Not Only Sweet


 四ヵ月ぶりに寮から家に帰ってみたら、知らない人が一人、それから知らない車が一台、増えていた。
 店先にいたその女の人が、戸惑っている僕に気づいた。
「あれ? もしかすると」
 荷物を詰めたバッグを提げた僕の姿を、無遠慮に眺め回す。父さんたちがいつも着けている、ウチの店の深いグリーンのエプロンを、この人も着けている。歳は姉さんとだいたい同じぐらいだろう。
「時雄くん?」
 『誰だ、この人?』と記憶を辿りながら、僕がぎこちなくうなずく。女の人が奥に振り返って声をかけた。
「マスター! 時雄くん、帰って来ましたよ!」
 エプロン姿の父さんが、奥の仕事場から出て来る。
「おう、おかえり。元気そうだな」
「うん」
「荷物、よこせ」
「うん」
 僕のバッグをひったくるように取り上げる。
「洗濯物は?」
「入ってる」
 うなずいた父さんが、今度は母さんを呼ぶ。
「母さーん、時雄の洗濯物!」
「はいはい。おかえり、時雄」
 両手をタオルで拭いながら、母さんが出て来る。
「洗っておくよ。どう、疲れてない?」
「うん」
 母さんが、にこにこしながら父さんの持っていたバッグを受け取る。
「ああ、忘れてたな」
 父さんが、
「手伝いに来てくれてる鳥居さん。真里の友だちだ」
「よろしく。時雄くん」
 鳥居さんが、ぺこりと頭を下げる。
「あ、よろしく」
 僕も慌てて頭を下げた。
「時雄」
 父さんが言う。
「今日はゆっくり休め。明日から、暇な時はでいいが、店を手伝ってくれ」
「はいはい。判ってるよ」

 洋菓子屋という自分の家の商売が、嫌で嫌でならなかったのはいつ頃までだったろう。でもそれ以上に、姉さんのほうがこの家業を嫌っていた。
『もう匂いを嗅ぐのも嫌! いつもエプロンしてるんだよ、父さんが。時雄もおかしいと思うでしょ?』
 何回、姉さんからそう聞かされただろう。
『わたしはお菓子屋さんになんかならないからね、絶対に』
 小さい頃から言い続けていたその言葉通り、姉さんは菓子とは全く縁のなさそうな理学部に進学すると、さっさと家を出て勝手に一人暮らしを始めてしまった。
 さすがに父さんも母さんも堪えたらしい。僕への風当たりが強くなるかと思ったけど、逆に妙に甘くなった。もしかすると、真綿で首を締めつけるような、そんな具合に僕を追い詰めたつもりだったのかも知れない。
「継ぎたくなければ継がなくてもいい、でもな」
 去年の夏。進路についての三者面談のあった日の夜だった。父さんは、僕に向かってそう言った。
「お前が店を継いでくれるのなら、父さんは、それが一番嬉しい」
 家を継ぐその日まで、何をしていても構わない。それは約束する、と。
 なんだか父さんが哀れっぽく見えた僕は、「絶対にとは言えないけど」と前置きしたうえで、家業を継ぐことを承知した。
 その時の父さんの嬉しそうな顔は、今でも思い出せる。

「おはよう!」
 互いに監視し合っているような寮生活から開放され、ちょっと寝坊をした僕が店先に出てみると、元気が良すぎるくらいの声が飛んで来た。鳥居さんだ。
「お、起きたな」
 店のガラスを拭いていた父さんが、ウェスを投げてよこす。
「替わってくれ」
「OK」
 腕まくりをする。
「済んだら、言えよ」
「判った」
 父さんがバケツを持ち上げて、僕の足元に置く。
「頑張ってね」
 カウンターの鳥居さんがトングでケーキの箱詰めをしながら、顔をあげて言った。
 姉さんの、高校の頃の同級生ってことだったけど、それまで一度も会ったことのない人だった。ショートヘアで、僕よりちょっとだけ背が高くて、声がすごく元気に聞こえる。
 なぜだか、ほんとになぜだか、頑張る気になった。このガラスを拭くのも、寮に入って以来、四ヵ月ぶりだ。
「終わったか?」
 ウェスをバケツの水でゆすいでいる僕に、父さんが声をかけた。
「もう少し」
「そうか。悪いけどな、済んだら配達手伝ってくれるか?」
「判ったよ」

