第4回 C-0 ヴラスウル全域


◆セイロ・クトルトル宗家
 武骨な造りではあるが広壮な客間に、二人の男が座っている。
「兵が貸せない?」
 真紅の装束を着込んだ若者が、意外そうな声で聞き返した。
「さよう。シノー殿と申されたか」
 クトルトル宗家の家宰、ギンヌワと名乗った中年の男が、顎髭をなぞりながら答える。不満気な口調でシノーが言う。
「貴家に連なるカジフ殿から託された書状は、お見せした通りだが」
 ギンヌワが、卓の端に置かれた手紙に目をやる。
「このような書状、偽物であるとも限りませぬからな。それに」
 じろり、とギンヌワがシノーに視線を戻す。
「流れの傭兵風情になぜクトルトル家が兵を預けねばならぬと、当主様の仰せでもあり」
「カジフ殿の面目は」
「はて、そのカジフ様はジュッタロッタにて御学業に励まれておるはず。何の理由有って学問のために兵が要りましょうや。ましてやカジフ様は学業の中途であるのに、先般セイロに舞い戻られ、何やら近隣の弓使いどもを漁っておられた様子。兵が要り用ならばその者たちを使えば宜しかろう」
 ギンヌワはシノーから目を離さず、続けた。
「それでなくとも辺境では烈風会とかいう連中に随分と兵を引き抜かれている。シノー殿は遠来の方ゆえご存知でないやも知れぬが、クトルトル家の内情も察して下されよ」
 結局、交渉は物別れに終わった。「実状を知らない」と言われては、シノーとしてはどうすることもできない。が、一つ友人の身について気になることが浮かんできた。
 ・・・・カジフは、もしやクトルトル家の中でも浮いた存在になっているのではあるまいか。中央は辺境のことを知らないと漏らしていたが、それはそのままカジフ本人にも当てはまることではないだろうか。
 ギンヌワの口調は、明らかにカジフがセイロで勝手に行った徴募に不快を示している様子であった。早めにカジフに伝えたほうが良いのかも知れない。
「とにかく、手勢が無いのではどうしようもないな。ここはジュッタロッタのカジフに事情を伝えるべきか・・・・」
 愛馬にまたがったシノーは、しかしさして切迫したでもない様子で呟いた。

◆ジュグラの里
「里を出ていった? 本当ですか?」
 キュイが驚く。
「あの爺さんだろ? しばらく前にな」
 野良仕事をしている男が答えた。
「どこへ向かうと言ってはおられませんでしたか?」
「さぁ、なあ」
 いささか落胆しながら、それでも気を取り直してキュイが尋ねる。
「では、あの老人のこと、何でも構いません。ご存知でしたら御教え願いたいのですが」
「爺さんのことかい。ウキって名前だってのはあんたも知ってるだろ? 顔の造りからしてみりゃ密林蛮族の血が入ってるんだろうな。俺の親父と同じ頃に入植して来たらしいが、随分と力持ちだったそうだぜ。昔は」
「その、入植された時期と言うのはいつ頃です?」
「そうさなぁ・・・・三十年ばかり前になるか。ヴラスウルのお国ができて、大々的に開拓を始めた頃だよな。確か」
「ありがとうございます。役に立ちました」
 キュイが礼を言って小屋に戻る。
 行こう。ウキ老人を追うべきだ。シュライラの草のことをもっと知らなくてはならない。そして闇の領域ことを。
     *      *
「キュイ、いる?」
 小屋の外で、誰かが呼んでいる。この声はツァヴァルだろう。
「ツァヴァルさんですね。どうぞ」
 小屋の戸を押し開け、若い女呪人が入ってくる。
「あれ、出かけるの?」
 旅支度キュイを見てツァヴァルが驚く。
「ちょっと、教えて欲しいことが有ったんだけどな」
「何です?」
「キュイの作ってた草、シュライラだったっけ。あれについて色々聞きたかったんだ。もし、種が余ってたら分けて欲しいんだけど」
