戦争と平和構築
2015年の記録から
(2)

パックンが、テレビ東京の方々と来られた!
1 パックンが来られた GO!
2 お引き受けするのを躊躇した GO!
3 考えあぐねた結果 GO!
4 福祉局に状況を聞くと GO!
5 パックンを交えて読み語り GO!
6 子どもたちと荷台に乗って GO!
7 読み語りが始まった! GO!
8 車いすを少年に届けた GO!
9 古着を人々に届けた GO!
10 パックンから写真が届いた GO!
11 ペルー生まれの双子の兄弟 GO!
12 山本博樹さまからのお便り GO!
13 今回私は4回泣きました GO!
14 MCLの子どもたち GO!
15 山の村の下の川の洞窟 GO!
16 慰霊に訪れた山本ご兄弟 GO!
17 初代の市長の末裔だった GO!
18 マノボ族しか住んでおらず GO!
19 男の子がバナナをしょって GO!
20 野菜売りの少女の家を訪ねた GO!
21 カリナンの市場に行った GO!
22 私の少女時代の思い出から GO!
23 あっちへ、いけ! GO!
24 あんた、娘を殺すつもり! GO!
25 母は、家を出ていった! GO!
26 I was born with a harelip GO!

po27
パックンが、
テレビ東京の方々と
来られた!


突然、
テレビ東京の関係の方から、
連絡が入った。 

池上彰の番組で、
ミンダナオ子ども図書館を
取材したいが・・・


4月12日生放送
「池上彰のJAPANプロジェクト」


~命の現場と向き合う日本人~
世界のどこかに
誰かが行かなくてはならない。
危ないと言われる地域で
活動する日本人がいる。

池上彰が
「世界で踏ん張る日本人」と
生放送で対話


放送日時 4月12日(日)
19:54~21:48(2h)生放送


中東の過激派「イスラム国」や
様々な過激派組が、
世界各地で
破壊活動を展開している。

「世界で今、
何が起こっているのか?」
池上彰が地図や映像を
駆使し解説して
「混沌の世界」を伝える。

世界には
「危ないと言われる地域」が
たくさんある。
しかしそこで活動している
日本人がいる。

この番組は
「誰かがそこにいないとならない」
と思い、踏ん張っている
日本人の声を聞く。



po28
最初は、
正直に言って、
お引き受けするのを
躊躇した


理由は、
イスラム国を前面に
イスラム教徒の人びとを
いかにもテロリスト集団のように
報道する傾向が、

今の日本に
はびこっているように感じられ、
それに荷担したく
なかったからだ。

ミンダナオ子ども図書館では、
イスラム教徒もクリスチャンも
先住民も
みんな仲良く生活している。

彼らは、自ら、
自分たちは家族で
兄弟姉妹だと言っている。

たしかに、
ミンダナオでは、
イスラム自治区を中心に
不穏な動きがあるのだが、

こちらの人びとの見方からすると
「意図的に政府とMILFを分断し
戦争を起こさせるための工作では?」
と言われているほどだ。

それは別にしても、
ミンダナオ子ども図書館には、
多くのすてきなイスラム教徒の
我が子のような子どもたちがいて、

戦闘地域でも、
200名あまりの奨学生が、
MCLの支援で
元気に学校に通っている。

イスラム文化祭を
つい先月末に開いて
みんなで楽しんだばかり・・・

そうした子たちもひっくるめて
イスラム教徒=テロリストといった
図式に当てはめられるのは、
ちょっと心外・・・

友人や我が子を
テロリスト呼ばわり
されているようで胸が痛む・・・


po29
考えあぐねた結果

それでも、
考えあぐねた結果、
あえてこの企画に
挑戦しようと思ったのは、

逆に、
ミンダナオ子ども図書館や、
私たちが行っている
地域の人びと、

特に無邪気な
子どもたちの素顔や
純真な笑顔。

どこの国の人びととも
変わらない庶民の姿を、
映像を通して、

日本の人びとに、
伝えることが、
可能かもしれないと
思ったからだ。

(テレビ映像は、
編集次第でどのようにも
変えられるけれど・・・)

