第5回 C-2 イーバの滝


◆イーバ滝下流・船着き場
「兄弟よぉ」
 チアジが、数人の舟人たちに声をかけた。みな、ネタニ川を行き来する舟や筏で働く、顔見知りたちだ。
「頼みたいことがあるんだ。聞いてくれ」
 舟人たちが一斉にこちらを向く。
「チアジじゃねぇか。お前、まだこの辺うろついてやがったのか?」
「用事ができちまったんだ。離れられないのさ」
「用事?」
「そうだ。兄弟、力ぁ貸してくれ。俺だけじゃ、どうにもならないかも知れん」
「ずいぶんと弱気じゃねぇか」
「人数がいないと話にならないんだよ」
「言ってみな。お前の頼みだからな。邪険にゃしねぇ」
「ありがたい」
 チアジが振り返り、後ろについてきていた舟人を目で示す。
「こいつをよ、とりあえずジュッタロッタまで返してやってくれ」
「それぐらいならお安い御用だが」
「もう一つ。どうせ暇なんだろ。儲かる話がある」
「言えよ」
「滝の上流に、舟を入れたい」
「何だと!」
 舟人たちの顔色が変わる。
「溯る用事がある。俺だけじゃどうにもならんからな」
「おい、無茶言うなよチアジ。滝の上流って簡単に言うがな、あんなとこまで舟入れた奴の話は聞かねぇぜ。仮にもイーバはネタニ川の神様のお住まいだぜ。そこより上にのぼるってのは」
「無理か?」
「やめとけ。罰が当たっても知らんぞ」
「・・・・そうか。なら一人ででもやるさ」
「本気か?」
「ああ」
 舟人たちが黙って顔を見合わせる。
「チアジ」
「ん?」
「お前が本気だって言うんなら、俺たちは止めはしねぇがな。舟はどうするつもりだ? ここから上流、まして滝越えなんてのは、人数だけじゃどうにもならねぇぜ」
「・・・・だろうな」
「滝の上に出て、そこで舟なり筏なりを作らねぇと。こんな田舎だ。専門の船大工とは言わねぇが、一人ぐらい大工がいねぇことにゃ無理な話だぜ」
 チアジが黙る。確かに、森を抜け、滝を越えて舟を運ぶのは到底無理な話だろう。しかし、呪人以外には獣ぐらいしかいないイーバ滝周辺で、大工など見つけることができるだろうか。
 チアジが溜め息を吐く。

◆イーバ・滝壷
 滝壷の底を覗いてこようという暇人が四人。二度目の挑戦になるシーッツァ、カビタンの二人と、ヌシキとクァグヴァルである。「ニヘナ様、頼りにしてますぜ!」
 まず真っ先に、シーッツァが水しぶきをあげて飛び込む。続いてカビタンと、クァグヴァルがほとんど同時に飛び込む。
 水中。蒼く深い水の色。水の神々の加護有ってだろう。前回の挑戦より、遥かに長く息が続く。水底を目指し、潜ってゆく三人。
(あそこか・・・・)
 カビタンが目を凝らす。
 白骨。何体もの遺骸。ちぎれた衣服をまとっているものもあれば、首から上だけが無いものもある。
(酷い・・・・あまりに・・・・)
 女物の衣装をまとった遺体が一つ。
(あれか!?)
 水を蹴って、遺体に近寄る。
(!)
 半ば抜け落ちた髪に絡まれた、見覚えのある銀細工の髪飾り。修行時代の自分が買い与えたものに相違無い。
(こんな姿に・・・・哀れな・・・・)
 カビタンが、白骨化した愛人の頭部を抱き寄せる。ごきり、と脆くなっていた首の骨が折れ、頭蓋骨だけがもぎ取れる。
(せめて・・・・葬ってあげるよ・・・・)
 感傷に浸るカビタンの背中に、異様な気配が伝わる。はっとして振り向くと、シーッツァとクァグヴァル、ヌシキの三人が何事か手招きをしている。
 愛人の頭骨を抱え、カビタンが泳ぎ寄る。
 更に深くなった水底。ここから向こうは、流れの加減であろう、水が渦を巻いており、近づくのは危険であると感じられた。
(こいつぁ・・・・)
 シーッツァが胸の内で呟く。
(いかにも何かありそうなんだが・・・・ニヘナ様、お力、貸しておくんなせぇ)
 泳ぎ出そうとしたシーッツァの耳に、どこからか大欠伸が聞こえた。
(な、何でぇ? 今のは?)
