白き正しきセダン


「免許、取れたの?」
「うん」
「車は? もう自分の買った?」
「まだまだ。これからバイトしてお金貯めないと」
「そう? まあいいけど、授業にはしっかり出なさいよ」
「はいはい。判ってますって」
「あ、それから」
 声の調子から、何となく「ここからが本題だな」って予感がした。
「何?」
「今度の日曜、暇?」
「予定は入ってない、けど」
「こっちの駅まで出て来てくれる? お昼の一時頃」
「え?」
 あの時の驚きをどう表現すればいいんだろう。おそらく僕以外のどんな人間も、あの時の僕ほどに驚きはしないはずだ。それにしても、一体何があったのか。僕は驚くと同時に心配でならなかった。
「何で? 何かあったの?」
「ちょっとね」
「それじゃ判らないよ」
「今は判らなくてもいいの。日曜日にはちゃんと説明するから」
「そんなこと言われても」
 電話口の声が、少し大きくなった。
「とにかく、大事な用事だから。絶対に来なさいよ」
「判ったよ。行くよ」
「絶対に来るのよ」
「行くってば。でも、何か目印が無いと」
「大丈夫。絶対判るから」
 受話器を戻してからも、納得が行かなかった。不可解という言葉はこういう状況を指すんだろう。何であの人から、と考えれば考えるほど判らなくなってしまう。
 とにかく、僕には「当日その場に行ってみる」という選択肢を選ぶ以外には無いということだけは合点が行った。
『今度の日曜日は、暇か』
 あの人は僕にそう聞いたけど、仮にどんな用事が入っていたとしても、おそらく僕はそれをキャンセルしてあの人のところに行っただろう。
 あの人の、たった一人の息子として。

『お前の父さんも母さんも、遠いところに行っている』
 そう聞かされて、ああそうなのかと思っていたのはいつ頃までだっただろう。物心ついた時には、僕は祖父母の手元で育てられていて、だから父親や母親がいないということも、当然だと思い込んでいた。近所の子たちがその両親と一緒にいるのを見ても「でもうちにはいないんだから仕方がない」と自分を納得させて不思議に思わない、変に悟ったようなところのある子供だったらしい。
「お前の父さんに会いに行く」
 祖父にそう言われて、初めてそれと理解して墓参りに行ったのは、確か幼稚園にあがるすぐ前の春だったように記憶している。今考えてみれば彼岸の墓参りだったのだろう。ちょうど近所で一つ葬式があって、人の生死ということが何となく判りはじめてきた頃だった。
 その時も、ああなるほど、父も母も死んだんだな、と思っただけだった。もともといないものだと刷り込まれていたから、今更特に喪失感だとかそういうものも感じず、『遠いところ』というのが何を指しているか漠然と判ったような、ちょっとすっきりしたような気がしたくらいだった。
 頭からそう信じ込んでいただけに、それがひっくり返った時は随分混乱した。小学校の卒業式の直前、祖父母が随分長いこと相談した後で、僕を呼んでこう言った。
「今度の卒業式に、お前の母さんが会いに来る」
 困ったような腹を立てたような、複雑な表情を張り付かせた祖父の顔を、今でも思い出すことができる。僕は何と答えていいのか、そもそも祖父が何を口にしたのかもよく判らず、ぽかんとその顔を見返していた。
「電話があってな、どうしても、一目でいいから会いたいそうだ。ただ」
 咳払いをして、祖父が言葉を続ける。
「お前が会いたくないなら、会わないでおくとも言った」
 祖父はあまり冗談を言うたちでもなかったし、隣にいる祖母もふざけているような顔ではなかった。そもそも冗談だとしたら、孫に聞かせるにしては相当悪質な種類になるだろう。
「母さん?」
 僕が聞き返した。
「父さんも母さんも死んだんじゃなかったの?」
 祖父が首を左右に振る。
「死んだのはね、お前の父さんだけだよ」
 それまで黙っていた祖母は、そう言うとそっと手を合わせ、小声で「なむあみだぶ」と唱えた。
「色々とわけがあって、教えてやれなかった。悪かった」
 済まなさそうな声で、祖父が言った。
 その後、祖父母が僕に向かってくどくどと言ったことを総合すると、だいたいこんな内容だった。
「いつか、お前の母さんのほうから会いたいと言ってくると思っていた。頼むから、わけは聞かずに会ってやってくれ」
