第9回 C-0 ヴラスウル全域


■ゴルの廃墟
 族長の天幕。森林蛮族の主立つ者たちが額を寄せ集め、今後の方針について合議中であった。
 エスカイは、族長の跡取りの女婿として、特に与えられた敷物の上に胡座をかいて座っている。
「ウキさん‥‥、今、族長は何と言ったんだ?」
 族長の発言に、一座の者が歓声を上げた。いぶかしげな顔になったエスカイが隣に座っているウキに尋ねる。
「闇の退き具合を確かめながらだが、森に戻るとな‥‥。これから、忙しくなるぞ。お主もな」
「そうか‥‥」
     *      *
「森林蛮族と、ヴラスウルの開拓民との和合‥‥?」
「そうだ。交流を広げ、共存していくべきだろう」
 聚議の後。エスカイがウキの天幕を訪ね、そう切り出した。
「‥‥」
「‥‥俺の世代では、無理だろうか」
 ウキは渋い表情を張り付けたまま無言である。
「‥‥」
「‥‥」
 長い沈黙の後、ウキがようやく口を開いた。
「密林には、もう触れるな」
「しかし」
「‥‥我らを巻き込むな。カナンの騒ぎにな。ヴラスウルに我らと交わる気があろうと、族長たちにはヴラスウルと結ぶ気などあるまい」
「‥‥」
 じろりとエスカイの目を見据え、ウキが続ける。
「それとも、お主はヴラスウルに我らを取り込むために、婿になったのか?」
「そんなつもりは‥‥ない。そもそも、もはや俺は戻れない」
「‥‥互いに触れ合わぬほうが良かろう。必要以上にはな。いずれ、時が至ればそういう流れにもなろうが‥‥無理にすることはないのではないかな」
     *      *
 森林蛮族たちの間では車輪の利用は普及していない。従って、荷物はそれぞれが背負って運ばねばならない。
「重いか‥‥?」
 立ち止まったエスカイが、振り返りって声をかける。
「‥‥」
 族長の娘が、エスカイの言葉の意味を察したのであろう。首を横に振る。
「無理をするな。森まではかなりある」

■南部辺境・開拓地
「荒れてしまいましたね」
「‥‥」
 避難先からようやく戻って来たルナと、戦場帰りのオビュハラである。魔族が荒らしたのであろうか。折角耕地らしくなっていた畑も、手入れができなかったこともあり、再び作物を実らせるまでには時間が要りそうであった。
「‥‥ギュルニとギュリヘツを作ってみるつもりでしたが‥‥」
 ルナが呟く。
「これでは‥‥」
 甘味料としてのギュルニとギュリヘツの煮汁は、さしたる人口密集地の無いヴラスウル国内では決して需要の多いものではない。かと言って、この交通の便の悪い辺境から他国へ輸出するとなると、その経費が利益を食い潰してしまうのは間違い無い。
 それよりも、差し迫った問題として今後の食料の不安があった。調味料や嗜好品等の作物の栽培は、主食作物の生産がすでに確立している場合にのみ行うべきであった。元来荒れ地であったこの場所に、最初に播くべき作物ではなかったのかも知れない。
 飢餓。
 闇の脅威が去った開拓地には、入れ替わるようにしてその不安が襲いかかろうとしていた。

■辺境・ジュグラの里
「よーし、降ろしてくれ」
 恐る恐るながらもジュグラに帰って来た住民たちの中に、タファンとツァヴァルがいた。里の中は魔族に荒らされた痕跡が所々に残り、ワラチュイの発した毒か何かのためであろうか、刈り残していた一部の畑の作物は完全に死滅していた。
 命綱を付けたタファンが降りようとしているのは、里で最も深い井戸の底である。ツァヴァルが感じたところによれば、この底にまだ魔の気配が残っているというのだ。
 さすがに縦穴の中ではいつもの長槍は使えない。用心のために抜き身の山刀を携えたタファンの身体が、徐々に井戸の中に消えてゆく。
「手燭を吊るしてくれ! 暗くてよく判らないんだ!」
