第6回 C-1 首都ジュッタロッタ


◆ジュタロッタ風聞
 ウラナング連合の事実上敗戦の報が届いて以後、ジュッタロッタの空気は重苦しい。援軍を送ろうにも、先日流れたクトルトル謀叛の噂は根強いしこりとなって王宮にも城下にも残っている。しかし、これ以上王軍を動かせない理由は何よりもヴラスウルの経済的事情に有った。国庫にはもはやギリギリの備蓄しか残されていないという話がまことしやかに囁かれていた。
 それでも王族の一人クゥリウ(実際には削籍処分により一平民であるが)や、王宮より戦勝祈願の依頼を受けたネゴ神教の幹部たちが戦場に赴いた。出立の日、斬りつけた側と斬られた側が相前後して首都を発つのを、住民たちは奇異の目で見送った。
 なりふり構わないというのが、聖都攻防戦に関わる一連のジュッタロッタの反応である。先に送った二千という兵数だけでも、国力からして過剰であった。同時期に派遣したハンムーやヴォジクの例に比すれば、それははっきりと判ることである。
 しかし、それだけの兵を動かしながら、結果として無残にも一敗地に塗れた。王軍総督ククルカンの責任を追求する声も上がっていたが、女王はそれについて議することすら許さなかった。それどころか、一時は女王自身がウラナングに遠征する案をも左右に諮っていたほどである(さすがに群臣の引き止めによって沙汰止みになったのであるが)。
 ハンムー、ヴォジク国内の動乱もあり、戦乱を避けて聖都から流入する難民の数は増え続けていた。非生産人口の増加が、今後の国内情勢、特に財政に与える悪影響を指摘する財務官もいる。事実、クタ周辺では難民たちが匪賊化し、討伐の最中に太守が負傷するという事件も起きていた。
 ジュッタロッタは平和である。しかしその平和は、戦場になっていないというだけに過ぎない。聖都から漂ってきた暗雲が、この国にも影を落としつつあるのは間違いの無いことである。

◆護民兵詰所
 フルハラングら護民兵の連日の市中巡察により、ジュッタロッタの平穏が保たれていると言っても過言ではない。殺伐とした世相を反映し、また難民たちの流入のために悪化しつつある治安は、辛うじて護民兵たちの尽力によって維持されていた。
「来たか、ルヴァーニ」
 その中でも、特に精力的に巡察を行い、犯罪者たちから恐れられているフルハラングが、立ちあがって来客を迎えた。
「見つかったのか?」
 一双の短刀を腰に吊るした女武芸者が尋ねた。
「見つかったってわけじゃないがな。身元が割れそうだ」
 女武芸者・・・・ルヴァーニが懐から折りたたんだ似せ絵を取り出す。先日の孤児院襲撃の際、斬り合った女刺客の面影が描かれている。月光のもとで見ただけだが、輪郭や顔立ちの特徴は捉えているはずであった。
「どこの、どんな奴なんだ?」
「ちょっとばかり厄介かも知れんぞ」
 フルハラングが腕を組みながら言った。
「クリルヴァって人を知ってるか? 陛下の御一族だ」
 ルヴァーニがぎくりとする。同じ烈風会に名を連ねる同志である彼の名が、なぜここで出てくるのであろう。
「ジュッタロッタじゃ、評判の良い人だよな。しかし」
 ぱん、とフルハラングが指で似せ絵をはじく。
「この女に良く似た使用人が出入りしてるそうだ」
「事実か?」
「近所の連中とか、出入りの商人たちも見覚えがあるようなことを言ってる。今のところ、一番臭いのがここってことだ」
「そうか」
「それだけじゃない」
 フルハラングが続けた。
「直接関わり合いのあることか判らんが、ちょっと前から喧しかっただろう。『クトルトル家が謀叛する』ってな。あれの出所も、ここだ。噂を流してた奴らを拷問してやったら、吐きやがった」
「では」
 ルヴァーニが記憶を辿るような表情をしながら訊いた。
「この前の孤児院を襲った奴らは何と言ってる? あの連中が直接の雇い主の名前を言えば」
「駄目だ。散々拷問してやったんだがな。女に金で雇われたってだけだ。あの女、自分のことは何も言わなかったらしい」
 考え込むルヴァーニ。
「報告書、できました」
 詰所の奥から書記らしい男が顔を覗かせ、フルハラングに声をかける。
「そうか。悪いがルヴァーニ、俺もこれから今回の件を報告しなくちゃならないんだ」
「邪魔をした」
