倒錯の構造

富樫 橋

つい先頃、「連続幼女誘拐殺人」を行った宮崎勤被告に対する東京地裁の判決があった。検察側は「刑事責任能力はある」として死刑を求め、弁護側は「心神喪失または心神耗弱の状態にあった」として刑を軽くするようにと主張した。犯行時の被告の精神状態をどう評価するかによって、判決の内容が変わるからである。

普通の平均的社会の表層では、判決が終わった段階で事件はドキュメント・ファイルにクリップされ、格納される。一般にこのような事件は、その遠因である各種装置や施設(ビデオショップ等)の存在が問題になり、そこに氾濫する「異常犯罪促進メディアや快楽情報圧力」に駆り立てられた結果であるという、「現象学的関連解説業の言説」で織られた病衣を着せられる傾向がある。しかし、最近はそのようなPTA的な社会清浄化集団は影を潜めている。そして、バブルがはじけ、社会構造が変化したせいにする傾向が出ている。しかし、それがどれほど家族崩壊を加速させ、個人を社会から疎外し、倒錯へ導き、快楽殺を増加させるというのであろうか。そう言えるためには、実際にもっと頻繁に「幼女殺人事件」が多発していなければおかしい。もしもそのような「社会的なものの変化」と「個人的なものの変化」の因果直接性が証明されるならば、精神医学は社会心理学のサブ・ディレクトリに組み込まれなければならないであろう。

ことほど左様に、「異なる現象を直感的に関連づけて一つの意味を与える」ような精神構造は、それ自体「倒錯」の基本的精神構造を露出している。即ち、宮崎勤も、現象学的関連解説者も、その「微小部分を等身大に拡大し一般化する」という点で、まぎれもなく倒錯者の領域に浸っている。

その実例が1997年5月13日の朝日夕刊に出ている。米プリンストン大学でのシンポジウム「宗教と想像力・地球規模で考える」が開かれ、大江健三郎がオウム真理教について述べたという。「自分の生きている同時代が、宗教集団の成員たちを反社会の無差別テロに追いつめたように、自分の文学的想像力も、時代によって追いつめられ、『燃え上がる緑の木を』書いた・・・」。自著のPRはともかく、時代の風圧と自分の想像力を短絡的に直結するという、この楽観極まるアドホック倒錯は、ノーベル賞作家の特権なのであろうか。どうして日本中の小説家のうち彼とオウム集団だけが特別に追いつめられるというのか。ここのところが極めて胡散臭いのである。

「快を感じる状態と不快な状態は、全く反対の状態だと感じる」のが普通の精神状態であるが、その精神が逆さまにひっくりかえって、不快の状態を快と感じ、それを良しと錯覚している状態は「倒錯」である。

「倒錯者」は、「私は何でもできる、神にもなれる万能者だ」という実感を抱いている。それは自我の拡大そのものを目標として膨れあがろうとする「膨張自我」の働きである。それはまた、自らを(神のような)超越的な存在と同一視しようとする「憑依自我」であり、それゆえ彼らは実際に、「神」になるのである。

倒錯は、極めて了解し難いといわれながら、案外ひそかに関心をもつ人が多いのは、誰にでも社会からの逸脱願望が潜在しているからだと思われる。

我々が属する文明社会は、この倒錯者の精神が、犯行時に善悪の基準を意識し判別できる状態であったか、あるいは妄想に覆われて自己を亡失した状態にあったかを推論し、鑑別することができる。その礎石の一つとして、ソンディの理論がある。彼は、先人が見抜くことのできなかった、倒錯の本質的な構造を始めて明らかにしたのである。

ここで、先人各位の「倒錯学説」を復習し、次にソンディの運命分析的な倒錯構造の世界に入ることにしよう。

先ず前提として、次のことを押さえておかねばならない。

倒錯は大きく分けて、2つの方向がある。
1.性目標倒錯(インベルジオン/インバージョン)=同性愛、変装症等
2.倒錯性欲 (ペルベルジオン/パーバージョン)=異常性欲、快楽殺人等

