第8回 A-0 聖都ウラナング


◆ウラナング
 ウラナングに、時ならぬ降雪をもたらした黒雲が去った。しばらくぶりに目にする雲の向こう。
 北方の空にぽつんと見える黒い染みは、一体何なのであろう。先日の降雪、ティカン神殿の崩壊、そして伝え聞く闇の領域の拡大。ウラナングからも、日の上る方角である東方を埋め尽くす漆黒の闇を見ることができるようになっていた。
 あの空中の染みも、この聖都ウラナング・・・・いや、このカナンに訪れる災厄の前兆なのであろうか。
 クンカァン軍政下のウラナング市民にできることは、ただただ不安におののき、怯えることばかりであった。

◆上ウラナング
「吐け!」
 クンカァン軍の詰所。一人の男が、両手両足を台に縛り付けられ、兵士たちの拷問を受けていた。
「クルーデル様に化け、何を企んでおった!?」
 クルーデルがカヤクタナへ出陣していたのに気が付かなかったのが、男の不覚であった。しかし拷問を受けている男の意識は、既にそれを悔やむ余裕すら無いほどに混濁している。
「気を失いおった・・・・おい」
 隊長らしい男が顎をしゃくり、兵の一人が真っ赤に熱した焼き鏝を炉から掴み出す。
「っがぁぁぁぉぉぁっ!!」
 台上の男が、兵士たちも顔を顰めるような声で絶叫する。焼き鏝が押し付けられた部分は、じゅっと音を立てて焼けただれ、嫌な臭いの煙が立ちのぼった。
「言え!」
 隊長が男の髪を掴み上げ、がくがくと乱暴に揺らす。
「・・・・うぅ・・・・」
 辛うじて息をするばかりの男には、もはや答えるほどの体力も残っていないのであろう。
「ちッ。牢に放り込んでおけ」
「はっ」
     *      *
《哀れよな・・・・》
 男が放り込まれた土牢には、他に誰もいないはずであった。無論、牢番の兵士の声ではない。
《判らぬか。わしじゃ。おぬしの足元におる》
 男が、驚いた表情で赤土の地面を見る。
《そうじゃ。この中じゃ。今から逃がしてつかわす。全身を、土に委ねよ》
 不可解極まりないといった顔をしながらも、言葉に従って男が傷ついた身体を伸ばし、地面に横たわる。
《土を水と思え。空気と思え。我が懐に来よ》
 男は確かにその身が土中に没してゆくのを感じた。いや、それすらも夢か意識の混乱であったろうか。
 ・・・・翌朝、驚愕の表情を張り付かせて男の逃亡を報告した兵士が、厳罰をこうむったのは言うまでもないことである。

◆下ウラナング
 街の一部を浸していた水もようやく干き、地面が現れるようになった。隠れ家の裏手の空き地で、ファルコ、モップ、ジーソーらが、盛大に燃え上がる焚き火を無言で眺めている。
 組み上げた薪の下には、もはや生前の容貌すら判別することが難しいほどに腐乱したナッフの亡骸が埋められていた。
「ナッフ・・・・」
 ファルコが涙目になりながら呟く。
「さぁ」
 目を閉じていたカビタンが、上ウラナング・・・・ティカンの方角を仰ぎ見る。
「行かねばなりません」
 モップ、メシュラムといった辺りがうなずく。
「・・・・ちょっと待ってよ! ずっと、引っかかってることがあるんだ。何かおかしくない!? ナッフが新しい身体に入ったら、その人、どうなっちゃうの? ナッフに乗っ取られるちゃうの!?」
 ファルコが面々に向かって尋ねた。
「あのな、ファルコ」
 モップが「今更何を言わせやがる」とでも言いたげな表情で答えかける。
