どうも、PAGE5はゆうこさんです。これは結構はやくに投稿されたものです。ただ、その後のリライト等でさらに面白くなった投稿です。
わくわくさんとはまた違った投稿の深さといえましょう。じっくり読みましょう。
投稿者:ゆうこさん 今回のテーマ:「ローマが滅びるときは世界も滅びる」 第5部は「仁義無き戦い(これも古いよなあ(笑))(編注:古い(笑))-イタリア編」であったはずなのに、いつのまにかものすごい方向に話が展開していっています。終末を彷彿させる救いのなさを感じているのは私だけでしょうか? 確かに舞台がローマに移ってから、何かが変わりました。ローマにいる人々は疫病に苦しみ(byチョコラータ)、精神が錯乱し、今肉体も変貌しつつあります。やがて正気を失った生き物同士が殺戮を開始するかもしれないし、天変地異が起きるかもしれない。 「レクイエム」という例の「物体」ですが、名前が妙に引っ掛かるのです。ポルポルの肉体の死に対する「鎮魂曲」ではなく、イタリアの作曲家ベルディが作った宗教曲「レクイエム」を意味していたらどうでしょう。この合唱曲は聖書の「黙示録」いう世の終わりを告げている章をテーマにしたものなのだそうです。この「黙示録」という章では、“バビロン”という都市が崩壊する様を描いているのですが、この都市はローマであるという解釈するのが一般とされています。又「ローマが滅びるときは世界も滅びる」という格言が正しいとすると、この先ミスタのいうようにローマだけでなく地球上のあらゆる生物(動物、人類、植 物)がそのかたちを変えていき、それは世界の滅びを意味するのでしょうか。 なんか、とんでもないことを書き走っている気がしてきましたが、以上のことを踏まえてもう少し、詳しく突っ込んで見ようと思います。 1.ジョルノは誰だ? これはかなり強引な私の推論ですが、彼は良くも悪くもキリスト教義内での「善」を表わしているのではないでしょうか。その理由ですが:
ジョルノは別名鬼畜といわれているように非常に敵に対し冷徹なのですが、これは、キリスト教義の「悪」に対する徹底排除の思想に酷似しています。 例えば彼が直接戦いに参加したギアッチョ戦、メローネ戦やチョコレータ戦において、敵とはいえ、ジョルノは眉一つ動かさずかなり冷酷に彼らを殺害します。しかも実行直後においてもジョルノには全く感情の乱れがなく、そして彼は何もなかったように振る舞っているのですが、これは真に恐ろしいことです。一度ぽる亀に向かって、「あんたのスタンドを殺す」(つまり正しい秩序に戻すためには、混乱の原因であろうぽる亀を誅戮するのは当然であるという論理)ということを堂々と言ってのけてますし。又現在ブチャ一行のどこかに潜んでいるボスをいぶりだそうとしていますが、ジョルノは「やるしかない」とかなり非業なことをするような予告をしています。ひょっとしたら結果的に全員を「殺る」ことになるかもしないが正義のためなら至当な手段というのが彼の本音でしょう。(ちなみに ボスを探し出す方法ですが、ジョルノが「動いたものがボスだ」と言う案を考えてみたんですけどね。ただこれだと、マジにジョルノの一人勝ちになっちゃう可能性が高いんだよなあ) 又、天使の羽を持っているということで、あえて彼を天使に喩えるとすると、人間に直接関わる力天使とか能天使に近い気がします。このような天使達は悪魔と永い時の間最前線で戦ってきた者達ですし、それ故悪魔達の残忍な性格を承継することが多々あるのだそうです。実際ジョルノはそもそも吸血鬼の息子なので、DIOの悪の性格を受け継いでいても何の不思議もありません。しかもジョルノはどういう訳かキリスト教では邪悪なもの・不浄なものの化身といわれる蛇・蛙をよく生み出して操っていますし。(蛇とか蛙ってDIOがいたエジプトでは神聖な生物であったそうです。やはりジョルノは正義の直系でありながらDIOの血が強いからか?)こう考えていくと、ディアボロ(キンクリ)にとって憑依しやすい魂を持っているということになるんですが…。 一方こういった性質を持ちながら、キリスト教義(そしてそれを担う天使達)は人々を精神的に救済し向上させるという役目を担っています。