「ミンダナオは、
海外からの力が入りさえしなければ
平和な土地なんだがなあ・・・」
という、村長の言葉が思い浮かんだ。

中近東もそうだけれど、
ミンダナオも
40年間の戦争の原因は、
リグアサン湿原にねむる、
膨大な天然ガスと石油の利権を、

どこが獲得するかと言う
問題の背後に、
国際資本が絡んで
起こされているという・・・。


po30
福祉局に、
状況を伺いに
行くと


福祉局に、
事前に状況を伺いに行くと
驚いたことに、

つい最近まで
戦闘で避難民が出て、
MCLで救済活動をしていた
カバサランやカルボガンの人びとが、

現地の村に戻り!
すっかり平和になり、
しかもそこに読み語りに行くことも
可能だという!

そこで、
市長に話を通し、
さらに現地の
村長を訪れて話をつけ
両方の確証の元に決断を下した。

さらに当日は、
MILFの軍人が
護衛につき、

北コトバト州の
MILF最高司令官にも、
お会いして、

協力関係を持ち、
万全の準備をしてから
活動を開始。


カバサランに
読み聞かせと
古着の支援をした



po31
パックンを交えて、
歌と踊りと読み語り


前日に、
有名な俳優で
ジャーナリストのパックンが到着。

(ごめんなさい、
15年以上も
日本のテレビを見ていないので
存じ上げませんでした・・・)

しかし、とっても気さくで
自然な若者で、
たちまちMCLの子どもたちに、
大人気!

撮影していようが
(仕事の時も)
撮影していまいが、

水道のプラスティックの配管で
子どもたちが作ったフラフープで
子どもたちと一緒に遊んだり、

ゴム草履の
ベースボールをしたり、

心から子どもたちを
愛していることが
良くわかる。

後で教えてくださったけれど、
パックンは、
貧困の母子家庭で育ち、
MCLの子たちと
共通した体験もしている!


po32
子どもたちと
トラックの荷台に
載って


翌日は、
子どもたちと
トラックの荷台に載って、

本来は極度の
危険地域である
カバサランの集落に向かった。

このプランギ河の向こう側は、
イスラム自治区で
12万の避難民が出て
問題になっているママサパノも遠くない。


この村近辺は、
くり返し戦闘に襲われ、

村民たちは、
家財道具を置いたまま
町に逃げ、

数か月か、
長いときには数年間も、
避難生活を余儀なくされてきた。

50年近く続いている戦闘!
最初は、クリスチャンとムスリムが、
宗教的に対立している
宗教問題かと思っていたけれど、

現地では、
戦争が起こると
協力して助け合っている!

わけがわからなかったけれど、
あるときわたしたちが
読み語りに訪れると、

「最近頻発に、
国際NGOが来るようになったけれども、
また大きな戦争にならなければ
良いけどなあーーー!」
と言われた。

「えっ!
なぜ、国際NGOが来ると
戦争が始まるのですか?」
驚いて聞くと、
言いにくそうにおっしゃった。

「世界が、ここに
関心を持つようになる前までは、
ミンダナオは
宗教や部族が違っていても、
数百年も平和だったのになあ・・・」

次第に、聞こえてきたのが、
戦争が起こる
(武器提供や兵士の雇用も含めて
海外からの力によって起こされる)
根本的な理由は、

東南アジア最大の湿原と呼ばれている
リグアサン湿原に眠る、
膨大が石油と天然ガスの
国際的な利権をめぐる
争いのせいなのだという。


po33
読み語りが
始まった!


MCLの
イスラムやクリスチャンや
先住民族の若者たちと、

一緒に、
現地で読み語りのまえの
踊りをおどる、パックン!

