第10回 D-1-1 首都ハンムー


ハンムーの行方

ハンムー国は舵なき船よ
あっちにこっちに流れてく
ケケレン王は遊んでばかり
ネピニィニ妃は陰謀がお好き
船の中では権力争い
外では蛮族荒れ狂う
南にメシナル離反して
アルグの暗躍狂言回し
都の人々騒ぎを起こす
虎視眈々とハンムー狙う
ヴォジクのワニのバーブック
王妃は死んで王呆け
アルグもメシナルも退場し
ハンムーはハルシャに任される
けれどもハルシャの小さな手には
ハンムーの舵は重すぎた
嵐に揺れるハンムー船は
これからどこに行くのやら

〜〜ハンムーの流行歌・作者不詳〜〜


「バーブックの爺も死ぬ間際になって、いいことを言ったね」
 文人のウルクルは、宮中の酒席でそう発言した。ちなみにカナンでは、特に法で規制されてはいないが、やはり慣習的に子供の飲酒はよくないこととされる。大人扱いされることを好むハルシャも、さすがにまだ酒の味はわからず、公式行事などで儀礼的に口をつける以外には酒は嗜まない。が、酒の席は好んだ。人が酔ってもりあがる雰囲気が好きらしい。さらには、人が酔って本音を言うのを聞き逃すまいとも考えているようである。
「ほほう、それはどういうことだ?」
 ハルシャはさっそく、ウルクルに下問する。
「ハンムー一国にとらわれるなってことですよ。どうせ王権を強化するなら、カナン全土の王にならなきゃ」
 幼王をそそのかすかのような彼の言辞に、その場にいた古の刃系の人間は顔をしかめ、あるいは仲間うちで意味ありげに目配せをかわす。
「ウルクル殿」
 見かねて、前宰相“月代の君”キリ・ウルクがウルクルに注意を促した。彼はハルシャと古の刃との間で両者の調整を試み、古の刃の提案する選挙候制度に賛成しつつも、ハルシャに権力が少しでも残るよう尽力しているところであった。が、すでにハルシャと古の刃の乖離、特にハルシャが古の刃を嫌う傾向は決定的であり、ことは彼の手にはおえないところまできていた。
 確執の根は深い。
 古の刃の目指すものは、一言で言うなら“革新”であると思われる。彼らは、文官の試験選抜や選挙候など、これまでにない新しいことをハンムーに導入しようとしていた。これは大変なことなのである。
 新しい制度が導入されれば、それまでの制度で特権を享受していた者が不満を感じる。具体的には、王都ハンムーの貴人、あるいは地方の土豪たちだ。ハルシャ王はその代表といったところである。一見開明的に見えても、ハルシャは古いハンムーという国の因習から脱却することはできなかった。現在の局面でヴォジクに食指を動かすなど、君主としていろいろ問題ある人物であることも事実ではあったが、それでも旧勢力にとっての「古きよきハンムー」を体現する象徴的存在、それがハルシャなのである。
 “辣舌の”ヘフン・ケルオンは、表面上は宰相としてハルシャの補佐を続けていたが、水面下ではハルシャ王から古の刃に権力を移行する準備を続けているようであった。
 最近の彼らの対立としては、ガーユ将軍の問題がある。
 ガーユ将軍は、名目上はハンムーの将軍であるが、事実上勝手に動いて軍事行動を行っている。その点では、ハルシャも苦々しく思っているはずだった。が、ヘフンが「ガーユの解任」を進言すると強硬に反対した。苦しい理由をいくつか上げてはいたが、要するに古の刃勢力に対する手駒として残しておきたいのだろう。これにはヘフンもいささかあきれ気味であった。
「約束も信義も守らぬ王に仕える臣はいませんぞ」
 忠告の言葉さえ、このような関係では微妙なものとなる。
「それは反逆の言辞か?」
 ハルシャが皮肉を込めた口調で言う。その一言で、楽しいはずの酒席の空気が凍り付く。
 誰かの座席がガタッと音を立てたのが意外なほど大きく響いた。
 護衛のラチウルが緊張し、さりげなくハルシャを守るよう身体を動かす。
