第1回 C-1 首都ジュッタロッタ


◆王宮にて
 ミカニカ王の私室。老臣・重臣たちを遠ざけ、若手の王臣たちに自由に進言させる時間を用意したのは摂政クテロップの配慮である。勿論、摂政たる彼自身は王のそば近く控えているのではあるが。
「入られよ」
 クテロップが声をかける。衛士ダッシャアが扉を開くと、スキロイル家の若者を先頭に、今日の謁見者たちが入室する。
「都合10名でございます。陛下」
 ミカニカは一族の若者たちを見ると静かに目礼する。血族にはやや距離を置くのが王としてのミカニカのスタンスであるらしい。
「カハァラン殿、陛下へご進言とは?」
 拝礼が済むと、クテロップが早々に呼びかける。20代も半ばに差し掛かったのだが、変人、昼行灯、鳴かず飛ばすとして知られているスキロイル家の問題児の一人。今日の進言にやってきた王室の中では最年長ということになる。
「可哀そうな娘を拾いまして。先日」
 クテロップが怪訝な顔をする。
「それだけですかな」
「そんなところですよ」
 ヴラスウルの街にはそういう哀れな子らがいる、政治が下々にまで目を配りきれていないためではないか、という遠回しの皮肉はクテロップには通じなかったようだ。ミカニカは、黙ったままこの年長の血縁者を見つめている。
「まぁ、よい。次は?」
「私が」
 女性にしては低い、しかし透き通った声でアイシャが答え、御前に進み出る。男装の麗人といえば聞こえは良いが、やはり王室の変わり者の一人であることに違いはない。
「王領のお話でございます。陛下。流民や奴隷などを使いまして、直轄領を開拓させてはと」
「良い考えです。アイシャ」
 ミカニカが初めて口を開いた。
「しかし財源をどうしましょう。自慢にはなりませんがこのヴラスウル、貧乏にかけてはクンカァンにも後れを取ります」
 ミカニカは少し間を置いて続けた。
「今、王領のみを拡充する利点は? 私も即位するまで思いもしませんでしたが、王族と王とでは農地一つにしても違う見方をせねばならないのです」
 あまりにあけすけなミカニカの言葉にクテロップは渋い表情をしてみせる。
「次」
 今度はミカニカが呼んだ。クゥリウが進み出る。
「しばらく赴いておりましたハンムーにて、近頃流行りの衣装にございます。陛下にはよくお似合いになりましょう」
「ありがたくいただきます。貧相な王宮にこの服はさぞ映えましょう。せめてハンムーぐらいの国力を持ちたいものです。そうではありませんか。クゥリウ?」
 辛辣な皮肉を浴びせられ、クゥリウは引き下がる。ミカニカは実のない単なる謁見が続くことに苛立っているようだ。 ルヴァナとその友人である近衛武人のリーデヴァは、巡り合わせの悪さを呪った。こう陛下の機嫌を損ねては「微行で街に出ませんか」などという暢気な進言など蹴飛ばされるに決まっている。
 ルナが進み出る。
「おそれながら申し上げます。我が国におきましては、国の基であります農業、さらには商業にいま少しの投資があってよろしいかと」
 クテロップが肯きつつ、付け加える。
「このクテロップも同感にございます。つきましては、陛下に御引き合わせしたい者がおりましてな。アッカーン、前へ」
 最後に部屋に入ってきた若者がゆっくりと進み出る。
「アッカーンと申します。貿易を生業としておりまして、摂政殿下には懇意にしていただいております」
「その若さでですか」
「陛下にはかないませんが。それはともかくですな、このヴラスウル、磨けば光る珠でございますよ。農産品をはじめとする商品がもう少し流通に乗りさえすれば、国内の潤いが増すことは必定」
「よいでしょう。ルナ、アッカーンと相談のうえ、もう少々その案を煮詰めなさい。今の進言は、理想には違いありませんが具体案に欠けます。その点を」
「はっ」
「次」
 若者が進み、クテロップが紹介する。
「ナハルにございます。城下でも評判の槍の使い手。本日より陛下付きの衛士として仕えさせます」
「さようですか。ナハル、よろしく頼みます」
「命にかけて!」
 ナハルが引き下がり、入れ替わって細身で小柄、一目で文官とわかる男が進み出る。テララッハと名乗った男は、とうとうと南方への開拓団派遣の重要性を語った。興味深げに聴いていたミカニカが、話の途切れに尋ねた。
「その費用をどうやって捻出するのです? それだけの規模となると準備だけでも相当な時間と費用が必要でしょう。先にも言いましたが、このヴラスウルは現状でそちらにまわせる財源を持っていません。そう、たとえばルナの案による産業の振興策が功を奏しでもしない限り」
「差し出がましいようですが、陛下」
 武人のインカムが進み出る。
「私もテララッハと同様に考えます。が、南方の蛮族どもを討ち、開拓を進める前に、国内の流通を妨げる盗賊団を一掃するのが先決ではありますまいか」
 ほう、という表情をしてミカニカが視線をインカムに移す。
「また、盗賊どものうち帰順してきた者たちは屯田兵として開拓に従事させ、彼らをして南方からの脅威を防いではいかがでございましょう。つきましては、是非とも私に盗賊団討伐の采配をお預けくださいますよう、お願い申し上げます」
 ミカニカは少々考えている風情であったが、後ろを振り返ると控えている衛士に尋ねた。
「どう考えます。同じヴラスウルの武人として」
 衛士は一礼し、無愛想に言う。
「南方は比較的静穏。現在騒がしいのは、東。今後の脅威は、カヤクタナに攻め入ったというクンカァンの動き。いずれクンカァンとぶつかることを想定するのなら、その前に東の密林を根城にする盗賊団を黙らせるべきかと」
 ミカニカはダッシャアの言葉に頷く。
「インカム。手兵を率いてまずは東部を巡察に向かいなさい。帰順させて益のある者か、確かめるのも忘れないように。」