 最初はピンと来ないというか、現実味が薄くてどう考えていいのか判らなかった。けれども時間をかけて気持ちを整理してみれば、今まで想像上の人物でしかなかった自分の母親が、一体どんな人なのか知りたいのはあまりに当然だった。
「会いたい」
 僕は、そう言った。祖母が、仏間のほうを向くと、手を合わせてもう一度「なむあみだぶ」と唱えた。

 そして、祖父に連れられて行った卒業式の日。父さんと母さんが一緒に写っている写真を、一枚だけ見たことがあった。その結婚式の写真でしか見たことのない、自分の母親のこと。式の間じゅう、そればかりが気になってならなかった。
「恭一郎」
 先に外に出て、退場して来る僕を待っていたのだろう。祖父が手招きをした。もしかしたらそのすぐそばに母さんがいるかも知れないけれども、同じように子供たちを待っている父兄の姿が多くて、判らなかった。
「行くぞ」
 祖父がそう言って、歩き出した。
「母さんは?」
「今から行くんだ」
 祖父はグラウンドのほうに向かって行った。今日は石灰でラインを引いて、臨時に父兄用の駐車場になっている。
「祥子さん」
 祖父が声をかける。白い車の脇に立っていた、薄いブルーのスーツを着た女の人が、祖父の姿に気付いてちょこんと頭を下げた。
「恭一郎です」
 僕の頭に手を置いた祖父も、そう言ってその人に向かってお辞儀をした。僕もそれを見て、慌てて頭を下げた。
「こういう時」
 こちらに歩いて来た女の人が、初めて口を開いた。これが母さんの声か、と思っただけで、震えるほどの感動とかそういったものは感じなかった。現実感の無い、ドラマか何かを見てるような、そんな感じがした。
「何て言えばいいんでしょう」
 母さんが、困ったような表情で祖父に言った。
「慣れてなくて、こういうの」
 そう言って、母さんが僕の前に立った。なんだか急にその場に居づらいような気がして、それをごまかすためにもう一度お辞儀をした。
「大きくなったね」
 僕が頭を上げてみると、母さんはちょうど僕の目の高さぐらいまでしゃがみこんでいた。母さんが、右手を差し出す。遠慮がちに差し出した僕の手を、母さんがそっと握る。
「お父さんに、そっくり」
 母さんの目に、急に涙が浮かんだ。
「祥子さん」
 祖父が、遠慮がちな声で言った。
「私たちは、祥子さんのためにと思っていたんだが、申し訳なかった」
「いえ」
 僕の手を握った母さんが、祖父のほうを向いて立ち上がると、答えた。
「私のほうも何て言ったらいいのか。本当に、感謝しています。恭一郎を」
 そう言いながら、僕の手を握る母さんの力が、ぎゅっと強くなった。
「こんなに大きくなるまで育てていただいて。安心しました」
 僕は、じっと母さんの顔を見上げていた。
「恭一郎」
 その僕の目を真正面から受け止めながら、母さんが言う。
「お祖父さんとお祖母さんの言うこと、ちゃんと聞かなくちゃだめだからね」
「はい」
 「うん」という答え方が、どうも似合わないような気がして、僕はそう答えていた。
「初めて」
 母さんの、何か思い詰めたような表情が、ふっと緩んだ。
「聞いたね、恭一郎の声。ね、『母さん』って言ってみて」
 そう言った母さんの言葉を聞いた途端、なぜだか、泣き出したくなるくらい悲しいような、嬉しいような、不思議な気持ちがした。
「母さん」
 僕が、ある限りの勇気をふり絞って、言う。もう一度、母さんが僕の手をぎゅっと握って、じぃっと僕の顔を見つめる。
「恭一郎、ありがとう」
 僕の右手を握っていた力が、緩んだ。抜け落ちるように、僕の手が母さんの手から離れてゆく。その瞬間が、ひどく寂しく感じられたのは気のせいではなかっただろう。
「お義父さん」
 改まった表情で、祖父のほうに向き直った母が言った。
「一つだけ、お願いが」
「何ですか」
 黙っていた祖父が、答える。
「これから、恭一郎のところに電話することを、許してくださいませんか」
 祖父は、一瞬いぶかしむような表情をしたが、うなずいて言った。
「もちろん、構いませんとも」
「ありがとうございます」
 母さんが、祖父に向かって深々と頭を下げる。
「じゃ、恭一郎」
 もう一度、僕のほうを向いた母さんが、言う。