 ヘフンの冷静な視線とハルシャの感情的な視線がぶつかった。
 ヘフンが沈黙を破る。
「陛下、私が言いたいのは……」
 ハルシャはそれを遮った。
「よい、言いたいことはわかっている。今のは冗談だ。酒宴を続けよ。余は疲れたゆえ先に休む」
 ハルシャの言葉で緊張は解けたが、彼の退席を機に、宴の参加者は三々五々引き上げていく。
    *    *    *
 宴席から引き上げたハルシャは、無人の寝室に戻り、寝台で横になる。
 わずか9歳か10歳程度で国を背負って立つ、といえば、聞こえはよい。陰謀を巡らしていることさえ、人はけなげだと思ってくれる。だが、もし彼が大人であったとしたら、この性格で人気があったかどうかはかなり疑問である。
 ハルシャの愛人アナナや、また第二夫人であったナジュマの姿はすでにこの王宮にはない。彼の周囲は一気に寂しくなっていた。
 アナナは、もう密使としての必要もなくなり、またハルシャに悪い噂が立たないようにという配慮から、彼のもとを去っていたのである。
 一方ナジュマだが、彼女は「アナナさん、女の戦い勝利おめでとう」と言い残し、文字通り姿を消した。彼女にとってハンムー王の第二夫人の地位など厭きたら捨てる程度のものらしい。まあ、確かに今のハルシャの権勢はそんなものかもしれない。しかし、愛人扱いのアナナと異なり、ナジュマの場合は一応第二夫人の失踪ということになる。王宮はちょっとした騒ぎになった。精神的な愛人であったアナナと異なり、ナジュマとは肉体関係もあったわけで、後々に御落胤騒ぎが起こる可能性もある。結局いつもの陳腐な手だが、ナジュマは記録上は病死という扱いにされ、ハンムーの公式記録から抹消された。
 ハルシャはつぶやいた。
「沈みかけた船からはネズミも逃げるというが……」
 ナジュマはともかく、アナナが離れたのはハルシャにもいささかこたえたようである。彼女が自分のことを思って去ったという発想はできなかったようだ。
 と、そこに別の女性がやってきた。
「よろしいですか、陛下」
「ティエンか……」
 “天藍の語り手”ティエン。もはやハルシャが心を許せるのは、早い時期からの側近であった彼女だけかもしれない。一時はハルシャの方から彼女を嫌ったこともあったが、彼女はそれでもハルシャに家族のように接していた。
「他の勢力の強い今は、王であるからこそ発言はご注意しませんと……」
 ティエンは諭す。
「君までが、古の刃の味方か」
 ハルシャはすねた。しかし、そんなハルシャに説得ができる人物は、もはやティエンぐらいである。
 彼女は、ゆっくりと説いた。他勢力の力が大きい今、耐え忍ぶべきだということを。
「……何事も時というものがありますから」
 という彼女に、ハルシャは答えた。
「よかろう、今は古の刃の連中のお手並み拝見といこう。余の予想では、あの連中のやり方は二年と持たない。その時こそ私の出番だ」
 翌日、ハルシャはヘフンの差し出す書類のいくつかに署名を行った。ガーユの解任、選挙侯などを認めたのである。ただし、南方の独立だけは頑として認めず、署名しなかった。ハルシャにとって国の分割は最後の一線なのである。
    *    *    * 
 一方、この時期、ハルシャと古の刃の決定的な反目を回避しようと動いていた人物として、軍師“しりたがりの”ファルフォンがいる。彼はそのために軍を掌握しようとやっきになっていた。これはけして自己の力を求めてのことではない。彼の意図するところは、ハルシャと古の刃の戦いを回避し、抑止するための戦力の確保であった。
「これぞ天下三分の計」
 と、ここまあではよかったのだが。
「くっ、どういうことだ?」
 ファルフォンはうめいた。その肝心の兵力が今のハンムーにないのである。
