ガラス越し、ボンネット越しに、海 K


 二年、経った。
 大学を出てすぐに渡ったLA。そこから日本へ戻って、三日。
 思えば、アメリカにはこのスティングレイを手に入れるためだけに行ったようなものだった。
 大学の先輩が住んでいた安いアパートメントに転がり込んで、昼間は本職の日本語教師。夕方から近所のショッピングセンターの掃除。金になるから臨時の通訳も引き受けた。LAの名所なんかには行ってる暇が無かったから、観光ガイドだけは務まらなかったが。
 二万四千ドル。月で割って千ドル。とにかくそれが目標だった。六六年式のコンバーティブル。ボディはシルバーかナッソー・ブルー・メタリック。アメリカに渡る前からそう決めていた。一万台以上売れたモデルのはずだが、さすがにLA辺りでもあまり見掛けなくなっていた。
 Greater Los Angelsの南、Long Beachの街のディーラーに、望みの型のスティングレイが入ったらしい。そう教えてくれたのは、同じショッピングセンターの清掃員仲間だったヒスパニックのフェルナンドだった。
 次の日曜。先輩のコーティナを借り出して、その店に急いだ。
 街の真ん中辺り。Cherry Avenueにあるシボレーのディーラーに、このスティングレイがいた。綺麗なナッソー・ブルーの塗装。カバーの下に折り畳まれた、ホワイトブラウンの幌布。純正のものとは違うが、実車にはひどく似合うカーマインレッドの革張りの内装。目を射るような輝きのクロームメッキパーツの数々。一万八千ドルのプライスタグ。
 迷っている時間も、惜しかった。
『この車を現金で買う。日本に送りたい』
 そう切り出した俺を応対したのは、ワンと名乗る中国系の店員だった。俺とそれほど年は違わないように見えた。
 ほぅ、ほぅと感心したような声を上げたワンが、失礼だが、と前置きしてパスポートの提示を求めた。
『All right!』
 ワンがパチンと手を叩いて、俺に説明する。
『LAの本店に送るよ。あそこなら通関手続きもすんなり済む。何しろLong Beachで日本人を見るのは、映画館の外じゃあんたが初めてだ。役所に行ったってトーキョーの場所すら知らない連中しかいやしないぜ。下手すりゃオキナワのキャンプに運ばれちまう。どうだい?』
『それでいい。あんたに任せる』
『All right!』
 そう言ってもう一度手を叩いたワンが、ふっと残念そうな表情を見せた。
『どうかしたのか?』
『いや』
 ワンが、スティングレイのボンネットフードを撫でながら言う。
『もう三日経ってもし買い手がつかなかったら、俺が買うつもりだった。タグにゼロをもう一個書き加えておけばよかったよ。この車はコンクール・コンディション同然だ。本来こんな値段じゃ出るはずがない』
『何か訳でもあるのか?』
『条件が付いてたんだ。俺と同じ華僑の爺さんがずっと乗っててたんだが、その爺さん目を悪くしちまって』
『それで手放したのか』
『そういうことだ。まだ未練たっぷりって感じだった。で、できれば東洋系の奴に売ってくれってことだった。ここいら辺の奴らは、おしなべて車は大事にしないからな。車を磨くワックスってのが市販されてるってのを知ってる奴のほうが少ないだろうさ。東洋系の奴はそれでも手を掛けるほうだ』
『そうか』
『あんたが、日本に持って帰って自分で乗るのか、それとも向こうで誰かに売るのか知らんが、このカリフォルニアに置いておくよりも手入れをしてもらえるだろう。もっとも日本の気候じゃ錆びちまうかも知れんがね。ま、爺さんもこの町で昔の愛車を乱暴に乗り回されるよりも、いっそずっと遠くに嫁いでくれたほうが良いだろうさ』
『大事に乗るさ』
『OK。手配しておくよ』
 次の週末には、LAの支店から船積みの準備が整ったという連絡を受けた。
 それから一ヶ月。仕事の後始末をして、長いこと世話になった先輩に礼を言って、フェルナンドにさんざん奢らされて、日本に帰って来たのが三日前。真っ先に横浜のシボレーの支店に出向いて、日本のナンバープレートを付けたスティングレイを受け取ると、そのまま彼女の家に電話を入れた。

 クラクションの音に、顔を上げる。
 駐車場に入って来た、白い軽のワンボックス。意外に思いながら、エンジンをかけたままスティングレイを下りる。