古来からの小説によると、上述したような能力をもつ天使達は「英雄」が旅を続ける過程において、案内役となり彼らが試練に陥ったとき勇気を吹き込み正しい道へ導くのだといわれてきました。この正しい道なんですが、ジョルノが「絶対」と思いそれに基づいて行動したとき、必ず物事はブチャ一行にとって「良い方向」に進んでいきます。まあかなり自己中心的で生意気な奴といったらそうなんですが、イルーゾォ戦でアバッキオと口論したとき、年上であろうと他人の意見は一切聞かずに 自分が正しいと思ったやりかたを講じ、結果的にはイルーゾォを倒すことに結びつけました。 このように考えていくと、ジョルノがこれまであまり活躍していなかった理由がはっきりしてくるように私には思えるのです。つまり善き者「ブチャ一行」と悪しき者「パッショーネ(キリスト受難を意味していると私は力説したい(笑))」との戦いを通し、ジョルノがなすべきことは、自ら表舞台に出ることではなく、精神的に未熟であった彼らを援護し、正しい道に彼らを導き、「暗闇の荒野」に立ち向かい「真実」を得るための「強さ」、「決心」、「覚悟」という「意志の力」を与えることだったのではないでしょうか。精神だけでなく、ブチャ達のぼろぼろになった肉体に対しても癒しを行うようになりましたしね。ギアッチョ戦で最後の最後に登場した時、この人から太陽を背に後光がさしていたと思うのは私だけでしょうか? もしブチャがジョルノに会っていなければ、おそらく自己矛盾で一生終えていたかもしれないし、アバッキオはくだらない男のままだったでしょう。でもその代わりに遺志を残してアバは死ななければならなくなったし、ブチャに至っては死をも恐れぬ殉教者のようになってしまっています。ただこれからの戦いにおいては、ディアボロ戦にしてもレクイエム戦にしてもいくらブチャ達が(トリッシュも見違える程) 成長したとはいえ「格」が違いすぎる。これからはジョルノの独壇場とならざらるをえません。フ-ゴも康一君も(承太郎とか杖助も?) レクイエムの影響を受けているようだから、ヘルプで登場する機会はないでしょう。 従ってこれまでとは逆にブチャ一行が、その結果ほとんどが死んでしまうかもしれないけれど、彼を助ける役目に回るのではないでしょうか。私的には、ジョルノがDIOみたいに「僕は人間を超越する」的せりふを言い放ってみんなを畏服させるのを期待してるんですけどね。 (「Gold Experience」の初期設定で相手の能力をそのまま返すをいうのがありましたが、これって悪因悪果(悪事をしたものは、それがそのまま跳ね返って報いが身に降りかかる)とかいう仏教の教えみたいな能力だとおもうんです。だから、ジョルノにはふさわしくないので自然消滅したんじゃないでしょうか?) 2.ディアボロについての補足 (ディアボロがどこに潜んでいるかは、もう予想はだしつくしちゃってるから、どなたかは当たりますよね(笑)) 前々回ディアボロは悪魔じゃないかという説をぶちまけましたが、少し補足と修正をさせてください。 というのも、あいかわらず彼はラスボスでありながらキャラクターには全く深みがないからです。悪魔説をぶちまけたのはもう少しきばってくれやっていう期待の気持ちがあったんですけどね。この件についていろいろと考えてみたのですが、私的な結論はこうです: ジョルノがキリスト教義における「善」とするならば、かれはそれに背く「悪」である。聖書によると、悪魔は「ずる賢く劣悪な魂」を持ち「人と善に敵対するもの」であり、 「人を罪に陥れ堕落させるもの」 である。ディアボロはまさしくそれで、それ以上でもそれ以下でもない。 なんか我ながら情けない結論だなあ(苦笑) 。 キリスト教義では(まあどの1神教にも共通している善悪2元論に見られることですが)、悪魔は抹殺さるべきものなので実に薄っぺらな存在として描かれています。もともと悪魔は善(神というの名の正義)を絶対視させるためつくられたものでなので、そこには悪魔側からの我々に訴えかけるメッセージ(いわゆる悪の哲学)は存在しません。