 井戸の中からタファンが声をかける。心配そうに井戸を覗き込んでいた里人が、言われたとおりに手燭を紐に結んで、タファンのいる辺りまで下ろす。
「う、うわぁあぁ!」
 途端、タファンが絶叫した。
 彼の周りの壁に、黄褐色や鈍い灰色をした得体の知れない大きななめくじのようなのような生物が無数に張りつき、蠢いているのだ。
「何だ、こいつら!」
 大きいものは人間の足の裏ほどもあるそれらの生物は、タファンの絶叫に応ずるがごとく一斉に動き出した。中には壁にへばりついたまま、タファンに向かって何やら触手のようなものを伸ばしてくるもののいる。
「畜生!」
 タファンがそのうちの一匹を山刀で斬りつける。ほとんど手ごたえも無く両断されたそれは、今度は二つになったそれぞれが意志を持ち始めたかのように動き始めた。
「なんだってんだ!」
「大丈夫! タファン!」
 井戸の上からツァヴァルの声がする。が、タファンにはそれに応える余裕すら無い。
「‥‥火!」
 タファンが手を伸ばし、吊るされている手燭をがっと掴んだ。そのまま触手を伸ばしている一匹にその火を押しつけた。
「やった!」
 火を押し付けられた一匹は、苦しげに身をよじると壁から離れ、水面へと落ちていった。
「火だ! 火が効くぞ!」
 タファンの声に希望の色が戻る。
 ところが、その時であった。先ほどの生物が落ちたときよりも遥かに大きな、ごぼりという水音が聞こえた。
「うわっ!」
 爪の生えた腕のようなものが、タファンのすぐ下にわだかまる闇から突き出された。タファンがかろうじてそれを躱す。
「何だ!? まだ何かいるのかよ!」
 タファンが目をこらす。真っ黒に見える水面には、確かに何者かが大きく動いたとおぼしき波紋が広がっていた。
「タファン! 無理するな!」
「引き上げるか!?」
 タファンが上を見上げ、叫ぶように言う。
「水の中に何かいやがるんだ! この山刀じゃ届かん、俺の槍を!」
 再び、何者かが跳ねた。タファンの下衣の裾が鋭い爪に切り裂かれる。
「ちょっと待ってくれ! 今、紐に結んでる!」
「結ばなくていい! そのまま落としてくれ!」
「危ないぞ!」
「いいから落とせ!」
 油断なく、揺れる水面を睨むタファン。
「タファン、いいか、落とすぞ!」
「おう!」
 タファンがそう叫ぶのと、三度目の水中からの跳躍は、ほぼ同時であった。
「ぐぅっ!」
 爪が、タファンの脛の肉を抉り取る。タファンがその傷みに耐え、まっすぐ落ちて来る槍に手を伸ばす。
「イシュよ、俺の槍に力を!」
 掴む。
 大きく引く。
 突く。
 不安定な体勢のまま、しかも片手で一連の動作を行うのは困難なはずであった。が、タファンの突き出した槍には、確かに手ごたえがあった。
「やった!」
 穂先に突き刺された何者かは、自重に耐えかねるように抜け落ち、大きな水音を立てて落ちていった。
「タファン!」
 タファンが水面を睨み付けたまま、荒い息を吐きつつ返事をする。
「引き上げてくれ‥‥、たぶん、これで大丈夫だ」
     *      *
「これでよし、と」
 引き上げられたタファンが、井戸の脇でツァヴァルの応急手当を受けていた。
「‥‥」
「足、痛くない?」
「悪いな。世話かけて」
「いいの。怪我とか病とか、そういう影を払うのが私の仕事」
「そうだ」
 タファンが手を伸ばし、脇に置いておいた自分の荷物を引き寄せる。
「これ、返しておく」
 荷物の中から取り出したのは、ツァヴァルにも見覚えのある小さな壷であった。
「ああ、この前の」
「‥‥とても助かった」
 タファンがぶっきらぼうに言う。
「いいんだって。仕事、仕事」
 ツァヴァルが足の包帯を巻き終え、顔を上げる。
「それより、他の里にも知らせないと」
「ああ。井戸を調べろってな」
「呪人仲間にも伝えさせるよ。井戸の水に清めのまじないをかけないと、飲めなくなってるかもしれない」