「また何か有れば来い」

◆ジュッタロッタ・商館
「おぅ、メルナグの」
「久しいな」
 ジャヌンジブが姿を見せると、顔なじみの商人たちが声をかけた。
「どうです? 景気は?」
 ジャヌンジブが、四十になったばかりという割には皺の目立つ顔で言う。
「駄目だな」
「ほぅ? 戦時こそ稼ぎ時ですよ。ヴォジク人ばかりが商人ではないことを、今こそ見せようじゃありませんか」
「ジャヌンジブよ。お前、本気で言ってるのか?」
「大真面目ですよ」
 茶を啜っていた別の商人が呆れながら言う。
「品物が入って来ないんだ。ヴォジクの筏がみんなハンムーかそのあたりで停められちまってる。陸路で入ってくる荷なんか知れた量だ。お前がいかに商い上手といってもな、これじゃとうてい商売にならん」
「そうだ。ハンムーとヴォジクがゴタゴタやってるらしいが、あの騒ぎが収まらんうちは商売どころじゃないぞ」
「では、ジュッタロッタの荷をクタ経由でメシナルに送っては?」
「何年商売やってるんだ? 雨季だぞ?乾季でも馬車じゃあの森と山を越えるだけで精一杯だ。それにな、あのあたりはハンムーから逃げてきた連中とか、蛮族だとか、そういうのが居座って追い剥ぎまがいのこともやってるらしい。そういう話は耳に入ってないのか? お前らしくもない」
「ほう。そこまで」
 ちょっと目論見は外れたが、商館に顔を出しておいて良かったのかも知れない。無理に商隊を出していたら、いくらメシナルに伝手が有るとは言え、辿り着く前に大きな被害を受けることになっていただろう。
 ジャヌンジブはそう自分に言い聞かせたが、しかしすぐに代りの案が浮かぶというわけでもない。
「仕方がありませんな。まぁ、じっくり他の儲け話を探すとしますか」

◆王宮・女王の私室
「ダッシャア」
「は」
「何です。これは」
 椅子に腰を下ろしたミカニカが、一通の書状をダッシャアの前に突き出す。
「御覧になられた通り、代りの者が見つかり次第、職を辞させていただきたく」
「なりません」
 女王の威厳をたたえ、ミカニカがぴしゃりと言う。
「ありがたきお言葉。されど」
「些細なことです。このようなことで、クテロップの遺命に背くつもりですか」
「・・・・」
「辞職など許しません。ヴラスウル国王の衛士長が、余人に務まりますか」
「・・・・は」
「それよりも、報告は」
「これに」
 ダッシャアが卓の上に地図を広げ、最小限の言葉で現在掴んでいる情報を説明してゆく。
 ウラナングの敗報に触れると、ミカニカの表情が途端に険しくなる。
「よく戦ったのは判ります・・・・しかし、やはり我が国には大軍の采配ができる将領が育っていないということですか」
 無言のダッシャア。
「クゥリウだけでは心もとない。と言ってもはや他に動員できる兵も無し・・・・」
「クトルトルより」
「クトルトル?」
「は。家督を継いだヘクトール殿が近々五百の兵を率い、挨拶方々都へ上られるとの旨、書状にて。その足で聖都救援に向かわれるものかと」
「クトルトルが、動いてくれますか」
「・・・・おそらく。それについて一つ」
「何です?」
「ジュッタロッタ及びセイロにて、クトルトル謀叛の流言を放った元凶、判じてございます」
 ミカニカが整った眉根を寄せる。
「御一族。クリルヴァ殿と」
「・・・・事実ですか」
「複数の証言により」
「判りました。退がりなさい」
「は」
 武人の立礼で会釈し、ダッシャアが退出する。
     *      *
「陛下」
 二人の女性が、私室を訪れた。
「揃って来るとは珍しいですね。アイシャ、マウカリカ。」
「はい」
 ミカニカより五つ年長のアイシャ。三つ年長のマウカリカ。即位前のミカニカを交え、かつては王宮でともに遊び、学んだ三人であった。
「何の御用です?」
「あの・・・・」
 マウカリカが、言い出そうとして口篭もる。
「?」
 ミカニカが怪訝そうな顔でマウカリカを見つめる。
「アイシャ、あなたは?」
「この前のお話の、続きを」
「この前の?」
「はい。誰かに支えて欲しい、側にいて欲しい、という」
「あ、あの。私も、その、陛下はどんな男の方がお好みか、伺おうと思いまして」
 マウカリカが意を決したように言う。