「シュライラですか? あいにく今は種の残りが少なくて。それから、私もそれで少し出かける所ができたんです」
 へぇ、とツァヴァルが首をかしげる。
「どこに行くの?」
「さぁ・・・・人を探しながらです。この里に、私よりシュライラのことを知っている人がいたのですが、その人が里を離れてしまったようで」
「じゃ、連れて行ってくれる? 私もその人に聞いてみたい」
「はぁ、それは構わないのですが」
「目星は着いてるの?」
「おそらくは。密林蛮族と縁の有った人のようで、今は砂漠に近い辺りだと思うのですが・・・・そちらに行かれたのではないかと」
「ええーっ! そんなとこ、一人で行くつもりだったの?」
「いけませんか」
 ふぅ、とツァヴァルが呆れた表情をして見せる。
「ユエシュロンが手こずったわけだわ。まったくのん気なんだから。いい? 私が人を集めてくるから、絶対一人で行っちゃだめよ!」
 ツァヴァルはそう言い残すと、キュイの小屋を駆け出た。
「はぁ・・・・」
 取り残されたキュイが一拍子遅れて返事をした。
 再び誰かが戸を叩く。
「忘れ物ですか?」
「何がよ」
 言いながら入ってきたのはこの里にいるもう一人の女呪人ナジュマと辺境軍に属する武人のエスカイだった。
「何だ、あなたたちでしたか」
「文句あるわけ?」
 ナジュマがぶすっとした面持ちで言う。
「いえ。何も。それより何か御用ですか? ちょっと旅の仕度で忙しいのですが」
「じゃ、手早く済ませる。あんたにさ、シュライラのことを聞きに来たんだよ」
「またですか。さっきはツァヴァルさんが同じ用事で来ましたよ」
「ツァヴァルなら、さっき向こうに走っていったが」
 それまで黙っていたエスカイが言った。
「キュイさん、あんたが前にいた森の中の畑には、まだシュライラが植わってるのか?」
「え? ああ、あの畑ですか。いや・・・・これは他の人には内緒にしていただきたいのですが、この前ちょっとだけ覗きに行ってきたんですよ。そうしたら、しばらく雨が無かったせいか枯れてしまっていました」
「そう・・・・」
 ナジュマが残念そうな顔をするが、エスカイのほうは安堵の吐息を漏らす。
「どうしたんです? お二人とも?」
「いや、もしかしたらあの草が闇の領域と魔族を呼び込んだのではないかと思ったんだ。もしもあんたの畑にまだあの草が生えているようなら即刻刈りに行かなくちゃならないからな」
「だーかーらー! 何で前向きに考えないの? あの草で魔族をおびき寄せて、落とし穴とかで一網打尽にしちゃえばいいじゃない! 名案だと思うんだけどなぁ。キュイはどう思う?」
「面白い考えだとは思います」
 ナジュマが我が意を得たりとばかりにうなずく。
「しかし」
「何よ」
「集まった魔族を一度に相手にしきれるかどうか。一番頼りになる烈風会の皆さんは兵の大半を率いて都に向かってしまいましたし」
「あたしとツァヴァルとユエシュロンのまじないで何とかしてみせるわ」
「そううまくいくと良いのですが・・・・」
「あ、なーに? 疑ってるわけ?」
「いえ、決してそういうつもりはありません。しかしですね、根本的な問題として、私もそれほど多くのシュライラを育てたことは無いのです」
 キュイがエスカイとナジュマの二人に向かって続ける。
「もっとシュライラのことを知っている人がいます。ツァヴァルさんたちと、その人を訪ねに行くつもりだったのですよ」
「だから旅支度なんかしてたの?」
 キュイがうなずく。
「じゃ、あたしも行く!」
「はぁ。遠いですよ。砂漠のほうまで行った密林蛮族と接触しなくてはならないかも知れません」
「キュイ」
 エスカイが言う。