定義と規準

クラフト・エビング(注1)は、倒錯の基準として、次のように規定している。

「倒錯とは、自然な、性の充足に対する機会が提供されているにもかかわらず、 自然の目的、即ち、生殖に合致しない一切の表現が倒錯である。」

フロイト(注2)は、「倒錯とは、性目標に関する偏倚(へんい=偏り)」であると言い、次のように述べている。

精神分析から見た倒錯

1.性結合のために決められた、身体部位の「解剖学的な反則」。
2.普通の状態では,最終決定的な性目標へ到達する途上で、迅速に通りぬけられるべき,「性対象への中間的な関係における滞留」。

第1項に該当するものは、例えば次の3種である:

a)陰茎舐啜症(Fellatio):Fello=saugen、吸う
              口腔交接=Irrumatio
              ruma=Schlund、咽喉
b)陰門舐啜症(Cunnilingus):cunnus=Hohlung、凹み
                  Vulva 陰門;Iingua=Zunge、舌
c)肛門舐啜症(Lambatio ani, Anilingus):anus=After、肛門

このような、倒錯第1群の症状に対して、平均的な社会の成熟した個人の評価、とくにその前景人格が下す評価は、「嘔気を催すことの限界が狂っている」であろう。しかし、背景人格は肯定的な評価をするであろう。この3種の症候群はそれ自体が最終目標になれば第2項に合流する。

第2項に該当するものは、例えば次の如きものをさすのである。

a)窃視症(Schaulust);受動的露出症(passiver Exhibitionismus)
b)露出症(Zeigelust);能動的露出症(aktiver Exhibitionismus)                                               exhibeo=zeigen、示す
c)加虐愛(Sadismus)
d)被虐愛(Masochismus)

第2群の倒錯においては、羞恥の限界、あるいは痛覚の限界が超えられているに違いない。

病的な倒錯

倒錯行為は、次のような場合にのみ、病的である。
1.正常な目標の代わりに、不適当な対象に対して追求が起こった場合(露出症)。
2.性対象の一部分が或る人から離れて、唯一の性対象となる場合(拝物愛)、要約すれば、対象と目標に関しての専有と固定(Ausschliesslichkeit und Fixierung)とが確立された場合。
3.羞恥、嘔気、気味悪さ、痛みなどの抵抗を越えて、異常な行為が遂行される場合。例えば、食糞症(Koprophagie)、舐糞発情症(Koprolagnie)、および啜尿症(Urolagnie)(Kopros=Kot;phagie=Essen;lagnia=Wollust、快楽・色情)、屍体姦(Nekromanie)、屍体陵辱(Nekrophilie)(nekros=tot)。

倒錯においては、このように、精神作業が性目標の信じられない程の変化をもたらすのである。この変化や変形は、「衝動の理想化」(《Idealisierung der Triebe》)と似ていないこともない。それ故にこそ、フロイトも次のように言っている。「性愛においては、最高のものと最低のものとは、一般に相互に最も緊密に結合している。」(《Das Hochste und das Niedrigste hangen in der Sexualitat uberall am innigsten aneinander》)

フロイトによれば、性愛が正常であるというのは、次のような場合である。
1.種々の構成部分や部分衝動(Partialtriebe)が唯一の性感帯の最高のもののに下に1つの確かな体制を形成した場合。
2.性目標に到達するために、これらの部分衝動は、生殖に役立つように、異性の性対象において充足されうる。
3.精神力、例えば羞恥、嫌悪、道徳性等は、この衝動を正常とみなされる範囲内で拘束する(文明化、教育、宗教)。

子供は「多種倒錯」(《polymorph-pervers》)の性質をもっている。というのは、これらの部分衝動が、生殖器の最高のものの下に、まだ強く体制化されていないからである。フロイトによれば、この部分衝動とは性感帯から生ずる性的欲求、即ち次のものをいうのである。
1.口唇愛(Oralitaet)
2.肛門愛(Analitaet)
3.窃視症と露出症(Schau-und Zeigelust)
4.加虐愛(Sadismus)

相手の質的変形としての倒錯

オズワルト・シュワルツ(1935年)(注3)は、倒錯を次のように定義している。

「倒錯とは、非特異性体験の表現としての性欲である。」

倒錯は、正常な性欲における前段階(Vorstufen)ではなくて、すでに青年時代にしばしば現われる、欠損した性欲における「前形態(Vorformen)」あるいはそれと同質のものである。