◆ジュッタロタ城北・ネタニ川
「どうも暇だなぁ。ここんとこ。誰か渡りに来ねぇかなぁ」
 岸に舫った渡し舟の上で、肌脱ぎになって寝転びながら、渡し守のチアジがそんなことをつぶやいている。
 その時。鈍い音がしてチアジの船が揺れた。がばっと起き上がり川面を見るチアジ。何か大きな袋のようなものが流れている。あれが船にぶつかったのだろう。
「何だ?」
 チアジは棹を手に取ると、その袋のようなものを引っかける。ゆらり、とその袋が水の中で向きを変える。瞬間、チアジが息を飲む。
「死、死体?」
 青黒く膨れた顔に、藻のような髪を絡み付かせた死体。
「こりゃ・・・・? まぁ引き揚げてみるとしよう」
 腐臭に耐えつつ、チアジは岸に死体を上げる。どうやら身につけている服からすると呪人のように思える。胸から腹にかけてざっくりと切り裂かれた傷口。
「随分流されてきたみたいだな。上流って言うと・・・・イーバの滝の呪人か!」
 ネタニ川の上流、イーバ滝の周辺といえば、ヴラスウル一の霊場、修験者・行者の集まる土地として知られている。
 顔を上げ、ふと川の様子を見たチアジの表情が凍る。
「おいおい。いったい何だってんだよ、こりゃ。どうしちまったんだよ」
 川面にはいつの間にか、何体もの死体が浮かんでいる。ある者は仰向けに、ある者は水底を見つめるような姿勢で。
「こいつら、みんな呪人じゃねぇか。イーバで何かありやがったんだ!」

◆ふたたび王宮
「駄目だ。駄目といったら駄目だ。早々に帰れ!」
 宮殿の門のあたりで、2人の男が衛兵たちと押し問答をしている。一人は巨体の容貌魁偉な男。もう一人、こちらはそれとは対称的に小柄な若者。しかし純朴そうな顔をしてはいるものの、目の配り、身ごなしの鋭さは、見る者が見れば只者でないと知れるだろう。この二人、ヴォスとリュリはともに王宮の守護兵として採用されることを志願してやって来たのではあるが、すげなく追い返されようとしている。
「どうもいかんなぁ。リュリ。諦めて酒でも飲みに行かんか?」
 小声でヴォスが言う。
「何で簡単に諦めんだよ!」
 リュリがそうヴォスにつっかかった時、5騎ほどの供を従えて一人の武人が門から出てきた。武人がヴォスの体躯に目をとめ、衛兵に尋ねる。
「何だ? あの2人は?」
「これはインカム様。いや、王宮守護兵に採用しろと言ってうるさいのですよ」「ふむ」
 インカムは下馬すると、二人に近づく。
「守護兵でないと、不満か?」
 ヴォスはインカムを見下ろし、リュリは見上げる形になる。
「どうだ、志願兵として私の下に入らないか? お前たちが武功を立てれば、私から守護兵に推挙せんでもない」
 ヴォスとリュリは目を見合わせる。遠回りではあるが、悪い話ではないのかも知れない。
「言い忘れていた。私はインカム。ちょうど私も手兵が要るのだ。すぐに動かせる人数が」
 インカムが後ろを振り返り、部下らしい5騎を指し示して、続ける。
「身分は、とりあえず連中と同じ馬乗りだ。ただし、今のところはあくまで私兵ということになるが、な」

