リミンに代表される英雄崇拝に関する考察   (植田清吉)



 「リミン」を崇拝するというのは宗教なのでしょうか。信仰対象としての「リミン」が成立するに至った経緯からして、スィーラ7柱を神として信仰するのと同次元の崇拝では無いような気がします。
 スィーラたちは「力」・・・・パワーソースとしても具象化されますが・・・・を有する存在、信仰する側からしてみればあくまでも「異形」であり、リミンはフェルダノンであるとは言え、半分は妖精族の血を引き、神話の中ではなしに歴史にその足跡を印しています。崇拝する側の「言葉有る種族」により近い存在であると言うことが出来るでしょう。
 スィーラへの信仰が、神の力を怖れ敬い、またその力を分け与えて貰うという、悪く言えば現世利益的、神頼み的な部分があるのに対し、リミンその他の英雄への崇拝はもっと純粋な、その生き方や死にざまに共感したがための、言わば憧憬や尊敬に近い形になるのではないでしょうか。リミンとは、それを崇める者にとっては神に近い存在であるかも知れませんが、やはり神々とは一線を画する部分が有ってしかるべきではないか、信仰されはしても宗教とはなり得ないのではないかと考えます。彼らは「教え」を奉じているわけでも、「戒律」に従っているわけでも無いのですから。
 リミン、グンドといったかつての英雄を崇める者たちは、非常に孤独ではないでしょうか。彼らの慕う英雄たちは、神々と違ってその崇拝者を守ってくれるような存在ではないからです。それでもなお、尊敬し、憧憬する英雄たちの姿に一歩でも近づこうという信念を持って生きているのだと思います。その崇拝者たちが、威厳に満ちて、また美しさをたたえて見えたのならば、それは彼らの内面にある何かがそう見せたのでしょう。確たる信念を持った者の気高さ、強さとでも言うべきでしょうか。
 彼らが、リミンやグンドと言った自分たちの信仰対象を「布教」するでしょうか?「加護」を求めるでしょうか? もっと突っ込んで言えば「リミンの祭司」「グンドの祭司」という立場が有り得るでしょうか?
 僕自身の解釈では「否」ということになります。彼らは英雄ではありましたが宗教家ではありませんでしたから。彼らは行動することによって人々を救ったのであり、教えによって人々を救おうとなどはしませんでしたから。グンドの廟が各地に有ったとしても、分骨した墓が有るのと同じで、スィーラのために建てられた神殿のようにはなり得ないと思います。そこで祭祀が行われることも有るでしょうが、その祭祀はあくまで死者を弔い、その遺徳を偲ぶものという形を越えないのではないでしょうか。
 まぁ、色々とこねくりまわしましたが、僕自身としてはリミンやグンド、エスティリオといった英雄崇拝は、同胞としての彼らとその生き方、死にざまを慕うものであって、宗教とは言いにくいのではないかと考えているわけです。(そもそもユルセルームについて言えば、その世界の信仰の背景には統一の神話体系が存在するため、余程の特殊なケースを除いて「宗教」という言葉、「異教」という概念を持ち込むのは困難ですが)
 ところで、念のため付け足しておきますが、自分がプレイヤーの時、もしくはマスターとしてリミンやその他の英雄を崇拝するNPCを演じる時にはこう解釈する、というだけであってこれを他の人にまで押しつけるつもりは毛頭有りません。「信仰対象」それぞれが持つ「行動原理」の解釈も、多種多様であってしかるべきだと考えています。
 例えば「“輝きの”オザン」神には「生命への慈しみ」が行動原理として示されていますが、この「生命」をどこまで拡大解釈するかは自由です。「自分個人の生命」から「全ての生命」まで。「“蒼海の”アウル」神の行動原理は「法と平等」ですが、では「平等を乱す法」が存在したとしたらどうするか。この対応も各信者の自由に任せようと思っています。
 宗教というもののあり方について深く考えたことはあり ませんから、こうすることにどれぐらいの意味があるのかもよくわかりませんが。

筆者注:この文章はかつてRPG専門ネットEXCELに発表したものを加筆訂正したものです。


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