未成熟性欲者における倒錯の構造は、「成熟性欲者が倒錯へ足を踏み入れない確からしさ」と同じ構造の、前性欲段階のものである。

倒錯者の「倒錯体験と、性欲との関係」は、青年の性欲の或る種の欠損形態(手淫、若年者同性愛)におけると同様である。

O.シュワルツによれば、倒錯の完全な性病理学(Sexualpathologie)は、次に述べるような法則によって支配されているという。「精神的なものにおいては、正常欲求の単純な量的増加が病的な態度を生ずるということは決してないのであって、常に質的な変形(eine qualitative Deformation)が問題である。このような変形が演ぜられるのは、性欲の基本的態度(Grundverhalten)であり、性の相手(Partnerschaft)が問題である。」

この研究者によれば、性欲が病的であるということは、「相手との正常な協同作業の障害」を意味し、「所属関係が解体し、選択の自由が強制となる」ことを意味する。彼によれば、倒錯の3つの規準とは、次の如くである。
1)倒錯者の性欲は、相手との結びつきの異常性によって、異常となる。
2)相手に対する変質的関係は、まさに性欲においてその特殊な表現を見出すが、例えば犯罪においては、このようなことはない。F.カフカとO.シュワルツによれば、嗜楽殺人者(Lustmoerder)は、殺害本能を性欲のために使うのではない。この場合には、「殺人快楽と性的激情との結合」が存在する。
3)倒錯者は・・・持続的にせよ、発作的にせよ・・・別の「世界」に住むのである。その世界の中で、はじめて彼等に対する関係の対象や形態が、「性的に」特別な性質をうることができるのである。従って、単に倒錯者の性衝動のみが倒錯しているのではなく、世界内存在の全様式(die ganze Art des In-der-Welt-Seins)が倒錯しているのである。この倒錯した世界の、特殊な構造と内容が、決定的なのである。

ソンディは、倒錯者は接触病的人間であるというO.シュワルツの見解は正しいと思うと言っている。

フォン・ゲープザッテルの破壊論

『倒錯ということの意味は、全体の崩壊であり、畸形化であり、細分である。
【全体に対して一部分だけを特別に取り立てること、しかも全体を除外して一部をとくに取り挙げることは、倒錯の本質である。】
倒錯者は、女性的な人格によってひき寄せられるという可能性に対して、叛乱するのである。』

この理論によれば、あらゆる「倒錯的な愛」(《Paraphilien》)は破壊的反動形成(destruktive Reaktionsbildungen)であり、全体に対する叛乱、暴動であり、羞恥、躊躇、嫌悪等に対する叛乱である。従って、倒錯は、人間を感覚に転換することであり、構成法則および色情的現実の、自然の秩序に反することであろう。

E.ストラウスの変形論ないしは価値毀損論

「倒錯は、積極的な価値に対するものである。倒錯は人間のみに現われるもので、動物には現われることはない。何故ならば、色情的選択が、本質的に価値への方向(例えば美)によって規定されているような場合にのみ、現われるからである。従って、倒錯ということの意味は、倒錯行為によって価値を傷つけることであろう。例えば、可逆愛的体験の興奮内容は、破壊そのものにあるのではなくて、生命の毀損(Entwertung des Lebens)に存するのである。加虐愛のもつ意味は、辱めるということ(Entwurdigung)にあるのであって、占領すること(Bemaechtigen)にあるのではない。彼自身および対手の変形、従って常態に対する反逆が、倒錯者によって快楽となるのである。」

だがいかし、H.クンツ(注6)およびL.ビンスワンゲル(注7)によれば、この価値毀損論は誤りであるという。クンツによれば、「破壊的毀損衝動が一切の倒錯の本質を形成する」というのである。そしてこれが、倒錯的変形の根本であるという。

ここでソンディは『情愛(Zartlichkeit)の障碍が倒錯の本質的特徴であろう。何故ならば、情愛は全体性を肯定する傾向をもち、倒錯は全体性を破壊する欲求であるからである。』といっている。

