第9回 A-0 聖都ウラナング


■困惑
 無人となった地下の隠れ家。虚脱した表情の男がいた。
 少年は既に“最後の神”となり、そして人であることを止めたのだ。
「ナッフは俺が守る」
 クァグヴァルがいかに意気込んでみたところで、もはや相手は神である。人間の力の及ぶところにはいないのかも知れない。
 気の抜けた面持ちで、ぼぉっと虚空を見つめていたクァグヴァルの視界が、不意に闇に覆われた。
《ナッフとやら、随分落ち着かぬ小僧よな》
(誰だ!)
《何とも躾のなっていない餓鬼よ。チシラは何を教えておったやら》
(‥‥)
《ラノートだけでは面倒が見切れぬ。我らが力を貸しておるが、得た力が大きいだけに扱いにくくてならぬ》
(ナッフは‥‥ナッフはどうなっているんだ!)
 クァグヴァルが、声のみ聞こえる神に問うた。
《神の座を探しておる。己れに最も相応しい座をな》
(誰が、どうやって決める!? ナッフは何の神になるんだ!!)
《さてな‥‥誰が決めるやら。神となった人の子は、みな己れで己れの座を探してきた。されどこの度ばかりは‥‥何せ餓鬼であるうえに、色のついていない神の身体をたまたま拾ったようなものであるからな‥‥》
(どういうことだ!!)
《人が決めることになろう‥‥ナッフに‥‥最後の神に何を望むか。あの小僧はその願いを受けて神になるであろう》
(何だと!)
《どう転ぶであろうかの。下手をすればンナカーどころではない厄介者になるかも知れぬ。しかし‥‥仮にそうなったとしても、最後の神は最後の神よ。カナンはそれを受け入れねばならぬであろう》
(おい! 待て!)
 神の声は唐突に、そして無情に消えた。

■軍勢
 クンカァンのウラナング駐留軍は、奇妙なほどに静かであった。城外に聖都奪還を号する諸国の軍が集結するのを横目に、ウラナング執政セセラギ将軍、大魔軍を握るマセウス将軍、クンカァン本軍を率いるラジェンド将軍ほか、将領たちのほとんどは執政府に閉じこもり、連日何事か議論している気配であった。
「カヤクタナからも使者が来たってことだ。和議がどうとかこうとか」
「また戦争になるってことはなさそうだねぇ。何にせよありがたいよ」
 このところセセラギからお呼びもかからない。復興作業の始まった市街をぶらつくパイシェの耳に飛び込んで来る噂は、そんな程度のものだった。
「軍勢はばらばらに撤退するとかって聞いたがな」
「クマリ様もようやく御戻りになるんだねぇ。良いことだよ。ようやくウラナングも元の通りに戻るんだ」
     *      *
「何てことだ!」
 ユラが歯噛みをする。
「なぜ連中は動かない!」
 クンカァンの将を一人でも多く殺すこと。それこそがカナンに平和をもたらす早道である。彼はそう信じて疑っていなかった。
 しかし「大物」と呼べる将軍たちは、陣所と執政府を往復するばかりで大きな動きを見せない。もちろん、クンカァンの将軍たちはここウラナングがあくまで敵地であることを忘れてはいない。その陣所も往復の行列も、多くの哨兵たちが警護にあたっており、ユラが一人で闇討ちしようにも、まるで機会が見つからないのだ。真っ先に討つべく目を着けていたユウイに至っては、その所在すら明らかではない。
 クルグラン王の死によって揺らぐかと思われたクンカァン軍であったが、残された将軍たちの発揮した統率力は、評判以上であった。軍規の乱れが異様に少ないのはウラナング市民にとって喜ぶべきことであったが、ユラにはそれが却っていまいましく感じられるほどである。一人二人の雑魚を討ったところで、クンカァン軍が動揺するということは有りえないであろう。
「何てことだ!」
 唇を噛みしめつつ、再びユラが吐き捨てた。
     *      *
「何だって?」
