なぜ貧しい人が治療を受けられないか

                                                     (2004年執筆)  松居友
 
    なぜ治療を受けるのが困難なのか
 
 フィリピンには、貧しい人々のために無料で治療を施す大きな病院が結構ある。また医療ミッションを主とした海外からのNGOも活躍しているので、貧しい人々でも治療が受けられる仕組みになっているはずなのだが・・・。
 貧しい人々はなぜ治療を受けるのが困難なのかこれは、長いあいだの不思議だった。
 たとえば、ダバオにあるダバオ・メディカル・センターは日本の政府が援助してできあがった、実に大きくて立派な病院だ。最近、大々的に改築されて、レンガ色の外観がますます立派になった。
 僕は韓国に長くいたあるスイスのシスターに紹介されて、ここに初めて来たのだけれど、それはある子どもの治療代を確かめるためだった。ここには朝からたくさんの患者が医師の来るの待っている。救急車で運ばれてくる人がいる。母親に抱かれたできものだらけの子どももいる。そのほとんどは、比較的貧しい人々だ。あえて「比較的」というのは、とにかくダバオの病院まで来るだけのバス代やジプニー代を払えた人々たちだから。ここではソシアルワーカーの保証があれば、診察代と場合によっては治療代がただになる。
 ちなみに、中流以上の人ならば、たぶんダバオ・メディカル・センターにはこないでしょうね。ダバオ・ドクトル病院とか、カトリック系のサン・ペドロ病院とかいった私立病院に行くはずです。そして大金持ちならばスウィートルームに、中金持ちは個室に、小金持ちは相部屋に入ると思います。例えば僕がデング熱で入院したときには、ダバオ・ドクトル病院の個室に10日間お世話になりました。病院としては欧風で豪華な食事だったし、(結局、油っぽくて口が付けられず、梅干しをのせたお粥のことばかり考えていた)帰りがけには、体温計とグラスコップの入った病院セットみたいなものをおみやげにもらって帰ってきたけれども。
 ちなみに、かんじんの子どもの手術のお値段は、サン・ペドロ病院が30万ペソ(日本円で60万円)という見積もりなのに対して、メディカル・センターはその十分の一の3万ペソ。執刀医は、サン・ペドロ病院と同じ。つまり週に2日ほど、私立病院の医師が出向してくる仕掛けなのだ。
 それだけ差があったらみなダバオ・メディカル・センターに行けばいいと思うのだが、おそらくサービスがぜんぜん違うし、衛生状態に至っては格段の差があるし、診察もたいそう待たされたあげく、私立病院での手術が長引いたりすると半日たってもまだドクターが現れず、結局その日はこないと行ったこともあるらしい。
 それでも、貧しい人々にとって、このような病院があると言うことは救いなのです。
 それでは、医療から少し遠い地方都市はどうかというと、僕の住んでいるキダパワン市の場合。最初にここに来たときは、正直びっくりしました。パシフィコ病院、キダパワン・ドクトル病院、ディゾン病院、スペシャル・ドクトル病院などなど、比較的大きな病院から一見して家族経営の病院まで、まるで病院の見本市のようで。走れば3分で抜けられる(混んでいなければ一分少々)の小さな町なのに数秒ごとに病院の前を通過する。こんなにたくさんの病院があって成り立つのかなあ、どう見てもあまり患者がいない気配の病院もあるし、と心配したのですが、これで成り立つと言うことは、フィリピン人は大の病院好きで病院のハシゴをするか、少人数の患者でもよほど儲かるからであろう。
 後になってわかってきたのは、つまりその両方だということです。
 しかし、キダパワンの病院もほとんどが私立病院で、中流以上の人々しかかかれません。あたかも、その姿は、飯場のどや街にフランス料理屋が並んだよう。


