フットボール・ゲームに連れて行って!

Take me out to the football game!


「ナポリって、知ってる?」
「町だろ。イタリアの」
「そうじゃなくて、ナポリFC」
「セリエA?」
「そう。前、マラドーナがいた。ディエゴ・マラドーナ」
「へぇ」
「強かったの。昔はね。今はもうダメ。全然返り咲く気配無し。ここんとこお荷物扱いされてたけど、今年はとうとうセリエBに陥落の危機だって。イタリア代表メンバーもみんな移籍しちゃって、もう誰もいくなっちゃったのかな」
「あぁ」
 ぽん、と手のひらでステアリングを叩く。
「それじゃ、こいつと同じだ。アルファの中じゃ異端っていうか、除けものだよ。『ノルドだけがアルファ』みたいな言われかたされてさ、数に入れて貰えることのほうが少ない」
「そうなんだ」
「気にしてないけどね。別に」
「だと思った」
 笑い声。
「ところで、間に合うの」
「間に合うんじゃないかな」
 カセットデッキのディスプレイにデジタルの数字。キックオフまではまだ三時間近く余裕がある。
「残ってるね。雪」
 彼女がパワーウィンドゥを操作しながら、言った。雪の上を渡った冷気が、左の窓から流れ込んで来る。
「残ってるな。どれぐらい前だった? 降ったの」
「卒論締め切りの日だったから、四日前。ね、ところでチェーンの巻きかた覚えてる?」
「もう忘れた。教わったには教わったけど」
「滅多に降らないもんね。こっちは」
 窓から外に出した指先で風に触れながら、彼女が微笑んだ。
「私が巻けるから、大丈夫」
「降るかな」
「降ったらの話。実家のほうだと、入学式の頃まで珍しくないから」
「信じられない」
「全然降らないんだもん」
 彼女がこっちで一人暮らしを始めて、今年で四年が過ぎている。ことあるごとに彼女の口から「こっちは冬が短い、不公平だ」と聞かされていた。
「そのほうが信じられなかった。こっちのほうが南だから当然けどさ、それより太平洋側と日本海側ってこんなに違うのかって思った」
「そう言えば一年の時だったか、スキーに行って」
「どこ?」
「苗場。驚いたよ」
「雪がすごくて?」
「視界が全部雪だったから。あんなに雪があるとこって、生で見たことなかった」
「そう? こっちだって降るとこあるでしょ? この辺とか、もっと山のほうとか」
「あんなには積もらない。平地はせいぜい五、六センチ」
「そういうのは積もったって言わないの。うちのほうだと」
「でも学校は休みになる。『積雪のため』って」
「どう考えてもおかしい、やっぱり。それに学校っていえばさ」
 彼女の呆れたような口調。
「『雪見』って何よ。なんでわざわざ雪見るのにバス出して行くわけ? しかも学校で行かせるってどういうこと?」
「仕方ない。そうでもしなきゃ見られないんだから。雪って」
「珍しいとか楽しいとか、そういうレベルで見ないでよね。雪で苦労してるんだから。こっちはさ」
「はいはい。気を付けますよ」
「ほんと、気を付けてよね。受けるんでしょ? 教採。先生になるんだったら」
「一応は、ね」
「一応って?」
「受ける。ちゃんと受けますって」
「私もね、受けるから。もう一回は」
 去年の教員採用試験で、彼女は一度失敗している。決して力不足だったとは思えない。ゼミの一年上の先輩たちの中では、彼女が最も教師向きだと皆が認めていたし、事前の準備も万全だったはずだが、いざ採用試験と言う段階になると「実力」だけではどうにもならないのが現実ということらしい。
「今年受けて」
 少し悲しげな表情で、でも微笑んだまま、彼女が言う。
「もしダメだったら、どうしようか」
 この問題について、万全の答えなどありはしないだろう。そもそも彼女だけじゃない。こっちだって採用試験を無事通過する保証などないのだから。そう思って、わざと冷淡に言う。
「さぁ」
「なっちゃおうかなぁ、専業主婦に」
「おい!」
 正直、冷や汗ものだった。高速道路を制限速度ギリギリで走っている時にはあまり耳にしたくない種類の冗談だった。
「冗談は」
「冗談じゃない、って言ったら?」
「『冗談』って言うまで」
 アクセルをぐっと踏み込む。水平対抗のエンジンから、イタリア車らしい乾燥した高いノイズ。彼女の側の窓から、そのノイズが飛び込んで来る。
「スピードを上げる」
「ふふ」
 笑いながら、彼女がパワーウィンドウを操作して、ガラスを引き上げる。このスッドはクーラーの効きこそ良くないが、さすがにヒーターはまともに働く。そのヒーターからの温風を、ステアリングを握る左手に感じる。
「やってみれば? 壊れても知らないけどね。まだ支払い残ってるのに」
「判ったよ」
 大きなため息を吐いて、踏力を緩める。
「判った」
