◆セイロ・クトルトル宗家 「ヘクトール様、お久しぶりでございます」 クトルトル宗家の当主、クィヒリを訪ねたヘクトールは、意外にも宗家の家宰ギンヌワの出迎えを受けた。セイロまでまだ半日以上もある街道の途中である。 「当主様はヘクトール様の御書状をお受け取りになってより、随分とお待ち遠しい御様子。本日もこのギンヌワめをこうしてお迎えに遣わした次第にございます」 クィヒリの腹心としてクトルトル家を切り回し、他家の出ながら一族の間でも憚られているギンヌワが、武装した辺境軍の兵士たちを引き連れ、丁重にヘクトールに口上を述べる。 「丁寧な出迎え、痛み入る」 ヘクトールが、貴公子然とした容貌に微笑を浮かべる。 「では、急がれませ。当主様をはじめ長老の方々がお待ちで」 「長老がたも?」 「いかにも。当主様に御面会に来られたのですが、ヘクトール様が間もなく来着との旨をお知らせいたしますと、お顔を是非とも見たいと申されまして」 ギンヌワが馬を並べ、如才なく笑いながら言う。 * * 「おお、待っていたぞ、ヘクトール」 クトルトル宗家の広間。クィヒリのほか、五人の長老たちがすでに着座して彼の到着を待っていた。ギンヌワに導かれヘクトールが部屋に入ると、クィヒリが立ち上がって声をかけた。 「クィヒリ様、御無沙汰をいたしております。ヘクトール、来着いたしましてございます」 「堅苦しい挨拶は抜きだ。さぁ、席に着け。何か飲むか?」 「いえ。お心遣いだけ」 六十の坂を越えたクィヒリは、しばらく見ぬ間にひどく老け込んでしまった。が、その眼はかつてファトレオ王麾下の猛将としてその名を知られた男のものらしく、異様に鋭い。初老に差し掛かってから、油断のならぬ凄みが増したようにも思える。 そのクィヒリが、相好を崩して若いヘクトールの挨拶を聞き、その話に相槌を打つ。長老たちもヘクトール配下の屯田兵の働きぶりを聞くと、皆感心したように声をあげる。 しかし、和やかな会談の雰囲気が、急に途切れた。使用人に呼ばれて一旦部屋を出た家宰のギンヌワが、只ならぬ形相で再びその姿を現す。 「どうした、ギンヌワ?」 「例の件に関わることにございます」 クィヒリが眉を寄せる。 「せっかくヘクトールが来ておるのだ。つまらぬ用件を持ち込むな」 「は、しかし捕らえておりました間者が口を割りましたので」 「何?」 ヘクトールがいぶかしげな表情でクィヒリに訪ねる。 「クィヒリ様、間者とは穏やかならぬお言葉。何か変事でも?」 クィヒリが眉を寄せたままヘクトールに向き直る。 「ヘクトールよ、近頃都で流れておる我らクトルトルの噂とやら、耳にしておるか?」 「はい・・・・我らに謀叛の心あり、などと」 「それよ。ジュッタロッタではもはや大声で取り沙汰されておるらしいが、このセイロでもそのような噂が流れての」 クィヒリの言葉をギンヌワが引き継ぐ。 「噂の出所はすぐに判じてございます。触れ回っておった者数人、我らの手ですでに捕らえて牢に繋いでおったのですが、その者たちが白状いたしまして」 「で?」 クィヒリが尋ねる。 「間者を放った者ですが」 ギンヌワが少し躊躇う。 「どうした?」 「王家・・・・スキロイルの者にて、クリルヴァとか」 「若僧よ。ジュッタロッタでは知られた名だ。少しは知恵が回るそうだが」 クィヒリが吐き捨てるように言う。 「このクトルトルを鼠取り程度の罠に嵌めるつもりか。笑止」 「しかしクィヒリ」 長老の一人が口を開く。 「スキロイルが我らと事を構えるつもりとあらば、どうする?」 「クテロップのいない王宮など怖るるに足らぬ。が、果たしてこれを王家が仕掛けてきたと見るべきか」 「と言うと?」 「もはや王宮にはそれほど大きい絵を描ける者がおらん、ということだ。女王もただの小娘ではないが、自ら筆を握るような真似はすまい」 クィヒリが一同を見回す。 