第3回 C-1-2 首都ジュッタロッタ(その2)


◆ジュッタロッタ・ミトゥン神殿
 ルヴァナらの尽力によって神殿内に孤児院が設けられてしばらく経つ。このジュッタロッタで行き場を失っていた哀れな子らが、一人二人と孤児院に迎えられその日の食べ物を与えられているばかりか、後々のために手に職をつける訓練まで施されるというので、すでにちょっとした評判になっている。なんでわざわざそんな勿体無いことを、と不可思議がる者がいないでもなかったが、おおかたの市民はこの孤児院に好意的であった。
 そのルヴァナが一人の人物を連れて孤児院を訪れた。彼が街で知り合ったその人物は、シュリと名乗る若い酒場女で、按摩の心得があるという。ルヴァナとしては酒場女といういささかいかがわしい商売の者を子供たちの教師として招くのには少しばかり抵抗があったが、話してみれば人は好さそうであるし、何よりも彼女の熱意に折れてのことである。
 神殿の門をくぐり、本殿の脇に建てられた小屋に向かう。宮大工のシーッツァが腕を揮った建物は、急ごしらえだというのになかなかたてつけも良く、少々手狭ではあるが当分は十分役に立ちそうであった。
「あ、兄ちゃん!」
 庭で遊んでいた子供たちが、ルヴァナを見つけて駆け寄ってくる。
「お土産は?」
「ほーら。干しブドウのお菓子だ」
「やったぁ! ちょうだーい」
「お行儀よくね、手を洗ってから」
 ルヴァナに促されて子供たちは井戸のほうへ急いでいった。
「ああいう子供たちだよ」
「可愛くて、いいね」
 シュリが笑みを浮かべて言う。
「子供たちの話し相手とかにもなるし、按摩を習いたいって子には教えてやるよ。置いてもらっていい?」
「とりあえず、しばらく様子を見て、それで決めるよ」
「じゃ、今日から置いてもらうよ。それから、一つお願いがあるんだ」
「なに?」
「字の読み書きも教えてるんだって? あたしもそれを習いたいんだ」
「そうだね、それぐらいなら」

◆孤児院の庭
「だからね、神様ってのはほんとにそこらへんをうろうろしててね、いつでも会おうと思えば会えるの。神様って、すぐそばでみんなを見守ってくれてるの」
 石に腰掛けたモンジャが、数人の子供たちを前に何やら話している。
「それで、もしかしたらあなたたちも聞いてるかもしれないけど、イーバの滝で神をも恐れぬ悪党が、色んな人を殺しちゃったのよ。わたしもそれを聞いたときにはすごくびっくりしたの」
 モンジャが子供たちの顔を見回すが、どうも反応がいま一つで、みな判ったような判らないような顔をしている。
「ほら、みんなもし隣のお友だちが死んじゃったらら悲しいし、怒るでしょ? それとおんなじ。みんな神様を信じてるんだから、仲間なのよ。その仲間が」
「こんなとこにいたのかい。何やってんでぇ? モンジャさん」
 シーッツァ神殿の向こうからひょいと顔を覗かせる。病室に休ませていたモンジャの様子を見にきたのであったが、彼女の姿が無いのを不審に思って探していたところであった。
「あんたは休んでなくちゃだめだって言ったじゃねぇか。いつ発作だか何だか起こるのかわからねぇんだからよ」
「いえ、わたしは仲間たちがイーバで殺されていると聞いて居ても立ってもいられなくて、この子供たちと一緒にイーバの滝で敵討ちをしたくて、それでみんなで行こうねって話をしてて、病気がどうこうなんて神の世界と比べたらほんのささいなことにすぎなくて」
 シーッツァが手を振って遮る。
「わけのわかんねぇこと言うなよ。な、モンジャさん。あんたはまだ病気なんだろ? だからそう突拍子もねぇこと考えちまうんだよ。ヌシキさんの作ってくれた薬を飲んで、元気になってからにしねぇか?」
