スカラシップ総会は
訪問者の
歓迎送別会となった


北野財団、アルメックの方々、
そして、お茶の水大学の若者たちが、
現地で、どのような驚くべき体験をされたかは、
この送別会の記事の下に掲載しました!
直接飛びたい方は、
以下をクリックしてご覧ください!

訪問体験記へGo!






アルメックの役員の方々にインタビュー
こちらでの経験と印象を
語っていただいた


北野財団http://www.kitanozaidan.or.jp/
アルメックhttp://www.armec.jp/の役員の方々、そして
お茶の水女子大と一橋大学の
女子学生が訪問されていたので
その方々の紹介からスカラシップ学生総会が始まった。

訪問者の皆さんからの報告、現地での体験談は、
多くの若者たちを勇気づけ示唆をあたえた。
ミンダナオの子どもたち、若者たちは、
自分たちを遅れた途上国の貧しい人間として卑下している事が多い
また、日本の若者や人々は、
自分たちが先進国のより高度な文明社会を維持していると言う、
誇りに心を奪われて、閉塞状況に生きていることも多々ある。
共に交流することによって、お互いが保っているもの、
失ったものに気づき、真の尊敬と友情の輪が広がる











イスラム・
マギンダナオ族の踊り
マノボ族の歌
ビサヤ系クリスチャンの歌が
披露された



訪問が、スカラシップ学生総会に当たり
みんなで歓迎と送別の気持ちをこめて
それぞれの宗教や部族に伝わる伝統を披露。
クリンタンの演奏に乗って、
イスラム・マギンダナオの踊り
マノボ族の歌
ビサヤ系クリスチャンの歌が披露された



マノボ族の衣装に身を包み
マノボ語で、マノボの歌を歌う
学校では、マノボ語を話す
ことは禁じられていたりする。
また、ビサヤ語と
タガログ語が
一般に使われている地域で
マノボ語は、恥ずかしい言葉



しかし、MCLでは、
読み語りなども
積極的に現地語を
使うことを奨励し
母語の大切さを
日頃から語っているので
臆することを知らない。
笑顔で、のびのびと
自分たちの文化を
表現している


こちらは、ビサヤ語の歌。
明るく、のんきで、愉快なのが
ビサヤの人々の特徴とされている




































訪問者たちも
踊り出した


男子学生たちの愉快な踊りに触発されて
訪問者たちも踊った。

どう見てもこの格好は、
マノボ族のモンキーダンスの系列だが?


こちらは伝統文化ではないが、
現代的にアレンジされた
愉快なロックに触発されて、
思わず訪問者たちも踊り出した。

大喝采と笑いが、
周囲を包む。
















北野生涯教育振興会の
卒業生に


北野生涯教育振興会の卒業生に
島村氏から、
直接賞状が渡された。



北野財団(北野生涯教育振興会)は、
トヨタや日産、ホンダの車のヘッドランプ等を作っている
スタンレー電気の財団
工場のある、中国、ベトナム、インドなどで
就職希望の優等生にスカラシップ協力をしてきたが
ミンダナオ子ども図書館のようなタイプの
貧困の中でも極貧の子を支援するファンデーションに
協力するのは初めてだという。
毎年3名の大学生、2カ所の保育所を支援、
寄贈して下さっている
島村氏は、今回で二度目の訪問












毎年、
卒業生が増えていく


今年の大学卒業生全員に
MCLから賞状
そして、卒業生たちの
後輩へのスピーチ


こちらは、MCLの
今年の大学卒業生たち
毎年、卒業生が増えていく
左のイスラムの二人の男性は
MCLのあるマノゴル村で
高校の先生
見習いをしている。
小学校の頃から
すでに7年以上
関わっている子たちもいて
私も感慨深い



毎年、卒業生たちには
自分たちの経験を
後輩に発表してもらっている
苦労話に
聞いている方も涙ぐみことも

















感動的だった
お別れ会

























また
お会いしましょう・・・
MCLファミリー




















cv1
どのような
体験をされたか
掲載!



上記のお別れ会で、
涙を流された訪問者の方々、
北野財団、アルメックの方々、
そして、お茶の水女子大学の若者たちが、
現地で、どのような体験をされたかを
以下に掲載していきます!

北野財団http://www.kitanozaidan.or.jp/
アルメックhttp://www.armec.jp/



1,北野財団寄贈の
保育所がプノルに完成
開所式に島村氏訪問

お茶の水女子大学の若者たちも参加!








村長さんのサインをもらい
テープカットを行う








北野財団
http://www.kitanozaidan.or.jp/









島村さん主演の
おおきなカブ


今回の白眉は
北野財団
島村さん主演の
おおきなカブだった


















島村さんが、おおきなカブになられた











こちらでは、おおきなカサバイモだが
猿もその大きさにビックリ





こちらは犬だ



こっちはネズミ


村人たちの
ひさびさの大笑い?



ここは、絶えず
戦闘に見舞われ
避難民化が絶えない
イスラム地域ピキットの奥だ
そんな村に、
朗らかな笑い声が
みなぎった
このような
お付き合いを通して
村人たちの心が開かれ
MCLを愛し、信頼し
平和への想いが
強まっていく




絵本は
真の平和を作る!











2,アルメック寄贈の
  保育所開所式

アルメック寄贈の保育所が完成
開所式に役員が参加

お茶の水女子大学の若者たちも参加!


こちらは、アルメックが寄贈して下さった、保育所。
アルメックhttp://www.armec.jp/
到達するには、さらに奥に行かなくてはならない。
船着き場から、乗合船に乗る。
対岸はイスラム自治区で、
絶えず戦闘に見舞われている地域だ。
市にも話を事前に通して、
DSWDのグレイスさん方も同行するが
軍や私兵も警護をしている姿が物々しい。
私たちだけで行くときは、ここまで警護は無いが・・・



















開所式の前に読み語り

この地域は、イスラム地域で、
マギンダナオ族
マギンダナオ語が
話されている。
小さい子たちは、
マギンダナオ語しか
知らない子も多い



しかし、保育所では、タガログ語が使われるので
スタッフが何語でお話ししようか、と聞くと
タガログ語!と言う言葉が返ってきた。
そこで私が、言った
「タガログ語は学校で習うけど、
マギンダナオ語は誰が教えてくれた?」
「お母さん、お父さん・・・!!!」
「そうだね、お祖父さんもその前のひいお祖父さんも・・・
だから、マギンダナオ語の方が、とっても大事なんだ。
MCLでは、読み語りの時に
その地の母語を優先する・・・」
この瞬間から、とりわけ周りの
お父さんお母さんの表情が変わった!











































そして
開所式が始まった

アルメック
http://www.armec.jp/













古着の支援もした


思いがけない、古着の支援に大喜び
この地域の子たちは、
ピキットの町に出るだけでも遠い
戦闘でも、繰り返し避難民化している
対岸は、イスラム自治区のダトゥピアンだ。
今日は、なけなしのおしゃれをしてきているが
衣服がほとんど無いのは目に見えている
それだけに、大喜びだった。


































ウオーターフォールに
遊びに行った



ウオーターフォール村の状況は良くない
男性も小学生の高学年の子たちも
時には家族総出で
サトウキビ刈りに駆り出され
村には小さな子どもと女しか残っていない




















滝で遊んだ

訪問者の方々もファミリーの一員


つかの間の休日
みんなで滝に泳ぎに行った
リスター君のお兄さんも参加
すっかりMCLが
気に入った様子だ





































村の子どもたちも
一緒に




村の子どもたちも一緒に
お昼を食べて遊んだ



この村出身の奨学生も多い

村では、3食たべられない家族も多い
肉や魚どころか
米のご飯も食べられない
それがわかっているので
村の子たちも皆呼んで一緒に食べ
一緒に遊んだ
























カンポゴンの保育所は
馬で行く



北野財団の寄贈して下さった
カンポゴンの保育所は馬で行く。

馬でも歩けない場所は
ジャングルを徒歩で登っていく。
お茶の水女子大学の若者たちも参加!