「タファンも密林蛮族に尋ねたいことがあると言っていた。万が一のことが有っては行けないからな、同行するよう話をしておく。俺も一緒に行きたいが、インカムから里の周りの警備を任されている。離れるわけにはいかない」
「はい」
「周辺の巡視に出ているシャーンが戻ってきたら、話をしてやろう。あいつも闇の領域や魔族についての情報を集めたがっているようだったしな」
     *      *
「イルガさん!」
 ばさっ、と扉代わりの莚を跳ね上げ、イルガの小屋にツァヴァルが顔を出した。
「な、なに?」
 イルガが慌てて絵文字を書きつけていた紙を背中に隠す。
「お願いして、いいかな?」
 ツァヴァルがそれに気づかず尋ねた。イルガが仕方なくうなずく。
「キュイさんたちと一緒に、南の砂漠のほうまで出かけることになったんだ」
「へぇ」
「イルガさん、この辺り詳しいし、旅慣れてるでしょ? できれば、一緒に来てくれないかなと思って」
「え・・・・俺?」
「そう」
「役に立つかな・・・・」
「大丈夫よ。あれ?」
 イルガが持ち出すばかりにまとめておいた荷物が、ツァヴァルの目に留まる。
「何だ、準備もできてるじゃない。じゃ、お願いね」
 ツァヴァルはイルガの返事も聞かず、上機嫌で小屋を出ていった。
「あの・・・・俺、里・・・・出る・・・・」
 言い出す機会を逸したイルガは、しばらく何事か呟いていたが、ヤケになったように立ち上がる。
「わかったよ。付き合えばいいんだろ。付き合えば」
 乱暴に荷物を引っ担ぐと、ツァヴァルの後を追っかけるように駆けて行った。そのイルガの後を、鷹が一羽、さっと飛んで着いて行く。

◆シュレイの小屋
「クテロップ様が、御病気・・・・」
 その知らせを耳にして以来、シュレイに元気が無い。元気者で通っていただけに、里の人々、特にいつも可愛がってもらっている子供たちが心配し、何かと気遣ってくれている。
「神様・・・・、クテロップ様の御病気、なにとぞ治してください。お願いします」
 祈るシュレイの脳裏に、摂政の職に就く前のクテロップが村を視察に現れたときの姿が浮かぶ。温厚そうな笑みを浮かべ、農民たちの暮らしぶりを細かに見聞していった。村の顔役であった父とともに、直に言葉をかけてもらい、感動したのを覚えている。
《娘・・・・娘・・・・》
 不意に、外界の音が途切れる。はっとして目を開くが、外は闇に覆われている。(どうして? まだ昼間だったのに!)
《娘・・・・》
 どこからか、声が聞こえる。だんだんと近づいてくるその声は、シュレイの目の前で止まった。微かに感じることができた。目の前に、ひどく密度の濃い何かがいる。闇しか見えないのに、一段と暗い闇がそこに蠢いている。
《助からぬ・・・・あの男はもう・・・・》
(誰! もしかして、神様?)
《・・・・身体が保たぬ・・・・もはや・・・・》
(治してください! お願いします! ) シュレイが心の内で叫ぶ。
〈アウブ、悪趣味は止めなさい〉
《ゾラか・・・・しかし・・・・真実を述べたまでよ》
〈知らずとも良い真実があります〉
《・・・・そうか・・・・これは知らせずとも良いか・・・・》
〈娘よ、あの男の縁を手繰るか?〉
 ゾラであるらしい声が尋ねた。
(はい!)
 シュレイが思わず答える。
〈あの男は、長い夢の中におる。何を夢見ているか、お前もその目で見るか?〉
(は、はい)
〈ならば〉
 ゾラの声が途切れる。ふっと目の前に霞がかった光景が浮かぶ。
 寝台の上に寝かされた男。もう一人の男が、その枕元に立っている。
(誰?)
 やがて霞が晴れる。今よりもやや若く血色の良いクテロップが立っている。寝かされている男の顔にも見覚えがある。
(前の王様・・・・メグーサイ様?)