「お待ちよ」
 ジーソーがその言葉を遮る。
「あんたたちは早いとこ仕事にお行き。ファルコにはあたしが話しとく」
「・・・・わかった。婆さん」
 メシュラムがうなずく。
「行こう」
「ええ」
 ナージャが答える。
「急ぎましょう!」
 鐘を大事そうに抱えたスジャーターが言った。
     *      *
「ファルコ」
 隠れ家に他の誰もいないことを確かめ、ジーソーが低い声音で言う。
「よくお聞き。ナッフが入る身体はね、人の身体じゃないんだよ」
「え?」
「上ウラナングが大騒ぎになってるのは知っているだろう? 伝え聞いたところじゃ、ティカンの地の底からとんでもない巨人が出てきたらしい。その巨人は今、ンナカーとか言う奴が中に入って操ってるってことだ」
「え、え?」
「ナッフの言葉を聞いただろう? あの子が言った‘入れそうな身体’ってのはその巨人のことさね。モップたちは、ナッフを連れて巨人のところに行った。あの子たちも・・・・どうなるかは判らないよ。その巨人は、自分のことを‘最後の神’、‘光と闇の女神’と名乗ったんだ。・・・・ナッフはそいつを相手に戦わなくちゃならない。巨人の身体にはおそらく一人しか入れないだろうからね。ンナカーか、ナッフか」
「それじゃ!」
「そうだよ。ナッフは・・・・神に、本当の‘最後の神’になるんだ。あの子の不思議な力は、ファルコ、お前も知ってるだろう?」
 イーバ滝の一件であった。ナッフはおびただしい数のンギの群れを、一喝するだけで倒した。その時の何か得体の知れない力は、他ならぬファルコ自身にも襲いかかり、その意識を奪うに至ったのだ。
「オジャとかいう神人が言ったねぇ。あの子の力は、大昔の何とか言う偉い人の力と一緒じゃないか、闇を押し返し魔族を滅ぼす『光の儀式』の力と同じじゃないかって」
 黙り込むファルコに向かってジーソーが言葉を続ける。
「あの子は、そういう風に生まれてきたのかも知れないよ。‘最後の神’になるために、ね」

◆ティカン
「あれか・・・・」
 神殿の周辺はすでに瓦礫の散在する廃虚であった。その廃虚から突き出るように威容を誇っている巨人像。それこそが‘最後の神’‘光と闇の女神’を名乗るンナカーであった。
 その姿は、ンナカーがかつてまとうたのであろう現在のクマリの神衣に似た、しかし何か凶々しさを感じさせる装束に身を包んでいる。出土した直後はさしたる装飾の無い人型の石像であったはずが、ンナカーをその内部に迎えた直後から変容を始め、現在はそのような姿を呈していた。
 それは人よりも二本多い四本の腕に、それぞれ光り輝く輪のような何物かを握り、振りかざす。
《あれに触れるな! 我らといえど斬られてしまうわい!!》
〈ぬぬうぅ! 厄介な、厄介極まりないわ! ンナカーめが!〉
 ある種の感覚に優れた者は、進退窮まったような情けない声でそう叫ぶ誰かの声を耳にすることができたであろう。
「おい! 見ろ、北だ! 北の空!!」
 突然の叫び声であった。灰色の雲の切れ目から見えるのは、何か大きな岩の塊である。
「あれが、ヴェニゲ・・・・?」
 崩れかけた壁の後ろに身を潜め、ジョカが呟く。
「出ぁしておくれよ! もうウラナングだぁろぉ? あたしぃの、あたしぃの恋しい恋しい街ぃ!」
 脇に置いた樽の中から、嗄れた老婆の声がする。