踊りと唄を楽しんだ後、
いよいよ読み語りが
始まった!

絵本など、
見たこともない子どもたち!
だけれも、夢中になって
お話の世界に入っていく!

この村にも、
何度も訪れているけれど、
普段は、
全くのどかで平和な村。

それにもかかわらず、
最近、
15軒の家が焼かれた。

MILFとBIFFの戦闘で、
村人全員が避難していた。

敵味方や善悪に
関係なく、

僕はとにかく、
一切の戦争が嫌いだ!

かわいそうなのは、
子どもたち!



po34
避難民の時に
約束した車いすを
少年に届けた


大久保さん、
ありがとうございます!


久保山 真由美さん
この子に、二台目の
車いすを寄贈しました。

ありがとうございます!

避難民の時にあった少年。

車いすさえあれば
学校に通えるんだけど・・・

「これで大丈夫だね!」

本人はもとより、

お父さんや
村長さんも大喜び!



po35
皆さんから
支援していただいた
古着を人びとに届けた


ミンダナオ子ども図書館での体験、
子どもたちとの出会い。

そして、
イスラムの人びととの交流。

思いがけない体験を胸に、
時には
涙を目にためながら、

パックンも、
制作者の方々も、
撮影の方々も、

来られたときの
緊張した顔とは、
全く異なった笑顔を携えて、

別れを惜しみながら
帰路につかれた。

「必ずまた来ますからね。
今度は、
子どもをつれてプライベートに・・・」

子どもたちも、
抱きつきながら、
大喜びで、
撮影隊の方々を見送った。

「バイバイ。また来てね・・・」


「もちろん、
さよならは言わないからね。
また来るからねーーーー!!!」

月明かりの夜、
みんなの愛情のこもった
別れの抱擁と歓声に送られて、

パックンは、
明かりのついた
食堂から出ると、

昇ってきたばかりの
半月と金星を見上げて、
こみ上げてくるものを
押さえきれない様子だった。



po36
パックンから、
ディレクターを通して
写真が届いた


15年近く日本を離れていると、
パックンが、
有名な俳優であることも
知らなかったので、

失礼してしまった。
「ごめんなさいね!」

しかし、
とっても自然で、


心の温かい人柄の、
好青年であることは、

一目見て、
すぐにわかった。

撮影の時も、
撮影されていないときも、

同じ表情で
自然に子どもたちを愛する、
パックン!

子どもたちも、
パックンが大好き!

また必ず来ますからね
絶対に!

いつでもどうぞ
何日でも、
泊まっていってくださいな!


池上彰の
ジャパンプロジェクト

世界の”命の現場”で
奮闘する日本人
 

 パックンが来た 
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po37
ペール生まれの
双子の兄弟


キアタウの民家に
泊めてもらった。


今回、
いっしょに来た、
ペール生まれの双子の兄弟。

4歳の時に、
母親とペルーから
日本に移住して、

日本で育ったけれども、
中学2年で
学業を停止。

いじめやケンカもあってか、
混沌とした成長期を
過ごしてきた20歳の若者。

日本語以外に
英語もほとんど
しゃべれない。

でも、見ていると
子どもが大好きで、
友情を培う力がすばらしい!

