私の生活、私の家族

 家族と幸せだったころ

 七人の妹と一人の弟が、私にはいます。父は亡くなりました、でも母は元気で今も山の村で生活しています。妹のうち二人は結婚しています。
 私はとても貧しい家に育ちました。けれども、貧乏にもかかわらず、姉妹全員と弟それに父と母がいるとき、一家団欒はとても楽しく幸せなものでした。家では、みないっしょに働き、いっしょに食事をしました。そして、食後は母と父がとってもおもしろいお話をしてくれました。子どもたちは、耳をそばだててお話に聞き入ったものです。小さかったころのことを思い出すと、家族でとても楽しかったたくさんの想い出がよみがえってきます。
 日曜日になると、家族そろって教会に行きました。教会では、信者としての勤めの一部を果たすことが出来て幸せでした。というのも、私たち家族は神さまから音楽の才能をいただいていたのです。教会で父はギターを弾き、母と私たち子どもは合唱して、讃美と感謝の歌をうたって神さまにご恩返しをしたのです。
 村で歌唱コンテストが開かれるときは、必ず参加しました。そのために一生懸命練習したので歌唱力ものびたと思います。コンテストで受賞すると、家族がみんなが大喜びで、歌のじょうずな娘を授かったことをとても誇りに思ってくれました。
 学業の方は、小学校卒業まで毎年、名誉ある生徒にあたえられるリボンをもらいました。長女から末娘にいたるまで、みなリボンをもらいましたから、父も母も、わが子が学校で活躍するを見てとても幸せそうでした。しかし結局のところ貧しかったので、九人の兄弟姉妹のなかで大学教育まで受けられたのは、姉と私だけ、あとのみんなは小学校で学業を終えざるをえませんでした。
 それでも母は、少なくとも姉と私が大学まで行けたことを喜んでいますし、学業以上に、私が将来、妹たちや家族、そしてまた支援を必要としている貧しい子どもたちのために生きていきたいと思っていることを、とてもうれしく思ってくれています。私たちは貧しい家族ですけれど、それでも少しでも人々の役に立てることができれば幸せです。他の人々を助けること、とりわけ子どもたちを支援することはとても大事だと思いますし、私たちの心も幸せにしてくれます。
 時には家族に問題が生じても、一家が協力してあたれば、必ず解決されると思います。どのような家族でも問題が生じることは、当然あり得ることですが、大事なことは、みんなで一番良い方法を考えることで、その結果、問題が解決されればとても幸せなことだと思います。
 私は現在十八歳ですが、未来を切り開くために今までも出来るだけの努力をしてきました。一生懸命勉強してきましたし、神さまのことも忘れずに生きてきました。さらに将来、家族を助けたいと思っている計画を実行すれば、みんなも喜んでくれることでしょう。
 高校時代には、とてもつらい体験や困難な時があったのですが、今はこうして大学に入れてとっても幸せです。未来を切り開こうとする気持さえあれば「貧乏は成功の妨げではない」という言葉を、私は確信を持って言うことができます。知恵は、心のなかにいったん入れば、だれも奪うことができませんから。




   つらかった思いで

 今家族が住んでいる地に来る前に、私たちは五年間べつの場所に住んでいました。
 六歳になったときに、私は自分の家族がとても貧しいのに気がつきました。日々の食べものすらない日がしばしばあったからです。そんなある日、家庭内のいざこざが原因で両親はけんかをし、それが原因で母と三人の姉妹と私は家を離れ、ほぼ四年間のあいだ別居して過ごすことになりました。このことは、小さな子どもであった私たちには、とてもつらい出来事でした。なぜなら、私たちは父親にかまってもらいたかったし、家族が一緒にすごすことがなにより大事だったから。
 さらに私が七歳になったときのこと、とても忘れることの出来ない出来事がありました。それは、政府軍と新人民軍(共産党系の反政府軍、NPAと呼ばれ現在でも山岳地帯で反政府闘争を続けている)とのあいだの戦闘が起こったのです。最初はちかくの山頂で撃ち合いがはじまり、やがて私たちの村のそばでも起こりました。住民たちは、他村へ避難して、一週間のあいだ学校の教室で難民生活をしました。たくさんの政府軍の兵隊と反政府軍兵士が死にました。
 家の近く撃ち合いがあったのは、ちょうど朝の八時ごろのことでした。とつぜん「バン!」というビックリするほど大きな音がして、銃弾が家を貫いたのです。びっくりした私たちは、恐怖で青ざめながら家から飛び出し、地面に伏せました。その後も銃撃は続き、昼になっても止みません。お腹がすいても、射撃音が怖くて、昼食どころではありません。命からがら他の場所に避難できたのは、ようやく二時をまわってからのことでした。道々、私は真っ黒にすすけた大きなナベを持って、泣きながら歩いていました。銃撃が怖くて、怖くて。 
 戦闘がようやく終わって家に帰ってみると、いろいろな物がすっかり破壊され、鶏も数羽いなくなっていました。それでも、とにかくみなが無事だったことがうれしかった。
 もう一つ人生でつらかったのは、高校時代に学業を経済的に援助してくれていた老人から、過剰な好意を寄せられたことでした。その老人は、すでに八五歳で、私は祖父のような思いで接していたので、それ以上の気持が持てずにとても困りました。いろいろな物をくれるのですが、どうしても受け取る気持になれません。とりわけ、お金を受け取らないようにしました。その老人は、私を遠いところに連れ去って、あわよくば結婚生活を送ろうと思っているようでした。私をいつも監視して、お昼時にクラスメートを連れて行くとひどく嫉妬して責めるのです。私以外はだれも家に入れようとしません。私はその家ですっかり落ち込んでしまいました。
 

 私の夢と将来の計画

 私の夢は、自分の家族とそれから援助を必要としている子どもたちのために人生を捧げることです。勉強を終えたら、良い仕事を見つけて、まずは妹たちの学業を支援したいと思っています。いつかたくさんの子どもたちが通えるような、子どもと大人のための図書館を村に建てるのも夢です。
 他の土地をたずね、異なった宗教、異なった生活や文化を持った人々とも会いたい。外国にも行って、異なった伝統や文化や言語を学んでみたいし、結婚するのだったら、未来の夫は外国人がいいかな。
 理想のライフスタイルは、理解し合えるシンプルな家族が夢です。愛し合い、尊敬しあい、心がひとつで、全員のなかに平和と献身の気持のある家族。問題が起こったら、みんなで助け合って解決し、どうすれば一番良いかをいっしょに考えられる家族。そして、家族が幸せであれば、自分たちだけのことではなく、次の世代、とりわけ子どもたちのより良い未来のために何かすることが出来るでしょう。そして、家族を持つとしたならば、私はこのキダパワン市に住みたいと思っています。