◆ヴラスウル東部密林 「キュイさん、まだここにいるつもりかい?」 森の中にあるキュイの草庵。その裏手の畑でシュライラ(※1)の手入れをしている若い男に、ユエシュロンが話しかける。キュイ、と呼ばれた男はその声に振り返ると、ゆっくりと立ち上がった。 「何か御用ですか? ああ、すみませんね。お分けするにはちょっと足りないんですよ。シュライラの実」 キュイが長衣をはたき、裾についた土を払い落とす。 「いいかげん、里のほうに来ないのか? みんな心配してる」 「しかし・・・・」 「しかしじゃない。どうも魔族がうろついているらしいんだ。この森には」 「魔族ですか、それが事実なら一大事ですが・・・・確実じゃないんでしょう? 捕まえた盗賊がそう言ったというだけで」 「それはそうだが、用心するに越したことはない」 「魔族がいるかどうかは不確実でも、ここの土がシュライラの栽培に適しているということは確実なんですよ。ですから私としてはここを離れたくないんですが」 普段は冷静なユエシュロンではあるが、あまりに悠長なキュイの返事に語調が強くなる。 「もし魔族がいるということが確実だったらどうする? キュイさん。村の人たちや、辺境軍の人たちも含めて、我々は互いに守り合わなくちゃならないだろう。それに」 言うべきか言うまいか一瞬迷ったが、ユエシュロンは言葉を続ける。 「都から来た武人の方に伺ったが、キュイさん、あなたもヴラスウル国軍にいたことがあるんだろう? ヴラスウルの民が危機に晒されているかもしれないというのに、傍観しているつもりなのか?」 キュイはユエシュロンの目をじっと見ていたが、やがて口を開く。 「『先読みの』キュイ、ですか。そんな人がいたかも知れませんが、死にましたよ。ここにいるのは、土いじりだけが道楽のただの世捨て人です」 ガサリ、と、草の揺れる音がした。はっとしてユエシュロンが振り向く。 「やっぱり手こずってたんだな。そんなこったろうと思ったが」 クランギが薬草篭を抱えて出てくる。 「里の人たちも心配しててな、ユエシュロン。あんたまで戻ってこないから」 篭一杯の薬草を見せつつ続ける。 「薬草の取り納めのついでに様子を見に来た。で、だ。キュイさん」 よく陽に焼けた腕を捲り上げながらクランギがキュイに近づく。 「力ずくでも里におりてきてもらうぜ。あんたに死なれちゃ俺たちも寝覚めが悪いしな」 キュイは反射的に身を翻して逃げようとするが、クランギの力強い腕に長衣の襟元を掴まれ、取り押えられる。キュイはクランギの腕の中で情けなさそうな表情をしてみせるが、観念したように言う。 「わかりました。おりますよ、里まで。でもシュライラを、せめて一鉢だけでも持ち帰らせて下さい」 クランギがうなずく。 「まぁ不満はあるだろうが我慢してくれ。里もここもそう土の質は変わらないはずだ。きっと育つさ」 ◆辺境の里 「ツァヴァルさん、何かお手伝いしましょうか?」 以前、腹痛で苦しんでいたところをツァヴァルに助けられた若者はイルガと名乗り、近頃では甲斐甲斐しくツァバルの手伝いなどしている。 「ありがとう。でもね、シュレイさんも来てくれたし、とりあえずここは人手が足りてるから」 「そうそう。今からツァヴァルさんは夕べのまじないの結果を見るんだから、邪魔しちゃだめ」 シュレイは遠く都のジュッタロッタから、この里に駐屯している討伐隊の世話をしに来たという。髪を後ろで結い上げててきぱきと仕事をこなし、すっかり里に馴染んでいる。 「ツァヴァル、手伝うか?」 この里のもう一人の呪人、ユエシェロンがやってくる。 「ま、今はいいよ。それほど難しいまじないでもないし」 ツァヴァルが笑って答える。 「キュイさん、ようやく降りてきたよ。まだ未練ありげだけどな」 「仕方ないね。気に入ってたみたいだし」 二人が笑う。