 潜在的な力はカナン随一とまで言われていたハンムー軍だが、度重なる政治的な動乱の中でその兵力は失われていた。そもそもカナンの軍は、各地の守備兵力を除けば、戦時や異常事態の時に必要なだけ動員するのが普通である。ハンムーでは、その異常事態が長く続きすぎた。大軍を長く維持すれば当然、大量の兵糧を消費する。いつまでも軍をかかえていては、その維持もできなくなるのが道理というもので、以前のヴォジクによる食料買い占めの時点でハンムー軍は解体していたと言っても過言ではなかったのである。例のガーユ将軍の軍のように軍閥化して中央の統制を受けなくなっっていたり、あるいは故郷に戻っていたり、盗賊化していたりで、残っているのは各地の守備と治安維持のための最低限の兵力だけであった。
「……となると、考え直さないといけないな……」
 ハンムーの勢力を三分するというファルフォンの戦略は、その三者が互角の力を持っていなければ意味はない。だが、彼はそれだけの力を糾合することはできない。それどころか、ハルシャでさえ、いざという時に動かせる兵力はたかが知れていた。
 あれほどの大国であったハンムーの、これが現在の姿であった。これではいかな名軍師といえど、腕の振るいようがない。
 同様に、南方の勢力に備え、兵に戦い方を教えようとしたタンジ・アッハルの活動も虚しかった。ハンムーの都に防御用の拠点を築くのがせいぜいであったが、いざというときにどれだけ役に立つのかは疑問であった。
    *    *    *
 人は自分が生まれ育った環境や社会が変わってしまうことを嫌うものである。気候がよくて、それほどあくせく働かなくてもそれなりに収穫のある農業国ハンムーではなおさらだ。
 むろん、中には変化を歓迎する人々もいる。積極的に変えなければいけない、と考える人もいた。古の刃はあきらかにそうである。世の中の人々の大半が彼らと同じように考えるならば、誰にもその社会の変革を押しとどめることはできなくなる。仮にものすごい腕の暗殺者が古の刃の人々をことごとく暗殺したとしても誰かが必ずその意志をつぐ。
 逆もまた真なり。いかに古の刃が理想や使命感に燃えていたとしても、また実力があったとしても、彼らが社会の中で少数派であるならば、彼らの目指す社会は実現しない。短期的勝利は得られても、大きな歴史の流れは、いずれそれをくがえし、元に戻すだろう。歴史とはそのようなものなのだ。歴史上「英雄」と呼ばれる人々も、たいていは、大きな流れの上にうまくのったからこそ英雄となれたのである。時流に逆らった英雄もいるが、そういう英雄には、最後に必ず悲劇が訪れる。それは悲運というよりも必然なのだ。
 古の刃の人々が、長期的に見てどちらの型であるかは、後の時代の人々に判断をゆだねるとして。
 彼らが投じた一石は、短期的には明らかにハンムーに変化をもたらしていた。
 貴族の娘、“真珠の姫様”ことサニムトジェエベは、その変化を受け入れている人間の一人である。彼女は、ヴォジク派よりであった自分の家を守るため、文官登用試験を受験していたのである。
 とりあえず、現段階の受験者は結局、文人の家の子弟が多い。庶民の姿も混じっているが、その数はけっして多くはなかった。彼女のように貴人の家に生まれてわざわざ試験を受ける人間はさらに少ない。ほとんどの貴人には、そんなことをせずとも、自分はしかるべき地位について当然という意識があるのだ。
 ともあれ、試験制度は、さまざまな問題を含みつつも始まった。
 現段階では、庶民で教育のある者といっても、やっと読み書きや算術ができるという程度の者がほとんどで、政治に参与できるほどの知識を持つ者は皆無に近い。結局、合格者の多くは文人か、サニムトジェベのような少数の貴人ということになる。
 庶民の家からも合格者が多くでるようになるには、まず、彼らが試験合格を目指した教育を子弟に与えるようにならねばならない。それには、それができるだけの金銭的余裕と社会の安定が必要であった。