 シーッツァがしぶるモンジャを立たせ、半ば無理矢理に近い格好で病室に連れて行く。子供らは結局何が何だかわからないという顔で、ぽかんとその後を見送るばかりであった。

◆王宮・ミカニカ女王の私室
「失礼いたします」
 侍女が扉を開き、室内のミカニカに拝礼する。
「陛下、マウカリカ様が参られておられます」
 ミカニカが書き物の手を止めて、向き直った。
「お通ししなさい」
「はい。マウカリカ様、どうぞ」
 廊下から、娘が入室し、ミカニカに拝礼する。マウカリカは王室に連なる女性の中では最もミカニカに歳が近い一人で、王位に就くまでの彼女とは、家格にひらきこそあったものの比較的親しい間柄であった。
「ご機嫌いかがですか、陛下?」
「元気にしています。あなたは?」
「ええ、私も。ところで」
 マウカリカは室内を見回して奇妙に思った。先の侵入者騒ぎからこのかた、べったりとミカニカに貼りついていた衛士たちの姿が見えない。
「あの、お付きのかたたちは?」
「定例の会合です」
「そうでしたか」
「マウカリカ、用件は何です? いくらあなたといえど、無駄話をする時間は割きたくありません」
「はい。では申し上げます」
 マウカリカの口調が引き締まる。
「先日、微行にて城下の護民兵の見習いをして参りました。」
「あいかわらず物好きなことですね。あなたは」
「ええ。おかげで、近頃街を騒がせている人拐いと思われる曲者との捕物も、この目で直に見て参りました。そこでお願いがあるのです」
「何ですか?」
「取り締まりのために、自由に動かせる手勢をお任せ願いたいのです」
 ミカニカがじっとマウカリカを見つめる。この射るような目つきが増えたのは、彼女が王位に就いてからのことであった。年長の親族、友人をも、臣下として率いてゆかなくてはならなくなった少女にとっては、わずかでも甘さを見せるわけにはいかないのだろう。
「マウカリカ、よくお考えなさい。もしあなたにその権限を委ねたら、いま護民兵を預かっている者たちがどう思います? 王が十五の小娘に強権を与えられたのは我々を無能と見てのことか、小娘が王族であることを鼻にかけてしゃしゃり出おって」
 ミカニカはそのまま続けた。
「そう思われるのが落ちです。あなたにとって得にはなりません。護民兵と連携しての捜査活動などにも悪い影響が出るでしょう」
「でも」
「あなたの言いたいことは良く判ります。間に人をお立てなさい。軍の者でも、護民兵の隊長などでもよい、あなたに賛同してくれる者をお探しなさい。その者からもう一度私に今の案を進言する形を取るか、あなた自身を推挙させて正式な護民兵の部隊を預かる形になるか。それはあなたがお選びなさい」
「はい」
 ミカニカの声が柔らかくなる。
「その発案の主があなたであることは、決して忘れません。ジュッタロッタを案じてくれたこと、国王として感謝します」
「私、この国とミカニカ様が大好きですから」
「ありがとう。」
 マウカリカが再び作法通り拝礼して退出しようとした時、廊下に控えていた侍女が慌てて扉を開けた。
「陛下!」
 ミカニカが不審げな顔をする。
「何事です?」
「たった今、クテロップ摂政殿下が」
「摂政がどうしたのです?」

◆王宮・摂政執務室
「なるほど、な」
 クテロップが机に向かい、何事か考えている。机の前にはククルカンとダッシャアの二人の近衛武人が並んでいる。
「ダッシャア。最初の案は良かろう。いつまでも暗殺未遂事件を引きずっておったのではヴラスウルの屋台骨が疑われる。あの件はお主の案通り、早々に決着を着けさせよう」
「は」
「しかし軍備についてはな、傭兵に依存しすぎるわけにはゆかぬ。付け焼き刃の槍ばかりを揃えても国力とは言えぬ。まして今現在抱えている兵を削るとなれば反発も強かろう」
 ダッシャアが口を開く。