       貧しい人々のための病院

 病院がこんなにたくさんあるのに、なぜ貧しい人々は治療を受けられないのでしょう。それは、病院が少ないからではなくて、たくさんの病院があるのに、貧しい人々のための病院が限られているからです。
 フィリピンでは、パブリック・ホスピタル(公立病院)は政府の援助する貧しい人々の病院という事になっているようです。
 キダパワンにも公立病院はありました。ありましたというのは、ずっとその存在さえ、わからなかったからです。ある日、親のいない学生を訪ねたときに初めてその存在を知ったのですが、無理もありません、公立病院は町からはるか離れた町境、国道を20分もいった森の中(?)にあったのです。訪ねて行ったときは夜でした。病院を見つけたときには、まるで森でこびとの家を見つけた白雪姫のような?心境。といっても小さな小屋だったわけではありません。それなりのちゃんとした病院でした。平屋のコンクリートブロック作りで、立派とは言えませんが・・・そこそこの病院でした。
 外は暗くあたりに家らしいものもないのに、そこだけあふれるほど患者がいました。みな貧しい人々でした。薄暗い蛍光灯のしたで、病室は満杯。患者は通路にまであふれています。縁台のような粗末な木のベッドが、テカテカに磨き込まれたコンクリートの通路の左右に並べられ、その上に草で編んだマットを敷いて、おのおの持参の薄い敷布やマロンをかけて寝ています。その横には、付き添いの家族たちが、付きっきりで看病しています。
 看護婦はいますが、医者がいる気配はありません。
 後でわかったことですが、診察は週に一、二回、市内の私立病院から先生がやってくるだけです。その少女の症状や検査日を聞こうにも、看護婦にたずねても「ドクトルに聞いてください」という答えが返ってくるばかりではっきりしません。診療機械はあってもドクトルがいないのです。そのようなわけで私立病院ではその日のうちにすむ診察が、廊下のベッドで三日もまたされたあげく、ようやく来た医師が素通りしようとするので、あまりのことに声をかけて、しつこくたずねると、今日はもう遅いので、検診は次回来たときに考えますとのこと。次回と言ってもさらに4,5日待たなければなりません。さすがに頭に来て、翌日私立病院にうつしたら、その日のうちに結果がでました。
 しかし、私立病院にかかることの出来ない貧しい人々は、そうしたことすべてにじっと耐えて、付き添いの家族たちとともに、気まぐれに来るかのようなドクターをじっと待っているのです。


     本当に貧しい人々の場合

 貧しいといっても、それなりに段階があって、本人は貧しくても親戚が結構豊かで、親戚に頼って暮らせる人々もあったりといろいろなのですが、とにかく貧しいと言えば自給自足に近い生活をしている山岳民族でしょう。これらの人々の場合、現金収入と呼ばれるものがほとんどなく、病院にかかること自体考えられません。町に出るためのジプニー代もない。
 山岳民族に限らず、病院にかかれるのはほんのわずかな人々です。真に貧しい人々の目から見るならば、病院へ行って治療を受けること自体がかなりのステイタスで、明治の頃の田舎の人が東京に出て帝国ホテルに泊まるような?感覚なのです。 
 先日、バゴボ族の読み聞かせに行ったときのことです。コンタクトパーソンの人から、目の治療を必要としている人がいるのだけれども、と言う話を聞き、本人がやってきました。
 ミンダナオ子ども図書館の医療プロジェクトは、原則的に子どもが対象なのですが、その人の目は腫れて確かに痛そうです。ゴムの木の作業で汁が入ったとのこと、この作業で失明する人は結構多く、彼の弟も治療が出来ずに失明してしまったとのことでした。もう数週間にわたって夜は寝られず、左目を中心にして顔面が半分ほど赤くはれています。
 子ども対象のプロジェクトであることもあって(救いたい子どもは限りなく出てきます)最初は渋っていたのですが、妊娠中の奥さんの心配そうな顔も見かねて、もし簡単な薬の治療で直るのならと、承諾しました。
 彼を車に乗せ、キダパワンのアパートに泊め、翌日眼科医のところに連れていったのです。結果は、やはり目がやられているとのこと、しかし、治療をすれば失明にならすにすみそうです。「とりあえず、薬を選んで効くかどうか試します。二日後にまた来てください」ということになりました。
 そこで、薬を買って渡し、山麓の村まで送り、そこで二日後のジプニー代として100ペソ(250円ほど)を渡して帰しました。くれぐれも二日後にアパートに来るようにと言って。
 結果はと言うと、二日後、待てど暮らせど彼は現れませんでした。考えられることは、与えた100ペソが、数日分のおかずに消えたということです。山の民にとっては、100ペソは数日分の給料にも匹敵します。
 願わくば、もって帰った薬だけで、目が治癒すれば良いのですが。
 後日、訪ねてみようかと思っています。
 このことからも、おわかりかと思いますが。
 つまり、本当に貧しい人々の場合は、病院や医院で治療を受けるということすら大変なことで、たいていはじっと痛みに耐えながら、彼の弟さんのように失明していく。治療と言っても、ヒロットとかマナナンバルと呼ばれるマッサージや訃術師にかかるのがせいぜいと言ったところでしょう。
 乳房の半分ほどが乳ガンで侵された女性にも会いました。マナナンバルに渡された葉を胸に張って痛みをしのいでいたのですが、助けようにも治療費が高く、ようやく年間で五人だけ無料で治療する病院を見つけたのですが、そのときはもう手遅れでした。もっと初期の段階で、病院にかかれば何とかなったのかもしれませんが、貧乏な人々にとっては、それをしようにも出来ないのです。ただじっと病気が進行していくのを待つしかないのです。

