◆ティカン神殿近辺 クンカァン軍占領下のティカン。累々と積み重ねられていた死者の遺骸も既にいずこかへと片づけられ、再び以前のような厳粛さを取り戻していた。・・・・神殿を守る兵士たちが、ウラナング神聖兵団のものではなくクンカァンの軍装を身につけていることを除けば、であるが。 ティカンを中心とする上下ウラナングを制圧下に置いたクンカァン兵たちの規律は意外なほどに厳しく、不審者や反抗の意志を露にする者以外の市民に対して刃を向けたり、略奪を重ねたりといった蛮行は慎まれていた。それもこれも、その桁外れの武勇という恐怖をもって軍を統率するクルグラン王の威光によるのであろう。 しかしながら、こと大魔軍のブレギンリをはじめとする魔族たちとなると話は別である。下ウラナングの町並みを闊歩する得体の知れない魔族たちは、自らの破壊衝動、食欲、そして繁殖の欲求を満たさんがために、視界に入った無辜の市民たちを襲い、餌食にしていた。四百年の繁栄を誇った娼家・妓院も打ち壊され、数知れぬ男女が犠牲となった。それだけではない。たまたま運悪く魔族の目に留まってしまった小児も若者も老人も、みな等しくなぶられ、さいなまれ、辱められ、殺され、喰いちぎられ、打ち捨てられた。かつて人であった血塗れの肉塊が、大路小路のそこかしこに放置され、まだ使えそうなものはクンカァン軍の兵士が回収して行った。言うまでもない。その屍を用いて、腐敗の軍団を補充するのだ。 下ウラナングからの風が腐臭と血の匂いを運んで来るティカン。そこを目指してクァグヴァルは走っていた。先日、死体となって忽然と現れたナッフの魂を再びその身体に戻す術を突き止めるため、わずかな望みをティカンの神人たちに賭けて。 ・・・・クァグヴァルは知らなかった。ティカンが制圧された直後、捕虜となったほとんどの神人たちがクルグラン王の命によってどこかへ連行されていたことを。そしてクマリの行方も杳として知れず、クンカァン軍すらもその確たる手がかりを得ていないことを。しかし、そうとは知らぬクァグヴァルは、路地裏の抜け道を馳せた。ただ、相棒であるナッフを救わんがために。 そのクァグヴァルの姿を目ざとく見つけ、注進する者がいた。ティカン周辺の巡検を行っていたクンカァンの近衛部将クルーデルの部下である。 「ほう? 密偵らしい男?」 詰所で報告を受けたたクルーデルの氷のような冷たさをたたえた瞳が光る。 「は、傷を負ったようなふりをしておりましたが、怪我人とは思えぬ足取りで路地を駆けております。おそらくはティカンに向かうものかと」 「よし。残党狩りだ。続け!」 クルーデルが酷薄そうに唇を歪め、地図を取り出すと配下の兵たちに命じた。注進してきた兵の案内で、ティカンに向かう小路の出口という出口に兵を置き、曲者の退路を押さえさせる。自らも魔槍ラヴァーナを掴むと、数名の兵士を率いて詰所を出た。 ひたひたと寄せる異様な殺気に、駆けていたクァグヴァルが気づく。 「しまった!」 囲まれた。迂闊であった。 「足労だったな。ティカンに何の用だ? 俺が取り次いでやろう」 部下数人を従え、クァグヴァルの進路を塞ぐように姿を現したクルーデルが、皮肉たっぷりに言う。 「く・・・・!」 咄嗟に逃げ道を探すべく振り返ったクァグヴァルであったが、次の瞬間にその望みも絶たれたことを悟った。脇道から、鎧の擦れる音が聞こえる。別の兵がこちらに駆けて来ているのであろう。 クルーデルは槍の鞘を払い、凶々しい輝きを放つ穂先を露にすると、不敵にクァグヴァルに向かって踏み出した。狭い路地であるが、突き技に自信のある槍遣いにとっては決して不利な場所ではない。