「平時に兵を養う金も時間も無し、と存ずる。武人の出番は非常時のみ」
「そう。それよ。もはや平時とは呼べぬ。カヤクタナは壊滅寸前、となればクンカァンの次の狙いは聖都ウラナング」
「動きますかな。聖都は」
 ククルカンが静かに尋ねた。
「いずれ派兵要請が来よう」
 クテロップが立ち上がり、机の上に地図を広げる。
「クンカァンはカヤクタナに侵入こそしたが、『切り取る』という意志で動いているわけでは無いと見た。街道を突き進むに当たって、邪魔をしたカヤクタナ軍を蹴散らしたまでではないかとな、こう考えるのだ」
 クテロップが盲目のククルカンの手を取り、諜者の知らせてきたクンカァン軍の位置を指で押さえさせる。
「すでにクンカァンの先鋒はここまで進んでおる」
 街道をなぞらせてエレオロクまで指を進ませる。
「モロロット二世王が不在となれば、ここエレオロクも保てまい。そして」
 すっとその指が動く。
「ここに進む。ウラナングだ」
 聖都ウラナング。クンカァンの大魔軍を向こうに回して、聖都軍が気休め以外の役に立つであろうか
 咳音。
 ダッシャアが見つめていた地図に、ぱっと赤い花弁が散った。
 再び咳音とともに鮮血が散る。
「殿下!」
 ククルカンが自分の腕に降りかかった熱い液体の正体に気づいた。
「ダッシャア、殿下を!」
 言われるまでも無く、巨漢のダッシャアが倒れ込んだクテロップを抱え起こす。
「殿下! クテロップ殿!」
 ダッシャアの手に抱えられ、蒼白な顔色のクテロップが薄目を開ける。
「ク、ククルカン殿・・・、」
 喋るごとに唇から鮮血が流れ落ちる。ぜいぜいという苦しげな呼吸音がククルカンの耳にも届く。
「喋られますな。すぐ医者を呼び申す」
「・・・その前に・・・ククルカン殿・・・王軍と・・・近衛軍を頼む。陛下より・・・お預かりした指揮権・・・貴殿を措いて・・・他に任せられぬ・・・」
「殿下!」
「辺境軍・・・クトルトルの動き・・・気を配られよ。インカムらの力・・・王軍に繋ぎ止めて・・・。・・・ダッシャア・・・」
「は!」
「・・・陛下と・・・陛下の王位・・・お守りいたせ・・・。ルナと・・・テララッハ・・・二人を王宮に・・・」
 言い終えると、呼吸が苦しいらしくクテロップが喘ぐ。
「ダッシャア、わしが殿下を見る。急いで医者を」
 ダッシャアが黙ってうなづき、ククルカンにクテロップの身体を預けると、部屋を飛び出していく。
「殿下、殿下! しっかりなされよ! 「・・・まだ・・・死ねぬ・・・先王・・・陛下の・・・遺詔・・・まだ・・・陛下に・・・」
「殿下!」

◆ミトゥン神殿裏
「ほら、ここ痛んでるじゃない。」
「よっし、すぐに直してやらぁ」
 ミニャムとシーッツアがかがみ込んで神殿の木の壁を調べている。こんこん、とシーッツアが木槌で壁を叩く。
「二重になってるな、こいつぁ。この辺りじゃあ神殿にしか使わない建て方だ。外か内かわからねぇが、虫に食われてるんだろうよ」
 手際良く外板を止めている木釘を緩める。べり、と音がして、外板が外れる。
「え?」
「なんでぃ、こりゃ?」
 現れた内板には一面の虫食いの跡が有り、もう板としては使い物になりそうもない。
「こいつぁ剥がして新しい板に張りかえるしかねぇなぁ」
 試しに木槌で叩いてみるが、板の上半分がボロボロと木屑となって崩れ、いかにも脆くなっているのがわかる。
「ちょっと待って」
「どうしたぃ?」
 ミニャムが再びかがみ込み、残っている下半分の虫食いの跡をなぞり始める。
「あたし、字とか読めないんだけどさ、これ、何だか並んでるみたいだし、何か書いてあるんじゃない?」
 言われてシーッツァも覗き込む。神殿に出入りするだけあって飾り文字の形ぐらいは判別できるのだが、確かに何個所か、それに似た文字が書かれているのに気がついた。