「王軍の主力がウラナングに赴いている今、辺境軍を刺激しようなどと愚策も良いところ。おおかた、その若僧が小才覚を働かせたつもりなのであろう」 「クィヒリ様」 ギンヌワが声をかける。 「丁度長老がたもヘクトール様もおられます。御対応をお決めくだされ。陣触れとなれば時間も要り申す」 「慌てるな、ギンヌワ」 ゆったりと腰掛けたクィヒリは、しばらく黙って眼を閉じ、何事か考えていた様子であったが、おもむろにヘクトールに向かって言った。 「ヘクトール」 「はい」 「わしには子が無い。一族のうちより養子を取らねばならぬ。以前から、お主と今は都にいるカジフの二人のどちらかにしようとな、見定めておったが」 クィヒリがゆっくりと目を開き、ヘクトールの顔をじっと見つめる。 「どうやら、辺境軍を預けるのはお主になりそうだの。近々わしは隠居する。お主はジュグラには戻らず、セイロにとどまれ」 「は・・・・しかし」 「心配はいらぬ。お主は女王のように孤児ではない。わしも、一族の年寄りたちもおる。喜んで後楯になろう」 クィヒリが慈父のような微笑みを浮かべ、ヘクトールの肩を叩く。長老たちも口々に異論の無いことを申し出る。 がたり、と荒々しく扉が開く音。 「どうした?」 一同の目が、駆け込んで来た使用人に集まる。ギンヌワが尋ねると、慌てた面持ちの使用人が話し出した。 「ウラナングの諜者よりの知らせにございます。連合軍とクンカァン軍との戦、連合軍側の不利にて、クンカァン軍の下ウラナング侵入を許した模様」 「そうか」 以外にも、クィヒリをはじめ長老たちにはさして慌てる様子が見られない。 「所詮は寄せ集めの軍勢よ。まともにぶつかっては勝ち目があるまいに」 「当主様」 ギンヌワが渋面を作りながら言う。 「いかがなされましょう?」 「そうだな」 クィヒリが椅子に深く腰掛けながら、目をつぶる。 「幸いに、一族の主立ったものも、次期当主も揃っている。ここでわしの考えを言っておこう。我らクトルトルが取る手段はいくつかある」 クィヒリの威厳に圧されでもしたかのように、空気が重く感じられる。 「穏便な案から言おう。まず、女王にウラナングへの増援を申し出るという手だ。馬鹿正直にな。しかしこれはジュッタロッタへの点数稼ぎにしかならん」 一同は、黙ったまま聞いている。 「次に、条件と引き換えにウラナングへの増援を行う、という手がある。この相手は二通りだ。その一つはスキロイル家への縁組みを求める案。女王に、このクトルトルから婿を入れ、ヴラスウルでの発言力を増すのだ。もう一つは、クマリに直接増援を申し出る。条件として、我らクトルトルをクンカァンに代わる五番目の同盟国として認めさせる。当然、ヴラスウルとは別にだ。最後の一つは」 クィヒリの喉仏がごくり、と上下する。 「スキロイルのみならずウラナングとも手を切り、クンカァンと結ぶ。辺境軍をこぞり、クンカァン軍と連絡を取りつつジュッタロッタを目指して北上する。女王を捕らえるのだ。そしてその身柄と引き換えにヴラスウル全土を継承する」 「なんと・・・・」 長老の一人が声をあげる。 「大それた、と言うか? しかし考えてみよ。セモネンドにあっては我らクトルトルもスキロイルも同格の諸侯であった。クマリに取り入るのが早かったほうがソジ王の後を継いだまでよ。我らが黙ってスキロイルに尻尾を振りつづける義理は無い」 「当主様」 たしなめるような口調でギンヌワが声を掛けた。 「なんだ?」 「最後の二つの案、我ら決して口外いたしませぬ。当主様も、お口にされなかったことにして下され」 クィヒリがしばらくギンヌワを見つめていたが、やがて苦笑しつつ言う。 「戯れ口が過ぎたな。皆、聞かなかったことにしてくれ」 異常な雰囲気になった客間から、長老たちが辞去する。ギンヌワも見送りのために部屋を出、クィヒリとヘクトールだけが残された。 「ヘクトール」 「はい」 「以後、辺境軍の采配はお主に任せる。