第7回 C-0 ヴラスウル全域


◆イーバ滝
 呪人の長、プキモを殺害した犯人の行方は杳として知れない。長を失った滝周辺の集落は、長らく滞在していた来客たちのほとんどが引き上げたこともあり、以前に増して静かであった。
 そんなイーバ滝でのできごと。
     *      *
 河原で気を失っていた彼を見つけた舟人に付き添われ、チアジが呪人の家の一軒を訪れる。
「済まねぇが、怪我を診てもらいてぇ」
 扉代わりの筵を手で除け、舟人が声を掛ける。
「どうした?」
 中年の呪人が返事をする。
「迂闊に結界の外を歩くもんじゃねぇな、魔族にやられちまった」
 チアジが唇を歪め、疼痛を堪えながら言う。
「魔族に? ともかく、怪我を良く見せてみろ」
 袖を捲り上げられたチアジの右腕は、溶かした銅の中にでも突っ込んだかのように醜く焼けただれ、五指は親指の半分を残して焦げ落ちていた。
「こいつはひどい。この時期、膿まなかっただけでも儲けものだ」
「なんとかなるかい?」
 チアジが尋ねる。呪人はその問いには答えず、逆にチアジに聞いた。
「・・・・あんた、舟人か?」
「ああ」
「残念だが、仕事は諦めろ。こうまでひどくちゃ手の施しようも無い。いずれ壊死する。屍毒が身体に回るまえに、切り落としたほうがいい」
「何だと! てめぇ、それでも呪人かよ! まじないで何とかしてみせろよ!」
 チアジが、怪我の痛みも忘れて大声で言う。
「できることとできないことがある。死んじまったプキモさんならともかく、俺たちじゃどうにもならん」
「もっと人数集めたら、どうだい?」
 二人の間に割って入った舟人が尋ねた。が、呪人は気の毒そうな表情でかぶりを振った。
「核になる力がいる。藁しべばかり集めても、丸太の強さには及ばないんだ。中に芯がなくちゃ、な」
 チアジが、がっくりと項垂れる。
「いや、待て」
 呪人が思い出したように続けた。
「イルイラムという若者を、知っているか? あいつはまだ若いが、腕は確かだ」
「イルイラムか」
「そうだ・・・・ただ」
「ただ? ただ、どうした?」
「承知しているだろうが、あいつは今も大きなまじないを続けている。例の結界だ。あんたの腕を治すためには、一度それを解かなくちゃならんだろうなぁ」
     *      *
 太鼓を探す男が、一人。
(「あれ」が、俺の考え通りなら、二度と鳴らすわけにはいかない)
 ウラナングの盗賊、“蒼き疾風の”ヴァンルーハは考える。あの映像にあった破壊の太鼓こそが、ブルガの太鼓ではないのか。その太鼓が再び打ち鳴らされるようなことがあっては、このカナンにどんな災厄をもたらされるか、とても想像がつかない。
 ともにウラナングを脱け出し、太鼓を探すべくフィリシを説得してみたが、彼女は首を縦には振らなかった。互いにとって危険過ぎると言うのだ。
 確かに自分一人ならばまだしも、大魔軍やクンカァン正規兵の制圧下にあるウラナングを、クマリとして顔の知られている彼女を連れて抜け出そうというのは、あまりに危ない賭けであった。
 そして、イーバの滝。呪人たちに話を聞いてまわったヴァンルーハは、口惜しさに唇を噛む。
「遅かったか・・・・!」
 太鼓の所有者ジェゾ。実際に太鼓を鳴らしたヴィルメル。ともに先日この地を離れ、それぞれいずこかに向かって発ったという。
(こうなっては仕方が無い・・・・まずはフィリシが心配だ。彼女のもとに戻るとしようか)
     *      *
 太鼓を探すも者が、もう一人。
 滝に現れた奇妙な頭巾をかぶった男。彼は自らをハンムーの摂政キリ・ウルクと名乗り、太鼓の所有者を尋ねていた。
 が、しかし。カナン随一の大国ハンムーの摂政が、仮に微行であったとしても、供の一人も連れずにこのヴラスウルの奥地に足を運ぶというのは、あまりに不自然であった。世間慣れしてはいない呪人たちでも、さすがに彼の正体を怪しみ、なかなか口を開こうとしない。
 辛うじて知り得たのは、ジェゾらが太鼓を鳴らした後に、いずこかへ立ち去ったということだけであった。
 頭巾の下で、男が呟く。
「・・・・いつまでも一つところにいると思ったのが間違いだったか。太鼓が無いとなればここには用は無い・・・・無駄足だったな」
 ばさり、と頭巾を脱ぐ。
 途端に、彼の顔が別人のものに変わった。
「戻るとするか。王のもとへ」

