ミンダナオの陽ざしから



1,夜明け前

 夜明け前、ぼくは二階の小さな書斎の開かれた窓から、
アポ山系のうしろの空が、白々と開けていくのをながめていた。
 青黒い陰となった山並みのてまえでは、バナナの柔らかい扇のような葉が、
ココヤシの木のとげとげの葉の横で影になって、
山から降りてくるかすかな風にゆれている。,
 夜が明けるにしたがって、
ドリアンやランブータン、マンゴスティンやランソネスといった熱帯果樹のこず枝が、
山並みを超えてこぼれ落ちてくる朝の光を受けて、しだいにこい緑の葉をあらわしていく。
 ここは、フィリピンの最も南の島、ミンダナオ。
 ぼくは、二階の窓から、赤道に近い熱帯の高原の夜明けを見ながら、
ホッとため息をついた。
何と平和で安らかな世界だろう。
 2012年1月3日、朝の五時。
 新年早々だというのに、窓を開け広げて寝ることができるほど暖かい。
 ベランダの下からは、数人の子どもたちが朝食を料理している音が聞こえてくる。
かん高く明るい話し声やくすくす笑い。ジュウジュウという炒めもが油ではねる音。
 四時半すぎに起きた子どもたち数人が、
外を走っていたニワトリの首をちょんと切ってきざんだ鶏肉を、
ココナツオイルをしいたフライパンに一気にぶちこで、
アドボといわれる炒めものを作っているのだろう。
 可愛らしい子どもたちの声を聞いているだけで、
ぼくの心は暖かく満たされてくるけれども、
加えて窓からは、よだれが出てきそうな香(こう)ばしい薫(かお)りがただよってくる。
 ミンダナオに足を踏みいれてから一二年。
 子どもたちと共同世活を営み始めてから八年。
 周囲をドリアンやマンゴスティンといった熱帯の果樹園に囲まれた、
1.5ヘクタールの農地の一角にこの家はある。
 家と言っても二階建てのかなり大きな長屋だ。
何しろ、子どもたちだけで90名ちかくが生活しているのだから。
 ぼくの書斎は、二階のベランダの左はじにある。
 竹を編んだ伝統的な壁の小さな部屋。
 仕事をするときには、いつも窓も扉も開けているので、
学校から帰ってきた子どもたちが、そのまま飛びこんできて、
ちょっとはずかしそうな顔をするけどパッと抱きつく。
 今はまだ早朝だから、多くの子どもたちはまどろみの中。
料理を作る当番の子たちだけが下の台所で「お仕事」をしている。
ぼくは、小さな書斎から出ると、二階のベランダに出た。
 一階はコンクリートだけれども、二階は木でできていて、
開けっぴろげの広いベランダが生活空間になっていて、
勉強も食事も、カゴメカゴメやハンカチ落としもここでする。
 もう片方が竹壁の子どもたちの寝室。
部屋には、竹でできた広めの二段ベッドが置かれていて、
一つのスペースに二人で添え寝するから、
上下で4名。二台の部屋と三台の部屋があるから、一部屋に8人か12人が寝ている。
 ミンダナオの山の子たちの家は、粗末な竹でできた小屋で、
竹の床に家族が12人ぐらい重なるように並んで寝ているので
、一つのベッドに気のあった二人が添えねする方が心が安まって良いようだ。
 ミンダナオの子どもたちは、さびしくて個室などには寝られない。
 先進国?では、あたかも個人主義が良いと言った風潮が強まり、
ベッドも一人一つになり。
個室の子ども部屋までできるようになって、
本来の家族や兄弟姉妹の人間関係は希薄になり、コミュニティーまで崩壊した?