この村の小学生、高校生は
この道を毎日通っているのだ。













































カンポゴンの
村に着いた



ようやく、山上の尾根にある
カンポゴンの村に着いた








建設中の保育所を目指して
最後の登り



資材を運び上げる困難から
開所式には間に
合わなかったが


一生忘れならない
想い出になった























みんなで昼食












下宿小屋まで帰ってきた

ようやく
ラナコランの下宿小屋まで帰ってきた。

この近郊で、
学校まで遠くて通うのが
大変な子たちが、
この下宿小屋に泊まって、

近くの小学校や
中高に通えるために建てた
下宿施設だ。






日本の若者たち
山上の
マノボ集落を訪問


お茶の水大学の心理学を学んでいる3名と、
一橋大学で経済を学んでいる一人、
日本の若者たち4人の女性が、
ミンダナオ子ども図書館を訪れた。
きっかけは、私が、お茶の水大学で講演したこと。
学校と本で学んだことが、
初めて現地で子どもたちに出会い、
人々との交流で息を吹き返していく。
学校で見た若者たちが、時がたつたびに、
ここで息を吹き返したように
のびのびとしていく姿を見るのは、楽しい。



もともとキダパワンの市に近い、
山麓に住んでいたマノボ族が
プランテーションや移民の土地所有に追われて
こんなにも高い尾根上に集落を作って、
住み着くことになった。
MCLに土地を譲って下さった名門のマノボ族
亡きスーザン・インカルさん
お父さんは、初代のキダパワン市長だったが、
土地を譲り、売り渡していった。
その親戚たちも、今は、低地の土地から追われ、
この村のさらに奥の集落に移っている。


自分たちの所有地は
ほとんど無く、
ホウキ草で箒を作っては
町に売りに行くのが、
唯一の収入源だ。



大事なのは
しっかりと見て受け止め
感じ取り、理解し
そして、何が出来るか考えること


この地から高校生の
奨学生を
一人選んだ。
成績も良いし
この村との
コンタクトパーソンとして
役割を果たしてくれるだろう。
家は非常に貧しいが
自ら野菜を売りながら
高校まで進学。
スカラシップが
決まったとたんに
泣き出した。





























































高地マノボ族の村

キアタウに泊まった


















キアタウの
子どもたちと































馬に乗り
保育所の開所式に


翌日は、馬に乗り
保育所の開所式に出発











村を回って
子どもたちを集める



村に着くと、読み語りの場所を決め
その後、村を回って子どもたちを集める
そのとき、村の人々と話をし、
その地の生の声を聞き
現状を把握していく。

























いよいよ
読み語りが始まった


たとえ言葉が通じなくても、
子どもたちの表情から
多くの事を
学ぶことが出来る

























日本の若者たちが
ここから何を
学んでいくのだろうか


























マキララを訪ねる



マキララの奥の小学校、
2年前に初等小学校から6年生の小学校に・・・
この村は、5年ほど前までは、NPAの拠点でもあり
戦闘が絶えなかった。
山麓に広がる、広大なドールのバナナ農園を抜けて、
山岳民族の集落を越えて
移民系のこの集落に達する道程は、
グローバル経済の抱えている矛盾を目の前で理解できる。
ドールのバナナを覆っている新聞紙は、日本の新聞
日本向けのバナナプランテーションが、人々を追いやり
それに反対してNPAが立ち上がり戦闘が起こった。
私が、来た2000年頃は危険地域では入れなかったが
今は、この地から多くの奨学生を取っているし
MCLの農場もある。
上記のイスラム地域と同じ問題が、ここにもある。


この村で、
今高校を建てようとしている。
はるか山麓にしか
高校はないから・・・
MCLジャパンで、
土地を寄贈、
今年の6月から
一年生のクラスが始まる。
右の掘っ立て小屋は
何かというと
村人たちが、
一生懸命出資して
小学校の子たちも、
トウモロコシを栽培して
やっと建て始めた、
高校の教室。
この掘っ立て小屋で
6月から授業が始まる。


こちらは、小学校。
かつては、
屋根だけの下で勉強していた
初等小学校だったが
2年ほど前に教育省が
教室を作った






















小学校の側にある、
MCLファーム


MCLの農場を守って
下さっている
ピサンさん一家
子どもたちは、奨学生。
この地に、今、MCLは
下宿小屋を
建てようとしている。
高校生たちが下宿して
通えると同時に
近隣の山岳地帯から
小学生たちが下宿をしながら
学校に通えるように・・・


この村には、JICAの支援で
給食事業が行われていたが
それが止まってから
学校に通えない子たちが
また増えてきたという。


皆で食事をした

ここに、高校生の
下宿小屋を作り
農業をしながら
勉強が出来るように
する予定だ。


















リスター君の
家を訪ねる



村の生まれでありながら、
土地所有者に
父親を殺されたリスター君一家。

まず、お兄ちゃんを迎えに行き、
一週間、MCLで
生活してもらうことになった。



お昼のおかずの
芋を掘ってきた
お母さんもやってきた。



この日、
リスター君のお兄ちゃんが
家族に一足先だって
MCLに来た。
3月に、
姉妹が学年を終えると
リスター君やお母さんも含め
みんなでMCLに引っ越す。
父親が殺された家族たち
それでも、
MCLに来られることで
ずいぶん顔つきが
明るくなった。


犯罪心理学を学んでいる
学生もいる
何を感じているのだろうか






















その夜は、
みんなに読み語りを









京都暁星高校が
イスラム地域のピキットに
保育所を寄贈




京都暁星高校がピキットに保育所
仁科先生が、学校を代表して開所式に参加。


今回、保育所を建設した場所は、
ピキット市の町の丘の裏側にあたる、
フォートピキットと呼ばれる地区。
ピキットの町中心部は、
移民系クリスチャンも住んでいるが、
この地区はスコーターエリアと呼ばれ、
貧しいイスラム教徒が都市に吹きだまった地区。
マニラのトンドほど巨大ではないが、
市のゴミ捨て場地区で、
ゴミを拾いながら生活を立てている人々も多い。
子どもの数が多い割には、
教育環境が行き届いていないので、
保育所建設が待ち望まれていた。



保育所が完成して、大喜びの住人たち。
開所式の後、さっそく読み語りを、
ミンダナオ子ども図書館の若者たちが行った。
初めて絵本を見る、子どもたち。



その後、古着の支援を開始。
男の子たちの腕の見せ所だ!
真ん中の写真は、
左はじイスラム教徒
次にビサヤ系クリスチャン
右の三人は、マノボ族。


三歳の悠河ちゃんを抱いた
仁科先生を、
イスラムの子どもたちが囲む
宗教や民族の違いを超えて
子どもたちはいつも可愛い!























トンドと呼ばれる
ゴミ捨て場


これが、ピキットのトンドと呼ばれるゴミ捨て場だ
右奥に大きな丘のようなゴミの山がある


ゴミ捨て場の中から必死に手を振る
父親と母親と少女がいた
本当にうれしそうに手招きし
こっちへ来い、こっちへ来い、と言う。
いったい何だろうと不思議に思い
ゴミの中の道を通っていくと
何と・・・・・・・アニサちゃん!


5年前に
手術をしたときの写真
左は手術前
中は手術直後
右は翌日


父さんの顔も懐かしい
(白い服)
母さんも元気そう
上写真の右奥が
アニサちゃんの家


近づくと、どこかで一度会った顔だ!
しきりに、「あのときのヘアリップの子の・・・」と言う。
てっきり、ヘアリップの手術を頼みたいのか
と思うが、それにしては満面の笑顔!
父親の顔に記憶はあるが・・・・
娘も、どこかでみたような????
唇をみてハッと思い当たった!
手術の痕がかすかに見える。そうか・・・・
確か隣のパガルガン難民だった家族。
ヘアリップを直すために繰り返しダバオに通い、
寝食を共にした思い出が突然浮かび・・・・
あのときの!アニサちゃん?
大きくなって、しかもすっかり娘らしくなって!
こういう出会いは、お互いに本当にうれしい。
肩をたたき合って喜ぶ。
それにしても、このような場所に住んでいたとは。
口では言えない苦労もあったんだろうな。


京都暁星高校は、かつて支援している
奨学生を日本に招待してくださった。
寒い雪の宮津のクリスマスだった。
高校生同士の交流と、ホールでのクリスマス劇に、
マノボの奨学生も民族舞踏を踊った。
懐かしい思い出が胸をよぎる。


4年ぶりの懐かしい再会
新しく支援してくださる
奨学生との出会い!
