 意外であった。イェンヴァが聞き返す。
「撤退? 城外にゃカヤクタナやらヴォジクやら、軍勢が来てるじゃないか。連中が囲みを解いて通すっていうのか?」
「うむ。どうやらセセラギ将軍の奔走によって和議を取り付けたらしい」
「和議だと!?」
「そうだ。セセラギ、ラジェンドの両将軍はとりあえずカヤクタナと和し、本国に戻られるとのことだ」
「しかし大魔軍は目の敵にされているだろう。そうすんなりとはいくまい。マセウス将軍はどうなんだ!?」
「配下の兵を率いてヴォジクに投降するらしいぞ」
「ヴォジク?」
「ああ。バーブック王のところだ。‥‥イェンヴァ、お前はどうする? どちらに着いていく?」
「‥‥むう」
 イェンヴァがうめいた。クンカァン軍は、分裂する。しかし将軍たちの見事なまでの腹芸により、軍としての戦力自体は無傷のままである。結局、彼が憂慮した退却戦は起こらなかった。本国に戻るもよし、ヴォジクの傭兵として働くもよし。彼の目の前には二本の道が示された。

■孤児よ、孤児よ
『通常通り運営して貰いたい。我が軍が撤退し、クマリが入城する際には混乱もあろうが、後任者には引き継いでおく』
 執政セセラギの配慮は、サルタナの設けた孤児院にまで及んでいた。荒武者揃いと評されるクンカァンの武将の中に、このような行政官が含まれていたことは特筆に値すべきであろう。ひょっとすると彼は現在のカナンでも稀にみる能吏であるかも知れない。少なくとも、孤児院の運営も含め市中の平穏を保つために尽力したセセラギの手腕は、かつてのティカンの神人や役人たちの民政に比しても遜色があるものではなかった。‥‥また、市民の大部分の者の知らぬことではあったが、セセラギほかヒバナ、ククスヅらを出したクォン家はクンカァンでも新興の地方領主の家柄であり、その栄達は他ならぬ故王クルグランの抜擢によるものであった。モロイラク湖畔にへばりつくような所領を有する土豪にすぎなかったクォン家に才器を見出し、適所に用いてきたクルグラン王の眼力も評価されるべきであり、ことその点に限ってのことではあるが、ウラナング市民もかの狂王に感謝すべきであったろう。
 しかしながら、サルタナの懸案であった菜園作りは、現状では困難であった。 すぐ脇で孤児を相手に文字の読み書きを教えているシュリマ・カレを横目で看ながら、彼女の唇から溜め息が漏れる。
 孤児院の敷地には限りがある。菜園を作り、鶏を飼ったとしてもそこから得られる収穫などたかの知れた量であろう。仮に(できるならば避けたい手段ではあるが)孤児院に好意的であるセセラギに話を通したとしても、畑作りに適した城外の空き地にまでは彼の権限も及ばない。城門を一歩出れば、そこにはクンカァン軍の動きを窺っている諸国の軍兵が終結しつつあるのだ。
 逆にタントベーヤは、軍との連絡が取りにくくなったことに不安を感じていた。王の死によるクンカァン軍の混乱を予測していた彼であったが、実際のところは不気味に鳴りをひそめ、首脳部が密談ばかりしているという噂が伝わって来るのみであった。自身、恥や良心の呵責に耐えて占領軍に擦り寄ったことは、決して誤りではなかったと信じてはいる。いずれは、自給自足の道も探ることができるであろう。しかし戦禍に見舞われた聖都で弱者が生き抜くためには、どうしても強者の翼の下に潜り込む必要があった。大義名分や意地は腹の足しにはならない。それよりも、眼前の不安を取り除くこと。そう考えた彼が軍と通じたがゆえに、孤児たちや、焼け出された難民たちもとりあえずの衣食住を保証され、生き延びることができたのだ。
 クンカァン軍がウラナングを明け渡して退去するとの風聞もある。軍の庇護があってこそ運営できた孤児院であり、収容所であったかもしれない。クンカァンに代わる新たな支配者が、クルグランやセセラギのように寛容であるという保証は必ずしもあるわけではないのだ。