わしは歳を取ったせいかも知れんが、余分なことを考えすぎるようになったらしい」 「・・・・」 「我らが補佐する。存分に辺境軍を使え。スキロイルに忠を尽くすも、牙を剥くもお前次第だ。ただし」 クィヒリの目が再び鋭い光を放つ。 「クトルトルの名を汚すような振る舞いのみは、してくれるな。頼んだぞ」 ◆ジュグラの里 ユエシュロンの小屋。南から戻ってきたばかりのツァヴァルと、小屋の主人であるユエシュロンが何やら話をしている。 「どうもね、甘かったみたい。シュライラを薬にするってのは無理そう」 「ま、そんなとこだろう。できることならとうに誰かがやっていただろうさ」 「そうなのよね」 ユエシュロンが薬草茶を入れる。 「井戸や湧き水には、清めのまじないをしておいた。安心して飲める水が無いのでは困るからな」 「私、考えたんだけど」 思いつめた表情のツァヴァルが言う。 「何だ?」 「闇の領域を封印するまじないって、かけられるかな?」 「無茶だ。そんなに広範囲に渡って効果を及ぼすような術は」 ユエシュロンが目をつぶったまま、たしなめるような口調で言った。 「だから、私一人じゃなくて。もっと呪人たくさん集めて、分担してかけるのよ」 「何人必要だ? おそらく、千や二千ではきかないぞ。史書を読んだことはないのか? ツァヴァル」 「でも!」 「神聖期のはじめに押し寄せた闇の領域は、初代クマリのンナカーがカナン中の軍勢を率いてようやく押し返したと伝えられている。それほどの力を必要とするんだ。呪人風情が五、六人気張ったところで、な」 「・・・・う〜」 「恨みがましい目で睨むな。しかし・・・・ンナカーの足跡を調べるのも手だ。何か闇の領域を押し返す手だてが判るかも知れん。が、」 「が?」 「ウラナングで戦争をやっていると言う。もしもティカン神殿までクンカァンに制圧されるとなると、厄介だ。蔵書の閲覧などとうてい許すまい」 * * 里。 「ここには強者はいないのか? 魔族ごときを恐れるのか!」 アクハドが怒鳴るが、里人たちは関わり合いになりたくなさそうな顔で、野良仕事を続けるばかりであった。 「兄さんよ」 中年の男が声をかけた。 「無茶言うなよな。魔族ごときって言うけどさ、あんただって一人じゃ怖くて行けねぇんだろ? だから仲間ぁ探してるんじゃねぇか」 アクハドがぐっと詰まるが、矛先を変えて言い返す。 「あんたたちみたいな里人には言ってない。ここの里にも自警団や、駐留していた武人ったいがいただろう? そいつらはどうしたんだ!」 別の里人が言う。 「自警団の連中は、みぃんな烈風会とかいうのに入って行っちまったよ。都だかどこだかによ。武人連中もおんなじだろ。どうせ」 「・・・・ちっ」 「ねー、アクハドー」 その様子を後ろで退屈そうに見ていたサニムトジェベが声を掛ける。 「いいじゃない。もう。二人で行けば」 里には不釣り合いな、高価そうな衣装をまとった娘に目をとめ、里人が言う。 「やめときな。嬢ちゃん。あんたみてぇな人が入ってくとこじゃねぇよ。そっちの兄さん、あんたは判ってるだろ」 途端にサニムトジェベがふくれる。 「な、何よ! 女だからって馬鹿にしないで! アクハド、あなたも何とか言いなさいよ! ほら!」 「・・・・」 「アクハド?」 「止めとこう。サニハ」 「え?」 「そいつの言う通りだ。やっぱり、サニハを密林に入れるわけにはいかない。二人で行ってどうなるというものでもないし、正直、俺一人でサニハを守る自信も無い。こんなところに連れてきたのが間違いだったのかも知れないな」 「な、何言ってるのよ」 「ハンムーのこと、気になってるんじゃないのか?」 サニムトジェベがぎくりとする。 「今回ばかりは、俺のわがままに付き合わせた。次はサニハの好きなようにしてくれ」 ◆リダイ川・密林蛮族の集落 「ちょうだい、ちょうだい、ちょうだ〜い!」 