援助の車が
くるのを待つ


その後、支援している奨学生の村へ
車で1時間以上、
途中で車が動かなくなるアクシデントも


車が動かなくなって
援助の車がくるのを待つ
TBSのテレビを見て
立派な車を持っていると
勘違いしている
支援者の方々へ
あの番組は、
トヨタがスポンサーなので
意向でわざわざレンタルした
トヨタブランドの車です




豪快に川を渡る
シーンがあったりして(笑)
うちの車はあの撮影の後に
川を渡る途中
川の中でエンコしたのだ!
逆にそれを放映したら
いかにトヨタの車が
性能が良いか
宣伝になったのになあ
どなたかあのような
ハイラックスを
一台寄付してくださいませんか





車はエンコしたけど
何とか表彰式に間に合った
というより、フィリピンタイムで救われた
何と午後に
延期されたのだった
左は、仁科先生が
個人的に支援している
マノボ族のグレンさんの
表彰式
ファーストオーナーに輝く!
右は、やはり
オーナーになった
メロージェンの授賞式!
こちらはキダパワンにて









涙なみだのお別れ会


一週間の滞在は、
様々な思い出を、若者たちの心に残した。

涙なみだのお別れ会。

いつも思うが、
ミンダナオの若者たちは、
心から純粋に愛す力を持っているようだ。

出会いによって、
毎回涙の質が違うのは、
出会いが毎回
異なっているからだろう。

仁科先生の場合は、
娘さんといっしょに、
まるで訪問者というよりは、
家族の中に家族が入ったような感じ。

若者たちは、
「家族」というものを強く感じたようで、
特に幼い頃から両親がいない子などは、
食い入るように、

楽しそうな家族の様子を見ていた。
いつか自分たちも、
あんな楽しそうな家族を作ってみたい・・・・
良いことだと思う。



悲しい別れも
元気な笑いの中で
再会の誓いに変わっていく。



彼らは、自分の家族が増えた
そう思っている
今度きたときは
お帰りなさいと言って
迎えるだろう。















ボランティア95の
訪問者の方々と!


ボランティア95は、
阪神神戸大震災の時に生まれたグループ。
今は、ミンダナオ出身のシスターと共に、
ザンボアンガで保育所を支援している。

今回は、現地へ向かう前に、
ミンダナオ子ども図書館の視察に訪れた。

2泊三日という短い滞在だったが、
マノボの村、プロック8を訪問、
いっしょに古着の支援をしたり、
充実した日々だった。

同じNGOとして、私たちも、
いろいろと学ぶことが多かった。
今後のおつき合いが楽しみ。









初めての
スタディーツアー



ミンダナオ子ども図書館に
訪問者がいないわけではない。
今までは、ほとんどが支援者の方々だったし、
若者同士の交流を
積極的に考えたことは無かった。


すでに何度か理由は書いたが、
最大の理由は、
ミンダナオ子ども図書館の活動の根幹が、
積極外向型であり、

私を先頭にスカラーやスタッフが、
命がけでイスラム地域の
戦争避難民を救済したり、

平地から山に追われた
極貧で三食たべることもできず、
薬一つ買えないマノボ族の
医療を実行したり・・・。

MCLの活動の根幹は、
図書館という名が示すように
読み語りなのだが、

彼らが少しでも社会を変革して、
貧しさから脱することが出来るように、
小学校も行けない子どもたちを
スカラシップで採用して、
大学まで行けるようにしてあげることや、

病気の子がいたら、
薬から手術まで
面倒をみてあげる事!

寒村に保育所を建ててあげたり、
時にはODAと強調して
平和のための学校を建てたり!

読み語りを根幹として、
貧困の状況に合わせて、
さまざまな外的活動を行っている。

奨学生の採用は、
山岳地帯や湿原の極貧の
原住民やイスラム教徒のなかでも、
戦争孤児や崩壊家庭や
極貧でも子どもが10人もいる
多子家族の子を対象としている。

奨学生の数は、
300名をはるかに超えており
そのなかの現地に置いておけない子たちは、
本人の意思と保護者の了解で
MCLの本部や宿舎に住めることになっている。

大学生は、町に下宿しなければならないし、
その数は、200名ほど!
そして、残りの100名は、
ふる里や親せきの家に住み、
近隣の学校に通っているが、

そうした子たちへの
授業料の支払いや学用品の届け。
保育所の修復や
植林活動などなど、

時に戦闘が起こると
避難民救済活動などなど
スタッフたちは、
時にはスカラーたちと
走りまわらなくてはならない!


その忙しさと、
活動計画や予定を建てられず、
現地の状況に合わせて
臨機応変に動かなければならない現状。

例えば、行った村で病気の子がいれば、
即、キダパワンの病院に、
病状しだいでは、数人スタッフが付き添って
ダバオの病院に運んで緊急手術を行う!

それが、スタディーツアーで
日本からの訪問者を
行動計画にしたがって案内していたならば、
村に病気の子がいても、
訪問者らを放って、
病気の子の治療に
集中することは出来ないだろう。

「おれたちは、
体験学習の成果を得るために、
お金を払って来ているんだぞ!」
「こんなことなら、来るんじゃなかった!」等々


端的に言うと、
訪問者のお世話は、
時には現地での活動を
停滞させたり麻痺させるからだ。

すでに支援して下さっている方々のように、
活動を理解していて、
家族として迎えられ、

自分の支援している子に
会いに来られたりする場合は、
宿泊費もとらないし、
目的もはっきりしているので心配はないが、

ツアーのように、
現地も知らず、
漠然と来られる場合は、
変に気を遣う?




MCLでの宿泊には、
トイレも手くみの水で流し、
お風呂もなく、トイレのシャワーか、
外の井戸端で子どもたちと一緒に
水をかぶって、水浴する!

さすがに冷たい水だと
日本人には難しいので、
温水が出るようにはしたけれど。


しかし、ツアーと銘打っているからには、
それだけの快適さや接待や、
サービスを求める人もいる。

しかし、MCLのような
現地の子どもを中心としたNGOとしては、
接待を求められても、
答えてるゆとりがあろうはずがない。

多くの支援者たちの
子どもたちへの思いのこもった
寄付で動いている団体だから、
少数の訪問者のために貴重な時間を
割くことはどうか?

そのような迷いを持ち続けつつも去年、
訪問者に門戸を開こうと決心したのは、
ビジターから得る利益で、
NGOを維持しようと考えたからではない。

生きがいを失い、
自殺未遂や引きこもりの多い、
日本の若者の心の危機を見て、
また、要望を耳にして、
決断した事だった。

その際に、多くの方々から忠告をいただいた。
「松居さん、やめた方がいいんじゃないの?
訪問者なんてみんな我が儘なもので、
ミンダナオ子ども図書館にそぐわないよ・・」