 真にこの試験制度が機能するには、まだまだ時間が必要なのであった。
    *    *    *
 そうこうするうちにも、古の刃系の人々は動いていた。
 古の刃親衛隊長“影の”マギューが古の刃の戦車部隊を率いて蜂起、“サントーの愛人”ケケレカが密偵たちを使って情報面でこれを補佐し、さらにヤシバの兵を率いて“ミミンの守護者”ことテュリがこれに呼応して動いている。さらに、呪術等で敵対する者に対して、呪人であり暗殺者でもある“虚ろな瞳の”ネムクームワが警戒を行うという万全の体勢であった。
 彼らの蜂起に先だって、古の刃はハルシャが信用に値しないという宣伝をすることも忘れてはいない。
 それにしても、この蜂起を何と呼んだらいいいのだろうか。古の刃という組織自体はハルシャに直接仕えていたわけではないから、「反逆」という言葉は不正確だ。が、ハルシャは、これはハンムー王国に対する反逆ととらえていた。
「古の刃め、ついに本性をむき出しにしたか」
 自嘲ぎみにハルシャはつぶやく。
「……ともかく、ご避難を……」
 ハルシャ暗殺を警戒して警護していたラチウルが促す。
「避難? いつぞやの暴動騒ぎの時とは違う。どこに逃げたところで余を守る兵がいないのではすぐに捕まる。かえってハンムー王として恥をかくばかりだ。それよりはむしろ、王宮で堂々としているほうがまだましだ。それに彼らの挙兵は、単に私に言うことを聞かせるためだ。例の南方独立の件とか、な」
 彼の読みは当たっていた。
 兵力を背景として、マギューから七項目の要求がハルシャに送られた。もっとも、項目の中には、この時点で古くなっていたものもあった。
「まず、第6項のナジュマ第2夫人の件だが、追放するまでもなく“病死”している。第5項、マセウス将軍のドゴンドッチ太守任命他も、現状では認めざるをえないな。第1項のガーユ将軍の解任、第4項の選挙候制度も基本的には認めている。ただ、細部に納得がいかない部分がある」
 ハルシャは指摘した。
「要求の第2項では、ゴヌドイル以南をムジック王国として独立させ、また旧ヴォジクをシャイレンドラ国として承認せよとなっている。だがそれなら、第4項の選挙侯の人選はどういうことだ?」
 彼らの要求した選挙侯とは、ムジック国王、シャイレンドラ国王、メシナル太守、ヤシバ太守、ドゴンドッチ太守、ウルク家当主、ケルオン家当主、それにハンムー国王である。
 メシナルもヤシバもゴヌドイル以南の都市であり、この要求を入れればムジック国の一部ということになる。ならば、これらの太守や、現在ヘフン・ケルオンが当主のケルオン家当主も加え、ムジック国及び古の刃は8人の選挙侯のうち4人を確保することになる。シャイレンドラ党が古の刃とよい関係を保っていることも考えれば、彼らが過半数を確保できると言ってよい。
「……つまり、ハンムーは、自分の国の王を自分で選ぶこともできず、外国に押しつけられた王に治められるわけだ。国とは名ばかりの、属国だな。仮に僕が『ムジック国の独立は認めるがその王は僕が決める』と言ったら、君らはそれで独立できたと納得するか?」
 ハルシャは立場を忘れて本気で怒っている。彼の一人称が「余」ではなく「僕」になるのは、感情的になった時だ。
「我らは何もハンムーに圧政を敷くつもりはない。ただ我々の要求は……」
 マギューの説得を、ハルシャは聞いていなかった。
「僕はこのようなふざけた要求を飲むつもりはない。無理矢理署名させられたとしても、脅されてした約束など守る義務もないね」
 そう叫んでしまうあたりが、ハルシャの限界ではあった。本当なら、本心を隠して、自重すべきところである。マギューは言った。
「それでは、生命の保証もできぬ。それに、その抵抗は無意味でもある」