シュレイはイルガを連れて洗濯物の取り込みに行ってしまった。 「ツァヴァル。どう出た?」 「うーん。何かね、変。やっぱり森の奥。ずいぶん奥だけど、おかしい。アウブ様の力じゃない暗さって言うのかな」 「魔物生まれ出づる闇、というわけか」 「そうみたい。木々の力も弱まってる。奥のほうだけど」 ツァヴァルとユエシュロンが暗い表情になる。このまじないによれば、魔族が密林の奥に侵出してきているのがほぼ確実である。里の人々に、どう説明すべきだろう。 「今のところは、これ以上広がる気配はないみたいだよ。森から出てくるとは思えない」 「そうか」 「とりあえず、伝えてくる」 「あぁ」 ◆討伐隊の小屋 「森に魔族が来ている、それは確実ということか」 居合わせた皆の顔が暗い。 「調べに行こう。インカム、あんたたち巡察隊はどうするつもりなんだ?」 若いアクハドが尋ねた。 「先に都に戻ったイコンに陛下宛ての書状を託した。我々巡察隊の身分をそのまま調査隊に切り替えて貰えるようにな」 「盗賊どもの動きがほとんど無くなっている。俺たちも魔族の調査に向かうべきだろう」 エスカイが辺境軍の面々の顔を眺め回しながら言う。 「うむ」 最年長のソルトムーンが口を開く。 「先日、私の友人が、セイロから到着した。彼は森に慣れた野伏だ。調査には助けになると思う」 ヘクトールがタファンに向かって言う。 「済まないがメゼルを呼んでくれ。どのあたりを調査するか、目星をつけよう」 「わかった」 タファンが出て行ったが、間もなく慌てて駆け戻ってくる。 「メゼルの野郎、どうやら一人で森に向かったらしい! 里のはずれで見た奴がいるってことだ」 「何だと」 「馬鹿が! あれほど森に踏み込むなと言ったんだが」 ソイウィルが立ち上がる。 「俺が連れ戻してくる。何人かついてきてくれ」 「ソイウィルさん、俺が行こう」 「俺もだ」 シャーンとレンセルが続く。イルシャンハも槍を掴んで立ち上がった。 「俺も行くぜ。この辺りの森は俺が一番詳しいだろう」 ◆密林にて 「さて、どこから調べたもんだろ?」 メゼルが山刀で邪魔な枝を切り払いながら森の中を進んで行く。魔族が現れたのは森の奥、としか聞いていなかった。北のほうの連中が追われてきたとも言っていたから、とりあえず森の中を北に向かって進んでみるのが良いのかも知れない。 「おーい、メゼル。どこだ?」 「おーい」 やって来た方向から声が聞こえる。どうやら早くも誰かが自分を探しに来たらしい。 「何でこう早く見つかっちゃうんだろうなぁ。ま、いいけど」 メゼルはひとりつぶやくと、引き返す。 「いた! いたぞ! メゼルだ!」 シャーンがメゼルを見つける。照れたようなそぶりでメゼルが現れる。 ソイウィルが言う。 「メゼル、心配したぞ。一体どういうつもりだ」 「俺さ、ちょっとは森に慣れてるから、魔族の居場所とか探せるかも知れないと思って。 場所、分かれば役に立つだろ?」 ソイウィルが舌打ちをする。 「何言ってやがる。お前一人で森に入って、もし魔族に見つかりでもしたらどうするんだ。殺されちまうぞ」 「悪かったよ」 メゼルが下を向く。 「おい、ちょっと待ってくれ。あそこ、おかしくないかい?」 シャーンが森の奥を指差す。 「どうした?」 「あそこだけ木やら草やら枯れてるみたいなんだ。見に行こう」 がさり、と茂みを揺らし、一行がその場所に向かうと、立ち木がみな葉を落とし、下生えの草も茶色く枯れ果てている。辺りには妙な臭気が漂い、かるい目眩すら覚える。 「おかしいな。これは」 レンセルがかがみ込んで何本か枯れ草を引き抜きながら言う。 「この辺りを調べてみるかい?」 シャーンが木の上のほうを見回す。 「いや。この人数では手分けをして調べるわけにもいかんだろう。