第3回 C-1-1 首都ジュッタロッタ(その1)


◆ネゴ神教仮神殿
 このところ首都ジュッタロッタに根を下ろし、成長著しい教団である。一部市民には、教祖や幹部たちのカリスマ的魅力によって熱狂的に受け入れられ、またある一部からは胡散臭げな視線を投げかけられている。しかし教団の勢力が拡大の一途を辿っていることは疑いも無く、またおそらくはこの勢力を今後も維持してゆくであろうことも、大概の者には予測できることであった。教主夫人の実家から、信者の富豪が寄進したこの仮神殿に本拠地を移してしばらく経つが、相変わらず多くの人々が訪れ、日に日に神殿が手狭になってゆくことからも、それは十分に想像がつくのである。
 ふらり、と旅塵にまみれた装束の若者が門前に立った。槍を担いでいるところからすると、傭兵か用心棒か(その区別は非常に曖昧ではあるが)それに類する者なのであろう。
 若者はじろりと神殿の構えを眺めると、その門をくぐった。
「あーら、お兄さん。ネゴ神さまのまします聖地へようこそ」
 神殿の入り口では、若い女が来客たちをあしらっているようであった。その女が若者を見つけ、歩み寄ってくる。
「ネゴ神さまに何かお願いごとでも?」 女が若者を見る。自分よりも少しばかり若いかもしれない。左目に眼帯をしているが、もう片方の目にはちょっと女心をくすぐる若さゆえの炎、そんなものが宿っているようだ。
「教主に会わせてくれ。聴きたいことがある」
 若者が口を開くと、綺麗な歯並びが目に入る。
「教主様に? どんな御用事かしら? まずお姉さんに話してみない? わたしはセレスタ。ここの司教と思ってもらっていいわ」
 女が透き通った声で答え、椅子を勧める。若者はしばらく考えている風情であったが、椅子に腰を下ろし、あまり大きくはない声で話し始めた。
「俺はアクハド。ついこの前まで辺境にいた。辺境の噂はここまで届いているのか?」
 セレスタは首をかしげる。そもそも華やかさと無縁の辺境など、彼女の興味を引くには値しない場所なのだ。アクハドは軽い失望のようなものを感じながらも続けた。
「東の密林に、魔族がうろつくようになった。開拓民たちは森を離れて避難している。どうして森に魔族が出るようになったのか、それからできれば奴らに対抗する手段を教えてもらいたい」
 満面にこぼれるような笑みをたたえたセレスタがうなずく。
「そういうことだったら、このネゴ神さまのお札と聖油、これを買って使えば心配無いわ。ネゴ神さまのお力で魔族なんてもう森の奥の奥まで逃げ出しちゃうから。あ、それにね、あなたが入信してネゴ神さまのお力をお分けしていただけるようになればもう完璧!」
 途端、アクハドの眉根が寄る。ガタンと乱暴に椅子を引き、槍を掴むと立ち上がった。
「期待していたわけじゃねぇがな、やっぱりてめぇらはただの欲ボケだ。死ぬまでやってやがれ」
 辺境訛りをむき出しにした捨て台詞を残すと、アクハドは足早に神殿を立ち去った。
「なーに! あのガキ! ちょっと優しくしてあげたらつけ上がって!」
「セレスタ、あんた何やってんのよ。大事な信者候補を」
「知らないわよリタ。あの田舎者のガキ、勝手に怒って出てっちゃうんだもん」
 セレスタと同じぐらいの年頃の娘が呆れたような表情で神殿から出てくる。気が強そうな顔立ちで、男物の服から健康的に陽に焼けた肌を覗かせている。
「お嬢さんがた、失礼しますよ」
 リタとセレスタが言い合いをしている間に、大きな荷物を背負ったドジョウ髭の中年男が門をくぐって入ってきた。
「教主様にお話を伺いたくて参りましたよ。私はマンソイ。旅の人形劇師だ」
 またけったいな奴が、と二人は顔を見合わせたが、それを気にした風でもなくマンソイが続ける。
「私は大陸のあちこちで神様のお話を劇に仕立てて語り歩いておる。このジュッタロッタの都に近頃ありがたい神様が現れたと聞いて、是非とも劇にさせて貰おうと思ってな」
 マンソイがニヤニヤと笑みを浮かべながら背中の大荷物を下ろす。
(リタ、どうしようか?)
(うーん。一応アーシュ様に聞いてこようか。宣伝になるかも知れないしさ)
(うん、わたしが聞いてくる)
 間もなくセレスタが再び姿を現し、マンソイを教主の部屋に招き入れる。
「フハハハ。お主か、ネゴ神を人形劇にて讃えたいと申すのは」
 椅子にゆったりと腰掛けた、まだ若者と呼んでおかしくない男こそが今をときめくネゴ神教の教主『銀の使者』アーシュ・ザクウスである。その脇には侍女らしき美少女が立っている。
 マンソイはいささか驚いた。これだけの勢力を誇る教団を率いているのが、どう見積もっても自分の半分ほどの歳の男とは。経験からして海千山千のデングロ(※1)を想像していたのであるが。
「さてさて、そのことでございます」
 マンソイは気を取り直し、愛想笑いを浮かべて言う。
「司教さまからお耳にされたとは思いますが、この私ことマンソイめ、国々を経巡り、神の偉業を人形劇にて民草に伝えることを生業としております」
「ふむ」
「そこでこのネゴ神さまのお話を、生神とも言われる教主様おん自らお伺いすることができればと、こう存じまして」
「フハハハハハ。そうかそうか。では何から語ろうかの」
 アーシュは上機嫌で、いかにネゴ神が交渉術に長けた神であるのかを語り始めた。クールーとイシュとカンダリとグドゥラとテツバルが取っ組み合いの大喧嘩を始めた時に割って入り、ごねにごねてとうとう仲裁した話。不幸にも若死にするところだった美少女の命を、ごねにごねてラノートから返してもらった話。
 アーシュの話は永遠に続くかと思われたが、扉を叩く音がそれを遮った。
「アーシュ、いい?」
「ん? チューリンか? 今良いところなのだが」
「ちょっとみんなで打ち合わせたい話があるの」
「そうか。済まんがマンソイ、この辺りで切り上げさせてくれ。ちと用事だ」
「いやいや。ありがたいお話を教主様より直にお聴きすることができまして、このマンソイめは幸せ者にございます。長いことお邪魔をしてこちらこそ申し訳ありませぬ」
「フハハハ。まだまだ話はある。また聴きに来るがよい」
 マンソイは礼をすると、神殿を後にした。入ったのは昼過ぎであったはずなのに、もう日がとっぷり暮れて、星が瞬き始めている。随分と長いことあの男は喋っていたことになる。
「まぁ話としては面白くないことはなかったがな、劇にはなるかどうか。何にせよ筋がみんな同じだからなぁ。『・・・・そこに現われ出でましたるネゴ神さまが、これをひどくお嘆きになるとごねにごね始め・・・・』、か。」
 そんな独り言をつぶやきながら夜の通りを歩いていくマンソイを、脇の路地から見ていた者がいる。マンソイが通り過ぎると、その人影は路地をすっと離れ、建物の影を伝うようにして、神殿へと向かった。