■嘆願
 クリルヴァ・スキロイル。ヴラスウルの王族にして、女王ミカニカの逆鱗に触れた謀叛人である。焼針で眼球を貫かれ、両の耳には溶けた鉛が流し込まれ、その口中の舌の根も、鋭利な刃によって切り取られていた。‥‥それほどの傷を受けて今なお彼が生きているのは、彼自身の生命力、そして己れのやり残した仕事を遂行しようという執念もさることながら、女王が呪人に命じて彼が生き長らえるようまじないをかけさせていたためでもあった。が、それは決して女王の慈悲心によるものではなかった。自分に刃を向けようとした相手をとことんまで追い詰め、死をも凌ぐ苦しみ、辱めを与えるのは権力を握る王者の報復手段として、あまりに当然である。
(かつて私が言った言葉を、全て書き残してくれ。私が何を考えて死んでいったかを伝えるために)
 クリルヴァが側に控えていたイーオヴェの手を取り、その手のひらに文字を書く。イーオヴェがその文字を読み取り、頷いた。思えば彼女の手も、主人の理想を叶えるために短刀を握って、何人もの命を奪い、鮮血に塗れてきた。もしも、歯車がほんの少しずれてさえいれば、彼女の主人が新ヴラスウル王として、地上に彼の理想の国家をうち建てていたかも知れなかった。
 今度はイーオヴェが主人の手を取り、文字を書く。
(主公、これからの時代に必要なのは貴方です)
 クリルヴァが首を左右に振る。
(私は、過失ではあったが多くの国民を死なせ、神々の怒りを買った。その罪は償わねばならない‥‥もはやこの世に未練は無い。ミトゥン神に詫びるため、私は命を断ちたい。私に忠実であろうとするなら、止めてくれるな)
(‥‥主公)
 主人の決意はあまりに固い。それを感じ取ったイーオヴェが、大きく溜め息を吐いた後、紙の上に筆を走らせはじめる。主人クリルヴァがかつて彼女に語った己れの理想を、言葉の形にして書きつけてゆく。
 豪族・貴族・外戚を抑え込み、官僚を手足の如くに使い、軍兵と金穀とを一手に握る。誰にも嘴を入れられずに国政を看ることのできる強力な王権。王として立つ者の理想を地上に実現するためにはこれしかない。クリルヴァがそう信じ続けていた国主の姿である。
 しかし。イーオヴェは救えるものならば、救いたかった。この身と引き換えに、主人の五体を元に戻すことができたなら、生きる気力を取り戻しさえできたなら、いつかその理想を叶える機会が巡って来ないとも限らない。
《クリルヴァ。スキロイルの連枝よ》
 声。限りなく柔らかな声音であったが、どこか刺があった。
《全ての者の母として、お前を許しすつもりはありません。お前の理想とやらのために我が子らの命が奪われたこと、悔しくてなりません。されど》
 ミトゥン神なのであろうか。その声が暫しの間、途切れた。
《お前も我が子の一人。死なせたくはないのです。いえ、自ら命を断つことなどなりません》
(ミトゥン神よ‥‥)
《お前の理想とやらは、まるで合点のいかぬことばかり‥‥世には受け入れられぬでしょう‥‥少なくとも、今は‥‥時が至れば‥‥やがては‥‥そのような王が‥‥求め‥‥られる‥‥》
 声が遠ざかり始めた。
「神よ!!」
 クリルヴァが思わず絶叫する。動かぬ筈の舌が、動いた。
「主公!」
 イーオヴェが声をあげた。二度とものを言うことができないと思っていた主人が、確かに叫んだのだ。

■狂王の形見
 下ウラナング。主人の逃げ去った工房に武具師ファヒトスの姿があった。卓の上にはがらくたとしか思えない、壊れた武具の破片が山と積み上げられている。
「どうするよ‥‥」