前にも、
父親が中華系で
苦労して育ち、

やはり英語が
あまりしゃべれない
若者が来たけれども、

性格が良く、
たちまち子どもたちと
親しくなっていった。

ミンダナオ子ども図書館の
子どもたちは、
友情と愛をはぐくむ
感性がすばらしく、

言葉がつながらなくても
心が通じて、
相手の気持ちをすぐに察して、
たちまち親友になっていく。

でも、やはり
心が通じるだけではなく、
言葉も通じる方が良い。

ペルーの双子の兄弟も、
ここにきて、
英語を勉強したくなって、

子どもたちから
遊びながら
習っているけど、

日本に帰ったら
がんばって
飛び職人として働いて、

次回はさらに
長期滞在しながら
英語学習をする予定だ。

左が日系人で、
スタッフのジケロくん



po38
山本博樹さまからの
お頼り

山本博樹さまからの
お頼りの一部を
掲載させていただきました。

松居友さま、
おはようございます。
先日、MCLで、
大変お世話になりました
山本博樹(剛の兄)です。


日本での超多忙さから解放され、
大好きな子どもたちに癒されて、
ゆっくり元気回復を
待ち望まれていた友さんだったのに、

穏やかにあんなにも奥地まで、
私たちを「慰霊の旅」に
案内していただいた上に、

MCLでは、
涙の大歓送迎で
迎えていただきました。


帰ってきて振り返ってみますと、
友さんの慈愛の深さと偉大さが、
心遣いのやわらかさが、
しみじみ伝わってきて、

ミンダナオの風のように
私たちを
癒してくれていことに気付きます。

人の幸せとは、
何かを知る出会いの旅を、
ありがとうございました。



po39
今回私は、
4回泣きました。



1つは、
カリナンの小学校を訪れたとき、

「十一叔父さんのひ孫がここにいる!」
と思うと泣けました。
日系の子どもたちの表情、声、歌、しぐさに
戦争と同邦が重なって、

そこに、私の場合、
私の母方の伯父は、カナダの敵国、
日系1世だということで、
山奥に強制収容されていたのですが、

そのときの状況もダブって、
涙が止まりませんでした。
まさに「慰霊の出会い」でした。


2つめは、
ナナオプランのタカさんに。

「この方は、十一さんではないか」と。
タカさんも、何か言いたそうで、
涙ぐんでいました。

「タカさんの父が、10歳の時、
お祖父さんが父を背負い、
ここまで逃げてきた!」
(敗戦の直前で、
祖父は30~40歳と思われる)

「タカさんの祖父は、当時、
『アバカ(マニラ麻)の太田興業』で
働いていた!」という。
叔父十一も、同じ太田興業だったから、
(当時叔父は21歳)、
ぜったい叔父のことは知っていたはず。

だからこそ、
友さんは,私たちに、
タカさんを
会わせたかったのでしょう。


今回、最初に訪れたタモガンに住む
「山田部隊ミンタル会」の堺幸一さんが、
今回の一番の情報通で、
友さんはこの方を、
一番当てにしておられたのに、
今年亡くなっていて、
当てが外れてしまいました。

友さんは後で、しきりに、「急がないと!」。
日本国内でも、
戦争体験者は、僅かになってきて、
とりわけ、現地は、きびしい。
私たちも、調査時には、
是非ご一緒したいと強く思いました。



po40
三つ目は、
マノンゴルのMCLの
スカラシップの子どもたち!


一つの家族、笑顔、その声、合唱は、
「よくぞ来てくれた!」
「私たちは、うれしいよ」という歓びを一つにして、
私たに、大歓迎を届けてくれました。

賛歌は、まるで、笑顔の弾丸が、
私をぶち抜くがごとく、
凛凛と、滔々と、延々と 熱く熱く、
私を打ちつづけました。

この子ら、一人ひとりは、
過酷な、想像を絶する境遇を背負って、
今、ここに、
安堵の喜びを爆発させているのだ。
皮膚の色、顔かたち、背負ったもの、
宗教の違いを超えて!

私は、今、
まさに人間の尊厳が輝いていると、
涙しました。

叔父十一たち、
この地で無念に果てた
一人ひとりの命の魂の、
これは、歓びと大歓迎なのだ!