       薬代の怪

 診察や治療費がただという話は、こちらに来ると良く聞きます。
 日本政府からの援助で運営しているダバオ・メディカル・センターもそうですが、公立病院でも私立病院でも貧しい人々の枠組みがあって、人数を限って診察と治療を無料にしたり、時には手術費を無料にしているのです。
 最初にそれを聞いたときには、さすが政府やNGOの援助はすばらしい、これで誰でも治療を受けられると思ったのですが、それが大きな間違いであることに気がつくまで、さほど時間がかかりませんでした。
 つまり、確かに病院の診察や治療や手術代はただなのですが、薬代がかかるのです。
 日本で薬代と言えば、だいたい薬局で買う飲み薬のことを考えますが、こちらではそれを「外の薬」と呼びます。ということは、「中の薬」というのが別にあるわけで、これがどのようなものかと言いますと、例えばスタッフのアイリーンがデング熱にかかった時の入院を含めた治療を見てみましょう。ちなみに、デング熱というのは、蚊によって媒介される病気で、こちらでは多く見られます。僕もかかったのですが、最初に高熱を発し、次に血糖値がさがり、食欲がなく非常にだるく苦しい状態が一週間ほど続きます。最悪の場合は、鼻や口から出血が出て輸血を受けなければなりません。効果的な薬はなく、水を飲むこととビタミンCが唯一の効果的な治療と言われています。ピキットの難民キャンプなどの不衛生で半分外で暮らしているような場所で高派生率をしめし、死ぬ人も多い。とりわけ子どもや乳児の死亡例が多い怖い病気です。
 ぼくの周りでも、デング熱で入院する人は多いのですが、この場合の全体の支出は以下の通りです。
 入院費(相部屋で食事付き)    4173ペソ    10432,5 円
 診察費および治療費       1558,5ペソ    3896,25 円 
 薬代                 8721,1ペソ   21802,75 円

 合計                14292,6ペソ    35731,5 円

 円は、当時のレートで1ペソを2,5円として計算しましたが、円で言えば35731,5円が約一週間の治療費です。見ておわかりのように、診察費や治療費に比べて薬代の負担が圧倒的に大きいのにお気づきだと思います。この薬代の多くは「中の薬」で、飲み薬以外に、注射の薬、点滴など治療に必要とする薬品のすべてが含まれています。点滴も、一週間病院にいるあいだにずっと続けていますから、なかなか馬鹿になりません。これで、手術が加われば、術中に使用されるすべての薬が加わります。
 つまり、政府援助や海外のNGOの援助で無料になる部分は、二番目の診察費および治療費で、薬代が61%であるのに対して、27,2%にすぎません。そのほとんどは、病院における医者や看護婦の人件費や設備の運営費であると思われます。
 つまり、薬代が製薬会社の収入になるとしたならば、診察費および治療費は医者や看護婦を中心として病院関係者の収入になるのです。そこから、何が見えてくるかおわかりでしょう。海外からの貧しい人々への政府援助のほとんどは、医者や看護婦を中心とした病院関係者の懐と施設の維持費に消えていくのです。
 それでも、貧しい人々によって、診察費や治療費がただになるだけでも幸いです。しかし、ただで診察を受けても、薬代を払うことのできない多くの貧しい人々の場合はどうなるのでしょうか。
 ダバオ・メディカル・センターの病院前に行ってみればわかります。そこには、病気で動けない人や、時には傷ついて血が流れる子どもを抱いた母親が、病院の出した薬の処方を手に道行く人々に物乞いをしている姿を見ることが出来ます。薬を買えないので、処方箋をもらっても、治療も手術も出来ないのです。
 こうした真に貧しい人々が過半数を占めると言われているミンダナオ。結局彼らは、病院へ行っても治療を断念するか、病院の前で物乞いをするしかないのです。
 わたしたちは、小さな事しか出来ませんが、出来るだけ治療費の支援のある病院やNGOを選び、治療が可能である場合は、山から町へ行く車を出し、子どもとその親の滞在費、食費、そして残りの治療費から薬代、時には病院や援助団体が受理してくれるための役所の書類手続き(出生届や年齢もわからない子が多く、出生届から始めなければならないケースが多い)までのすべてを援助できる時に行動を起こすようにしています。
 なぜなら、山岳民族やモスリム難民の子供たちは、そのどれを削っても治療が受けられなくなるからです。この場合、出費も多くなりますが、それ以上にスタッフの忍耐と努力が要求されます。繰り返し足を運び、役所や病院で待たされたあげく翌日来るように言われたり・・・
 でも、治療がすんだ後の、子どもの顔と親の顔を見ると、つくづく良かったなあと思います。
 
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