◆摂政クテロップ邸 若手王臣をはじめとする来訪者たちのミカニカへの謁見は、過日の暗殺未遂事件より以後クテロップの指示により停止されている。謁見自体を苦々しく思っていた重臣たちからは、これを機に廃止せよとの声も強く上がっていたが、クテロップは頑として受け付けず、代替措置として私邸に謁見者を招き、引き続きミカニカへの進言を中継していた。今日も摂政邸には幾人もの謁見希望者が来訪したが、ようやく最後の来客の順番となった。 若いカジフとクテロップが向か合って座っている。 「何の進言かな?」 「陛下の親衛隊のことにございます」 「ほう?」 「弓兵を集め、一部隊を組んでいただきたいのです」 「弓? それはならん。陛下がお許しになったとても軍の反発が強かろう。弓が武人の武具でないことなど、戦部クトルトルの家に生まれたお主なら知っていると思うが?」 「重々承知の上のことでございますが、敢えて申し上げます。クトルトル家は連年辺境の蛮族、盗賊どもと戦い続け、弓兵を敵に回すことの恐ろしさを知り尽くしております。当然、味方につけた時の心強さも」 「・・・・うむ」 カジフが言外に匂わせたことを、クテロップは悟ったようである。 「わかった。今夕にも進言しておこう。クトルトル家の忠誠、陛下に必ずや嘉されようぞ。・・・・そうそう、間者の知らせによれば、先月からのカヤクタナとクンカァンの戦、クンカァン側が劣勢にて一時兵を退いたとのこと。ただし」 「ただし?」 「これは不確かな情報ではあるが、モロロット二世王の消息が不明、との噂も入ってきておる」 「情勢、目が離せなくなりそうですな。ともかく摂政殿下、陛下までよろしくお取り次ぎ願います」 深々と礼をし、カジフが引き下がる。部屋に残ったクテロップが、また大きな溜め息を吐いた。 ◆王宮前 「フハハハハハ。まずは上々の滑り出しといったところかな? どうだ、お前」 「そうね。あの嬢ちゃんを信者にできなかったのは残念だったけど」 見事な銀髪を後ろで結った男が、その妻らしい美女に話しかける。彼らこそは近頃ジュッタロッタで勢力を増している「ネゴ神教」 の中心人物、『ネゴ神殿下』教主アーシュ・ザウクスとその妻にして副教主『誘惑の』チューリン・ザウクスであった。 「まぁ興味を持ったようではあるし、良いではないか。本来なら謁見すら叶わないところであったのだからな」 そうなのである。暗殺事件の余波で王宮には厳戒体制が敷かれており、衛士や重臣たち以外の者がミカニカに謁見するのはひどく困難なのである、が。 「これもお前の実家の力よの。さすがに太后の縁者ともなれば無下にはできまい」 「それにガーラやリタが働いてくれたから、たっぷり献金もできたし。そういえばあの子たち、何してるのかしら」 二人がくるりと王宮の門を振り返ると、三人の若者が門をくぐって出てくる。 「すみません。預けた武器を返してもらってたもので」 神聖騎士団長のガーラが頭を下げる。 「王様の家来だからさあ。お金持ちばっかりだと思ったんだけど、あんなに警備されてたんじゃ駄目。まともに動けなかったもん」 司教のリタが三つ編みの髪をかき揚げながらぶすっとした顔で言うと、チューリンの侍女であるセレスタが言い返した。 「えーっ! お金持ちなんていないよー。だってリタ、見たでしょ。宝石とか飾ってないかなーって思ってたけど、石と木ばっかり。あーぁ、貧乏国ってやーね。あ、そうだアーシュ様、チューリン様、次はハンムー行きません? あそこなら王宮も豪華絢爛ですよ。きっと」 「フハハハハ。考えておくがな」 通りを歩きながら話している一向を、辻から見ている小柄な娘がいた。 (騎士団長のガーラって人がいいかな。一人でいる時を狙わなくちゃね。