「ちょっと待てったら。色々食い違ってきちまってる。手筈通りにいかないことだってあるんだ!」
 舌打ちをしながら、ジョカが樽の方を振り返る。
     *      *
 かすかに、笛の音がする。
 カティルの奏でる笛であった。声を嗄らして巨人・・・・最後の神に話しかけてみたが、一向にこちらに気づく様子も無い。諦めにも似た思いをも抱きながら取り出し、瓦礫の中でカティルがその唇に当てた笛であった。しかし最後の神はその笛の音すらも耳に入らぬかのように、悠然と辺りを睥睨している。
「なぜ? 神も人間も同じなのに・・・・」
《馬鹿者。同じわけがあるか!》
「誰!?」
 カティルが咄嗟に辺りを見回すが、自分以外の誰の姿も無い。
《同じわけが無いと言うておる。わしら神と、そこいら辺りに転がっておる人間風情が同じなわけがなかろう! 思い上がるでないぞ!》
「え、え?」
《イシュもクールーも、わしらをしのぐほどの力を身につけた。故に不承不承ながらもわしらは奴らが神となるのを認めた。しかしおぬしは一体何をした!?》
「違う、違うの! わたしはそういうことを言いたいんじゃなくて!」
《では何を言わんとする!?》
「神と人間が争うだなんて、それはおかしいと思うの!」
《馬鹿な。おぬしらがわしらの相手になるか! わしらが相手にしているのはただ一人、ンナカーのみじゃ!》
「ンナカー?」
《あのでかぶつじゃ! おお、もう時が至る! おぬしの相手もこれまで!》
 そして、声が去った。カティルが笛を握り締め、一人立ち尽くしている。
「じゃ、ンナカーは、‘最後の神’は、どうして私たちを滅ぼそうとするの!? ねぇ、神様、答えてよ!!」
     *      *
「ヴェニゲ・・・・まだか!?」
 ジェゾが天を見上げる。目当ての空に浮かぶ陸塊は、まだ遠い。合図があるにせよ、この距離ではまだそれを認めるのは無理であろう。
(マジュルカ、イシュルヴァ・・・・)
 心の中で語りかける。
(すまない・・・・私のために、危険な目に合わせて)
 二人はジェゾの身代わりとして、ウラナングに潜入しているであろう刺客の目を逸らしているはずであった。
(おかげで、こうして・・・・。後はあのヴェニゲがもっと近づいてくれれば・・・・)
 しかしながら。ジェゾはいささか自意識過剰であった。彼(とその所有するところのブルガの太鼓)を狙う刺客など、このウラナングには入り込んでなどいない。マジュルカ、イシュルヴァの二人は、ジェゾに変装し、いたずらにクンカァンの軍兵に満ちた危険なウラナングの街中を歩き回っていたばかりであった。いや、ジェゾも、二人も知りようの無いことではあったが。
 上空のヴェニゲは、時が過ぎるにつれ一段と輪郭を明らかにした。その岩肌の表情すらも肉眼で捉え得る距離である。その高度もどんどんと下がっているようであった。
「さあ。舞台の幕は上がった」
     *      *
「あなたが、スジャーター?」
 ハンムーからの旅を終え、ようやくウラナングに辿り着いたルシェが言う。
「そうです。よく・・・・来てくれました」
「私には、シムサオ様の加護があります。決して、シムサオ様は私をお見捨てにはなりませんから」
 にっこりと微笑みながら、ルシェが答える。
《ルシェとやら。このシムサオの命を聞くのならば、急げ、急げ。疾く伝えるのだ、鐘の音色を》
(シムサオ様!)