つまり悪魔という私たちが忌み嫌うためだけの存在が、ディアボロとして実体化したのではないでしょうか。又彼は名前は「ディアボロ」なんですけどカリスマ性がないし、「試練」とか言っているのでサタンとかリバイアサンとかの上位な悪魔ではなく発展途上の下級な悪魔なのではないでしょうか(うーん) 又悪魔とは厳密にいうと、悪の精霊で自分の体は持っていないので、他の人間もしくは生き物の体に寄生する必要があります。つまりそもそも悪霊であり後にキンクリというスタンドをも包括した精神がディアボロの正体なのでしょう。私はやはり刑務所にいた女性にディアボロが胎児として取り憑いたのではないかと思うのですが。 これには性交渉は必要ないですし、宿主に後々まで命令することも可能になります。(そうするとトリッシュ ボディに胎児として憑くことも可能になるんですけどそれはないんじゃないかなあ) そしてディアボロは自分をカモフラージュさせるために意識的にドッピオという人格を作り出したのではないかと私は推測します。キンクリは、人間の前に出ないことで自分をある意味神格化させることにつとめつつ(もしこの推測が当たっているならば、このキンクリのもくろみは見事に失敗してますけど)真っ暗な影としてドッピオの純粋な性格を操りつつ「永遠の絶頂」を目指します。ただ、リゾット戦にて、もう一つの人格であるドッピオがどうやらこの大きな影を認識し、自分に一時とりこむことに成功したと私は推測します。この強さは恐らくディアボロにとっては驚異であったに違いありません。近い将来逆に自分が支配 される可能性がでてきたからです。 精神入れ替えのとき二人一緒にブチャボディに入りましたが、「危険だから」といって自分だけ抜け出して違う体に移りました。これは、自分を危うくするであろうドッピオが邪魔になり見捨てたということを意味しているのかもしれません。又ああなってしまった以上ドッピオ君は今後登場することはないと思います。おそらくあのままのたれ死んでいるか、もし登場したとしても 精神を乗っ取られて自我が破壊している可能性が高いでしょう。 3.ナランチャ再考 ストーリー展開上からなぜナランチャは死ななければならなかったのか、ということをもう一度考えてみたいと思います。どうやら、ナランチャの体にはボスはいないようですしね(鉄板の予想じゃつまらないからボスはナランチャ ボディーにいると大穴予想したんだが…くそー)。まあ第一の理由はジョルノを主人公にする布石が必要だったからなんですが、それをいったらナランチャはいったいなんだったんだっていうことになってしまう。そこで、いろいろ考えたんですが、ローマでそしてブチャ一行にこれから起こること・起こっていることはナランチャが体験すべきものではないので、あそこで死ぬ必要があった、というアイデアを掲げたいを思います。 ブチャラティーやジョルノのおかげでかなり依存性が強かった彼も、保護者フーゴから独立し自分自身で行く道を決めるという意志の力を得ました。ただ、まだナランチャは「少年」であったということ。マンモーニであり非常に純粋で脆いのでいつも(死んだ後でも)誰かに守られていなければいけないのです。従ってこのような「少年」にとって、これからの戦いは厳しすぎるし、又その結果彼が生き残る可能性はほとんどないといっていいでしょう。おそらく死に方もあれ以上の無残なものになるかもしれない。
ナランチャが死んだとき、ジョルノは生命の樹を作り彼を包みました。ここなら、「誰も、(例えレクイエムであろうとディアボロであろうと)これ以上ナランチャを傷つける」ことはしないし、何が外部で起ころうともこの樹が彼を庇ってくれます。別の生物に変貌する恐れもないし、ナランチャはナランチャのままです。 このシーンなのですが、私にはどうもあるものをイメージせずにはいられないのです。 4. レクイエムについて考えよう これがここまでするとは正直思っていませんでした。レクイエムはいまだに謎な存在なのですが、私なりに考えていきたいと思います。 ジョルノによるとレクイエムは「孤高のパワー」であり、何人も近づけさせない、のだそうです。