さ、そうと決まればお店に戻ろーっと) ◆ミトゥン神殿 普段は安産や子宝を祈願しての参拝客が目立つこの神殿に、一人の男が訪れた。 「御免下せぇやし。シーッツァにござい。お願いがあって参りやした」 二十代半ばの、良く日に焼けた肌の男で、何かの職人のように見える。背負った袋からは何か長い柄のようなものが突き出ているが、一体何であろうか。 「これは、シーッツァ殿。当神殿にまた何か御用でございましょうや? 神殿の増改築の件ならば、先日お話いたしました通り」 「いや。実は神人様の御慈悲におすがりしたいのでございやす。このシーッツァ、ヴラスウルにては身寄りも行く宛てもございやせん。そこで一つこちらの神殿に泊めてはいただけねぇかと」 「お困りとあらば、御随意に逗留下さって構いませぬ。全て人はミトゥン様の加護によってこの世に生を受けるもの。どんな方であろうともミトゥン様がお見捨てになることはありませぬ」 「ありがてぇ。この礼は必ずさせていただきやす。とりあえずこのあたり、釘が緩んでやすね。お直しいたしやしょう」 背負い袋から工具を取り出すと、呆気に取られている神人の前でシーッツァは神殿の補修を始めた。 「わかりました。どうぞお好きになさってください」 神人が苦笑しながらシーッツァの仕事ぶりを眺めていると、また別の男・・・・少年と言って良いだろう・・・・が何人かの子供らを連れて現れた。 「これは、ルヴァナ様。神殿にようこそいらっしゃいました」 「この子たち、引き取って貰えないかな。街の孤児たちなんだ。養育費は心配しなくていい」 「哀れなことです。そういえばカハァラン様も何人か街の孤児を拾われたとか。さすが王家の御連枝の方々は慈悲深うございますな」 ルヴァナはこの子らや他の孤児たちを引き取る孤児院を作りたいと、神人に申し入れた。 「ようございます。幸いなことにこちらに空いた土地もございますれば」 「おっと、建物建てるってんだったらあっしにお任せを」 金槌と釘を手にしたシーッツァが立ち上がりながら言う。 「王族の方でござんすかぃ? 若いのに感心なことで。そういうことだったらこのシーッツァ、坊ちゃんのために一肌お脱ぎいたしやしょう」 ◆ミトゥン神殿内・孤児院 シーッツァが腕を揮い始めて数日が経った。急造ではあるが何棟かの建物が建てられ、孤児たちが寝起きしている。 「シーッツァ様、あなたはやはりミトゥン様がこのためにお遣わしになったのでありましょうな。礼を申しまする」 でき上がった建物を前に、神人とルヴァナ、シーッツァが満足げな顔をして話をしている。 「いやいや。あっしもこうしてヴラスウルで初仕事ができやして、何よりでございやすよ」 「子供たちを引き取るだけではだめですね。何かしら手に職をつけられるようにしてあげたい」 ルヴァナが建物を見上げながら言う。 「そうですね。つてを辿ってみましょう」 「何ならあっしが大工仕事を教えても良いですぜ」 「他にも、子供たちが望むもの、できるだけかなえてあげたい」 ひょっこりと、小さな娘を連れた歌姫が顔を出す。 「こんにちは」 「これはミリムナ様。オヴュナ様の親御様が見つかるよう、お祈りでございまするか?」 「えぇ。あの、この建物は?」 「こちらのルヴァナ様の発案で、シーッツァ様が建てられました。孤児院にございまする」 「へぇ」 「そうだ、よろしければミリムナ様、子供たちに歌をお教えくださるわけには参りませぬか?」 「構いませんよ」 「ありがたいことです。歌の好きな子供は多うございましてな」 ◆ジュッタロッタの街並 「どうだい。大した繁盛だろ?」 若い女の二人連れが、街を歩いている。 「ほんとだ。