「こりゃやっぱ字なんだろうなぁ。誰かちゃんと読める人、いたんじゃなかったか?」
「ルヴァナさんなら読めるよ。きっと。子供らに教えてるくらいなんだしさ」

◆孤児院内
 シーッツアが慎重に外してきた内板を囲み、孤児院に居る面々がルヴァナを待っている。しかし一向に彼が現れる気配は無い。
「来ないねぇ」
 ヌシキが言う。
「そういやミリムナもいねぇな。誰か呼んで来ねぇかい? また唄教えてるんだろう。子供らに」
 ンパラナが言った。ミトゥン神殿の神人にも聴いてみたのだが、随分と古い時代の字体で書かれているため彼にも読むことができないと言う。
「しかし随分と脆くなってるね。このままじゃ読めなくなっちまうよ。今のうちに写しておこうか。絹布か柔らかい紙、あるかい?」
 神人が信者から寄進された練絹を一巻き持って来る。
「さぁ、それじゃ。やってみようかね。こいつぁシーッツァも知ってると思うけどな、古くなった浮き彫りの模様なんかを写し取る方法だよ。そうだ」
 ンパラナがミニャムのほうを向いて言った。
「悪いけどさ、子供たちを呼んできてくれねぇか? 見せてやりてぇんだ」
 ミニャムがうなずいて駆け出す。ンパラナはクタから持ってきた道具袋を開け、中から小袋に入れた炭の粉とバシルの胸の羽根を一本取り出す。
「さて、こいつぁ絹だから水を吹き付ける必要もなし、と」
 ンパラナが絹布を広げて板の上にそっと覆いかぶせ、四隅に重りを置いて固定すると、扉から子供たちがぞろぞろと部屋に入ってきた。
「さぁ、見てるんだよ。今からね、こういう模様の写し取り方ってのを見せてやるから」
 炭の粉を手に取ると、さっと絹布の上に撒く。それを羽根でもってそっと広げていく。徐々に下にある板の模様が絹に写し取られてゆく。大概写し取ったあたりでンパラナが羽根を置き、絹布の隅を両手で持ちあげた。
「さぁ、この加減が難しい。良く見てるんだよ」
 ふぁさ、と静かに絹布が振られると、乗っているだけだった炭の粉が飛び、写し取られた模様だけが絹の上に残る。
「どうだい? 上手いもんだろ?」
 ンパラナが布を広げて子供たちに見せる。
「きんいんはつづみをならしえず、こせいはことをだんずるあたわず」
 子供の声。部屋の中の大人たちはぎょっとして一斉にその声の主を見た。視線が集まったのはこの前拾われてきたンニンリという七、八歳の男の子だった。普段はほとんど口をきくところを見ない彼だったが、今は確かにこの文字らしきものを見て、読み上げるように喋った。
「お前、読めんのか?」
 シーッツァが勢い込んで聴いた。途端、ンニンリが泣きそうな表情になる。
「ほら、脅かしちゃだめ」
「すまねぇ。でもよ、どうしてでぇ? どうしてンニンリがこの古臭い字を読めるんでぇ」
「ごめんなさい、あの、遅くなって」
 その時、ミリムナがオヴュナを連れて部屋に駆け込んで来た。
「子供を捜してるって人が来てましので、色々聴いてました」
 ふとミリムナが机の上に広げられた絹布に目を留める。
「これ、古い字ですね。何ですか?」
 ずっと黙っていたルヴァーニが口を開いた。
「読めるのか?」
「うーん。ちょっと待ってください」
 しばらくミリムナは空中に字を書くような仕草をしながら考えていたが、やがて読み上げた。
「琴音は鼓を鳴らし得ず
 鼓声は琴を弾ずる能わず
 大滝の轟きは鼓声に似たり
 風砂の囁きは琴音の如し」
 しん、とした部屋の中にミリムナの読み上げる声が響いた。歌姫をやっているだけに良い声である。
「ンニンリが読んだのと同じだな。最初の部分だけだったが」
 ルヴァーニが静かに言う。ミニャムが感心した風情でミリムナに尋ねた。
「ミリムナ、大したもんだねぇ。こういう字が読めるなんてさ。どっかで教わったのかい?」