ディアボロもどうしていいか分からなかったようです。ジョルノやディアボロが理解できない、ということはレクイエムは私達がもっている善・悪という概念を超えたものと解釈できます。聖書による「黙示録」ですが、あれは神に背き、悪魔に魂を売り堕落した人間達が滅亡していく、という話なのですが、ただ、このレクイエムは淀んだ人間であろうとなかろうと関係なく壊していきます。人間どころかありとあらゆる生物の精神・肉体が別のモノへと変貌していきます。しかもこれはチョコラータのように利己的な好奇心が起因ではなく、あくまでも何かの目的のもとにもたらされた結果なのです。 今週ディアボロは「影」にポイントがあるという発言をしました。 太陽の位置にかかわらず、その「影」は定位置にいるのだそうです。これはつまり、「影」自体が精神生命体(スタンド)となり、レクイエムを操作しているのではないでしょうか。 これが「レクイエム」の実体です。レクイエム ボディーは無貌で真っ黒です。つまり(今は)表情・感情が無い空漠な「影」の存在に他なりません。おそらく本来はレクイエムの精神としてこれの中にいなきゃいけないかったんだが、ぽる亀が操作できなかったんで、暴走して精神だけ分離してしまったのでしょう。ただこの精神力があまりにも強力なので回りの人間、強いては地球上 にいる全ての生物に影響を及ぼしている、というのが今の状況ではないでしょうか。 (又精神そのものが実体であり且つスタンドであるとして、他の生命体に憑依するディアボロと生命体から分離しているレクイエムが対比しています。) そして日が陰ったとき(雨が降っていますからもうすぐでしょうか)皆の影が消えたのに「レクイエム」の影だけ残っている、ここでどうするかが鍵になるのではないか、と私は推測します。また、レクイエムが誕生したとき、人間達の精神と肉体が分離した、のであれば、生物が空漠なモノに変貌したとき、ACT2のような感じでレクイエムも何かに変わるのではないでしょうか。「ボスがどこに潜んでいるか」とジョルノ達があれこれしているうちに、レクイエムは変容しているかもしれません。おそらくもっと凶凶しく気高いものに。(単に何かに変身してほしいなあという希望デス(笑))
2000年のローマの歴史、そして世界人類の歴史を見守ってきたコロッセオからレクイエムが誕生しました。そしてこのレクイエムは世界上の全ての価値観「善・悪」を否定しあらゆる生物に終わりを告げようとする「鎮魂曲」になりつつあります。本体にその気(?)がなくてもこのままだと、レクイエムが特定宗教の独善的な神ではなく新しい「支配者」のような存在で世界に君臨してしまうのではないでしょうか。
このまま、生物が変貌するだけで何もおこらなかったら、うつろな精神につつまれた、善も悪も敵も味方も神も悪魔もない世界になります。それは平和だけど何もない未来。 なんか支離滅裂にいろいろ書いてきましたが、しかし これじゃあ 単なる誇大妄想ですねえええ(苦笑)
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言うまでもなく、ジョルノは主人公としてはかなり異常な存在です。これが玄人受けするところだと思うのですが。そしてとうとう登場したボス、ディアボロもいきなり「試練」ですよ。そして「孤高のパワー」、多分無敵のレクイエム。
この三つが絡むとき、かなり精神的な部分が強くなる当たり、最近のマンガっぽい所があるんですが、いきなり力技(「無駄無駄無駄無駄無駄ァーッ!」)になるとか、何処に隠れているかと思ったら体を切り刻んでいたとか、かなり読めない。
しかし、ボスとはどうしても「矢」を奪いたがっているし(本来の目的はそうではないような………)、ジョルノもボスを倒すべく動き、そしてレクイエムは必ず何かをしようとしている、アルゴリズムがきっとあるはず。しかし、その裏側にすべて意味があるとしたら………?
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