マスター解放地帯


●坂東いるか

 『最後の神』は、ラディカルで極論的かつ反社会的な性格の強い(ここは笑うところです)前作『平成偉人伝ガリレイザー』とはうってかわって、体制に迎合したおとなしい作品になりました。ぶっちゃけた話、よそさまのメイルゲームと比べて、「凄ェおもしれェ。もうやめられねェ」という印象はもたれなかったのではないでしょうか。
 『ガリレイザー』のときみたく、参加者が異様な熱狂に包まれたり、最終回にマスター陣に花束が贈られたり、といった派手なことは無かったものの、それでも結果として細く長く愛される、お米のご飯のようなゲームになったと思います。これはこれで、まあよしとすべきでしょう。
 システムの面からいえば、今回はとにかくみんなにかっちょいいPCを作ってもらうことと、「相互に連絡を取り合えば、なんだか凄いことができそうだ」と思ってもらうことに心血を注ぎました。パーティアクションと戦争システムの練りが今少し甘かった点をのぞけば、おおむねうまくいったと自負しております。
 それにつけても悔やまれるのが終盤の運営状況のていたらく。せっかく盛り上がっているところに水をさされて、やる気を削がれた方も多かったはずです。本当に、おわびのしようもありません。
 ここまで遅刻した最大の理由は、ACGそのものの二度に渡る商業的な失敗につきます。会員数がもっと多ければ、マスター陣が額に汗して副業に精を出すこともなく、ゲームの運営だけに専念できたのですから。発送バイトを雇うこともできたし、マスターの数だって増やすことができました。TRPG版の発売だって予定通りできたのです。だのに、ああ、ああ。みんな貧乏が悪いのです。貧乏でごめんなさい。
 嘆いていてもはじまらないので、楽しかったことを書きます。
 かなり風変わりな世界にも関わらず、みんなが予想以上にノッてくれたので、うれしかったです。おかげで、ちゃんとPCの物語にまとめることができました。
 菅野さんをはじめ、多くの方にすばらしいカナン世界を現出していただけたことも、幸運なことでした。やはりファンタジーはビジュアルイメージが肝心だなあ、とあらためて痛感した次第であります。
 おかげさまで宴会も盛り上がったし、あんまし集まらなかったけど海水浴も楽しゅうございました。
 最後になりましたが、僕は今回のゲームでみなさんに出会えたことをなによりも嬉しく思います。僕たちは確かにあの一瞬、同じ時間を生きていたのです。あの懐かしい、母なるゴヌドイル川のほとりで。
 それではまたいつか、どこか別の作品で再会できることを楽しみにしています。

BGM:『Orinoco flow』エンヤ

追伸・宮丸兄弟、ラーメンおいしくいただきました。マヨネーズは予定通り田中桂が消費しました。

●伊豆平成1号
 伊豆である。
 10回なのに一年経ってしまったのは困りものだが、とにかく最終回だ。メイルゲームで諸公と世界を共有すると、それまでの自分のカナン観が変わるかもと思っていたが、むしろ皆の勢いにのって、拙者のカナン観は方向はそのままに、より深くなった気がする。サバムングの神に代わって御礼申し上げる次第だ。
 ところで、某ゲーム会社にいたときからここ数年、拙者の課題は『日常に適度に染み込んでくるゲーム』というものだった。これは、いわゆる『はまるゲーム』とは少し違う。  「睡眠時間を削ってゲームをする」、「いつも読書をしてた喫茶店で、カードゲームをやりまくるようになった」などが『はまる』だと拙者は思う。
 つまり、日常がゲームに侵食された状態だ。ゲームが割り込んだだけで、日常とは別々(時には互いに邪魔し合うことも!)なのである。無論、これはそのゲームが面白いからなのだが、拙者の目指すものとは少し違う。できれば、日常ふとゲームを意識する瞬間があったり、日常の瑣末なことがゲームのヒントになったりと、ゲームと日常とが微妙に影響しあって欲しいのだ。カナン語を多用したり、カナン世界の神様について色々と問いかけたのは、その辺の狙いがあった。
 今後も感覚的な楽しさに加えて、考える楽しさのある遊びを追求していくつもりである。とかいいつつ、メイルゲーム全体が下降線を辿っているらしいが。
 でもACGの企画はあるにはあるのだ。思いついてしまった以上はやらねばなるまい。これがもう、ガリレイザーもびっくりの、かなり無茶でヤバそうなゲームなのだな。なんとか近い内に始めてやろうとは思っているが……少し時間が欲しい(その前にガリレイザーの総集編だよね。ごめんなさい)。資金も欲しいと言いそうなもんだが、実はこの企画はそれが無くてもできてしまう恐るべきものなので言わない。
 というわけで、ではまた必ず。
※『RPGバカ一代』はお休みです。どこまでも『ゲムレ』に連載しますので、また続きを書けるといいなあとは思っています。