『クテロップ・・・・もはやこれまでのようだ。そう長くは保つまい』
『陛下、弱気なことを。まだミカニカ様が幼い今、陛下に万が一のことが有れば、このヴラスウルはどうなります。気を強く持たれませ』
『お主がおれば心配は無い・・・・ミカニカを、くれぐれも頼む』
『陛下!』
『返事を・・・・』
『・・・・謹んで。このクテロップ、命を懸けてミカニカ様をお盛り立ていたします』
『・・・・そうだ。それでよい。・・・・その文箱を開けよ。中に勅書を入れておいた。遺詔となるであろうがの・・・・』
『陛下、そのような』
『・・・・開けよ・・・・そして、読め』
『は』
 クテロップが文箱を開き、中の書状を取り出す。文面に目を走らせていたクテロップが声を上げる。
『陛下、これは!』
『・・・・どうした』
『ミカニカ様に、婿でございますか? しかも』
『そうだ・・・・少しばかり早いが・・・・探しておけ・・・・』
『は』
『あの王には、妾腹で子が有ったと聞いておるが・・・・ミカニカとでは歳が釣り合うまい・・・・それに、血が濃すぎよう・・・・血筋を引きながら、少しでも遠い血縁が良い・・・・』
『王子の、御子にございますか。つまりは王孫』
『そうだ・・・・王太子ももう子の有る歳であった・・・・探せ・・・・』
『承知つかまつりました。必ずや、探し出しまする』
『頼む・・・・ヴラスウルを盤石ならしめるのは・・・・この縁組・・・・』
『は』
『罪深きは・・・・あの王のみ・・・・時も過ぎた・・・・血筋を迎えたとて、もはやティカンも何も言うまい・・・・』
 ふたたび霞がシュレイの見ていた光景を覆う。
〈娘よ〉
(はい)
〈我らの力も、もはや及びません。あの男には、すでにラノートが迎えを出しています〉
(・・・・でも・・・・)
〈諦めなさい〉
 すう、と意識が薄れる。
「姉ちゃん、シュレイ姉ちゃん」
 誰かが身体を揺すぶる。奇妙に気だるい気分がする。
「起きてよ! 昼寝なんかしてないで、遊ぼうよ!」

◆ジュグラの里・郊外
「ヘクトールさん」
 二十人ばかりの男たちを指揮し、開墾を進めさせていた男に、ユエシュロンが声をかけた。
「精が出ますね」
「ああ」
 ヘクトールが汗を拭いながら振り返る。呪人の装束を着込んだユエシュロンがゆっくりと歩いてくる。
「はかどりますか?」
「まあまあ、だ。そちらのまじないのほうは?」
「ここの畑が最後です」
「そうか」
 ヘクトールが声をかけ、開墾に従事している男たちに休憩を取らせる。
「朝からまじないをかけて廻っていますからね。私もお腹が空きましたよ」
 馬蹄の音。道の向こうに、騎馬の姿が見えた。
「誰だ?」
 ヘクトールが目を細めて眺める。
「レンセルか。いや、もう一人いるな。見ない顔だ」
 騎馬の男たちが、こちらに駆けてくる。
「レンセル、どうだった?」
 ヘクトールが声を掛ける。レンセルと呼ばれた片目の男が、首を振ると馬から飛び降りた。もう一人の男もそれに従う。
「打てる時にできるだけの手は打っておくつもりだったが、そもそも兵隊のなり手がいなくてはどうにもならん」
「どういうことだ?」
「根こそぎ烈風会の連中が徴募していきやがった。自警団の人数をこれ以上増やすのは難しかろう」
「そうか・・・・」
「クトルトル家麾下の辺境軍からも相当な人数が引き抜かれている。ヘクトール、そちらで何か聞いていないのか?」
「いや・・・・ここは離れすぎている。セイロの様子までは判らん。それより」
 レンセルの後ろに立っている男に視線を移しつつ、ヘクトールが尋ねた。
「そちらは?」
「ああ」
 レンセルが振り返ると、男が口を開いた。