 辺りを見回すが、他の三人には聞こえたような気配が無い。ごーっという水の音がやかましく、なぜ今のような音が聞こえたのか見当も付かない。
《ニヘナの匂いがするのう。やつの使いか・・・・?》
(うぉ?)
《あぁ、それにしても良く寝たわい。三月ぶりぐらいか》
(か、神様ですかい?)
《ん? お主か?》
(ああああ、あっしはシーッツァってんで。か、神様は?)
《わしはヘズベス。ネタニ川の主よ》
(ヘズベス様、で?)
《いかにも》
(ちょ、ちょっとばかり、お伺いしてぇことが有るんでさ。あの、鼓の音のことでやして)
《鼓の》
(へい。「琴音は鼓を鳴らし得ず、鼓声は琴を弾ずる能わず。大滝の轟きは鼓声に似たり、風砂の囁きは琴音の如し」ってぇ詩の文句に、心当たりがございやせんでしょうか?)
《はて・・・・詩とな。知らぬのう。太鼓なら少しばかり心当たりがあるが》
(そいつぁ?)
《誰だったか、呪人に頼まれた。昔のう。太鼓の節を知っている子供が来るから、道案内をして、思い出させてやってくれとな》
(太鼓の、節。旋律でやすかい?)
《そうよ。・・・・ふああああぁ。また眠くなってきたわい》
(ヘズベス様!)
《そのことは川風に任せたわ。多少慌てっぽいが、わしより働き者だでのう・・・・ではな。シーッツァとやら》
(ヘズベス様!)
 再び、大欠伸の音。

◆イーバ・呪人の里
「クランギ殿、済まなんだな」
 薬草採りに森に入っていたロディヌンが、歩きながら声をかける。
「そいつは俺のほうが言わなくちゃならん。あんたのおかげで助かった。まさかあんなに狼どもがうろついてるとは思わなかったぜ」
 クランギが言う。辺境の東南、ジュグラの里から、はるばるイーバまで特産の薬草を採りに来たとのことである。
「いや、しかし。わしは薬草にはさして詳しくないのでな、クランギ殿に教えていただかねば熱冷ましの草すら判らなかった。礼を言い申す」
「それにしても、その小僧さん、一体どういう熱なんだい? 何か原因は判ってるのか?」
「いや」
 ロディヌンが首を振る。
「判っていると申すか何と申すか。ただ、ひどい疲労が原因の一つになっているとは思うが」
「そうかい」
 間無しに、イーバの里に入る。ナッフの寝かされている小屋の周りには、ファルコ、パイシェといった彼の仲間たちが交代で見張りに立っている。
「こそ泥の小僧連中とは言っても、仲間を思いやる心は持っておるようだの」
 ロディヌンが小声で言う。
「ロディヌン!」
 小屋の中にいたナージャが、彼を認めて駆け出してくる。
「薬草、有った?」
「うむ。これなるクランギ殿のおかげで、十分な量の熱冷ましの草がの、手に入ったわい」
「ほんと? じゃ、すぐに煎じるから」
 ナージャがロディヌンから薬草籠を受け取ると、彼女の養父の小屋のほうへ向かって走って行く。
(まぁ、わしは医術は専門ではないからの。呪人のナージャに任せたほうが良かろう)
「ロディヌン」
 里の見回りをしているらしいカムラが声をかけた。
「森の様子はどうだ? 魔族がうろついているようなことは無かったか?」
「うむ」
 ロディヌンが大杖を地に突きながら言う。
「魔族や山賊どもの姿は見かけなんだが、これなるクランギ殿が狼に襲われておっての。お助けした次第」
「そうか。・・・・いや。滝の北の様子が判っただけにな、気になるぜ」
「いかにも」
 先日の光景が目に浮かぶ。森の木陰から、続々と湧き出してくるンギの大群。ナッフが叫んだのと同時にンギはみな動かなくなったが、同時にナッフも倒れた。ナッフだけではない。仲間のうち幾人かも、ナッフの叫びによって行動不能に追い込まれた。
「あれは、一体何だったのであろうかの」
 ロディヌンが一人ごちる。
 足音。
「む?」
