キーを差し入れて右に捻る。トランクフードを持ち上げ、楽器のケースをその中に横たえる。また、彼女のことを考えていた。あの微笑について。果たして小悪魔なのか天使なのか。 県中部三大学の合同サークル「Emsenble Freaks」に入ってもう二年が過ぎた。中学、高校とTromboneを吹いてはきたけど、特に誉めて貰えるほど上手なわけじゃなかった。六年も続ければ誰だってこれぐらいにはなるという程度だ。個人技重視のアンサンブル・サークルなんかわざわざ選んで入ることもない。慢性のメンバー不足で苦労しているジャズ研にでも行けば大歓迎してくれただろう。 しかも「EF」のメンバーは、オーケストラやブラスバンドなんかの音楽系公認サークルがあるのに、わざわざ非公認のサークルを選んで入ってくるような変わり者ばかりだ。スタンドプレー好きで、いささか協調性に欠ける連中も少なくない。悔しいことに、そういう奴に限ってウデのほうも並みじゃない。自信家揃いだけど、その自信を裏付ける実力もあるわけで、早い話オケやブラバン特有の体育会系まがいの努力根性至上主義に馴染めない連中ばかりが集まっている。 それだけが理由でもないんだろうけど、他の音楽系サークルとの仲はあまり良くはない。特にS医大のブラバンとは、五年前の「EF」結成以来険悪な状態が続いているらしい。当初の結成メンバー六人のうち、五人はもともとS医大の交響吹奏楽団に在籍しており、その彼らが「EF」結成のために一斉に退団届を出した。夏のコンクール間際だったこともあって、楽団側でも引き留めはしたのだが、五人はそれに応じずさっさと辞めてしまった。結局この穴が埋まらず、S医大フィルの誇る全国大会への連続出場記録はその年で途切れてしまうこととなったそうだ。 そんな経緯を経て誕生したこのサークルがどんな所なのかは、入って一ヶ月も経たずに判った。高校の吹奏楽部とは全く違うというのにもすぐに気付いた。雰囲気は嫌いじゃなかったけど、凄いところに入ったとは感じていた。夏と冬に一回づつ、内輪でコンサートを開く。メインの活動はそれだけ。「大会」と名前のつくものには出場しないのが大原則。練習などはしなくても構わない。と言うか、しなくても誰も文句を付けたりしない。ただ、定例のコンサートで遠慮無しに向けられる冷笑を我慢出来ればの話だけど。 たいした腕でもないのに、そういうサークルになぜ二年も居続けたのか。理由は単純。惚れた娘がいたからだ。第二次性徴最末期の中学生みたいで恥ずかしいとは思うけど、彼女がいたせいで離れられなかったというのは事実だから仕方がない。 正式に「EF」に入会した次の日、僕と同じ新入会員だった彼女を見た。AltoSax.を抱えて譜面をめくる彼女は妙にこのサークルの雰囲気に馴染んで見え、先輩だと思い込んだ僕は、しばらくの間彼女と話すときは緊張しながら敬語を使っていた。 「柚木美春」。翌々週の新歓コンパで、彼女のフルネームと学年を知った。やられた、と思った。彼女はその時まで、ごく自然な感じで、先輩であるかのように僕と話をしていた。 そのコンパの席で、自己紹介をしている彼女を見つめた。今まで、会ったことのないタイプの女性だった。ひと通り話し終わった彼女は、ペコリと頭を下げた。僕と目が合った瞬間、彼女の顔に浮かんだ微笑。やっぱり今まで僕が見たことのない種類の表情だった。愛想笑いのようにも感じられたし、親しみがこめられているようにも思えた。ともかく、それからことあるごとに彼女が僕に見せるこの微笑に取り憑かれて、ここに在籍し続けている。初めての夏のコンサートで、緊張をほぐそうと深呼吸している僕を見た時。先輩と練習そっちのけで車談義をしている僕と目があった時。冬のコンサートの日、珍しく降った大雪のおかげで道路が渋滞して、遅刻ギリギリで会場に駆け込んできた僕を出迎えた時。 「美春かぁ。難しい質問ねぇ」 一昨日、高校で彼女と同級だった菱川薫を捕まえ、ホットチョコで機嫌を取って話を聞いた。 「高校の頃、付き合ってた男なんかさ、いなかったの?」 「いたわよ。美春のあのカオよ。放っておかれるわけないじゃないの」 わかりきったことを訊くなという表情で続けた。 