでは「奉仕する職業」が選ばれる。たとえば理髪師、紳士服および婦人服の仕立屋、足の爪の手入れをする人、美容師、給仕、侍女など。

病的な人は誇大妄想、分裂病的な権力欲の発散、癲癇、嗜癖、受動的同性愛者に傾く。死亡形式は狂言自殺で、何回も自殺のまねをして人を驚かせ、最後には間違って本当に自殺に成功するとい不可解な方法を選ぶ。

日常的な職業や生活舞台で、欲求を允足できないhy+!人間は、どういう運命を歩むだろうか。彼らはしばしば自己を極端に露出し、周囲の人を驚かそうとする欲求が高まる。会議の席上で人が驚くような小細工や提案をしたり、皆が驚くような変わった装いで出席する。それが強くなると女性に変装したり、異性の服装を身につける変装狂(トランスフェステイミスムス)になる。(チューリッヒの郊外ホテルのメイド嬢は、仕事が終わると、完全な男性の乗馬服姿で市電に乗り、ディスコへ通っていたが、決して変装狂ではなかった)。さらに進むと、白昼、女性や子供の前で性器を露出して喜ぶ。さらに変身欲求が高まると、自分の肉体を手術して、女性になり変ろうとする。ただしこれはs−!!マゾヒズムが大いに関係する。

hy−
潜在的同性愛の範疇:ヒステリー癲癇および偏執病の人々

hy−人間は引っ込み思案で、別に気にするようなことでもないのに、くよくよと、いつまでも気にする人である。ネズミがそっと首を出し、ピクッとして穴の中に逃げこむように臆病なのである。恥知らずなhy+人間とはまったく反対の恥ずかしがりやで、人前に出るのは嫌なのである。他人の前に出て身をさらすくらいなら、一人で部屋の中に閉じこもって、空想的な詩や幻想的な丈学を読んでいるほうが好きな人なのである。現実界に向き合うことを極端に避け、空想界に逃避するこのhy−人間は、学校でも職場でも、何かの集まりがあると他人の背後に隠れる。何事においてもすぐメゲてしまい、人々の背後に身をひそませないと安心できないのである。これもhy+と同じく、一対一の人間関係だと、結構自己顕示的なのだが、第三者が加わると、急に変身する。この恥ずかしさは、hy道徳遺伝子エネルギーが、マィナス方向へ傾いた欲求であり、根源的にいうと、自分が発する性的な衝動や情愛欲求を、相手や外界から隠そうとする欲求なのである。いいかえれば3人を最少単位とする社会空間に発生する個人の道徳欲求、つまり羞恥と嫌悪の限界をつくる欲求なのである。その限界値が極端に小さくて、すぐにオーバーしてしまうのがhy−人間で、マィナスの方向に自分だけの世界を大きくひろげてゆく。それが空想界である。まるでhy+人間が、自分をプラスの現実社会で大きく拡げてゆくように。

彼らは自分がふくらませた空想界の舞台で、自らの性衝動を思う存分解放させ、詩の華を開かせ、大河小説を読み、神話をくりひろげ、完全に嘘の建築物と宇宙を建設するのである。自分はすでに偉大な攻治家であり美人であり、ドンファンであり名優なのである。自分だけの空想界において。だからhy−!人間は空想的自慰者であり、空想的虚言者である。というわけで、彼や彼女の空想界は、彼らの魂の避難所なのである。

hy−人間の職業は、hy+人間の、水的職業と同じである。なぜ彼らは水の職業と関係があるのだろうか。

先ず、いままで述べてきたhy道徳遺伝子の働きを復習しておこう。hy遺伝子は、外から迫ってくる危険や恐怖による感動を、極限の点でヒステリックに解放させ、自らを無感覚にさせる外部的暴発である。それにより、恐怖の対象を無と化し、生き延びようとするのである。しかし、そういうことが起きるのは、3人以上の人間同士の関係の場においてであり、社会という外に開いた空間的競争の世界で起こる。これは、神と私という内部的な上下関係の場でおこるe倫理遺伝子の、身体の内側に閉じた時間的競争の世界とは対照的である。hyは上下のない平等な空間的競争だから、化粧や衣服、演技のような、水で洗い流せるよなもので飾り立て、内容の貧弱さを隠し、偉大に見え、美しく見えるものにし、自分の価値を相対的に浮上させようとするのである。成功すれば自分の内容はちっとも前と変わらないのに、相手は価値が切り下げられることにる。これが演技の成功と権力獲得の秘密なのである。だから、hy人間は三島由紀夫やヒトラーのように、死ぬまで演技者なのである。

この点においてeは、旧約聖書に登場し、アベルを殺して相手を時間の彼方に 追放する」という、時間的競争の世界である。相手を火葬して灰にすれば、自分はまったく以前と変わらないのに浮上し、自分の価値が切り上げられることになる。この完全犯罪が成功すればカインの供物は神に喜ばれるのである。

hyの、空間的競争における基準は恥ずかしさであり、eの時間的競争における価値基準は良心(恐怖)である。そしてhyの審判者は外なる仏であり美であり、道徳であるが、eの審判者は内なる神であり善、倫理なのである。しかし、水は空 間的審判者である外なる仏や美を流し去る超越的な自然現象であり、火は、内なる神や善を生む生命ですら灰にする超越的な自然現象である。また、ここで強調されるべき事は、倫理も道徳も、すべて個人に属するものであって、普遍的な何ものかに属するものではないという事である。なぜなら、道徳的基準は社会レベルの空間変化によって簡単に変わり、倫理的基準も、個人レベルの時間的変化によって容易に消滅するからである。