◆ジュッタロタのバザーにて
 貧しいとはいえ、ジュッタロタのバザーはヴラスウルで一番の盛況を見せる。今日も多くの人々と財貨がこうして都に流れ込み、動いて行くのだ。
「魔物除けにナージャお手製のお守りはいかが? 霊薬もあるよ! そこのお兄さん、薬飲んでかない?」
「干し果物、干し果物だ! 寒くなる前に仕入れておけば安いよ! ウチのは特に長持ちだ!」
「誰でも結構。近頃魔に憑かれてお困りの方はおられぬかな? このイルイラムが見事祓って進ぜよう」
 芸人たちの掛け声、歌声なども聞こえてくる中、クォフは様々なものに目を奪われつつ、通りを歩いていた。これだけの人数を一度に目にするのは初めてのことである。
「すごいなぁ、ツァダイ、レシュ。そう思わないか?」
 供に連れているオオカミと鷹にそう語りかける。オオカミは「くん」と鼻を鳴らし、鷹は首をかしげるような仕草をしてみせる。
「早いとこ毛皮やら服やら扱ってくれる店を探さないと」
 そう独り言をつぶやくと、すれ違った娘が声をかける。
「あなたも着物を扱う店を探してるの? あたしも晴れ着を揃えに行くんだ。一緒に行かない?」
 似た歳頃の娘。整った顔立ちで、豊かな髪を後ろで結っているのが印象的だ。
「あたし、シュレイっていうんだ。」
「あ、クォフだ。こっちは友だちのツァダイ、それにレシュ」
 二人連れ立って、しばらく歩くと、すぐにシュレイの知り合いの店に着く。
「おじさん、晴れ着を見繕ってくれる?」
 中から太った主人が出てくる。
「シュレイか。久しいなぁ。なんだ? 買い出しかい? 良い古着が入ってるよ。ハンムーの腕利きが仕立てたヤツだ」
 主人はクォフに目を留める。
「そっちは何をお探しだい? シュレイ、友だちかね?」
 クォフが荷物から毛皮を取り出す。
「これを売りたい。東の森で獲った雄鹿の毛皮だ」
 主人は毛皮を広げ、傷や痛みを調べていたが、やがて顔を上げる。
「なかなか大物だったな。傷も少ない。これぐらいでどうだね」
 懐から巾着を取り出すと、何枚かの金貨をつまみ出す。
「それでいいよ」
 クォフは金を受け取りながら、続けた。
「長いこと田舎暮らしだったんで、世間のことがよくわからないんだ。この頃噂になってること、聞かせてくれないか?」
「噂ねぇ。そうさな、クンカァンとカヤクタナで大戦さをするって話だ。いや、もう始まっちまったのかも知れんな」
 シュレイがため息をつきながら言う。「なんでそういう暗い話ばっかりなんだろ。もっと楽しく暮らしたいのになぁ」

◆ジュッタロタの神殿街にて
「フハハハハハ。さぁ、民衆たちよ。救いの神は今こそ現れた! 前クマリの口から飛び出した『最後の神』とはこれまさに我らがネゴ神さまのことだ!」
 アーシュと名乗る教主に率いられた5人組みが辻説法をするようになってしばらく経つ。説法自体はともかくとして、付き従う自称副教主、自称司教、自称神聖騎士団長たちの美貌に評判が集まり、結構な人だかりができるようになった。
 教主が一通り説法を終え、一行が辻を立ち去ると、人だかりも崩れてゆく。が、声が上がった。
「スリだ! 俺の財布が無い!」
「あ、俺のもだ! やられた!」
 人だかりのあちこちからそんな声が聞こえ、やがて大騒ぎになる。少し離れて、宮大工のツーッシアが騒ぎを見ていた。
「なんなんだろうな。この街は」
 先ほど神殿を訪れ、その粗末さに驚いたツーッシアは、その場にいた神人に神殿の補修と増築を提案したのだが、丁寧かつきっぱりと断られたのだった。
『申し訳ございませぬが、当方には大工殿に報いるだけの余裕が有りませぬ。今はお引き取りくださいますよう。しかしこのヴラスウルを貧しいとて馬鹿になさいますな。我らは建物の見事さよりも信心の深さを敬いまする。』
 神人の言葉に、断られながらも好感を抱いていたのだが、今の有り様を見ていると信心深いのは一部に限られるようだ。
「しかしまぁ、ヴラスウルばかりってことでもねぇやな。どこでも似たようなもんだ。今のご時世」