「元気でね。電話するから」
 母さんが乗った白い車がグラウンドを出て行くのを、僕と祖父は黙ったまま見送った。
「恭一郎」
 祖父が、僕に向かって静かに言った。
「お前の母さんは、可哀相な人だ。原因は祖父ちゃんたちにもあるが、な。お前は、母さんには優しくしてやるんだ」

 それから、七年。月に一度か二度は、母さんからの電話があった。僕の健康のこと、学校のことなど、お定まりのことを聞いた後、二言三言ほどの言葉を交わすと切れてしまうその電話を、僕は楽しみにしていたのだろう。けれども、母さんはそれまで一度も「会おう」とは言って来なかった。祖父母に遠慮していたのかも知れないし、そうでないのかも知れない。中学の卒業式の日には電報を打ってくれたし、その翌月の入学式の日にも祝いの品を送ってくれた。だから、どうして僕と会うことだけを避けているのか、それが不満だったし、不思議でもあった。けれども僕のほうにも「どうして」と尋ねる勇気は無くて、結局そういう親子関係は持続されている。
 大学に入って、一年。そういう状態が普通であっただけに、母さんのほうから「会いたい」と言って来たのが以外だった。信じられなかった。
 しかし、事実だ。事実だから、凄く不安だった。何があったんだろう、何があるんだろうなどと考えてはみるが、そもそも僕は母さんについて何も知らないことを思い知らされるばかりだった。顔だって、七年前のあの時に見ただけなんだから。

 西に、四駅。時間にして三十分弱。急行列車なら通過してしまうこの街に、母さんが住んでいる。例の卒業式の後、家に帰ってから祖父にそう教えられた。会いに来よう、会いに行こうと思えばいつでも行ける距離だ。
 この駅には一度も降りたことがなかった。それどころか、乗っている列車がこの駅を、この街を通過する間じゅう、目も開きたくなかったし、音も聞きたくないくらいだった。母さんがうらめしいとか、そういう感情ではなかったと思う。理由と言えるのか判らないが、僕の知らない母さんの周囲を知ってしまうということが、なぜだか怖いという思いのせいだった。
 避けていたのかと問われれば、そうだと答えるしかない。母さんの生活が僕無しで続いている以上、突発的とはいえ僕がそこに加わるのはその生活が崩れてしまうことになる、ずっとそう考えていた。十二年間会っていないどころか、すでに死んだものだと思っていたのだから、僕にとっても母と会うということは相当に特殊なことに違いなかった。
「恭一郎」
 十二時五十七分。南口しか無い小さな駅。改札口を抜けた正面。ロータリーにタクシーともう一台、白い車。
「時間通りね。よしよし」
 その白い車の脇で僕を待っていたのは、七分袖のTシャツにホワイトのジーンズという、ずいぶんラフな格好の母さん。七年前とあまり変わって見えなかった。
 あの時はよく判らなかったけれども、今の母さんは友人たちの母親と比べてもかなり若く見える。所帯地味ていない、ということが最大の原因なのかも知れない。
「あの、こんにちは」
 何て言ったら良いのか判らず、とりあえず僕が口にする。
「止めてよ。親子なんだから」
 母さんが言う。
「久しぶりだから。会うの」
「七年ぶり? 母さんも歳取るわけだ」
 指を折って数えながらそう言って、母さんが笑った。
「今日はね、話があるから」
「何の話?」
「いろいろ」
 母さんが、白い、古臭いデザインの車の助手席側のドアを開ける。
「乗って」
「うん」
 開け放たれたドアの内側に、薄茶色の、ファブリック地のシート。見た目の古臭さとはうらはらに、ずいぶん綺麗にされているように見えた。
「お腹、空いてる?」
 運転席に座った母さんが、尋ねてくる。
「食べて来た」
 そう言えば、親子で食事をしたことも一度なかった。母さんの気持ちを思いやれば、今日は昼食を食べないで来たほうが良かったのかも知れない。
「そっか」
 母さんが、シフトノブをローに入れる。
「じゃ、適当に走るから。行きたいとことか、ある?」
「別に」
「張り合いないなぁ。あ、緊張してる?」
「少しは」
「コーヒーでも飲みに行こっか。ちょっと離れてるけど」
 そう言うと、母さんがクラッチを繋ぐ。ロータリーを半周して、駅前の通りに出る交差点。