「あれ?」
 家の裏にあるガレージ。へんな格好をした小さな車の荷室に、プラスチックのケースを積み込んでいたのは、父さんではなくて鳥居さんだった。
「あ、時雄くん。ごめんね、私だけだとこの辺の商店街とか細かい道ってあんまりよく判らないから」
「別に、構わないです」
「いつもはマスターかおばさんが行ってたでしょ? 配達。今日から時雄くんと私がコンビで担当だって」
「そうなんですか」
「『力仕事と道案内が両方できるから便利だろう』って言ってたよ、マスター。期待してるから」
 なんだかへんに照れ臭くなって、慌てて僕もケースを抱える。
「でも、ほんとにごめんね。お休みなのに手伝わせちゃって」
 どうにも、くすぐったい。入学してから、たった四ヵ月男子校にいただけなのに、女の人に対する免疫力って、落ちたりするものなんだろうか。
「真里の弟なんだ。四つ下?」
 鳥居さんが、トランクルームの扉を開けながら僕に聞いた。
「そうです」
「いいよ。そんなにかしこまらなくっても」
「はい」
「だから、いいってば。敬語使われるの慣れてないから」
「でも」
「いいから、ね。それより、手伝ってくれる?」
「うん」
「ん。OK。あ、その箱とそれは右側に重ねて」
 箱を抱え上げると、四ヵ月ぶりに嗅ぎ慣れたカスタードクリームの香り。帰ってきたなあと思うのと同時に、横に鳥居さんがいるのが何かくすぐったいように感じた。
「うん。そこね。あとはこの箱だけだから」
 最後の一箱を積み込むと、鳥居さんがエプロンのポケットから薄いブルーのハンカチを取り出す。
「暑くなったね。今日も」
 ひたいに浮いた汗を軽く拭いながら、鳥居さんが言う。
「うん」
 僕がうなずくと、鳥居さんがハンカチを僕のほうに差し出す。
「ほら、時雄くんも」
「え、あ、僕はいいです」
「汗かいてるでしょ? 遠慮しなくていいから」
 途端、凄く心臓の音が大きく聞こえた。
「もう、ほら!」
 そう言う鳥居さんの声が聞こえた瞬間、反射的に閉じた僕のまぶたの上から、タオル地の感触。
「あ」
「御苦労さま。車の中はクーラー効くからね」
 ハンカチをそっと押さえている鳥居さんの声。ほんの少しだけ、柑橘系って言うのか、甘いような匂い。恥ずかしいような、嬉しいような気持ち。
「さ!」
 鳥居さんがさっとハンカチを引くと、目に飛び込んで来る真夏の日差し。ちょっとだけ、惜しいような、安心したような感じ。
「次の任務はナビゲーター! 乗って乗って!」
 鳥居さんが開けてくれた左のドアから車に乗り込む。車の前を回って右のドアを開けながら、鳥居さんが僕に尋ねた。
「狭いでしょ。この車」
 助手席の、子供用みたいに小さなシート。足元にはクーラーなのかなんなのか、結構大きめの機械が据え付けてあって、足の位置を決めにくい。
 ほんのすぐそばに鳥居さんが腰掛ける。
「時雄くんが寮に入ってからだって? 買ったのは」
「昨日初めて見た」
「さっきも言ったんだけど、いつもはマスターか奥さんが一人で乗ってるんだけどね。昨日のお昼にちょっと練習させてもらったけど、長距離乗るのは私も今日が初めて」
 ふわっと、鳥居さんのほうからさっきの柑橘系の香りがする。
「二人で乗るとこんなに狭いとは思わなかったな。時雄くん、痩せてて助かっちゃった」
 鳥居さんが車のキーを捻ると、足元でエンジンが掛かった音。
「うるさい?」
「大丈夫」
「そう? 私は軽自動車って初めて乗ったから驚いちゃった。あ、クーラー入れるよ」
 笑いながら鳥居さんがスイッチを入れると、まだ冷たくなっていない風が吹き出し口から流れ出て来る。
「待っててね。眼鏡しないとちょっと不安だから」
 さっきハンカチを取り出したエプロンのポケットから、細長いケースを取り出した鳥居さんの指。耳の上の髪をちょっと直してからフレームレスの眼鏡を掛ける。逆の手でハンドルの奥のほうから出ているレバーを動かしながら、鳥居さんが言った。
「それじゃ、行こ!」