 イーバの滝に逗留している者たちの中では、ロディヌンとともに「荒くれ」の印象を周りに与えている男、ユンフェイが姿を現した。例によって、愛用のなたがみを担いでいる。
「ユンフェイ殿か?」
 形相がおかしい。普段から何かしら神経質・・・・と言うよりやたらと喧嘩っ早いところのある彼ではあったが、これほどまでに思いつめた表情を見せることは滅多に無かった。
「どけ、ロディヌン」
「何と?」
「ナッフと戦わせろ。そこをどけ」
「ば、馬鹿を申されるな! ナッフ殿は病人、なぜ戦うなどと」
「うるさい! 俺を倒したあの力、あれを確かめる。ナッフの正体もな。そこをどけ!」
 パイシェ、ファルコたちも、やりとりを目にして慌てて駆け寄ってくる。
「ここは動かぬ!」
 ロディヌンが仁王立ちになる。
「上等だ!」
 ユンフェイがなたがみを構え、打ち込みのために足をずらす。
「行くぜ!」
「破戒僧ロディヌンがお相手いたす! かかって来られよ!」
 ユンフェイが、ざっと前に踏み込む。大きく振りかぶったなたがみを、気合とともに打ち込む。ロディヌンが杖でその柄を横に払い、ユンフェイの腰のあたりを蹴り上げる。ユンフェイがそれを体を開いてかわす。
「はぁっ!」
 なたがみの刃が再びうなりをあげてロディヌンを襲う。咄嗟にロディヌンが頭上に杖を突き上げ、それを受け止める。
「!」
 すぱり、と両断される杖。
「ふん」
 ユンフェイがロディヌンの喉元になたがみを突きつけつつ、口元にひきつった微笑を浮かべる。
「クールーの加護有る武人の刃、野伏風情のお前に受けられるわけがないだろう。判ったら、そこをどけ」
 ロディヌンの顔が恥辱に歪む。自分より十ばかりも歳下の若者に、いいように扱われているのだ。
「馬鹿らしい」
 脇で見守っていたパイシェが言う。
「何だと?」
 汚いものでも見るような目をしながら、パイシェが続けた。
「この前クァグヴァルが言った通りだ。人を斬りたきゃ、いくらでも戦争やってるんだ。そっちに行けばいい」
「貴様!」
「武人相手じゃ怖じ気づいて御自慢のなたがみも振るえないんだろ? だからこういう武人のいなさそうな場所に来てるんだ。違うかい?」
 真っ赤になったユンフェィが、なたがみをパイシェに向ける。
「小僧!」
 今にも斬りかかろうとするユンフェイの肩を、カムラが掴んだ。
「止めろ。ユンフェイ」
「カムラ、貴様も!」
「馬鹿野郎!」
 カムラの拳固が飛ぶ。ごきり、と嫌な音がして、ユンフェイが横倒しに吹っ飛んだ。
「恥ってのを知れよ。お前」
 倒れ込んだユンフェイを見下ろし、ユンフェイより遥かに場数を踏んでいるのであろうカムラが、凄みのある声で言った。口の中を切ったのだろう。ユンフェイが唇の端から流れていた血を拭う。
「武人なら武人らしくしてろ。病人や小僧相手に得物振り回すのが、そんなに嬉しいか」
     *      *
「パイシェ、ファルコ、来て、来て!」
 ナッフの看病をしていたナージャが、小屋の中から声をかけた。
「どうした?」
 ファルコが尋ねる。
「ナッフが、目を覚ましそうなの! うわごととか言ってる」
「え!」
 パイシェとファルコが急いで小屋に駆け込む。
「ナッフ!」
「しーっ! 騒いじゃだめ」
 思わず大声を上げかけるファルコを、ナージャがたしなめる。
「・・・・ぅ・・・・」
 寝台の上のナッフ。下がってきてはいるのだろうが、いまだ熱っぽい様子の顔で、ほんの少し開いた口で喘ぐように息をしている。
「薬草が効いたのよ。このナージャが煎じたんだもんね」
 ナージャが自慢気に言う。
「二人は、すぐにみんなに知らせて。でも、暴れる人には教えちゃだめよ。小屋の中に入れてあげないんだから」
     *      *
「婆さん!」