クタの街も凄いと思ったけど、さすがジュッタロッタだね」 赤毛の女はンパラナ。クタではちょっと名の知れた武具職人である。連れの狩人風の女はミニャム。コレルの森で獲った獣皮をンパラナの店に卸している縁で、一緒に都見物にやってきた。 「ところでさ、さっき聞いたミトゥン様の神殿てのはどこにあるんだろうね」 「あたしに聞かないでよ。今までコレルの森だってろくろく出たこと無いんだからさ」 「ま、いいや。あ、あの人に聞いてみよ」 ンパラナが同じぐらいの年格好の女に話しかける。 「悪いんだけどさ、ミトゥン様の神殿ってどこにあるのか知らないかい? 田舎から出てきたばかりでさ、よくわからないんだよ」 腰まで届く長い髪と、豊満な、それでいて引き締まった身体の女が答える。 「それはお困りであろう。案内しよう」 「悪いね。あたしはンパラナってんだ」 「あたしはミニャム」 女はちらりとミニャムの担いでいる弓に視線を移した。 「私はルヴァーニ。この街で道場をやっている。訛りからするとお二人とも西のお生まれだな」 「へぇ。そうさ。クタから来たんだ」 「クタのあたりは物騒なことなど起きてはいないか?」 「今のところね。喧しいのは東の方なんだろ?」 「私の弟子も盗賊団の討伐に出ている」 「それじゃ心配だねぇ」 「しかし、貴方がたも遠路クタからミトゥン神殿に何の用だ? 子宝でも授けて貰うつもりか?」 「違う、違うよ。この頃その神殿に孤児院ができんだろ? ウチは武具屋をやってるんだけど、住み込みで働いてもらえる子供を探そうと思ってさ」 「あたしは付き合って都見物に来ただけ」 「なるほど。見えてきた。あそこだ」 ◆ふたたび孤児院 「神人殿、神人殿。おられぬか?」 神殿の門でルヴァーニが呼ぶ。神殿からは子供の笑い声や歌声も聞こえてくる。 「お待たせいたしました」 長衣をまとった神人が表に出てくる。 「何用でございましょう?」 「私は案内にきただけだが、こちらのンパラナが用事があるそうだ」 一礼してンパラナが言う。 「実はこちらで孤児を引き取っていると聞いたんでね。ウチの店で働いてみたいという子供がいたら引き取らせてもらえないかと思って」 「さようでございますか。ともあれ門前では何ですから、中へお入りくだされ」 ◆護民兵詰め所 このところ、街が騒がしい。原因不明の人拐いが頻発しているのだ。護民兵は何をしている、という声もそろそろ聞こえてくるようになってきた。 「フルハラング、今日は夜番だぞ。見習いを二人連れて行け」 「あぁ」 当番の終わった仲間がフルハラングに声をかけて帰って行く。詰め所には彼が拾ってきた見習いのセタと、どういう事情か分からないが、上からの指示があって見習いに採用されたマウカリカという娘がいる。 「マウカリカ、お前は夜回り初めてだったな。怖くないか?」 「別に? ところでさ、例の人拐いの事件って、どういう風なの?」 「悔しいがまだ俺たちにも良くわからん。夜な、出歩いてた若者が消えちまう。それだけだ」 「男とか女とか、関係なしに?」 「あぁ」 「へーぇ。捕まえたいね。犯人」 「簡単に言うな」 その時、表で誰かの声がした。 「何だ? セタ、見てこい」 「うん」 ぶかぶかの胸当てを着けた小柄なセタが立ち上がって表に出て行く。 「ひっくぅ。酒は〜ブリュヘの〜賜物〜、世界の〜宝〜」 見事に酔っ払ったドジョウ髭の中年男が、御機嫌で歌など歌いつつ倒れ込んでいる。 「おじさん、まだ夕方だよ。うっわー、お酒臭い」 セタが中年を揺り動かす。 「起きなよ、おじさん。ほら」 セタが抱え起こそうとするが、どうにも動きそうにない。 「セタ、どうした?」 詰め所の奥からフルハラングの声がする。中年男が目を薄く開く。 「酔っ払いのおじさんが寝てるんだよ。