「部の先輩が一人。あ、でも付き合ったって言っていいのかな。あの娘相手にするにはちょっとね。二ヶ月もたなかったもの。あ、断ったのはもっと多いから。八人ぐらいかな、高校の頃だけだと」 「そんなに選り好み激しいの?」 「そういうわけじゃないみたい。最初にその先輩とつきあってみたって感じかな。後はもう寄ってきた男みんな門前払い。カオが良かろうと背が高かろうと先輩だろうと後輩だろうと、断りまくり」 「なんでだろ?」 「そんなことまで知らないわよ。本人に聴いてみないと。けどさ、大学入っても変わってないのね」 「あ、それ聞きたい」 「悪趣味」 菱川はカップを置いて、ニヤニヤ笑いながら続けた。 「Hornやってた高塚先輩、今年退会しちゃったけど。あの人、美春が入会した頃から目つけてたみたいで、去年の二月だったかな。そうそう、ヴァレンタインの前の日曜。ドライブに誘ったの。ほら、スープラの2500乗ってたじゃない。ひとつ前のだけど」 「どうなったの?」 「私たちさ、すぐ横で見てたんだけど、もう先輩のメンツだとか、まるでお構い無し。『いやです』だって。目も合わせなかったもんねー」 両手でカップを抱えたままおかしそうに笑って言う。 「きついね。それは」 「まだいるのよ。ウチのサークルだけでも」 「ウチに男って十人もいないじゃない?」 「それでも、よ。滝田先輩に、同級の原くん。あと経済大のオケの柿崎って人とか」 「原も? 全部断ったの?」 「自分のこと棚に上げて何言ってるのよ。随分なことしてるみたいじゃない。この前も真由美が泣きついてきたし」 「真由美? 誰?」 「ひっどーい! バチあたるわよ。今に」 「年下って好みじゃないんだ。面倒だから」 「えー? あの娘しっかりしてるし、可愛いじゃないの」 「年上や同い年ってさ、気が楽だから。年下って何かあるとすぐに男頼ってくるからね。子守りしてるんじゃないんだ」 「贅沢者!」 「何とでも言いなさい」 「言ったところでムダでしょ。どうせ」 僕の腕時計をちらりと見た菱川は、急に立ち上がった。 「もう帰るからね、駅まで送ってってよ。ご自慢のBMWで」 「そりゃBMWにはBMWだけどね。年代物なんだよ。あれは」 苦笑するしかない。何と言っても僕より年上だ。年上にしては随分と手を掛けさせてくれる厄介者だけど。 「わたしも車買おうかなーなんて思ってるんだけ。」 「何買うの?」 「ユーノスのロードスター、Vスペって言ったら怒る? 年代物乗ってる人としては」 「別に怒りゃしないよ。羨ましいだけ」 「本当はね、ロードスター欲しいんだけど。でもやっぱ新車で買うと高いし。ちょっと前のでも良いからパンダあたりにしようとか思ってるんだけど、どう?」 「悪くはないんじゃないの」 ドアを押して僕より先に店を出た菱川が、振り返って、言った。 「ま、頑張ってね。応援してるから」 「何をさ」 「美春のこと。あの娘ってさ、ああ見えて割と不器用なのかも」 ポケットからキーを取り出しながら、黙って菱川の表情を眺める。 「ちょっと神経張りすぎてるとこもあるし。オトコ嫌いとかって評判立つとね、かわいそうでしょ? そう思わない?」 駐車場のアスファルトを踏む小さな足音が聞こえた。トランクを片手で閉めながら振り向く。 「時間ある?」 彼女だ。いつもの笑顔。どうもこの微笑を見ると落ちつかない。心の底のほうまで見すかしてるんじゃないか、そんな気がして言葉が出てきてくれない。答に迷っているうちに彼女が続けた。 「乗せてってくれない。県立美術館まで」 「OK。楽器は後ろのシートにでも載せといて。」 有る限りの余裕をかき集めたつもりで言った。左のドアを開けてシートに座る。右手を伸ばして助手席側のドアのロックを外すと、彼女が乗り込んできた。車内に彼女の髪の香りが広がり、他の匂いをかき消してゆく。手のひらに汗がにじんだ。 「今月の展示、東山魁夷だった?」 言いながらキーを捻る。 「ん。文庫になってる画集があるんだけど、その原画がメイン」 二、三度咳込んだ後、ようやく火が入る。菱川を乗せた時もそうだったけど、僕より四つも年上で、今年の六月で二十四になる1602は、女性をパッセンジャーシートに乗せるとヘソを曲げるようだ。 