◆コレルの森
「しっかり探すのじゃ!」
 どしゃ降りの雨の中、ミルコルクが働きの悪いマナマラマを怒鳴りつける。泣きそうな顔をしながら、マナマラマが茂みを掻き分け、泥だらけになりながら何かを探している。
 無言でそれを見守るクータル。
 主従三人の、あても無い探索はいつまで続くのであろうか。

◆ジュグラの里近辺
 長雨に降り込められ、外で遊ぶことのできない孤児たちは不満気であった。ちょっとしたことで言い合いになり、喧嘩になる。そして最初に泣き出すのは決まってンニンリであった。
「こら! 弱い者いじめをしちゃ駄目だろう!」
 珍しくルヴァナが怒ったような声をあげた。苛立たしかった。雨もそうであるが、子供たちに好きなように遊ばせてやれないのが心苦しかった。こういった喧嘩が起こるのも、心にゆとりができていないからであろう。
 小屋の中に、もう一人。ハーデヴァが黙って座っていた。
 故郷のハンムー、特にメシナルが戦乱に巻き込まれているという風聞を耳にした。近々、メシナルを占拠した「古の刃」と、一族の者たちが率いているのであろうメシナル奪還軍との間に大戦さが開かれるであろうという噂も聞こえてくる。
 とてもではないが孤児を連れて行けるような状況ではない。まして、旅には向かない雨季である。道も街も無い南方を迂回してメシナルに辿り着こうというのは、夢想でしかなかった。
 そして、もう一人。ジルダが小屋に入ってきた。
「みんな元気無いね。元気が出るように、歌を唄ってあげるよ」

 ヴォジクの子供 舟を漕ぐ
 沖まで行って 魚を釣って
 市場で売って 一稼ぎ

 ハンムーの子供 詩を作る
 御殿に行って 曲に合わせて
 踊りに合わせて 大喝采

 カヤクタナの子供 銀を掘る
 山に入って 大穴掘って
 鉱脈見つけて 大儲け

「さぁ」
 ジルダが歌を止めて言う。
「ヴラスウルの歌は、みんなで作ろうか」
     *      *
 ユエシュロンの小屋
「アスタ・ホグテ。神々よ、自侭にまじないを施し、その領域を荒らしたこと、お詫び申し上げます・・・・」
 急ごしらえではあるが、小屋の中に祭壇をしつらえ、酒やら果物やら、様々な供物を捧げて祈る男の姿があった。
「今後も、様々にご迷惑をおかけするものと存じますが、何とぞお目こぼしを願いたく・・・・」
 じっと目をつぶり、真摯に祈りつづけるユエシュロンに、どこからか途切れ途切れに聞こえてくる声があった。
(・・・・?)
 会話のようであった。何人かが、寄り集まって厄介事について話し合っているような、そんな感じである。
《・・・・封印・・・・壊す・・・・ンナ・・・・》
《恨みが・・・・何を・・・・半身を求め・・・・》
《・・・ナングの・・・・後の神に・・・・》
《祠・・・・テガー・・・・向かう・・・・》
(なんだ?)
 耳を澄ますユエシュロン。しかし、それっきりであった。声はどこかへ遠ざかり、二度と聞こえてくることは無かった。

