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絶え間ない戦争、つかの間の平和
ロベルト・ライソン神父      
訳:祐川郁夫

 ここピキットでの銃声は、ついに静まったと思っていました。何ヶ月もの間、この町は比較的平和な状態だったのです。政府軍とMILF(モロ・イスラム解放戦線)との小競り合いも影をひそめていました。ピキット要塞に配置されていた105ミリの迫撃砲は、すっかり沈黙し、市場での犯罪も急激に減っていました。人里離れた村での牛泥棒なども報告されなくなりました。住民は単に肉体的だけではなく、感情的にも心理的にも、安全を感じ始めていたのです。
 昨年の十二月八日の教会のお祭りでは、モスレムとクリスチャンが共に教会の広場に集まりました。ファリダ・マリンコ市長にもおいでいただき、私たちの平和への努力は大躍進を遂げたように思えていたのです。
 昨年のクリスマス、人々は通りに夜遅くまでたむろしていました。大人たちは広場の「ペリャハン」に行き、子どもたちはキャロリングをして回っていました。電灯の下では子どもたちが輪になって、集めたコインを分け合っていました。教会は早朝ミサの間中、ずっと人でいっぱいでしたし、ここピキットで私が経験した最高のクリスマスだったのです。初めて住民たちは自分たちの町に誇りをもったのです。