 ルシェが心の中に響いた声に促され、表情を引き締める。
「では、スジャーター。あなたに伝えます。古き王家ハンムーに伝わる、聖なる音色の一つ。心して聞いてください」
     *      *
「ジョカ!」
 瓦礫を乗り越え、ブゥンムナが駆けて来る。
「その・・・・樽は?」
「ンナカーの片割れが入ってる」
「出ぁしておくれよぅ! あたしぃの街ぃ! あたしぃは帰ってきたぁ!」
 樽に耳を当てようとでもするかのように、ブゥンムナがその脇にしゃがみ込む。
「ンナカー様?」
「出ぁして! 出ぁしてよぅ!」
「私の言うことに答えてくださる?」
「答えたらぁ、出ぁしてくれるかぃ?」
「・・・・お答え次第」
「! 出ぁしてよ! 答えたら出ぁしてくれるんなぁら、答ぁえてやるよぅ!」
 ジョカが呆れたように首を左右に振り、肩をすくめてみせる。ブゥンムナが構わず尋ねる。
「ね、ンナカー様、どうして人間が最後の神になれるの?」
「さ、最後の神ぃ!? そうだぁよ! 最後の神ぃ!! あたしは、最後の神ぃになぁるぅ! あの身体に入るぅ! あたしの半分がぁ、呼んでるよぅ! 早く来いぃ、一緒に、一つの身体になぁるんだってぇ!!」
「ンナカー様、じゃ、その身体に入れれば誰でも最後の神になれるの?」
「なぁれない! なぁれない! 最後の神ぃになるのはぁ、このンナカーだけだよぅ!」
「ナッフって子、知ってる?」
「ナッフぅ!? 知ぃらない、知ぃらないぃ! 出ぇるよぅ、樽の外に出ぇるよぅ!」
 中でンナカーが暴れているのであろう。樽が左右にガタガタと揺れる。
「オロサス家の子供よ。その子も、身体に入ることができるの。どうやって入ればいいの?」
「オロサス? オロサスゥ!! エンドルの馬鹿たれが、このあたしぃを闇に放り出したよぅ。セモネンドの家老も一緒になって、あたしぃを闇ぃに押し込めたぁんだぁ!」
 ンナカーが一層興奮した様子で、樽をますます激しく揺らす。
「オロサスぅの血筋ぃ、根絶やしぃ、根絶やしぃ! そんな奴ぅは絶対に身体に入れてやるもんかぁ! あれはあたしぃの身体だよぅ!」
「ンナカー様、じゃ、ナッフは入れるのね。どうやって入れればいいの?」
「知ぃるもんかぁ!! 教ぃえるもんかぁ!! 恨ぁめしい、恨ぁめしいオロサスの血ぃ、ゴニクぅを殺して気ぃが晴れたのにぃ! 生き残りぃ、みんなぁ殺すぅ! 最後の神ぃになったらぁ、みんなぁ、踏み殺ぉしてやるぅよぅ!!! あたしぃはここぉだよぅ! あたしぃの片割れぇ! あたしぃはここだぁ!」
 ブゥンムナが激しく横揺れする樽を押さえつけながら言う。
「残念でしたね、ンナカー様。最後の神になるのは、ナッフなの。最後の神は、‘闇と光の女神’じゃない。‘光の神’として現れるの!」
     *      *
《カビタンよ。ぬかりはあるまいな》
(はい)
《ぬしの仲間が手配りしておるようだ。四つ楽器の音が聞こえたならば、小僧をンナカーが入り込んでおるあの巨人に入れるのだ》
(入れる・・・・入れると仰されましても)
《おぬしが、あの巨人の足元にでもどこにでも、取りつけば良いだけだ。簡単であろうが?》
(・・・・)
《判ったな。我がしもべ、‘逆光の’カビタンよ。何のためにおぬしをしもべとしたと思っておる? 心配ない。おぬしはこのラノートのしもべ。死んでから後は悪いようにはせぬ》
(は、はい。・・・・承知、いたしました)
 うなだれていたカビタンが、覚悟を決めたように目を上げる。その先に・・・・最後の神。
     *      *
「モップよ」
「ああ」
「俺たち、どうすりゃいいんだ?」
「あのヴェニゲに乗り込む方法が有りゃなぁ。いくらも手だてがあったのに」
 モップが恨めしげに上空のヴェニゲを見上げる。メシュラムも盲いた目ながらも同様に天を仰ぐ。
「何だ・・・・?」
「笛だ! 笛の音!」

◆誕生
 急に、巨人が動いた。何かを上空にその姿を現したヴェニゲにじっと目を向けた後、何かに気がついたように崩れかけた壁の向こうに手を伸ばした。
「こっちぃぃぃ! こっちぃだぁ!」
 樽の中でンナカーの半身が叫び声をあげる。
「まだ一緒にさせるわけにはいかないんだよ!」
 ジョカが巨人の手を避け、樽を蹴り飛ばす。
「まぁわるよぅ! 転がぁるよぅ!」
 樽がごろごろと音を立てて樽が転がってゆく。
「あぁたしぃの片割れぇ!」
     *     *
「聞こえた! 笛の音だ!」
 撥を振り上げたジェゾが叫ぶ。
 うなずいたミミンが、細い指で手琴の弦をつま弾く。それに合わせてスジャーターが鐘を高くかかげる。
 ウラナングの三つの音色。ヴェニゲの一つの音色。渾然とした音の流れが、やがて一つの旋律に重なり合う。
《行けぃ、しもべよ!》
「はいッ!」
 顔面を蒼白にしながら、巨人に向かってカビタンが駆け出す。
《小僧、ついて行くのだ! あの男の体を通って巨人の中に飛び込め》
「カビタン、ナッフ!!」
 ナージャが叫ぶ。
(カビタン、姿を消してあげる! あなたがンナカーに見つかったら、全ては水の泡よ!!)