◆森
 かつて狩人たちが建てたのであろうか。古い古いウルヴァヌルヴァの祠廟。森を生計の場とする者たちは、この神を恐れ敬い、獲物を賜る代償として、神の喜ぶ供物を捧げ続けてきた。
 その祠に、真摯に祈りを捧げる少年の姿が一つ。
(ウルヴァヌルヴァ様、ぼくの獲った獲物を捧げます。どうかぼくをみんなと同じ狼にしてください。この姿じゃ、速く走れないし、目も鼻も効かない・・・・)
 獣臭い風が、祠に吹き込む。
(あ・・・・)
 そこに、神がいた。輪郭こそはっきりとしないが、並みの倍はあろうかという巨大な狼。色を変えて光る双眸。強靭そうな顎から突き出た犬歯。何とも言えない艶をたたえた毛並み。
(ウルヴァヌルヴァ・・・・様?)
《さよう。セタよ》
(は、はい)
《残念だが》
 神狼の瞳に、悲しげな色が宿る。
《今ぬしの形を変えることは、できぬ》
(そんな・・・・)
 セタががっくりと肩を落とす。
《気を落とすな。ぬしが死に、再び生を受けるようなことがあれば、我が眷族として生まれさせよう。皆とともに駆けることのできるように》
(ほんとうですか!?)
《ミトゥンに掛け合うて、必ずな》
(ありがとうございます!)
《さて、セタよ。引き換えと言うわけではないが、頼みがある。ぬしは我がしもべとして、群れを守るつもりでおる。そうだな?》
(はい!)
《うむ。では命ずる。群れを率い、急ぎこの地を離れよ》
(え?)
《どこかの馬鹿が、封印を破りおった。間無しに、東から闇が押し寄せる。この森も飲み込まれよう。できる限り多くの仲間を連れて、逃げよ》
(え? どういうこと・・・・です?)
《わけを言うたとて、ぬしに判ることではない。セタよ、我が言に従え》
(は、はい!)

◆ジュグラの東・密林
 小雨の日であった。
「気をつけろよ。ツァヴァル」
 クランギとタファンが、後ろを振り返る。クランギは子供たちが迷い込んでいないか、ツァヴァルとタファンは闇の領域に変化が無いか、といった理由から森の様子を見に来たのである。
 が、ツァヴァルの様子がおかしい。
「どこか調子が良くないのか?」
 クランギが心配そうに声をかける。女とはいえ里で生まれ育ったツァヴァルが、これぐらいの行程で音を上げるとは思えない。それだけに心配であった。
「・・・・うん。大丈夫」
 ツァヴァルが無理に笑顔を作って言う。
「確か、この辺りだったな」
 タファンが言う。
「キュイが昔住んでた小屋があっただろう。あそこなら井戸もあるはずだ。少し休もう」
 程なく、小屋が見つかる。
「タファン、悪いが水を汲んできてくれないか」
「ああ」
 幸いなことに、小屋の痛みはさほどではなかった。床にキュイが残していったのであろう毛布を敷き、その上にツァヴァルを寝かせる。冷や汗がひどい。
「病を治すのが私の仕事なのに・・・・ごめん。クランギさん」
「いいってことよ。それより、具合はどうだ?」
「・・・・うん。あんまり良くない。凄く、気分が悪いの」
「おい!」
 裏の井戸に水を汲みにっていたタファンが駆け込んでくる。
「あの花! シュライラが!」
「どうした!?」
 タファンのただならぬ形相に、クランギが驚く。
「キュイのあの畑に、また花が咲いてやがる!」
「え!? だって、枯れたはずじゃ!?」
 ツァヴァルが思わず上半身を起こす。
「見てみろ! 物凄い茂りようだ!」
 クランギがツァヴァルを助け起こし、タファンとともに裏に向かう。
「こりゃ・・・・」
 畑からはみだすほどに、シュライラが生え茂っていた。その株がそれぞれ美しげな花をつけ、芳しい匂いを香らせている。
「この花・・・・魔を引き込むって・・・・」
 ツァヴァルが青ざめながら言う。
「闇が広がってるの!? ずっと、動かなかったのに!」
 がくり、とツァヴァルの膝が折れる。
「しっかりしろ!」
 クランギが倒れようとするツァヴァルを支える。
「みんなを・・・・逃がして。闇の気配が、凄い。このあたりはもう本格的に闇の領域になってきてるわ・・・・。手後れになる前に・・・・せめて、セイロまででも」
「村に知らせよう」
 クランギがタファンに言う。
「そうだな。すぐにでも避難させないと、危ないかも知れない」
     *      *
「なんだって!?」
 タファンの知らせに、冷静なユエシュロンが珍しく驚いた声をあげた。
「冗談を言う趣味はないんだ。すぐに避難しないと、とんでもないことになる。ルヴァナさん、あんたのとこの孤児も、どこかに避難させてくれ」
「・・・・わかったよ」
 ルヴァナがうなずく。
「ルヴァナさん、やっぱりジュッタロッタに戻ろう」
 元気者のミニャムが沈痛な表情で言う。脇にいたシャントンとジルダもうなずく。
「里のみんなに知らせてくるぜ」
 クランギが言う。
「とりあえず、セイロの街まで避難しろってな」