 シュリが言う。
「歌姫ともなると、色々古い詩なんかも読まなくちゃならないし、こういうの習うの?」
 ミリムナが曖昧にうなづく。
「それで、だぁな」
 シーッツァが渋い表情を作る。
「この詩の中身も、崩れちまった上半分にゃ何が書いてあったのかも気になるがな。ンニンリがどうしてこいつを読めたかってぇのがひっかかりやがる」
「ね、誰に教わったんだい?」
 今度はンパラナが優しく聴いた。
「かかさま」
 おどおどしながら、一言だけンニンリが答える。
「親御さんもこいつが読めるような大層な御身分ってぇことか?」
「ミリムナみたいにどっかで教わったってこともないだろうねぇ。まだこんな小っちゃいんだしさ」
「あ、そういえば」
 ミリムナが思い出したように言う。
「さっき来てた人も、身分ある人の子供が行方知れずになってるんで、探しているとか言ってました」
「どういう人だった?」
 シュリが尋ねた。
「何だか上品そうな人だったけど、なたがみとか持ってたから、お武家さんかも知れない。もしかしたら傭兵かも」
「で、どうしたんでぇ? そのお人。もう帰っちまったか?」
「それだけじゃちょっと判りませんって言ったら、また寄るかも知れないって言ってどっか行っちゃいました」
 大人たちが再びンニンリを見つめる。ンニンリは居心地悪そうにきょろきょろと視線を動かすが、扉を開けてルヴァナが入ってきたのを見つけ、顔をほころばせた。そう言えば、ンニンリが最も慕っているのはルヴァナであった。
「すまない。遅くなって。宮廷で大事が持ち上がってて」
「何だい? 大事って」
「摂政殿下が病気で倒れたんだ。あんまり子供たちに関わりの有ることじゃないけど、ミカニカ様から急なお召しが来てたから、行かなくちゃならなかった」
「それよりさ、ルヴァナさん。こいつ、読めるかい?」
 ンパラナが先程の布を見せる。
「古い文字だね、これ。小さい頃に習わされたよ。王宮にある古い文書を読む時に必要になる、たしなみとして覚えろって言われて。実際は専門にやる役人以外ほとんど使わないんだけど」
 ルヴァナを除く一同が顔を見合わせる。確かルヴァナは分家してミュラーと名乗ってはいるが、歴としたスキロイル家の血縁である。そのルヴァナがこの文字を小さい頃に習ったと言い、目の前でおどおどしているンニンリもこの文字を読むことができる。
「琴音は鼓を鳴らし得ず、鼓声は琴を弾ずる能わず、か」
 ルヴァナが読み上げる。
「大滝の轟きは鼓声に似たり、風砂の囁きは琴音の如し、でやしょ」
 シーッツァが続ける。
「読めたの?」
「ええ。ミリムナと」
 ヌシキがンニンリを見ながら言う。
「このンニンリが」
「ンニンリが?」
 さすがにルヴァナも驚いた顔をした。この歳になるのに指をくわえる癖も抜けきっておらず、いつも気弱そうに庭の隅にいるンニンリ。
 考えてみれば、ンニンリは読み書きだけは良くできた。文字を扱うのに向いている性なのだろうと思っていたが、すでに誰かの指導を受けていたのであれば不思議ではない。しかし、現在ではほとんど宮廷内の一部でしか用いられない古体字を、一体どこで習ったのであろう。
「母親から習ったんだそうでさ」
 シ−ッツァが言った。
「ちがうよ」
 ンニンリが小声で否定した。
「かかさまだよ」
 ヌシキが聞き返す。
「だからお母さんなんでしょ?」
「かかさまなんだ」
 ルヴァナは思い当たった。
「かかさまってのは乳母のことだよ。母親とは違うんだ」
 母親を「かあさま」、乳母を「かかさま」と呼び分けるのは、王家や貴族たちの子弟の慣習である。とすると、ンニンリはそれなりの身分の生まれと言うことになる。
「ンニンリ、ちょっと残って。他のみんなはね、もう遊びに行っていいよ」