私は、
胸が詰まって痛く、
涙は流れ続けました。


同時に、4っつ目は、
松居友さんの「やっていること」が、
究極、「こういうことかあ」と
笑顔の大合唱で気づきました。
心底、すげーことを、したはるんや、
あの穏やかさで。

「人間の尊厳を踏みにじる場が
『人間の戦場』である(広河隆一)」ならMCLは、
「人間の尊厳が輝く
人間の幸せと希望の場所」であると。

(子どもたちとスタッフのメンバーと
梓さんと友さんへの尊敬と、元気を願って)

終わりに、私たちは、
「小学生のスカラシップ」を、
支援させていただきます。

これも、叔父十一の遺志です。
叔父の遺族年金を充てます。

私たちの「慰霊と出会いの旅」を
ありがとうございました。

2015年12月11日(金)朝

po41
山の村
キアタウの下の
川の洞窟


写真は、山の村
キアタウの下の川の洞窟。
日本の兵隊が
沢山隠れていた場所で、

この洞窟が
玉砕した場所だった。

MCLの奨学生が
沢山いる地域。
実は、ぼくの叔父、父の兄も
フィリピンのルソン島で戦死していて、

なぜかミンダナオにいると、
しばしばその叔父の事を
思い浮かべる。

会ったことはないのだけれど、
父の話に聞くところでは、
性格も良く勉強も出来て
医師になった。

ところが
世界大戦が勃発して、
軍医としてフィリピンに
派遣されたけれども、

スペイン語も出来て、
現地の女性たちに
もてたそうだ。

ぼくが思うのは、
その叔父が戦争で
ジャングルを巡りながら、

おそらく現地の
子どもたちにも
出会ったに違いなく、

こちらの明るい
子どもたちを見ながら、

なんでこんな馬鹿げた戦争を
しなければならないのだろう、
と思ったに
違いないと言う事だ。

ぼくが、ミンダナオ子ども図書館を
はじめたきっかけは、
イスラム地域での戦争で、
100万を超す避難民が出ていて、

特に子どもたちの笑顔が
消えてしまっ ていることに
心を痛めたからだったが、

ミンダナオ子ども図書館の
活動を始めてから、
しばしばその叔父のことを
考えるようになった。

死んだ叔父が
ぼくの前に立ち、
この仕事を導いているような
気がする時があるのだ。



po42
慰霊に訪れた
山本御兄弟


写真は、今回ミンダナオで
亡くなられたおじさまを
慰霊に訪れた山本御兄弟。

70歳代前後のお二人は、
おじさんが戦前に
ダバオでマニラ麻を作っていた
太田興業に所属されていた。

しかし、世界大戦が勃発。
徴兵されて日本軍とともに、
カリナンの奥のタモガンのジャングルに
逃げこんで亡くなられ、

その慰霊のために、
お二人は来られた。

現地でマノボ族と
平和に暮らしていた人たちは、
戦争を複雑にとらえていた人が
多いと聞く。

おそらく
山本さんのおじさんも、
同じ思いだったのでは
ないだろうか。

ミンダナオ子ども図書館の
スタッフのジケロくんも、
おじいさんが太田興業の関係で
カリナンでマニラ麻を栽培していた。

しかし、戦争になり、
おじいさんは戦争を避けて、
まだ小さな彼のお父さんを
背中におんぶして、

バゴボ族の妻と一緒に
ジャングルのなかを
逃げまわったという。

ミンダナオ子ども図書館の
奨学生には、
そうした
日系人の子たちも多い。

彼らは、ジャングルに逃げた後、
自分が日本人の末裔であることを
ひた隠しにして、
先住民として生き延びた。

ぼくも、ときどき耳元で
そっと声をかけられることがある。
「実は、わたしのお祖父さんは、
日本人・・・」



po43
初代市長の
末裔だった


図書館の敷地内には、
アポ山の噴火で飛ばされてきた
火山弾とおもわれる
大きな岩があるけれども、

いぜんから
村人はそのなかには
妖精がすんでいると
語ってきた。

とりわけ夕刻に、
その岩のそばを
とおるときには、

岩にむかって
声をかけるのが習慣だ。
「ちょっと、ごめんなさいね、
通してね・・・。」

その岩は、
妖精たちの
家だといわれているし、
なにか気配をかんじるのだろう。

ミンダナオ子ども図書館の
土地をゆずってくださったのは、