◆ネゴ神教仮神殿・教主の間
「で、これからの話ね」
 教主夫人のチューリンが話し始める。この場にはネゴ神教の幹部たち、アーシュ、チューリンの夫妻と神聖騎士団長のガーラ、リタとセレスタの二人の司教が顔を揃えている。
「近いうちに実家から話を通して、また女王に会見させてもらうわ。まだ日取りは決まってないけど」
「そこで私がうまいことあの小娘を陥とせばよいわけだ」
 アーシュの声。
「そう。私のほうはクテロップに取り入って、教団に引き込んでみせる」
 自信に満ちた声でチューリンが言う。
「お前たちは?」
 アーシュが部下たちに聞いた。
「リタと俺はちょっとしたいことがあるんです」
 ガーラが答える。
「あの話だな?」
「はい。俺のことをずっと見ていた娘がいるってことで」
「ガーラを囮にして、その子をつかまえちゃおうと思うの」
 リタが言う。
「ふむ。お前たちのことだ。ぬかりは無いと思うが、事を荒立ててはならんぞ。ネゴ神は、ごねはすれども暴れはせぬからな」
「はい。その辺は判っています」
 しおらしげにリタが答えた。
「わたしはチューリン様について王宮に行きますから」
 セレスタが言った。
「ほう? ジュッタロッタの王宮は貧乏臭くて嫌いだなどと言っていたではないか?」
「もしかしたらハンムーのお金持ちの貴族とか、使節で来てるかも知れないじゃないですか」
「フハハハ。まぁ期待するのは構わんがな」
 窓の下。人影が、息を殺して潜んでいた。黒尽くめの装束を身につけ、頭も覆面で蔽っている。
(あの誘拐犯の女の声はしない・・・・)
 予想は少しずれていたらしい。しばらく神殿を調べてみたのだが、拐われた若い男女がどこかに閉じ込められていたという形跡も無ければ、遺留品らしい物も見つからない。たまたま外から教主の部屋らしい部屋を見つけたので、中の様子を窺っていたのだが、とんでもないことを耳にしてしまった。
 この窓の中の者たちは、ミカニカ女王を陥とし、摂政クテロップを教団に引き入れるなどと話しているではないか。この教団自体が、ヴラスウルを乗っ取ろうとする陰謀団であることは疑いも無い。人影はそっと窓を離れようとした。
「しっ!」
 談笑していたガーラの顔が急に引き締まり、皆を黙らせた。
「何か、窓の外で動きました。動物かも知れませんが」
「様子を見ろ」
 アーシュが言った。ガーラがすっと窓に近づき、ガラリと開け放つ。
「ちッ」
 人影が慌てて立ち上がり、駆け出した。「待て!」
 ひらりと窓枠を飛び越え、ガーラが短剣を抜いて人影の後を追う。
「さすがだ。私は良い部下を持った」
 アーシュが言う。
「ガーラのカンの鋭さと夜目の利きようは尋常じゃないからね」
 チューリンがうなずく。
「あたし、ガーラの助太刀に行ってきます!」
 リタも同じ窓を飛び越えると、闇に消えた。