「陛下も、もはや十二の年を過ごされました。私どもで宜しければ、御相談承りたく」
 男装のアイシャがやけにかしこまった口調で言った。
「ほら、例えば陛下の親衛隊の」
 マウカリカがそう言った途端、ミカニカの顔が一瞬真っ赤に染まった。しかし次の瞬間には青ざめるほど血の気が引く。
「な、何を言っているのです、 あなたたちは! カジフがどうだろうと、私には関わりの無いこと! 私には国王としての務めがあります!」
 即位後まれに見る女王の狼狽ぶりであった。はっと我に返ったミカニカが、取り繕うように言う。
「ウラナングでは我が軍の将兵のみならず、連合国各国の兵が苦戦し、命を落としているのですよ! 不謹慎な!」
「御無礼をいたしました。陛下」
 アイシャが早々に退散する。
「マウカリカ、あなたはまだ何か?」
「はい」
 妹を見るような優しい目でミカニカを見つめていたマウカリカであったが、真顔に戻って言う。
「護民兵フルハラングよりの報告でございます」
「言いなさい」
「先日、ミトゥン神殿の孤児院を襲った女が、クリルヴァの邸に出入りしていた形跡があるとのことです」
「・・・・何の目的かは判りましたか?」
「残念ですが、そこまでは。」
「苦労でした」
「陛下には、くれぐれもお気を付け下さるようお願い申し上げます」
「判っています」
     *      *
「陛下」
 髭の重臣が侍女に導かれて部屋に入って来る。
「ヴォジクより、使者が参っており申す」
「バーブック王のか・・・・用向きは?」
「いや、シムセなる者の使者にございます」
「シムセ? 聞かない名だが、何者か?」
「成り上がりの商人貴族にございます。もとはバーブック王の汚い仕事を請け負っていた刺客と聞いており申す」
「本人が来ているのか?」
「いえ。シムセの妹シャハナと申す者にて、宮廷の作法に通ぜぬ女が」
「大した思い上がりだ。会う必要も無い。書状は?」
「これに」
 重臣が差し出した書状に目を通していたミカニカが、顔を上げる。
「ふん」
「いかがされましょうか」
「ハンムーもヴォジクも暢気なものだ。ウラナングが今や陥落寸前と言うのに」
「は」
「ハンムーには、アッカーンとテララッハが行っていたな。暇が会ったら婚礼に顔を出しておけと伝えよ」
「は。しかし両名とも、かの国の動乱に巻き込まれた様子にて、しかと所在が掴めませぬ。連絡がつき次第、伝えさせましょう。・・・・それから、シャハナなる女、財物を献上したいと申し、かなりの額を持参しておるのですが」
「・・・・突き返せ。ウラナング救援の軍資金にせよと言ってな。そもそも、慶賀の使者を送ってよこせと言っておきながら、なぜそのような物を持って来る? 本来ならばこちらが贈らねばならぬところであろう」
「まことに。・・・・しかし陛下、恐れながら我が国庫は今、未曾有の」
「金が無いのは承知している」
「は。ならば」
「ヴォジク商人から物を貰っておいて、それ以上巻き上げられなかった例は無いであろう?」
「は」
     *      *
「陛下」
 禿の重臣が侍女に導かれて部屋に入って来る。
「クリネベシンなる者、陛下へのお目通りを求め、王宮に参っております」
「例の妓院の主人か」
「二度目でございますな。控えの間にて待たせておりますが、いかがなされます」
「帰らせよ」
「は。しかし陛下」
「何か申すことがあるのか」
「我が国に益ある進言をしたいと申しております」
 少し思案をする様子だったミカニカが言う。
「通せ」
 やがて、侍女に付き添われて二十代後半とおぼしき男が姿を見せる。
「クリネベシンにございます。玉顔を拝し奉り、光栄に存じます」
 男が如才なく、しかし決して卑屈ではない微笑を浮かべながら拝礼する。
「私に進言とは?」
 ミカニカが値踏みをするような視線をクリネベシンに向ける。
「はい。このクリネベシン、聖都にては少しばかり名の知られた商人にございます。その名を使い、微力ながら陛下のために尽力させていただきたく」
「ほう?」
「聖都に住む名工、学究、賢者を、このヴラスウルに呼び寄せたく存じます。聖都が戦火に見舞われた今、安全なヴラスウルに迎えるとあらば、こぞってやって参りましょう。何と申しても国の基は人材にございます」
「・・・・」