 ファルコがジーソーの小屋に駆け込む。 呆けたような顔のジーソー。先月あたりからいかれ気味だったが、とうとう本格的壊れかけてきたのかも知れない。
「ば・・・・婆さん?」
 恐る恐る声をかける
「ファルコかい・・・・」
 腑抜けたような返事。
「どうしちまったんだよ。婆さん」
「見たんだよ・・・・昔のナッフのこと・・・・ミトゥン様が見せてくださった・・・・」
 ジーソーの手には、彼女が預かっているオロサスの紋章入りの小箱が握られていた。
「昔の、ナッフ?」
「・・・・お前たちにの仲間に入る前のことだ。あの子がいたのは・・・・神殿・・・・きっとティカンだ。ウラナングのね」
「ティカン?」
「そう。ティカンの・・・・あれはチシラとか言ったかね。巫女頭がいただろう? あの女が、こんなにちっちゃいナッフを育ててた・・・・文字の読み書きとかも・・・・・だからあの子は字が書けたんだよ」
 目の前のファルコを見もせず、ジーソーは続けた。
「ナッフがね、親父さんとお袋さんのことや、ティカンに来る前のことを聞くのさ。チシラに。でもチシラは言うんだよ。お前は何も知らなくていい。ただ一つのことさえ覚えていればって」
「ただ一つのこと・・・・?」
「旋律の秘密、とね。チシラは言ったよ。それで、こういう詩を噛んで含めるように教えるんだ。『王は魚なり、臣は澪なり。謁は杖なり、罪は蜜なり。されば節は師父なり』ってさ」
 ファルコが目をぱちぱちとしばたかせる。
「それから、ミトゥン様はまた何か見せてくれたんだ。どっかの宮殿、クンカァンかも知れないね。血まみれなんだよ。人が殺されててさ。そこからね、誰かがナッフを連れ出すんだ。お落ちなされって言ってさ」
「・・・・」
「やっぱりナッフは王子様か、そうでなくてもオロサスの王様の一族さね。世が世なら」
「違うだろ! 婆さん!」
 突然ファルコが声を張り上げた。
「婆さん、言ったじゃないか! ナッフは、俺たちの頭領で、婆さんの孫だって! 俺たちみんな兄弟なんだろ? ナッフだけ王子様なんて、そんなことあるもんか! そうだろ、婆さん!」
 呆気に取られたジーソーだったが、やがて笑顔を浮かべて言う。
「そうだよ。悪かったね、ファルコ。あんたの言う通りだ。あの子はこの婆の孫だ。危うく、ミトゥン様の悪戯にひっかかるところだったよ」
     *      *
 ナッフの小屋。
 看護人のナージャのほか、パイシェ、、イコン、オジャ、カムラ、カハァラン、イルイラム、ロディヌンらが顔を揃えた。
「ファルコさんとジーソーさんは?」
 カハァランが尋ねるが、パイシェが首を振る。
「どうしたんでしょうかね」
 ナージャが額に乗せていた濡れ布を取りかえる。
「・・・・ぅ・・・・ぁ」
 ナッフがうめく。
「ナッフ、わかる? ナージャよ」
「ぅぅ・・・・ぁ・・・・」
 目が見開かれる。
「ナッフ!」
「ナッフ殿!」
 しかしナッフの目は、目の前のナージャを見てはいない。何か、別のものを虚空に見ているように、視線をさまよわせる。
「・・・・ぅ・・・・おぼえたよ・・・・ちしら・・・・おぼえた・・・・もう・・・・」
「ナッフ、何言ってるんだ!?」
 珍しく、パイシェの顔色が変わった。チシラと言う名前には聞き覚えが有る。上ウラナングは、ティカン神殿の巫女頭の名だ。
「チシラって、あの巫女か?」
 ナッフはパイシェの問いには答えず、うつろな目をしたままぶつぶつと呟く。
「ほら・・・・いえるよ・・・・おうは・・・・うおなり・・・・おみは・・・・みおなり・・・・えつは・・・・つえなり・・・・つみは・・・・みつなり・・・・されば・・・・ふしは・・・・しふなり・・・・ほら・・・・みんな・・・・いえた・・・・」
 小屋の中に、ナッフの呟き声だけが流れる。周りを囲う誰も、一言も発しない。