 巨人は、樽を求めて踏み出そうとした足を止めた。勝ち誇るが如くに冷たい笑みを浮かべていたその表情が、みるみる苦悶のものに変わってゆく。手足が苦し紛れに振り回され、辺りの壁を崩し、残っていた柱を押し倒す。そしてその口が歪み、何事か叫んだ。
《おのれ! おのれ! 笛は偽物か!》
 そのすぐ足元を、何事かわけのわからない叫び声をあげてカビタンが走る。まさかこのような目に遭わされるとは思わなかった。そんな表情を貼りつかせて。
 巨人は凍りついたように動かなくなっていた。まるで世界を満たす旋律が、縄か鎖となってその身体に巻き付きでもしたかのように。
「うぁわぁぁぁぁぁぁッ!!」
 叫びとともに、カビタンがその右足の親指にとりついた。
「ナッフ! ナッフ!」
 カビタンが両手でしっかりと巨人の身体を掴み、目を固く閉じてその名を連呼する。
《ご苦労さん!》
 すうっ、と何かがいなくなる感触。
「ナッフ! 入れたのか!」
     *      *
「見ろ!」
 巨人の様子を見守っていたモップが指指す。ンナカーの姿をしていたそれの表面は、どろどろと溶け出しているかのようであった。
「ナッフが、入ったのか?」
「姿が、変わってゆくぞ!」
 ンナカーであろう女性の姿をしていたそれは、粘土を捏ね直すように形を改めた。そして現れたのは。
「ナッフ!」
 何も身にはまとうていない、十歳かそこらの少年の姿。その顔には生意気そうな表情。そしてのびやかな四肢。
「どうやら間に合ったねぇ。見えるだろ、ファルコ」
「うん・・・・ナッフ、ナッフだ!」
 崩壊したティカンの一角に、巨人を見上げるジーソーとファルコの姿があった。
《許せぬ! 許せぬ! 凡下どもが!》
「ぬぅッ!」
 メシュラムがうめいた。
「どうした!」
 巨人像に気を取られていたモップが、慌てて聞く。
「抜け出たぞ! ンナカーが、ナッフに追い出された! 俺たちの上のあたりを飛び回っていやがる!」
 メシュラムが、心眼を頼りにンナカーを捕捉しようと上空を睨みまわした。
「どこに行った!?」
 ナッフの姿をとった巨人が、ゆっくりと地上を見下ろす。
「え・・・・?」
 一瞬、少年の唇にたとえようも無く寂しげな微笑が浮かんだ。巨人は再び上空に目を移し、東の方角を向いた。そしてゆっくりと両手を天にかざす。
「!」
「これ、は!?」
 太陽よりも眩いほどの光が、その場に居合わせた全ての者の目に満ちた。
《退くんだ! 闇も魔も、すべて!》
 ナッフの、まだ幼い、しかし凛とした声が聞こえたような気がした。
 光は次の呼吸をするまでに、眼に見える範囲の全ての闇を払い、そして消えた。
《おのれ、おのれ!》
「そこか!」
 メシュラムがようやくンナカーの位置を捉えた。空中から一直線に何かを目指し、非常な速度で降下している。
「あぁたしぃは、ここぉだよぅ!!」
 樽が砕け散ったのは次の瞬間である。
「ンナカー!!」
 ジョカが絶叫した。

◆狂王・神王
 ずしん、と地響きがした。
 それが最後の神がいたのとは別の箇所から聞こえてきたので、その場にいた人々は、ぎくりとした。
 もう一体、別の巨人が姿を現わしたのかと思ったのだ。
 ゆらりと現れたのは、巨人というにはほど遠かったが、並みの人間を遥かに凌駕する体躯と筋肉とを兼ね備えていた。
 それは、死すべき定めの人の子として地上に生まれてきた中では、おそらく最強であった。
「我はクルグラン」
 その黒い双眸が、異形の巨人にぎょろりと向けられた。
「貴様は何者だ?」