暖気している間の沈黙が怖くて、水温計の針が動き出すとすぐに駆け出す。四速へシフトする前に、坂を降りて最初の信号に引っかかる。彼女が悪戯っぽい目をして訊いてきた。 「一昨日、薫と一緒だったでしょ。この車で。何してたの?」 「駅まで送ってってあげたんだけど」 「嘘。あんなに遅くなるわけないもの。送ってく前は?」 今現在隣のシートに座っている柚木美春についてレクチャーを受けていた、などと言えるわけがない。言い訳を考えているうちに信号が変わる。 「薫さん、車買うっていうからその話なんか」 「それだけ?」 「ま、ね」 「じゃ、それだけってことにしておいてあげる」 どうにも手玉に取られてるような気がする。 「真由美ちゃんとはどうなの? その後。付き合ってあげてる?」 二つめの信号にも引っかかる。暖気が足りなかったせいか、1602が不機嫌なのが気になる。 「薫さんにも言われたけど、そんなにひどい事したのかな」 また、悪戯っぽい微笑み。 「そうね。真由美ちゃんも凄かったけど、私だったらあれぐらいじゃ済まなかったかも」 「あれぐらいって?」 「荒れまくって」 ふわり、と香水の香り。 「あの晩ね、真由美ちゃん連れて薫たちと飲みに行ったんだけど、店の中で先輩、先輩って大泣きするし」 「良かった」 「何が?」 「そういうお子様と付き合わなくてさ」 ちょっと沈黙。右折車を避けて隣の車線から入ってきたゴルフに先を譲る。 「西条くん、刺されるからね。そんなことばかり言ってると」 「刺されたほうがマシ」 「またそういうこと言う。敬遠されちゃうよ。女の子たちに」 「もし刺されたら、見舞いに来てくれるかな。柚木さん」 言ってから、調子に乗りすぎたかと悔やむ。 「傷にもよるけど」 意外な反応。どういう意味、と目で尋ねてみる。 「意識不明で、回復の見込みも無いような重体なら行ってあげない」 最後の交差点を曲がり、美術館への緩い上り坂にさしかかる。 「でも、私が見舞いに来たって判るぐらい元気が有ったなら、行ってあげる」 柚木の目を覗き込んで、今聞こえた言葉の真意を確かめたかった。目の前の歩道で、いつ飛び出すかわからない子供たちが遊んでいなければ。 「それは」 言いながら、ステアリングをほんの少し右側に切る。 「ありがとう。覚えておく」 悔しいことに、手のひらは汗でべっとりだった。ステアリング・ホイールを巻いているのが濃茶のレザーというのは幸運だった。これが上品ぶったホワイトブラウンかなんかだったら、汗で湿っているのが一目で判ってしまっただろう。 落ち着け、と自分に言い聞かせるが、心拍数も上がったきり元に戻る気配すら見せない。 ただ柚木と話しているだけじゃないか。彼女の言葉が思わせ振りに聞こえたのは、こちらの自意識過剰がそうさせただけだ。彼女とはとりあえずこのままでいられれば充分。そうだろう? ハンドルを大きく切って、美術館の門前のロータリーに乗り込む。 「ね、西条くん。ここで止める気?」 また、その目だ。 「駐車場に入れないの?」 「え?」 「絵、見ない?」 そういうことを言うのか。胸の奥の辺りがぎゅっと絞られるような、心地好いんだか何だか判らない感触。 「判った。付き合うよ」 勿体を付けたような口振りで言ってはみせる。どうせこの相手には通じはしないだろう、と思いながら。 「良かった。一人で絵見るのって、あんまり好きじゃないの」 「そうなんだ」 「音楽、一人で聴きたい時ってあるじゃない?」 「そう・・・・かな。まぁ判らないでもないけど」 段差を越えて、美術館の駐車場に乗り入れる。出口に近い駐車スペースから、ちょうど軽トラックが一台出て行くところだった。シフトレバーをバックに入れ、窓を巻き下ろす。柚木がそのまま続けた。 「音楽だったらもう大概の評価って自分でできるかなって気がするんだけど、絵はね。自分なりの基準が定まってない気がして」 「へぇ」 饒舌な柚木を見るのは、これが初めてだった。 「だから、誰かの意見聞きながら見たほうがいいと思って」 「謙虚なんだ」 言いながら、サイドブレーキを引く。 