 これ以上続ければ続けるほど、こちらの立場が悪くなるだろうという予想がついたからだ。
「ガキだよね。ほんと、扱いが楽で助かる」
 彼女が、言う。
「こんなに子供の扱いが上手いのになぁ。ね、どうして私が不採用なんだろ?」
「知らないよ。こっちが知りたい」
 僕のほうを睨みつける彼女。その口調が、ふてくされたような音質に変わった。
「不公平だよ」
 ぽつりと呟いて、彼女が俯く。
 カセットデッキの音と、路面の起伏を拾うタイヤの音と、エンジンの音。
 そのまま。曲名が二つ変わり、右カーブを一つつ、左カーブを二つ過ごすだけの間。僕も彼女も一言も発しなかった。
 そうだった。初めて彼女を彼女として意識した時が、こんな感じだった。それまでは、いつでも無駄に元気なゼミの先輩としか思っていなかったのが、あの日に限って。
 あの日。どうして彼女がふさぎ込んでいたのか、理由など判りはしなかった。
 彼女は、ゼミ室にたった一人、黙って座っていた。キャンパスの中で最も高台にある学部棟。窓から見える街並と、その向こうに広がる海を眺めていたように見えたが、その景色も眺めたくて眺めていたのではなく、ぼんやりと視界に入れているだけだったのだろう。
 隣のゼミ室からは笑い声が聞こえていた。彼女は、ドアを開けて部屋に入って来た僕のほうに振り向きもせず、じっと、窓の外の景色を。
 こんなことを彼女に告げたら今でも怒り出すだろうが、意外に思えてならなかった。この人がこんな寂しげな、悲しげな表情をするのか、と。
 声をかけるのもためらわれた。今、彼女は誰かに話したとこころでどうにもならないことを抱え込んでしまっている。それは想像がついた。当然、自分がその「誰か」のうちの一人でしかないことも。
 本当に、不意にだった。
 不意にそのことが悔しくてならなくなった。自分が彼女にとって「誰か」の一人に過ぎないことが。
 どういう思考の順序でそういう感情を抱くに至ったかは、未だによく判らない。もしかしたら順序だった思考など無くて、ほとんど反射に近いようなものだったのかも知れない。
 声が大きくて、いつも教育学部棟を走り回ってて、とにかく騒々しい、一年上の先輩。その彼女が、ほんの数瞬でとんでもなく意味を重くしてしまった。
「覚えてるかなぁ」
 彼女が、急に顔をあげた。
「二年前さ、ゼミ室」
「ああ」
「なに?」
「丁度、思い出してた」
「そう?」
 首をかしげながら、僕の顔を覗き込む。
「時効とかあるのかな、こういう話に」
「何の話?」
「前のオトコのこと」
 心持ち、彼女の声が低くなった。
「してもいい? って言うよりも、聞いておいて欲しいんだけど。もう始末の着いてる話だから、私の中だと」
「聞く」
 そう答えた。その話の内容自体には、純粋な興味が三割程度。残りは、我ながらひどい嫉妬。けれども、もし仮にその話を紙に書かれて渡されたとしたら、破り捨てていたかもしれない。
 それにしても、と思った。よりによって高速道路の上で、いちいち人を驚かせるようなことばかり口にしないでもいいだろうに。
「本当に、聞いてくれる?」
「しつこい」
「でも」
 窓の外。時速百キロでスッドの後ろに流れて行く風景に目をやると、彼女が続ける。
「ちょっと関係あるんだ。今から見に行く試合とさ。って言うか、見ることになると思う。その本人」
「へぇ」
「構わない?」
「構わないよ」
 一度うなずいた彼女が、口を開く。
「中学の頃の先輩。地元じゃ神童とか天才MFとか結構騒がれてて、サッカー留学したの。こっちの高校に。やっぱり本場だから」
 振り向きつつ彼女が僕に尋ねる。
「知ってる?」
 そう言って、彼女は一人の現役Jリーグ選手の名前を口にした。
「名前だけは」
「その人」
「ふうん」
「あ、驚くと思ったのに」
「驚かないよ。だいたいサッカーってあんまりよく知らないし」
 少し不満そうな顔の彼女。
「えー?」
「知らない。みんながみんなサッカー大好きってわけじゃないんだ。こっちだって」
「ふーん。ま、いいや」
 彼女が話を元に戻す。
「高校の時なんか、実家に帰って来ると真っ先に私に電話くれた。会おうって。私がうちの大学受けたのもさ、その人がそのままこっちのチームに入ったから。実家のほうだとJリーグの試合なんて無いし」
「そうか」
 彼女は、確かに「前のオトコ」と言った。もう切れているということなのだろう。少なくとも、彼女の中ではそうなっているということだけは間違いない。
「でもね」
 一呼吸置いて、彼女が言う。
「せっかくこっちに来たのに、ろくに会う機会無かった。そうしたら、離れてた時は感じなかったのに、心理的な距離っていうのかな、なんだか凄く感じるようになっちゃって」
「忙しかったんだろ」
「だと思う。なんたってプロだもんね。学生なんか相手にしてられなかったのかも」