 巨人は、足元のその男に向かって答えた。
「ナッフ」
「それが貴様の名か」
「そうだ」
「ンナカーは敗れたようだな」
「ああ」
 ナッフは、クルグランの様子を見て怪訝に思って尋ねた。
「怒らないのか」
「なぜだ?」
「ンナカーは、おまえの仲間だろう?」
「これは笑止」
 とたんにクルグランは呵々大笑した。聞いている者の腹膜がびりびりと震えるような、壮絶な笑い声だった。
「あのような皺だらけの臭い干物を仲間にした覚えはない。闇の領域の奥で出会ったとき、奴は俺にこう言った。“力が欲しくないか?”と。“聖都まで連れていってくれれば、見返りに闇の力を授けてやろう”とな」
「それで?」
「俺はこう答えた。“そのような、さもしい力などいらん。俺は俺のこの手で、世界を俺の下にくみ敷いて、蹂躙してくれる”とな」
「では、闇の輩は、おまえと無関係なのか? そうではあるまい」
「婆ァの言葉を無視して、立ち去ろうとする俺に、奴らは束になって後ろから襲いかかってきた。それで俺は、持って生まれたあらん限りの力をふりしぼって、むらがる魔物をちぎっては投げ、ちぎっては投げた。戦いは3日3晩続いた」
「…………」
「さしもの俺も手ひどい傷を受け、満身創痍で地に倒れ伏した。かくなる上はと俺は、ありたけの力を使い死物狂いで祠に飛び込んだ。そこに、これが置いてあった」
 クルグランの背中で、いくつもの武装ががちゃがちゃと鳴った。
「こいつを手にしたとたんに魔賊どもがおとなしくなった。婆ァが言うには、定命の者でこれを手にした者はいまだかつて無いとのことだった。そのせいか、魔賊どもは恐れ入って俺にひれ伏し、俺の言うことを聞くようになったというわけだ。迷惑な話だが、しかしせっかくだから役に立たせてもらった」
 そう言ってクルグランは、とびきり巨大な2本の得物をとりだした。それをがちゃん、と1つに合せると、化けもののように大きな槍斧となった。振り回すには大の大人4、5人は必要であろうその金属塊を、狂王は軽々と頭上で振り回す。
 その手がぴたりと止まり、らんらんと光るその目が巨人を射た。
「さて。くどくど話すのはやめだ。ナッフ、貴様に挑戦するぞ」
「なんだと?」
 さしもの巨人も、文字通り神をも畏れぬこの傍若無人な発言に、たじろいだ様子だった。
「神だのなんだのといっても、所詮は実体のある生身だ。貴様はンナカーに勝ち、その地上最強の体を手に入れた。であってみれば、この俺が手に入れられんという法はあるまい」
「うぬ」
「いくぞ」
 次の瞬間、クルグランの巨躯が跳ねた。ましらのようなはしこさであった。その場のいた者のうち、彼の動きが見えた者はわずかであったろう。
「応」
 右足に強烈な衝撃を感じて、ナッフはうめいた。膝の裏に、斧槍の一撃をくらったのだ。それはまるで、きこりに倒される大木のさまに似ていた。
 だが、それしきで参るナッフでもない。
 すかさず態勢をたてなおし、かがみこんでクルグランを捕まえようとする。その手がむなしく宙を切り、怒涛の2発目が手首に叩き込まれた。
 いきなり足元に振ってきた神の手首を見て、観衆はぎょっとした。それは廃虚に横たわる神像のごとくに、中途から荒々しく切断されていた。
 斧槍は、この世のものとも思えぬ衝撃についに耐えきれなくなり、見る影もなくへしゃげてしまった。
 クルグランは次に、ごつごつとイボのついた粉砕棒を取り出した。長さでは斧槍にひけをとるものの、重量はこちらの方がありそうだ。
 クルグランの縄のような筋肉がよじれ、破裂せんばかりにふくれあがった。