 なぜか嫌な予感がした。助手席に、久しぶりに見る彼女の姿。運転席には、見たことのない男が座っている。彼女には俺の姿が見えているはずなのに、笑顔も見せなければ、視線を合わせようともしない。表情が読めなかった。
 男は、スティングレイのすぐそばまで車を寄せ、こちらに軽く会釈をしながらドアを開ける。
「すみません。お待たせして」
「あ、どうも」
 何だか事情が飲み込めないままに、こちらも頭を下げる。
 その男が、車の前を回って助手席のドアを開ける。彼女がゆっくりと車を下りる動作を始めた。その彼女の手を取りながら、男が後ろのスライドドアを開け放す。
 犬。ラブラドル・レトリバーが、一頭。
 後席から飛び降りるように出て来たその犬はよく慣れているようで、ようやく車を下りた彼女のすぐそばにうずくまった。胴体には黒いハーネス。男がかがみ込んで、そのハーネスにリードを結わえつける。
 盲導犬。
 LAでは、珍しい風景ではなかった。シェパードやレトリバーに先導され、街を歩く人たちの姿。
 何気なく受け止めていた風景のはずだったのに、かなりショックだった。二年の間に彼女の身に何事かが起こった。しかしそれ以上の想像は、できなかった。
「兄です」
 リードを結び終えた男が、もう一度改めて頭を下げた。
「あ、どうも」
 我ながら間の抜けたやり取りだった。おそらく、彼もそう感じていただろう。
「兄さん」
 車から下りた彼女が、初めて口を開いた。しばらくぶりに耳にした、木管楽器を思わせるアルト。
「あとは、私が話すから」
 そう言われた彼が、黙って妹の顔を見つめる。
「そうか」
 彼女にリードを握らせると、彼がもう一度こちらに向き直って、頭を下げた。
「頼みます」
 そう言い残し、彼が運転席に戻る。
 レトリバーは、おとなしくうずくまったままだったが、彼がライトバンのアクセルを踏み込むと、耳だけをぴくりと動かした。
「おかえり」
 駐車場を出て行くライトバンのほうを見向きもせず、おそらくは見えていないのであろう瞳で俺を見つめながら、彼女が静かに言った。
「ごめんね」
 彼女の瞳が、みるみる潤んだ。大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。
「ばか、泣くな」
 俺が、一歩踏み出して、彼女の肩に手を掛ける。
「泣くな」
 彼女を両手で抱き寄せる。
「帰って来たんだから」
 言いながら、目の奥のほうが焼けるように痛くなった。
「おかえり」
 体温。弾力。匂い。電話線を通しては、決して確かめることができなかった感覚が、俺に激しい後悔の念を抱かせた。
「謝るのはこっちだよ。待たせた」
 彼女の、二年前と変わらない、柔らかな髪に指を通す。
「悪かった。俺のわがままで、心配かけて」
「ううん」
 胸に預けていた顔を上げて、彼女が言う。
「楽しみにしてた。きっと戻って来ると思ってたから。でも」
「さぁ」
 泣き顔のままの彼女を、スティングレイの助手席に促す。
「足元、大丈夫か?」
「うん」
「こっちだ」
 俺が、彼女のリードを握っていないほうの手を取った。レトリバーが従者のように彼女に付き添う。がちゃり、と右のドアを開ける。
「オープンだからな、屋根は無い」
「やっぱり」
 無理に笑おうとする彼女。
「言ってた通りの車にしたんだ」
「ああ」
「良かったね。見つかって」
 手探りでシートの位置を確かめていた彼女が、声をあげる。
「あ」
「どうした?」
「フローリー、乗れる?」
「フローリーって言うのか」
 彼女のパートナーを務めてくれているレトリバーの顔を、しゃがみこんで覗いてみる。
「女の子なんだ」
「うん」
「スペースは有る。少し窮屈かも知れないけど」
 レバーを引いて、一度助手席のシートバックを倒す。
「この子はそんなに大柄じゃないから、幌のカバーを外せば大丈夫だろう。ほら」
 フローリーを促すと、それが判ったのか素速くスティングレイに乗り込む。
「聞き分けのいい子だな」
「でしょ?」
 フローリーは、やはり居心地があまり良くないのか、背伸びするような格好で前足をトランクフードの上に乗せている。
「フローリー、狭くてごめんな。我慢してくれよ」
「我慢してね」
 彼女も言う。フローリーが、こちらを向いてアーモンド型の目を瞬かせる。
「シート、前に出せる?」
「出せる」
「少し出して。足元、そんなに広くなくていいから」
「判った」
 フローリーのために前にスライドさせた助手席に、彼女が腰を下ろす。