「恭一郎、この車って知ってる?」
「知らない。昔の車?」
「やっぱ知らないかぁ」
 そう言いながら、母さんがハンドルを切る。車は交差点を右に抜ける。
 しばらく、静かだった。これまた古臭いカーステレオが付いていたけど、テープも入っていないようだった。車は、二、三度交差点を曲がって、川沿いの道の上を走っている。
「父さんの話、しようかと思って」
 急に、母さんが言った。
「父さんの?」
「そう」
 対向車がたまに来るだけの、道幅の割りに交通量の少ない土手の上の道。母さんが、ゆっくり話し始めた。
「母さんが十七の時だった。初めて会ったのは。会ったていうか、母さんちの店のお客さんだったんだけどね。父さんが」
「母さんちって」
「聞いてない?」
 僕が首を左右に振る。
「そっか。母さんちね、解体屋やってる。壊れた車とか買い取ったり、そういう車から取った部品を売ったりとか、そういうお店」
「ふうん」
「父さん、泣きそうな顔してた。初めて買った車、電柱でこすっちゃったって言って、ドアのパーツ買いに来たの。お金無かったんだよね。大学一年だったかな? ちょうど今の恭一郎と同い歳」
 楽しそうな表情で、母さんが続ける。
「母さんの父さんがね、『免許取り立てはこすって覚えりゃいいんだ』ってお説教して、父さん神妙に聞いてた。で、お説教が一通り終わってから、ちょうど同じ車で色も一緒のが有ったからドア外して来て」
 そこまで言うと、母さんがくすくすと笑い出した。
「『代金はいらないから、持ってけ』って言ったのね。母さんの父さんが。そしたら父さんなんだか凄く感動しちゃって、『御恩は一生忘れません!』とか言って。母さん、見てて笑っちゃった。本当はね、ああいう部品の値段なんかあって無いようなもんなの。どうせタダ同然で引き取った事故車なんだから」
 母さんのくすくす笑いが収まるのを待って、僕が聞く。
「それから?」
「うん。それからね、ちょくちょくお店に来るようになって、色々話とかしたり。うちの父さんがすごく気に入ってたの。『あいつは見どころがある。人の話を嫌がらずに聞くところがいい』って。それで、知らないうちに父さんが母さんの家庭教師やるってことが決まってて」
「家庭教師」
「そ。母さんも次の年に受験だったからね。真面目な先生だった。厳しかったけどね。でね、家庭教師の時間の二時間も前にうちに来てね、うちの父さんに車の修理とか教わってるの。『どっちが先生だか判らん』って言ってたけど、うちの父さん、本当は嬉しかったんだと思う。母さん一人っ子だったから」
「給料とかは?」
「安かったと思う。代わりに部品持ってけとか言ってたし、うちの父さん。父さん自動車部入ってたから、かえってそっちのほうが嬉しかったかも。でさ、結局母さんも父さんと同じ大学に合格して」
 そこまで言うと、母さんが照れたような顔で僕のほうを見た。
「いずれ言うんだろうなって思ってたけど、自分の息子にこういう話するのって、結構恥ずかしい」
「そんなもの?」
「そんなものなの。後は察しなさい」

 この角度からだと、駐車場にあの白い車が止まっているのが見える。結局、あれから二十分ほど走って、この店に入った。濃茶のニスが塗られた手作りっぽいテーブルを挟んで、向かい側に母さんが座っている。
「でね」
 母さんが、紅茶のカップを右手で持ち上げながら言う。
「父さん、その時セリカに乗ってたんだけど。知ってる? セリカってどういう車か」
「それぐらいは。昔のはよく知らないけど」
「うん。まぁ昔もあんな風なスポーツカーっぽい車だったんだけどね、後ろのシートとか外しちゃって、走って曲がって止まるしか能が無いって感じに改造してたの。何せ自動車部あがりだからね」
 母さんの話は、二人が大学を出て、結婚してからの頃のことになっていた。結婚するにあたって、少しもめごとがあったらしい。
 母さんはさっきも聞いたとおり解体屋の一人娘で、父さんは会社勤めを始めて二年目。母さんの父さんとしては、自分の弟子のような父さんを婿に取って解体屋を継がせたかったのだが、祖父母は父さんが長男だからということでそれを認めなかった。結局、父さんは会社勤めを続けたわけだけど、それが原因で母さんの家との間に感情的なしこりのようなものが残ったのだろう。