「そうだな」

■セイロ
「シュレイ殿、精が出るな」
 鞍からひらりと飛び降りたソルトムーンが声をかける。
 セイロ近郊の耕地である。わずか一月の不在とはいえ、湿潤なカナンの気候下では雑草の伸びは著しい。
「あ、ソルトムーンさん」
 はにかんだような笑顔を浮かべて、シュレイが振り返る。
「みんなで草取りをしていたところです。できることからしなくっちゃ」
 汗を拭いながらシュレイが言う。
「左様。まず、国内、足下を固めねばな」
 ソルトムーンが耕地を見回す。
「幸い、賊の姿もさしては見られぬ。じっくりと復興に力をそそぐことができような」
「うん」
 うなずいたシュレイが、思い出したように言う。
「あ、ソルトムーンさん」
「ん?」
「ウキ、って人、知ってます?」
「ウキ?」
「セモネンドの将軍だった‥‥」
「ああ、ウキラナガ将軍。ソジ王の唯一の忠臣と言われているな。近頃その御仁が生きているとかいう噂を耳にしたが」
「あの、私、会ったことあるんです。その人に」
「ほう?」
「密林蛮族の人たち、南の方へ逃げたって知ってます?」
「ああ」
「その中にいたんです。闇のこと‥‥蛮族の間の言い伝えとか、凄く詳しくて」
「ほう。確かにウキラナガ将軍は蛮族の血を受けていたとは聞いていたが」
「セイロにお招きしたいんです。この辺りの土地、みんな闇や魔族の被害を受けていますけど、ウキさんの力を貸して貰えたら、きっと復興もはかどると思うんです」
 ソルトムーンが見事な口髭を捻りながら言う。
「蛮族は、ゴルに向かったと聞いているが‥‥」
 そのソルトムーンの言葉が、別の大声に遮られた。
「シュレイ様! シュレイ様! 当主様より早馬にございます!」
 一騎、街の方角から駆けて来ている。馬上の男が、続け様に鞭を入れつつ大声をあげる。
「至急、館にお戻り下され! おお、ソルトムーン殿、貴殿も御同行下され! 非常の事にございます!」
     *      *
「‥‥え!?」
 血の気が引く。目の前が、さっと暗くなる。
「ヘクトール殿が敗軍!? 間違いはあるまいな」
 ソルトムーンが低い声音で念を押する。
「詳しい状況は?」
「はっ。我が軍は予定通りネタニ川沿いに進軍しておりました。道中のおよそ半ば‥‥コレルの森を抜けた朝にございます。周囲に伏せていた敵兵に襲われ、当主様率いる歩兵は退却中、レンセル殿は敵兵の追撃を食い止めるため殿軍に」
「敵兵。クンカァンか?」
「いえ‥‥。青衣を着ておりました。ヴォジクの正規兵かと思われます」
「ヴォジク!? バーブック王の差し金か?」
 ソルトムーンが思わず声をあげる。
「そこまでは‥‥。ともあれ、敵兵はそのままネタニ川を遡り、ジュッタロッタを目指している模様にございます。当主様には、臣の他、ジュッタロッタとクタに急を知らせる早馬を出されましてございます。すでに到着しているものと思われますが」
「むぅ」
 ソルトムーンが腕を組む。
「シュレイ殿、これは容易ならぬ事態だ」
「は‥‥はい」
「ヘクトール殿の安否も気掛かりだが、それ以上にヴォジク兵の動き、気になる。今なぜジュッタロッタを狙う‥‥?」
 ソルトムーンの言葉も耳に入らないシュレイは、手の中の絹の小袋をぎゅっと握り締めていた。その中に、一房の髪。
(神様‥‥ヘクトール様を、皆を、お守りください‥‥)
     *      *
 敗戦の第二報は、クタからもたらされた。
「無事なんですね! ヘクトール様は!」
「はっ、レンセル殿もクタまでは御帰還なされてございます。こちらに当主様よりの御書状をお預かりしてございます」
「見せてください!」
 ひったくるように奪い取ったシュレイが、書状を開いた途端、愕然とする。
(どうして、どうして字が読めないの! 私は! 大事な‥‥ヘクトール様の字なのに!)