 子どもが増えるにしたがって、両翼に増築、
スタッフと訪問者の部屋もくわえて九室になった。
ここに、スタッフも入れると100名以上が生活している。
 屋根は青のトタンで、その姿は、大きな鳥が青空に羽ばたくような様子。
 ベランダに立つと、山から吹いてくるそよ風や、
時には小鳥やカブトムシが自由に飛びこんでくる。
 南の國の伝統的な先住民族の共同体のスタイルを取り入れて、
じぶんでデザインし、カブトムシと一緒に飛びこんだ。
 半分自然のなかで生活しているような自由で開放的な開けっぴろげのポーチには、
木のテーブルをならべて、90名近い子どもたちが勉強もし、遊び、食事もたべる。
 その時のようすは壮観だが、ぼくの妻も子どもたちも、
同じテーブルで、同じ食事をともにする。
 ご飯とおかずが一つだけの質素な食事だけど、
みんなでわいわいとおしゃべりしながら賑やかに食べるのは格別だ。
 書斎からポーチに出ると、手すりからは、フィリピンの最高峰、
アポ山が朝の日ざしのなかに浮きあがって見える。
 ポーチの手すりから、ぼくは台所で料理をしている子どもたちに声をかけた。
 「コムスタ(どう元気?)」
 いっしゅん沈黙の後、子どもたちは下からぼくを見あげると、元気な声が返ってきた。
 「オッケー ラン(元気よ)」
 「パパトモ、おはよう」
笑顔を満面にたたえて手をふっている子もいる。
台所と言っても、一般の家の中にしつらえたキッチンとは異なり、
ガスレンジも冷蔵庫も電子レンジもオーブンもない。
 ここに来たばかりの頃は、電気もないところから来た子たちに、
少しでも文明社会の体験をさせてやろうと、
家電製品をとりいれたりしていたのだけれど、
しゃれた水道の蛇口同様に、すぐ壊してしまうし、
先進国からやってきたなどと思い上がっていた自分が
しだいに馬鹿らしく見えてきて、やめてしまった。
 そんなわけで二階の台所は食器の洗い場につくりかえ、
下の半分外だと言っても良いような空間に、本当の台所を増設した。
トタン屋根の下に、打ちっ放しのセメントで作った料理台と洗い場。
家電製品と言えば、魚や肉を保存するための冷凍庫があるぐらいだ。
 お金持ちの家の、しゃれたキッチンとはまったく違って、
山の先住民族が家の外にしつらえた、
まきを使って料理する伝統的な台所のスタイルを流用している。
 こちらではこうした台所は、
自虐的に「ダーティーキッチン(汚れた台所)」と呼ばれたりしていて、
一家の主やその家族は、そうしたところで食事はせず、
日雇いや使用人の生活の場になっていたりする。
日本もかつて料理は土間でしたように、
煮炊きをするための料理台に厚めに灰をしいて、
そのうえに鉄棒を曲げてくつった鍋おきがすえてあるだけ。
 もちろんガスなどを使わないから、煤で黒ずんだ鉄の鍋置きのうえに、
フライパンや鍋をのせ、その下でたき火をたく。
 使うのは薪(まき)だ。
 たきぎは自然木は使わずに、老木になったゴムの木を割ったもので、
料理台のうえの、木で渡した棚の上に重ねて積んで置いておく。
そうすれば火をたいている時に煙とともに熱気が昇り、乾燥して燃えやすくなるからだ。
 山から来た子どもたちは、電気もガスもない生活に慣れているから、
薪(まき)でご飯を炊くのはお手の物。
 ポーチから下を見おろすと、
鍋おきの上には巨大なフライパンがおかれて湯気を上げている。
ミンダナオの子どもたちは、総じて小柄だから、
コンクリートの料理台の前に木の踏み台をすえて、
手杓をもって、背伸びしながら炒め物をかきまわしている。
何しろ九〇名近い子どもたちがスタッフとともに住んでいて、
一つの家族のように生活しているのだから、食べる量とて半端ではない。
一日に五〇キロの米がなくなる。
 そんなたいそうな量の調理をする調理場ならば、
悲壮感がただよいそうなものだが、
子どもたちは冗談を言っては笑いながら、楽しそうに料理していく。
 日本で言えば、小学生から中学生といった年齢の子どもたちだ。