一度戻って、人数を揃えてから出直そう」 ◆密林の夜 じっとりと湿った空気が肌にまとわりつき、踏み込む足元からは、腐葉土の臭いが立ち上る。 軽装の若い娘が、森の中を一人歩んでいる。獣骨でできた首飾りを身に着け、腕輪をしているところかすると呪人であろうか。 ふぅ、と娘が息を吐く。この森の奥に、何がいると言うのだろう。獣や虫の動く音、気味の良くない鳥の鳴き声などが聞こえてくるばかり。集中力を蝕む臭気と湿度が、ともすれば自分が進んでいる方角すら曖昧にさせる。 「ギシシ・・・・」 「ギシ・・・・」 目の前の茂みのあたりから、奇妙な鳴き声が聞こえてくる。はっとして我に返る。 「あたし、あんたたちと友だちになりに来たんだけど、聞こえる? あたしの言葉、わかる?」 「ギシ、ギシ・・・・」 何か硬いもの同士を擦りあわせるような、神経を逆なでする音。 瞬間、茂みから躍り上がるようにしてそのものが姿を現した。 「ギシシシシ、ギシ」 くねりあった、人間の背丈ほども長い胴体の虫、としかわからなかった。が、娘は本能的に恐怖を感じ、悲鳴を上げることすらできすに後ずさった。どうして一人で来てしまったのだろう。こんな密林の奥深くまで。 現れた三匹の虫は長い胴体をくねらせ、こちらに這いずって来る。長い触角。腐葉土の臭いとは違う強烈な臭気。目が霞む。娘は気丈にも腰に下げた投げ刃を手に取り、投げつけた。 カツッ。当たったかに見えた。が、虫の動きが弱まる気配は無い。 殺される。この虫に。 娘は振り向くと、その場から駆け出した。何か、わけのわからないもの。虫みたいだけど虫じゃない。あたしを殺そうとしてる。 後をつけて来てる! 娘は絶望した。このままでは、殺される。自慢のまじないもこんな急場では役に立ちはしない。 どうする? 「誰かいるのか? おーい!」 行方に灯りが見えた。人だ! 「助けて! 誰か!」 「女の声だ! 探せ! 奥だ!」 ◆闇は闇にて隠されたり 一行は森の奥に向かっている。先日見つけたという、森の木が立ち枯れている場所に。 「これを降りかけておいてくれ。魔除けのクァンだ」 レンセルが皮袋をそれぞれに回す。 「どれほどの効果があるかはわからんが、昔から伝わってるんだ。何もしないよりは良かろう」 夜目が利くというムベムバを先頭に、一行は森の木々に印をつけながら進む。獣脂から作った手燭が、ジジッと音を立て、炎がゆらめく。 「ここだよ、アニキ」 メゼルが燭を手にして地面にしゃがみ込む。 「このあたりから、ところどころ枯れてるんだ」 「そうか。おい、手燭を増やしてくれ」 タファンが答え、リユリが背負っていた袋からいくつか取り出し、火をつける。 「はい、ヴォス」 身体をかがめて受け取ろうとしたヴォスを見て、リユリは驚いた。目が落ち窪み、脂汗が浮いている。 「ヴォス? 気分が悪い?」 「いや、何でもない」 自分を押さえきれないかもしれない。今までこれほどの敵と戦ったことはなかった。まさかその強敵が己の中にいようとは。それに、何かいやな気配がする。その気配が俺の中の何かに触れて、毛羽立たせ、引き裂こうとしている。 ヴォスは震える手で灯りを受け取り、高く掲げた。 「聞こえたか? 何か音がしたぞ」 先を見に行っていたインカムが振り向く。クータルが無言でうなずく。 「誰かいるのか? おーい!」 イルシャンハが槍を構えながら叫んだ。 「助けて! 誰か!」 若い女の悲鳴。 「女の声だ! 探せ! 奥だ!」 ◆闇、闇を喰らいたり 武器を手に、茂みを掻き分けて一行が進む。 「ば、化け物が来てる! すぐ後ろ!」 若い女が叫びながら飛び込んでくる。ざっ、とリュリが娘を抱きかかえ、後ろに下がる。 「行くぞ!」 ソイウィルが棒を振り上げ、前方で蠢く何かに向かって駆け出そうとする。 ぐわっ、という咆哮が、森に轟く。