◆セイロ
 クトルトル家累代の墓苑。クィヒリのはからいにより、先日殺害されたギンヌワは一族並みの扱いでこの墓苑に葬られていた。その墓前に、ヘクトールの姿があった。
「ギンヌワよ、見守っていてくれ。私は先代を越える器に成長してみせよう」
 ヘクトールは、静かに、しかし厳しい口調でそう誓った。クトルトルの守り神ベクェィクトがその場にいたのならば、きっと満足げにうなずいたに違いない。
「ヘクトール様!」
 馬蹄の音と、彼を呼ぶ声。
「シュレイか?」
「はい」
 顔色を変えたシュレイが、馬から飛び降り、墓苑に駆け込んでくる。
「クィヒリ様がお呼びです」
「養父上が? すぐに行く」
「はい」
     *      *
 クィヒリの病室。刺客から傷を受けた左腕は、毒が回り、また腱を切られたことにより使い物にならなくなっていた。その後の処置も遅れたために、結局は呪医の判断により切り落としたのであるが、一連の怪我が頑健なクィヒリの体力を著しく奪っていた。
「養父上」
 呪医とシュレイを従え、ヘクトールが部屋に入る。
「・・・・ぉぉ」
 その声にクィヒリがかすかに瞼を開け、ヘクトールを見る。寝台の上のやつれたクィヒリの姿は、ファトレオ王麾下の若武者としてその勇猛ぶりや颯爽たる立居振る舞いを謳われた男には、とうてい見えなかった。
「ヘクトール・・・・そばに・・・・」
「はい」
 死相、と言うのであろうか。クィヒリの顔からは生気が抜け、粘土細工の面のようにうつろな表情が貼りついている。
「人は・・・・退げよ・・・・」
 ヘクトールが振り向き、呪医に目配せする。
「その・・・・女・・・・シュレイも」
 クィヒリが残った右腕をのろのろと上げて彼女を指差す。
「養父上。シュレイは私の腹心にて、決して秘事を漏らすような者ではございません。ご安心ください」
 納得したのか、クィヒリが腕を下ろし、しばらく息を整えた後、話し出した。シクの乱以来の、ハトラ、スキロイル、そしてクトルトルの三家にまつわる内容であった。
 シクの乱勃発に少し先立ち、クトルトル家はクィヒリの父親がソジ王の浪費を諌めたために逆賊として処刑され、二十歳を越えたばかりの若いクィヒリが家を相続したばかりであった。名家クトルトルも大幅に所領を削られ、クトルトル発祥の地とは言え当時は小村だったセイロに押し込められていた。
 セモネンドがウラナングに背いてシクと結び、ハンムーに攻め入るに及んで、クィヒリは父の汚名を雪ぐため、副将ギンヌワとともにセモネンドの先鋒として大いに戦い、武名をあげたという。しかしソジ王はクィヒリを逆賊の子として冷遇し、常にハンムーの大軍を相手とする最も危険な戦場へと赴かせた。同盟国のシクといえば、草莽より現れた英雄ナンハバスのために一度は占領したモダを奪回され、クンカァン軍は東よりシク本国への侵攻を開始。ヴォジクが動けなかったとはいえ、もともと地力に劣るシク−セモネンド同盟の敗色は誰の目にも明らかであった。
 クィヒリが口を歪めて言う。
「・・・・思えば、ファトレオはそれ以前より着々とセモネンドを乗っ取る算段をしていたのだ・・・・」
 文人肌で代々内政や外交に携ってきたスキロイル家と、武人の家系であるクトルトル家はともにセモネンド指折りの名家であった。互いに決して親しい間柄ではなかったが、ソジ王の股肱として信頼されていた当主ファトレオは、クィヒリ率いるハンムー遠征軍の軍監として従軍していた。当然、ソジ王が危険人物と目するクィヒリを監視する役目も帯びていたのであろう。
 そのファトレオが、ある夜密かにクィヒリの帷幕を訪れ、ソジ王への謀叛を囁いた。クィヒリは、迷った末に同意したという。
「・・・・わしの武功を認めぬソジ王が憎かった。父上の名誉、クトルトルの武名のために、わしはソジ王に背く決心をした。王に、その身をもってクトルトルの武勇を知らしめようと思ってな・・・・しかし全てはファトレオの思う壷よ・・・・」
 叛逆の手筈を決め、ファトレオはジュッタロッタに戻り、今度はソジ王の使者としてウラナングに赴いた。
「・・・・表向き、ソジ王の帰順を申し入れる使者ということになってはいるがな、実状はセモネンドを滅ぼし、己の王国を建てんがための交渉よ。もっとも、我らには何も知らされてはいなかったが・・・・」
 ウラナングはソジ王の申し出を蹴り、ファトレオにソジ王追討を命じた。クトルトルも「クマリの命には逆らえず」という体裁で、ハンムー軍と停戦した後にセモネンドに攻め入った。名門スキロイルとクトルトルの両家がソジ王に背いたとの報を聞き、セモネンドの各地で呼応するように反ソジ王の兵が挙がったが、その盟主にファトレオが立ったのは言うまでもない。
「・・・・我らはみな騙されておった。『反ソジ王』のつもりで掲げた旗が、いつのまにか『反セモネンド』の旗にすげ替えられていた・・・・」
 ソジ王派は、ウキラナガ将軍率いるクタ篭城軍のほかはさしたる抵抗もみせず、ジュッタロッタも間無しに陥落し、ウラナングと連絡を取ったファトレオがセモネンドを継ぐと称して一手に戦後処理を行った。
「・・・・それまでファトレオからは、ソジ王を廃して別の王を立てるつもりであると聞いていた。当然、ハトラ家の血筋の者をだ。ところが戦争が終わってみれば、ファトレオ自ら王位に即いた。クマリの命であるとしてな。実際にウラナングが何も言ってこなかったところをみると、確かにその約定は有ったのだろうが・・・・」
 クトルトルは、ソジ王を討つにあたって大功有りとされ、旧領を復されたうえに辺境諸侯筆頭の座と辺境軍の指揮権を与えられた。クトルトルを懐柔しようというファトレオの計らいであったことは言うまでもない。
「・・・・結果として、ファトレオは我らを利用し、我らもファトレオを担ぐことによって利を得た。それは間違いのないことだ・・・・。ヘクトール」
「はい」
「・・・・スキロイルのように上りつめる必要は無い。利用されても構わぬ。器用な世渡りができぬのは、クトルトルの家風のようなものだ・・・・しかし、我れらの家名だけは損なうな。戦場で遅れを取った、卑劣な振る舞いをしたと後ろ指を差されるようなことがあってはならぬ」
「はい」
「この傷だ。わしも長くはあるまい。おぬしの当主ぶりを、もう少し見ていたかったがのう。・・・・六十の歳を数えるまで、幾度も戦場に立ち、大いに働いた。ヴラスウル随一の将軍と謳われる誉れも得た。子こそ恵まれなんだが、こうして後を継がせるに足る者を得た。もはや悔いることは無い・・・・」
 クィヒリが右腕を伸ばし、ヘクトールの右手を力無く握る。
「養父上・・・・」
「・・・・わしは、セモネンドに背くつもりは毛頭無かった。ただソジという男だけが憎かったのだ。世人は心の内でわしをセモネンドを滅ぼした謀叛人の片割れと罵っておろう。それだけが心残りだ・・・・」
 クィヒリが目を閉じる。
     *      *
「避難民?」
 当主の部屋。クィヒリを見舞った後、椅子に腰掛けて書見をしていたヘクトールが、顔を上げた。
「何かあったのか?」
 眉根を寄せて尋ねる。
「我々が以前おりましたジュグラからの知らせです。物凄い勢いで、闇の領域が広がり始めているそうです」
 シュレイの声が、心なしか震えていた。
「何だと!? 闇の領域が?」
「はい。原因はわかりません。ただ、最近になって急に拡大してきたのは確かのようです」
「そうか・・・・。避難民の数は?」
「周辺の里からも来るでしょうから、千ではきかなかと思います」
「わかった。準備をしておこう。兵たちにも伝えておいてくれ」
「わかりました。・・・・それから、ヘクトール様」
「どうした?」
「御分家の方々にも、触れを出しましょう。新当主がセイロで行う初仕事です。協力をせよ、と」
 ヘクトールが驚いたような目でじっとシュレイを見つめる。
「我々の仲間がそうであるように、皆で力を合わせて物事に当たりませんと。特に、ヘクトール様はクトルトル家の要たる人、皆が協力する時の揺るがぬ芯になっていただきませんと」
「・・・・そうか」
「あ・・・・ごめんなさい。言葉が過ぎましたか?」
「いや。わかった。すぐに触れを出させよう」
「はい!」