先ほどからナジュマが喧しい。密林蛮族の間に伝わる呪物をよこせと、図々しくもウキラナガに頼み込んでいるのだ。 「みっともないぞ。ナジュマ、止めろ」 タファンが止めようとするが、ナジュマはウキラナガの腕にすがりついて離そうとしない。 「まったく・・・・どっちが蛮族なんだかわかったもんじゃねぇ」 シャーンが小声で呟く。 仕方が無い、という顔でウキラナガが立ち上がり、天幕の隅から一本の木片を取り上げる。 「これを持っていけ」 ナジュマの目が輝く。 「どうやって使うの?」 「それぐらいはお主が調べろ。呪人であろうが」 ナジュマがもうこんなところには用が無いとばかりに立ち上がり、棒を抱えると鼻歌を唄いつつ天幕を出て行く。 「ウキラナガさん、良いんですか?」 呆れた表情のキュイが尋ねる。 「構わん」 「しかし呪物といえば」 「あれは、ただの薪じゃ」 「たきぎ?」 「呪人でもないわしが、呪物など持っておるわけがなかろうが」 「はぁ・・・・」 タファンとシャーンが顔を見合わせて噴き出す。ナジュマが必死になって先ほどの棒切れを振り回している姿が目に浮かぶ。 「ところで」 タファンが尋ねた。 「ここの人たちのこと、『蛮族』って呼ぶのがどうも引っかかってて。どうやって呼べばいいですかね?」 ウキが顔を上げる。 「・・・・ジュッタンリ・・・・『緑林の人』。カナンの言葉に直せば、そのような名になる。連中は自分たちをそう呼んでおる」「話を元に戻しましょう」 キュイが改まった口調で言う。 「シャーンさん、ウキさんに尋ねたいこととは?」 「シクの乱の時のことだ。あの時、魔族は、いや、闇は動いたのか? それを聞かせてくれ。どんなに些細なことでも構わない」 黙ったままのウキラナガに、シャーンが頭を下げる。 「おっちゃん、頼むわ」 「キュイ、聞かせたことが有ったの。お主には」 「シュライラのことですか」 「うむ。わしはその頃、クタ方面の駐留軍の指揮官じゃったによって、詳しいことはわからぬがな、シクとセモネンドの同盟より前のことじゃ」 「『ソジ王の変心』の」 「そうじゃ。密林を探索に出た王臣たちが、採集してきた珍しい草花を、王に献上した。王は大いに喜び、王宮の練兵場を潰して大庭園を造成した」 「その中にシュライラがあったのですね」 「さよう。わしがもう少し早くその報にふれておれば、すぐに馳せ戻ってお止め申し上げたものを・・・・」 「その頃にはもう闇の領域が染み込んできてたってわけか。密林には」 腕を組みつつシャーンが言う。 「そういうことだの」 ウキがうなずく。 「では、一つ大事なことをお聞かせ願います。ウキさん」 キュイが言う。 「魔族と闇の領域を退ける手段は?」 「わからぬ。思いつかぬ」 ウキが漏らす。 「わしはもはや世を捨てた。世がどうなろうと」 「しかし」 タファンが遮る。 「ソジ王のお血筋は、絶えておりませんね。ウキラナガ将軍は、その御子たちもお見捨てになるのですか?」 「・・・・」 「あなたが生き残っているということは、・・・・他にも生き残っている人が?」 キュイがタファンの問いを引き継いで尋ねる。 「・・・・妾腹の子で、民間で養われておったお二人を、お落としした。前のジュッタロッタ城が落ちる頃じゃ。わしの替え玉に立つと申し出てくれた弟に砦を任せ、ウラナング軍に徹底抗戦させた。時間稼ぎにな。乳飲み子であったお二人を連れ、わしは故郷の密林に逃れた」 「二人ですか。今はどこに?」 「知らぬ。王都が落ちた後、ソジ王の血を引く御子は、歳に関わりなく全て殺されたと聞いての。セモネンド王ソジと全く関わりの無い子として育てるために、敢えてわしのもとから遠ざけた」 「そうですか・・・・」 ウキラナガは、それ以上語らぬ、という意志を表に出して口をつぐんだ。 「話を変えていいかい。ウキラナガ将軍」 「将軍はやめろ」 シャーンが苦笑いをして続ける。 