 ツォルヴァが腕組みをしながら言う。クルグランが“最後の神”と繰り広げた激闘。その戦いに用いられた武具の残骸であった。いかにファヒトスの腕優れたりといえども、粉々になった金属塊を鍛え直すなど、到底力の及ばないことであった。
「‥‥」
 ファヒトスが無言で残骸のうちの一片をつまみ上げた。
「‥‥仮にバデッタ(※)であったとしても、これを磨き上げることはできまいなぁ。よくもここまで駄目にすることができたものだ」
「クルグランが馬鹿力だったってことか、そりゃぁ?」
 ツォルヴァの問いにファヒトスが首を振る。
「確かにそれもあるかもしれないが、武具自体に込められた念のようなもの‥‥それが使い果たされている感じだ。もはや溶かして鋳直したとしても、かつての切れ味には及ぶまい」
「‥‥そんなものなのか? 俺には鍛冶のことは判らんが」
「‥‥以前の五王国‥‥ヴォジク、ハンムー、モダ、セモネンド。それぞれの王家が秘蔵していたものだと聞いていたが、それらがもはや武器として使い物にならないということは、もはやカナンにこれらの武器は不要と言うことなのか。‥‥“最後の神”は崩れ去り、その形をとどめてはいない‥‥しかし二度と“光の巨人”は現れないのか? 現れないゆえに、最後の神なのか?」

■廃墟と瓦礫
 更地となったティカン大神殿の跡地。
「なんと! 拙者の知らぬ間に!!」
 通り掛かった男に何事か尋ね、そう大声で叫んだのはロディヌンであった。
「クルグランと‥‥相打ちとな‥‥」
 伝え聞いた事の真相は、(本人のみそう思っていなかったのであろうが)朋友であれ仇敵であれ他者に依存する性格の強い彼にとっては衝撃的であった。最後の神‥‥ナッフの入った巨人は、クルグランと戦って滅んだ。目の前に転がる岩塊こそがその破片であるという。すでにカビタンと名乗る男が、わずかな生き残りの神人たちをかき集め、崩れ去った最後の神、そして過ぎし戦役に没した人々のために慰霊祭を執り行ったという。
「‥‥では、“最後の神”は‥‥?」
 ロディヌンが呟く。
 神は、神である。人と同じように生まれもし、死にもすることはあるが、それはどちらもごく稀なことである。ナッフはその稀な「新生の神」といえるだろう。
 そして神は人と同じ大地におりながら、人とは異なる世界の住人でもある。彼がいくら探したとて、その神を見出すことなどたやすくできるものではない。その神自身が姿を現そうとするのでもない限りは。
     *      *
「こいつぁ、大した大穴だなぁ。一体何が入ってやがったんだ?」
 ランギッシュが旧神殿の跡地にできたすり鉢状の穴を覗き込み、感嘆の声を上げる。
「最後の神‥‥光の巨人が眠っていたんです」
 センチが彼の後ろから声をかけた。
「古代より眠っていた巨人が、目を覚まし、そして滅びました。時代の区切りというべきできごとであったのかも知れません」
 一つ一つ言葉を切りながら、センチが言う。
「私は、最後の神の墓を作るつもりでいます。我々が見たことを、後の世に伝えるために、人々の記憶にとどめるために。できる限り大きいものを」
 ランギッシュが振り返る。
「人手は、足りてるのか」
 センチが首を左右に振る。
「‥‥よっしゃ、任しとき。面白そうだ。俺が手伝ってやる」
 豪快に笑いながら、ランギッシュが荷物を肩から下ろした。
「こんだけの大穴ってわけにはいかねぇがな、俺も穴掘りにはちっとうるさいぜ。碑文を建てる穴は、俺が掘ってやる」
「‥‥ありがとうございます。さっそくに石工のかたがたに当たってみましょう。心意気に感じて手伝ってくれる人が、きっといるはずです」
     *      *
■生神二人
「どこにいるんだよっ!」
 ウラナング中を駆け回りながら、ファルコが叫んだ。先日から血眼になってンナカーを探しているのだが、どこに姿をくらましたものか手掛かりすら掴めない。