 「ああ、いいにおい。何の料理?」
 ポーチのうえからぼくが声をかけると、子どもたちは答えた。
 「鶏のアドボを作っているの!」
 「おいしいよ」
 「パパトモ、味見する?」
フライパンをかきまわしていた髪の毛の長いジョイが、
小皿をとって、フライパンから、湯気の立つ鶏のアドボを取りわけると、
隣に立ってぼくに手をふっていた縮れ毛の目のくるくるしたジェジェに小皿を渡して言った。
 「ほらこれ、パパトモに持っていってあげて。」
 ジェジェは、回り階段を登ってくると、
満面笑顔でアドボの盛りつけてある小皿をぼくにさしだした。
 「はい、パパトモさん」
「うん、ありがとう」
 湯気とともに、きざんだニンニクとこぶりのタマネギ、
味付けようのミニトマトを下味にして、
ココナツオイルと醤油で一気に炒めた鶏肉の香ばしいかおりがただよってくる。
ここに住んでいるのは、スカラシップを出して学校に通わせてあげている子たちだ。
ぼくたちは、500名ほどの子どもたちにスカラシップを出している。
 貧しくて、小学校もろくに行けないような子たちが多い現実を見て、
こういう子たちこそ、大学まで行けるようにしてあげたいと思ったからだ。
 先住民族の子、イスラム教徒の子、クリスチャンの子たちに、
なるべく均等に割りふっているが、優等生を選んでいるわけではない。
学校に行きたくても行けない子、とくに孤児、片親の子、崩壊家庭の子たち。
また、両親はいても、三食たべられない、極貧の集落の子たちを優先している。
 家庭の事情が複雑で学校に行かせてもらえない子や、
山岳部で学校まで遠くて歩いて通えない子。
とりわけ極貧家庭の場合、何と一家族平均して、7人の子どもがいたりする。
貧乏人の子だくさん。
 日本では考えられないかもしれないけれど、
ミンダナオの貧困率はフィリピンの中でも非常に高い。
 80パーセントとも言われているが、ほとんど出生届もでていないのだから、
政府が数を把握しているわけでもない。
ぼくの見た感じでは、定義にもよるとは思うのだけれど、
確実に80パーセントはいると思う。
 そうした極貧家庭の子たちのなかでも、
とりわけ孤児のような困難な状況の子たちに、
ぼくたちは大学まで行けるスカラシップを提供していて、
そうした子たちが500名ほどいるのだけれど、そうした子たちのなかで、
本人が望み保護者が了解すれば、この家に住むことができることになっている。
 ここにすめば、学校も近いし、何と言っても、三食ごはんがたべられるのだ!
そんなこんなの事情で、ここに住みたい子たちが毎年増えて、
今は、90名近くの子たちがここに住み、近くの小学校と高校にかよっている。
 ジェジェもそんな子たちの一人だ。
 ぼくは、ジェジェが持ってきたアドボをひとくち食べると言った。
 「おいしいねえ。」
 「ありがとう、パパトモ。」
 ぼくはなぜか、ここでパパトモまたはパパとよばれている。
子どもたちが勝手に呼んでくれるのだが、名前は友だから、パパトモになる。
 ここの子どもたちの一人一人が、ぼくにとっては我が子のようなものだから、
そんなぼくの気持ちを子どもたちも感じるのかもしれない。
 小皿をさしだしたジェジェの、ひかえめだけれども、
色黒の顔からあふれ出す笑顔は、本当に可愛い。
 彼女は、山奥の僻村、カヨパトン集落出身。マノボ族の女の子。
 四輪駆動車でもしばしば到達が困難なこの村の子どもたちは、非常に貧しく、
ほとんどが裸足で小さい子たちは普段は裸だ。
 まとまった現金収入は、トウモロコシの収穫があったときだけで、
普段はパコパコとよばれるワラビをとって、子どもたちが麓の町に売りに行く。
 米が買えず、ふだん食べるのは、
なかば野生で生えているカサバイモと蒸しバナナ。
 おかずは、近くの沢で捕らえた蛙や蟹だ。
 ジェジェは高校三年生。
フィリピンには、中学がないから、日本で言えば中学三年生だが、
この地域の子どもたちは、栄養失調もあって小柄だから、