 しばらく無言でいたミカニカが、おもむろに口を開く。
「退がれ。時を無駄に過ごした」
 ミカニカが不機嫌そうに言う。クリネベシンはそれでも微笑を崩さずに尋ねる。
「恐れながら陛下、私めが何か御無礼を致しましたでしょうか?」
「・・・・」
「陛下、御無礼が有りましたならば、伏してお詫び申し上げます」
 ミカニカが見下した口調で言う。
「我らヴラスウルの火急の務めは、賢人を招くことではない。聖都を救うことだ」
「・・・・は」
「聖都が陥ちては、いかに賢臣が揃ったと言え、このヴラスウルは立ち行かぬ。商人風情の浅慮に耳を貸したのが間違いだった。衛士、この者を退がらせよ」
     *      *
「陛下」
 白髪の重臣が侍女に導かれて部屋に入って来る。
「司厩官のメ・ブよりの上奏文にございます。我ら重臣連にて合議致しましたが、陛下の御判断を」
 侍女の手を経て渡された書状を広げ、ミカニカが目を通す。
「・・・・なるほど」
「確かにメ・ブの申す通り、内庭は現在のところほとんど手も入っておらぬ空地にございます。されど、そこを整地して練兵場造成となると、いささか費用のほうが・・・・」
 書状の末尾に付された軍馬の状態に関する記録まで読み終えて、ミカニカが顔を上げる。
「・・・・良く馬を見ているようだな。メ・ブは」
「は」
「練兵場の拡張は、いずれせねばならぬこと。その点については承知したと伝えよ。早くとも、この戦争が終わらぬうちにはそれにかかる費用が捻出できぬ。今は軍費がいくらあっても足りぬ」
「メ・ブには左様に伝えまる」
 無言でミカニカがうなずく。
     *      *
「陛下」
 赤ら顔の重臣が侍女に導かれて部屋に入って来る。
「クリルヴァ殿が面会を申し込まれておるのですが」
「クリルヴァが?」
 ミカニカが幾分緊張した面持ちで聞き返す。
「いかがなされましょうや?」
 当然、ヴラスウルの重臣の一人として、この男も一連のクリルヴァにまつわる疑惑を承知しているのであろう。苦り切った顔で続ける。
「クリルヴァ殿には、このところあまり芳しい評判を聞きませぬ。亡き摂政殿下も憂慮なされていた様子」
「・・・・」
「このところは妓院から落籍せた女と日夜宴を催しておるとか」
 きっぱりとミカニカが言う。
「所労のため会えぬと伝えなさい。いずれ時間が取れれば、こちらから使者を出すと」
「承知仕りましてございます。それから」
「他に何か?」
「先日、遊学よりキサナ殿が戻られましたが」
「ああ。挨拶に来ました」
「キサナ殿も、どこかでクリルヴァ殿の風聞を耳にされた様子。我らのもとに来て、それについて少し話をいたしました」
「それで」
「いえ。それだけでございます。国外にも、クリルヴァ殿の不穏な動きが伝わっているとなると、やはり毅然とした御決断が必要となるやも知れませぬ」
「判りました」
「では、私めはこれにて」
     *      *
「陛下、御無沙汰をしております」
 一礼したルヴァナが、ゆっくりと入室する。
「大変だったそうですね」
 ミカニカが声をかけた。
「はい」
 ルヴァナが眉を曇らせる。
「されど、幸いにも子供たちに被害はありませんでした」
「それは重畳」
「その子供たちのことでございますが、陛下」
 ルヴァナが真剣な表情で言う。
「一人、気になる子供がいるのです」
「どういう子供です?」
 ルヴァナが、ほんのわずかではあるが逡巡する。
「ソジ王の孫と思われる子供で、名はンニンリと言います。できれば私がこの子供の後見人となり、守ってやりたく存じます。ついては、そのための兵をお貸し願えませんでしょうか?」
 ミカニカが表情を動かさずに言う。
「ハトラの遺児ですか。確たる証拠は?」
「・・・・いえ。しかし、そうとしか考えられず」
「スキロイルに、ハトラの遺児を保護せねばならないいわれは有りません。今は一兵でも惜しい時期です」
 冷酷ともとれる表情でミカニカが続ける。
「その子供の後見人になるのは、ルヴァナ、あなたの勝手ですが、ハトラの遺児を生かしておくのは、我らスキロイルの一族にとって禍根となりかねないことを胆に銘じておきなさい」

◆王宮・書庫
「へぇ、こんなに書物がねぇ・・・・」