◆南部辺境
 ルナの指揮する開拓地。本格的に雨季に入ってからというもの、作業のできる日が少なく、水路の整備は遅々として進んでいない。それどころか、地面が緩むことによって折角組んだ石組みが壊れたり、盛り土が崩れたりといった被害が出ている。
 我慢の日々であった。いつか収穫が得られる、立派な耕地ができる、と開拓者たちに言い聞かせ、農作業のできない女子供や老人たちには縄を綯わせたり、衣服や履き物の繕いなどをやらせたり、決して自分が足手まといにはなっていないという自信をつけさせる。気を配らなくてはならないことはいくらもあった。
 そんな中で開拓者たちの慰めとなったのは、ハンムーのミリム歌劇団からやってきた歌姫サシャの歌声であった。娯楽も何も無い開拓地に、労働歌以外の歌声が響いたのは久しぶりであった。若い傭兵オビュハラもやってきた。彼は早速壊れた石組みや盛り土の修理といった力仕事を引き受け、先入の開拓者たちとすぐに打ち解け合っていた。
「できる事を行うことが大切なんです」
 ルナは、堅実にこの開拓を進めるつもりであった。
     *      *
 久方ぶりの晴天であった。日課通り、櫓に上って周囲を眺望していたルナの目が、東の密林の方角に広がる黒い雲のようなものを捉えた。
(何かしら・・・・?)
 手すりを掴み、目を凝らしてみるが、肉眼では何とも判別しがたかった。
「ルナさーん! 何かあったんですか?」
 櫓の下からオビュハラが声をかける。
「ちょっと変な雲が見えるの。上がってきて」
「はーい!」
 上ってきたオビュハラが、ルナの指差す東の方角をじっと見つめる。
「雲、ですか?」
「わからないの」
「あ! あれ!」
 二人は、信じられないものを目にした。東に広がっていた黒雲が、やにわに上空に向かって立ちのぼり始めたのだ。
「な、何!?」
 それは、立ちのぼると表現すべきではなかったかもしれない。空が、見る見るうちに雲と同じ黒色に変じていったのである。そして、見渡す限りの東の空が、凶々しい暗黒に染め尽くされた。
「ルナさん!」
 オビュハラが思わず叫ぶ。
「これは・・・・まさか」
 ルナがぶるぶると震えながら呟く。
「闇・・・・闇の領域? 広がり始めたっていうの?」