「真里って」
 車が、駐車場の出口から道路に降りたところで、鳥居さんが言う。
「お店の手伝いとか全然しなかったんだって? 家にいる頃」
「全然」
「時雄くんは?」
「うーん。僕もあんまり」
「ふーん」
 ずいぶん楽しげな、口笛でも吹き出しそうな顔で、鳥居さんが続けた。
「私はね、こういうの楽しみだったの。だいたいアルバイトするの初めてだったし」
 鳥居さんと僕と二人、それからケーキまで積み込んでさすがに重たいのか、車の加速はかなりゆっくりに感じられた。
「うちは父さんが普通のサラリーマンだから、お店やってる家が羨ましくって。お店のこういうエプロンとか着て、配達に行けるなんて思わなかった」
 姉さんが聞いたら呆れてしまうようなことを言いながら、上機嫌の鳥居さんがハンドルを切って国道との交差点を左に曲がる。
「潮見二丁目って、こっちでいいんだよね」
「そう」
「これ、何て言う車か知ってる?」
 鳥居さんが突然僕に尋ねた。ケーキの箱を積み込む時、車の後ろに何か書いてあったのを見たような気もするけど、よく思い出せない。
「なんとかKって書いてあった」
「ミゼットK」
 そう言うと、鳥居さんがブレーキを踏む。車が、信号待ちの列の一番後ろにつく。
「昔ね、ミゼットって車があって、その二代目なんだって」
「ふーん」
「車とかバイクとか、好き?」
「あんまり。よく判らない」
「そうだよね」
 何がおかしいことでもあるのか、鳥居さんがくすくすと笑った。
「そのミゼットってね、三輪車だったの」
「三輪? そんな車あったの?」
「私も見たことないんだけど」
 信号が青に変わって、車の列が動き始める。
「マスターが言ってたの。昔はたくさん走ってて、小回りが利くからお店の配達とかにうってつけだったって」
「ふーん」
「子供の頃、マスター、そのミゼット運転してみたくてたまらなかったんだって。で、『大きくなったらミゼットに乗ろう』って思ってて、このミゼットKが出たから買っちゃったって、そう言ってたよ」
 それまで家で使っていたはずのライトバンが無くなっていたのはそういうわけだったのか、と納得が言った。
「変わってるよね、これ。私は街の中で何度か見たことあったけど、そばで見ると凄くちっちゃくて、おもちゃみたいだなって思った」
 鳥居さんが僕の顔を見ながら言う。
「珍しいからお店の宣伝にもなるかな? あはは」