 辺境からジュッタロッタにやってきたキュイとシャーン。キュイの昔のよしみで閲覧を許してもらった大書庫に入っての、シャーンの第一声がそれであった。何分にも山奥での暮らしが長かったため、読み書きこそ教わってはいたもののこれだけの竹簡書を一度に目にするのはこれが初めてであった。
「ほとんどがセモネンドの頃のものですね。もっともヴラスウルは建国して三十年そこそこですから、当然と言えば当然ですが」
 キュイが積もった埃を払い、早速書物を紐解き始めた。
「辺境でンナカーの事跡を調べようと言うのがそもそも無理でした。ンナカーの時代にはあのあたりは密林のまっただ中のはずですからね」
「それもそうだ」
 シャーンがうなずく。辺境の年寄りにンナカーの話を聞いて廻っていた(成果は全くと言って良いほど無かったのだが)シャーンに、王宮行きという非常に魅力的な提案をしたのはキュイであった。司書官をしている友人に頼めばセモネンド時代からの史料を見ることができるというのだ。
「さぁ、これに一通り目を通すだけでもかなりの時間がかかるはずです。無駄無く読むことにしましょう」
「ああ」
 ・・・・・・・・・・・。
 シャーンとキュイの書庫通いは、数日に及んだ。そのある日。
「・・・・これは?」
 キュイが竹簡を広げる手を止める。神聖ウラナング成立前後の、セモネンド国の外交資料である。
「何か有ったのか?」
 シャーンが自分の担当していた竹簡から目を離し、キュイに尋ねる。
「見て下さい」
 キュイが広げた部分の文面を読んでいたシャーンが怪訝な顔をする。
「差し出す? キュイ、この部分、何を差し出すと言ってるんだ?」
「・・・・ンナカーその人ですよ。魔族・・・・いや、闇にンナカーを差し出すという密約です」
「おい! どういうことなんだ!」
 キュイが冷静な口調で答える。
「整理して話します。この前後、オロサス家と頻繁に書状の往来が有ります。内容は、迫り来る闇の領域への対策です。これは当時の事情に鑑みて当然でしょう」
「それで?」
「オロサス家、つまりはクンカァンですが、もはや闇に飲み込まれる寸前といったところなのです。起死回生というか、苦慮の末というか、つまりはこの策によって事態を打開しようとしたのではないでしょうか。クマリを闇に差し出す、ということで」
「何でそれが解決策になるんだ?」
「・・・・そこまではこの文書からは判りません。しかし、この策が採られたかどうかはともかく、神聖期二年までに実際に闇の領域は退いているのです」
「もし、その通りにンナカーが差し出されたんなら、病気で死んだってのは嘘っぱちってことか?」
「はい。そして・・・・これはあくまで憶測ですが、第二次ウラナング同盟とは、とりも直さずンナカーを差し出した元首たちの秘密同盟だったのかも知れません。クマリが血縁相続でないのも、ンナカーの遺族の報復を恐れたために、そう定められたという可能性も有ります」
「・・・・」
「もう一つ」
 キュイが声を低める。
「オロサス家の案に同調して、王にンナカーを差し出させるよう働きかけているセモネンドの重臣らしい人物たちの名が何度も出てきます」
「どういう奴らだ?」
「・・・・迂闊に口外しないで下さい」
 キュイのただならぬ雰囲気に、シャーンが黙ってうなずく。
「すべて、スキロイルの一族」
「スキロイル?」
「そう。・・・・我がヴラスウル王家の先祖に、間違いは無いでしょう」

◆クリネベシンの妓院
 ミィミキプの機嫌が恐ろしく悪い。仲間の妓女たちも、こんな時の彼女には決して声をかけたりはしないのだ。
「あぁぁ、あの旦那について来てあげたのは間違いだったかしらねぇ・・・・」
 長煙管をくゆらしながら、呟く。客が来ないのはまだしも、主人クリネベシンのする事が気に食わない。
『死人に体は売れん。ここに客を呼び、国を動かす女になれ』
 クリネベシンが言ったこの言葉が、無性に腹立たしい。
「旦那も、所詮はわたしたちのことを、体を使うだけの道具としか思ってないんだねぇ。妓女には妓女なりの張りや意地ってものが有るんだけど・・・・。そもそも国を動かして何が面白いのやら」
 ふぅっと一つ大きな溜め息。形の良い唇から、煙草の煙が広がる。
