MightyGirl,MightyBoy


 どうして、よりにもよってそんな車を、と友だちには笑われた。
 父さんは、「免許を取ってすぐ乗るんだから中古の軽で充分だ」と強弁していた手前、わたしがこの車を選ぶことに文句は付けなかった。「中古」「軽自動車」の両方の条件を満たしていたから。けど、不満そうな目は他の家族と一緒。彩姉さんは呆れたように「貴子がそういう趣味してるとは思わなかったわ」って一言言ったきりだし、妹に至っては「わたしが免許取っても絶対タカ姉さんの車は借りない! アヤ姉さんのトレノ借りる!」と高らかに宣言する始末(彩姉さんは嫌そうな顔してたけど)。
 でも。「この車でなくちゃいけない」、ずっとそう思っていた。

 中学に入って最初の夏休みだった。専門の種目が決まっていないわたしたち陸上部の一年生はグラウンドを追い出されて、学校のある高台の下の、国道を渡って降りた砂浜で練習することになっていた。おそらく今でも部の名物として伝わっているだろう「砂浜ダッシュ」という、トレーニング(シゴキ?)があって、海水浴客の少ない午前中、ただひたすらそれをやらされていた。
 病弱と言うほどでもないけど、あまり強くない身体を鍛えようと思って入った陸上部だった。最初の数日はよかったけど、すぐに疲れが溜まって、部活に行くのが嫌になってきた。それでも、行かないわけにはいかない。わたしも入れて十六人いた一年生は、毎朝集まるごとに「誰が最初に休むか」と互いの顔を窺ってたような気がする。誰か休めば、自分も休みやすくなるのに、という魂胆だったと思う。わたしもそうだったから。
 そんな夏休みの、八月に入って五日目。まだ誰も練習を休んでいなかった。わたしも、ようやく足の筋肉痛に慣れ始めていた。夏休みに入る前は夜更かし癖がついていたけど、疲れのあまりにさっさと眠ってしまう日が続いていたから、早起きもそう苦になってはいなかった。
 自転車の前カゴにシューズと着替えとタオルを放り込み、ペダルを踏んで二キロ離れた学校に向かう。お盆前の、この町が一番汚くなる時期だった。国道の脇には車から投げ捨てられた空き缶やゴミが散らばっている。夏の始めのうちは、町の人が拾って片付けたりもするけど、海水浴客が増えるにしたがって、片付けきれなくなる。そうなると町の人も諦めてしまう。そのゴミが溜まるピークが、八月の第一週と第二週。これは今も変わってない。
 そんな汚れた海岸沿いの国道。だいたい十分ぐらいで学校のある高台の坂に差し掛かる。その日は、釣りに行く父さんと一緒の時間に起こされたから、いつもより少し早かった。みんなが集まるまでには、まだ十五分ぐらい間があったと思う。まだ涼しい午前中の風が海へ向かって吹き抜ける中、ペダルを踏んで坂を登る。白い校舎と、校舎を囲むコンクリートの塀。それから、一台の車が目に入った。
 校門の前に停まっていた、小さな、トラックみたいな車。その車のボンネットにもたれるような姿勢で学校を眺めている男の人。
 誰だろう、と思った。何か学校に用事のある人かなと予想はついたけど、自分にはあまり関係のなさそうな人だという気もした。
 視線を左手首の腕時計を落としていたその人が、ふいに顔をあげて、こっちを向いた。
 短く刈リ込んだ髪。決してごついという印象じゃなかったけど、半袖のTシャツの下は、結構鍛えていそうな体格。それから、日焼けした肌。
「この時間ってことは、陸上部か?」
 その人が、わたしに向かって声をかけた。
「え?」
 思わず自転車のブレーキをかける。
「例の朝練だろ? 浜、走らされるヤツ」
 どぎまぎして、何て答えていいのか判らなかった。その頃のわたしは、クラスメートや男子部員たちともあまり口をきかないタイプだったから。知らない男の人には、当然、警戒心も持っていたし。
「まだ続けてるのか。…あれ、あんまり身体に良くないんだがなぁ。多すぎる一年生をふるいに掛けるには丁度いいけど」
 一人言みたいに、その人が言う。
「あ、あの…」
 わたしが、やっとの思いで口を開く。
「あー、ごめん。俺、陸上部のOB。卒業して、…もう六年か。そんなに経つのか。歳食うわけだよなぁ」
 苦笑い。
「安本先生、まだ顧問やってくれてるのか?」
「あ、はい」
 慌てて自転車を降りながら、答えた。こんなに近くで、男の人と向き合って話をしたことなんか今までなかったから、ものすごく緊張してたと思う。
「でも、あの」
「どうかした?」
「昨日から、出張してます。来週まで」
「ありゃー」
 その人が、眉根を寄せて残念そうな表情を浮かべる。
「そっか、せっかく帰って来たんだけどな」
「何か先生に、御用事ですか?」
「いや、ちょっと」
 少し考えて、照れたような困ったような顔で言う。
「明日には大学のほうに戻らないとならないんだ。悪いけど、先生に伝えてくれる?」
「はい」
「…俺、海野って言うんだけど。その海野が、今度のアジア大会の代表になりました。中学の頃は色々お世話を掛けましたが、先生にハイジャンプを教えてもらって感謝してますって」
「アジア大会…ですか?」
 わたしが聞き返す。
「そう。釜山でね、あるんだ」
「わかりました」
 わたしが答える。その人が、笑顔になる。
「頼むよ」
 大きな手が、わたしの頭の上にぽんっと載せられた。
 わたしよりも頭一つ半ぐらい大きかったと思う。近づいてみると、胸板がすごく厚くて、汗の匂いがした。初めて会った男の人だったけど、部のOBだって思ったら安心したのかも知れない。いつの間にか、最初の緊張は不思議に解けていた。男子の先輩たちと話すときは、入部して四ヵ月経ってもまだ緊張するのに。
「はい」
 わたしがうなずく。
 身体を折り曲げて小さな車に乗り込んだその人が、開け放した窓から、最後にわたしに向かって言った。
「練習、今はキツいかも知れないけどな、一年のうちは体作るつもりでやるんだ。体ができてないと、後からつらくなるぞ」
「はい。頑張ります」
 私が返事をすると、その人がうなずいた。
 エンジンをかける音。小さなその車が、全体を震わせてるように見えた。今、わたしが登って来た坂のほうから「貴子ぉー!」って、わたしを呼ぶ声。
「みんな集まって来たんだな」
 その人が、バックミラーを覗いて言った。
「じゃあ。先生によろしく」
「はい」
 『多摩』って書かれたナンバープレート。そのナンバープレートと同じ黄色に塗られた小さなトラックが、短距離のスタートみたいな姿勢で走り出した。いかにも「ダッシュかけてる」って音の割りにスピードは出てなかったみたいだけど。