「じゃ、おっちゃん。魔族を追い払ったり、闇の領域を押し返したりって、昔にもあったんだろ? その時のこと、何か判らないのかい?」 「さてな・・・・。しかし実際にそれができたと伝えられるのは、レドレガル帝と初代クマリのンナカーのみ。その事跡を調べれば、何事か判るかも知れぬ」 「レドレガル帝の『光の儀式』ですか。もはやそれは望むべくも無いとして、ンナカーは大魔軍と決戦し、押し返したと伝えられています。何か特殊な戦法や、武器があったのでしょうか?」 「知らぬ。わしの前身はたかがセモネンドの一将軍。全てを見通す力など持ってはおらぬ」 ウキが不機嫌にこぼす。 「ウキラナガ? ・・・・? ・・・・・・・」 蛮族の一人が、天幕の入り口から顔を覗かせ、ウキと何事か言葉を交わす。 「どうしました?」 タファンが尋ねる。 「お主らと同じように、ここにやってきた連中がおる。連れてくるそうじゃ」 間もなく、知った顔が二人・・・・シュレイとレンセルが天幕に連れられてくる。 「レンセル、どうした?」 シャーンが声をかける。 「シュレイの護衛をしてな。まさか女一人に辺境を歩かせる訳にはいかんだろう」 「シュレイ。あなたは?」 キュイが尋ねる。 「ちょっと、変な夢を見て。ツァヴァルさんに聞いたんだけど、ここに・・・・その、セモネンドの元の将軍がいるっていうから、どうしても聞いて欲しくて」 「わけありのようじゃな」 ウキが座をすすめる。腰を下ろすなり、シュレイが話し出した。 「妙な夢だったんです。亡くなったヴラスウルの摂政、クテロップ様が、前の王様のメグーサイ様の遺言を聞いていて、その遺言の中に『御子を探し出してミカニカに娶わせろ』とか、『罪深きはあの王のみ』とか、そんなこと言ってて」 ウキが顔をしかめる。キュイ、シャーン、タファンの三人が顔を見合わせる。 「あの王とは、やはり」 「ソジ王」 「出ていってくれんか」 ウキが不機嫌そうな顔で言う。 「陛下をお売りして、さっさとウラナングに通じたスキロイルが今更何を言うか。ファトレオの賢しらぶった顔を思い出すだけで反吐が出るわ。気分が悪い。出て行け」 キュイがさっと立ち上がる。 「不躾な質問ばかり、申し訳有りませんでした。行きましょうか。みなさん」 * * エスカイの目論見は、今のところ当たっていた。言葉こそわからぬものの、この集落を統べる族長の一人娘を見事にたぶらかし、うまいことその愛人格に収まった。 カナン人の美意識から言って、娘は決して美人ではない。であるばかりか、もはや四十に手も届こうかという年増である。しかしこうして添うてみれば情も深いようで、里の女たちよりも気品があるような気がしてくるから不思議である。 族長の娘を愛撫しつつ、尋ねる。 「俺の名前を覚えたか?」 女は身体をエスカイの腕の中に預けつつ、不思議そうな顔で顔を覗き込む。 「エスカイだ」 「エ・・・・ス・・・・カイ?」 「そうだ。お前の名は?」 困ったような表情を隠すように、女がエスカイの胸に顔を埋める。その縮れた髪を撫でてやりながら、エスカイが呟く。 「やれやれだ。早いところ言葉を覚えんことには、な」 ばさり。 天幕の入り口に垂らした布が跳ね上げられる。 「・・・・・・!」 女が叫び声を上げる。 「・・・・出ろ。・・・・白いの」 男が、たどたどしいカナン語で言った。 「誰だ」 「・・・・俺は・・・・通訳。その女の夫が・・・・呼んでる」 呆れた表情でエスカイが女を見る。 「お前、旦那持ちだったのかよ」 「・・・・子供も・・・・いる。五人」 通訳の男が言った。 「・・・・来い」 通訳の男が、エスカイを促す。立てかけてあった槍を掴むと、エスカイがその後を追う。 間も無しに、広場に着く。たき火が赤々と焚かれた周りに、三人の蛮族の男がが立っている。 「どいつが夫だ?」 エスカイが通訳に尋ねる。 