Merci beaucoup


「切るよ」
 運転席から、彼女が手をが伸ばす。
「強すぎた?」
 彼女のほうを向きながら尋ねる。
「ちょっとね。窓開けられないし」
「いいよ。切って」
 僕の言葉を待ってから、彼女がスウィッチを回す。
「ごめんね」
 こういう口調の彼女の声、久しぶりに聞いた気がする。
「構わない。僕も少し暑かった」
「ヒーターのことじゃなくて」
「じゃ、なに?」
 雨滴の流れるフロントウィンドゥ。ワイパーの向こうに赤信号。彼女が左方向へウィンカーレバーを倒しつつ、ブレーキを踏む。
「雨降ってる時って、絶対乗らなかったじゃない。この車にしてから」
「ん」
「だから、悪いなって」
「たまたま降ってきただけ。千紗のせいじゃない」
 この娘には、そんなところがある。背負い込みたがる性格。けど、周りから同情を引きたがるってタイプじゃない。他人が困っていそうなことがあると、知らず知らず自分も苦にしてしまう。時間が経って、当人がその事を忘れても、彼女だけがそれを引きずって気にしてたりする。本人はそうは思ってはいないだろうけど、分類するなら損な性格に入れるべきなんだろう。
「優しいね」
 口ではそう言うが、決して自責の思いを投げ捨てにしないのが彼女だから、おそらく、雨の日はもちろん曇りの日にも、二度と部屋まで僕を呼びつけたりしないだろう。電話する前に、必ずその日の降水確率を確かめ、彼女の定めたある率を越えていれば、待ち合わせ場所はきっとどこかの駅になる。
「好きだからね」
「車が?」
 言いながら彼女がふっと微笑む。
 僕が、視線を逸らしながら言う。
「車も」