「あの‥‥シュレイ殿、お読みいたしましょうか?」
 それを察したのであろう。クトルトルの家司の一人が、おずおずと申し出る。
「‥‥お願いします」
 悔しげな表情を浮かべて、シュレイが書状を手渡す。
『残念ながら兵の消耗が激しい。しかし無事でいる。レンセルも生きて戻って来た。敵軍はそのままネタニ川を遡っており、近日中にはジュッタロッタが囲まれる恐れがある。敵の指揮官はソイウィル。ジュグラにいたあの男だ』
「ソイウィルだと?」
 脇で聞いていたソルトムーンが声をあげる。
「辺境でも、立場こそ違えど聖都で共に戦ったあの男が、なぜ我が国に?」
「ソルトムーン殿、続きがありますが‥‥」
 家司が恐る恐る尋ねる。
「済まん。続けてくれ」
『ヴォジクのワニが悪心を起こしたとしか思えない。ジュッタロッタは知っての通りファトレオ王の築いた堅城、たやすく抜かれることはないと思うが、バーブックのことだ。どういう奇計があるか判らない。指示一つでいつでも残留の辺境軍を動かせるよう、ソルトムーンと相談して取り計らっておいてくれ。くれぐれも、セイロを頼む』
「なるほど」
 腕を組み直しつつソルトムーンが言う。
「よく判った。敵兵が城外に布陣すればかえってこちらに好都合。国内各地より集めた兵と城内の兵とで挟撃できる。シュレイ殿、兵馬のことはこの“紫雷将”ソルトムーンに任されよ。貴女にはセイロを取りまとめるという仕事がある。領民たちが動揺することの無いよう、気を配ってくれ」
「はい」
 シュレイが力強くうなずく。
 闇が去って一月。再びヴラスウルが不安の淵に突き落とされる。とこしえの光明は、いつ訪れるのであろう。

■烈風会
 賊がそれほど見当たらないのは、喜ぶべきことなのであろう。インカムが五百の兵を率いて辺境各地の巡察を行っていたが、一時期と比べて流賊たちの数はめっきり減っていた。
 ヴラスウル全域が闇に覆われようか、という危機を迎えたことがあった。その時に国内に基盤を持たない流賊、流民の類いの多くはいち早く他国に流出したのかもしれない。
 山賊たちとの小競り合いと、村落の井戸などに取り残された魔族の駆除が主な仕事であった。
「開拓地に送った人数は、どれぐらいになった?」
 インカムが、事務を取りまとめている会の男に尋ねた。
「今のところ百程度です」
「‥‥そうか。それにしても、魔族と戦うのだったら呪人の助けが欲しかったな。我々だけでは水の汚れた井戸の清めもままならない」
「まじないの力はありませんが、その代わり我々には人数がいます。水の総入れ替えぐらいでしたら、半日もかければ済みましょう」
「それはそうなんだが‥‥」
 馬蹄の響き。インカムの天幕の前で、来着した男が会の兵士と二言三言交わしている。
「誰だ?」
 インカムが立ち上がり、天幕を出る。
「インカム殿!」
 旅塵に汚れた装束をまとった男が、彼の姿を認めて声をかける。
「どうしたんだ? ‥‥何か、我々烈風会に御用事か?」
「陛下よりのお言葉にございます」
「陛下の?」
 インカムがそれと知って居住まいを正す。
「では、天幕のうちにてお伺いしよう。入られよ」
     *      *
「ヘクトール殿が、敗戦!?」
 インカムが驚きの声をあげた。
「はっ、聖都までも辿り着けず、コレルの森北西にて辺境軍は潰走、ヘクトール様はクタへ逃げ込んだとのことにございます」
「クンカァンが動いたのか?」
「いえ‥‥それが、どうやら敵軍はヴォジク兵らしいとのこと。引き続きネタニ川を遡り、ジュッタロッタを目指し進軍中の模様にございます」
「都へ!?」
「敵兵は総勢五千から六千。それに対し城内の我が軍兵はさしたる数ではございませぬ。陛下には、至急配下の兵を率いて救援に参られるよう、お命じにございます」
「判った。‥‥しかし、なぜヴォジクが?」
「さて‥‥それは臣にも判りかねますが。またバーブック王の悪謀にございましょうか‥‥ハンムーの次は我が国を狙って‥‥」
「ともかく、御使者の用向き確かに承った。陛下に宜しくお伝えしてくれ」
「ははっ」

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