的が左右に避けにくい分、却って自らの利とすることができる。 「覚悟を決めろ。陛下の御前で拷問にかけてやろう」 冷たい声音でクルーデルが言った。 「それとも、ここで魔槍ラヴァーナの餌になってくれるか? まぁ、俺にとってはどちらでもいいがな」 クァグヴァルの背後の兵たちが、じわりと距離を詰める。 (この男とまともにやりあっても、勝ち目はあるまい。どうする?) 目の前に立ちはだかる男のただならぬ力量を読んだクァグヴァルが、ちらりと後ろに目をやる。 (手薄は・・・・右か!) ひらりと身を翻し、クァグヴァルが駆け出した。 「逃がすな!」 クルーデルが鋭く命じる。 「どけぇ!」 突き出された穂先をくぐり抜け、クァグヴァルがさっと兵士の懐に入り込む。 「死ね!」 いつの間にか鞘を離れていた短刀が、兵士の喉元をえぐる。絶叫と共に派手に血をまき散らして兵が倒れた。その脇をクァグヴァルが全速力で駆け抜ける。 「ラヴァーナ! 奴を貫け!」 クルーデルが魔槍を大きく振りかぶると、逃げるクァグヴァルの背中に向かって渾身の力で投じた。クルーデルの手を放れた魔槍は、一直線にクァグヴァルの背中を目がけて飛ぶ。 (クァンよ! 加護を!) 思わず念じるクァグヴァル。途端、槍が何か強い横風でも受けたかのように不自然に流れた。 「なに!?」 クルーデルが目を疑う。一瞬後には曲者の背中を貫いているはずであったラヴァーナは、横に逸れて民家の壁に突き立っていた。決して横殴りの突風など起こりようもない路地裏の出来事である。 「・・・・逃がすな! 上ウラナングから抜け出せる通りは全て塞げ!」 悔しげな表情で吐き捨てるように命じると、クルーデルが突き立った愛槍を引き抜く。 「奴には、神の加護でもあるのか?」 ◆下ウラナング 少年盗賊団の隠れ家。雨季である。腐敗の神モヒトの支配する時期である。湿気がひどい。この隠れ家に安置してあるナッフの屍は、一月を経過して腐敗が進行し、崩れかけ、四肢は膨張し、もはや耐えきれないほどの悪臭を放っていた。しかし屍が発する腐臭によって、この隠れ家が見つけ出されるという心配は、無さそうであった。街にはあちこちで殺された犠牲者の死骸が、それ以上の死臭を漂わせているのだ。 ブゥンムナの提案で、ナッフの死体が腐らぬようにまじないを施してくれる呪人を探してはみた。しかし周辺の呪人たちはほとんどがウラナングを落ちのびるか殺されるかして、不在であった。そもそも、いかに裏道に詳しい少年盗賊団とはいえ、魔族がそこかしこにうろつきまわる下ウラナングをそうちょくちょく出歩くわけにもいかない。その場に居合わせた呪人、スジャーター、ツィツィアも、すでに別のまじないの準備に入っており、今更腐り止めのまじないに切り替えるわけにはいかないと言う。 「何てことだい・・・・」 上ウラナングから命からがら逃げ帰ってきたクァグヴァルの話を聞き、ジーソーが嘆息する。 「到底、あのティカンに入り込むのは無理だ。婆さん、あんたは下肥汲みに化けるとか言ってたが、そんな小細工は通じるまい」 「婆さん!」 落し戸を引き上げ、モップが外から顔を覗かせた。 「ファルコが戻ってきた! 連れの連中も一緒だ!」 「そうかい、早く入らせな」 モップ、メシュラム、ゲニフェらに続いて、ファルコとナージャ、カビタン、ヴィルメル、アプールヴァらがぞろぞろと入ってくる。・・・・ひどい悪臭に表情を歪ませながら。 「ジーソー婆さん、生きてたんだ!? ナッフは?」 ファルコが勢い込んで尋ねる。 「そこだよ」 ジーソーが安置されたナッフの亡骸を指差す。ファルコをはじめとする一同が思わず息を飲む。 「死んじゃった・・・・のか?」 