 一年半ほど乗っていた親父のお下がりのブルーバードを手放して、つい二ヶ月前にこの車を買った。高校の頃、大好きだった作家がこれと同じ車に乗っていることを知った。彼がエッセイで披露する「車と一緒の生活」に、僕はひどく憧れた。その車が生活に潤いを与えてくれると言うか、手に入れればきっと良いことがあるような、そんな気がしていた。「いつか、僕もその車に乗る」と決めていたから、手に入れること自体は悩まなかった。ただ、この車で最初に大学へ行った日、彼女の反応を見るのがちょっと怖かった。何も非難めいたことは言わないだろうと予測はついていたけど、それは口にしないというだけじゃないのか。きっと内心呆れるに違いない。そもそも、好きな車をどうしても欲しがるという男の根源的な欲求を、あまりに女性的な女性である彼女にどう説明したら良いものか。結局言い出せないでいた僕は、当日になっても、家を出て大学に到着するまでの一時間強、そんなことばかり考えていた。
 そして案の定、サークル棟の前の学生用駐車場に停めたこの車を見つけ、同時にいつもそこに停まっているブルーバードの姿が無いことに気がついた彼女は、心配そうな表情で僕に向かって言った。
「事故か何か、したの?」
「どうして?」
「車、無いから」
「換えたんだ」
「え?」
「前から欲しかった車に」
「この車?」
 それほどクラシカルな外観ではないと思っていたが、こうして実際に新しい年代の車を隣に並べてみると、潔すぎるほどの直線を基調に構成されているこの車の外観は明らかに異質だった。
「何ていう車?」
 彼女が僕に尋ねた。
「サンク。ルノー・サンク」
「ルノーって、外車?」
「フランスのね、確か国営企業」
「ふうん。あ、左ハンドルだ」
 彼女が一、二歩サンクに近寄り、かがみ込むようにして車内を覗き込む。
「外車って」
 振り返りながら彼女が言う。
「もっと大きくて豪華なんだと思ってた」
「そういう車もあるよ。高いけどね。学生が乗る車じゃない」
「いくらぐらいしたの? これ」
「八十万。前の車の下取りが五十万あったから、払ったのは三十万だけど」
「それぐらいなんだ」
 彼女が、今度は車から少し離れてじっと眺めている。僕が声をかける。
「冬休みに合宿で取るんだろ。免許。取れたらこれに乗ればいい」
「これに?」
 彼女がびっくりした表情で聞き返す。
「そう」
「ぶつけても怒らない?」
「壊さなければね」
 ふっ、と彼女が笑う。
「・・・・サンク、かぁ」
「御不満でも?」
「いーえ!」
 首を左右に振って、嬉しそうな、でもちょっと不安そうな顔をする。
「頑張るからね、免許」
「ん。さ、乗って」
「どこか行くの?」
「どこか」
 シートに腰を下ろすなり、彼女が驚いたような声をあげる。
「すごく座りやすいね、これ」
「うん。僕も驚いた。七年前の車なんだけど」
「フランス人って、こだわるの? こういうところ」
「かも知れない。何せフランスだから」
「フランスだもんね」
 顔を見合わせて、笑う。
 他愛も無いことだった。彼女と僕が一緒に受けているフランス語の授業。その授業の担当教官が妙に神経質で、例えば授業を始める前に黒板を隅から隅まで自分で丁寧に消さないと気が済まないような、レポート提出の際も全員が指定された同じ用紙でないと機嫌が悪いような、そんな人物だったからだ。
「でもね」
 言いながら、キーを捻る。
「前から、乗りたかったんだ。この車」
「何かワケあり?」
「小粋なフレンチのスタイルを取り入れて、よりインテリジェントなライフスタイルを目指そうと思って」
「…それ、フランス語で言える?」
「言えない」
 彼女がくすくすと笑う。
「そんなフランス趣味とか無かったくせに。どうして?」
「どうしてって」
 好きな作家の真似がしたくて。この車に乗れば彼みたいな暮らしができるかと思って。
「何となく、だよ。男にはそういうことがある」
「はいはい。子供がおもちゃ欲しがるのと同じなわけ?」
「そう思ってくれて結構。にしても、千紗」
「なに?」
「さっきからしつこいのは、この車、気に入らないからか?」
「そんなことないよ」
 信号待ちの間、彼女は何か考えているような風情だった。僕がアクセルを踏み込んでサンクが再び走り出すと、彼女も口を開いた。
「意外だったから」
「フランス趣味が?」
「ううん、違う。理由は何となくでも、前から欲しかったんでしょ? この車」
「まぁね」
「大事に乗るつもりでしょ?」
「まぁね」
「その車をさ、わたしが免許取ったら運転してもいいって言うから」
「そりゃ」
 千紗だから、って言おうとして、気恥ずかしくなって口をつぐんだ。
「前の車の時は、そんなこと一度も言わなかったじゃない?」
 ああ。そう言えば、そうだ。前から免許を取りに行くとは聞かされていたけど、彼女にブルーバードのステアリングを握らせようなんて、一度も思わなかった。どうしてサンクなら運転させようと思ったのだろう。
「たぶんね」
「たぶん?」
 助手席の彼女が聞き返す。
「前のあのブルーバードって、自分で『これ』って選んだわけじゃなかったから。親父のおさがりをもらっただけで」
 交差点に差し掛かる。左ハンドルの感覚にはまだ慣れてないから、何でもない左折をするだけでも、新鮮な気がする。
「でもこの車は自分が乗りたかったし、思い入れみたいなものもあって」
「うん」
「うまく言えないんだけど、この車に乗るってこと自体が僕の自己主張って言うか。それを千紗にも理解してほしいから…そんな感じだと思う」
 言って、彼女のほうをちらっと見る。
「判る?」
「なんとなく、だけどね」
 うなずきながら彼女が言う。
「理解するように努力してみる。わたし、車の性能とかのことになっちゃうとよく判らないけど」
 彼女が、一度言葉を切った。
「長所って言うのかな。相手の良いところって、きっと伝わって来ると思う。なんとなくこの車が欲しかったって言ったけど、この車のどこが気に入ったのかって、乗ってるうちに判ると思うよ。わたしにも、ね」
 ああ、いい娘だよなぁ。今更ながら、ひしひしとそう感じる。
「ありがとう」
「だめ」
 悪戯っぽい表情になった彼女が、言う。
「フランス語で、もう一度」

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