 わたしは、ぼうっとその車の後ろ姿を見送っていた。その時からだった。「あのトラックみたいな車に乗りたい」って思ったのは。それまで車なんてまるで興味無かったし、今でも特に車に詳しくなろうなんて思ってない。でも、どうしてもあの人みたいになりたかった。ただなんとなく、でも、きっと、そうなろうって思った。だから、同じ車に乗りたかった。最初は形だけでも真似したくて。それで少しでも近づけるのなら、と思って。
 いつもはへとへとに疲れてて寄り道どころじゃないんだけど、その日は練習が終わってから、少し遠回りして駅前の書店に寄ってみた。「車・オートバイ」なんてコーナーに行ったのも、それが初めて。「国産車オールアルバム」ってタイトルの本を開いて、軽自動車のページを探してみる。でも、あの人が乗ってた車の写真は無かった。似たような本や雑誌をいくつか探してみたけど、やっぱり載っていない。軽トラックは他にいくらも載っているのに、もっと小さな、普通の軽トラックとは違う格好のあのトラックだけ、載っていなかった。
 もしかしたらと思って、中古車情報誌(こういう雑誌が出ているのも、その時初めて知った)を開いてみる。色々な車の写真で埋まったぶ厚いその雑誌のページを、あの車を探してめくり続けた。
 あった。県内有数の大企業だったから、その車を作っていたメーカーの名前ぐらいは、あの頃のわたしでもさすがに知っていた。その時はMTとかACとかの用語は全然判らなかったけど、その車の名前と、そこに載っているのが四年前に作られて、今は四十四万円で売られている車だということは判った。それから「人気急上昇中!」だっていうことも。