「大昔のクマリだからって‥‥ナッフの邪魔はさせない!」
     *      *
 ロヴタ‥‥いや、フィリシを取り巻く面々。ヴァンルーハ、フンダムング、ユイフォン、カーリィ、ファルム、ヴァングらである。ウラナングに舞い戻ってからも相当な月日を過ごしているはずであるが、いまだフィリシを抱えて右往左往しているに過ぎない。前クマリ、レシマが予言した最後の神の出現。その折りにも、彼女は、いや彼女らは何もできなかった。
「これから、どうしたものかな」
 何度この言葉を口にしたであろうか。我ながら愚かしいと思いながら、それでもフンダムングとしてはそう言うことしかできない。
「あなたは、自分のために人生を送ってもいいはずだ」
 ヴァンルーハが言う。フィリシと出会ってから、彼女の成長を見守って来たつもりだった。しかし、彼らがフィリシの周囲にいることが、かえって彼女の行動を妨げることになってはいなかっただろうか。胸中に、そういう疑問が沸き上がるかけるのを、急いで打ち消す。
(彼女は‥‥本当に、まだ少女なのだ‥‥その成長を、見守ってやらなくてはならない‥‥)
 それはフィリシを取り巻く皆が等しく感じていることでもあったろう。
 ヴァンルーハが再び口を開きかけた時、足音が聞こえた。
「お年寄りから話を聞いて来たんだけど‥‥」
 街に出ていたユイフォンとカーリィーが戻って来る。
「‥‥生き残ったみんなは、クマリのお帰りを願っているって。‥‥クマリがお帰りになれば、きっとウラナングは息を吹き返すと信じてるって」
 カーリィーが言った。その後を受けてユイフォンが言う。
「クンカァン軍は、どうも諸国と和議をするようです。風聞ですが、カヤクタナに保護されたレシマ様も聖都にお戻りになるとか」
 フィリシが、伏せていた目を上げた。
「レシマ様が‥‥」
 何かを決意したかのような光が、フィリシの目の中にあった。
「私、レシマ様に会う。会って、これからの事を話し合って‥‥今までできなかったことの埋め合わせをしなくちゃ」
「危険です」
「そうだ。後ろにいるのはカヤクタナだ。モロロット王はともかく、ウナレ王妃は油断のならない人物と聞いている」
 ユイフォンとフンダムングが口々にフィリシを引き止める。
「ううん。私が動かないと。私が勝手をしたから、ウラナングの人たちがたくさん死んでしまった。その責任は、私が負わなくちゃ。私‥‥クマリなんだから」
 フィリシが、笑顔を作って言った。
クマリ‥‥フィリシを守ることは、つまり動こうとする彼女を縛りつけてしまうことになってはいないだろうか。危険である。それはそうであろう。この乱世にあっては、カナン中に危険の無い場所などありえない。神意によって選ばれたクマリには、それなりの力が有るはずである。その力を封じ込めていたのは、ほかならぬ自分たちではなかったか。
 街に出ていたユイフォン、カーリィーの二人は、フィリシの耳には入れなかったものの、心に突き刺さるような、市民の辛辣な言葉も聞いていた。
『クマリだと? クマリが何をしてくれたって言うんだ! 俺の嫁も、息子も、娘も、みんな殺されちまったんだぞ! ええ!? クマリが戻ってくりゃ生き返るってのかよ! 真っ先に俺たちを捨てて逃げたクマリなんぞ、このウラナングに迎えてやるもんかよ!』
 フィリシが、クマリとして直面する筈であった現実を、彼女の目を覆って見せないようにしていたのは、自分たちではなかったろうか。彼女が現実に目を背け続ける以上、クマリとして成長することなどありえはしないのに。
 ぞくっとする寒気。
 一同が、慌てて周囲を見回す。
「見つけた‥‥」
「見つけた‥‥」
「見つけた‥‥」