「ククハラだ。密林蛮族を探して森に入るつもりだったが、この人に止められたよ。一人で入ったら戻って来れんとね」
「その通りだ。それにレンセルから聞いたとは思うが」
「もう密林にはいないんだってな」
「そうだ。かなり前に南下したらしい」
「仕方が無い。そいつらを探しに行くさ」
「それなら」
 ユエシュロンが言った。
「この里にキュイという学者がいる。数人で蛮族のもとを尋ねると言っていた。それに同行するのが得策だろう」
「へぇ。そういう物好きが俺以外にもいるのか」
「あなたがどういう目的で蛮族に会いたいのかは知らないが、邪魔さえしなければキュイも拒みはしないだろう。傭兵と見受けたが、道中の警護でもしてやってくれ」
「ああ。そうさせてもらう」

◆辺境・ジュグラ南方
 ジュグラの里を発ってしばらく経った。一行は、ひたすら未開拓の荒れ地を南下して行く。もとより正確な地図などは無いが、リダイ河に突き当たるまでは、何も考えずに南に向かうのが最良の進路であろう。
 一行も、考えていたより大所帯になった。キュイ、ツァヴァル、ナジュマの他に、烈風会からタファンとシャーン、ツァヴァルに誘われたイルガ、レンセルの紹介で同行することになったククハラ。総勢七人が、それぞれの荷物を背負って歩を進める。
「まったく、誰か象の一頭ぐらい都合できなかったわけ? なんでこんな重い荷物自分で持たなくちゃなんないのよ」
 ナジュマがぶつぶつ愚痴る。
「そう言うな。何といっても象は高価だ。暑さに弱い馬が使えない以上、人の手で運ぶしかないさ」
 タファンが振り返りつつ言う。
「キュイ」
 シャーンが先頭を行くキュイに声をかける。キュイも道中の用心のためと言ってなたがみを一本担いでいるが、普段の書生臭いキュイの様子を見ているだけに、どうにも不釣り合いに見える。
「水が乏しいんだ。この前みたいに都合よくニーカリ(※1)が来るとも限らない。どこか汲めるところで補給しないか?」
「そうですね」
 とは言ったものの、何せ地図も無い土地である。都合よく湧き水や沢などが見つかるとも限らない。
「水かい?」
 イルガが言った。こと里を出てから、途端にイルガの元気が増した。小柄な体のどこにそんな体力がと思えるほどに疲れを見せず、キュイに替わって先頭に立ち、一行を導くこともしばしばであった。
「ちょっと、見てきてくれよ」
 肩に乗せていた鷹に何事か言い聞かせると、その鷹を空に放つ。
「すぐに戻ってくるさ。そうしたら、あいつが案内してくれる」
 イルガが自信たっぷりの顔で言う。
 ともあれ、鷹が戻ってくるまでは一行も小休止ということになった。
「どうして魔が増えたんだろうなぁ。そもそも、魔って一体何なんだろう」
 タファンが地面に座り込みながら、誰に言うとでもなく漏らした。
 誰も返事をしない。鷹の消えた方向を眺めているイルガを除き、全員が全員、疲れきった表情をしている。じっと黙り込み、照り付ける太陽に炒られながらしばらく過ぎた。
「戻ってきた!」
 イルガが声を上げる。イルガの頭上まで舞い戻ってきた鷹が、その目の前に爪で掴んでいた何かを投げ落とす。
「魚だ! 川魚だ!」
 まだ生きており、跳ねるように身をくねらす魚を掴みあげて見せるイルガの喜びの声に、全員が顔を上げる。
「大っきいぞ! でかい川があるんだ!」
「すると」
 キュイが言う。
「ようやく、リダイ河ですか。ここまで来れば」
「そうだね」
 ツァヴァルがやつれた顔を上げる。

◆リダイ河川原・密林蛮族の集落
(いやはや、極楽、極楽)
 “火消す氷の”トリクは御満悦であった。目指す大密林には辿り着けなかったものの、この集落には蛮族とはいえ女がいる。川原には珍しい石がごろごろしている。