「あの純粋な子どもたちが、
客接待に慣れた、
媚びた子たちになっていったら、
本来の良さが無くなるよ!」

結果がどうだったか、
私にはわからない
南国のリゾート気分で来た人たちは、
きっとショックを受けただろう。

日本人にとって快適な
滞在施設にするつもりは毛頭無いから、
食事もトイレも寝食も、
子どもたちとほとんど同じで、
特別扱いはしない。

とりわけ、
日本の教育的な価値観に縛られたまま、
それを未開文化の地に植え付けよう等と、
無意識に上から目線をで見ると、
批判ばかりが出てくるようだ。

「だから、お前たちは、
いつまでも貧しいままなんだ!」

他のスカラシップと異なって、
リーダー養成などは目的としていないから、
日本をそのまま持ち込んだような教育ママも、
ショックを受けるようだ。




ただ、テレビで紹介されたこともあって、
外部からの強い要望に応えて、
また、日本の青少年の現状も考えて、
スタディーツアーを試してみることにした。


久しぶりに
ウオーターフォールに行った



本当に美しいところだが
山岳地なので、
4WDの軽トラックで行った。


山道は過酷だ
しかし、
MCLの子どもたちは大喜びで
早速、訪問してきた若者たちと一緒に
滝壺に飛び込んでいた。



この子たちを見ていると
私は本当に幸せを感じる。

彼らのために生きている事
そして、両親がいなかったり
極貧の中から来た子たちが、
心から幸せそうな表情を見せるとき、

この仕事をしていて
良かったと心底思う



































貧困が進み、
病気が蔓延
皮膚病の子と
風邪の子を医師の元へ









しかし、
ウオーターフォールの集落では
経済的な貧困がさらに進み、
病気が蔓延していた


今年は、奇妙な高熱と痙攣を
起こす風邪が流行っている。

写真のスカラーの子たちも
すでに3週間も病床に
伏したりして、
学校も停止したままだった。

久しぶりに会って愕然とした。
なんて痩せてしまったことか!
立って歩こうとすると、
ふらついている。

多くの親や子どもたちに
病気が蔓延している。

同じ病気にかかっても
ミンダナオ子ども図書館に
住んでいる奨学生は、
数日で回復するが、

栄養失調だと命取りだ
とにかく、病院でチェックを
受けることにした。

病院では、すぐに入院!


色々な検査をした結果、
デング熱では
ない事がわかってきた。

信頼できる小児科の
ウオン先生が首を傾げながら、
単なる風邪で、
これだけ長期の症状が出るという事は、
基本的に栄養失調だからですね。

「食べるものを食べていない、
基礎体力がない、
快復力がないところに病気が襲うから、
ますますやせ細ってこのままだと、
死ぬかも知れないですね。」
唖然とした!!!


訪問者がいるので、
自由に行動は出来なかったが、
訪問者たちを、
山のビックビックさんの家に預けて、
別行動で急遽医療活動を実行した。

幸い、ピキットの難民キャンプでの
医療活動を継続しているので、
その薬をウオーターフォールに届けた。

日本では、薬は日常手にはいるし、
基礎健康が食事で出来ているので、
ちょっとした風邪なら、
すぐに回復していくけれど、

栄養失調だと、
死に至る場合もある。
予防も含めて、やはり薬は頼りになるのだ。
日本では、風邪ぐらい自分で直すのだが・・・





























ウオーターフォールで、
滝の滑り台


どんなに困窮した現状あっても
こちらではそれが日常だから、
子どもたちは屈託がない。
楽しみ時には、大いに楽しむのが信条?



一方で、一日三食の食事が出来ず、
毎日、芋を食べて食いつなぎ、
病気にかかると体力がないので、
死んでいく人がいる。

同じその地域で優雅に遊び
お腹一杯米を食べ
おいしいおかずのある人がいる、
この矛盾は何だろうか?


この様な世界を見るたびに、
悲しい困惑とめまいを感じるのは、
私だけでは無い?

MCLの奨学生で
本部に住んでいる子たちが、
なんであんなに喜ぶのか!

多くの奨学生たちが、
できれば本部に住みたいと
願う理由も良くわかる。

安心して食べていけて、
学校も近くて、
病気になっても大丈夫!

日本からスタディーツアーで来た若者たちにも、
ただ子どもたちと楽しく時間を過ごすのではなく、
そういった子たちの背後になる
現状を知らせたいとは、思うのだけれど・・・


































訪問できる場所は
限られている


ミンダナオは、日本政府の指定する
危険地域に指定されているから
公のツアーでは、
訪問できる場所は限られている


ピキット市の福祉局、
DSWDの調査と
グレイスさんの確認で、
希望者のみイスラム地域のピキットに
読みきかせに行った。

先日から、
炊き出しも行っている
イスラム地域の原住民マノボの村。
大勢のスカラーたちも同行した。


避難生活の中で、
困窮する子どもたち、
それにも関わらず、明るく、
心を開いて向き合ってくれる。

彼らの前で、
「大きな栗の木の下で」を演じて
子どもたちも大喜び?
ここで、何を訪問者たちは
感じたのだろうか?


まずは現場を見ること
実情を自分の目で確かめ確認すること
その後、どのような行動を起こすか、

あるいは全く起こさないか、
二度と来ないと決心するか、
それは本人次第だ。

だた、日本も含む
国際情勢が関わっていなければ
この様な、
ひどい戦闘は起こらない?


































炊き出しに並ぶ
子どもたち



炊き出しは成功している。
「米を袋にいれて渡せば良いのに、
なぜわざわざ炊き出しをして、
それを一人一人の子どもたちに渡すの?」

訪問者たちは、
少し当惑していたようだが、
米の支給だけだと
受け取って家に持って帰って、

大きな大人や青年が
ほとんど食べ尽くして、
小さな子どもたちには、
食事が回らない事も多い・・・。

MCLは、幼い子たちを優先して、
救済する「子ども」図書館だから、
炊きだしをして、
17歳以下に限定して、
その場で食べてもらうようにしている。

現地の有力者から、
「ここに米を置いて行ってくれれば、
私たちで、村人たちに配給しますよ!」と、
しばしば言われることあるけれど、

MCLでは、渡さずにその場で炊き出しをする。
なぜなら、個人のものになると、
村人たちに渡さず親戚や仲間に渡し、
残りは売って利益にしたりすることもあるから・・・

炊き出しならば、
確実に子どもたちに栄養を補給し、
基礎体力の維持を可能にできる。
週3回3週間で計9回の炊き出しを実行!
第一回炊き出し計画が終了した

























ビサヤ・イロンゴデーが
盛況で終わった


昨年、ムスリムの踊りが、
日本公演で大盛況だった結果を受けて、
若者たちは、
今年の文化祭のテーマをダンスに絞った。

踊りは、フィリピンの若者たちにとっては、
最も適した自己表現の手段?
そのできのすばらしさは、驚嘆に値する。

ムスリムダンス、マノボダンス、ビサヤダンス
すべてが本当にすばらしく、
どこに公演しても感動を起こすだろう!


僕も、この様なダンスがあるとは、
知らなかった。
長いすのダンスでは女の子が、
地面から男性に手を引かれて飛び上がる!
そのたびに、叫声と大拍手

交通費と宿泊を保証していただければ、
国際交流のために、
日本公演にもうかがいます。




































訪問者は
ルモットの保育所を建設に



今回の訪問者は、
ビックビックさんのところに宿泊。
電気のない家で現地の生活を体験しながら、

建設途中の保育所を手伝った。


若者たちにとっては、
自分も何らかの形で貢献できる、
という体験は貴重だった。

最初はとまどいながらも、
最後には、ともに汗を流し、
すがすがしい気持ちに・・・・
もう少し長く居たかった!



今回は、予定を変更して
後半は、ダバオオリエンタルの
ハウスオブジョイへ。



ここは、海もきれいで、
本当にリラックス出来る場所。
ビジターには、おすすめ。

前半がハードだっただけに、
ホッとされたようだった。
やはり、ミンダナオ子ども図書館は、
ツアーには向かない?














































戦闘が広がる中
平和の祈りを行った



ミンダナオに戦闘が広がる中、
ミンダナオ子ども図書館に
スカラーたちが集まり
平和の祈りを行った。



平和の祈りは、平和巡礼と称して、
本来はピキットの市庁舎の裏にある、
丘の上の要塞で行われる予定だった。

この要塞は、
第二次世界大戦の時に、
日本軍が建てたものだ。

しかし、ピキットの
政情不安をかんがみて、
急遽場所を
ミンダナオ子ども図書館にした。

祈りはまず、
平和を表現する踊りから始まった。
これも皆、スカラーたちが
自ら相談して決めたことだ。


その後、
各部族の代表たちによる、
自分たちの言語の
祈りや歌が続いた。


とりわけ歌は、
他の宗教や宗派、
他の言語の歌でも、
みんなで歌った。

特定の宗教に属していても、
友人や隣人の持っている
異なった宗教に敬意をはらい、

友人によりそって、
背後から支援する気持ちで、
共に歌うことは可能なのだ。


アッラーの歌、
マノボの神マナマの歌、
イエスの歌を全員が歌う。

神は一つで、
呼び名と風習が違うだけたと感じる。
祈りながら涙を流し、その涙が、
大勢のスカラーたちに広がっていく。

民族は異なっても、
宗教が異なっていても、
平和に対する願いと愛は同じ。



日本からも、日本キリスト教団
小田原教会所属のI氏が祈りを捧げ、
マノボの代表としてガボン牧師、
カトリックを代表して
山元眞神父が話された。

事態が緊迫しているだけに、
祈りに込める思いも深かった。
イスラム代表のホサイン師は、
妹の突然の死に帰られたのが残念!