「・・・・そろそろ潮時かしらね」
 もの憂げな表情のミィミキプに、下働きの少女が扉の外から恐る恐る声をかけた。
「あの、ミィミキプのねえさま」
「なぁに」
 気の無さそうな声でミィミキプが答える。
「ねえさまに、お客です」
「野暮天はお断りだって言ってやって」
「いえ、あの。女の方が、三人」
「女? そういう趣味の人って、いるんだねぇ。どこにでも」
「あ、あのあの。そうじゃなくて、何だか聴きたいお話が有るとかって」
「話?」
     *      *
 妓院でもっとも品の良いミィミキプの部屋に通されたのは、シュリとモンジャ、それから大荷物を抱えたンパラナの三人であった。モンジャは「ミトゥン神殿を駆け込み寺にする」と息巻いていたところを、神殿の神人に取り押さえられ、シュリに無理矢理に連れて来られたのであった。
「何で私がこんな汚れた場所に! 商売女と日照り男しかいないような場所は嫌です! 汚らわしい! 今すぐ帰して! 世が乱れるのも、隠し子が大手を振って歩くのも、みんな男が悪いんです! 男なんか不潔です!」
 ミィミキプが目を丸くする。
「モンジャ、黙ってて!」
 シュリがまだ何事か叫ぼうとするモンジャの口を押さえる。
「シュリさん・・・・ね。お久しぶり」
 ミィミキプが艶然と微笑む。「心は女」のはずのシュリも、この微笑を見ては何かぞくりとするものを感ぜずにはいられない。
「お久しぶりです。ミィミキプ姐さん」
「今日は? 何か用事で?」
「え、ええ。この堅物に、ちょっと」
「ほんとに、堅物だこと」
 シュリに口と両手を塞がれ、何とか振りほどこうとするモンジャを眺めつつ言う。
「モンジャさん、でしたね。そんなに男の方がお嫌い?」
 モンジャがミィミキプの言葉に力の限り首を縦に振る。
「でも、あなたもお父様という男の方がおられなかったら生まれては来なかったのですよ。でも、そのお父様も、お祖母様という女の方がおられなかったら生まれては来なかった。そのお祖母様も、曾お祖父様という男の方がいなかれば、生まれて来なかった。男と女なんて、そんな具合に持ちつ持たれつ。女を泣かせる男もいれば、男を殺す女もいるんです」
 優雅な仕草で煙管を口に運びつつ言う。
「おわかり?」
 ミィミキプがモンジャを見やる。シュリが言った。
「ミィミキプ姐さん。お願いが有るんです。この子とあたし、しばらく姐さんのところで見習いをさせて貰えません?」「ちょっと! シュリ! いくら何でもそこまでしないからね!」
 モンジャが大声で言う。それを聞き流して、ミィミキプがシュリに答える。
「あら。でも、ごめんなさい」
「駄目ですか?」
「わたしも、いつまでここにお世話になってるか判らないの。ここの御主人と反りが合わなくなってきちゃって」
「そうなんですか・・・・残念」
     *     *
「で、こちらは? お名前も伺ってなかったかしら?」
 シュリがモンジャを連れて帰った後、部屋にはミィミキプと、今まで黙り込んでいたンパラナが残された。
「お静かね」
 返事を促すようにミィミキプが言う。
「あ、あぁ。済まねぇ。ンパラナって言うんだ」
「ンパラナさん?」
「そうだ。顔の広いあんたに尋ねてぇことがあって来た」
 妓院の雰囲気が肌に合わないのか、奇妙に苛ついた表情でンパラナが続ける。
「シクの乱の時のことについて、何か知らねぇか?」
「シクの乱? 古いお話ね」
「そうだ。ヴラスウル・・・・いや、セモネンド絡みのことでも、そうでなくても」
「セモネンドの・・・・」
 ミィミキプが煙管をくわえたまま思案顔になる。
「、シクの乱の最中に、セモネンドの重臣のかたが王様に内緒でちょくちょくウラナングに来てたってことがあったそうだけど」
「ウラナングに?」
「何でも、気が違った王様を裏切る算段をしてたって、いつだったか聞いたような覚えがあるわ」
「・・・・ふーん」
 ンパラナがもう一つ付け加える。
「それからンニンリって子供がいるんだが、そんな名前に聞き覚えはねぇかい?」
「・・・・ありませんねぇ」
 ふわっとミィミキプが吐き出した煙が広がる。
「役に立ったぜ。ミィミキプさん。礼と言っちゃなんだが、こいつを受け取ってくんねぇか?」