「で、どうも母さん妊娠したかなって判ったから、そう言ったの。父さんに」
 母さんがカップを口に寄せて、一口飲む。
「そのセリカ、すっごく気に入ってんだけど、家族で乗るって車じゃなかったからね。だからってもう一台車持つほど余裕は無くって」
「それで、どうなったの?」
「『買い換える』って言ってね、次の日にカタログ貰って来た。発売されたばっかりだったかな、あの車が」
 そう言って、母さんが後ろを振り向く。視線の先にこの喫茶店の駐車場。僕と母さんが乗って来た、白い、古臭い車。
「セリカカムリ。セリカの四ドア版って言えばいいのかな。カリーナとかね、四ドアで走る車って無いわけじゃなかったけど、中途半端だったのね。父さんには。難しいこと言ってもまだ判らないかも知れないけど、セリカとあんまり性能違わなかったの。あの車」
 母さんがゆっくり振り返って、言う。
「イコールあんまり家族向きじゃないってことなんだけど、それはそれとして。母さん、ちょっと驚いたの。そのセリカ、まだ大学生だったころから三年も乗ってて、色々ね、思い出とかもあるはずなんだけど。『いいの?』って聞いたら、父さん『家族のほうが大切だから』って言ってね。すっごく感動した。あの時。いい人と結婚したなって思って」
 母さんが、カップを置いて目を閉じた。何か思い出してでもいるかのように。
「納車の前の日だった」
 目を開いた母さんが、言った。
「父さん、仕事の帰りに事故に遭って。相手は大きなトレーラーだったから、運転してた人は無事だったんだけど、父さんのほうは意識無くて、そのまま」
 ふっ切れたような表情で、母さんが言葉を継ぐ。
「ドラマなんかだと『それから車を憎むようになった』とかって話になるんだろうけど、母さんはそんな気にならなかった。父さんが車を電柱にぶつけちゃったのがそもそもの縁だったんだし。けど、お通夜の準備してる最中にあの車が納車されてきた時は、ほんとどうしようかって思った。それどころじゃなかったから」
 母さんが、もう一度、駐車場のほうを振り向く。
「でも、父さんが『家族のために』って買ったんだと思ってね、結局買うことにした。それから、ずっと母さんが乗ってた」
 僕のほうを、真面目な目で見て、母さんが続ける。
「恭一郎を乗せてあげよう、家族で乗ろうって思ってね」
 正直、今日まで母さんのことは「よく判らない」と思っていた部分があった。僕を祖父母の手に委ね、実家のほうに戻っていたことを恨むつもりはないけれども、どうして、という思いがなかったわけじゃない。
 けれども、やっぱりこの人は僕の母親で、僕の父親が選んだ人なんだなって気がした。

「恭一郎」
 店を出たところで、母さんが振り向いた。
「運転して」
 そう言って、キーホルダーを僕のほうへ投げてよこす。
「OK」
 白くて、古臭くて、でも父さんと母さんの思いのこもった車。ドアグリップの脇の鍵穴に、キーを差し込む。
「あ」
 母さんが、声をあげた。
「どうかした?」
 僕が顔を上げて聞く。
「父さんにそっくりだった。そういう仕草」
「そうかな?」
「うん」
 母さんが、笑顔で言った。
 初めて座る、セリカカムリの運転席。ちょっと前に出ていたシートを直す。母さんも、助手席に腰を下ろす。
「肩の荷が降りた気がする。誰かに頼まれたってわけじゃないけど」
 キーを捻ると、エンジンの音。助手席に座った時よりも、ダイレクトに振動を感じるような、そんな気がした。
「ハンドル、重いからね。昔の車だから、パワステ付いてないの」
 母さんが言う。
「スピード出てないと凄く重いから、そのつもりで」
 母さんの助言にうなずきながら、クラッチを繋ぐ。言われた通り、信じられないほど重いハンドルを切って、駐車場の出口に向かう。
「安心した」
 さっきの川沿いの道に出た辺りで、母さんが言った。
「恭一郎、まだ車持ってないんだよね。預けてもいいかな。この車」
「え?」
「ただし、条件付き」
 僕をからかうような調子で、母さんが続ける。
「恭一郎が気に入れば、だけどね」

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