 ところがあの日、私たちは再び始まった新たな戦争という現実と共に目覚めました。何ヶ月もの間、私たちが大事につちかってきた平和は、突然終わりを告げたのです。二月八日の真夜中、副市長と共に私たちはリグアサン湿地地帯の内部から住民を運んでいました。彼らは迫り来る政府軍の攻撃から逃れようとしていたのです。そこには暗く不気味な静けさがありました。私たちは夜のしじまの中で、身に迫る危険を感じていたのです。
 人気のないさびしい道を運転している時に、道端で眠っている人々を発見したとき、私は涙を流さずにはいられませんでした。ある人たちは木の下で、また多くの人たちは草の上で眠っていました。疲労困憊して町の中心地までたどり着けないために、やむなく避難民センターへの旅を少なくとも一晩延長せざるを得なかったのです。私たちは二十名ほどのグループの前を通りました。彼らは道端の草むらで野宿をしていました。彼らのほとんどが子どもと女性とお年寄りでした。子どもたちは夜の寒さから身を守るために頭を布で覆っていました。私たちが起こすと、子どもたちは泣き始めました。彼らはダンプトラックに乗り込み、町の中央部へと向かいました。そこにはすでに何千人もの避難民がおり、そこで彼らに加わるのです。
 なんと三万人の住民がこの戦争で退去していたのです。
 私はピキットに来てから五年半になります。この短い間に、私は四回の政府軍とMILF 間の衝突を経験しています。1997年、三万人の住民が避難。2000年の全面戦争のときは四万一千人もの住民、そして、2001年には二万四千人が避難せざるを得なかったのです。そして現在2003年、三万九千人の住民が再び避難しています。
 同じ村が影響を受け、同じ住民たちが避難しているのです。私は避難民センターで、同じ母親と子どもの顔を再び見ることになったのです。彼らは私にとってはおなじみの顔になりました。お年寄りの顔を見るたびに、私は七十六歳になる私の母を思い出します。高齢のために歩くこともままならないお年寄りにとって、このような困難を再び受けなければならないという現実の前に、私は滅入ってしまいます。平和であれば人生のたそがれ時には、彼らは家の隅に静かに座り、孫たちにいろいろな話を聞かせてあげているはずなのです。しかし、彼らの記憶の中でどういった話が残されているのでしょうか。どんな話を自分たちの孫にしてあげられるのでしょうか。
 二月八日、リグアサン湿地帯での大々的な軍隊増強を目の当たりにしたとき、私はすぐにマニラにある平和団体に連絡しました。状況を変えるために何かできると考えたのです。私の頭の中ではピースプロセスの微妙な段階に影響するため、ブリオクの施設への攻撃は単に軍事的な決断ではなく、政治的な決断が必要だと考えていました。
 共同停戦協議会の会合が、二月十二日にコタバト市で開かれるという情報を得ました。二月十日には発砲がなかったので、私はてっきり政治的決断がピキットでの銃撃戦を阻止するのに功を奏したのだと思い、内心ほっとしていました。私はさっそくマニラの友人たちに、発砲が永遠になくなるようにと願い祈っていることを伝えました。
 しかしこの望みはかないませんでした。翌日、モスレムの犠牲の祭日(Eid’l Adha)にバランガイ・ブロルで銃声が鳴り響きました。戦争が始まったのです。それは二月十一日のことで共同停戦協議会の前日、本来国軍がMILF に対していかなる問題を提示しようとも平和的に解決する道を模索するはずのときでした。MILF は自分たちの土地が破壊されてしまった以上、二月十二日の停戦協議会は無意味であるとして話し合いの場から手を引いたのです。
 私はみんなから誰が最初に発砲を始めたのかと尋ねられます。国軍はMILF が攻撃してきたとして非難しました。他方、MILF の方は国軍が最初に発砲してきたとして非難しています。相変わらず誰も数千人もの避難民を出した戦争の責任の張本人にはなりたくはないのです。しかし一つだけ言えることは、この戦争はホロ島での軍備再増強の前に、大掛かりな軍備増強を考えて周到に準備されたものであるということです。
 迫撃砲、爆弾投下を含む五日間にわたる激しい地上戦、空中戦の後、政府はカバサランに国旗を掲揚し、勝利を宣言しました。政府はMILF の孤立地域であるブリオクの施設を制圧することにより、軍事的な目的を達成したのですから当然でしょう。しかし、この軍事攻撃で三万九千人の住民が避難せざるを得なくなったという事実を前にして、大統領は果たしてこれが勝利であったと宣言し得るものでしょうか。
 ピキットでは二つの戦争が続いています。一つは政府軍とMILFとの間での戦争です。もう一つは三十にもわたる避難民センター内で起こっている戦争です。自分の生存のために避難民自身が戦っているのです。政府筋の機関やNGO グループの最善の努力にもかかわらず、私が今この原稿を書いている間にもすでに九名の避難民が亡くなりました。これが政府が宣言し自慢する勝利なのでしょうか?もし本当にそうであれば、私の心は非常に痛みます。なぜなら、政府は自国の民にまったく憐れみを示さなかったことになりますから。普通の軍人や反乱軍兵士が、報酬のためにこの戦争への出兵を余儀なくされたとすれば、そのことでも私の心は痛みます。容易に避けえたはずの戦争なのに、政治的指導者や軍隊の指導者たちがミンダナオの運命にまったく気を配らなかったことになるからです。
 私はアブドル君と再び避難民所で出会いました。2000年の全面戦争後、私たちはバランガイ・ブロルで精神的ショックを受けた子どもたちに心理社会的な活動を行いました。これは2001年の9月から11月までのことでした。アブドル君もその子どもたちのうちの一人でした。彼のお母さんは迫撃弾が近くに着弾した際、急いで村から離れようと小舟に乗ったのですが、その際子どもが川に落ちたのです。子どもは後に発見されました。アブドル君の命は助かりました。しかし彼の人生は変わってしまいました。口に泥を含むことをよくやるようになり、目には暗い影がありました。この子と出会ったときはまだ幼児用語を話していました。その後、軍隊はバランガイ・ブロルに隠れているとされる誘拐犯たちに対して激しい追撃を行いました。アブドル君と他の子どもたちは再び避難民所に戻ってきたのです。それは2001年11月16日のことで、聖なるラマダン月の最初の日でした。