「お疲れさまー!」
 最後の配達先に二ケースを運び込み終わって、鳥居さんが声をかけてくる。
「ここが最後だよね? ほら」
 父さんの字で書かれたメモに、配達済みの印を付けた鳥居さんが言う。
「『July1st』って、ここだもんね」
「そう。ここが最後」
「思ったより早く終わっちゃった。時雄くん、近道色々知ってるから。細い道もあったけど、このミゼットならなんとか抜けられるし。でも、ほんとはね」
 ふふ、と笑いながら鳥居さんが運転席側のドアを開ける。
「凄くドキドキしてた。もし擦っちゃったらどうしよう、怒られちゃうかなぁ、とかね」
「ごめん」
「いいのいいの。結局どこにもぶつけなかったんだから」
 助手席に腰を下ろす。鳥居さんも乗り込んで来る。
「ね、ちょっと寄り道してこうか? ふふ」
 エンジンが掛かる音。
「マスターたちには内緒ね」
 鳥居さんの運転でミゼットが走り出す。喫茶店の駐車場を出て、並木路を南へ。
「時雄くん、ちょっとだけ、クーラー切ってくれる?」
「え?」
「この車ってどれぐらいパワーあるのかなって思って。加速がどれぐらいか確かめてみたい」
「構わないけど」
「ごめんね」
 クーラーのスイッチを切ると、鳥居さんが右足を踏み込んだ。
「うーん」
 別に物凄い加速感とかを予想してたわけじゃないけど、実際のところミゼットの加速は大したものじゃなかった。
「これぐらいなのかなあ。荷物も軽くなったのに」
 鳥居さんがちょっと不満げに言う。
「二人も乗ってるからかな? 悪いけど時雄くん、降りてくれる?」
「えっ?」
「うそうそ。ごめんね」
「びっくりしたよ」
「『降りて』なんて言うわけないでしょ。時雄くんがいなくなったら帰り道判んなくなっちゃうもん」
 あははは、と笑いながら、鳥居さんがアクセルを緩める。無理して回っているような、喧しいエンジンの音が少しおとなしくなった。
「ほんとにごめんね。そんなにびっくりするとは思わなかった」
 道の左右のスズカケノキの並木が終わって、少し傾斜がつく。その傾斜のせいか、ミゼットのスピードが落ちる。
「頑張れ!」
 鳥居さんが少し嬉しそうにそう言って、またアクセルを踏み込む。ミゼットが「頑張ってるんですが!」って感じで坂を上って行く。
「もうちょっと!」
 鳥居さんの声。こんな時、助手席に座ってる僕は何をしたらいいんだろう。そんなことを思っているうちに、ミゼットがようやく坂を上りきった。向こうに、海が広がる。
「時雄くん、海って久しぶりでしょ? 高校は山のほうだもんね」
「うん」
 そう言えば、海を見るのは春以来、四ヵ月ぶりだ。今まで「海がある」ということについて何とも思ったことはなかったけど、どういうわけか懐かしく感じられてならなかった。海だけじゃない。僕が育った町、たった四ヵ月前まで暮らしていたこの町の道路の一本、店の構えといったものが、みんな懐かしかった。
「どうしたの?」
 心配そうな声で、鳥居さんが言った。
「別に、何も」
「何か考えごと?」
「うん。大したことじゃないけど」
「あ、判った。女の子でしょ。中学の頃つきあってた子とか」
「違うよ!」
「はいはい。今時の子は、まったく」
「違うって!」
「真里も言ってたし」
「姉さんが?」
 そう言いかけたところで、からかわれてるんじゃないかって気が付いた。
「あはは。冗談冗談」
 姉さんと同い歳の、鳥居さんの笑顔。いつも見慣れていた姉さんが割とキツいタイプだけに、ずっと柔らかく見えた。
「ごめんね。怒った?」
「別にいいけど」
 ミゼットが坂を下りきって、道の左側の市営駐車場に入る。
「降りよっか?」
 ドアを開け放した鳥居さんが、僕に向かって言った。
「まだ怒ってる?」
「ううん」
「機嫌直してね」
 僕も、左のドアを開けて車を降りる。先に降りていた鳥居さんが、駐車場の脇の自販機コーナーに走って行った。
「時雄くーん、何飲む?」
 自販機の前で振り返った鳥居さんが、大声で尋ねて来る。
「なんでもいいです」
「そう?」
 戻って来た鳥居さんが、抱えていた缶コーヒーを投げてよこす。
「コーヒーでよかった?」
「うん」
 鳥居さんが持っているもう一本は,僕のと同じメーカーのブラックコーヒーだった。
「大人はね、こういうの飲むの」
 そう言って、鳥居さんがプルトップを引き上げる。
「四つしか違わないくせに」
「ざーんねん。私は五月生まれ。もう二十歳だもんね」
 鳥居さんの得意そうな顔。
「真里ほど落ち着いてないけど」
「姉さん?」
「そ。高校の頃から『私は大人』って感じのオーラが出てた。キリッとしてるって言うか」
「そうかなぁ」
「だから時雄くんに会うまでは、真里の弟ってどんなだろうって思ってたんだけど。話しかけにくいタイプだとやだなぁって」
「どうだった?」
「やっぱ真里と似てる。ピシッとして見えるけど、いざ話してみると楽。そういう感じがそっくり」
「気にしたことなかった」
「姉弟だもん。似てて当然」
「あんまり嬉しくないような」
「あはは。真里に言いつけちゃうよ」
 僕が飲み終えた缶を受け取る、その指の白さに、なぜかどきっとした。鳥居さんが空き缶を捨てて、車のほうへ戻って来る。
「さ、帰ろっか」
「うん」
 ミゼットのハンドルを握る、鳥居さんの指。そこだけが眩しいくらい白く思えて、つい視線が寄って行ってしまう。
「どうかした?」
 鳥居さんが尋ねて来る。
「運転してみたいの? ずっとハンドル見てるけど」
「え」
「だーめ。私だって二ヵ月も努力して免許取ったんだから。時雄くんも高校出たら取るんでしょ? その時までお預け」
 僕の胸の内など気付いてもいないんだろう。鳥居さんがたしなめるように言った。
「でも」
 さっき降りた時に少し乱れた髪を撫でつけながら、鳥居さんが言う。
「楽しいよ。自分で運転できると。大人の特権だけどね。これで自分の車買ったりしたら、どこだって行けるってね、そんな気がするんじゃないかな」
 黙って、僕がうなずく。
「時雄くん、高一だから」
 鳥居さんが、眼鏡の奥から僕の顔を覗き込むようにして見つめた。
「あと三年」
「うん」
「そうすると、私は二十三になってるのかぁ。なんかフクザツ」
 僕が仮に追いつこうとしても、同じだけ離れてしまう、そういう逃げ水みたいな位置関係。
「その頃、時雄くんはどうなっちゃってるかな?」
「あんまり」
 慌てて反対側の窓のほうを向く。なんだか急に、鳥居さんの顔を見てるのが怖いような、恥ずかしいような、そんな気持ちがした。
「変わってないと思うな」
 僕が、言葉を続ける。
「たぶん、きっと」

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