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−徳川六百年−江戸時代とメックの歩みの変更点

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!!メックパーツ発見、そしてメック誕生
「メック」の材料となる「メックパーツ」が発見されたのは、今を遡る事450年、平賀源内が宝暦11(1761)年に鉱脈調査の為、富士山付近を調べ回っていた時だった。
調査に同行していた助手の一人が「見慣れない物質を見付けた」と、発掘した謎の金属片を源内のところへ持っていった。それを目にした源内は、脱兎の如く発掘された場所へ向かい、助手達と共にそこを掘り下げていく。すると、一種類だけでなく、幾つもの種類に分かれた未知の金属片が大量に発掘された。
それらを江戸に持ち帰って研究したところ、特定の組み合わせで様々な現象が発生する事を突き止めた。
まず始めに、その研究成果を自ら手掛けていた人形浄瑠璃に応用し、続いて長崎出島から持ち帰ったエレキテルの復元に利用した。この二つの試みは見事に成功し、懇意であった幕府老中である田沼意次を通じて時の将軍、徳川家治に献上、その功績を認められ、メック研究、開発を一任される。
日本再発展の転機となったこの年は、「メック元年」と呼ばれている。
尚、この頃はまだメックといった名称は付けられておらず、単に「からくり」と呼ばれていた。或いは、富士山からパーツが発見された事に因み「富士からくり」と呼ばれる時も有った。

!!ペリー来航
源内の死後も、彼の子孫や弟子達によってメック研究、開発が進められ、様々な製品が作られた。但し、まだこの時期は市井にメックの存在は殆ど知られておらず、加えてメック製造の機械化も進んでいないという事も有り、将軍家や大名からの注文品を源内が遺した工房で製作していた・・という程度だった。
メック元年から約100年が経過した嘉永6(1853)年、ペリー率いる黒船艦隊が開国を求める為に浦賀へ来航する。
しかし、艦隊乗組員の一人が補給の為に琉球へ立ち寄った際に「浦賀へ行く」と漏らしてしまい、それを聞いた琉球王は幕府へ連絡。それを受けて、来航前から秘密裏に建造していたメック製戦艦や大砲を配備し、艦隊を待ち構えた。
「条約を受け入れられなければ、武力行使も止む無し」と考えていたペリーだったが、浦賀に到着した時に待ち構えていた戦艦を見て驚き、入港もままならない状態だった。数日の間、艦隊同士の睨み合が続き、遂にペリーから「敵対の意思無し」と表明し、ようやく幕府との会見が成立した。
ペリー・・アメリカ側の要求は開国だったが、幕府側は「出島での交易のみ許可。鎖国は継続」の姿勢を崩さなかった。このままでは戦争か・・と心配されたのだが、翌年の宝暦12(1854)年、アメリカは幕府の「鎖国は解かないが、横浜に出島を増設する」という妥協案を受け入れ、日米通商条約が締結された。
ペリー・・メリケン側の要求は開国だったが、幕府側は「出島での交易のみ許可。鎖国は継続」の姿勢を崩さなかった。このままでは戦争か・・と心配されたのだが、翌年の宝暦12(1854)年、メリケンは幕府の「鎖国は解かないが、横浜に出島を増設する」という妥協案を受け入れ、日米通商条約が締結された。
後年、ペリーは遠征記にて「日本の通信の早さ、そして軍備を侮っていた。どちらも、我々より数世紀前の段階で進化していないものと思っていた」と記している。

(以下続く)