◆ジュッタロタの酒場にて
「クリルヴァ様、ご機嫌よろしゅう」
「まぁ、そうかしこまるな。楽しく飲もうではないか」
「ご一緒させていただきやす」
「あの詩人は?」
「ああ、ジェゾさんだ。ほら、今も女にせがまれて歌ってやってる。なかなかのもんでがしょ」
「近頃の噂話など聞かせて貰えぬか?」
「俺っちの仲間がカヤクタナから帰って来やしたんでさ」
「ほう。で?」
「クンカァンとの戦さは、大負けに負けたそうでさ。王様もほうほうのていで逃げ帰って来たって話で」
「まことか? 一大事だな。それは」
「やっぱり魔物まで連れて来ちまってるんだ。クルグランとかいう王様にゃ、誰も敵わないんでやすかね?」
「わからん。が、さすがに『最後の神』を自称するだけのことはある。恐るべき国力だ。あの貧しかったクンカァンを、それほどまでに仕立てるとはな」
 ミリムナと名乗る歌姫が、歌い終わった後、連れの娘の親を知らないかと客に訪ねている。
「戦争になるんでやすか。ヴラスウルも」
「わからん。しかし戦さになると、ああいう具合に親を失う子も増える。傷ましいことだ」

◆みたび王宮
「誰?」
 ミカニカが枕元の人影に気づき、声をあげた。人影はびくりと体を震わせたが、振り向くと背後の窓から身を躍らせた。
「誰か! 曲者です!」
 ミカニカが大声をあげ、衛兵たちが慌てて部屋に飛び込んでくる。
「陛下、ご無事で?」
「大丈夫です。すぐに曲者を探しなさい。まだ王宮内にいるはずです。その窓から逃げました」
「はっ」
 小柄な人影が、奇妙な前傾姿勢で王宮の庭を走り抜ける。鳴子が鳴り、衛兵たちの声が聞こえる。
(・・・・でも、殺せないよ・・・・)
 セタは全力で走りつつ思った。あの少女の面影は、妹に似ていた。
「止まれ!」
 鋭い声が響く。周りには濃い血の匂い。
「犬を使って陽動作戦とはな。小僧。誰の差し金だ?」
 衛士ククルカンがメルクタナ、ケセラといった若手たちを引き連れ、立ちはだかる。足元にはセタが頼んで騒いで貰った犬たちの死骸が転がっている。
「捕らえろ!」
 数人が槍と縄を持ち、セタを王宮の壁に追い詰める。
(神様!)
 セタが祈った。瞬間、
「うぉっ!」
 ククルカンがうめく。その脛に深々と歯を立てているのは、先ほど地面に横たわっていたはずの犬の死骸である。周りの死骸もゆっくりと起き上がり、うなり声をあげつつ衛士たちに飛びかかる。
「確かに殺したはずだぞ!」
「それより犬をなんとかせんか!」
「魔物のしわざだ!」
「うろたえるな! 落ち着かんか!」
 再び大騒ぎが巻き起こる。セタは事態を把握する間も惜しく、勢いをつけて飛び上がり、壁を掴むとひらりと乗り越え、闇に姿を消した。
 同時刻。王宮の一室。窓から騒ぎの顛末を目にしている影があった。こう大きな騒ぎを起こされたのでは、自分の目論見に支障をきたすだろう。まさか自分より先にミカニカの部屋に忍び込む者がいるとは。これで当分の間は警護の人数が倍ほどに増やされるに相違無い。
 影はゆっくりと窓を離れると、寝台へと戻った。振り返るその瞬間、月明かりに照らされた仮面のような貌。その瞳が、紅玉の如くに赤く妖しい光を放った。