◆神殿街
 仮神殿を出たところの路地で、ガーラが人影に追いつく。
「さぁ、どこのどいつか知らんが、覚悟してもらおう。いたずらが過ぎるぜ」
 夜目の利くガーラと、灯りを持っていない人影では走る速度にも違いがあった。ガーラの手にギラリと短剣が光る。
 人影は素早く向き直ると同時に、黙って剣を抜いた。
(こいつ! 例の娘じゃない!)
 てっきりそう決めてかかっていただけに、ガーラに油断があった。人影はだっと地面を蹴り、ガーラの懐に飛び込むなり剣を横ざまに薙いだ。あわててガーラが飛びすさってかわす。
「上等だ!」
 ガーラは短剣を構え直すが、刀身の長い相手とは間合いが違いすぎる。
「クールー、俺の剣に宿れ!」
 覆面の男がくぐもった声を上げ、気合とともに打ち込んでくる。ガーラは短剣に両手を添えてその打ち込みを受ける。打ち合った刃と刃の間で火花が散る。
「・・・・ッ!」
 瞬間、ガーラの短剣の刃が折れ飛んだ。男の振り下ろした剣が、そのままガーラの左腕に食い込む。灼けつく痛み。刃に骨を削られる、たとえようもなく嫌な感触。
「待ちな!」
 予期していなかった方向から短刀が飛び、男の左肩の肉を削いだ。男は反射的に右手で傷口を押さえる。剣が音を立てて地に落ちた。
「あたしらをどこの誰と知ってのことかい? 答えによっちゃ容赦しないよ」
 リタが凄みを効かせた声で言う。男はじりっと後ずさると、そのまま身を翻して路地を駆け去った。
 ふぅ、とリタが息を吐く。短刀を咄嗟に投げてつけてしまい、男とやりあおうにも得物がなかったのだ。
「ガーラ、無事?」
「いや。弱音は吐きたくないが、ちょっと深手だ。肘から先が動かん」
「とにかく、神殿に戻って手当てしよ。ほら、そんなに血が出てる!」

◆ネゴ神教仮神殿
 そして、一夜が明けた。ガーラの傷は重傷と言ってよく、医者を呼んで手当てをさせたものの、完治までには相当な時間がかかるという見立てであった。更に良くないことには、筋が切られているため仮に傷口が完全に塞がったとしても以前のように腕を使えるか、保証ができないという。
「・・・すみません・・・アーシュ様・・・大事なときに・・・」
 寝台に寝かされているガーラが、教主に向かって言った。傷のせいで発熱しているのであろう。額にはいくつも汗の粒が浮かんでいる。
「うむ。今は養生しろ」
 アーシュが言葉をかける。
「アーシュ様・・・誰かやはり教団を嗅ぎまわっております・・・例の娘も昨日の覆面の男も・・・」
「喋るな。傷に障るぞ」
「・・・くれぐれも、お気をつけて・・・」
 アーシュがこれ以上ガーラに喋らせまいとうなづく。そこに扉を勢いよく開け放ってチューリンが駆け込んで来た。
「騒々しい。ガーラは怪我人だぞ」
 アーシュがチューリンに向き直る。
「女王からお召しよ」
 怪訝そうな顔でアーシュが尋ねる。
「女王から? 謁見の願いはこれから出すのではなかったか?」
「だから向こうからお召しなのよ」
「ほう」
「願っても無い機会じゃない」
「フハハハ。そうか、そうだな。もうあの小娘も陥ちたも同然。さあ、チューリン、仕度だ。リタ、いるか?」
「はい」
 返事がして扉の向こうからリタが顔を覗かせる。
「今から王宮に参内だ。お前はガーラの世話をしてやってくれ」