◆リダイ川河原
 降りしきる雨の中、河原に呆然と立ちすくむ二人の姿。
「これは・・・・」
 長旅を続け、ようやくここに辿り着いた二人の全身に、徒労感が重くのしかかる。聞いた話では、このあたりに密林を離れた蛮族たちが居を構えているはずであった。
 しかし。
 雨に降り込められ、視界はさして広くはないが、肉眼で捉えうる範囲内にはそれらしいものは見当たらない。目の前には、雨季に入って大幅に水かさを増したリダイ川の濁流。
「ケセラさん、どうしましょうか」
 途方に暮れた顔で、エルクガリオンが尋ねた。二人ともさして丈夫な体でもない。ここまでの旅程が相当堪えているのはどちらも同じであった。そして、何よりも食糧がもはや心もとない。モヒトが喜ぶ雨季である。いくら保存が効くものとはいえ、これほどの高温多湿の中にあってはさほど長持ちはしない。蛮族の集落で調達するというあても外れた。
「どうしようもない、か・・・・」
 ケセラが、雨除けの頭巾の下で口惜しげに呟く。
「せめて」
 エルクガリオンが言う。
「バサン様の神託が得られるよう、祈ってみます」
 がばりと頭巾を跳ね上げ、エルクガリオンが雨にうたれつつ跪く。
(バサン様・・・・)
 やがて、どこからか不機嫌そうな声。
《何だ》
(バサン様でございましょうや?)
《用が有るなら手短かに言え。忙しい》
(はい。ハトラの血筋、ソジ王の遺児について伺いたく)
《ソジ?》
 途端にバサンとおぼしき声が憎々しげな調子に変わる。
《あの者の話など、したくはない》
(バサン様を崇め奉ったハトラ家の者ではありませんか!)
 エルクガリオンが強い調子で尋ねる。
《ソジより前はな。ソジは、我らを・・・・神を裏切った。魔と通じた愚者の名など、二度と我が耳に入れるな》
 それだけ言うと、声は途切れた。
「どうでした?」
 ケセラが、うなだれるエルクガリオンに声をかける。
「駄目です。・・・・バサン様は、ソジ王の所業にひどく御立腹されている様子。まともに取り合っていただくことすら」
 かぶりを振りつつ、エルクガリオンが力無く答えた。
 雨が、一層強まったような気がした。
     *      *
 そのはるか下流の河原。エスカイは、移動を始めた密林蛮族たちの中にいた。一人の蛮族の呪人がもたらした予言が、族長にこの二度の大移動を決断させた。雨季に入ったことによる大増水だけが原因ではなかった。
「近々、闇が広がり始める」
 彼らにとって、この予言は恐怖するに足るものであった。本来の棲みかであった森を追われ、ようやく辿り着いたこの河原であったが、そこでさえいつ闇に飲み込まれるかわからないというのだ。
 族長は、傘下の部族に触れを出し、その日のうちに出立を命じた。足弱の女子供、老人たちを守って、雨の中、集落ごとの移動が始まった。とてものこと、エスカイの婿入りを祝う宴を開くような状態ではない。
「やれやれだ・・・・」
 雨に濡れながら、エスカイが呟く。その脇を歩いていた族長の娘が、言葉はわからないながらも心配そうな表情で覗き込む。
「エス・・・・カイ?」
「間に合わなかったのかも知れんなぁ。あの予言が事実なら」
 娘が困ったような顔をする。
「お前に言ったところでどうなるというものではないが、な。闇やら魔族やらが押し寄せる前に、ヴラスウルと蛮族を結び付けるべきだった」
 先導している蛮族の男が、エスカイには判らない言葉で何事か叫んだ。急げ、と言っているらしかった。