お隣さんのインカルさんだ。

インカルさんは、
理事をやってくださっていたが、
亡くなられた。

お父さんが、
初代のキダパワン市の市長で、
マノボ族の酋長だった。


po44
キダパワンには、
マノボ族しか
すんでおらず


そのころキダパワンには、
マノボ族しかすんでおらず、
ミンダナオ子ども図書館のある場所が、
神聖な中心地で、

ある特別な日になると、
敷地内の妖精の家とよばれている
岩のまわりに
亡くなった先祖たちがあつまって、
集会を開くのだとおしえてもらった。

インカルさんを中心とした
マノボ族は、
けっきょくそのご自給地を奪われ、
山のおくへとうつっていった。

ただし、インカルさんのお孫さんたちや、
親族たちは、貧しいけれども
川のふちに家をたてて
今でも何とか暮らしている。

子どもたちも
三食たべられなかったりするので、
ミンダナオ子ども図書館でご飯を
食べられるようにしてあげているし、

何人かは
スカラシップをあたえて、
大学までいけるように
してあげている。


po45
男の子が、
バナナをしょって


驚いたのは、
はるか遠い山のなかの
村のはずれを歩いていたら、
一人の男の子が、
バナナを袋に入れた
重い荷物をしょってやってきた。

なかなか、すがすがしく、
良い顔をしているのでたずねると、
学校にいくために
がんばっているのだという。

「名前は?」
「インカル。」
びっくりした、
初代市長の末裔だった。

その出会いがきっかけで、
彼は奨学生になった。
いま彼は、高校生だ。
いつか市長になってくれたら、
いいのになあ。
 



po46
野菜売りの少女の
家をたずねた


今回は、
訪問者とダバオの
画家が同行した。


大雨の中を、
びしょ濡れになって川を渡る。


家は、
川向こうに建っている。 


妹のビビが、
野菜売りをしている。

以前の
ジョイジョイそっくり!

お姉さんのインダイ
次女ギンギンもいた。
すっかり大きくなって、
年頃の少女!

でも、
仕事が無くて困っている。
何か、
考えてあげなければ!


小さかったインダイ(手前)と
ギンギン(向こう)
パイナップルを
プレゼントしてくれた。

滑る中を
パイナップルをもって
登っていく・・・



po47
カリナンの
市場に行った
 


日系人がたくさんいることで
有名な、
カリナンの市場に行った。

今、
「野菜売りの少女」のお話を
何とか本にしたいと思っている。

山菜売りの少女 
物語と
松居陽制作の映像へは、
以下をクリックしてください!
山菜売りの少女へGO!

画家にとっても、
実際に現地に行くと
気持ちがぜんぜん違ってくる。

ミンダナオの食卓は、
日本の食事と根底がにている。
たくさんの干物。
塩っ辛いけど、ご飯が進む。

塩辛に沖縄と同じ
ゴーヤチャンプルもある。
おいしさの秘訣は、
下味づくりだ。

ショウガ、ニンニク、
小さなタマネギ
香辛料の草を細かく刻んで
下味を作り、

それをだしにして、
魚の煮物
肉料理の味付け
スープのだしにする。

軽く酢で締めた
刺身もたべる。



po48
わたしの
少女時代の思い出から
 
エープリルリン

妻、エープリルリンが書いた、
自分の幼いころの事の一部を、
本人の希望と了解でここにのせます。
いま彼女は、
自分の人生を書き始めています。


1985年4月20日、
わたしは兎口で生まれた。
5人兄弟姉妹の2番目。

わたしが生まれても、母さんは、
わたしを自分の子どもと
思ってくれなかったし、
何の世話もしてくれなかった。

おばさんが、
めんどうを見てくれただけ。

普通とちがう顔で生まれたから、
それからあとの人生でも、
さんざんいじめられて育った。

でも、恥ずかしいとは思わなかった。
それどころか
兎口で生まれたことを
誇りにおもった。

兄弟姉妹のなかでも、
ユニークな顔立ちだから。
しかし、
思った以上に人生はきびしく、
そう簡単ではなかった。

「なぜ、
わたしの顔はこんななの?」
「なんで、
こんな顔になってしまったの?」


po49
あっちへ、いけ!