「むんでぃあも・・・・ゔぃるめるも・・・・みんな・・・・しってる・・・・おなじ・・・・いちぞく・・・・でも・・・・これは・・・・ひとり・・・・」
 すっとナッフのまぶたが閉じる。ナージャが慌てて手首を握った。
「大丈夫。脈はあるわ。また意識を失っただけ」
 寝台の、もはや物言わぬナッフ。呟いていたうわ言が、一同の脳裏にこだまする。
「さて、どうしましょうか」
 いささか困惑の表情を浮かべたカハァランが言う。
「ナッフさんのこともですが、我々の今後も。また人数が減ってしまいました。賊を追うにしても、これだけでは」
「とりあえず、里の呪人たちには協力を仰いでいる。ここら辺り一帯に、近々魔族除けの結界を張る」
 イルイラムが、何事か決心を固めたような、強い声音で言う。
「ンギ風情ならともかくだ。もっと強力な奴が来たらどうするんだ?」
 カムラが尋ねる。
「ナッフの、あの妙な力。イルイラム、お前もぶっ倒れたあの力なら追い払えるかも知れんが、見ての通りの有り様だ。えらく疲れるんだろう。あの力、もう使わせないほうがいい」
「そうだの。カムラと考えたのだが」
 オジャがその後を引き取って言う。
「皆も良く聞いて、そして考えてくれぬか。あのナッフ殿の力は、ウラナング帝国開闢の祖、レドレガル帝が執り行われたと伝えられる『光の儀式』に通ずる力ではないか。わしらはそう考える。そして、レドレガル帝は」
 黙ったままの一同。
「その儀式とともにみまかられた。ナッフ殿があの力を用いる時、やはり帝と同じように生命を縮めておるのではあるまいか。ナッフ殿は、こう申しては何だがまだ未熟であるゆえ、力自体も弱く、生命を損なうことも少なくて済んでおるのではないか、とな」
(・・・・?)
 イコンの脳裏に、何事か結びついた。
「そうか。察しがついたような気がするぜ。このナッフが、オロサスの王子だとしてもな、クンカァンを簒奪したクルグランにとっちゃ確かに目障りだが、わざわざ大手間かけてひっ捕らえようとはするまい。ヴラスウルまで追っかけてよ」
 カハァランが、目で続きを促す。
「ナッフの、あの力が怖いんだ。クルグラン御自慢の大魔軍がよ、あの力一つで消えてなくなっちまうかも知れないんだぜ?」
「なるほど」
 腕組みをしたカハァランが言う。
「当たっているかも知れませんね」
「思いつきだがな」
 イコンが答えた。思案する風情であったオジャが言う。
「この滝が襲われたのは、ちょうど戦争の始まった時期と言うことだったの。クルグランとしては、多少荒っぽい手を使ってでもその前にナッフ殿を捕らえておきたかったのであろう。戦争が始まってからは、もはやそのような悠長なことをしておるわけにもいかぬゆえ、ここが襲われることが無いのかも知れぬな」
 カハァランがうなずく。
「ところで・・・・ナッフもですが、我々の今後のこと、どうしましょうか? 都から兵士を出してもらえるよう女王陛下にお願いしましたが、今はウラナングで戦争中。こちらに兵はまわしてもらえないと思います」
「どうしようか・・・・?」
 ナージャが言う。一同が黙り込む。打開策は、あるのだろうか。
     *      *
「・・・・ぐ、うぅ・・・・」
 くぐもった声で、イルイラムがうめいた。己の指で両の眼球を抉り出す激痛と、戦っている。
「う・・・・く・・・・」
 鮮血にまみれた手が、祭壇に伸びる。供物台の上に、やはり血まみれの、二個の眼球が置かれる。
(このイルイラム一代の呪術、私の全ての光を捧げる。これと引き換えに)
 眼窩から血液を溢れ出させたイルイラムが、呪言を唱えながら、その血で祭壇に呪文を書きつける。
(この地の魔を退けよ。ここは・・・・イーバは、私が人として生きる道を知った場所、人として生きることができた場所。魔族の跳梁を許す訳にはいかない!)