「でも、やっぱり広いね。席」
「まぁアメリカの車だからな」
「何色なの?」
「水色のメタリック。バハマの海に例えてナッソー・ブルーって言う」
「この服の色、合わなかったかなぁ」
「そんなことない。似合ってるさ」
「そう? 見てみたかった」
 彼女の、寂しそうな笑顔。
「いつから」
 口にするべきかどうか、少し迷った。
「見えなくなった?」
 彼女にとっては酷な質問だったかも知れない。が、不在期間の空白を埋めたいという、自分の中の強い欲求を抑えられなかった。
「一年ぐらい前」
「治らないのか?」
「周りが明るいか暗いかぐらいは判る。でも」
 彼女の声が、涙混じりになる。
「良くなるかどうかは、まだ何とも言えないって」
「大学は?」
「退学しちゃった。入院しなくちゃならなかったから」
「そうか」
「ごめんね。黙ってて」
「悪かった、本当に。戻って来ればよかった」
「ほら」
 涙目をこすりながら、彼女が言う。
「そう言うと思ったから。絶対にね。でも、せっかく行ったのに、中途半端で帰るようなことになったら、きっと後悔すると思って」
「ばか。車とどっちが大事だと思ってる」
「大学の頃からずっと言ってたじゃない。アメリカに行って、自分が乗る車を自分で探して来たいって」
「たかが車だ」
「でも」
 彼女の左手が、俺の右手に重なる。細い、綺麗な指。
「車に夢中になってるところ、好きだったから。二つも年上になんか見えなかった。子供みたいで」
 一言一言が、重荷だった。暗闇の中に彼女を残して、俺はアメリカで無邪気にスティングレイの夢を見ていただけだった。彼女の言うとおり、子供みたいに。
「ごめんな」
 彼女の手を握る。握り返してくる彼女。
「何も判ってなかった。俺」
「ううん、もういい。帰って来てくれたんだから。それだけで」
 握っている彼女の指に、ぎゅっと力が入った。
「でもね、私やっぱり無理してた。すごく寂しかった。父さんも母さんも兄さんも、みんな優しかったし、フローリーもいたけど」
 彼女が、両手で確かめるように、俺の右腕にしがみついてくる。
「やっぱり寂しかった。会いたかった。顔が見えなくてもいい、側にいてくれたらって、何度も思った」
 彼女の髪の香り。左手で、彼女の頭を抱え込み、髪を撫でる。
「ごめんな」
 シートの後ろから、フローリーが心配でもしているように俺たちを覗き込んだ。
「フローリー」
 俺が、声をかける。
「ありがとう。ずっと側にいてやってくれて」
 その言葉の意味が判ったのかどうか、フローリーが首を伸ばし、鼻を鳴らして俺の顔の匂いを嗅いだ。
「前、よく通った道、覚えてるか?」
「大学から?」
「そう。商店街を抜けて、海に出る道」
「覚えてる」
 顔を上げた彼女がうなずく。
「行こう。ここからだと商店街は通らないけど、線路沿いに」
 サイドブレーキを下ろし、アクセルペダルを踏み込む。低い音で、三二七立方インチのエンジンが回る。
「風が」
 彼女が、窓の外に手を伸ばす。
「すごく気持ちいい」
「だろう?」
「飛ばされちゃだめだからね、フローリー」
 振り向いた彼女が、フローリーの明るい褐色の毛並みを撫でる。
「ゆっくり走る。心配無い」
 スティングレイが走り出すと、さすがにフローリーも不安になったらしい。さっきまでの伸び上がったような姿勢から、やや腰を落としたような姿勢に変わっていた。
「失敗だったかなぁ」
「なにが?」
「フローリーがいるんだったら、後ろにも席がある車にするんだった」
 くすくす、と彼女が笑った。
「フローリーね、車は好きなの。って言うか、車の窓から顔を出して、風に当たるのが好きなの。兄さんが言ってた」
「そうか」
「だから、喜んでると思う。顔だけじゃなくて、全身に風が当たるんだもん」
 彼女が、振り返って呼び掛ける。
「ね、フローリー?」
 フローリーが、鼻を一つだけ鳴らす。
「おとなしいな」
「盲導犬って、そうやって躾られるんだって。無闇に鳴かないように。鳴く時って、危険を知らせたりとか注意させたりとか、そういう時だけ。だから私も」
 彼女が、こちらに向き直りながら言う。
「いつも緊張してるの。フローリーのこと信用してるから、声を聞き逃すと大変なことになっちゃいそうで」
 線路沿いの田舎道。スティングレイの車幅も手伝って、LAの道路事情に慣れた身にとっては信じられないぐらい狭く感じられる。