どうしよう?」 「ひきずって連れてこい。酔っ払ってるんなら痛くはないだろう」 セタが中年男の頭のあたりにかがみ込み、もう一度引き起こそうとする。 「セタ殿」 中年男が小声で彼の名を呼んだ。 「黙って聞きなされ」 「え?」 「お逃げなされ。あなたの居場所はここではない。川風が囁いた。あなたはイーバに行かねばならぬ」 「何? 何だよ?」 「私はオジャと申す。全てはイーバに行けば明らかになろう」 オジャと名乗った中年男は、酒臭い息を吐きながらも、立ち上がった。 「また、お会いしましょうぞ。セタ殿」 先ほどの酔態が嘘のごとく、オジャはがに股ではあるがしっかりした足取りで歩き始め、呆然としているセタをその場に残し夕闇の街に溶け込んでいった。 「どうした?」 詰め所からフルハラングが出てくる。 「う、うん。酔っ払いのおじさんがいたんだけど、どっか行っちゃった」 「しょうがねぇな。セタ、お前も酒飲みにだけはなるなよ」 「うん・・・・」 ◆夜のジュッタロッタ 「何だよ、セタ。引っ張るなよ」 夜回りに出たフルハラングの一行だが、セタがぐいぐいとフルハラングの手を取り、たまに地面の匂いを嗅ぎながらどこかへと導こうとしている。 「それにお前、犬みたいだぞ。そうやって匂い嗅いでると、デコウ様が何か教えてくれるのか?」 「しっ」 セタには、心当たりがある。あの晩、街に逃げ込んだ自分を捕まえようとした影。その影と同じ匂いが、このあたりから流れて来ている。 「どうしたの? セタ? 変だよ。さっきから」 初めて体験する夜警にちょっと浮かれ気味のマウカリカだったが、先ほどからのセタの異様な行動が気になる。 「いたよ! 向こう!」 セタが小声でフルハラングに伝え、注意を促す。 「拾ってもらった前の夜にさ、誰かわかんないけどぼくを捕まえようとしたんだ。街で」 くんくん、と二度鼻を鳴らす。 「同じ匂いがする」 「例の人拐いの犯人か? って、ここは・・・・ネゴ神教とかいう連中が根城にしてるあたりじゃないか。それと何か関わり合いがあるのか?」 姿勢を低くしたフルハラングが、セタの顔を覗き込みながら言う。 「わかんない。でも、あの辻の向こうの路地の奥から凄く匂ってくる」 フルハラングが棒を握り直し、見習いの二人に目配せをする。その後にマウカリカとセタが続き、そろりそろりと辻に近づく。 「誰かいるのか?」 フルハラングが松明をかざし、セタに教えられた路地を覗き込む。 「チッ」 小さな舌打ちの音が聞こえ、影が二つ、急いで逃げ出そうとする。 「待て! セタ、回り込め。向こうの出口だ!」 とっさにセタが奇妙な四つ足の姿勢で駆け出す。 「マウカリカ、武器を出しておけ!」 マウカリカがうなづいて、腰の短剣を引き抜き、もう片方の手でフルハラングから手渡された松明をかかげる。 松明の明かりが、逃げていく二人の影を照らす。一人は大柄で、もう一人は小柄だ。どちらも女のものらしい装束を身につけている。 「逃げられないぜ。出口は塞いだ!」 セタの影が反対側の出口に現れたのを認めてフルハラングが叫んだ。 「取り押さえろ!」 セタが目を光らせる。フルハラングもじりっと二人との距離を縮める。 「逃げてください!」 大柄な女が叫ぶと、セタに飛びかかる。 「ありがと、リララ!」 その隙に小柄な女が脇をすり抜け、闇に消える。大柄な女のほうはセタの首を掴み、ぐいぐいと締め上げる。 「こいつ! 離しやがれ」 フルハラングが棒で打ちかかる。ごきり、という手応え。女が悲鳴をあげ、右腕がぶらりと垂れ下がる。セタはその手を振りほどき、飛びすさる。 「観念しろよ。拷問にかけてでもさっきの仲間の居場所を吐かせてやるぜ」 フルハラングが棒を構えたまま女に近づく。