エスティリオ崇拝に関する考察   (植田清吉)



 Fローズ基本ルールセットにおいては、信仰対象となり得る歴史上の人物には、リミン、グンド、エスティリオの3つが用意されています。このうちリミン、グンドの二者についてはその人物自体の履歴、また信仰対象とした場合の性格や行動原理といったものが非常に特徴的であるため、PCのみならずシナリオ中に登場するNPCの信仰として、しばしば設定されるのではないかと考えます。
 それに対してエスティリオは、どうも地味であるという印象を拭えない気がしてなりません。Fローズの発売以後、幾度と無くマスターをする機会があり、またプレイヤーとして他の方がマスターをされるセッションに参加することもありましたが、ただの一度もエスティリオを信仰対象とするキャラクター(PC、NPC問わず)に出会ったことがありません。
 ぼく自身、自分のプレイするキャラクターの信仰対象にエスティリオを、と考えたことも無ければ、NPCの性格付けとしてこの歴史上の人物を崇めるという面を用意したこともありません。
 ひとつには、それを信仰対象として選んだ場合の特典があまりに非実用的(ゲーム中において)であるという点が挙げられるかと考えます。能力値にボーナスが付かないという実際の不利さ加減にも当然理由が有ろうかと思いますが、エスティリオを信仰対象とする時の条件に「特に無し」とあるのも理由ではないでしょうか。
 他の多くの信仰対象では、この条件の欄に感情や能力値など様々な具体的条件が書き込まれています。性格や行動原理だけでなく、この「条件」によってそれを信仰する者の姿勢が明らかにされるという点も有るのではと考えます。ところがそこに「特に無し」と書かれた場合、我々としては戸惑うほかありません。
 誰もがエスティリオを信仰対象とし得るのか、またこれを信仰対象とした者は一体何を考えているのか。このことが疑問として浮かび上がってきます。
 誰もがエスティリオを崇拝出来るということは、信仰の形に大幅な差異が生じる可能性を内包しているということになります。
 エスティリオ崇拝の性格としては「理想主義で懐古主義」また行動原理は「統一王朝の復活」と書かれています。
 Fローズのシステムデザイナー藤浪智之氏(+遊演体)は、RPGマガジン94年8月号掲載の「ユルセルームは 遠くない(4)−神様はどこにいる?−」(40頁)の中で、「歴史上の人物のひとり“頂きの”エスティリオ(統一王朝を築いた伝説の人物)はPCの選ぶことができる信仰対象だが、これもほとんどNPC用みたいなモノである(特典が「統一王朝に関する歴史に詳しくなれる」、性格は「理想主義で懐古主義」)。善意の人物だが、実質的には何の役にも立たないような、ファンタジーRPGによく登場する「王様」とか「村長」とかのNPCが信仰していることだろう。」と述べておられますが、当然ながらこれはエスティリオ崇拝の一つの形に過ぎないわけです。「王様」「村長」といった中道寄りの消極的保守勢力に属する階級によるエスティリオ崇拝の産物は、教条主義・前例主義といったところになるでしょう。
 しかし、もっと先鋭化した極端な信仰の形が生まれる可能性も有り得るわけです。たとえば「大戦」によって所領を失った往時の貴族階級出身などといった家系伝説を持つ野伏や流民たちにしてみれば、現在の自分たちの境遇に不満を持って当然です。彼らとエスティリオ崇拝が結びつき、その信仰の形が積極性を持った場合、先に挙げた「王様」「村長」などによる信仰とは似ても似つかぬものになるでしょう。華やかなりし頃の統一王朝を追求する「理想主義」は「懐古主義」を「復古主義」へと変質させ、「統一王朝の復活」こそ救世の策、自分たちに与えられた天命とする考えが生まれても不思議ではありません。
 滅亡した統一王朝の完全復活のためには、統一王朝の断片である現体制を否定しなくてはなりません。完全に否定しないまでも、断片は新たな統一王朝に吸収されるべきであり、少なくとも現状のまま黙認するわけにはいかないでしょう。
 このようにして生まれた極右的とでも言うべきエスティリオ崇拝の形は、信仰としては奇形であるかもしれません。ク=ナル信仰やデュール新教ほどの危険性は無いにせよ、もはや「現状を否定し、逆行することに積極的である」という点で、古デュール派の行動原理「試行錯誤と発展」に近づいているようにも思われます。
 例えるのなら、明治維新の直前、国学の影響下にあった初期の過激派志士たちの幼稚な国粋尊皇主義のようなものでしょうか。現代からしてみれば時代錯誤を感じさせ滑稽でしかありませんが、彼らは彼らなりに真面目に危機感を感じて行動したのでしょう。彼らの性格を分類するのならそれこそエステリィオ崇拝の性格と同じ「理想主義」「懐古主義」といった分け方に当てはまるのではと考えます。
 同じエステリィオ崇拝について、まだ様々な信仰の形が生まれておかしくないと思います。またエステリィオ崇拝に限らず他の信仰についても、画一化された解釈ではなく多種多様な立場による解釈をする余地があるのではないでしょうか。
 また、エスティリオだけに限った事ではなく、全ての信仰の行動原理について、「過激なまでに盲目的・原理主義的な信仰」であった場合、他を省みないという点において古デュール派に重なる要素を持ち得るものと考えます。ただしその信仰を奉ずる者が、他の信仰対象を否定しない限り、という条件付きですが。否定した場合は当然デュール新教寄りということになるでしょうか。)
 ユルセルームの神話にある「デュールは他のスィーラの力を少しづつ兼ね備えている」という性格は、これを逆説的に反映したものと解釈できるかしれません。

筆者注:この文章はかつてRPG専門ネットEXCELに発表したものを加筆訂正したものです。


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