 そのわずか一年後、アブドル君はまた避難民所に戻ってきたのです。彼と彼の家族は、この戦争のために自分たちの家を離れなければならなくなった116のモスレムとクリスチャンの家族とともに教会の体育館に滞在しています。最後に会って以来、彼の健康状態はさらに悪化していました。目の黒い影が依然としてあり、ついに目が見えなくなっていました。話すことさえできなくなっていたのです。いまや走ることすらできません。溺れたことが原因で脳に障害をもたらしてしまったのです。教会の体育館に横たわっている生気のないこの子の姿を見るたびに、私は心の中で泣き、怒りを感じます。アブドル君は将来を奪われたのです。彼は同年代の少年と同じように正常に成長するという望みを絶たれたのです。
 なぜこの戦争は繰り返されるのでしょうか。私には理解できません。なぜ私たちの生活は、常に戦争によって混乱させられるのでしょうか。何を私たちがしたというのでしょうか。政府はこの暴力の拡大を防ぐために何をしたのですか?
 2001年6月24日、リビアにおいてフィリピン政府とMILF の双方が1997年の停戦協定で採択された安全面に関しての合意に署名しました。双方ともが交戦中止を宣言したのです。彼らは戦場よりもむしろ協議のテーブルで問題の解決を決意したように見えました。そして、2001年8月7日、マレーシアにおいて、、彼らは交戦中止に関する施行ガイドライン(Implementing Guidelines on the Cessation of Hostilities)に署名したのです。この文書は「交戦的行動」と「挑発的行動」が何であるのかをはっきりとさせました。彼らは交戦中止に関する対等的立場の委員会(the Coordinating Committee of the Cessation of Hostilities or CCCH)を決議し、この地での暴力の諸問題を扱うことになっていました。彼らはまた地方役員とMILF のカウンターパートと一名の宗教指導者で構成される地方監視チーム(Local Monitoring Team or LMT)を作り、停戦協定を監視したのです。
 しかしその後も銃は黙ることはありませんでした。中央ミンダナオで暗躍する誘拐シンジケートであるペンタゴン・ギャングが、ピースプロセスに悪影響を及ぼしてしまいました。双方とも非難しあっています。国軍はペンタゴン・ギャングは特に全面戦争以降、資金調達のために利用されているものでMILF が作ったものであるとして非難しています。他方、MILF の側はペンタゴン・ギャングは政府軍が作り上げたものであるとし、犯罪分子追跡を装い、彼らの領域に入り込むために利用されているというのです。いずれにせよ、双方とも「ピースプロセス、効果的な発展プログラム、貧しい人々への迅速な基本的奉仕事業の供給することがこれらの犯罪グループの活動によって遅らされていることで合意した」のです。
 それゆえ、この問題をこれっきりにしてしまうため、フィリピン政府とMILF の双方のパネルは2002年5月6日にマレーシアで共同公式声明に署名したのです。双方ともが「犯罪分子に対するアドホック共同行動グループを結成する」ことに合意し、また「犯罪分子の逮捕成功のために双方のコミュニケーションと関係を強める」ことに合意したのです。翌日の5月7日には、全面戦争によって破壊されたコミュニティーの安全とリハビリテーション、そして発展に関する合意に署名をしたのです。
 これら双方の合意を見て、私たちは政府とMILF が平和への道を真摯に求め、戦場ではなく協議の場で問題を解決する決意をしたのだと信じさせられていたのです。しかし今、ピキットでこれとはまったく逆のことを私たちは目の当たりにしているのです。双方が公に署名した停戦合意を故意に破り、政府軍とMILFは現在39,000人の住民を避難民所に送りつつ戦場でお互いに撃ち合いをしているのです。
 この戦争は何の根拠もありません。和平交渉は続いています。停戦合意もあります。戦争回避のための機構も整っています。この戦争がどうして始まらなければならなかったのか理解に苦しみます。私たちは欺きと裏切りを感じています。39,000人もの住民を巻き込んだこの戦争は政府とMILF の双方とも人々を失望させたことを示しています。私たち住民の苦しみに関しては政府の方により責任があると思います。なぜなら現状では、自国の市民のために戦争回避する平和的な手段を徹底的に検討しつくすことが倫理上必要なことだと思うからです。
 私たちはピキットでもう十分に戦争を味わいました。もう十分すぎるほど苦しんできました。政府は自国の民に同情を示さなければなりません。政府は何度も何度も破壊され滅茶苦茶にされてきた家族である市民の世話をするということを証明しなければなりません。本来国民を保護するはずの政府が国民のわずかな希望をも押しつぶしているとすれば、彼ら国民は一体どこに行けばよいのでしょうか。
 1997年、2000年、2002年、2003年.五年半の間にピキットの住民は、絶え間ない戦争と散発的な平和を経験してきました。政府はいつになったら私たちの生活を立て直すチャンスを与えてくれるのでしょうか。政府はいつになったら私たちに夢を与え、その夢を実現させてくれるのでしょうか。

どうか私たちピキットの住民に少なくとも五年間の平和を与えてください。

2003年2月23日
ピキット町、コタバト州にて




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