が、その瞬間、女ががくりと膝を折るように姿勢を低めた。 「いかん、セタ、止めろ!」 女はその姿勢から体を捻りながら伸び上がり、腰から抜いた小柄をセタに向かって投げつける。とっさに首を振って躱すが、小柄はセタの頬を浅く切り裂く。同時に女が体当たりするようにセタに突進する。左右を壁と塀に挟まれ、逃げ場の無いセタは、歯を食いしばって衝撃に耐える。どがっ、と背中から壁に叩き付けられ、衝撃で呼吸が止まる。 女はそのまま路地の向こうに駆け去った。血の気が引いた顔のマウカリカは、身体の震えを抑えようと、ぎゅっと短剣を握り締める。 (こういうのが、無法者なのね) 倒れ込んでいたセタが、ぜいぜいと喉を鳴らし、ようやく立ち上がった。 「セタ。よく頑張った」 フルハラングがセタの肩を叩く。 「でも、逃げちゃったよ。二人とも・・・・」 セタが済まなさそうな顔をする。 「心配するな。俺たちみんなが奴らの顔を見てる。二人とも若い女だったな。明日にでも絵師に似顔絵を描いてもらおうぜ」 ところでさ、とマウカリカがセタに尋ねた。 「何で、あんな変な走り方するの? 犬みたいにさ」 「え?」 セタがマウカリカの顔を見る。 「それに何だかさ、すごく鼻が利くみたいじゃない。デコウ様に願かけでもした? それとも何かのまじない?」 セタは言葉に詰まる。 「いつだったか宮殿に入った刺客も、四つんばいみたいな走り方したんだって。セタ、何かそういうの、知らない?」 ここが明るい場所であったのならば、さっとセタの顔から群青を刷いたように血の気が引くのが見えたであろう。 セタは踵を返すと、夜の街に駆け出した。当然、四つ足で。 「おい、セタ。待て!」 フルハラングが追うが、辻の先で影を見失う。 「おい、どうした! セタ、戻って来いよ!」 ◆深夜のジュッタロッタ 夜の街を駆けるのはこれで何度目だろう。森を出てくるんじゃなかった。ウルヴァヌルヴァ様から授かったこの牙で、人殺しなんかしようとしたから、やっぱり祟りなんだ。 『お逃げなされ。あなたの居場所はここではない。川風が囁いた。あなたはイーバに行かねばならぬ』 頭の中で、誰かの声が聞こえたような気がした。 『全てはイーバに行けば明らかになろう』 ◆ふたたび孤児院 「ちょっと、この人見てやってくれねぇか?」 宮大工のシーッツァが若い女の肩を支えながら入ってくる。 「どうしました?」 ヌシキが尋ねる。怪我をしていたところを神人に憐れまれ、連れてこられたのが縁で、ここで子供たちの世話をするようになった。 「なんだかフラフラしててよ、うわごと言ってやがるんだ」 呪人なのであろう。頬に刺青のある女は、眉根を寄せながら何事かつぶやいている。 「あぁ、神の世界に参りましょう・・」 とりあえず、とヌシキが寝台を用意し、そこに寝かしつける。 「粥の余りでも持ってくるか?」 「すみません。シーッツアさん」 シーッツァが出ていくと、ヌシキは一つ大きな息をした。あれからこのヴラスウルにたどり着くまで、例の声は聞こえてこない。自分の中の黒い塊のようなものが時に血を求めるが、自らの身体を傷つけることによって抑えてきた。ここに運び込まれることになった怪我も、短刀を抜いて自分で切り裂いたものだった。 「ヌシキさんのほうは、怪我の様子はどうでい?」 「ええ、おかげさまで」 シーッツァが小鍋を抱えて戻ってくる。木匙ですくって呪人に食べさせようとするが、苦しげにうめくばかりで食べようとはしない。 「仕方ねぇ、様子を見ててやってくれ」 言い残してシーッツアが再び出て行く。 「ふぅ」 寝台に横たわる呪人の毛布をかけ直してやりながら、ヌシキは軽い溜め息を吐いた。 |