 先ほどからぽかんとしていた孤児たちに気づき、ミニャムが言う。
「じゃ、一緒に遊んであげるね!」
 シュリが、おかしくなってきた雰囲気を払いのけるように、明るい声で言った。

◆ジュッタロッタ・市場
「聞いたか? 焼き討ちだとよ」
「へぇ? ネゴ神教の神殿がかい? 連中、ここんとこ羽振りが良かったが、やっぱり恨みも買ってやがったんだな」
「いやいや。そうとばかりも限らないんだ、これが」
「ちょっと待って」
 長身の女商人が、大きな荷籠を背負った少年奴隷を連れ、男たちの話に割り込んだ。
「何の話さ? あたしにも聞かせておくれよ」
「昨日の火事の話さ」
「神殿街の?」
「ああ。ネゴ神教の連中がせっかく引っ越した神殿がな、丸焼けだ」
「信者も数人死んだらしいぜ」
「違う違う。死んだんじゃない。殺されたのさ」
「ただの火事じゃなかったんだね」
 女が目を光らせる。
「そうなんだよ姉さん。このジュッタロッタで白昼堂々押し込みを働いたうえ、付け火までやらかす物騒な奴がいたってわけさ」
「姉さんってのはやめてくれ。シャハナって名がある」
「ほい、シャハナさんよ。ところであんたの商うものは何だね?」
「斧やら槍やら弓矢やら、まぁ物騒なものさ」
「そうかい。じゃ、聞いたことはないかね。“地獄の悪鬼”シドンとか言う奴の話を」
「そいつがどうかしたのか?」
「下手人なのさ。自分から名乗ったって言うからまたクソ度胸って言うかどうかしてるって言うか、な」
「へぇ。そりゃ、どうしてだろうね」
「そこまでは知らんが、『最後の神の首が所望』ってよ、大見得切ったらしいぜ。聞いたところじゃ」
 ふらりと通りかかった、細身の神人が足を止める。
「昨日の騒ぎの話ですか? 最近は物騒ですね」
「こりゃ神官様、どうも。いや、今ね、ネゴ神教んとこに殴り込んだ連中の話をしてたんですが」
 神人が眉をひそめる。
「どうですか? 神殿街のほうじゃ、何か話がありませんか?」
「いや、あいにく私は旅の途中に立ち寄ったもので」
「そうですか。いや、シャハナさんも他所の人みたいだから断っておくが、ジュッタロッタってのはこんなに物騒な街じゃないんだ。本当は」
 年配の商人の後を受けて若い方の商人が続ける。
「『最後の神』の噂が流れてから、何だかみんな殺気立ったりして、な。ネゴ神教とかいう変なやつらも出てきやがるし」 うなずいてまた年配の商人が言う。
「そういや、ネゴ神教の連中、ミカニカ様からなんだか難題ふっかけられたとか聞いたな。何でもぶっ倒れた摂政様の病気を治せ、とか。っと、いけねぇ! おい、競りの時間だ! じゃ、これで」
 商人たち二人は、挨拶もそこそこに競り場に向かう。
「あんたは?」
「エレクガリオン。旅の神人です」
「あたしはシャハナ」
 シャハナがじっとエレクガリオンの頭のてっぺんから爪先まで眺め渡す。
「さっきから気になってたんだけどさ、それ、巫女の衣装じゃないのかい?」
「好きなもので」
 あっさり答えるエレクガリオンに、シャハナが呆れる。
「それよりも、きな臭くなってるねぇ。この街さ」
「そうですね。ヴラスウルの行く末は一体誰が握っているのやら・・・・」

◆孤児院
 小柄な娘が、もう一人大柄な娘を連れて孤児院を訪れた。ヒュルと名乗るその娘は、肉屋で働いてくれる子供を引き取りたいという話を持ってきた。
「そうですか。となるともう刃物が使える子でないといけないですね」
 応対に出たヌシキが言う。
「そのへんはこっちでも仕込めるから、あんまり気にしなくていいよ」
 ヒュルが笑顔で言う。
「あ、ンパラナさん。子供、引き取りたいって人が来てるんですけど」
 ヌシキが、大きな砥石を抱えて通りかかったンパラナを呼び止める。
「どうしたい?」