「無意味とは?」
 マギューに代わって答えたのはケケレカである。
「もうすでに、私たちの仲間のツィツィアが、競技場でハルシャ王の発表の準備をしてるわ」
「そうか……影武者か」
 この前はハルシャを救うために使われた影武者は、もともと古の刃が用意したものであった。
「悪く思わないでねっ」
「まあ、勝手にするがいいさ。僕は、ミリ神の血を引くハンムー王家の正統だ。ミリ様を裏切るようなことはできない。ハンムーはミリ様の子孫たるハンムー家のものであって、君らのものではない」
 神の実在するカナン世界では、政治的信条も最終的には神にいきつく。
「ハンムー家の氏神ミリ様に誓って、こんな要求など受け入れるものか」
 言うまでもなくカナンで神に誓うというのは、重大な決意である。なにしろ、誓いをやぶれば神様のどんなばちが下るかわかったものではない。
「だったら、その神の血統を絶やさぬことこそ大事なのではないのか」
 ハルシャが神に誓った以上、説得を続けてもその言葉をひるがえすとも思えない。これ以上の議論は不毛なだけだ。
「まあいい。ハルシャ様、失礼ながら、拘禁させていただく」
 かくして、ハルシャは再び(いや三度だったか?)とらわれの身となったのだった。
    *    *    *
 競技場では、古の刃の用意した替え玉ハルシャが、演説を行っていた。演説を行っている影武者本人は、その内容の半分ぐらいしか理解しておらず、あらかじめ用意された原稿を読んでいるだけである。ハルシャと同年代で同じだけの能力をもつ者はそうはいないのだ。ボロを出さないように文章を読めるだけでもたいしたものだと言うべきだろう。
「……余は古の刃の者たちを信頼しクマリに誓う……旧ハンムー南方の、ムジック王国としての独立は、これを承認するものとし……」
 この演説に、ハンムー市民もとまどった。確かに古の刃の宣伝もある程度行き届いてはいる。だが、これまで自分の国の領土と思っていた地域、それも豊かな穀倉地帯が失われてしまうというのは気分的によいものではないのだ。
「……次に、選挙侯の導入であるが……」
 すぐに騒動を起こす王都ハンムーの民だが、この時は意外に静かであった。彼らはハルシャに対して怒ってよいのか、それともこの事態を喜んでよいのかわからず、とまどっているようであった。
 演説が終わったのは、すでに日が落ちた頃だった。競技場から王宮に帰る、その暗い帰り道。
 惨劇はそこで起こった。
 その男は、突然、闇の中からわいて出たかのように姿を現した。おそらく、ツィツィアや兵士たちが気づいた時にはもう遅かった。
 鈍い音が響く。
 兵士たちが突きつけた松明の明かりに照らされたのは、仮面をつけた不気味な暗殺者姿と、胸に深々と剣をつきたてられた幼いハルシャ(の影武者)の姿であった。悲鳴を上げる暇すらない早技であった。
 暗殺者はおそらく神々の加護を受けていたのであろう。現れた時と同様に、それ以外に説明のつかぬような鮮やかさで闇にとけ込むように消えてしまう。兵士たちが飛び出しても、もうどこにも姿がない。
「なんということだ……」
 ツィツィアは意外な展開に蒼白になる。松明の炎に照らされた暗殺者の刃は黒光りしており、毒が塗られていることは間違いない。もはや少年を救うことは不可能であった。
「たいへんだ! ハルシャ様が、ハルシャ様が刺された!」
 人々が騒ぎ出した。この場所に人々が集まってくる。先ほどこの影武者ハルシャが声明を発表した手前、今殺されたのは影武者ですと発表するわけにはいかない。
    *    *    *
「もう疲れた……」
 少年をハルシャと信じて殺害した男、フォノスは、独りつぶやいた。これが彼の最後の暗殺であった。誰に頼まれたのでもない。今後の自分の隠遁生活で、上の連中の王権争いをせせら笑いながら眺めて酒の肴にでもしよう。ただ、それだけのための暗殺であった。