「都合、何年続いた?」
「足掛け五年。もっとかな? あはは」
 彼女が、自嘲するような笑い声をたてた。
「結局さ、距離があったのが良かったのかも。鬱陶しくなくて」
「鬱陶しい、かぁ」
「私のことが、ね」
 ちょっと悲しげに、笑いながら言う。
「本当ならもっと早く終わってたんだと思う。離れてた分、進行が食い止められてたって感じ? 加速度的ってこういうことかなぁって思い知ったもの。あの頃」
 県境を越えたことを示す標識。ここからしばらく、左右のカーブが続く。
「でもね、珍しく会えた日があった。そしたら『セリエAのチームに移れるかも知れない』って話が出て」
「あ。もしかすると」
「なに?」
「さっきのナポリって、その話?」
「そう。ほんと内々の話って言うか、打診があっただけらしいんだけどね。その年の成績次第だって言ってた。だから、いい機会かなって思って」
 言葉を切る。一拍半置いて、彼女が続けた。
「別れるって、言ったの」
 僕の反応を確かめるように、さらにもう一拍。
「あんまり後悔しなかったけどね。向こうも『そうだな』って、あっさりしてたから。だけど、部屋帰ってから、そんなもんだったのかなぁって思ったら何だか落ち込んできちゃって。腹も立ったし」
 そう言った彼女が、慌てたような口調で付け足した。
「あ、自分に対してね。何て思い込み激しいんだろうって、自己嫌悪。でも」
「でも?」
「もっと思い込み激しそうな子が出て来て。ゼミの後輩に」
「悪かったね」
「最初さ、それこそ鬱陶しいなぁって思った。人が落ち込んでるってのにいちいち寄って来て、こいつ何考えてるんだろうって」
 彼女の声のトーンが、ようやく少し上がった。
「ま、悪気はなかったみたいだけどね」
「なかったよ」
「下心は? あったよね?」
 またうまいこと彼女のペースに飲み込まれたなぁと思いつつ、答えてやる。
「あった。間違いなく」
「だから、からかうと面白かった」
「そうだったかなぁ」
「私が何か言うたびにさ、ころころ表情変わったし。この子、私のこと凄く気にしてるんだなってね。相手してやらないとかわいそうな気がしちゃって」
「作戦通りだ」
「ふふ。そういう意地っ張りなところとかも」
 スッドが、最後の大きなカーブを抜ける。急に視界が開ける。
「ね」
 彼女が声の調子を変えて、甘えるように尋ねてきた。
「少しは嫉妬した? さっきの話」
「したよ。相当」
「良かった」
 笑い声。
「ほんとはね、怒り出したりしないかなって、びくびくしてた。でも、良かった」
「別に、怒るようなことじゃないから」
 その僕の言葉を聞いた彼女の表情が、また少し柔らかくなった。
「何でかなぁ」
「何が?」
「何がって、ね。あ、もう一度言っとくけど、怒らないでね。どうしても前のオトコと比べちゃうんだ」
「判ったよ。怒らない」
 いつまで引っ張るんだ。腹を立てるつもりは毛頭なかったけど、こう続くとさすがにストレスになる。
「ごめんね」
 彼女が済まなさそうに言った。
「あの人さ、油断してる時って、あんまり無くって。つきあってる間、こっちも油断できなかった。甘えたりとかね。でも」
 照れたように、彼女が髪を直す。
「甘えられるじゃない、今は。油断だらけっていうわけじゃないけど、ピリピリしてなくて。自然体でいられるって言うか」
「そうかな? でもそもそも僕はJリーグみたいな厳しい世界にいるわけじゃないし」
「そうだよね。同じところに立ってるって気がするから、同じことを楽しいって思えるし、辛いって思えるし。だから安心できる」
 今度はこっちが照れる番だった。慌ててメーターナセルをちょっと気にして見せる。
「あ」
「なに?」
「ガソリン、入れてかないと」
「じゃ、そろそろ休憩しよっか。私も何か飲みたくなっちゃった。ずいぶん喋っちゃったし」
「そうする」
 サービスエリアはもう少し先。だからもう少しだけ、スッドに頑張ってもらおう。スパルタンで妥協を許さないノルドに比べたら、ずっと油断できる実用車。似たもの同士なんて言葉が頭をよぎる。
「ありがとね。今日は」
 彼女が、ぽつりと呟いた。
「色々わがまま聞いてくれて。ほんと、嬉しかった」
「いいって。気にしてないから」
「サッカー連れて行けとか言ってさ、無理に車出させて」
「いいんだよ。たまには遠出もしないと、調子落ちるかも知れないし」
 スッドはすこぶる好調。夏には弱いけど、寒い季節ならちょっとの無理は聞き入れてくれる。
「試合、勝つかな」
「どうかな」
 僕と彼女が、ほとんど同時に言った。
「勝つといいな」

アルファロメオ・スッドのページ「Alfa Sud 1.5Ti」へ

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