L.ビンスワンゲルおよびM.ボスの倒錯に関する実存分析的理論

この理論は、フロイトの「部分衝動の理論」(《Partialtriebtheorie》)を、拒絶し、否定するものであるが、しかも、部分衝動の存在がフロイトによってのみ認められているという理由で否定するのである。彼らは精神分析学の衝動体系は、愛情およびその変種の本質や存在が見失われてしまっている「人工的な概念体系」であるというのである。

『倒錯の本質は、人間実存(Dasein)の2つの基本形態の観点から規定され、理解されねばならない。即ち、次の如くである。
1.有限の存在様式(dis 《endiche》Existenz form):それは、現実の境界と関門とによって限定される。従って、この有限の実存形態の窮境(Enge)、孤立(Isoliertheit)、我執(Eigensinnigkeit)、専横(Eigenmachtigkeit)、野心(Ehrgeizigkeit)、不定の脅威(Angstbedrohtheit)等がこれである。
2.無限の二元論的実存様式(die《unendliche》,duale Daseinsform):この二元論的な存在様式(duale Seinsmodus)は、模写と原型(Abbilid und Urbild)との間の境界と関門とを止揚するのである。それは、無限と悠久における実存の充実(eine Daseinsfulle an Unendlichkeit und Ewigkeit)を与えるが、その中で私と汝(Ich und Du)から我々(eine 《Wirheit》)が成立するのである。そして、この我々という自覚が愛情と呼ばれるのである。
この愛情の実存様式が、我執につきまとわれ、束縛された「孤立的な実存」に対して、「無限への知慧(das Wissen um die Unendlichkeit)と永遠を信ずる確実さ(das glaubige Feststehen in der Ewigkeit)」とを授けるにちがいない。』

かくして、「愛情と世界の弁証法」(die 《Dialektik von Liebe und Welt》)が成立するのである。

実存分析によれば、倒錯とは愛情と世界の弁証法における障害であり、二元論的存在様式の束縛であり、あらゆる形態の孤立的存在、窮境的存在、我執的存在、不安脅威的存在である。

精神的な人格の層における「実存の充実の愛情透徹」(die 《Liebestransparenz der Daseinsfulle》)が、多かれ少なかれ、世界によって規定された窮境と不安によって侵害される場合に、畸形的な愛情形態が現われるのである。

「二元論的」存在様式のこのような妨害の原因は、次の如くである(Boss)。
1.成熟能力の不足(mangelhafte Reifungspotenz)
2.成熟の外的抑制(aussere Hemmung der Reife)
3.この両者が同時に現われること(beide gleichzeitig)

倒錯の運命分析的理論
(Dis schicksalsanalytische Theorie der Perversionen)

運命分析の解釈によれば、倒錯とは全く特殊な、重篤な自我障害である。ソンディは倒錯に関して、次に述べるように、2つの基準を設定するのである。

倒錯の第1基準:完全化欲求および占有欲求が専ら性欲に限られていること

倒錯的な人間は、能動的な形にせよ或は受動的な形にせよ、その「占有欲求と完全化への欲求が専ら性欲のみに集中しているような人間」である。彼等は、性欲以外の領域において、この占有と完全化への欲求を充足することが全く不可能なのである。彼等は、唯一種類の性の相手を占有することと憑依、即ち性欲にとり憑かれていることのみしか知らないし、それだけを認めるのである。

この基準は、テスト所見では、次のような症状の形で現れる。

(倒錯的)快楽原則症状群(Syndrom des(perversen)Lustprinzips)

  p=+!(0,±)
  d=+  (0,±)          即ち、この人は性的な快楽、
  m=+  (0,±)          性欲の構成要因に、完全にと
  h=+  (0,±)          り憑かれている。
 s=+  (0,−)

倒錯の第2の基準:「占有能力」の障害

倒錯的な人間は、自我と共に、性対象を占有する能力を失っている。そしてこの占有能力の障害は、自我の「対象理想機能の疾患」に由来するのである。

この1群の倒錯者達は、対象を自己の中に投入する(k=+)能力をもっているけれども、この精神的な投入同化作用は、「占有の確実さ」を得るためには、全く役に立たない。そこで彼等は、それを「自我の領域」でもち、所有するために更に何等かの物質的なもの(etwas Stofflichen)、即ち、例えば性対象の「物質的な」部分を要求するのである。拝物愛者においては、まさにそうである。