 ンパラナが、抱えてきた大荷物の紐を解く。中から出てきたのは立派な作りの鎧櫃であった。
「わたしがこんなもの貰ったって、困りますよ」
 苦笑しながらミィミキプが言う。
「いや。この中に入ってる武具は、あたしが精魂込めて作ったもんだ。売って金にすりゃ、結構な額になるはずだ」
「ちょっと。ンパラナさん」
 ミィミキプが煙管を口から離し、真顔に戻って言う。
「あんまり馬鹿になさらないでね。わたしら妓女は、そりゃお客の相手が仕事ですけどね、相談相手になってやった、聞かれたことに答えてやったなんてのは、仕事のうちにゃならないんです。それともわたし、そんなに物欲しげな顔でもしていましたか?」
「い、いや。そんなこたぁねぇけどよ」
 ンパラナが妓院を後にする。部屋に残ったのはミィミキプ一人。ウラナング一の妓女と謳われた彼女に、また退屈な夜が訪れる。

◆王宮・宮門前
「隊長! たいちょうッ!」
 部下の衛士が真っ青な顔で駆け込んで来る。衛士の詰め所には、報告を聞いていたメルクタナと、二三の衛士。
「どうした?」
「す、すぐに宮門の前に来て下さい! 一大事です!」
 槍を持ったメルクタナの後に、部下の衛士たちが続く。
「こ、こりゃ!?」
 メルクタナが驚愕の声を上げる。王宮前の広場に、どこから集まってきたのか百頭ばかりの野犬の群れがたむろしている。
「何だ、この犬どもは? 追え、追い散らせ!」
 メルクタナが指図する。
「隊長、こいつら、犬じゃありません。みんな狼です」
「狼ぃ?」
 その時。群れの中から一人の少年が姿を現した。鹿皮の腰巻きをまとい、髪を飾り紐で結わえているが、その他には何も身につけてはいない。
「何者だ!」
 メルクタナが、薄気味悪さを押し殺して誰何する。
「ぼくは、狼たちの王。この国の女王と会見に来たんだ」
 少年が言った。
「何だと?」
 メルクタナが聞き返す。
「ミカニカ女王に伝えて。狼の王、セタが会いに来ているって」

◆王宮・女王の合議の間
「そんな何者ともわからぬ相手に、陛下を会わせられるか!」
「そうじゃ。狼どもを率いていると言ったな。おそらくはまじないにて従えたものよ。怪しげな術を用いて我が王宮を撹乱せんとするクンカァンの謀略に違いあるまい」
「ともあれ、決してお目通りなどあってはならぬ。陛下の玉体に万が一のことがあるやも知れぬ」
「おおかた蛮族のあがりであろう。追い返せば済むこと!」
 禿、髭、白髪、赤ら顔の重臣たちが、女王の眼前で言い合っていた。
「率いている狼の数は?」
 ミカニカが尋ねた。
「は。メルクタナの報告では百ばかりとのことにございます」
「百。・・・・百頭の狼が、ジュッタロッタの街に雪崩れ込んだら、どうする? 近衛も含めた王軍全てがそれを追うものとして、どれぐらいで鎮圧できる」
「それは・・・・」
 重臣たちが顔を見合わせる。
「ジュッタロッタの民が、その間に何人食い殺される?」
「・・・・しかし陛下」
「広間に通せ」
「陛下! されど相手は」
「交渉ができるだけ幸いだ。百頭の狼がいきなりジュッタロッタを襲うよりはな」
 ミカニカが決然として言う。
「陛下! あの狼の群れ!」
 窓からでも騒ぎを目にしたのであろう、マウカリカが、部屋に飛び込んで来る。
「あ、失礼いたしました」
 重臣たちが顔を揃えているのに気がつき、マウカリカが一礼する。
「丁度良かった。ダッシャアたちを広間に入れなさい。あの狼たちの主と会見します」
「は、はい。でも、あの」
「急ぎなさい」
「はい!」

◆王宮・広間
 大ぶりな王座に腰掛けた、小柄な女王。左右に居並ぶ重臣たち。手に手に槍を携え、侍立する衛士。
 その中を、セタが一人。堂々と王座に歩み寄る。
(セタ!? どうして? いきなりどっか行っちゃったと思ったら、どうしてあなたが狼たちの中に・・・・)
 あの晩の記憶。セタは、咄嗟に四つ足で走った。そしてそれを見咎めたマウカリカが、女王の寝所に入り込んだ刺客の話をした途端、行方をくらませた。
(セタ! まさか、あなたが!?)
 重臣たちの末座に立ったマウカリカが、ぎゅっと腰の短剣の柄をを握り締める。
(ダッシャア・・・・! お願い、陛下を守って! カジフ、何でこんな時にいないのよ! 親衛隊長のくせに!)