●伊豆平成2号
 大半のヤングアダルト向け和製ファンタジー小説の世界は、嘘くさい。みなさんはそう思ったことはないだろうか?
 たとえば、街には娼婦も奴隷もほとんどいない。奴隷が描かれる場合、それは解放されるべき人々としてである。あるいは、市井の庶民ならともかく職業的な武人が「戦争はいけない」などと言ったりし、それが周囲に受け入れられたりする。要するに、世界の常識は現代日本の常識なのである。
 それのどこが嘘くさいのか、という人は、我々の歴史を振り返ってみてほしい。自由の国アメリカですら、奴隷解放のためには国を二つに割って互いに大砲を打ち合わねばならなかった。蒸気機関と火薬の時代ですらそうなのだ。まして、馬力と風力と人力の時代、奴隷(またはそれに近い人々)の労働力なしに社会は成り立たなかった。
 戦争がいけないということが万人の常識とになるのも、戦場に大量の火薬が投入されるようになって以後のことである。刀槍が主力兵器のファンタジー世界で「戦争はいけない」というのは勝手だが、その人物が武人ならば臆病者または変人扱いされるはずである。
 私は何も奴隷制度や戦争を賛美する気は毛頭ない。私だって現代日本人だから奴隷制も戦争も常識的に否定する。だが私がそれらを否定するのと同じように、人々が常識的にそれらを肯定あるいは黙認していた時代もあったのだ。
 戦前・戦中の日本では、おおっぴらに戦争反対と言えなかった。そんなことを公言するのは非国民というのが常識だった。現代日本の常識が常識として通用しているのは、戦後のたかだか半世紀にすぎない。これを読んでいる君が仮に今18歳だとすれば、君がこの世に存在している年月のたった3倍の時間だ。社会常識はこれほど変化する。まして、怪物が徘徊し魔法の横行するファンタジーの世界で、世界の常識が現代日本と同じなどということがあろうか? 同じ日本でさえ、わずか53年の時差でかくも違うというのに?
 まあ、和製ファンタジー小説にそこまで要求するのは酷かもしれない。ヤングアダルト層に売れる本にするには、彼らの共感を呼ばねばならないからだ。作家がリアルな社会の描写をしたいと望んでも、おそらく編集者から横やりが入るだろう。
 田中桂が創造し、我々ゲムルのメンバーが肉付けしたカナン世界は、そういった和製ファンタジーへのアンチテーゼでもあった。カナンでは娼婦が大っぴらに商売している。労働力として奴隷が売買されている。カナンの人々は、民主政治という概念を説明されたとしても、それのどこが王政より優れているのか理解できない。よい悪いではなく、ここはそういう世界なのである。
 どちらが優れているのかは、ゲームに参加したみなさんに判断していただきたい。

●植田清吉
 さて、最終回である。という書き出しにしようとしたのだが、伊豆2号マスターがガリレイザー2で既にやっていた。ちょっと悔しい。まぁいいか。
 メールゲーム。実は清吉にとってこれまで敬遠していたジャンルであった。企業主催のものには一度も参加していない。そういう人間を連れて来て、いきなり「マスターをやれい」というゲムルというのは随分と思い切ったことをしたものである。いや、清吉本人も引き受けるかどうか少々迷ったのであるが、ガリレイザー&ガリレイザー2の凄さを脇で見ていたがために、「こういうことをさせて貰えるのなら」と思い承知したのである。果たして良かったのやら悪かったのやら。
 当然、カナンはガリレイザー2部作(?)とは別物、マスターとしての勝手も違えば、プレイヤーの方々の楽しみ方も違ったのであるが。
 ゲーム期間中、御迷惑をおかけした点については深くお詫びするものである。しかし色々と可能性を試すことができ、清吉としては非常に良い経験をさせて貰うことができた。月並みではあるがゲムラー諸氏及び他のマスターの面々に御礼申し上げる。
 では、次の機会に。


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