 ほとんど変わらない少女の声音で、そんな言葉が聞こえた。
「悲しかったんですよね‥‥さびしかったんですよね‥‥」
「そして‥‥くやしかったんですよね‥‥ンナカー様は」
「ンナカーだと!」
 ファルムとフンダムングが咄嗟に得物を握り、立ち上がる。三つの影が疾風が吹き込むかのように素速く、物陰から姿を現した。
「‥‥フィリシ‥‥、心の闇を知った時、あなたはさっきと同じ笑顔で笑えるかしら」
 三人の、少女であった。それぞれ凶々しい輝きを放つ長槍を構え、尋常でない殺気を全身から放射している。
 その後ろに、信じられぬほどに年老い、目に狂気を宿した巫女がいた。
「判っているね‥‥オウカ、トウカ、バイカ‥‥」
 老巫女がゆっくりと口を開き、そこから嗄れた声が漏れた。
「ンナカー様‥‥見ていてください」
「ンナカー様‥‥私たちはいつまでもおそばにおります‥‥」
「行こう!」
 少女のうちの一人が、半ば浮かれたような、嬉しげにも聞こえる声で言った。
「そうよ!」
「ンナカー様のため!」
 残りの二人が応え、三人がだっと一斉に駆け出した。
「ロヴタ! 下がれ!」
 ファルムが叫んだ。
「人の世話焼く暇なんて無いのよ!」
 オウカが繰り出す槍が、ファルムの首筋を捉えた。傭兵として何度も戦場を往来したファルムであったが、とうてい見きることのできない速度であった。彼が最後に見たのは、きらめくオウカの魔槍の穂先である。
 信じられないといった表情を張り付かせたまま、がっくりとファルムが膝を折り、崩れ落ちた。無表情にオウカが槍を引き抜く。一瞬後、深くえぐられた傷から鮮血が吹き出し、そして“炎の”ファルムはラノートの屋敷へと続く冥い道への歩みを始めた。
「ぃ、ぃゃぁぁぁぁあ!」
 惨状にカーリィーが悲鳴をあげる。
「叫んでる暇も無いのよ」
 桜色の鉢巻きを締め、一種優しげにも見える垂れ目の娘が、立ちすくむカーリィーの前に踏み込む。
 どす、と腹部に衝撃が走った。カーリィーのみぞおちに突き刺さった槍が、彼女の内臓を貫き、背中まで突き通った。
「ロ‥‥ロヴ‥‥タ‥‥逃げ‥‥」
 言い終える前に、“妖絶なる奴隷”カーリィーの意識は激痛のため混濁した。永遠に醒めることのない、長い長い混濁。
「畜生! 来い!」
 フィリシの前に走りこもうとした三姉妹の前に、なたがみを手にしたフンダムングと、短刀を引き抜いたヴァンルーハが立ち塞がる。
「あらあら」
「弱虫の癖に」
「ちょっと君たち、弱過ぎるよ‥‥でも、どうせこれでお終い」
 三姉妹が目配せをすると、奇妙な動きを見せた。
 フンダムングが咄嗟に反応できたのは、彼の身に備わった心眼の心得のゆえであったろう。が、彼の目が捉え得たのはやはり三姉妹のいずれのものとも知れない槍の穂先の輝きであった。見開いた目をその輝きが射る。
 次の瞬間、フンダムングの左右の眼窩に一本づつ、そして絶叫する口にもう一本の魔槍が突き立った。延髄をえぐり、脳を貫き、三本の魔槍はひさしぶりの血に塗れ、嬉しげに輝きを増した。
「あ‥‥、あ‥‥」
 ガチガチと、クマリの奥歯がぶつかる音がした。その衣装は、“蒼き傭兵”フンダムングの後頭部から噴き出した鮮血と脳漿によってまだらに染まっている。
「死ぬのよ。フィリシ‥‥」
「ンナカー様の悲しみ‥‥憎しみ‥‥」
「少しは、判って貰えたかしら‥‥」
     *      *
『ファルコ!!』
「え!?」
 聞き間違える筈もない。耳に馴染んだ少年の声だ。
「ナッフ!」
『急げ! ンナカーの居所が判った!』
「ナッフ! 生きてるのか!?」
『急ぐんだ! おいらの話をしてる場合じゃない!』
 ファルコが左右を見回すが、人っ子一人いない路地裏である。
『聞こえないのか! ファルコ、おいらの言う通り走ってくれ!』