「謙虚…って言うのかな。自分の物差しだと測りにくいから、人のも借りようってだけ。自分のためにね。我がままなのかな、つまりは」 そう言って、柚木が右のドアを開き、駐車場に降りる。 「さ、行こ」 「ん。行こう」 「バイエルンの頭文字だった?」 一枚の絵の前に足を止めた柚木が、唐突に言った。 「え?」 「BMWの『B』って」 「そう」 「行ったことある?」 「まだ」 僕のほうを見ず、絵を眺めたまま柚木が続ける。 「私も。ドイツって、行ってみたくない? たとえ趣味でも音楽やってる以上」 「親父は仕事で行ってたんだけどね。あの車も向こうで買ったのを持って来たんだ」 「どこ?」 「ミュンヘンだって。ビール会社勤務だから」 「そっか」 ようやく柚木の目が絵から離れる。 「で、西条くん自身はどうなの? ドイツ。興味無い?」 「行けるんなら行ってみたい。ついでにオーストリアも」 「特に行きたいところは?」 「別に…向こうの雰囲気を知れれば、それでいい」 「私は、ワグナー劇場に行きたい」 「ワグナー、好きなんだ」 「そうなの。似てると思わない?」 「誰と?」 「私と。我がままで傲慢そうなところとか」 そう言って、柚木が微笑を浮かべる。 「自分の音楽のためだけに新しい編制とか楽器とか作らせたりね。でも、ワグナーのオペラは新奇なだけじゃなかったでしょ? 様式美をこれでもかって積み上げて見せるぐらい、のこともできたわけ」 黙って、柚木の言葉に耳を傾ける。 「私が音楽を本格的にやるのを断念したのは、ワグナー作品に触れちゃったからかも知れない。こういう才能があればって。圧倒されるより前に嫉妬しちゃったもの。でも、それは冗談にしても」 柚木は、返事の言葉が見つからず当惑している僕の様子を嬉しげに見ている。 「私の独占欲っていうか、嫉妬心の強さって、自分でも呆れてるんだけど。でも西条君は呆れずに聞いてね」 柚木が次の絵の前に歩く。僕が、その後ろにつき従うのが当然のように。歩きながら、言った。 「一昨日、西条くんの車に薫が乗ってるのを見て、自分でも信じられないくらい腹が立った。薫とは長い付き合いだったけどもうこれで終わりだって、そう思ったもの。今朝、薫の顔を見たときもそう。よくも私の前に気分よさそうな顔で出て来られるって。本当のとこ言うと、真由美ちゃんとじゃ絶対釣り合わないって思ってたけど、薫だとどうなるかわからないって心配だったから」 くるりと、柚木が振り返る。こんな時にもあの微笑は絶やされていない。 「悔しいから言ってやったのよ。薫には私が西条君のこと何度も相談してるのに、どういうことって。そうしたら薫、『好きな娘いるんだって。美春の言う通り横からかっさらってやろうかなーって思ってたけど、あれじゃ見込み無いわ。あんたも玉砕して来たら? 楽になるから』ってあの調子で言って」 つまり、ここにいる僕よりも柚木よりも、菱川は役者が何枚も上だったってことなんだろう。菱川は、僕と柚木にじゃれついて遊んでいたようなものだ。 「だから、確かめてみようと思って」 「判った」 続きを言いかけた柚木を制止して、僕が尋ねる。 「薫さんの、今日の予定は?」 「薫の? …金曜日だから、たぶん、いつもの塾にバイトだと思うけど?」 「OK」 不審そうな柚木。 「おそらく薫さんが一番この状況を面白がってる。それは間違いない」 「え?」 「僕は昨日、彼女に相談したことがある。好きな女の子がいる。その、…薫さんと付き合いの長い娘だって」 柚木の顔が、真っ赤に染まった。 「…薫!」 そう声を上げた後、ここが美術館の館内だってことに気がついて、辺りを見回す。彼女がこんなに取り乱したのを初めて見た。 「そういうこと。だから」 僕が提案する。 「バイトが終わった彼女を捕まえよう」 「そうね。親友をからかうなんて、悪質もいいとこじゃない!」 言いながら、僕は(おそらくは柚木もだろう)一つの確信を得ていた。 悪戯猫が筆を揮った喜劇の最終幕には、僕ら二人の復讐の場面もとうに盛り込み済みだろうってことを。 |
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