 包みのようなものを抱えたセタが、王座の前に立ってぱたんと一礼する。ミカニカが会釈を返す。
「ミカニカです」
 セタとミカニカの視線が合う。
(この子、妹に似てるんだよなぁ)
 いつだったか抱いた思いが、再びセタの脳裏に去来する。
「東の森の狼たちの王、セタ。森のことで、相談しに来たんだ」
 セタはそう言うと、抱えていた包みを開く。
「これは、ぼくから女王への引き出物。ミッシセッシ(※)の毛皮が十枚」
(なんと・・・・?)
(蛮族かと思うたが、案外と豪儀よの)
(ミッシセッシが十枚だと? わしの屋敷には一枚とて無いと言うに!)
 重臣たちがさざめき、ミカニカがうなずく。
「ありがたく、受けましょう。こちらからも後ほど音物を贈ります」
 セタが礼をして、再び言う。
「森の話だけど」
 セタは少し言葉を切る。
「まず、森は狼や他の獣たちのものだってこと、認めて欲しいんだ」
「・・・・」
「開拓とかで、木をたくさん切ったり、焼き払ったりする時には、必ずぼくに話を通して」
「何かと引き換えにしろ、ということですか?」
「それもあるし、無茶な開拓とかはして欲しくないから。森は、もともとぼくらのものだよ。森にみだりに踏み込んだり、荒らしたりしないんだったら、ぼくらも人里を襲うようなことはしない」
「・・・・わかりました」
 ミカニカが王座から立ち上がり、セタに歩み寄る。
「森を無闇に切り倒すような開拓が、決して我らの利とならぬということは承知しています。誓いましょう。王として」
 セタがにこりと微笑む。
「長く、友誼を」
 ミカニカがセタに右手を伸ばす。その手を、セタの右手が握る。はたから見れば、年端もゆかぬ子供の、無邪気な握手に見えたであろう。
(陛下は何を軽々と! 森の開拓が進められぬとなれば大打撃ではないか!)
(さよう。我らの領地は)
(まぁ、待て待て。陛下は十分にお考えだ。今度の戦争で壮丁はみな戦場に行っておる。荒れた耕地を元に戻すだけでも随分時間がかかろう)
(それはそうであるが)
(陛下は、我が国の農業自体を変えようとされておるのかも知れぬ。やたらに痩せた土地を切り拓くよりも、もっと土地を改良し、生産量を上げようとしておられるのであろう)
(さようであろうかのう)
(ルナが南方に行ったであろう。あれもきっとその一環よ)
(何よりだ、狼やら他の獣が里を襲わぬのであれば、農民どもももっと仕事に専念できよう。悪い取り引きではないやも知れぬぞ)
 重臣たちがぼそぼそと話を交わす。
 会見を終えたセタが、その間を進んで行く。小柄な、狼たちの王が。

◆親衛隊兵舎
 鬱然とした表情のカジフがいる。
『整地の必要性は判りますが、今はそれに使う費用だけでも馬鹿にはなりません。庭園の広さは知っていましょう』
 ミカニカは、カジフの中庭整地の申し出を却下した。確かに、手勢の親衛隊を使うとは言っても、あの庭園を完全に整地するとなると一月や二月ではきかないだろう。国力には過分な兵力を聖都に送り込んでいるヴラスウルとしては、極力無駄な出費を押さえたいのも判る。
 しかし、それよりも。
 女王が、自分を避け始めた。それが気がかりであった。無理にそうしているのか、それとも本気で避けているのか。そこまでは察しがつかないが、女王ができる限り視界に自分を入れまいとしているのは、すぐに気がついた。
「何か有ったのか・・・・」
 カジフが、一つ溜め息を吐いた。

◆王宮・広間
「この度、クトルトルの家督を相続いたしましたヘクトールにございます。まずはご挨拶にと思い、まかり越しましてございます」
 群臣たちの見守る中、貴公子然とした面持ちのヘクトールが女王に拝礼する。
「遠路、大儀でした。クトルトル家の忠義、嬉しく思います」
 ミカニカが言葉をかける。
「は。ありがたきお言葉にございます。今後とも、変わらず陛下にお仕えし、犬馬の労を取りましょう。つきましては、早速ですが聖都への出陣の御許可を」
 おお、と群臣がどよめく。
「許します」
 王座から見下ろすミカニカ。その目をじっと見つめた後、ヘクトールが深々と頭を下げた。

※ミッシセッシはテガーナ高原から密林にかけて分布する金色毛長鼠。カナンで産する毛皮の中では最高級品とされ、中でも上物には一枚で御殿が建てられるほどの値がつくこともあります。

リアクションのページに戻る

目次に戻る