 呪言が最高潮に差し掛かる。祭壇の設けられた小屋の外では、この地の呪人たちが同様に魔族払いの呪言を唱えていた。プキモ老人の姿もある。
(プキモさん・・・・止めてくれたのはありがたいが、この地には私も恩が有る。こんな形でないと、その恩は返せない・・・・)

◆森
 獣の群れが動く。一頭が人間の匂いを嗅ぎつけた。獣の群れが、森を縫って動く。人間の喉笛を噛み切り、食いちぎり、屠るために。
 森は、獣たちの棲処。棲処を守るために、獣が行く。
 風に乗って伝わる、人間の匂いを追う。群れを二つに分ける。囲んだ輪を縮める。新しい頭の指図に、狼たちが従う。足音を殺し、人間たちを囲む。
 頭が、吠える。それを合図に、一斉に狼たちが地を蹴る。
 森の小径を進んでいた、人間たちが慌てふためく。叫ぶ。
「親分! 狼だ!」
「馬鹿野郎! 怖じ気付くな! てめぇらそれでもこのマラムディ様の子分か!」
「そんなこと言いやすが、すげぇ数ですぜ!」
「戦え! 追っ払え!」
 飛び掛かる。噛み付く。引きずり倒す。森の中では、獣こそが王者である。その獣たちのなかでも、群れをなし、有能な頭を頂く狼たちこそ、森を支配するにふさわしい。
「逃げろ! 逃げろぉ!」
「逃げるんだ!」
「こら! 親分を置いて逃げる子分がいるか! こらぁ!」
 人間が、喚きつつ、脅えつつ、逃げ去る。牙にかかった愚かで鈍重な人間たちを、狼が食らう。森の中では、牙を持たざる者が敗者なのだ。
 狼たちの頭が、一際響く声で、勝ち誇ったように遠吠えする。かろうじて衣服と判別できる布切れを身にまとい、砂埃にまみれた伸び放題の髪に、結び紐を絡ませた、一頭の獣が。

◆イーバの里
「かかった!」
 落とし穴に、何かが落ちる音。
 小屋からアシュールとシーッツァがそれぞれ得物を握って飛び出す。
「痛ぇ!」
「痛てて! 親分、大丈夫ですかい!」 二人の男が、あらかじめ掘っておいた落とし穴に落ち込み、もがいている。
「誰でぇ! てめぇら!?」
 シーッツァが怒鳴りつける。
「痛てててて。背中が、背骨が」
 穴の中の禿頭の男が、情け無さそうな悲鳴を上げた。
「どうする? とりあえず、出してあげる?」
「仕方ねぇか」
 シーッツァとアシュールが穴の中に縄を下ろし、二人を引っ張り上げる。二人とも、森の茂みの中でも抜けてきたように、衣服のところどころが破れ、体中に引っ掻き傷やら擦り傷やら、数え切れないほどに負っている。
「ひでぇよ、あんたら。何てことしやがんだ」
 禿の男が言う。
「てめぇらだろ。ヌシキさんのことかぎまわってやがんのは」
 シーッツァが油断なく棒を構えながら言う。
「親分、何でこんなことになっちまうんですか? ええ?」
 もう一人の男が、泣きそうな声で禿頭の男に言う。
「それはこっちが言いてぇよ。何だってこのマラムディ様がこんな目に遭わなくちゃならねぇんだ。狼どもに襲われて手下ぁみんな逃げちまうし」
 シーッツァがアシュールと顔を見合わせる。もっと狂暴な相手を予想していたが、ずいぶん弱気な男たちであるらしい。
「ヌシキさんのことを嗅ぎまわってた理由を聞かせて」
 アシュールが、なぎなたを握ったまま言う。小屋の中から、ヌシキがこわごわ顔を覗かせる。
「俺ぁ、腕の良いお医者を捜してただけなんで」
 マラムディが言う。
「こいつが、心当たりがあるってんで」
 子分の商人臭い男が言う。
「カヤクタナからはるばるジュッタロッタまで親分を案内して行ったんでさぁ。ミトゥン様の神殿の孤児院に。そういたら、もうこちらに出かけられたっておっしゃる。で、こちらまでお訪ねしてみたんで」
 マラムディが、いきなりがばっと土下座した。びくっとしてシーッツァが棒を構え直した。
「お願いだ! ヌシキってぇお医者に、会わせてくれ。俺の、俺の坊主が、病気で・・・・もう治らねぇかも知れねぇって言われてて」
 途中からマラムディの声が涙っぽくなってくる。
「どっか行っちまった嫁さんが、もし帰ってきた時に、坊主のそんな姿ぁ見せらんねぇ。まして、くたばっちまったなんて言えやしねぇだろ。坊主を、治してやんなきゃ意味ねぇんだ。頼む! ヌシキってお医者に取り次ぐだけでも取り次いでくれ!」
 巨漢のマラムディが頭をすりつけるようにして頼み込む姿は、一種異様な迫力が有った。
「そいつぁ、本当の話なんだな?」
 シーッツァが尋ねる。
「嘘ついてどうすんだよ。お医者騙してよ。頼む、この通り! 坊主の命がかかってんだ!」

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