◆王宮・王座の間
 異様な雰囲気であった。ジュッタロッタ詰めのヴラスウルの重臣たちが、威儀を正し、緊張した面持ちで居並んでいる。ミカニカ自身の表情はまだ距離が有るために、しかとは判らないが、顔色は青ざめているように見える。
 その中をアーシュ、チューリンの教主夫妻が進み出、セレスタが続く。
(チューリン、何だこれは? この前のような内々での会見ではないのか?)
(私に言っても判らないわよ。おかしいわ、クテロップもいないし)
 いつもは王座の横に侍しているクテロップの姿がそこに無いばかりか、重臣の列の中にも見あたらない。これだけでも異常と言わざるを得ない事態である。
(ともかくこれではミカニカを陥とすなど無理だ。狂人扱いされて放り出されてしまう)
(しかたないわね。向こうの出方を待ちましょ)
「これ、陛下に拝礼せぬか!」
 初老の儀式官らしい男が、一向に頭を下げる気配の無いアーシュを叱る。
「我は生身のネゴ神である。故に、国王に対する拝礼など不要。我に礼をなすべきは国王ならびにそのほうら臣下一同ではあるが、特に許してつかわす」
 アーシュは不敵にもそう言い放った。ざわ、と重臣たちがどよめく。なおも噛みつこうとする儀式官を、ミカニカが目で制した。
「女王ミカニカよ。我に何用かな?」
 アーシュの視線がミカニカを射抜く。ミカニカは青ざめてはいるものの、しっかりとした声音で答えた。
「ネゴ神の力にすがりたい」
 重臣たちからふたたびどよめきが漏れる。
「ほう? いかなることかな?」
 アーシュが余裕の笑みを浮かべつつ言う。
「摂政クテロップが病に倒れた」
 ミカニカが続けた。重臣たちが騒がないということは、すでに承知しているのであろう。
「今のヴラスウルは摂政を失うわけにはいかぬ。摂政の快癒を祈祷し、ラノートの迎えを拒んでもらいたい。もちろん国として見返りは用意する」
「陛下! それはあまりに」
「おやめください! このような得体の知れぬ連中に」
 重臣たちが今度は声を上げて女王を諌めるが、ミカニカはそれを黙殺し、更に続けた。
「平癒の暁には、神殿街に王立の神殿を下賜しよう。また王宮内にネゴ神の祈祷所を用意する」
「なんと!」
 嘆きにも似た声が重臣たちの間から上がる。ネゴ神教をヴラスウルの国教とし、ネゴ神をその守護神として認めるということではないか。
「よかろう」
 アーシュは笑みを浮かべたまま答えた。ミカニカがうなづく。
「そう答えると思っていた。ただし、もし一月経っても摂政の病が平癒せぬのであれば」
 ミカニカは言葉を切ると、アーシュの目をじっと見つめて言う。
「ネゴ神教教主を名乗るアーシュ・ザクウスこそは、妄言虚語を以ってヴラスウル臣民のみならず国王すらも欺いた大罪人。極刑がふさわしかるべきところ、特別の慈悲により財産を没収のうえ、徒党の者とともに国外への退去を命ずるゆえ、心に留めておくように」
 今度は、おぉ、という感嘆の声が重臣たちから漏れた。
(嵌められたのか? この小娘に)
(ちょっと、しっかりしなさいよ。要は何でもいいからクテロップの病気を治せばいいんじゃない)
 やや間が有ってアーシュが答えた。
「フハハハハハ。ネゴ神に不可能など無い。摂政の病とやら、見事治癒してみせようぞ」