 彼は自分が殺した相手が偽者だとは知るよしもなかった。なぜなら、古の刃首脳陣は、間もなくハルシャの死を公式に発表したからである。
    *    *    *
「困った事態だ。ハルシャ陛下が死んでしまったことを多くの人々が見てしまった。だが現に陛下はここにいる」
 ツィツィア、マギューら、古の刃の者たちは、ハルシャを殺したいとは思っていなかった。もはや名のみの王である子供を殺す必要はないはずだった。それがこの事態の急変である。生きているハルシャがいてはややこしいことになる。
 とはいえ、10歳の子供を殺すというのが後味が悪いことを別にしても(それだけであれば、あるいは彼らもためらわなかったかもしれないが)、それはキリ・ウルクらのボロブドゥール一派など、他の団体との関係悪化を招きかねない。さらに言うなら、古の刃が本物のハルシャの身柄を押さえている以上は、将来、対外的な切り札ともなる。諸刃の剣ではあったが。
「余が暗殺された、か。で、余を殺して辻褄を合わせるのか?」
 話を聞いたハルシャ本人は、この時は達観していたのか、他人事のような口調だった。
「いいえ。記録上は死んだことになっていただきますが」
「都合の悪いことはなかったことにする、ハンムー宮廷の悪い癖だな」
 ハルシャは自嘲的に笑った。記録から抹消された第二夫人ナジュマのことでも思い出したのか。
「ハンムー王位はどうなる?」
「さっそく選挙侯制度が活用されることになります。おそらく、王家の本家筋から多少遠縁でも、ハルシャ陛下より操りやすい老人か子供が選ばれるでしょうね。その人選と折衝の間、何ヶ月か空位ということになるでしょう。が、その間は現にハンムーに兵を進めている我々、古の刃が代行することになります」
「で、余は生涯、牢の中に幽閉の身というわけか。まあよかろう」
「それほどひどい待遇にはなりませんよ。キリ・ウルクやティエンがうるさいですからね。外部との連絡は当然絶たせていただきますが、食事などはそれほどひどいものにはなりません」
「余には同じことだ。まあいい。幽閉場所でしっかりと見せてもらうよ。この後のハンムーの行く末と、諸君ら古の刃の末路をね」
「末路? この期に及んで、まだ陰謀でも考えているのですか?」
「私はもうなんの力もない。だが、私の陰謀ではなく、神々が、そして歴史の流れが諸君を滅ぼすさ。一時は栄えても、結局諸君のやり方はハンムーには、いや、今のカナンには合わない。何ヶ月かしたら、諸君の政治は理論通りにいかないことを思い知るだろう。そして何年かすれば、諸君はハンムーの民から嫌われ、追い出されることになる。その時余が生きていれば、また世に出ることになるだろう」
「それだけ憎まれ口を叩く元気があるなら、幽閉生活もさほど苦にはならないでしょうな」
「憎まれ口? いいや。これは余の予言だ。忠告と言ってもいい」
「では、我々はその予言がはずれることを予言しましょう」
 かくして、本物のハルシャの身柄はいずこかに幽閉されたのであった。
    *    *    *    
 国や世界がどう移り変わろうと、人間の営みは続いていく。
 男と女は結ばれ、彼らは次の生命をはぐくみ、やがてはその次代の者たちへ国や世界を引き継いでいくのだ。
 遠い過去から未来永劫に続くその繰り返しの前には、国々の攻防など、一瞬のことなのかもしれない。
 さまざまな事件が相次いで忙しい中、キリ・ウルクとティエンは結ばれた。彼らの子供が生まれ、育つ頃、ハンムーはそして独立したムジック国は果たしてどのようになっているのであろうか。
 それはカナンの神々のみが知ることであった。

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