「おうえいッ!」
 ふりかぶって、力任せに叩きつける。かかとを攻撃されて、ナッフはよろめいた。「どうしたというんだろう」
 人々はいぶかしんだ。
「まるで、いいようにあしらわれているじゃないか。あれは最後の神じゃないのか?」
「クルグランの方が強いぞ」
「まさか、本当にクルグランが最後の神なんじゃあ……」
 動揺が走った。
 事実はこうである。
 実はこのとき、神として覚醒してまだいくばくもたたぬ最後の神の体は、世界を浸食する闇を押し返すという途方もない作業に、すっかり疲れ果てていたのだった。いくら神とて、その力は無限大ではない。ましてや彼は、生まれたばかりの形在る神なのだから。
 むろん、いかにそうだとはいえ、相手がこの化けものじみた戦闘機械たるクルグランでなければ、ナッフもここまで苦戦することはなかったろう。
 それでもナッフは、渾身の力を振り絞り、クルグランと戦い続けた。
 だが、次第に形勢は彼にとって不利になるばかりだ。
 クルグランは、次々と武器を使い潰しながらも、信じがたいことに徐々に巨人を追い詰めていた。
 もはやナッフの全身はぼろぼろで、傷の無い場所が見つからないくらいだった。その周囲を、剽悍に走り回る黒い姿がある。ときおり、ぎらりと狂暴な光が陽光にきらめき、そのたびにナッフの傷は増え、広がっていった。
 いまや人々は、言葉を失い、かたずを飲んで、この異様な、神話そのものの光景に見入っていた。
 やがて巨人が、地面に膝をつくときがきた。
 クルグランはそれを見るや、手にした短剣を握りなおした。
 もはや彼に残された闇の武器は、唯一それだけであった。
「観念しろ」
 クルグランがつぶやいた。
「負けを認めろ。そうすれば、その体は俺のものとなる」
 そのとき、横槍が入った。
「死ね、クルグラン!」
 これを逃がしては機会は無いと見たシドンとユラが、一斉にクルグランに襲いかかろうととしたのである。
 だが、その前に女武人ユゥイが立ちはだかる。
「おっと。邪魔はさせませんよ。せっかくおもしろくなってきたのに」
「どけ!」
 3人はしばらく揉み合っていた。
 その間に、クルグランが動いた。
 腰だめに短剣を構えたまま、神の喉元めがけて跳躍する。
 刹那、ナッフの目が大きく見開かれた。
 その全身から、輝く光輪が飛び出して、クルグランの巨躯を捕らえた。
 あと少しというところで迎撃されたクルグランは、もんどりうって地面に倒れ伏した。左肩から腰のあたりまでが、ばっくりと裂けていた。そして、鮮血が噴水のように吹き出す。
 ナッフがこの一撃を狙って、残された霊力をためにためていたのは明白だった。
「や……」
 ややあって、人々はようやく声を発した。
「やったぞ!」
「狂王が倒れた!」
「神の勝ちだ!」
「ナッフが勝利した!」
 とたんに、割れんばかりの歓声が巻き起こった。
 が、その喜びも束の間、人々は再び凍りついたようになった。
 肩膝をついたままの姿勢のナッフが、そのままゆっくりと地面に倒れ込んでいったからだ。
 ズンという地響きの後、猛烈な砂ぼこりが巻き起こった。
 巨大な体が、あちこちからぼろぼろと崩れ落ちていった。
 その目にはもはや、あのナッフの瞳は無かった。ただうつろな双眸が開いているばかりだ。
 そして、神は死んだ。

※このリアクションのみ、坂東いるかマスターの執筆部分を含んでいます。

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