代わりに、
スカラーのプレシデント、
イスラム教徒のバイヤン君が
感動的な祈りを述べた。

これらの祈りは、
過去の大戦で、
ミンダナオで亡くなった多くの現地人、
米軍、そして日本軍の兵士から始まって、


現代に至る戦闘で亡くなった
人々の霊を慰めるために、
ミンダナオ子ども図書館が
音頭をとってはじめるものだ。


来年こそは、
ピキットの要塞跡で開催し、
毎年、ミンダナオ子ども図書館の
スカラーを核にして
開催していきたいと思っている。
次回は、
仏教界の方々も参加されるだろう。



私(松居友)にも、
話す機会が与えられたので、
こんな内容の話をした。

「言葉で平和を語ることも大事だけれど、
行動で示すことも大事。
たとえば、
シラミを採ること(全員?????)。

ミンダナオ子ども図書館では、
イスラム教徒もクリスチャンもマノボ族も
仲良く暮らしている。

僕が見ていて、
一番平和だなと感じるのは、
イスラム教徒やクリスチャンやマノボ族が
いっしょになって互いの頭のシラミを
とりっこしているところ(大笑い)。

世界中の人々が、宗教や宗派を超えて、
シラミのとりっこをしたら、
世界は平和になるだろう、
ミンダナオ子ども図書館のように!」

下の写真は、
ミンダナオ子ども図書館の日常風景から
「シラミ採り」・・・



















































スタディーユニオン寄贈の
保育所開所式



関 浩成さんと
立命館大学・
同志社大学の若者が参加
















































北野財団寄贈
マノボの山の村バンシランに
保育所が完成
開所式をした



可愛い子どもたちの
ためとは言え
モオー、人間どもは、
よくまあ
あんな山奥の村にモオー
保育所などを
たてるもんだモオー























保育所は、
村人の尽力で見事完成


今年から、フィリピン政府は、以前よりさらに厳しく
保育所卒業を小学校入学の条件とした
その結果、こうした僻地の先住民は
さらに厳しい教育の機会喪失に見舞われていく
ここでも、貧困と格差が助長されていくのだろうか





















開所式の読み語りと、
セレモニー




















村人たちに
お祝いの食事が
ふるまわれた
























開所式が終わり
帰路をたどる



この日で村との関係が
終わるのではない
この日から、
この村の人々との関係が始まる
保育所建設は、
このへんぴなマノボ族の村との
関係の始まりなのだ。
















日本大使館主催の
調印式に出席



戦闘の後遺症を抱えるイスラム地域のマカブアル村に
小学校が建設されることに決まり、
日本大使館主催の調印式に出席しました。




日本大使とサインした書類を交換



今回の調印式は、日本政府が主催し、
J-Bird(日本―バンサモロ・イニシアチブズ・
フォー・リコンストラクション・アンド・デベロプメント)
の代表と
MILF代表とARMM(イスラム自治区)代表、
MIT(国際停戦監視団)の代表出席のもとで
行われた。
選ばれた7団体は、ほとんどが現地NGOであり、
ミンダナオ子ども図書館も
一現地NGOとして選ばれた。
今回は、主にARMM(イスラム自治区)における
小学校や文化施設、水道施設に対する支援。
調印式の様子は、
フィリピンのテレビ局によっても報道された。
日本のNGOであるHANSが後押しする
水道施設と共に、
ミンダナオ子ども図書館が支援している
マカブアル村の小学校建設が認可された。
マカブアル村は、ピキットのMILF地域の
中枢に属しており、
戦闘中も子どもたちも含め
難民キャンプ入りが許されず、
その後も、ワールドフードなどによる食料支援も
なされなかった地域。



現在も道が意図的に遮断されて
一般車が入れず、4WDで、
踏み跡をたどって入るしかなかった。
(戦闘を常に意識して、
道路をあえて反政府側が遮断し、
穴を掘ったりして通れなくした結果)
ミンダナオ子ども図書館では、
2年前からこの地から
スカラシップ奨学生を採用してきた。
続いて小学校の里親奨学制度の
重点地域に指定。
30名の子どもたちが学校に
通えるようにしてきた。
その後、読み語りや医療を展開し、
村長をはじめとする村の人々と
信頼関係を築いてきた。
 今回の学校建設は、
地元の人々の強い要望から、
実現したもの。
嘆願があった当初は、
ミンダナオ子ども図書館で
建設を考えたが
地元の要望に添う恒久的な
しっかりしたものを建設する必要を
考えると、個人支援に頼る
小さなNGOでは無理。
 中途半端な仕事はしたくないので、
日本政府の支援を仰ぐことに
決めて活動開始。
 その意味でも、今回の認可は、
現地の子どもたちを含む多くの
人々の期待に応えるものだ。



現地の子どもと親の希望から出発し、
さらに村長と学校の先生の期待を確認した後、
ピキットのDSWD(福祉局)を通して、
ピキット市の行政としての意志を確認。
ミンダナオ子ども図書館は、
実務を担当することにした。
現地の人々と現地行政、
そして日本政府とを結ぶ橋渡しの
陰のお手伝いに徹するために
ピキット市のエンジニアに依頼して
見積もりと計画書を作成。
さらにピキット市から提出する書類を
代理に作成して提出。
また、陰で、ミンダナオ子ども図書館の
ボードメンバーであり、
キダパワン市の銀行などの建築も
手がけている設計技師(エンジニア)の
ダニー氏のアドバイスや協力も大きい。



この地域は、
2000年の戦闘時期から、
意図的に車の通る道を破壊しており
(反政府勢力の地域の特徴)
今回も大使館から建設における
安全の確保について打診があった。
私たちは急遽、
マカブアル村の村長以下
役員と学校の先生方との
会合を現地で開き、
直後に予定していた
ピキット市長との会談に結びつけた
(左写真はピキット市長
との会談のようす)。
その結果、安全の保証が
市行政と村の両者から得られた。
村はMILFの勢力下にあり、
市行政側はMNLFに属しているので、
行政側の安全保障だけでは
不十分である。
その点で、両者の保証が得られた
ことは大きい成果だ。
しかし、マカブアルの村長(MILF)と
市長(MNLF)が従兄弟どうして
あったのには驚いた!
時々、互いに戦闘を起こしている
はずなのだが・・・
ピキットのある構造の一面を
かいま見た体験。



今後の予定としては、現地の視点に立ちつつ、
IMT(国際停戦監視団)とJICAなどと
連絡を密にとりながら、現地の学校建設を開始する。
現地には、スタッフが毎週おもむき、
状況を逐一報告していく予定。
完成すればピキットでおそらく最も新しく美しい、
5教室の小学校が建つ。
閉ざされていたMILF地域の中枢に、
こうした学校施設が建ち、
将来的には500人を超す子どもたちに喜ばれるのは、
大きな意味がある。


マニラでの調印式では、最後に英文の俳句で
ピキットの戦闘の悲劇が述べられたが・・・
2001年2002年と、現地の悲惨な
難民キャンプを見たときの私のショック。
それをきっかけに始めたミンダナオ子ども図書館。
さらにその後も難民キャンプを訪れて
子どもを救済したり、難民が村に帰っても、
心が破壊された子どもたちへの読み語りと
医療をしてきた記憶が、
ドッと胸によみがえり、不覚にも目頭が熱くなった。
現在は、この地から多くの大学、高校、
小学校の奨学生を採用している。
戦闘当時、父親を亡くし、心が千々となり、
表情の失われていた彼らが、
今は生き生きとした顔で大学や高校に通っているが、
今年の奨学生候補も多くが、
ピキットからで、応募してくる若者たちの
多数が、父親を戦闘で失っている。



