夏の女王


 ちょうど二年前。先輩たちと行った晩夏の人造湖。そこで彼女と出逢った。湖水を一望できるワインディングロード沿い。木蔭に見た純白のSummer Sweater。廊下で会ったことのある、制服の背中を半分は隠してしまうStraight Hair。
 夕暮れの前にヒグラシが鳴き出すほど、その夏は過ぎてしまっていた。それまでお互い意識せずに擦れ違っていた廊下を、並んで歩けるようになったのは、九月も下旬に入ってからだった。

 盛夏の改札口。ロータリーにたたずむ日傘。打ち水から立ち昇るアスファルトの匂い。
 春、ここを離れてから四ヶ月過ぎた。あの時、彼女はプラットフォームまでも来ようとしなかった。よく通った喫茶店で二言、三言交わしたきり。あの頃は受験のおかげでろくろく逢えはしなかった。話したい事も山ほどあったはずなのに、向かい合っても黙ったまま。話かけようにも、彼女の反応の予想がつかなくて、喋り出すのが怖かった。
 彼女から離れるのも辛かったけど、それよりそんな時にも冷静なままに見えた彼女の態度が、かなり堪えた。
 そうやって東京に出てきて、四ヶ月。驚いたことがある。辛い思いをして上京してきたはずだったのに、「忙しい」と自分に言い聞かせて過ごしていた僕にとって、彼女の存在とは都合に合わせて忘れてしまうことができるものだったようだ。この間、僕のほうからはたった一度の電話さえしなかった。

「忘れてるんじゃないでしょうね。」
 痺れを切らしてか、六月の中頃こんな電話をよこした。
「そんなつもりは無いんだけどね。忙しくてさ。」
「嘘。今まで思いつきもしなかったくせに。声でわかるの。」
 全然変わってない彼女の口調に少し安心。
「何の用?」
「何の用じゃないでしょ。ゴールデンウィークにも戻って来なかったんだから。」
「え。」
「いつ帰ってくるの。」
「ごめん。まだしばらく無理。とりあえず前期の試験が終わってくれないと帰れない。」
「いつ。」
「七月の末。帰れるときには電話する。」
 電話の向こうで、わざわざ聴こえるように大きなため息。
「電話で話してると、じれったいの。顔が見えないと。手紙にして。用件だけでいいから。」
 それはこっちだって同じだと言ってやろうと思ったけど、ヘソを曲げられると厄介なのでやめにした。電話で彼女をなだめるのは困難なことこの上無い。
「ん。」
「それからさ、どこかの犬みたいに、ぼーっと待ってるだけって性に合わないの。待ちくたびれたら勝手に出歩くかも知れないからね。」
「できるだけ早く帰るから。」
「そうして。お願い。」
 いつもの彼女と変わらない調子で、電話は向こうから切れた。高校で一番綺麗だった、背中の中程まで届くStraight Hair。その髪によく似合った紺色の制服。久しぶりに思い出した彼女は、後ろ姿だった。
 七月の初め。前期試験の日程が発表された日。彼女への手紙を書いた。
『二十日に帰る。十五時五十四分に到着予定。以上。』
 書いておきたいことはまだいくつか有ったけど、ペンに蓋をした。どうせあと二週間だと思って。