ヴォスの身体ががくんと傾き、彼の愛槍『烏』を杖にようやく踏みとどまる。 「どうした、ヴォス!」 レンセルが駆け寄る。ぶん、とヴォスの手が振られ、それを払いのける。 ぐわっ、と再び吼える。もはや、ヴォスであった部分のほうが少なくなっている。爛光を放つ赤い目。全身の血管が浮き上がったように筋の走った肌。頭髪が逆立ち、筋肉がびくびくと引き攣る。 「魔に取り込まれやがった!」 アクハドが叫ぶ。 もう一度吼えたヴォスは、『烏』を小脇に森の奥へ駆け込んだ。 「追うぞ!」 凄惨、であった。魔と化したヴォスが、三匹の虫のような化け物と格闘している。強靭な顎を持つ虫が、ヴォスの胸の肉を削ぎ取るが、ヴォスがその胴を握り潰そうとする。別の一匹が目を狙って跳ねる。ヴォスが吼え、血が飛び散る。 (俺は、人間として・・・・死ヌ・・・・死ニタイ! 《カンダリ・運動+10》) 一匹の虫がヴォスに尾を掴まれ、曲がりくねって生えた木の幹に叩きつけられる。ぐちゃり、と灰色の体液が飛び散り、地面に落ちた虫が足を痙攣させ、やがて動かなくなった。 「加勢だ。行くぞ、ムベムバ、エスカイ!」 ソルトムーンがなたがみを構え、二人とともに前に出ようとする。 「来、来ルナ! コイツ・・・・毒・・」 戦いつつ、ヴォスが叫んだ。もう一匹の胴体を引きちぎる。また灰色の飛沫が飛び散る。その体液が降りかかったヴォスの腕の肉が、じゅっと音を立てて焼け爛れた。 森全体に異臭が漂う。足元の下生えが、どういうわけか枯れ始めている。 「こいつらが、森を枯らした?」 「だな」 「ヴォスを助けてよ! 死んじゃうよ!」 後ろにいたリユリが叫ぶ。 「諦めろ、リユリ。助からん」 振り返りもせず、レンセルが普段と全く違う酷薄な口調で言った。 「せめて、俺たちの手で死なせてやる」 「そんな!」 ヴォスは最後の一匹を握り潰すと、奇妙な呼吸音を立てつつこちらに向き直った。足元には彼の槍が二つに折れて落ちている。その槍を踏みにじり、ヴォスが一歩こちらに近づいた。 聞く者全ての胆を凍らせる咆哮。人間の声帯では決して出せない声。 「囲め! 容赦はするな。こいつはもう魔族の一人だ。人間なんかじゃない!」 レンセルが声をあげた。クータルが長鞭を構える。インカムはジュッタロッタの王宮前で出会った時のことを回想しつつ、槍を握り直し、突きかかる。 (イシュよ、クァンよ、ヴォスを眠らせてやってくれ! 《イシュ×2・クァン・運動+15、対妖魔+10》) ヴォスの脇腹にインカムの槍の穂先が吸い込まれる。何事か悲鳴を上げながら、ヴォスが右手でインカムを薙ぎ払う。インカムは身体を反らし、かろうじてそれをかわすが、体勢を崩して倒れ込む。すかさずヴォスが踏み込む。 「インカム、今助ける!」 タファンが振り下ろされたヴォスの腕を槍で払う。《イシュ・運動+5》 クータルが、だっと地面を蹴り、鞭を振るう。狙いあやまたずヴォスの目を潰すように鞭の先が叩き付けられる。ヴォスが叫ぶ。 雄叫びを上げつつ、イルシャンハががら空きになったヴォスの腹部を狙って槍を突き出す。堪えきれず、どうっとヴォスが片膝をつく。 「行くぞ! ソルトムーン」 エスカイが槍をしごき、突き入れる《ギハ・運動+5》。同時にソルトムーンのなたがみが唸りをあげて叩き込まれ、ヴォスの首に食い込む。何かが潰れる音が響き、そこからヴォスの体液が噴き出す。 「リユリ?」 逃げてきた娘を介抱していたメゼルが、横にいたリユリがいつの間にか前に出ていることに気づく。 「ぼくが、やる」 短刀をすらりと抜き放ったリユリが、身体ごとヴォスにぶつかって行く。《カンダリ・クァン・運動+10、対妖魔+10》 どすっ、と音がした。リユリが返り血を浴びながら、血にまみれた短刀を引き抜く。ゆっくりとヴォスの巨躯が前のめりになり、地響きをたてて倒れた。 |