じわり、とファルコの目に涙が浮かぶ。 「泣くんじゃないよ。ファルコ。みんなでナッフを生き返らせる方法を探すんだ」 ジーソーが言うが、腐乱した死体を前にして、カビタンが嘆息した。 「手後れだったかも知れません・・・・。私がラノート様より伺ったところでは、魂が戻る前にその者の身体が損なわれるような事が有れば、死んでしまうということでした。イーバからの道々何度も魂を探すべくまじないをしてみましたが、まるで見当もつかなかったのはそのせいかも知れません」 「じゃあ、もう無理だって言うのかよ!」 苛立っているモップがつっかかる。このところゲニフェ、メシュラムとともに短剣を奪いに来るであろう追手のための罠をずっと張っていたのだが、どうやらその相手が現れる気配はない。徒労感が、モップを攻撃的にしていた。 「仲間でもないお前たちの言うことなんか信用できるか!」 「モップ、やめな。この隠れ家に入ったら、みんなあたしの孫だってのを忘れたのかい?」 「・・・・」 ジーソーがなだめる。 「ファルコ、パイシェは一緒じゃなかったのかい?」 「うん・・・・。一緒に来たんだけど、行くところがあるって、ウラナングに入るところで別れたんだ」 「そうかい。あの子も裏道は知ってるだろうから、ヘマはしないと思うけど、心配だねぇ。で、そっちの娘さんは?」 「あ、ナージャって言います」 「ナージャさん、ここまで来るのに姿隠しのまじないとかしてくれたんだ。だから大勢でも見つからなかった」 「礼を言わなくちゃならないねぇ」 ヴィルメルはと言えば、腐りかけたナッフの脇に座り込み、呆然とした表情をしている。 「・・・・こんなに・・・・なって・・・・」 ナッフの眼球の裏側から、何匹もの蛆虫がもぞもぞと這い出してくる。 「!」 思わず身を引いたヴィルメルに、スジャーターが声を掛けた。 「あなたは?」 「あ・・・・。失礼しました。ヴィルメル、と申します。このナッフの一族の者です。一目会おうと思って来たのですが・・・・、こんなことになっていようとは」 「あたしが迂闊だったんだよ」 ジーソーが力無く言う。 「もっと、周りに気を配るんだった。あの滝には、何だか物騒な連中が随分いたからねぇ」 「・・・・どうするべきか。スジャーターとともに準備はしていたが」 沈黙を守っていたツィツィアが口を開いた。 「目的の魂が見つからず、受け皿となる身体もこれでは、反魂も施しようが無い。考え方を変えなくては、な」 静かな歌声。 ヴィルメルが、腐りかけたナッフの右腕を取り、小さな声で唄っていた。 (私の命が必要とあらば、喜んで捧げます。神よ、彼を、ナッフをお救いください・・・・!) 眠れ 母の腕に抱かれ 眠れ 父の背に負われ 父は目を細める お前の寝顔を見て 母の歯がこぼれる お前の寝息を聞いて 眠れ 目覚めの時まで 眠れ いと安らかに カビタンにも聞き覚えが有った。自分とナッフとヴィルメルの故郷、クンカァンの古い子守り歌であった。 「・・・・?」 ヴィルメルの歌声が途切れた時、ジーソーの大きな耳が、細かな地鳴りのような音を拾った。 「なんだか、妙な音がしないかい?」 「そういえば」 ゲニフェが咄嗟に床に耳を当てる。 「違うな」 「あ!」 スジャーターが声を上げた。 「鐘が!」 しっかりと紐で腰に結わえていたキレニの鐘が、何か別の音に共鳴でもしているかのようにびりびりと震えていた。 「どういうことだ?」 メシュラムが尋ねる。 「外の様子を見てくる!」 モップとファルコが立ち上がり、階段を上って落し戸を持ち上げる。 途端、鋭い冷気が流れ込んでくる。この場にいる誰もが体験したことの無い寒さ。 