 ロータリーの人影。焼けたアスファルトの匂い。蝉時雨と、特急列車の通過を告げるアナウンス。すぐそばに彼女がいるはずだと思うと変に落ち着かない。二年前の九月。始業式の日。制服姿の彼女を目にした時みたいに。
 不意に、後ろから投げ掛けられた声。
「おかえり。四ヶ月ぶり。」
 振り返る瞬間が、苛立たしいほど長い。あの時と重なって見える純白のSummer Sweater。短めのキュロット・スカート。
 それから。
「ただいま。待たせたけどね。」
 ここで飛びついてきたりする女じゃない。それはわかってたけど、拍子抜けするほど平然としていられると、こちらがどんな顔をしてやったら良いか迷ってしまう。
「車で来てるの。どっか行かない?」
「免許取れたのか。」
「五月にね。」
 ロータリーの端のMini Cabriolet。彼女が右手を伸ばしてドアの外からキーを捻る。スターターの回る少しこもった音。
「結構高いんじゃないの。これ。」
「姉貴のよ。あ、荷物は後ろ。狭いけどね。」
 雑誌で見たことがある。確か二五〇万くらいするはずだった。
「どこ行こうか。」
「とりあえず、いつもの『独歩館』ってのは?」
「あのマスターね、夏風邪引いてて休業。」
「じゃ、どこでも。任せた。」
 Miniが細いタイヤを鳴らして駆け出し、ウィンドウの内側に潮の香りのする空気を巻き込みながらスピードを上げてゆく。彼女の指先を絡めて回転する、濃茶のレザーで巻かれたステアリングホイール。少し荒っぽい乗り心地は、彼女の運転に拠るところが大きいのだろう。
 この車に乗ってるせいかも知れない。
「錆びたりしないのか。」
「そこまでヤワでもないでしょ。イギリスにも海はあるんだし。」
 ちょっと怒ったような声。
「気に入ってるんだ。」
「父さんのクレスタよりはね。姉貴のでなきゃいいのに。」
 しばらく見ていなかった笑顔。この笑顔を、なぜ東京で思い出さなかったのだろう。さっきから訊きたくて仕方が無かったことを訊いてみる気になった。
「なあ。」
「何?」
「なんで、髪、切ったんだ。」
「暑いの。夏は手入れ大変だし。」
 交差点のたびに、タイヤを鳴らして曲がる。体が傾く。
「高校の頃はずっと伸ばしてたじゃないか。夏も。」
「こっちのほうがいいって言うのよ。」
「誰が。」
 緩いウェーブのかかった、肩に届くかどうかの髪。それを掻き上げる指の白さ。つんのめるようにMiniが停まった。低いガードレール越しに、いつもの浜辺。
「彼氏。」
 ステアリングを両手で握ったままうつむく。うなじから肩にかけてのカーブ。何度も触れたことが有るはずなのに、目にした途端激しく打ち出す鼓動が悲しい。けれどもそれは「かつて、彼女を好きだった」ことの裏付けにはなっても、「今、彼女を愛している」という証明にはなってくれないらしい。
「結局、長かったの。四ヶ月なんて。待つのって、嫌いだって言わなかった?」
「・・・・。」
「忠犬なんかじゃないって。何か勘違いしてたんじゃないの?」
 居心地の悪いバケットシート。責任の所在がはっきりしているだけに、割と冷静でいられる。隣のシートに座っている女性を、これからすぐに失うことになる。正確に言うなら、もっと前から失っていたことに、今ようやく気付いたというだけなのかも知れない。
「ごめん。降りる。今日はありがとう。」
「昨日までは、あなたのこと好きだった。」
 やっと顔を上げた。あの夏、あのダム湖の木蔭で逢った時、それから始業式が終わった後、教室に帰る廊下で目が合った時と同じ、戸惑ったような笑顔。
「さよなら。」
 ちょっと大きめの排気音と、オーバーフェンダーの内側でタイヤの鳴る音。焼けたアスファルトを掴むと、そのまま走り去ったMiniの後ろ姿。岩場を浸して満ち始めている海。
「上出来じゃないか。」
 海岸沿いの国道を歩きながら、「同窓会に顔を出しにくくなった」などと考えていた。家まで二十分強。陽射しの中、ずっと考えながら歩くにはちょっと重すぎるテーマかも知れない。
 歩きながら目をやれば、防波フェンスの向こうに、いつものままのなつかしい海。海水浴客の嬌声に蒸し暑さを感じる、いつものままの夏。

 突然、背後から軽いクラクション。彼女の(姉貴の)Sunlight YellowのMini Cabriolet。
「さっきさ、『映画みたいに決めた』なんて思ってなかった?」
「まあね。」
「残念でした。これ、忘れ物。」
「あ、荷物。」
「笑っちゃうわ。片岡義男か、わたせせいぞうって感じだったのに。台無しじゃない。」
 言葉通りに微笑んで、今度は僕の言葉を催促するように見つめてくる。
「あのさ。」
「何?」
「三年の時のクラス会、どんな顔して行けばいいのかな。」
 呆れたって表情でしばらく僕の顔を眺めて、言った。
「どんな顔もないじゃないの。高校の頃と変わってないって感じでいればいいんじゃない。お互い。」
「ん。」
「じゃあね。」
「じゃ。」
 僕から目を離して、今日二度目のため息をつく。
「どうかした?」
「もし、いま『考え直せ』って言ってくれたら、そうしようかなって思ってたのに。」
「悪かったね。気が利かなくて。」
 さっきより大きなため息。
「寂しいなぁ。」
「何がさ。」
「髪だけだったのかなって考えると。そう思うとこっちが悔しいじゃないの。もっと悔しがってよ。」
「悔しいよ。本当は、足が震えるくらい悔しい。けどね。」
「けど?」
「僕を呼びつけるだけの女だったのかなって思うと、かえってすっきりする部分もある。会いに来ようとは思わなかった?」
「生意気言わないで。二ヶ月年下のくせに。」
「今度の男の言うことなら」
 言い終わる前にクラクション。僕の言葉を遮って彼女が結論を出す。
「それはね、言っちゃだめ。ただの嫉妬にしか聞こえないもの。」
 最後の言葉の余韻が飲み込まれる。僕の横を駆け出した、OHV1300ccの排気音。

Mini Cabrioletのページへ

小説のページに戻る

目次に戻る