「こちらの人。肉屋のヒュルさんって言うんですが、子供を引き取りたいって」
「へぇ」
 ンパラナが砥石を置いてやって来ると、じろじろと無遠慮にヒュルの顔を見た。
「?」
「どうかした?」
 ヌシキが聞く。
「いや。あんた、どっかで会ったことねぇか?」
 ンパラナがヒュルに尋ねた。
「ええ?」
 ヒュルが首をかしげる。
「ちょっと待て! あんた、あの手配書の!」
 ンパラナが大声を上げた。やば、とヒュルがまたリララを連れて駆け出す。
「ちょっと待たねぇかよ、事情を」
 ンパラナが呼び止めるが、ヒュルは一目散に駆け去り、すぐに見えなくなった。
「はぁ、どうしたってんだろうな」
「何がだ?」
 裏で子供たちに武術の形を教えていたルヴァーニがやって来る。
「さっき大声が聞こえたが」
「今の来てた客なんだけどさ、どうもこの前から噂になってる人拐いの女だったみたいなんだ」
「捕まえたのか?」
「逃げて行きやがったよ。事情によっちゃ匿ってやろうと思ったのに」
「ンパラナ」
 ルヴァーニが言った。
「子供たちが犠牲になったかも知れないんだぞ。その人拐いに。悠長なことを言うな」
「でもさ、なんか訳が有ったんなら可哀そうだとか思わないのかい?」
「だからと言って、それが人をかどわかして良いという理由にはなるまい」
「そりゃそうだけどさ」
 ンパラナが黙り込む。
「名乗ったのか? その女」
「ああ。肉屋のヒュルって、な。そうなんだろ? ヌシキ」
(この二人・・・・)
 やりとりを聞いていたヌシキはふと思った。
(ほんとに二十歳前なのかしら。こうやって聞いてると、なんだかまるで娘同士が話してるって気がしないんだけど)
「ヌシキ、聞いてるのかい?」
「え、え?」
「さっきの客の名前だよ」
 遮るようにルヴァーニが言う。
「気になるんならそこを当たってみればいい。どっちにしろ例の手配書は随分出回ってる。このジュッタロッタにいればすぐにお縄だ」

◆ジュッタロッタ郊外
 マラムディの高笑いが響く。カヤクタナからヴラスウルに入って間も無いというのに、手下のならず者が倍ほどにも増えたのだ。笑いが自然に漏れてくるのも仕方があるまい。
「がははは。神さんはよっぽど俺様にこういう道を行かせてぇみてぇだな。天職ってやつか」
 カヤクタナから連れてこられた例の商人も、すっかり彼の手下として馴染んでいた。
「で、親分、これからどうなさるんで」
「馬鹿野郎、お前が俺に吹き込んだくせに忘れちまったのか? 探すんだよ、その医者を」
「へぃへぃ。こいつぁ一本取られましたや。しかしあっしも抜かりねぇんですよ、こう見えて。ちゃーんとね、新入りから話を聞いておきやしたんでさ」
「だったら手間取らせねぇでさっさと言いやがれ」
「いやね、その女医者、ジュッタロッタの街ン中、神殿街の端っこにミトゥン様の神殿が有りやして、そこで働いてるってんで」
「ほう。ミトゥンの。ウチの坊主の病気を治すにゃ丁度良いじゃねぇか。神さんのお導きってぇのはこのこったな」
「いやまったく、親分には神様がついておられるんで」
「がはははは。ようし、野郎ども。今日は前祝いだ。かっぱらってきた樽を開けやがれ!」
「や、待って下せぇよ。親分、ちっと気になる話もありやすんで」
「何だ?」
「別のごろつきがですね、街ン中で火付けやら押し込みやら働いたらしくて、護民兵どもがピリピリしてるんでさ」
「そいつぁまずいな」
「だから、街ン中入るとなると、ちっとばかし手筈を考えなくちゃならないんで」
「馬鹿野郎。そういう役目はてめぇの分担だろうが。どうして俺がお前に飯食わせてやってるか、わかんねぇだろうが」
「いや、親分、そうは言っても・・・・」

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