ただ一つ気になるのは、ピキットで唯一、
反政府組織の奥の院と呼ばれ恐れられてきた
ブアラン村の学校が、2000年の砲弾の跡を
残したままであることだ。
今年度の奨学生候補はブアラン村を選び、
先年暮れ高橋毅氏の寄贈で、保育所も建設された。
願わくば、このブアラン村に、
小学校を建ててほしいのだが・・・・
父親は亡くなって、祖父母に育てられている子が多い。
ブアランの小学校に関しては、報告書に記載
下は、2000年と2002年の戦闘で
壁や床の崩れたブアランの小学校。




壁は、2000年、2002年の
戦闘で崩れたままだ




教室内部は、
破壊されたままの地べたが剥きだし
このようなところで、
毎日勉強している子どもたちの
複雑な内面を考えると・・・・



ブアランの小学校は、教室が足らず
4年生は、
このような小屋で、
勉強をしている。
今年から、
さらに5年、6年と
学年が増えていくが
いったいどこで勉強するのだろう


















アルバちゃんを訪ねる


かつてやせ細り、
餓死寸前で難民キャンプで見つかったアルバちゃん
行橋カトリック教会のミルク支援で、
すっかり丈夫に
目は見えないけど、
座ることも出来るようになりました。
奇跡的に。
これからも、支援を続けます。

















奨学候補生の
家庭調査



今回、奨学候補生の
家庭調査で訪れたさいの、
ブアラン村の写真


ブアラン村では、父親が亡く
お年寄りが子どもを
育ているケースが多い
これも戦闘の悲劇だ
村人たちは恐れて
帰ることが出来ず
最近になってようやく
戻ってきた










家並の奥に、
高橋毅氏寄贈の
保育所が見える




今回の奨学生候補の一人
ほとんどの家が
崩れかけたような
粗末な家だ




ブアラン村
森と湖沼に覆われたこの地は、
戦闘の被害が最も深く激しかった地域
あれから7年たった今も
私たちの小学校は、砲弾の傷を残したまま
政府もNGOも、恐れてここまで来なかった
村人たちも、ようやく数年前から
少しずつこの地に戻り始め
学校も、今年から5年、6年の学年が増設される
けれども、教室が足りなくて
あっても、床が破壊され
土が丸出しのそんな中
亡くなった父さんや母さんを
思い出しながら勉強するのは・・・・





ミンダナオ子ども図書館の
今後の課題


今年度の予定として、
ARMM(イスラム自治区)サイドのパガルガンの
学校等の調査を独自に始めます。
私たちは、ピキット以前には、医療などで、
イスラム自治区のパガルガンと関係を有してきました。
ARMMサイドは、
ミンダナオ子ども図書館の出発点となった地です。
とりわけ戦闘直後に学校を焼かれたイノクオグ集落など・・・・
2003年、パガルガンのイノクオグを訪れた体験を、
訪問直後書いた奨学生ベビンさんの記事

(彼女は、現在スタッフで、ライブラリーを担当している。)
また今年は、ARMMサイドの
イスラム地域の卒業生の一人が、スタッフに採用されます。
すでに同地からの奨学生候補も出そろっており、
より貧しく困難なイスラム自治区にウエイトを置いて
活動を進めていきます。








いったい
どこに連れて行く
つもりなの?



マノボ族のダトゥインダ村に、保育所が完成。
寄贈者の丹原美穂さん、開所式に訪れる



「いったい松居さん、
私をどこに連れて行くつもりなの?」
と言われてしまった。


ダトゥインダ村は、丘陵をいくつも超えて、
道がとぎれる場所から、バイク道を通って、
さらに丘をいくつも超えた場所にある小さなマノボ族の村だ。
もちろん、4WDでないと、この地までは来られない。
下の写真は、今回保育所を建てたダトゥインダ村の全景。
 「数件しか家が建っていないじゃないか」
と言われるかもしれないが、この周囲に
たくさんのマノボ族が住んでいるのだ。
保育所には、35名を超す子どもたちが集まる。












ここから、学校までは
5キロの道を行く
4歳から5歳の保育所つまり
プレスクールの子どもたちが、
雨の日も風の日も
毎日通える距離だろうか?・・・
それにもかかわらず、
先々年から
政府はプレスクールを
経由しなければ
小学校に入れないという
奇妙なシステムを作ったのだ。





今でこそ、この辺り一帯は、丸裸の丘陵地だが
戦前まで、ラワンの巨木が生い立ち、熱帯樹木が生い茂り、
猿や色とりどりの蝶や鳥が舞う熱帯雨林だった。
大木が、ことごとく伐採されたのは戦後で、
ほとんどは、経済成長を続ける日本に輸出された。
その結果、大地は保水力を失い、
雨はそのまま大量の水を川に運び流れ出す。
保水力を失った高地は乾燥し、下手の大地は洪水となる。
この地の下手こそ、私たちが通っている
ピキットなどのイスラム地域で、
絶えず洪水に見舞われている原因は、
上手の地にあった熱帯雨林の伐採の結果なのだ。
日本人がまずは踏み込むことのないこの地は、
日本とは、深い関わりを持った地だった。




先日奨学生の調査で訪れた
際のピキットの洪水




悲劇は
こうして作られる



この地域の最大の悲劇は、巨木の伐採と共に、先住民族であるマノボ族が
土地を奪われ追い立てられていったことだ。
ミンダナオ子ども図書館で、娘の面倒を見てくださっているエディットさんは、
マノボ族だが、当時の体験から明確になってくるのは・・・
マルコス時代、政府は、ルソンやセブ、ネグロス、ボホールやイロイロと言った、
ミンダナオ島外からの移民政策をとった。
その方法は、まずは先住民族の住んでいる土地を、
所有者の無い土地と断定して、移民たちに売却する。
しかし、すでにマノボ族が先祖代々住み着いて、自給耕作をしていた土地である。
簡単に明け渡すわけにはいかないのは当然。
そうした強引な方法に対して、当然ながら、土地を守るための戦いが始まった。
これが、組織化されたのが、NPA(新人民軍)と呼ばれるゲリラだ。
NPAは、共産ゲリラとも呼ばれており、現在もフィリピンの山岳地域をはじめとして活動している。
ミンダナオでは、ほとんどの山岳地域が、何らかの形でNPAと関係している。
私たちの活動地域にも多くいるが、実態を追求したことは無い。
これら反政府活動に対して、政府側は戦闘を起こしていった。
政府側の言い分としては、ゲリラ活動に対する防衛措置である。
その結果、戦闘地となった場所にいられなくなり、マノボ族であるエディットさんたちは、
指定された難民キャンプに避難を余儀なくされた。
こうして、数ヶ月から半年以上、難民生活をして帰ってみると、
土地は移民系のクリスチャンの所有になっていたのだ。
その後、エディットさんの父親は理由無く殺害され、ご主人は、
NPAゲリラという容疑を着せられて殺害された。
現在のご主人は、移民系クリスチャンであり、娘さんの一人は、
ミンダナオ子ども図書館で経理を担当して今回結婚するルッチェルさん。
意図的に戦闘を作り、現地の人々を排除したり、経済的困窮に陥れて、
地域を思うように開発しようとするやり方は、ゲリラという呼称がテロリストに代わっただけで、
現代でも至る所で行われている。
ミンダナオだけではなく、世界の紛争地帯では、同様の手法が使われている。
そうした現地政府の背後には、世界の経済を牛耳っている先進諸国の影がある。
NGOもその片棒を担ぐ存在に過ぎないのだろうか。