◆同時刻・神殿街
 五人ほどの目つきの悪い男たちが、なたがみを担いだ男に率いられ、通りをのし歩いている。
「おう、どこだどこだぁ! ネゴ神教の神殿は? こらぁ!」
 ごろつきの一人がそこいらにいた哀れな神人を脅しつける。神人は震え上がり、通りの向こうの仮神殿を指差した。なたがみを担いだ男が、じろりと神殿に目をやると、言った。
「あそこか。フン、糞いまいましい。野郎ども、得物を抜け!」
「おう!」
 言うが早いか、男を先頭にごろつきたちが一斉に駆け出した。
「うらぁ! 教主はどこだ! 最後の神とやらはどこにいやがる!」
 ごろつきたちは門になだれ込み、神殿の庭にいた信者たちが事態を把握する間も無く刃にかかる。信者たちが逃げまどい、悲鳴があがる。
 ガーラの寝かされていた部屋にも騒ぎが聞こえてくる。
「・・・リタ・・・何だ?」
 寝ていたガーラが薄目を開くと、そばにいたリタに尋ねた。
「見てくるよ」
 ガタリと椅子から立ち上がり、リタが扉を開けた。外からは悲鳴や絶叫が聞こえる。
「!」
 異様な雰囲気を感じ取ったリタは短剣を抜くと、振り向いた。
「表で騒いでるみたいだ。ガーラ、起きられる?」
 上半身を起こそうとしたガーラが顔をしかめる。身体を動かすだけで傷に響く。それでも歯を食いしばり起き上がると、ふらつきながも寝台から下りた。
「アーシュ様の留守にこんなことになっちゃうとはね」
「・・・剣でも槍でもいい・・・有るか?」
 ガーラが手を伸ばす。
「あんたの予備のが奥の部屋に」
「取ってきてくれ・・・」
 リタは剣を掴んで駆け戻ると、ガーラの肩を支えて外に急いだ。
 惨劇であった。神殿内にいた信者たちの多くは血に酔ったごろつきたちの刃に倒れ、うめき声をあげつつ地面に這っている。なたがみを振り回してごろつきたちを指揮していた男が、リタとガーラに目を留めた。
「お前らか! 教主ってのは?」
 リタが気丈に睨み返す。
「アーシュ様はお留守だ!」
 チッ、と男が舌打ちをした。
「お前らみたいな下っ端なんか相手にしてられねぇ。この“地獄の悪鬼”シドン様は最後の神の首がご所望だ! 教主に泣きついてそう伝えとけ!」
 すでに神殿内ではごろつきたちによる略奪が始まっていた。信者たちから寄進された財貨を求めて扉が破られ、戸棚が壊される。
 どこからか焦げ臭い匂いがする。ぶすぶすと台所のほうから煙が流れてくる。失火か、ごろつきたちの付け火か、どんどん煙の量が増えていることからしてもはや結構な火の勢いになっていることが予想できた。
「逃げるよ!」
 リタの言葉にガーラがうなづき、助けられつつ走り出す。身体が揺れるたび、傷口から失神しそうなほどの激痛が脳髄に伝わる。
「火事だ!」
「ネゴ神教んとこに押し込みだ!」
「火を消せ!」
 異様な事態に関わり合いになるのを恐れ、遠巻きにしていた神殿街の人々が、ようやく騒ぎ出した。
「早く知らせろ!」

◆王宮前
「アーシュ様!」
 宮殿の門から退出してくるアーシュの姿を見つけ、走ってきたリタが大声を上げた。
「大変です!」
 気を失ったガーラを下ろしつつ、ぜいぜいと荒い息を吐きリタが続ける。
「申し訳ありません! 神殿が・・・・襲われました。信者が殺されたうえに財貨のほうも。火も出ていました。もう焼けてしまったかと」
「何だと!」
 アーシュの形相が変わる。
「誰のしわざだ! まさか王軍ということはあるまいな?」
 リタが首を振る。
「“地獄の悪鬼”シドンと名乗りました。そこらのごろつき連中みたいでしたが、その、アーシュ様の首が所望と・・・・」
 アーシュがギリギリと歯ぎしりをする。ようやく教団の基礎が固まってきたところであると言うのに。ミカニカからは難題を吹っかけられたばかりか、せっかく寄進された神殿をも失うとは。
「ぬううぅ・・・・」
 黙って聞いていたチューリンが、平静な口調で口を挟んだ。
「ろくに用心棒も雇ってなかった私たちも迂闊だったのよ。これからはもっと気をつけないと」
 じろり、とアーシュが妻の顔を睨みつける。
「よくそんなに冷静でいられるな」
「腹は立つわよ」
 チューリンがその視線を真っ向から受け止めて言う。
「でも、今はこれからのことを考えないと。とりあえずまた私の実家に転がり込むとして」
「そうだな」
「リタ。その男、確かに名乗ったんだね? “地獄の悪鬼”シドンと」
「はい。チューリン様」
「思い知らせてやらないといけないかも知れないね。神罰の恐ろしさを」
 
※1 狸に似た動物。猟師や木樵を騙して弁当を食ってしまうと言われている

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