別の他の重篤な型の倒錯者である加虐愛者は、対象理想機能を完全に失い、対象理想を破壊し、その価値を傷つける(k=−!!)のである。というのは、彼等は、対象を切り刻むという形においてのみ、愛の対象を所有することができるからである。この切り刻むということは、この種の倒錯者の特別な快楽源ではなくて、まさに【対象を「物質的に」所有することができるための、非常口(衝動解放窓口)であるにすぎない。】

占有能力の障害は、完全化への要求や占有欲求が、接触領域や感動領域等に向かわず、専ら性欲に限られているということの結果であると思われる。

完全化への要求が専ら性欲に限られているということの基準
p=+!

完全化、全体性、完全性への要求は、性的に繁殖するあらゆる生物の根元的要求である。それは、「完全な存在」、「全体存在」になろうとする要求の子孫である。

完全な存在ないし全体存在は、反陰陽的二重存在である。両性の生殖器を所有し、それ故に全能である(allmachtig)ような存在は、全能である。何故ならば、完全体になるために、他の存在を必要としないからである。(これについては、印度のウパニシャッドの高僧伝や、エンペドクレス、プラトン等におけるような、バビロンや古代ギリシャの神話の中に現われる反陰陽的二重存在を参照されたい。)

体発生学的に最も早い胎生期においては、人は誰でもこのような 二重存在であった。その結合によって、「接合子」的個体(das 《zygotale》 Individuum)が生ずる、2つの性細胞の還元分体(Reduktionsteilung)に至る前の原始性細胞として、前人格的である。このような二重存在(Doppelwesen)は、当然のことながら非色情的である。色情的な牽引は、性的半存在(sexuelle Halbwesen)においてのみ現われるものである。異性の「半存在」によって補われて完全なものとなることによって、再び性欲的全体、性的完全体になろうという欲求をもつのである。従って、全能要求(Allmachtbedurfnis)とは、他者による完全化をもはや必要としないような、全体性への欲求である。

生物は、原始性細胞の還元分体によって、その全体性や完全性を失うのである。そして、「半存在」となる。そして、この半存在から完全体への願望が発生する。

だが、この完全性や全体性は、かつて既に前人格的 に存在したものであるから、生きとし生けるものの中には、すべてこの前人格的な全体性や完全性を再び獲得しようという欲求が存在する。従って、半存在に欠けている性の相手によって、補充されたいという欲求をもつのである。

この全体性や完全性に対する補充欲求を、プラトンは性愛(エロス)と呼んだが、これは運命分析の中では遺伝趨性の形で明らかにされる。

遺伝趨性は、半存在性が完全性や全体性に至ることを可能ならしめる過程である(注9)。

この補充欲求は、補充が完全体に達する時にのみ、はじめて残りなく充足される。

性交という形式で、異性の相手によって補充されることがその人を満足させる場合には、その人は正常である。だが、正常な性交という方法ではその補充欲求を充足することができない場合は、その人の補充欲求は病的である。

オルガスムスは最高の快感であり、このオルガスムスにおいてこの完全体欲求が充足される。オルガスムスは、半存在が彼に欠けている他の半存在を残りなく所有した瞬間に、生ずるものである。

しかし、欠けた存在をあますことなく所有することは、実際にはさまざまな障害に遭遇する。

従って完全性欲求、全能欲求、権力欲求は、両性の生殖器を所有しようという原始的欲求(Urbedurfnis)から生ずる。そしてそれは、性交という行為において生ずるのである。この自然な二者一体関係(die native Dualunion)において、実存の束の間の二重原始存在、即ちペニスとヴァギナを、4本の手と足、2つの頭と背とをもつ二重原始存在(Doppelurwesen)が作られる。この全能エネルギーのうち性交によって消費された後の残量は、普通は社会的ないしは精神的な形式、即ち社会的ないしは精神的性質の二者一体関係において、使用されるのである。

ところが倒錯者は、そのような社会的、精神的なエネルギー消費をしないのである。彼らは彼の補充要求や完全性欲求の全量を、性欲以外の方法で充足することができないという点で、病的なのである。(文責:富樫 橋)

つづく