五歳になると、母さんが
わたしを嫌っているのがよくわかった。
母はわたしと目をあわせたくなかったし、
わたしが抱きつくと叫んだ。
「あっちへ、いけ!」

母がやってくると、わたしは、
あえて台所で働いたり、
井戸から水をくんだりした。

いつもの習慣で
母がお酒を飲んだときは、
なんの過ちもしていないのに怒鳴られた。
母は洗濯女で、父は農夫。

山から父は、
月に1度か2度しか家に帰らず、
母はまいにち夜おそく家にもどり、
それからあとは飲んでいた。

小さいころから
母さんをよろこばせ、
家族を助けるために家事をしたから、
料理はじょうず。

でも、
ほかの子たちと
遊ぶひまはなかった。

わたしたちは、
海のそばにすんでいた。
だから、貝をみつけて
おいしいスープも作った。

母さんは、
朝早く5時には起きて
頭をかかえると
「いたい、いたい」とうめいていた。


po50
あんた、
娘を殺すつもり!


その日、
わたしは前日食べた貝のせいか、
ぜんそくの発作で
起きられなかった。

すると、母さんは、
わたしのところに来て怒っていった。
「起きなさい!まだ寝ているの!
はやく、起きなさい!」

母さんは、わたしをつかむと、
家の入りぐちまで押しやって、
外になげだそうとした。

わたしは、あわてて、
母の服をつかんだ。
それを見たおとなりさんが、
すかさずさけんだ。
「自分のむすめに
何ということをしているの!
頭がおかしいんじゃない!
あんた、娘を殺すつもり!」

おおきな叫び声に、
隣近所のひとたちが、家からでてきた。
それを見て、母さんは、
わたしを外においたままドアを閉めた。

その後、おばがわたしを引き取って、
数ヶ月そこですごした。
そのごも、親戚から親戚へと
たらい回しに回されて、
一年たって家へもどった。

わたしは、小学校に
行きたくてしょうがなかった。
一年生になれることに、興奮していた。
友だちには、クラスメートになる子もいた。

でも、予想したとおり、
彼らは、わたしを「兎口!」といって、ばかにした。
それでも、わたしはそれを受け入れて、
かえって勉強に精をだしたので、
クラスでトップになった。

でも、両親は、
表彰式の日にはこなかった。
わたしがクラスでトップになって、
授賞式の日がいつか、知っていたのに。

下の妹がわたしを呼んで、
人混みのなかを
いっしょに両親を探したけれど、
どこにもいなかった。

しかたなく、わたしは
ひとりステージに立ち、
リボンとメダルを受けとった。
涙がほおを伝わって流れるのを感じた。


po51
母は
家を出ていった


家に帰ると、
家のなかの様子がおかしくて、
そっとカバンとメダルをテーブルにおくと、
バケツを持って水くみにいこうときめた。

そとにでて、
家の扉をしめようとしたとき、
父にあった。
父は、わたしを家におしもどした。

中にはいると、
メダルとリボンは、
めちゃくちゃになりこわされていた。
わたしは、泣いた。

その夜、
母は弟と妹をつれると家を出ていった。
姉は祖母のところにいき、
わたしは、下の妹と残された。

その後、父も友だちと仕事をさがして
どこか遠くへ行ってしまい、
わたしは下の妹と
叔母の家に住むことになった。


下の写真は、
父親が亡くなって奨学生になった
イスラムの戦闘地の少女と
いっしょのエープリルリン。

いま彼女は、
MCLのプレシデント。
彼女が、採用の決定をします。

しかし、まだ支援者がないのに
奨学生として見捨てられないので
採用して学校にいかせてあげているこが
180人もまっています。

皆さん、
第二の親になってあげてください。
支援方法は、以下のサイトから・・
http://www.edit.ne.jp/
~mindanao/siennhouhou.htm