丹原美穂さんは、この二つの地に保育所を建設した。
マノボ族の村では、子どもたちから大歓迎を受け、
ハーモニカを吹き、日本から持ってきた
チョコレートを配り・・・
とりわけ、シャボン玉は大成功!!!
至る所で子どもたちに夢を与えてくれた
単なる物より消える物の方が、心に想いを残す?
日本で必死になって練習してきた
ハーモニカを吹く丹原さん
「ふるさと」は、戦中日本軍の侵攻で亡くなった
ミンダナオの人々と日本兵の鎮魂のために
「歓喜の歌」は、平和のために・・・等々
一曲一曲に切実な想いを込めて
汗びっしょりになってハーモニカを吹く姿が、
人々の感動を呼んだ
「あの人は、単に貧しい子に物をばらまいて
自己満足したり低開発国と見くだして、
安易な発言したりする人じゃない」
地元の人々は、すぐにそれを感じ取った。













ブロッドにも
保育所を寄贈


洪水に悩む下手のピキットの村、
ブロッドにも丹原美穂さんは保育所を寄贈した


反政府地域だった
イスラムの人々の前でも
鎮魂の歌を
ハーモニカで奏で
平和への祈りを音に託す
小さな子どもでさえも
しーんとなって耳を澄ます
丹原さんを
心から受け入れてくれた瞬間


イスラム教徒もキリスト教徒も
丹原さんのような、無宗教も
仏教徒も神道も
自然崇拝も
精霊崇拝も
皆同じ心を持った人間だ













シャボン玉パーティー

丹原美穂さんの今回の滞在で大成功は、シャボン玉だった。
この滞在のために、シャボン玉メーカーは特別に、
一つ一個の特製ストローをつけてくれたのだという
ミンダナオ子ども図書館は、
一瞬、シャボン玉に包まれて、別世界になった。













想い出の
ウオーターフォール



それはまるで、
怒濤のような日々だった
日本のTBSテレビのスタッフが
貧しいマノボの村に、
日本の若者たちが
保育所を建てると言う設定で
学生5名に、
タレント一人を
加えてやってきた



彼らが来る前週に
村には、電気が来たと言う場所で
テレビの取材がどのような
意味を持つかもわからない人々
最近になって、ようやくアポ山が、
世界で二番目に高い山、であることに気づいた人々。
去年、フィリピン人がエベレストを初登頂して、
彼らは目前に仰いでいたアポ山が
世界で一番高い山ではないことを知った。
「エベレストはどこにあるの?」
「アポ山のむこうの方・・・」



でも、子どもたちは、
物々しい機材と共に遠くから来た人々を
初めは用心深く、
しかし、すぐにうちとけて迎えてくれた
とりわけ、主人公の若者たちとは
うちとけるのも早かった


建設は夜遅くまで続いた
何しろ、通常2週間以上
かけてする仕事を
5日でやることになったのだ。


仕事に対する考え方が
現地と日本では、
天と地とも離れているのでとまどいも大きかった。
こちらの人々の仕事の方法は、
昔の日本のように「心意気」が大事であって
「時間」が「心意気」よりも優先されていく
現代の日本の考え方が理解できない
大工やスタッフの反発もあったが、
最後には、ディレクターの谷氏の
「心意気」に押されて成功した・・・・


過去、日本人の間に生まれ、
日本語も語れるおばあちゃんの存在
その姿から、若者たちが学んだことも多かった
軍事時代の負の歴史
決して日本人が、好意的に見られてはいないこと、
それをどのように友情で乗り越えていったらよいのか
今回の最大の驚きは
日本人の学生とスタッフが変化していく様子だった



知らず知らずのうちに
「先進国」と言う意識を持ち
現地の文化を
破壊してしまうこと



見知らぬ国の
異なった文化の人々の中に
どのように
とけ込んだらよいのか



ただ単に、お金にまかせて
保育所などの
建物を建ててあげたり
日本で発想した
押しつけの教育方法を
持ち込んでもだめなこと
いかに現地の人々の
文化や言葉
そして、心を理解して
それに寄り添うようにして、
物事を進めて
いかなければならないか



現地の人々の
食べているものを食べ
バナナと芋とコーヒーと野菜
といっても、日本の甘い
バナナではなく
ぼぞぼそしたバナナに
塩辛をつけるだけ
野菜と言っても、
山菜のわらび
そのような質素な
食べ物しかない日々


こうして最終日の夕方近く
待望の保育所が完成した
ミンダナオ子ども図書館の
規格より
一回り大きな保育所には
ガラス窓も入り
作業にかかる値段も
50万円ほどになったが
立派なものが出来た


ただし、屋根の
青いペンキだけは
雨が降って
塗り終わることが
出来なかった



内側には
若者たちが苦心して作った
アルファベットチャートが
かけてある
マノボ語が入った
アルファベットチャートは
初めての事だろう
これらも彼らが学んだ成果だ


陰に陽に、ミンダナオ
子ども図書館の若者たちも
お手伝いをした
彼らにとっても、
思い出深い日々だった
お別れ会の時には、
皆涙を流した
人に対して、
純粋に心を開くだけに
別れには深い悲しみを
覚える若者たち


早朝、学
生の一人の誕生日には
みんなでハラナをした
夜明け前に起き出して
みんなで誕生日の
歌をうたうのだ
涙を流したイッセイ君
別れの日には、
日本の若者たちも
泣き出した


とにかく、怒濤のような日々だった
スケジュールとタイムキーピングに
追われる日本の仕事。
それとはまるで正反対に流れる
ミンダナオの時間。
その強烈な軋轢の中で、
どうしても期日までに映像を仕上げなければならない・・・・
ギリギリの状況での活動だっただけに、若者たち、
日本人スタッフに訪れた心の転機は、
大きな意味をもって今後も生きてくるだろう




























































母さんの亡い
マロットに




母さんの亡いマロットに、
ロラ(おばあちゃん)が見つかった!


ダバオから来られた
大本さん一行
姉さんの田中衣子さんが
去年足と腕を骨折して
山から運ばれてきたマロットの
支援者になってくださった
母さんの亡いマロット
まるで母親のように甘えて慕う
今も、写真を見るたびに
懐かしくなって涙ぐむマロット



マロットへ
                          たなか きぬこ

ミンダナオ子供図書館に行ったときに、
マロットに会えて本当によかったです。
私には日本に3人の孫がいますが、
マロットは4人目の孫のような気がします。
みんなといっぱい遊んで、
勉強もしっかりね!
5月には日本に帰るので、
マロットのことを皆に話します。
またいつか会える日を楽しみにしています。


ミンダナオ子ども図書館に
滞在した思い出

         田中 衣子

たった1泊2日の短い日程でしたが、
ミンダナオ子供図書館に行けたことは、
大きな感動の2日間でした。
美しく手入れされた庭や畑もそうですが、
何よりも感動したのは、そこにいる子供たちです。
小学生から大学生までおよそ
50人程の子供たちは、どの子も明るく、
人懐こく、親切で、もてなしの心と節度を
持っているのを何度も感じました。
今の日本の子供たちが失ってしまったものを、
ここの子供たちは皆持っているのです。
食事の時、私達訪問者には彼らより、
立派なお魚のから揚げがついていても、
欲しそうな顔をすることもなく、
果物を切り分けた時も、
一番に私達のところに持ってきて勧めてくれます。
少しだけ一緒に遊んだバスケットボールの時も、
ボールを何度も私に渡してくれました。
ここに来るまでには大きな困難な
状況の中にいた子供達ばかりなのに、
こんなに明るく、のびのびと生活出来るのはきっと
松居さんの教育がすばらしいのだと思いました。
次の日に連れて行ってもらった、
貧困地域での読み聞かせや、
子供図書館での活動は
ほとんど学生が自主的に行い、
松居さんご自身は助言する程度とのことです。
キリスト教徒とイスラム教徒の人がともに過ごすことで、
大人になっても反発しあわないで
共存できる社会を作ってほしいという
松居さんの思いはしっかりと彼らに届いています。
一緒に写っているのは、私の里子となった
ローズマリー、愛称マロットです。
日本に3人の孫がいますので、
4人目の孫ということになります。



ロラ(おばあちゃん)に
甘えるマロット



妹さんの
大本和子さんの方は
両親の亡くなった
イスラム教徒の少年と
父親を亡くした少女を
支援してくださる
事になった
和子さんは、
現在ダバオの日系人会
が経営する
ダバオ国際大学の
日本語教師を
ボランティアで
勤めていらっしゃる。


