◆夜のジュッタロタ
 セタは走る。どこに向かっているかもわからないまま。深夜のジュッタロタの街並みに、セタの足音だけが聞こえる。人気の無い路地に差し掛かったセタは、その場にしゃがみ込み、呼吸を整える
「来たねぇ。獲物が。行くよ!」
 ヒュルが目配せすると、リララが黙ってうなずく。リララは闇に紛れてセタの後ろにまわり、ヒュルはセタの前に飛び出す。声を上げようとしたセタの口をリララの手が塞ぐ。
「救いの神様ってのは、そんなにいないんだよ。少なくともここにはね」
 ヒュルが一見無邪気にも見える笑みを浮かべながらそうつぶやいた瞬間、リララが絶叫する。セタはリララの手を振りほどくと、踵を返し、路地を走り抜ける。
「チッ! 追うよ!」
 リララが顔を歪めたままうなづくが、その右手はセタの鋭い牙に切り裂かれ、血が溢れ出している。
「と思ったけど、それじゃ無理だね。先生のところへ行こうか」
 ヒュルはリララを連れ、知り合いの療法師のもとを尋ねた。
「ヂャシャの小父さん、開けておくれよ。急患なんだ」
 ゴトゴトと物音がすると、扉が開く。
「こんな夜更けに、どうした?」
「怪我なんだ。そこで大きっな犬に噛まれちゃったんだよ」
「おお、こいつは重傷じゃ。待ってな。今すぐ手当てしてやる」
 ヂャシャは手際良くリララの傷口を洗い、油薬を塗り込むと包帯を巻きつける。
「これでよし。膿ませんようにな」
「手間かけさせちゃったね。それで、悪いけど今さ、持ち合わせが無いんだ」
「いいさ。知らない仲じゃない。いつでも有る時に持っといで」
「悪いね、ほんと」
 表で誰かの呼ぶ声がする。
「誰だね?」
「私だ。シヌンプシだ。夜更けに悪いが、薬を売ってくれ」
「あぁ、入ってくれ」
 小太りの男が入ってくる。
「お、先客かね。これは失礼。私はシヌンプシ。ご存知かな?」
「あの妓館の」
 シヌンプシがうなづく。
「女が一人ひどい熱を出してな、買い置きの薬では一向に効き目がないのだ。済まないがヂャシャ先生、一つ特製の熱冷ましでも譲ってもらえないかね」
「本当は往診にでも行ってやりたいところだな。ま、ちょっと待ってな」
 ヂャシャが棚の上の薬箱を下ろし、中から素焼きの壷を取り出す。
「こいつを粥か何かに混ぜて、食わせてやるんだ。半日もすれば下がるだろう」
「ありがたい。代金はここに置く」
 シヌンプシは絹の袋を卓の上に置くと急いで出て行く。
「あたしらもそろそろ戻るとするよ。もういいかげん遅いしね」
 ヒュルが立ち上がった。

◆早朝・ジュッタロタの街外れにて
「小僧、起きろ!」
 護民兵フルハラングが槍の石突きで少年の頭をこづく。明け方の巡邏の最中、壊れかけて使われなくなった馬小屋を覗いて、この少年が正体も無く眠り込んでいるのを見つけたのだった。
「起きろよ!」
 もう一度コツンとこづかれると、馬糞臭い藁の中から、少年が跳ね起きた。
「こんなところで何してるんだ? 家、ないのか?」
 少年はフルハラングに顔を覗き込まれ、恐怖した。昨日王宮で衛士たちに追われた記憶が生々しく思い出されてくる。それに夜の街で正体のわからない二人組みに襲われたことも。人を殺そうとした祟りかも知れない。少年はガチガチと歯音をたて震え出した。目の前のこの男も、王宮の衛士たちと似通った格好をしている。もしかしたら自分を捕らえに来たのだろうか。
「風邪でもひいてるのか? 仕方無いな。俺たちの詰め所にでも来い。粥ぐらいなら食わせてやるぞ」
 男の口から出た言葉に少年は驚いた。この人は親切な人らしい。そう思った途端に、なぜか判らないが涙が溢れてきた。
「おいおい、泣くなよ。どうした?」
 少年は我慢しようと歯を食いしばるのだが、涙は止まってくれない。
「仕方ないな。さぁ、ついて来るんだ」
 フルハラングは槍を持ち直し、くるりと振り向くと大股に馬小屋を出て行く。少年も慌てて立ち上がり、その後を追う。
「名前、聞いてなかったな。俺はフルハラング。街の護民兵だ。お前は?」
 少年はしばらく黙っていたが、言った。
「セタ」
「ジュッタロタに身寄りはないのか?」
 セタがうなづく。
「近くの街にもいないのか?」
「うん」
「一人ぼっちか。そうだな、しばらく俺たち護民兵の見習いでもしてみるか?」
「・・・・うん」
「儲からんぞ。食えるだけだ」
 辻に設けられた詰め所が見えてくる。二人が中に入ると、奥で煮ている粥の匂いがぷんと鼻を突く。
「あ、こら。泣くなって言ってるじゃないか。男だろ。お前」
 セタは何度も目をこするが、にじんでくる涙をどうすることもできなかった。

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