どう見ても小学校六年生ぐらいにしか見えない。
 先住民族のマノボ族は色が黒く髪の毛が縮れている
。しかも、ジェジェには、不思議な特徴がある。
手の五本の指のはじに、もう一つ六本めの指があるのだ。
 手だけではない、両手両足にも六本の指がある。
 カヨパトン集落から、小学校までは5キロの道のりだが、
高校になると、早朝4時に家を出て、
山の中腹まで10キロ以上の道を、毎日歩いて通わなければならない。
 都会の道なら、平坦で人通りも多いが、
薄暗い夕刻の山道を、一人、踏み痕を頼りに歩いて行くのは不安だ。
 雨の日には、川が増水してわたれないこともある。
 ジェジェは、勉強熱心だし、両親は健在だが非常に貧しく、
手の指や足の指が6本あるというハンディを背負っているから、
将来、大学に行った方が良いと判断した。
 ジェジェは、ここに住めるという事がわかったとたん、大喜びした。
 この家に着いて、彼女の手を取り、手のひらの横から、
奇妙に飛び出している6本目の指を見ながらたずねた。
 「この指、使っているの?」
 「いいえ」
 「もし気になるようだったら、手術してとるかい?」
 ジェジェは、強く首を横に振った。
 翌日、ジェジェの手を見ると、他の子からもらったマニキュアが塗ってある。
 安物のマニキュアは、こちらの女の子たちのなけなしのオシャレなのだが、
彼女の6本目の指には、とりわけきれいにマニキュアが塗ってあった。
 余分の小さな指、大切にしているんだ。
 それが、何とも愛おしかった。
 そんな気持ちをくんでか、彼女は持ち前の深く優しい目で微笑んだ
ぼくはかつて、ジェジェのことを、こんな風な詩にした。

ジェジェ
山の村で頑張って小学校を卒業
4時半に家を出て
10キロの山道を高校に通う。
移民政策とグローバル化をともなった
バナナやゴムのプランテーションで
平地を追われたマノボ族。
ここの子たちは、米のご飯どころか
芋すら三食たべられない
お弁当も持って行けない
エンピツも消しゴムも
定規も買えない
それでも一人、頑張って、高校に通う。
「MCLに移り住んで学校に通うかい?」
満面笑顔で、うなづく
「ほらっ」手を差し出し微笑む
アレッ、指が6本ある!
「足も6ッ本、指があるの」
「手術でとる?」と聞くと
激しく首をふった。
MCLについて数日後、
他の子から借りた初めてのマニュキア
6ッ本目の指にとりわけきれいな金色の粉!
僕の前に手を差しだすと
深く優しい笑顔で微笑んだ。
母さんからもらった大事な6ッ本目の指


 ミンダナオに初めて足を踏み込んだのが一九九九年、
今これを書きはじめたのが二〇一二年の正月だから、
ミンダナオと出会って一四年。キダパワン市に住み始めてから一二年。
 現地で『ミンダナオ子ども図書館』を立ち上げてから八年の歳月が流れた。
 もう一〇年以上、こちらにいるなんて、信じられない!
 光陰矢のごとし。
 想えば戦闘もあったし山火事や洪水もあった。
 そのような場所で避難民となり、困窮している子どもたちを放っておけず、
機関銃や大砲のなるなかを救済支援にいき、
怪我したり病気になった子どもたちを病院に運んだ。
 飢饉の集落や難民キャンプでは、炊き出しを行い。
学校に行きたくても行けない子たちを、学校に行かせてあげてきた。
 平凡な日本の生活から見れば、疾風怒濤?
でもこうして二階の窓から、夜の明け行く外の景色を眺めていると、
山並みも、果樹園に囲まれた周囲の風景も、
そして何よりも子どもたちの姿があまりにも自然で平和なので、
疾風も歳月も感じられない。
 まるで永遠の穏やかな愛にみちた天国一角にいるような気持ちになってくる。
 ミンダナオ子ども図書館て、どんなところ?
 ぼくにも良くわからないが、子どもたちにはときどきこう言う。
 「ここは、施設じゃないよ。まあ、大きな家族だね。」
 「そうよね、わたしたち、ファミリーだもんね。パパトモ!」
 あたりはだいぶ明るくなってきた。
 寝ていた子たちも起き出してきたな。