 行き倒れているところを蛮族たちに助けられてから、あまりの居心地の良さにすっかり居着いてしまった。身の回りの世話をしてくれる女と意志を疎通させたいがために、必死で彼らの言葉も覚えた。元来物覚えの悪いほうではない。すでに相手が何を言っているのか、大概のことは理解できるようになっていた。しかし密林蛮族たちの言語は、カナン人にとって普段使わない発音が多いため、こちらから喋りかけることができるようになるまでにはもうしばらくかかりだろう。
「急ぐ旅じゃなし。のんびりやるさ」
 トリクがそう言って拾い集めた石を磨き始めると、天幕の外が騒がしくなる。さえずるような蛮族たちの声が飛び込んでくる。
「何かあったのかな?」
 トリクは立ち上がると、天幕の入り口に垂らしてある布を捲り上げた。
     *      *
「ここが・・・・?」
 一昼夜ほど前であったろうか。リダイ河のほとりで休息していたキュイたち一行は、密林蛮族と遭遇した。いや、遭遇というよりは、捕獲されたといったほうが正確かもしれない。川原に辿り着くと、疲れと安堵感から全員が泥のように眠りこけてしまい、気がつけば一人残らず縄で縛り上げられていた。
 密林蛮族はさほど狂暴な種族ではないとは言われているが、中には人肉を好んで食らう部族もある。
 槍で脅されながら、捕虜となった一行は下流の川原にある彼らの集落に連行された。途中、彼らと交渉しようとしなかったわけではない。しかし何にせよ、まるで言葉が通じないのだ。最悪の事態が予想されながらも、何の対処もできない状況に甘んじるほか無かった。
「・・・・・! ・・・・・・・?」
 一行を連れてきた蛮族の一人が、大きな天幕の中に消える。ふたたび現れた時には、年老いた蛮族の男と、もう一人、キュイの知った顔の老人を連れていた。
「あなたは!」
 思わずキュイが叫ぶ。
「おお? お主?」
「キュイです。ジュグラの」
「なぜ、ここに」
「あなたを探しに参りました。ご老人。ここにいるのはみな私の友人たち。縛めを解いていただくわけには参りませんでしょうか?」
「うむ」
 老人はうなずくと、長老らしい蛮族の男に、耳慣れない言葉で話しかけた。長老は二、三度首を振ったが、老人が何度も頭を下げる様子を目にすると、しぶしぶ、といった調子で蛮族の男たちに指示し、一行の手首を結わえている縄を解かせた。
「礼を言います。御老人」
「あー、もう。たまんないよね。血行悪くなっちゃってさ」
 ナジュマが手首を振りながらぶつぶつと悪態を吐く。
「で、キュイ。この人なのね?」
 ツァヴァルが注意深く老人を観察する。蛮族との混血なのであろう。目や鼻の形が、わずかではあるがカナン人のものとは違う。
「お爺さん、私たち、シュライラのことを教わりに来たんです」
 途端、周りを取り囲んでいた蛮族たちがざわめく。
「・・・・シュライラ・・・・?」
「シュライラ! ・・・・! ・・・・!」
 ツァヴァルがぎょっとして周りを見回す。
「あ、何か、おかしなこと言った?」
「娘」
 老人がカナン語で呼びかける。
「いや、お主ら。こちらに来い」
 顎をしゃくって老人が歩き出す。慌てて一行がその後を追う。老人は、別の天幕の中に一行を招き入れた。
「ウキ爺さん、どうかしたのかい?」
 その様子を見ていたトリクが、声をかけた。
「ヴラスウルからの客じゃ。話が聞きたければお主も来い」
「ああ」
     *      *
 天幕の中にウキとキュイ一行、トリクの九人。いささか蒸し暑いが、昼日向にいるよりは日差しを遮ってくれるだけ天幕の中の方が過ごしやすい。ウキが一同の顔を見回し、トリクを紹介した。