「こっち」
 彼女が、右を向く。
「田んぼだね。匂いがする。外の音とか匂いとか、よく判るね。この車」
「良かったよ。やっぱり」
 対向車の軽トラックを通すために、ステアリングを左に少し切りつつ、言う。
「コンバーティブルにして。普通の車じゃ、窓開けててもこんなに判らないもんな」
「うん」
 彼女が、嬉しそうにうなずく。
「あ、列車の音」
「聞こえるな」
「踏切、有ったよね。この辺に」
「もうすぐ渡る」
 途端、すれ違う列車の音に会話が掻き消される。
「すごい音!」
 彼女の、はしゃいだような声。
 取り返さなくちゃならない、と思った。彼女の側にいてやらなかった二年分を。たとえ、一生かかったとしても。
「ガタガタしてるね。もしかして、踏切?」
「そう」
 田舎道を左に折れて、線路を横切って、県道を南に。道路脇のスズカケノキが、風に枝一杯の葉を揺らしている。
「葉っぱの音」
「並木路だ。サッカー場の裏手」
「じゃ、あとは海までまっすぐ?」
「まっすぐ。坂を登りきれば」
 見えてくる、と言いかけて口をつぐむ。
 見えないんだ。彼女は。
「坂を登りきれば、判るね」
 嬉しげな口調の彼女。
「今日は風の向き、南だから。きっと海の匂いがすると思う」
「そうだな」
 大動脈をぐっと締めあげられたような気分だった。彼女は、俺の知らない間に強くなっていた。
 視力を失ったこと。本人にとってその衝撃がどれぐらい大きかったか、俺には想像できない。それに耐えて、明るく振る舞うことのできる強さ。
「ね、海に着いたら浜に下りたい」
 坂道に差し掛かった時。彼女がそう言い出した。
「フローリー、まだ海に行ったことないから。遊ばせてあげる」
「いいさ。下りよう」
「良かったね、フローリー」
 フローリーが戸惑ったような顔をして、彼女の伸ばした手を舐めた。
「くすぐったい!」
 彼女の笑い声。
「もうすぐだからね、フローリー」
 坂が終わる。開けた視界いっぱいに、海の色が飛び込む。南から吹き上げて来る風が、スティングレイの中にも流れ込んで来る。
「どう? これが海の匂い。判る?」
 前を向いたフローリーが、空気の匂いを嗅ぐ。
 海岸沿いの国道に出れば、市営の駐車場がある。ワンが錆びの心配をしていたが、この際それは無視する。そこに車を止めて浜辺に下りよう。
 海水浴には早すぎる時期。砂を踏む感触や水の冷たさ、潮の香り。彼女に、それを感じさせてやりたい。もちろんフローリーにも。「靴、脱ぎたい。砂浜に下りたら」
 彼女が、急に思いついたようにった。
「ああ」
「ほんとはね」
「ん?」
「サンダルにしたかったんだけど」
 今はダッシュボードの下に隠れてしまっているが、彼女が履いていたのは、飾り気の無い、白いローファーだったように思う。
「誕生日に貰ったじゃない。十九の時」
「革の?」
「そう。編み上げの」
 信号待ちの車の列。脇道から合流する車が数台。誰も渡らない横断歩道。この国道も、二年前と比べると交通量が増えたようだった。
「でもね、母さんがサンダルは履くなって言って。足元見えないと、何か踏んだりつまずいたりして危ないからって」
 後ろを向いていたフローリーが、くるりと振り返る。
「そんな心配することないのにね。フローリーがいるし。それに」
 彼女が俺に向かって笑いかける。
「ちゃんと戻って来てくれたんだし」
 言葉が、見つからない。
 今の俺は、彼女に何をしてやれるんだろう。それこそ、一緒にいてやれるだけなのかもしれない。そんなことしかできそうにない自分、それ以外の事を思いつけない自分に、空しさや苛立ちが混ざり合った、悔しさのようなものを感じる。
「フローリー」
 彼女の声に、運転席側のシートの後ろから首を伸ばして海を見ていたフローリーが、窮屈そうに足を入れ替えて、またこちらへ向き直った。
「今日は色々な匂いを嗅いだね。全部覚えられる?」
 彼女が、セレクターレバーの上の俺の右手を取る。
「この人の匂い」
 そう言って、俺の手を後ろに差し出させる。くんくんと鼻を鳴らしていたフローリーが、ぺろりと俺の指を一舐めした。
「くすぐったいぞ、フローリー」
 そう言った俺の言葉に、彼女が笑った。
「もう覚えた? ふふ。絶対、忘れちゃ駄目だからね」

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