「!」 「あ!」 外に飛び出た二人が驚きのあまりに空を見上げる。舞い落ちてくる、白くて冷たいもの。誰も住んでいないずっとずっと北の地方で降ると言われる、雪というものであろうか。相当な高山であるならばともかく、このような平地で、しかも一年のうちでもっとも蒸し暑い今の時期に降るとは、通常考えられないできごとであった。 「みんな! 来て!」 ファルコが叫ぶ。 「雪、雪が!」 隠れ家から出てきた全員が全員、ぽかんとした表情で降りしきる雪を見ていた。今までお伽ぎ話や眉唾物の旅行記などでしか聞いたことの無かった雪というものが、こうして目の前に落ちてきている。手で触れるとひどく冷たく、すぐに融けてしまう。 「長生きしてきたけどねぇ・・・・、こういうことは初めてだよ」 ジーソーが言う。 「何か・・・・起こるの?」 鐘が震えたことに不安を覚えていたスジャーターが呟く。 すぐそばに、何かいる気配。 「え?」 「・・・・ナッフ!?」 「どこだ!」 ナッフと面識のある面々には、すぐに察しがついた。彼が、そこにいる。 「姿を見せてくれよ、ナッフ!」 モップが叫ぶ。 「ナッフ!」 ファルコが虚空に向かって呼びかける。 《久しぶりだ・・・・。モップ、ファルコ、婆ちゃん》 「ナッフかい!? ナッフなんだね!?」 半狂乱とも言うべき形相で、ジーソーが叫んだ。 《そうだよ。おいらだ。さっきラノート様に見つけてもらったんだ。今もラノート様の力で声を出させてもらってる。みんな、よく聞いてくれ。おいらは、あの身体にはもう戻れない。最初にあの槍傷を受けた時に、もう駄目だったんだ》 「悪かった、悪かったよナッフ! この婆がついていながら」 ジーソーが泣き喚く。 《婆ちゃん、もういいよ。実を言うと滝の北の森でンギを追っ払った時からのこと、おいらまるで覚えてないんだ。それより、話の続きだ》 ナッフらしい声は、姿を現さぬまま続けた。 《ティカンの中に、一つ入れそうな身体が有るみたいなんだ。おいらの魂を引きつけるような力が出てる。その身体に入ることができれば、生き返られるかも知れない。でも、同じ身体を別の誰かが狙ってるんだ。もとは一つだった奴の片割れだ。そういつが今もう入り込もうとしてる。でも半分だけだ。もう半分もこっちに向かってるみたいだけど、両方入っちまう前においらが入れれば、身体はきっとおいらのものになる》 「ティカンの、どこにあるんだ?」 《わからない。今まで地面の中にあったみたいなんだ。形も、色も大きさもわからない。ただ、まだ空っぽだってことだけは伝わってくるんだ》 「わかった。この婆がなんとかしてやるよ。可愛い孫の頼みだからねぇ」 《すまないな。婆ちゃん》 〈一同、判ったな〉 別の、低い声が言った。 「ラノート様!」 カビタンが声をあげる。 〈おお。遠路苦労だった。が、また一働きしてくれるか。この小僧を、お前たちの後について行かせる。その身体まで案内してやれ〉 「はい」 〈うむ。急げよ。小僧をとどまらせておけるのは、あと一月が限度だ〉 ラノートの声が消えるのと同時に、ナッフの気配が弱まった。そこにいるのではあろうが、力を借りられなくなることによって声を出すこともできなくなったのであろう。 そして、雪。 「ティカン・・・・か」 クァグヴァルが頭をゆっくりと左右に振る。 「あんな男がいくらもうろついてると思うと何だが、ナッフの頼みとあっちゃな」 「・・・・!」 その時、伝わってきた気配の波に揺らされるように、スジャーターの腰の鐘が再び揺れた。 「他の楽器が鳴ってるの!? 何なの!? 凄く大きな何かの気配・・・・何か起き出そうとしてる!」 |