 六年前、夏休みの校舎の前で会ったあの人とは、結局それからは一度も会っていない。東京の私立大学に進学した先輩だって顧問の安本先生は言ってたけど、田舎では大学陸上の話もあんまり耳に入らなかったし、あの時たった一度会っただけの先輩のことを気にかけるというのが、何だか現実味が薄いような気がして恥ずかしかったんだと思う。あの時刷り込まれたあの人の姿は、確かにわたしの憧れだったかも知れない。でも、中学・高校っていう時期は、身の回りで現実的な事が起こりすぎて、憧れとかそういう内面的なものは割りを食って押さえ込まれがちだった。わたしにとっては、目の前にいる男の子を好きになったり、嫌いになったりするほうが大事だったんだと思う。
 だけど、六年前にもう四年落ちだったのと同じ型のこの車は、父さんの車を近所の貸駐車場に追い出して我が家の車庫に収まっている。教習車には付いていたパワーステアリングもパワーウィンドゥも、この車には付いていない。スピーカーが小さいからかも知れないけど、ステレオもろくな音がしない。もともと非力だからあんまりエアコンも効かせられない。そこらじゅう鉄板むき出しで、いかにもプラスチックとビニールって感じの黄色みがかったベージュの内装が安っぽくて、騒音もこの上なくうるさい、十年落ち四速マニュアルで三十六万円の軽トラック。助手席(運転席以外はそこにしかシートが無いんだけど)に一度乗っただけの妹が、「絶対借りない」って力強く言い切るのも判る気がする。もっとも「いかにも昔の軽自動車」って感じの、決してvermilionって英訳が似合わない朱色っぽい赤で塗られた外観だけで相当イヤそうだったんだけど(わたしは何だかキッチュでいいかもって思ったけど、さすがにだいぶ色褪せてたし、錆びるのも恐いからいずれ好みの色に塗り直すつもり)。
 とにかく、自分のものになったこの車に初めて乗った時、「どこにでも行ける」って、そう感じた。何となく走りに行きたくなった。シートのクッションも薄くて疲れそうだと思ったけど、走って行けるところまで行ってみたかった。
 あの人も、そう思ったんだろうか。
 ふと、そんなことを考えた。大学生だったあの人も、この小さなピックアップ・トラックを手に入れて、どこかに走って行きたくなったんだろうか。
 何だか頼りないくらい小さなアクセルペダルを踏み込むと、エンジンが、一生懸命に、ノイジーに、回転する。クラッチを繋いで、車庫を出て、家の前の細い道を抜けて、国道に出る。教習車よりも、父さんのレガシィよりも、彩姉さんのトレノよりも低いアイポイント。
 あの人も、きっとこの高さからこの町を見てたはず。六年前のあの時より、ほんの少し時期は早いけど、今と同じように夏の装いをしたこの町。中学生だった私がいた、この町。
 いつもの目に馴染んだはずの海沿いの国道を、いつもとちょっと違う視線で眺めて、ちょっと緊張しながら走ってみる。高層リゾートマンションの案内板。店頭に色とりどりのサーフボードを並べたマリンスポーツ専門のショップ。海岸を見下ろせるガラス張りの二階席が売り物の洒落た喫茶店。何も変わっていないようで、六年前とはすごく変わってしまっただろうこの町。今はもうどうしているかも判らない、小さなピックアップに乗っていた大学生のあの人。それから、六年前のあの人と同じピックアップに乗っている、大学生になったわたし。
 助手席の向こう、フェンスの向こうに、人の少ない七月末の平日、午前中の砂浜。視線を移す。三車線の一番右側に入る。下手だ下手だと教官に何度も注意された右折。緊張しながらハンドルを切って、交差点を抜ける。しばらくぶりに登る高台への坂道。十年も前に組み立てられた非力なエンジンが、けなげに回る。坂道の途中。白い、三階建ての校舎が見える。この道の先で、あの人と会った。それからこの車と会った。
 声を掛け合い、歩道を走って登って行くどこかの運動部の中学生たち。その子たちを追い抜いた時、何だかふいに涙が出そうになって、慌てて左手で目をこする。
「六年…経ったのかぁ」
 何とはなしに、そんな言葉が出た。
 あの人が車を停めていた校門の前。今は誰もいないし、何も停まっていない。その場所に、あの人と同じ向きで、わたしの車が停まる。エンジンを切ると、途端に飛び込んで来るグラウンドからの歓声。さっき通ったときには気がつかなかったけど、今日も陸上部の一年生たちは砂浜を走らされているんだろう。
 小さなドアを開いて、車を下りる。ドアを閉めると、薄い鉄板が「バタン」というよりも、「バシャン」というちょっと情けない音をたてる。
 あの人は、ここから校舎を見ていた。
 ボンネットに腰掛けるようにして、校舎のほうに体を向ける。ポールの上に、校旗と国旗と市旗。並んだ窓ガラスが照り返す七月の日差し。風は、ほんの少しだけ。あの時のように、高台から海へ向かって吹き抜けている。その風を受けて、ふわっと広がったわたしの髪。
 その髪を直そうと手を上げかけた時、気がついた。
 さっき坂を登っていた、運動部の中学生の一人。一緒にいた仲間はもう校門を抜けてグラウンドに行ったのかも知れない。その男の子が一人だけ、校門の脇に立ったまま、こちらを見ている。
「練習、終わった?」
 わたしの唇から、思いがけずそんな言葉が出た。
「え…あの、まだ…」
 視線が合った。男の子が真っ赤になって、首に掛けたタオルを両手で握る。
「頑張ってね」
 わたしが投げかけた言葉。
「…は、はい」
 戸惑った表情のまま、でも視線を逸らさずに、男の子が返事をした。
 もう一度振り返る。生徒たちの歓声と、それを遮るように吹き鳴らされるホィッスルの音。あの人も、わたしも、三年間を過ごした校舎。そしておそらくはこの男の子も、同じだけの時間を過ごすのだろう。
 ようやく、あの人に追い着いたのかも知れない。
 坂の途中のカーブから、真正面に海が見える。あの日、あの人がこれと同じ車でこの坂のこのカーブを駆け降りた時の景色は、どんなだっただろう。目の前の風景から、新築の高層マンションとマリーナを幾つか消してみようと努力してみたけど、想像する間にカーブを抜けてしまう。
「どこに行こうか」
 わたしの独り言とカセットテープの歌声を、エンジンの音がかき消す。まだ正午にもなってないから、慌てなくていい。
「行けるところまで、行ってみようか」
 わたしのMightyBoyと、一緒に。

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