「・・・・三人とも。・・・・あの女・・・・族長の娘。夫・・・・三人持てる」 エスカイは頭を掻きむしりたくなった。当たり前といえば当たり前なのだが、この連中の間では日頃の常識が通じない。 「で、俺にどうしろって言うんだ? 決闘か?」 「・・・・よく判った・・・・お前、なかなか頭良い・・・・」 しかし夫らしい三人の男は、みな丸腰である。 「・・・・次に月が満ちたら・・・・決闘・・・・勝てれば・・・・夫」 「判った、判った。もう判った」 三人の夫は、焚き火の炎よりも激しい憎悪の炎を、その目に燃えさからせていた。果たして“迅雷の白”エスカイの運命やいかに! ◆南部辺境 ルナの赴任地。思ったほどの人数ではないが、とりあえず形になるだけの数は揃った。これからこの荒蕪地を耕し、農地へと変えて行くのである。 「ここからここまではギュリヘツ(※)、こちらにはギュルニを植えて下さい。どちらが土の性に合っているのか、まず確かめることから始めましょう」 文人の長衣を里人と変わらぬ装束に着替えたルナが、開拓民たちの間に入り交じって作業を監督する。 畑の端にある祠には、スキロイル家の祖神である象神と、人の和をはかるゾラ神が祀られている。 しかし作業中にも、脳裏から一つの懸念が離れない。 こちら赴任する途中、クトルトル総本家のあるセイロを経由したのであるが、そこでは「クトルトル家謀叛」の噂が人々の口にのぼり、中には近いうちに辺境軍諸侯に陣触れがまわされるという者もいた。聞き捨てにはできない噂ではあったが、目的を果たさないわけにもいかない。急ぎジュッタロッタへ書状を送ったが、都の反応も気になる。 (私は兵学を修めたはず・・・・いっそ戦場に、いや、都に戻って辺境軍を迎え撃つ軍に加わっても良かったかも) 一瞬、そんな思いがよぎる。 「ルナ様、こちらの用水路の設計は、これでよろしいでしょうか?」 部下が呼んでいる。 (今できることをしよう。迷っていては、どちらにも良い結果が出ないから) ◆北ヴラスウル 「御主人〜、正気ですか〜?」 見事な禿頭の従者マナマラマが、ぶつくさ言いながら呪人ミルコルクの後をついてくる。 「つべこべ言うでないわ! 良いか、その菓子が有れば我らは蘇られるのじゃ。たとえクータル様を見つけ出すのにどれだけ時間がかかろうと、生き返ることさえできれば何の問題も無い」 「とは言いますが〜、見つけるより先にこっちがくたばっちまいますって」 「だからつべこべ言うなと言っておろうが! 黙ってついて来い!」 横暴な呪人(66歳)であった。しかしマナマラマがこぼすのも無理はない。ヴラスウルの山らしい山はあらかた登り尽くし、残すはこの旧マダニャック国一体の山塊のみである。 「諦めましょうよ〜。馬鹿らしい〜」 「馬鹿とは何だ馬鹿とは!」 呪人ミルコルクが三たび怒鳴りつける。 「マナマラマ、お前も一つ取るのだぞ。わしのと合わせて二つ取れるのだ。お前は嬉しくないのか!?」 「山登りを止めてもらうほうが、よっぽど嬉しいですよ〜。そもそもあの話じゃ、登るだけで一日かかるって言うじゃないですか〜。そんな山登ったら、御主人死んじゃいますよ〜」 「馬鹿者! 縁起でもない。たとえ死んだら死んだでそこにソイカが有るからよいではないか。お前がわしに食わせてくれれば、また蘇るのじゃ」 「はぁ〜」 マナマラマが荷物を背負って歩きながら溜め息を吐く。 「おぉ! あれこそ!」 ミルコルクが狂喜の声を上げる。 「あの切り立った崖、話に聞いた山に違いない。急ぐぞ!」 しかし老人の足で、遠くに見えるあの山に辿り着き、山頂に登るにはまだまだ時間がかかるであろう。 「え〜」 あくまで不満気なマナマラマであった。 ラッハ・マク! 続きはまた今度! ※ギュリヘツ、ギュルニはそれぞれサトウキビ、サトウダイコンに似た植物。どちらも煮汁が甘味を呈し、調味料に用いられる。 |