「わ、判ったよ!」
 全速力で走るファルコに向かう先を指示するナッフの声は、頭の中に直接響いて来るようであった。
『次の曲がり角を右だ! そこにいる婆がンナカーだ! 奴を倒してくれ!』
「判ったよ! ナッフ!」
     *     *
 耳を覆いたくなるような絶叫に、三姉妹がぎょっとして振り返った。
「ぅぅぁぉぉぅぅぁっ!」
 崩れ落ちた老婆の肩口に、ファルコの山刀がざっくりと食い込んでいる。
「ンナカー様!」
「ンナカー様!」
「ンナカー様!」
 三姉妹がフィリシたちを放り出し、槍を構えつつファルコ目がけて跳躍した。
「死ぬの!」
「許さない!」
「受けなさい!」
 が、その跳躍は見えない壁にぶつかりでもしたかのように、空中で遮られた。
「なにこれ!」
「いったーい!」
「どうしたってのよ!」
 地面に叩き付けられた三姉妹が起き上がろうとするが、四肢に力が入らない。這いずった姿勢のまま、殺気を放射する目でファルコを射竦める。
「ナッフ!」
『逃げろ! ンナカーはもういい! フィリシを、クマリを連れて逃げてくれ! あの娘だ!』
「判った!」
 ファルコが何事か喚きつつ、三姉妹の脇を駆け抜け、状況か判らないでいるフィリシの手を掴む。
「逃げるんだ! ナッフが、最後の神が導いてくれる!!」
「え!?」
 朋友フンダムングの、あまりにあっけない死の衝撃から、ようやく我に返ったヴァンルーハが怒鳴る。
「逃げろ! フィリシ、ユイフォン、ヴァング!! しんがりは俺がする!」
《あなたとて、あの娘らには敵いはしませんよ。命を無駄にしないで》
 どこからか声がした。
《私とミトゥンに任せなさい。今は、逃げて》
 次の瞬間、その場にまばゆい光が満ちた。光が去った時、その場に残されていたのは傷ついたンナカーと、気を失った三姉妹。そしてファルム、カーリィー、フンダムングの屍体であった。
「ぉぉおのれ、おのれ、フィリシめ、ナッフめ、神々めが‥‥」
 肩の傷を押さえながら、ンナカーがよろよろと立ち上がった。目を覚ました三姉妹もようやく身体を起こし、済まなさそうに詫びた。
「あの、ンナカー様、申し訳ありません‥‥また‥‥」
「もういい。おまえたちのせいじゃない。あたしが油断したんだ。小僧風情と侮ったのがいけなかったよ」
 ンナカーが、地面に残された自分の血溜まりを見つめる。
「もう‥‥この身体も保ちはしないだろうよ‥‥死ぬまでに‥‥滅ぶ前に‥‥フィリシを殺してやる‥‥道連れにしてやるんだよ!」

■神託
『聞こえるかい。フィリシ。おいらはナッフ。ラノートのおっさんから言付かって来たんだ。ティカンに行けってさ。ティカンに、前のクマリのレシマが来るんだ。それからもう一人、よくわからないけどクマリじゃないクマリも来るとか言ってたな。だけど、きっとンナカーが邪魔しに来る。おいらの力もそうそう使えるわけじゃないから、次は助けに行けるか判らない。油断するなよ。‥‥フィリシ、聞いてるかい? 仲間が殺されたから、悲しいのか‥‥。でも、もう戻らないんだぜ。生意気言うみたいだけど、その仲間はフィリシを守って死んだんだろう? だったら、それを無駄にしちゃいけないぜ。自分に任されたことをしなくちゃなんないだろ? 今のウラナングにはフィリシが必要なんだってさ。レシマもだ。‥‥チシラ‥‥そうだ、チシラがいればって、ラノートのおっさんも言ってた。チシラが生きてて、ティカンを守ってればってさ。でも、もう死んだ奴なんだよな。結局。生きて動ける奴が、することしなくちゃいけないんだ。判ったかい、フィリシ? 必ず、ティカンに行くんだ』

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