po52
I was born
with a harelip


On April 20, 1985, I was born with a harelip.
I am the second child among 5 siblings.
Since, I was born
my mother did not like me as her child.
She did not want to take care of me instead,
my aunt who take care of me.

I`ll grow up with full of teasing
because of my physical appearance,
despite my appearance I do not feel shy,
I am proud of become harelip
because I feel I am unique among of them,
but it is not an easy as I thought,
It is hard enough fo me. Sometimes,
I ask "Why I am like this?"
" Why it happened to me?"

The age of 5,
I cannot deny that my mother hate me,
she doesn`t want to see me
if I try to hug her she shouted of me.
"Go away! she said. If I saw her coming,
I'll rather than make myself busy helping
in the kitchen or get water from the deep well.
I always scolded by my mother with or without
mistake especially when she was drunk,
it is a daily routine. I do all chores in our home.

My mother is a laundry woman and my father is
a farmer once or twice in a month
he came back home
while my mother returned home late at the night
and some other time that she was drunk.

Even in my age I work hard to help my family
I already know how to cook just for our meal.
have no time for playing together with other children
because I always thinking on
how to make my mother happy.
We lived near in the seashore,
so, it is easy for me to find a shell
to make soup for viand.

Early in the morning at 5:00 am she woke up
and touching her head
"I had my head ached" she murmured.
I was not able to wake up that morning
because my asthma was attacked at that night.
She rushed towards me
" wake up...wake up..
why you still sleeping here?"
in a roaring voice.

I was caught by her and
she pushed me into the doorway,
exactly she threw me,
I quick touched her clothes, suddenly,
our relative neighbor`s saw the event
" What are you doing to your own daughter?
are you crazy?
Do you want to kill her? ”neighbor`s loud voice.

The overflowing terrific voice
catches the attention of our neighbor
and one by one they came out from their house
and that time my mother put me down
and closed the door.

Because of that event
my aunt took me to their house
temporarily stay there for a couple of months,
I move from one relative to another relative
until almost a year then I go back home.

I am so excited going to school in frist grade,
I meet many children,
some of them become my classmate.
As I expected
they teasing me "BUNGI" in Bisaya dialect
notwithstanding for teasing me I pursuing my studies
and become a first honor of our class.

The time of our recognition day
giving awards to those pupils
who got an excellent in their class.
My parents did not go there
even though they knew that I am a first honor.

I heard my name calling by the Emcee,
I look side by side in the crowded people t
o find my parents but no one there,
I came to the stage alone
and received my ribbons and medals
and I notice my tears flowing in my cheek.

I came back home, I found that they cruel
and I slowly put my bag
and my medals on the table
and I pick up a container to get water in the pump

when I close to our house I met my father
and he pushed me into the house.
I have nothing to do but just crying and
I found out
that the lace of my medals and my ribbons
scattered and cut into pieces.

At that night my mother gone away,
she went to her godparents
and few days after, she took my brother and sister,
I left and my two sisters in the house and then,
my father gone away too.

He joins his friend to find a job far from us so,
our relative get us and stay their house.
A week after, my grandparents come
and take my eldest sister
I left with my sister in my aunt.


わたしの少女時代の
想い出から
松居 エープリルリン   
Go!


地震の悲しみで お父さんが!
地震の悲しみでお父さんが

酋長の依頼で! 読み語りに!
酋長の依頼で

地震の悲しみで お父さんが!
地震の悲しみでお父さんが

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ミンダナオ子ども図書館 若者の友情:日記
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