◆セイロ
 豪雨の中、東部辺境からの避難民が到着し、セイロは混乱に見舞われていた。先日、傷のため逝去した前当主クィヒリの喪中であったが、そんなことは言ってはいられない。
「小屋と天幕を用意してある。家族者は小屋に入れ。独り者は大天幕だ。このような事態だ、我慢してくれ!」
 避難民でごったがえす中、当主ヘクトール自ら陣頭に立って、整理に当たっていた。
「ヘクトール様!」
 シュレイが駆け寄ってくる。
「分家の方々、それからギンヌワ様の御実家より、不足分の薬と食糧、天幕が届きました」
「ありがたい。養父上の御遺徳の賜物だ。すぐに屋敷に運び入れさせてくれ」
 闇の領域が、急速に拡大している。その知らせは衝撃であった。しかしそのような急変に面したことにより、一族の結束を固めることができたのは皮肉でもあり、不幸中の幸いでもあった。クリルヴァの件で一族中の不協和音が心配されたが、大事の前の小事である。
(辺境は、どうなるのだ・・・・)
 ヘクトールが自問自答する。クトルトルの宗主となった己れの双肩に、辺境の民の安寧がずっしりとのしかかるのを感じていた。
(ベクェィクト様、養父上・・・・お見守りください・・・・)