「この男はトリクと申してな、神人ながらなかなかの学者じゃ。幻の街を訪ねたことがあると言う」
「へぇ」
 ナジュマが珍しく感心したような声をあげる。
「どうしてこんなところにいるのさ」
「大密林を冒険して、魔族の美女でも探してみたいと思ったんだが、ちょっと都合でね」
 その言葉を聞いた途端、キュイをはじめとする一行が妙な顔をする。
「学者さんが一人で入ってったら、もう出てこれないよ。あの森はもう魔族の住処だ」
 ツァヴァルが言う。
「それにね、あんたたちきっと何か勘違いしてるよ。魔族に美人なんていない。あんなところをウロウロしてるのはムカデのお化けみたいな奴とか、ンギの大きくなった奴とか、そんなのばっかりだ」
「心配してくれるのか。きみ、名前は?」
「ツァヴァル」
「惚れた!」
 ナジュマが「どっかおかしいんじゃないの」という表情をする。ツァヴァルも呆れた表情を隠さない。
「いい加減にしろ!」
 タファンが声をあげた。
「俺たちはそんな与太話を聞きに来たんじゃない。ウキさん、あんたに聞きたいことが有って来たんだ」
 怒鳴りつけられて、トリクもしぶしぶ引き下がる。
「そうなんです。ウキさん。あなたはこの間、私にシュライラの話を聞かせてくださいました。シュライラの特性を知らずに育てていたのは、私の不勉強です。しかし、その特性を逆手に取り、毒を薬として用いることはできないものでしょうか。私はその術を探しています」
「もしもご存知のことがあるのでしたら、教えてください」
 ツァヴァルが頭を下げる。が、ウキは首を左右に振った。
「キュイよ、お主が魔に取り込まれなかっただけでも僥倖と言うべきじゃ。薬にできる毒は限られておる。猛毒はいくら手を加えようと毒にしかならぬ。闇の領域の産物は、我らの手におえるものではないのじゃ」
「ほーらね、やっぱり正攻法でいいのよ。あんたたちみたいに回りくどいことしなくても、どばっとシュライラ植えて、匂いにつられて来た魔族をやっつけちゃえば。一番簡単で確実じゃない!」
 ナジュマが得意げに言う。
「あの花は闇の領域を、魔族を導くのですよ。そうそう沢山栽培したりしては」
「何よ。キュイ」
「ナジュマさん、やはりあなた一人では手におえなくなるかも知れない。いや、我々が全員がかりでも、一度押し寄せた闇の領域は、押し返せません」
「そうだ、ウキさん。もう一つ聞かせてくれ。その闇の領域のことだ」
 黙って聞いていたタファンが尋ねた。
「蛮族たちの間では、やはり魔族の跳梁は闇の領域の接近に由来すると考えられているのか?」
「うむ」
 ウキがうなずく。
「では、どうして闇の領域が近づいてきたか、それはどうなんだい?」
 今度はタファンに代わってシャーンが尋ねた。
「クンカァンの奥のほうはほとんど闇の領域に飲み込まれたと聞いてる。クルグランがウラナングに叛旗を翻したのは、それと何か関わりが有るのか?」
「クルグラン王のことは、知らぬ」
 ウキが苦い顔をして答えた。
「わしも全てを見通す目を持っているわけではない。何らかの関わり合いはあるかも知れぬが」
 ばさり、と音がして入り口に掛けられている布が捲り上げられる。長老が、何事か蛮族の言葉でウキに話かける。
「・・・・・。・・・・・・、ウキラナガ?」
 タファンとキュイがぎょっとして目の前のウキと名乗る老人の、その皺だらけの顔を見つめる。
「あなたは、もしや」
「ウキラナガ・・・・、ソジ王の、将軍?」

※1 カナン全域で見られる激しいにわか雨、スコール。

リアクションのページに戻る

目次に戻る