          倫理と道徳の遺伝子起源的差異およびそれら概念群の比較
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遺伝子  対象関係   基 準   競争の質    審判者  超越現象     職業
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 e    1 対 1  良心(善) 個人時間的  内なる神  火  時間的職業(交通等)
        (個人的)  殺意     相手を消滅                 火の職業 (聖職等)
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 hy    3人以上  羞恥(美) 社会空間的  外なる仏  水  空間的職業(演技等)
        (社会的)  空想     自己を変身                 水の職業 (政治等)
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というわけで、hy人間は、水で流せるお白粉、口紅、選挙の公約、配役、立場、地位が好きなのである。空間的競争の俳優、演技者、水商売、政治家は水的職業といえる。時間的競争は、交通間係であることは、いうまでもない。hy遺伝子は、我々のはるか直系の祖先がまだ水棲動物であった頃、海水空間生活の中で形成したDNAの組み合わせではなかろうか。また、e遺伝子は、それよりも後の火山期に、陸に上がって来た両棲類のころに形成されたのではなかろうか。ソンディの研究によると、eの危険性は、教育によって容易に変えることができるし、hyは中程度に教育可能であるという。

hy−!人間の運命は、現実の不安から、非現実的な空想界へ逃避する、ということが決定的に作用する。彼は現実界でなにひとつしないくせに、自分の空想のほうが上等だと思うのである。だから現実は楽しくない。楽しくないからますます虚妄の世界へ閉じ込もるのである。他人に対して嘘を吐くが、自分に対しても嘘をつく。もはや現実と空想、事実と幻想、手で触れるものと架空のものとの境界がなくなっている。彼にとって、現実のガラククが、壮大な記念碑に見え、クモの巣が高層ビルに見えるのであって、他人もそう見えると思い、そう見ることを要求する。彼は嘘を嘘と思わないから、真剣に説いて歩くことがある。その情熱と演技の見事さによって、多くの人々が騙される。徳川時代に天一坊という人物が現れ、将車吉宗の子であると偽り、人を騙すが、最後に大岡越前守に見破られて処刑された。嘘も、数万人の人間が信じてしまえば嘘でなくなる可能牲があるかも知れない。みんな欲があるから引っかかる。ある種の教祖や天才的詐欺師は病的虚言者hy−!人間であり、騙される人も、空中楼閣を信じる弱いhy−の空想人間である。獲得欲求d+と所有欲求k+がそれに加わっているから見破れない。ここに被害者学の出発点がある。

次に示す4つのベクタ反応は、hy−範疇の衝動現象を忠実に反映している。性衝動の領域において、彼らは最もしばしば衝動目標倒錯、メタトロピスムスの典型的な性衝動像:S+−、S+±(男性)、S0±(青少年)、S−+(女性)を示す。そのときもし相手が同性愛的な接近を拒否した時には、彼らは攻撃的になるのである(S0+).彼らは偏執病の時期においても目標倒錯(同性愛)とサデイズムを保持している。最も頻繁に見られる感動像はP0−、すなわち偏執病的感動像か、P±−強迫的感動像である。このベクタ像は、アベル欲求(P+−)の存在にも拘らず、サデイズム欲求(−e)の存在を証明し、同時にパニック(P−−)の中に生活していることも示している。

hy−!女性は、私は死ぬのではないか、私は子供ができないのではないか、という生殖不安が固定することがある。このタィプは、いきなり異性の裸体やシンボルが眼前に現われたり、過度の性的刺激に遭遇すると、まるで催眠術にかかったような状態になって動けなくなってしまう。今まで彼女の無意識的な空想界にあったものが、突然現実化したため、身を隠すひまもなく不動金縛りになる。運動喪失の発作に襲われるのである。これをナルコプレシーという。また彼女らも異性の役割を演じたいという欲求、性的な変装狂への衝動が非常に大きいために、一過性にヒステリー発作あるいはヒステロエピレプシー発作を起こすことはあり得るけれども、この欲求を完全に充足させることはできない。

hy−!男性の奥深い深層には女性の役を演じたいという欲求が充足できない渦巻となって駆けめぐる。彼の運命危倹性はここから出発する。彼らは生まれつきのメタトロピストであり、マゾヒストであり、周りにいる女性よりも、もっと肉体的にも精神的にも完全な女性になりたいと望んでいる。こんなことは、実際には全く不可能であるから、彼は自我Schを変化させるのである。偏執的ノイローゼや、妄想型分裂へと変化させることも希ではない。この範疇に属する重篤な患者の場合に、われわれは偏執病的自我変化のほかに、発作的な犯罪的な症候、例えば放浪欲求(俳かい狂)あるいは窃盗狂、および癲癇型の発作を見いだすのである。でなければ受身的な同性愛、各種の嘘つき人間、詐欺師、ヒステリー、ヒステロエピレプシーの形式で解決するのである。

死亡形式は、やはり水に大いに関係がある水死、溺死、服毒自殺やガス自殺である。(文責:富樫 橋)