◆再び、イーバ滝
 大雨の日であった。
(・・・・!)
 強烈な負荷。
「なん・・・・だ・・・・!?」
 盲いたイルイラムが、小屋の中にしつらえた祭壇の前でうめきに近い声をあげた。自分の張り巡らした結界が、恐ろしいほどの力でもって押し潰されようとしている。
「闇か! 闇の領域が広がっているというのか!?」
 イルイラムの叫びを聞き、小屋の中に待機していた呪人が慌てて詠唱に加わる。
「力を貸してください! このままでは、結界が崩されます!」
 その間にも、ほとばしるように寄せる闇の波動に、結界がどんどん押し縮められてゆく。
(チュネクウラ様、何とぞ、御加護を!)
 イルイラムが渾身の力で念じる。結界を施してしばらく経つが、闇の圧力をこれほどまでに感じたことは一度として無かった。まるで何か留め金でも外れたかのように、闇がこちらへと流れ込んできている。
(保ってくれ!)
 寸前。変事に気づいた他の呪人たちが、小屋に飛び込み、呪言を詠唱しはじめる。
     *      *
 イルイラムの結界は、滝壷ともっとも近い集落一つを残して押し潰された。持ち堪え得たのは、わずかにそれだけである。イルイラムをはじめとする滝の呪人たちは、闇に対する人間の無力さをまざまざと見せつけられた。
「残念だが、滝を・・・・捨てよう」
「このままでは仮に結界が残ったとしても、闇に取り残される」
 近辺の集落から避難してきた呪人たちの話によれば、周囲にはンギばかりでなく今まで見たことも無い奇妙な魔族たちが跳梁し始めているという。
 苦りきった顔を寄せ合い、呪人たちが口々に言う。
「生きて闇の領域を抜け出せるかどうかはわからんが、ここに居続けてもどうにもならないのは確かだ」
「イルイラムさん、ネタニ川を下ろう。あんたの結界には感謝しているが、こうなってはどうしようもない」
「行き先は?」
「闇でなければどこでもいい。とりあえず、ジュッタロッタを目指そう」

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