読み聞かせにも参加

大本さん方は、読み聞かせにも参加された。

ミンダナオ子ども図書館のストーリィテーリングは、
絵本の読み聞かせから
次第に読み語りにシフトしている。
ミンダナオでは、オリジナル言語の絵本が無く
現地語を生かすためには
語りを取り入れる必要があるからだ。
それにしても、皆、語りが驚くほどうまい
子どもの頃から、お話を聞いて育ち
昔話も生きている世界だからだ。
























アジア学院の長嶋氏が
奥様と息子さんと訪問



有機農法を中心に長年
アジアから研修生を
受け入れて来たアジア学院
長嶋氏は再訪だが、
今回は奥様と息子さんと
来られた
左は、保育所の建った
イスラム地域
パイドプランギでグレイスさん
と語る長嶋一家
右は、あらためて支援者の
名が入った
ボードを設置しているところ
行橋カトリック教会の
方々のために
「MIEKO MIZOTA
Fr. YAMAMOTO &
FRIENDS」
と書かれている



長嶋氏の息子さんは、シリマン大学の医学部を卒業後、
ミンダナオの方と結婚し、現在はデュプログの病院で
インターンとして活動している。
滞在中に医療患者が来られるとさっそく対応。
医師として立派に対応されている姿が頼もしい。
フィリピン国籍が無いと医師として受け入れられないので、
現在フィリピン国籍を申請中。
病院が貧困層とかけ離れている矛盾も良く理解しており、
貧しい人々の中に入って活動したいと言う希望を持っている。
その観点から、ミンダナオ子ども図書館の活動にも評価を・・・・
将来ここを拠点にしてくだされば、多くの命を救えるだろう。


今回、何よりもの「成果?」は、奥様の滞在だった。
奥様は、タイの方だが、さすがに似た状況のミンダナオの子たちに、
何が必要かを良く知っておられる。
足踏みミシンを寄付してくださり、
裁縫の基礎を若者たちに教えてくださった。
その後、若者たちはもう夢中・・・・


帰られた後も、
図書館に住み込んで
子どもの面倒を
見てくださっている
寡婦のドリンさんが
裁縫を引き継がれた
今は、1月27日
ムスリムデーの踊りで使う
マロンを制作中
今年度の子ども達の
制服もここで作るつもりだ


長嶋氏滞在のおかげで、
ミンダナオ子ども図書館で
作りたい
大学の構想がスタッフにも
見えてきた
最初は2年生の専門学校
(短大)として出発し
保育コース、
農業教育コース、
家政コースを設置
4年制の大学とは
ひと味違った
より実務的な学校にしたい
成績はイマイチだが、
心根のよい子の
将来のために
と言っても、初夢の段階


長嶋ご夫妻曰く
「ここにアジア学院をリタイアされた方々や
教会関係者の第二の人生の活動拠点を作りたいなあ。
気候もさわやかだし、緑豊かでアポ山の眺めも良いし。
小さいながらも良い総合病院もあるし、温泉もあるし、
卒業生のエラさんもいるし、息子のクリニックも出来れば・・・・・」
どうぞどうぞ、土地もいくらでも空いています。















TBSのデレクター突如訪問


3月3日ゴールデンタイムの
番組を制作したい
谷ディレクターから
TELを頂いたとき、
「頓挫するな」と思った。
NHKを始め、
ほとんどの番組が
既に6回以上の
アプローチをしてきて全て
実現しなかったからだ
本当に来たときはビックリした
初めて現地を訪れた
TV制作者だ




ウォーターフォール村の
バランガイキャプテンと
話す谷氏
32歳、若くて精力的
仕事に情熱を傾けている
姿に好感した。
まだこのような気概のある
制作者が
テレビ局にもいたのだ!


過去、番組制作が頓挫する理由は明瞭だ。
日本政府の指定する危険地域だから・・・・
つまり、取材許可がなかなか下りない。
北コタバト州はイスラム地域として有名なので、
キダパワンは比較的安全な地域なのだが、
ジャーナリストは恐れて入らない。
朝日新聞の木村文さんだけは、来られたが。
今回は、スタッフと話しを慎重に検討して、
安全なアロナの故郷、
ウォーターフォール村を選んだ。


谷氏はとにかく、仕事熱心だ。
ミンダナオ子ども図書館の子ども達も迫力に押されて
遠巻きに・・・「あの人、何????」
現地でもひたすら番組構成を・・
村長、村人、子ども達、保育士、先生に矢継ぎ早に、
核心を突いた質問をしてくる。
翌日、フリージャーナリストの宇崎眞氏も加わった。
こちらは、マルコス時代のNPAも取材した猛者のフリージャーナリスト?


この村では、
お父さんが日本人兵士で
日本語を明瞭に話す
老婆と出会った
戦争被害者の一人だが
姉妹の中で日本人と
結婚した妹は
日本にいるという
妹も亡くなり
今は、10年以上も
音沙汰無いが
寡婦となって夫もいず
日本に帰りたいと・・・・
後ろの竹小屋に住んでいる
娘や孫やひ孫といっしょだが


兄を亡くしたアロナも協力してくれた。
彼女、すっかり元気を取り戻しました
皆さん安心してください!!!


TBSは、2月に本番で来ると話していますが
実現するか否かは、まだわかりません
実現すれば
3月3日の9時から10時の特別番組で放映
日本の若者たちが、この村に来る設定
スポンサーはト某自動車メーカーだそうです。
村に建設資材を運ぶための
4WDトラックを寄贈していただけませんか???




















機関誌『ミンダナオの風』
発送と
子どもたちからの手紙


毎年、年四回
機関誌『ミンダナオの風』を
発行している。
それにあわせて、
スカラシップ支援者の方々に
子どもたちからの
手紙を同封する。
手紙を持ってきた子供たち
プロック8村にて。


子どもたちは、一生懸命手紙を書くが、
小学生の場合は文字や英語が書けない子もいて
書ける子に手伝ってもらったり、
タガログ語の子は私たちが英語の翻訳をつける。
中には、私宛に、熱烈なラブレター?をくれる子もいる。
どうやら、足長おじさんのように思ってくれているらしい。
胴の方が長いのだが・・・・・
「We love you !
お願いがあります。
外国にいったら、私を受け入れてくれる、
もう一人のお父さんを
見つけてきてくださいね。」
と書かれている。
ミンダナオの子どもたちは、
自分の想いを素直に一生懸命表現しようとする。



スカラシップを受けている
子たちの
現状を調査するのもこのときだ。
貧しいマノボの村では
親のいなくなった子は
大変だ


今回の調査で、小学生のスカラシップ
(里親奨学制度)の子たちだが、
母親が亡くなり、父親は別の女性と
いっしょになったまま行方しれず。
完全に見放された状態でいることがわかった。
右の男の子(小学生)が、左の妹と従妹、
右の継母の祖母の面倒を見ていた。
他所の田んぼや畑の草刈りや日雇いをして、
日銭を稼いで妹たちを学校へ・・・・
彼の成績が落ちてきているのでわかったことだ。
三人は、上の祖母の家を始め、
親戚の家を転々として生きている。
身よりも無い状態なので
ミンダナオ子ども図書館に引き取ることに決めた。



自分の家に
里帰りした奨学生も
元気だった。
ミンダナオ子ども図書館に
戻るための
山からの交通費を
稼ぐために
アロナは、山で一日
薪拾いの日雇いをしていた























ミンダナオ子ども図書館
からのぞむ満月


電気を消すと、
たくさんの蛍が飛んでいる



若者たちの話だと、
夜はこのあたりに妖精が飛んでいるという。
特に、満月の夜は要注意!
妖精に声をかけられても、返事をしないこと。
あっちの世界に連れて行かれて、
帰れなくなることがある。
特に大きな木や岩のある場所は、
気をつけて通り抜けること。
「ああ、きれいな月夜だなあ」などと
賞賛する言葉は、絶対に言ってはならない!

妖精が振り向いて「こっちへおいで」と誘うから。